ダルデンヌ兄弟『少年と自転車』Le gamin au vélo

カンヌ映画祭の受賞作や話題作を見ようと調べてみると、パリでの一般公開は8月のヴァカンス明けに設定されている場合が多い。たとえば前評判が最も高かったが無冠で終わった、アキ・カウリスマキル・アーヴル』や、フランスが男優賞を獲得した『ジ・アーティスツ』、もしくは、映画祭追放という前代未聞の処分をくだされた(しかし、個人的には、作品に立ちこめる監督の根性の悪さと底意地の悪さを芸術性と一般的に曲解されてきた(?)ことが理解できなかったので、今回の処分はある意味もっともだと思う)ラース・フォン・トライアー監督の『メランコリア』など。


映画祭開幕期間中に公開していた作品のひとつが、ダルデンヌ兄弟少年と自転車』Le gamin au vélo。今年、ブラピ出演の『トゥリー・オブ・ライフ』にパルムドールをもぎとられたが、めでたく次席に相当するグランプリを受賞した。ダルデンヌ兄弟は、労働問題など社会派ドキュメンタリー映画を多く手がけ、1987年の『Falsch』で物語映画に転向し、その作品群は世界の映画祭で高い評価を受けてきた。


ウィキによれば、『少年と自転車』を構想するもととなったのは、ダルデンヌ兄弟が2003年に『息子のまなざし』のプロモーションで日本を訪れた際にある女性判事から聞いた話であったそうだ。ある少年が、自分を捨てた屋根の上にのぼり、父親の帰りを待ちわびたという話。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Le_Gamin_au_v%C3%A9lo


舞台はベルギーのフランス語圏、リエージュ郊外。初夏のできごと。少年シリルは若い父親に育児放棄され児童養護施設で暮らしていたが、シリルの若い父親は自分の車と息子の自転車を売り払って行方をくらませる。事実を知ったシリルは心をすさませるが、ひょんなことから自転車を買い戻してくれた美容師のサマンサを慕い、彼女の家に引き取られることになる。シリルはサマンサとともに父親を探しあてるが、新たな生活と人生の再建を求めた父親は息子を完全に放棄する意思を示す。心をすさませ情緒不安定となったシリルに近所の不良グループのリーダーが接近し強盗を実行させる。シリルは本屋の店主を襲って手に入れた売り上げ金を手に父の元をおとずれるが父にあえなく拒否、通報されてしまう。家庭裁判所の処分により、シリルは罪をみとめサマンサは賠償金の支払いに応じることで和解が成立する。二人は平穏な生活を取り戻したかのように、川辺で自転車を走らせピクニックを楽しむ。その日の夕方、シリルはサマンサに頼まれバーベキューの材料を買いに街中にでるが、そこで本屋の店主父子にばったりと出くわした。怒った息子に追われて森に逃げ込み、よじ登った木から転落してしまう。シリルはしばらくして意識を取り戻すと無言で森から出て行った。


ダルデンヌ兄弟の長編作品でははじめての夏の作品。画面ににじむシリルのTシャツの赤と郊外の町を軽快に走り抜けて森へとつなぐ自転車を、手持ちカメラが涼やかに追う。大人に翻弄されてきた少年が自らも少しずつ社会のシステムに組みこまれていく人生の一断片をさらりと描いた成長物語。


ダルデンヌ兄弟が聞いた屋根の上で父を待つ少年は最終的には非行の道をつきすすんだという後日談がつけくわえられという。一方、ダルデンヌ兄弟がつくりあげた虚構世界では、シリルは木の上から落ちながらも立ち上がりサマンサのもとに帰っていく。こどものたくましさ、と解すこともできる結末を残すこと、スクリーンのこちらがわで見ているわたしたちに子供たちの後の人生の想像をゆだねられ、希望の余地を残すのがダルデンヌ兄弟の作品の特徴だ。


とはいえ、ダルデンヌ兄弟イゴールの約束』1996の少年イゴール外国人労働者の斡旋をなりわいとする父親を助けていたが、父親の違法性に反発して父の元を去ろうとする)、『ある子供』2005の青年役ブリュノ(18歳の恋人との間にできた子供をわずかなお金で売り払ってしまう20歳のこそ泥)を演じたジェレミー・レニエ(フランソワ・オゾンの『POTICHE』でカトリーヌ・ドヌーブの息子役として登場したベルギー人俳優)が、今回は自分の人生をやり直すために子供を捨てる若い父親役で登場することから、シリルの今後の人生も、「現実には」、父親と同じような人生をたどる、すくなくともそれほどろくな未来は待っていないであろう、と、暗澹とした想像を喚起する物語構造となる。それを、直接語るのではなく、トリュフォーにおけるピエール・レオのように、ひとりの俳優を少年、青年期をかけて繰り返し登場させることで、俳優の実時間と肉体を虚構世界にとりこむ手法により、観客に対してもうひとつのメタ物語を語りかけるところが、ダルデンヌ兄弟の映画的テクニックだろう(この場合は前作を見ていることが前提だけど)。


人は自分の受けた虐待経験を子供や友人に対して繰り返し加害者から被害者へ主体から客体へ自己を転化することで傷を癒そうとする。最後に出くわした本屋の息子に、シリルが気まずそうに「謝ったからいいじゃないか」と言い返して、加害者に対する被害者の憎悪を逆に深めてしまうところに、シリルの精神状態の深刻さがあらわになる。この二人の「息子」の対決があらわにするのは、本屋の息子が示す家族関係の中で醸成された父親への信頼感とそれに伴う感情であり、またそうした感情を理解できないでいるシリルが示した情緒未発達だ。シリルの精神的な傷が深すぎて、サマンサのような庇護者がいても傷は簡単には回復しないしその優しさは一時的な慰撫以上にはならず、他者のいたみに共感できないままでいる。想像力の未発達や世界に対して精神が閉ざれた状態が、本当はもっとも恐ろしいことなんだろう。


あえて難をつければ、音楽はチョット…というところもあるけど。たまに挿入される音楽を聴くにつれ、この大雑把さそのものが演出なのか、と頭をひねらせられるけど、映画全体からみればたいしたことではないのかもしれない。作品がつきつける大きな問題はもっと別に立ちふさがっている気もするので。