後藤正治『清冽 詩人茨木のり子の肖像』

 茨木さんの写真、初めてみる。とても美しい人。割烹着姿ピカイチ。

 “三浦安信がなくなったとき、茨木の悲嘆は深かった。茨木は慎みを崩さないひとであったが、臆面もなくこう記している。<<昭和二十四年に結婚しているが、夫は勤務医で、彼もまた医学の新しい在りかたを求めて意欲的だった。米も煙草もまだ配給で、うどんばかりの夕食を取りながら、エドガー・スノウの『中国の赤い星』を一緒に読みあったのはなつかしい思い出である。二十五年間を共にして、彼が癌で先年逝ったとき、戦後を共有した一番親しい同志を失った感が痛切にきて虎のように泣いた>>(185頁)

 満たされ、満ちたりていたときにうまれた詩と、哀しみと寂寥が湧く中でうまれた詩。
 歓びも哀しみも見定め、孤独を天真爛漫に転化し、真っ当に生ききった茨木さんに敬服。
 
 “苦しみの日々 哀しみの日々”


 苦しみの日々
 哀しみの日々
 それはひとを少しは深くするだろう
 わずか五ミリぐらいではあろうけれど


 さなかには心臓も凍結
 息をするのさえ難しいほどだが
 なんとか通り抜けたとき 初めて気付く
 あれはみずからを養うに足る時間であったと


 少しずつ 少しずつ深くなってゆけば
 やがては解るようになるだろう
 人の痛みも 柘榴のような傷口も
 わかったとてどうなるものでもないけれど
        (わからないよりはいいだろう)


 苦しみに負けて
 哀しみにひしがれて
 とげとげのサボテンと化してしまうのは
 ごめんである


 受けとめるしかない
 折々の小さな刺や 病でさえも
 はしゃぎや 浮かれのなかには
 自己省察の要素は皆無なのだから