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2015-08-23

よし、Do You Know The Way To San Jose を日本の国歌にしようぜ、というような話(ではない)。 -増田聡『聴衆をつくる』を読む-

 増田聡『聴衆をつくる』を読んだ。

 ぜひ手に取って読んでいただきたい。

 さいきん、増田先生で話題になったことと言えば、戦略的な「パクリレポート課題」*1の話題か。

 とりあえず、特に面白かった箇所だけ

聴衆をつくる―音楽批評の解体文法

聴衆をつくる―音楽批評の解体文法

音楽批評と形容詞

 形容詞はすぐさまコード化され、言葉を制度的な意味空間の中に閉じ込めようとする。 (15頁)

 ロラン・バルトが参照されている。

 音楽は、荒々しい、いかめしい、悲しげな、などの形容詞を介して言語と出会う。

 音楽の価値を、即自的、万人にとっての価値であるかのように話す言説である。

 だが、それは「愛」ではないのだ、と著者は言う。

 「愛」は、そうやすやすと他人に理解されるはずもない。

 音楽批評から形容詞隠喩を取り除いたとき、本当の「愛」が試される。*2

「Jポップ」成立以前の音楽のくくり

 その概念成立前の八〇年代当時は「歌謡曲」と呼ばれ、ニューミュージックやロックなどと異なるジャンルにカテゴライズされていた沢田研二ピンク・レディーの音楽 (60頁)

 「Jポップ」という概念が成立する前、90年代半ばごろの状況である。

 ニューミュージックってユーミンとかのことである。

 

 Wikipedia先生は、、「1978年の国民的番組『NHK紅白歌合戦』では「ニューミュージック・コーナー」というあたかも隔離された一つのコーナー」があったことを伝えている。

音階」なんて、聴いてないよ

 佐藤は明治以降西洋音楽の導入史を踏まえつつ、戦後の歌謡曲において「土俗的」に響いた長二度上がり(「ソ - ラ」)のエンディングが、同時期のアメリカのポップスでは逆に、黒人音楽の影響下で「かっこいい」響きとして先端的なコノテーションを持っていた事実を指摘する。 (84頁)

 佐藤良明は、70年代歌謡曲民謡音階(二六抜き短音階)が出現した、という小泉文夫の主張に対する反論をしている。

 「七〇年代歌謡曲に出現した二六抜き短音階と四七抜き長音階は対立させられるべき敵同士なのではなく、ロックの影響下で世界的な広まりを見せた「マイナー・ペンタトニック」と「メジャー・ペンタトニック」の二つの相補的音階に過ぎない」というのである。*3

 引用部は、アメリカ由来の長二度エンディングが、「かっこいい」ものとして受容された、という話である。

 本題はその後である。

 佐藤は「音階」を中立レベルに無条件に含んだことによって、サウンドやビート、声などの(略)音楽的諸要素を軽視する結果となった (

92頁)

 詳細は註で挙げた論文に書いてある。

 小泉や佐藤などの「専門家」は、自分たちだけが聞き取れる規範譜の「音階」を特権視している。

 しかし、「素人」は、音階よりも別の要素を気にしているのである。

 それを忘れてはならない、という話である。

 もちろん、音階は音楽の重要な要素の一つ*4であるが、それが音楽を受容する人にとって、最重要なものになるかと言えば、そうではない。

 人は意識して音階を聴いているわけではないし、それが音楽を決めてしまうようなものでもない、という当たり前だが忘れられがちな話である。

 演奏者や熟達した聴者の優位を前提とした音楽を論じるのではなく、例えば、「素人」にとって音楽はどのように受容されるのか、そうした音楽と「社会」との接点を探ることを、著者は試みている。

日本語ロック論争の実際。すれ違いと行方

 日本/西洋の区別を排した「普遍的な音楽」としてのロックを英語派は志向する。 (121頁)

 日本語ロック論争の話である。

 意外に、その意義は知られていない。

 まずは、「英語派」としてくくられた内田裕也の主張である。

 彼はロックの美学、すなわちサウンドの強度によって、歌詞の意味を超えて「何か判りあっちゃう」音楽を目指していた。

 彼の狙いは実は日本語歌詞そのものではなかった。

 内田の懸念は日本語歌詞そのものよりも、それが象徴する「ロックの日本化」のありかた−−端的には従来の芸能会的興行システムに組み込まれてしまうこと−−にこそ向けられている。 (123頁)

 芸能界的なシステムにロックが流用された「GS」も下火となった時期、今こそ同時代的な英米の対抗文化へ直に接続を図ろう、そうした意図が内田にはあった。

 内田の狙いは、言語(の翻訳)によってサウンドの強度が弱められてしまうことへの懸念、そしてなにより、音楽の商業主義の打破だった。

 大滝が音楽的な独自性の欠如(英米ロックとの同化主義)を理由に懐疑的なスタンスを取っている (125頁)

 (「大滝」は原文ママである。)

 対して「はっぴいえんど」側の主張である。

 

 大瀧詠一は、ロックにおける西洋性/日本性の対立の中で、後者へ向かおうとした。

 正確には、英米ロックへの同化主義に対して距離を置こうとした。

 そして、日本にロックを根付かせ、日本独自のロックを目指した。

 日本語ロック論争は、その問題意識の違いによって、最初からすれ違っていた。

 実は、歌詞よりサウンド重視は両社とも一致していた。

 だが、商業性/対抗文化的問題ではすれ違う。

 彼らは、フォーク的なメッセージ主義から帰結される母国語自然主義にも同意しない。 (128頁)

 実際、松本隆は、ロックという枠組み自体が、歪められた母国語で歌うことを迫るようなものである旨を、述べている。

 じっさい、n音や二重母音化をはっぴいえんどは多用することになった。

 「日本語の母音の多さが日本語詞ロックを実現させる上での技術的な問題点の一つであることは、この時期の日本のロック音楽の関係者に広く認識されていた」(208頁)。

 なお、日本語か英語か、という問題圏自体は、キャロルの日本語英語混交と、日本語の英語風詠み(サザンへの系譜)で、一応の「終結」を見せた。

 改めて指摘せねばならないのは、

 現在の日本においては、ドイツ・リートジャズは原語(独語、英語)で歌われることが普通なのだから、ロックがそうならなかったことは、決して歴史の必然だったとはいえない。 (208頁)

 ということである。

 当時、日本のロック音楽の市場はほとんどなく、海外進出は経済的側面からも重要であった。

 これが英語派の主張の論拠の一つだった。*5

日本の著作権法に見る、「クラシック音楽」優位の残滓

 ベルヌ条約の上では、「名誉又は声望を害するおそれのあるものに対して」しか、同一性保持権を認めていない。 (169頁)

 一方、日本の場合、著作者の意に反する改変、という大きな括りでも禁止できる。

 むろん、ベルヌ条約はあくまでも最低ラインを提示しているだけであって、各国の国内法がこの最低水準を上回る保護を権利者に与えることは可能ではあるが。

 現在の著作権法が想定する音楽の存在論は、「楽譜と演奏と録音の間に記号論的な差異を認めない音楽」 すなわちクラシック音楽的な音楽観に依拠している。 (175頁)

 要は、ジャズのように楽譜を逸脱する演奏を、著作権制度の中で禁じることが出来てしまうのが、日本の著作権法なのである。

 「大地讃頌」事件を参考に、そのように著者は述べる。*6

 

 最近の著作権法の話だと、二次使用の話題がよく出るが、一応こういう話も覚えておいてほしい。(こなみかん)

よし、Do You Know The Way To San Jose を日本の国歌にしようぜ。

 原曲の壱越調律音階から長調へと移し替えられることによって、冒頭部分がバート・バカラックのヒット曲「サンホセの道」(一九六七)とほとんど「同じ曲」になってしまう。(略)小西のアレンジは、君が代をそのような文脈から救い出し、音楽そのものの姿を聴く者の前に提示する。 (147頁)

 小西康陽版「君が代」の話である。

 小西は君が代に込められてきた政治的意味を壊して、音楽をとりだそうとした、という風に著者は述べる。

 音楽を救い出そうとしたのだ、と。

 だがしかし、そんなことが本当にできるだろうか。

 著者は、佐藤良明になんと言っただろうか。

 聴衆が音階は勿論のこと、音そのものすらロクに聞かないことがあるのは、作者自身が承知なはずである。

 小西たちの「試み」は、けっきょく失敗してしまうだろう。*7

 正しい戦い方は、バート・バカラックの「サンホセの道」を、日本の国歌に変更するよう働きかけることである(マテヤコラ

(未完)

*1:詳細はhttp://b.hatena.ne.jp/entry/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150216-00000050-zdn_n-sci等をご参照あれ。

*2:ここで肝心なことは、形容詞が、送り手と受け手とが「同じ共同体に属しているという同属意識の保証」としてしか機能していない、ということであり、形容詞そのものが悪いというわけではない。参考になるかはわからないが、http://yokato41.blogspot.jp/2014/04/blog-post_18.htmlを挙げる。

*3:この内容はウェブでも見られる。http://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/1073/

*4ネットサーフィン(死語)してたら、こういうのを見つけためう。http://www.konami.jp/mv/hinabita/talk_25.html?n=25

*5:英語派に対して優れた反論をしたのが、ミッキー・カーチェスである。彼は、英語で作るべきだというコンテンポラリーロックの連中が、新しいロック音楽(英語)を作らず、いつまでも輸入された英語ロックを歌おうとしている、と嘆いた。この問題が解消されるのは日本語ロック論争の後、海外進出する英語派の出現によってである(ような気がする)。

*6:詳細は、http://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/1321/等。

*7:なお、この論が最初に世に出たのは2005年である。

2015-07-12

「きっと何者にもなれないお前たち」のための、あるいは、「負けない」ための、競争論について語ろう(てきとう) -井上義朗『二つの「競争」』を読む-

 井上義朗『二つの「競争」―競争観をめぐる現代経済思想』を読んだ。

 隠れた良書である。

 是非、一読してほしい。

二つの「競争」―競争観をめぐる現代経済思想 (講談社現代新書)

二つの「競争」―競争観をめぐる現代経済思想 (講談社現代新書)

 以下、面白かったところだけ書いていく。

他者との比較を気にしない、昔の「競争論」

 完全競争論における経済主体は、自分以外の他人という存在をそもそも意識していませんから、自分と他人の利益を見比べようとする、比較の目線を持っていません (75頁)

 ある時期まで、競争論の主役は「完全競争論」だった。*1

 その競争論というのは、他者との比較を気にしない、という現実の経済活動とは、離れている仮定をしていた。

 ワルラス一般均衡理論とかもそうだが、実際の経済乖離しているのである。*2

競争論の主役交代

 企業の「質」は決して一定不変ではない(略)こうした研究は、完全競争論の系譜を引き継ぐ競争論から現代の競争論へと、経済学者の認識を変えさせる大きなきっけにもなりました。 (105頁)

 デムゼッツやブローゼンらの1970〜80年代の研究によって、十年間トップ企業の顔ぶれが変わらない業界を見つけるのが難しい、という事実が「発見」された。

 この事実は、経済人ら非経済学者たちの経験則にも合致するものだった。

 「完全競争論」からは、大企業による独占・寡占が想定されたのだが、「現代の競争論」では、そうした事態は起こらないだろう、されたのである。

 奴らはあくまでも暫定的な勝利者に過ぎない、と。*3

 

 このとき、主役は交代した。

 以降、主役は「現代の競争論」に移った。

 では、この交代の何が問題となるのか。

二つの競争。コンペティションエミュレーション

 ハイエクは、明らかにコンペティションエミュレーションの差異を踏まえたうえで、新古典派経済学における市場認識の欠如を突いています。 (143頁)

 コンペティションは、競争の本質を淘汰性に見出し、競争の抑制も必要とする概念。

 一方、競争の本質を「模倣性」*4の中に見出し、競争の促進を必要と考えるのが、エミュレーション

 経済を巡る西洋思想には、まるで違う二つの「競争」の考え方が存在し、時に混在している。

 前者は「完全競争論」につながり、後者は「現代の競争論」につながる。

 要は、これまで競争は抑制すべき(という規範独占禁止法はその発想につながる。)とされていたのが、1970-80年代には、実証したけど大丈夫だろ、競争促進しちゃおうぜ☆、というネオリベな流れに代わったのである。

 だが、これでいいのか、というのが本書の問題意識である。

 すなわち、「競争」(エミュレーション)の陰に隠れる、規範としての「競争」(コンペティション)の意義を、思想史的観点から考察するのである。

残酷な資本主義テーゼ

 エミュレーションには容赦もなければ、慈悲もないのです。 (183頁)

 そう、エミュレーションブレーキを持たない。

 すると、優位に立った企業は、劣位になった企業の事業や顧客を際限なく、吸収する。

 でも、抑制はかからない。

 そういうことをエミュレーションは想定していないのである。

 やめられない。とまらない。

 著者は、こうして、コンペティションにも十分存在理由があることを示していく。 

 それは、既に示唆したような、暴走に対してブレーキをかける役割だけではない。

 それは競争の、経済学にとどまらない哲学的、思想的意義にもかかわる。

 

自分を見つめ直せ

 「卓越」とは、他者との比較をむしろいったん脇において、他人はどうであれ、あくまで自分自身の内面のありかたとして「徳」を身につけること、そしてそれを日常の生活行動に反映させていくこと (152頁)

 先に、「完全競争論における経済主体は、自分以外の他人という存在をそもそも意識していません」という言葉を引用した。

 それは、実は、他者を気にしない独りよがりを意味しているのではない。

 あえて他人の評価・比較を離れることを、重視しているのである。

 他者との比較をあえて脇におくという点は、コンペティションと相性が良い。

 「卓越」は、プラトンからストア派に受け継がれた理想である。

 後世のアダム・スミスが、ストア派の思想を重視していたことはよく知られている。

 後述するが、ここに「卓越」の思想史的系譜が存在する。

自分を見失うな

 勝つための競争は、(略)自分自身を見失わせる契機をも含むものです。私たちがエミュレーションに見いだしたものは、こうした力強さと危なさの表裏一体の関係でした。 (228頁)

 エミュレーションの「模倣」(と「差別化」)の弱点は、まさに引用部の通りである。

 勝ち続けていくうちに、徐々に自分自身を見れなくなってしまう、その危うさが、エミュレーションには隠れている。

 

自分のことに専念すること、「卓越」と「分業」

 「利己心」とは (略) もともとは、他者に不利益を及ぼさないための心得を述べようとした概念だったと言っていい (181頁)

 著者によれば、アダム・スミスの「利己心」の考えは、伝統的な「卓越」の概念に連なっている。*5

 実は、プラトンの思想にも、「自分のことだけをする」、つまり、他者の利益を損なわないように注意しながら、各人が各人の生業に専念して、その成果物を交換し合う、という考えが出てくる。

 分業と協業である。

 古代ギリシア人は、一人一人がそのような存在の仕方をすることに徳を見出した。

 これが「卓越」につながる。

 アダム・スミスの「利己心」(と分業)と、古代ギリシア以降の「卓越」(と分業)の伝統は、つながっていたのである。

 他者(の利益)のためにも、あえて、自分のことに専念するという姿勢。

 コンペティションは、実はすぐれた哲学的な思想・発想なのである。*6

負けないラジ、、、「負けない」競争観。

 コンペティションは「負けないようにする」競争観であるのにたいし、エミュレーションは「勝とうとする」競争観である (226頁)

 前者では、結果的に負けないことが重要となる。*7

 別に怠けているのではなくて、他者に負けるよりまず、自分がベストを尽くせないことへの自己反省を重んじる。

 コンペティションの良い所とは、ここである。*8

 先の「卓越」につながる話である。

 著者によれば、「スミス的なコンペティションは、そうした勝者や強者が一時的にせよあらわれることを当然視するものではなく、むしろその出現自体をむずかしくするための抑制装置として競争を捉えてい」る。*9

 「同業者に後れはとるまいと必死に努力はするが、あえてそれ以上を求めようとはしない、そういう人びとで作られる社会」。

 例えば、別に手を抜いているわけでもないのに、もっと優秀な奴が現れたら、市場から退場せよ、と言われる。

 みんなのためだ、と。

 いい理屈だ。

 ミルトン・フリードマンの思想そのものである。*10

 だが、「自己の領分に自己の尊厳をかけて生きようとすること、そうしたささやかな生のありかたに、絶対的な価値を見いだそうとする思想」は見直されるべきではないか。

(未完)

*1:完全競争論について知りたい人は、経済学の教科書を読もう(丸投げ)。

*2:ただし、ワルラス問題意識は、実際はこんな感じhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%82%B9#.E4.B8.80.E8.88.AC.E5.9D.87.E8.A1.A1.E7.90.86.E8.AB.96であるので注意。

*3コンペティションの考え方では、淘汰をくぐりぬけて生き残ったのは、企業の「経営手法」などであって、企業それ自身ではないと考える。

*4:なお、模倣性には、文字通り模倣することと、相手との差別化を図ることも含まれている。マーケティングして他社商品と差別化を図るのも、この「模倣性」に含まれるから、注意してほしい。

*5:引用部についての解説は、めんどくさいので省略する。

*6:ただし、プラトンらが、奴隷もその天性に応じた存在とみなしていたことを、忘れてはならない(129頁)。彼らの思想は、奴隷制肯定する帰結を招きかねない。こうした点を考えると、「自分のことだけをする」というのは「自律」と表現した方が含意に近い、という著者の主張(75頁)は正しいと思われる。「奴隷」は「自律」していると言い難いわけだから。

*7:なお、著者の議論は、コンペティションエミュレーションに対する優位を説くものではなく、むしろ、二つが補完関係にあることを説いている。実際、詳述はしないが、「コンペティションというのは、じつは密かにエミュレーションの先行を期待しているところがある」(203頁)。

*8:他のブログさんhttp://d.hatena.ne.jp/Toshi-shi/20121106/1352152378が引用しているように、「完全競争論がそもそもあらわしていたのは、誰もが自分の生業、「自分のことだけ」をしていれば、それなりに生きていくことができるという、そういう社会の理念であり、そういう経済のありかた」であり、「いま必要なのはもしかすると、完全競争論の復権なのかもしれません。(P215)」ということである。

*9:以下、こちらのサイトにも、http://d.hatena.ne.jp/kingfish/20121101引用されている。

*10ミルトン・フリードマンの競争観については、http://d.hatena.ne.jp/haruhiwai18/20121230/1356796872も参照。フリードマンは、競争において、そもそも努力云々というものに興味を持っていない。

2015-06-28

面白いのは、日活ロマンポルノ時代の話だけじゃないぞ!(アキラの伝説とか渡哲也のデビュー期とか) -白鳥あかね『スクリプターはストリッパーではありません』を読む-

 白鳥あかね『スクリプターはストリッパーではありません』を読んだ。*1

 面白いというしかない。

 賞も得ているので、本書を読んでいる方も多くいるだろう。

 以下、特に「面白い」と思った所だけ。

忙しいぞ、スクリプター

 でも、ビデオが発達してから、現場でもモニターテレビで見て演出する監督が増えてきているんですね (20頁)

 スクリプターという職業は大変である。

 スクリプト(記録)用紙は、500カットの場合、500枚。

 どんな細かいことでも書かないといけない。*2

 パンなど、カメラの動きも記録し、当然、俳優の動きも記録しなければならない。

 こうしたポジションであるため、スクリプターは現場でも良いポジション(監督の隣)を確保している。

 そうした監督に近いポジションゆえ、場合によっては、監督やほかのスタッフからアドバイスを求められたりもする。

 マジで大変そうである。

スクリプターは、まさに、「秘書」なイメージ。

 ほとんどではなく全員女性です。男性がいたら、歓迎しますけどね。 (280頁)

 スクリプターの性別について白鳥は語る。

 彼女自身が設立に尽力した日本映画・テレビスクリプター協会は、全員所属しているのは女性である。

 なお、新藤兼人監督の最初の奥さんは、スクリプターだったという。

 たしかに、イメージ的には、秘書的なポジションである。

現場では俳優を見ろ

 白鳥は、俳優の芝居は、モニター越しではなく、実際に直で見た方が、役者にとってはいいという。

 監督に見られているということが俳優にとってはすごく大事なことなんです (21頁)

 モニターで画面構成やサイズや動きを見るのはいいけど、テストと本番では必ず俳優を見ろ、と白鳥はいう。

 結構重要なアドバイスではなかろうか。 


 さて、そんなスクリプターだが、監督によってはつけないケースが出て来る。*3

 今やスクリプターなしでもデジカメで補えるので、「スクリプターをつけるのは贅沢」といわれる時代なのである。

 しかし、それでもなお、スクリプターは重宝がられている。

 記録だけじゃなくて、アドバイスもする人だからである。


 監督は孤独である。

 孤独な人が自分の補佐を求めるのは無理のない所だ。

山田五十鈴の記憶力

 山田さんは科白がすぐ頭に入ってしまう特技があったから。 (52頁)

 セリフの直しを頻繁にする、それも、本番当日に変えるマキノ雅弘監督。

 だが、山田五十鈴は凄かった、それにあっさりと対応した。

 

 ちなみに、マキノ監督は役者やってただけあって、演出の際にも、演技も上手さを見せたという。

 1908年に生まれて、1912年に子役デビュー、1926年に監督デビューした人である。

アキラの伝説

 <渡り鳥>シリーズでもアクション・シーンはすべてスタントなしで旭自信が演じています。 (96頁)

 さすがアキラ。


 白鳥によると、大部屋出身で苦労しているから、腰は低かったという。*4

 自分に撃たれる役者や照明部には、気を使って奢っていたという。

 特に、照明部は、重要な仕事なのに、あまりスポットライトの当たらない職業である。照明だけに。

 ロケとなれば、機材は重いし苦労してる。


 そんなスタッフに人気があったのが、アキラである。

さらにアキラの伝説

 ダイスを五つ壺に放り込んで開けると全部垂直に積まれている、というやつね。あれを旭がたった二回目ぐらいでやってのけたときには、スタッフや俳優、みんな息を呑みましたよ。

 映画<ダイスの眼>でのお話。

 西村晃が台詞が出てこなかったけど、しょうがなしでOKになったシーンである。

 やはり、アキラはスターだったのである。

渡哲也のデビュー時代!w

 それで小杉さんが「台詞を言う前に足を叩け」とアドバイスするわけですよ、冷静に。それで、実際に哲っちゃんが叩くと台詞が出てくる。私はそれがおかしくってね(笑) (112頁)

 『あばれ騎士道』の渡哲也の話。

 彼のデビュー作品である。

 当時新人で、キャメラの前で緊張して、セリフが出てこない。

 そこで、引用部のことが行われた。

 本書で一番笑ったのはここ。

アフレコで喜ぶクマさん、苦労するスクリプター

 一番違うのはロマンポルノはオール・アフレコ、つまり現場での録音がなかったことですよ。 (130頁)

 殺陣師ならぬ、「横師」となった白鳥

 ロマンポルノ時代は、ラブシーンの演出もすることになった。


 それまでの日活映画ではシンクロで必ずカメラと一緒にマイクがあった。

 でも、音があるとそのぶん時間がかかる。

 神代辰巳は、現場でしゃべってない科白を勝手にしゃべらせられるので、アフレコ大好きだったらしい。

 だが、スクリプターは、口を合わせないといけないので、白鳥は嫌だったという。

ロマンポルノの撮影の現実

 ロマンポルノは撮影日数も少なくて、七〇分の作品を最大でも十日、ふつう七日で撮るということが原則で、直接製作費がだいたい七百五十万、スタジオの電気代とか間接製作費を含めると千五百万ぐらいでした (132頁)

 ロマンポルノは予算厳守だった。

 相当カネも時間もなかったのである。

 

 日活から出ていった俳優たちは、冷ややかに古巣を見ていた。

 そんな中で、岡田真澄だけが、みんな日活を残そうと頑張っているんだ、と元仲間たちを窘めたという。(岡田は日活出身。)

 印象深いエピソードである。

 

おい、にっかつ!

 クマさんはぼかしは権力に屈したことになるというので許さなくて、わざと大きく黒い物を入れて抵抗しているんですね。(略)ネガで保存してあれば、復元できるから外国版は前張りがバレバレでも使うことができるじゃないですか。ところが日活はお金がもったいないからネガで黒みを入れちゃったんですって。 (152頁)

 この話を聞いて白鳥は卒倒しそうになったという。


 ワイも卒倒しそうになったで(猛虎弁)。

そのまま映画みたいな話

 『絶頂度』のヒロインを演じた三井マリアは、ロマンポルノはこれ一本だけで引退したんですね。 (162頁)

 『わたしのSEX白書 絶頂度』の撮影中に、この仕事が終わったら結婚すると三井が言っていたらしく、どうやら相手は医者だという。

 「この映画そのままみたいな話」と白鳥はいう。

 まさに。


 そんな三井を輝かせたのは、曾根中生監督の実力である。


 ちなみに、『絶頂度』は女性ファンが多いらしい。

 「主体性」をもって自分の意思で堕ちていく点が評価してもらったのではないか、と白鳥はいう。*5

池田敏春監督の話。

 永島は、その後も『MISTY』(91)で火炎放射器をぶっかけられて、やけどしそうになったんですよ(笑) (207頁)

 「人魚伝説」でおなじみ、池田敏春監督の話。*6

 別の映画では、永島は凍傷になったりもしている。

 でも永島は池田を尊敬していたので、池田に気に入られていたという。

 池田は、兎に角現場で、美術や助監督に怒鳴っていたらしい。*7

 普段はそうでもないのに、現場に入ると豹変するタイプだったらしく、白鳥によると、師匠曾根中生も似たタイプだったらしい。

(未完)

*1:正確には再読だが

*2:監督は演出など、別の所に気を使っているので、監督をこうして補佐する必要がある。

*3:つけないケースの方が多いか

*4:最初は生意気だったらしいが。

*5:本作では、脚本は白鳥が担当している。

*6:本作でも映画・「人魚伝説」の話をしているが、ここでは省略する。

*7:俳優とスクリプターは違ったらしいが。池田監督の生前の評判については、http://hirobaystars.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-1c1e.htmlなどもご参照あれ。

2015-06-13

不朽であることを望まなかった魯迅の文章が、今もなお読み継がれることの不幸(大意) -片山智行『魯迅』について-

 片山智行『魯迅』(中公新書)を読んだ。

 キーワードは、「馬々虎々」。

 本書の内容紹介を引用すれば、「欺瞞を含む人間的な『いい加減さ』」)のことであり、「支配者によって利用され、旧社会の支配体制を支えていた」もののことである。

 本書は、魯迅を「馬々虎々」と戦い続けた人と説く。

 魯迅はその著「阿Q正伝」において、「速朽」の文学である旨を書いた。*1

 不朽であることを望まなかった魯迅の文章が、今もなお読み継がれるべき強度を保っているのは、果たして幸福なことと言えるだろうか(反語)

魯迅―阿Q中国の革命 (中公新書)

魯迅―阿Q中国の革命 (中公新書)

 以下、面白かった箇所だけ。

「『フェアプレイ』は時期尚早だ」の背景

 魯迅は公平な第三者の立場に立ったような顔つきで権力者の側に立つ、陳源のような「学者」「文人」の卑劣な言論を徹底的に憎んだ。 (188頁)

 魯迅は、そういう人だった。*2 *3

 彼の有名な「『フェアプレイ』は時期尚早だ」は、この精神によるものである。*4

 「公正」である議論が結局一方向にしか機能せず、権力側に加担している点を問題視したのである。

 「自称中立」問題、といっても良いかもしれない。*5

最悪の「馬々虎々

 魯迅中国の政治状況のなかで見出した最悪の「馬々虎々」が、この四・一二クーデターであった。 (212頁)

 増田渉は魯迅から次のことを聞いたという。

 最初は国民党を褒め、革命の恩人だとして、ソ連から来たポローヂンの前で学生たちに最敬礼をさせたりした。

 学生たちは共産党に入った。

 ところが今度は、共産党員ゆえに彼らを片っぱしから捕まえて殺した。

 殺し方も、刻み切り、生き埋め、親兄弟ごと殺す、など。

 どこかのちの反右派闘争にも似た光景が、展開された。

信じてないものを強要すること。

 魏晋の時代には、礼教を尊崇した者は、一見たいへん立派なようですが、じつのところは礼教を破壊し、礼教を信じていなかったのです。 (215頁)

 魯迅は、先の四・一二反共クーデターの三か月後、危険な状況で講演を行っている。

 表向きは、阮籍が司馬氏からの婚姻関係の申し出を酔いつぶれることで逃れた話。

 だが、ウラにあるのは国民党反動派への批判である。

 彼らの言う「革命」は、かつての権力者たちの「尊孔崇儒」と同じであった、という。

 日本の愛国者やら尊皇家のツラをする者にも、こういうのが多そう(こなみ *6

(未完)

*1:こちらのブログの文章http://henmi42.cocolog-nifty.com/yijianyeye/2008/10/post-bc92.htmlによると、「彼は決して“不朽”(後世まで残る)を求めず、自分の作品は“速朽”(早くなくなる)でよいと言っている。 彼は、自分の作品の中で描かれている不幸な現実が早くなくなり、将来にまで影響が残らないよう望んでいるのだ。」

*2:念のため(?)書いておくと、魯迅は、自分たちの陣営に近い人間も批判している。例えば、自分たちの「馬々虎々」を棚に上げて、他人を断罪、中傷する「革命」陣営(周揚ら)を批判している(230頁)。

*3:「公平な第三者の立場に立ったような顔つき」の輩を批判した文章、最近の優れたものとしては、http://b.hatena.ne.jp/entry/lite-ra.com/2015/06/post-1160.html等が挙げられるだろう。

*4:「『フェアプレイ』はまだ早い」を書くに至った彼の環境については、http://blogs.yahoo.co.jp/otiani/45247406.html参照。

*5自称中立問題については、http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/20080107/p1http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20150406/1428763248等を参照。

*6:なお、魯迅については、「わが節烈観」http://blogs.yahoo.co.jp/otiani/53701052.htmlや、「ノラは家出してからどうなったか」http://amanoiwato.info/?p=266もおすすめ。

2015-05-31

「進化しちゃえば大丈夫だよ」から、「僕は新世界の神になる」になるまで。 -嘉戸一将『北一輝 国家と進化』を読む-

 『北一輝 国家と進化』を読む。

 面白いし、勉強になる所も多かった。*1

 外部的な要因(社会的変化等)から彼の主著を読むのではなく、あくまで北の内在的な思想の地点に踏みとどまって読解している。

 その結果、彼自身は、(よく言われていたような)思想的な「転向」などはしていなかった、と主張する。

 後期に見える思想の萌芽は、すでに前期にちゃんとあったというのである。*2

北一輝――国家と進化 (再発見 日本の哲学)

北一輝――国家と進化 (再発見 日本の哲学)

 以下、特に面白かったところだけ。*3

ああ、斜め上の発想

 北の場合、道徳紐帯に関する危機はなく、道徳論は「進化」によって解消されるべきものとなる。 (48頁)

 福沢諭吉は、身分制度解体に伴う道徳紐帯の喪失を恐れた。

 そして、西洋のパトリオティズム単純化したもの、「報国心」の養成を主張した。*4

 そうした場合、個人の「内面」に介入は不可避だとしていた。

 だが、北は違った。

 斜め上の発想を展開した。

進化しちゃえば大丈夫だよ。

 個であることを放棄することが「自律的道徳」となる。(略)個であることの放棄こそが社会主義への「進化」である。 (68頁)

 個であることを放棄して社会の一部になれば、道徳が解消される。

 北は「人類」から「神類」への「進化」としてそれを語る。

 社会進化論である。

 北は「進化」によって道徳の問題を、社会に融解させて、"最終解決"しようとしたのである。*5

プラトン主義者・北一輝

 しかし、内在的に読み解くならば、それをプラトン主義として理解することも可能だろう。 (148頁)

 すでにみたように、北一輝にとって「進化」とは、欲や感覚、身体的なモノと決別して「神類」になることである。

 驚いた人もいるかもしれないが、彼はそのように主張している。*6

 北の「神類」における排泄や生殖の「廃滅」の主張も、プラトン主義として理解できる、と著者はいう。*7

 彼の主張はプラトン主義の一種である、と。

 確かに、言われてみるとそんな気もしてくる。

 プラトニズムと考えれば、北の主張もあまり違和感はない。*8

性分業を主張するプラトン主義者

 むしろ女性がポリスの公有財産と位置づけられたプラトンの『国家』を想起すべきではないだろうか。 (172頁)

 北は女性参政権について、良妻賢母主義の日本を「正道」だとし、「母」・「妻」たる権利を完全にするためにも、「口舌の闘争」に動員すべきではない、と説明している。

 この露骨な性分業の思想を、著者はプラトン『国家』の影響とみている。

 これもその通りだろう。

 さすが、プラトン主義者。*9

どこが無産者や。

 北は「同化作用」に孕まれる強権性や暴力性を、「進化」という彼独自の科学主義的法則性によって隠蔽したにすぎないのではないか。 (220頁)

 北の対外思想について。

 北は、自分の社会主義帝国主義とは違う、といっている。

 しかし、彼の論述を見る限りだと、引用部のようになる。

 北の社会主義個人主義批判であったように、国際関係においても本質的には個的なものを否定しているのではないか。

 「改造」論において、大東亜共栄圏のような膨張的政策を肯定している (232頁)

 北は、インド中国を西洋の列強から解放する戦争を肯定している。

 そして、国際関係においても階級闘争が認められるべきだ、として、日本を「国際的無産者」であると主張している。

 他国を併合しといて、どこが無産者や。*10

僕は新世界の神になる。

 北一輝は自分の主張する国家論が真理であることを、彼自身が絶対者、あるいは全能者そのものとなることによって保証しようとした (245頁)

 倒錯的な試み、と著者はいう。

 まあ、当たり前である。*11

 「説明など不要、ただ実行せよ」という中身の計画*12を立てた男は、「最終的に起源となる神話を彼自身に見出した」。

 こんな計画を天皇制に依拠できるわけもない。

 だからこそ、北は「神」になろうとしたのである。

(未完)

*1:正直、西欧方面だと、なんだかカントローヴィッチとルシャンドルに依拠しすぎじゃないかという感じはあったけれども、近代日本を代表する他の思想家の思想(特に国家論)を、北のそれと比較していく流れはとても面白いし、勉強になった。

*2:本書のマジメな書評としては芹沢一也の手になるhttp://blog.livedoor.jp/bisista_news/archives/1241479.htmlがある。必読である。この書評で言われるように「脱神秘化され尽くした北一輝を前にしたとき、面白味が消えてしまっているのも否みがたい」という点は、たしかにその通りだろう。

*3:なお、今回は、彼の社会民主主義的な側面については、特に書かないつもりなので、あしからず。

*4:この場合、どんな「報国心」を福沢が要求したのか、という問いにつながるわけだが。

*5:念のため書いておくと、当時このような「疑似生物学進化論」の考えは北のみのものではなかった。ヘッケルの意見を引いて加藤弘之が述べる所によると、進化論によって「人学」は進歩して、その進歩で哲学が進歩して、その進歩で道徳も「完全」になる、という(73頁)。

*6:『国体論及び純正社会主義』等にて言及している。こちらのブログさんの書評もご参照あれ。http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20120316/p1

*7ロシア宇宙精神論http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20120923/1348404741との関係も、少し気になるところ。

*8:彼を近代の思想家だと思うと違和感バリバリだが、古代の思想家と比較すると、違和感は生じにくくなる、と思う。

*9:ただし、北の思想とプラトンの思想との違いも存在する。先に紹介した芹沢による書評で言及されているように、「終生変わらぬ国家社会主義者」である北にとって、国家とは、「人間の理想状態が実現される場所」であり「それは『実在する有機体としての国家であり、天皇と国民とが一体と化した物理的実在の国家』」である。それは「プラトン的なイデア」であるが、「プラトンと違ってそれは物理的実在として実現されうると北は信じた」。

*10:なお、北は併合した朝鮮について「朝鮮は日本の一部たること北海道と等しくまさに『西海道』たるべし。日本皇室朝鮮王室との結合は実に日鮮人の遂に一民族たるべき大本を具体化したるものにして、泣く泣く匈奴皇女を降嫁せしめたる政略的のものに非ず」(from『日本改造法案大綱』) と述べている。

*11:既に紹介した芹沢による書評の言葉を借りれば、「イデアを実在化する存在は誰かといえば、もちろん神だということになる」。

*12:『日本改造法案大綱』のこと。