2009-04-21 読書あれこれ
こちらの記事を読んで。
なんとなく、気張られてるように見えました。読書という行為に何を求めるかで色々変わると思います。
情報の入手法としての読書もあれば、読書行為そのものを楽しむ人もいます。私なんかは後者。読書という行為に動機付けられているので、最後は内容よりも行為を重視することも。実に中毒的。実際、何度か家の中で読むものを探し、薬のラベルやらまで読んでた子供時代。
大学生自体、徹夜で麻雀した朝、手元の3百円見つつ、「おにぎりを買うか煙草を買うか」で煙草を選んでた友人をみて、「自分は煙草を吸ってなくてよかったのかなぁ」などと漠然と思ったりしましたが、よく考えると高校時代から自分の食事を人に売って、その金で小遣いを増やし、本(とCD)を買ってた自分が言えた義理じゃありません。
まぁそうやってダラダラと読み続けています。身になっている部分もあれば、無い部分もあります。その上で言えば、最近の「読みの効用」を基本にした話って、あまり好きじゃありません(リンク先というより、特に教育界で最近とみに多い気がします)。それは、個人的に教育に関心が無いからでもありますが。その時に当人が必要な知識なり教養なりを有しているか否か、その時にその人が何を生み出せるかが全てであって、その手段や背景に読書があるかもしれないし、別になくても構わないと思うからです。あえて言えば、それまでに読書という行為が他の行為に比べて何らかの形で有効である可能性が否定できない領域というものがあるかもしれない、ぐらいですか。
読書という行為が、テキストという概念が拡張されたやり方と同じ方式で、ひたすら無茶に拡張されたとすると、あらゆるフィードバック過程が読書に包摂されます。まぁ今でも、小説をWebで読む、携帯で読む、プリントアウトして読む、書籍で読む、という媒体の範囲と、書籍で小説を読む、技術的Howtoを読む、掲示板・ブログ・Twitterの一連の流れを読む、といった対象の範囲において、現実的に読書と呼ばれる行為自体が拡散ぎみです。であると、どんな時にどんな人がどんな物をどんな状況でどんな風に読書するのか、という限定条件が話の中で必要になってくるんじゃないでしょうか。
あ、全く話は変わりますが、読書したくてお金が無い人は図書館に行けばいいのでは?と素朴な疑問。読みたい対象が明確で、それが近場の図書館等では見られない、となるとなかなか大変ですけど。ネットのおかげでかなりその辺楽になった部分もありますが、最後はそれがある場所へ行ってみるしかない、というケースもありますね。私が修士時代に研究してた思想家の全文章がCD-ROM化されたのですが、全1枚で50万とかで、流石に手が出ませんでした。あなくやしや。
hartlibさんのおっしゃるとおり気張ってます。見透かされてますね^^;
私は、読書する動機が、大学進学をしなくて、何かから学ばなければならないという切迫感から来ているので人よりも気張ってしまいます。
今は読書自体を楽しんでるつもりなんですが、まだ「読まねば」という切迫感は消えきってないですね。未熟者なので少し時間がかかりそうです。
こんにちは、コメントありがとうございます。あ、「気張っている」って、別に悪いことでもないと自分は思ってます。私自身がほとんど気張らない・気張れない性質なので、羨ましい部分もあるといいますか(^^;
そちらの記事にインスピレーションを受けまして、読書の理由って他にも色々あってもいいし、なくても別にいいよね。というぐらいのつもりで書きました。