hasenkaの漂流記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

ここはどうでもいいどぶろぐです。

2007-01-31

自分の性格や性向というのが何所から来たのかと思う時

前世というのを想定したのではないのか。今では遺伝と言われてしまうが昔でも血筋とか言うか。しかし前世とは今の性格とは余り関係しなかったりするのでどうか。いや最初は関係あったけどいろんな人が様々な説明を考案するんでかなり発展的複雑な経緯を辿ってしまったのではないだろうか。

政府のトラップにかかったメディア

「生む機械」発言は世論の動向を計る観測気球だった。で何を計ったかと言うともちろん参議院選。そのからくりは、「生む機械」と言えば野党が飛びつく。その野党にどれくらい世論が賛同するかというのを観察しているわけですね。これでまた野党がデレデレで追求も雲散霧消してしまうとこれは勝てると与党は思うわけですよ。観察が実験結果に影響を与えてしまう所が難点だが安心には変えられない。

テレビも新聞も限られた空間の中でどう見せるかが求められてきた

その編集次第で多く見られたり売れたりするのだから特性として持つ事になる。しかしネットではこの空間に制約はかなり無い。ネットニュースではこの部分を期待したが出て来たものは今までのメディアよりも酷い煽り記事ばかりだった。ネットニュースでは見られる事を期待してはだめで参照される事が大事。昨日ニュースでは車が3台も燃えたと言ってたけど調べてみたら12台も燃えていた、というのがネットニュースに期待される事である。自殺者は増えてるのか減っているのか、犯罪件数は。こういうのを既存のニュース社だけに独占させとかないでいつでもアクセス可能にしておけばもの凄く既存のメディアはやりづらくなるはずなのに。ネットが生きてないな。

相撲八百長

繰り返される騒動。相撲界のお家芸です。クローズな組織だからいつまでも無くならないでしょう。相撲協会とか訳の分からん組織が無くなるまでは。プロレスになぜ八百長騒動が起こらないかといえば(略)。

まぁ八百長騒動は真の横綱の勲章みたいなものでしょう。

消費税も累進制でいいじゃないか

生活に苦しさを訴える人々がいる一方で高級品が売れる。世の中格差社会と喧伝される。所得税を軽くして消費税導入という趣旨で始まってその頃から税の累進制が緩くなった気分で贅沢品が売れ始めたのがバブルの後押し。なら消費税に累進制があってもいいじゃないか。政府指定の生活必需品は無税にして他は高額商品ほど利率を高くする。あの頃とは何もかも状況が変わってしまった。そうすれば気分だけでも格差緩和の気分は味わえる。高額商品買う奴は沢山税を払ってる。ルサンチマンの解消にもグッド。

自分の中に子路がいる

といってももの凄く劣化コピーで矮小化されたものに過ぎないが。形式を軽んじて実質を求める。柔軟性と適当性。この違いは難しい。ついつい流されてしまう。それで流されればスキャンダルに発展する。いずれ歴史の繰り返し。

みんなで火をつけたり煽ったり

朝日新聞のCMのように。それは見ない振りをしているのかただの煽りの要請なのか。国内を動乱の渦に巻き込みたいってのが左翼の思惑。多少の犠牲は目的を達する為ならやむ終えない。世の安定か動乱か。

2007-01-30

納豆を毎日2パック食べて2週間で痩せるは嘘とは限らない

それで痩せる人が現れればいいのではないだろうか。そういう問題じゃない? 実験データやインタビューの捏造が問題だったのだ。けど本題はタイトル通りなので他の問題は枝葉末節であろう。さぁ実験、実験。どこかが本当に納豆で痩せた!なんてやったらまた納豆が売り切れるんだろうな。

適当に生きていいですか

どんなニュースも華麗にスルー(無理無理)

論理判断停止して気分で選ぼう最初はグー

まぁお固い事は言わず

これが人類の積年の知恵

形式主義は飾りじゃないのよ

社会をスムースに動かすアイデアが詰まっているのさ

でもそんな事やってるとどうしたって堕落する

それが人間さぁ

やっぱりけじめって必要だわさ

まぁその辺も適当に

正しく生きたいという欲望

正しさというのも欲望の一種なのか。人間の欲の一つでしかないとすると正しさも食欲とか性欲と同じ次元に置かれてしまうわけですが、正しさと言っても真実とかじゃなくて自分にとっての正しさという意味ではそんな所かもしれない。で欲に溺れないとすれば正しさも程々にという事になる。そう全てがキッチリスッキリいくものでないのだから多少の事は目をつぶらんといかんという事になる。そう完全なものを求めるのは欲の出し過ぎと。

なんか思い出した

やっぱ国会というか立法機関は強いよな、とぼんやり思ったのだった。この間のサラ金の限度利率もあれだけで軒並み黒字だったサラ金業界が全て赤字に転落して外資も撤退する変わりよう。税制をちょこちょこっといじればどんな業界だって真っ青だ。好調なトヨタだって車の税制変えたら一気に赤字に転落するのだ。まぁそれに耐えられる政権があるとも思えないが。企業が献金するわけですよね。みんなが三顧の礼を携えてやって来るのだから政治家なんて辞められるわけがないと。こういった目立たない変更が水面下で攻防を繰り広げてるわけですか。

マジー?、マジマジ

やっぱこの世に必要なのは中庸ってやつですかね。みんなが適当に執り行って適当に過ごしていれば適当に収まると。そこへマジでそれはいかがなものかなんて奴が現れるから歯車が回らなくなりスキャンダル風な事件が勃発。スルーカが足りないなんて言われてしまう。あるある、スルーカスルーカ。不二家、スルーカスルーカ。生む機械、スルーカスルーカ。

小泉手法

美しい国って小泉さんのワンセンテンス・ポリティクス の真似だったのだろうけど表面だけ真似てうまく行かない典型だよな。だいたい性格も人格も違うのに人がやった事を表面だけ真似してうまく行くはずが無い。こうやって比べられてしまう所が人気政権後を継いだ政権の苦しい所。誰もやりたがらなかったわけだ。

宇宙の彼方に消えたアイデア

パソコンから離れた時にポッと考えが浮かぶ時がある。しかししばらく経つと忘れてる。一体何が浮かんだのか、結構良いアイデアだと思った事は印象にある。しかし忘れてしまうくらいだから大した事ではないのだ。少なくても生存に関わる事ではないという事だろう。こういう彼方に消えたアイデアを食べて生きているのが麒麟だ。そういった麒麟は様々な考えに耐えきれなくなって死ぬ。死んだ麒麟は首を落とされて頭骨をきれいに洗われて図書館でアイデアを読まれる日を待っているのか。

自転車も車検制度を始めるべき

で重量税なりなんなり強制保険も義務づけると。そしたら不要自転車も一掃されるし台数も十分の一位に減るのではないか。そうすれば駐輪場もかなり解決されるはず。売り上げ減少で低価格自転車も減る。自転車も道路を利用しているんだから当然だよ。

水伝を信じる自由、水伝を発表する自由、水伝を広める自由、ニセ科学を批判する自由、ニセ科学批判を発表する自由、ニセ科学批判を広める自由

こうなるとただの自由競争という事に。どちらも観客にいかにアピールするかという事が重要になる。今まで科学界はその方面で遅れていたから水伝なんかにつけ込まれる事になったと。どの場所が居心地が良いかと言えば観客である。両者奮ってがんばってくださいおもしろおかしく眺めてられる。おうこれは説得力があるな。これはちょっと納得できないな。とか適当にうなずいていればいいのだから。まったく民主主義って素晴らしいですね。

カラオケ店て怖いよね

防音対策で窓がない。この間の火災も窓が厳重に塞いであったから逃げ遅れたのだろうな。ビルでもない二階建てで逃げられないなんてやんなっちゃうよ。

幼児化する社会

騒ぐ方も大人げないんでないの。子供の喧嘩じゃないんだからさ。もっと冷静になろうよ。女性が生む機械でもいいじゃないか。それは事実の側面で単純化しただけですよ。こういう本音を言えない社会が「最大限努力します」とか「次善に対処します」とか虚しい大人語を生み出しているんじゃないの。怒っているのは機械うんぬんじゃなくて女性だけの問題に捉えている所だと言われるがそうではないでしょう。あの部分はその現象面を捉えただけで他の部分は今回の議題の筋ではなかったという事でしょう。問題じゃない所を問題にする。いちいちこういう部分で反応されても議論は何も先に進まない。もっとも少子化問題なんてそもそも何も語る事なんかないのでは。だからこういう茶飲み話が出て来てしまう。地方に言って何か一席ぶって欲しい。何を話そうかな。やっぱ今はこれかぁ、とぼんやり思ってうっかり発言。そう誰がなんと言ったってもう何も話す事なんかない。事実は減り続けるし少しでも歯止めをかけたければ現生を用意するしか無いという冷厳たる事実。みんなが足を引っ張り合う美しい日本の姿を見せられるのももうお腹一杯です。

言っても無駄だと思っても一応形式は踏まねばならぬ

くだらねぇ、という想い。言えば済んでしまう問題なのか。その程度の事なら最初から言わなければ良いのに。しかしそうした行動主義に走ればいつかは身を滅ぼすと二千年前から知られた事実。まぁある程度生きたら覚悟を決めて自分の信じるままに突き進むしかない。生き延びるだけが人生じゃないしね。勝ったとか負けたとか正しいとか間違ってるとかどうでもいいこと。自分はどういう世界を好むかと言う嗜好の問題。

「あるある」と普通の番組の違いが分らない

通常の放送でも問題の側面を一方向に限定したり一部分だけを取り出して見せるという手法は日常的に行われている。議論のそもそもの手法が一部を取り上げて問題点を叩くというのが普通なのでそんな事言っていたらあらゆるニュース映像は捏造になるしか無いと思う。例えばイラクで連日爆弾テロが報じられているがあれを見てると24時間爆弾テロが起きている様な印象を受ける。ああいうのも印象操作ではないのか。アル・ゴアの「不都合な真実 」もその問題点ばかりを寄せ集めて反論や逆の現象は一切紹介しないという恐ろしいほどの印象操作が行われているらしい。まったく「あるある」なんてかわいいもんだ。メディアは全て捏造である。なぜなら客観的事実なんてこの世に存在しないからだ。また客観性を第一にした番組なんてつまらなくて誰も見ないという事実。主観性がなければ何の意味も見出せない。おかしく面白く望んでいるのはユーザーの方なのだ。では考えてみよう、「不都合な真実 」が両方の主張を公平にのせてこれからどうなるか何も分らないという結論しか出せなかったらここまでヒットしたか。

 そうすると「あるある」を作らせたのは視聴者の声だったわけである。だからといって番組が免罪されるわけではない。しかし自分たちには一切無関係のように叩きまくる姿は醜いというしかない。だいたいやせたい人は騙されたと思って何でも試すものなのだ。藁をもすがるというやつ。ダイエット番組はこれからも続く。これからも似た様な事が延々と繰り返される事は間違いない。

2007-01-29 痛いニュースはてブにランクインしすぎ

キリスト教が悪かった

というかローマに勢いがあったなら別なキリスト教の解釈もできたと思うのですが。もうそういう若い力が無かったから教条的で硬直で不寛容な弱いローマになって行ったのではないでしょうか。そういう勢いがあったなら現実的で柔軟で寛容であった強いローマが維持できたのではないのか。やはり力を失ったからそういう考えしかできなくなったのであり宗教に責任を求める事はどうなんでしょう。衰退する時はどこも同じ。ベネチアも海の覇権を失った時その命運は決まっていたようにナポレオンに形式的に瓦解させられましたがやはりそこには柔軟な考えができる人間が残っていなかったようにローマも柔軟な考えができる人間が登場できなくなっていたということではないでしょうか。そういう意味で傭兵隊長オドアケルの手による滅亡は形式的なものだったのでしょう。

読んでないのに勝手な想像。

学校で簡単にグラフは分りやすいなんて学ばせるのが悪い

エクセルなんかで簡単に作れるのが悪い、んじゃないだろうか。

グラフ分析士という資格を作ってその資格がある人が作ったグラフでないと公開できないというのはどうか。

これ以上資格が増えてもなぁ。

高木浩光@自宅の日記 - 日常化するNHKの捏造棒グラフ

中堅どころの企業に厳しい時代

パロマや不二家を見ていると中堅企業の厳しい現実が。グローバルの波にも乗れず。まぁ大企業だって現実は厳しいのだろうがスケールメリットが緩衝にはなっている。北海道ガスも同じ。問題が起きたときそれを乗り越えられる体力があるのか。ああこれはヒューザーも同じか。こうして大手への合併吸収圧力が高まる。なんかこれってそういう政策なんだろうか。銀行の場合は金融大再編という大義があったが一般企業じゃその手は使えない。なら事件を起こして退場してもらおうと。これは事件を起こした当事者の企業ばかりでなく他の企業にも無言の圧力としてのしかかる。何かあったとき耐えられるのか。それなら大手と合併せよと。サイン。裏で暗躍する人々。陰謀論

9.11の終結はアメリカの敗北という結果になった映画を想定する

やっぱりテロにはゲリラには勝てません。という結果を受けて米は外交政策を転換。世界との関わりを避けて国内問題に集中する事になった。日本?知らねぇ。勝手にやってくれよちょんまげ! こうして東アジアは緊張状態に置かれるわけです。みんな中国にひれ伏せる事でしょう。おだてまくり貢ぎ物合戦で中国ウハウハ。どうか我が国に襲う事がないように友好友好ごまをする。その頃露と中は仲良く同盟関係を結んでいて日本万事窮すですか。ここはやはりインドですかね。そのころはEUも拡大EUになって全て域内で賄えるから貿易等しなくていいとなってアジアだけが不安定要因となって勝手にやってくれ世界中からそっぽを向かれる。全然明るい未来を描けない。悲観主義の自分です。

自転車優先道路というのがあってもいいかも

幹線道路に平行した道を自転車優先道路にすればそれほど金も時間もかからず実現するのでは。車は最高速度30kmに制限。通れるのは居住区と配送関係の車のみ。別に自転車をそこに押し込めるというんじゃなくてそういう道路も何本かあれば自転車通勤の促進にもなり環境にも優しく時代にマッチしてるぞ。

神が甦る21世紀

神が死んだのは20世紀、あれ19世紀だっけ。21世紀は宗教の時代だと思うけどどうか。まぁ20世紀の後半から宗教の盛り返しというのは凄い物があってアポロ計画が打ち切りになったのも宇宙関連の予算が伸びないのも微妙に影響を与えている。エヴァが宗教がらみの設定だったのも時代の流れだった。オウムが席巻したのも他の新興宗教が様々登場しているのも記憶に新しい。9.11だって宗教戦争の側面がある。そしてパワーフォーリビングが堂々とCMで流れるご時世なのである。きっと宗教関連の経済規模なんて統計が出ると途轍も無く大きくなるんだろうが、この分野は今世紀の成長分野などと分析される事になるのだろう。経済での成功体験と一緒にされると大変困ると思うけれど実はもう後に引けない地点に踏み入ってしまってるのかもしれない。もちろん「水からの伝言」が流行るのも無縁ではない。今世紀中に科学が宗教に飼いならされる事態も想定できなくもない。

アフィリエイトもねずみ講じゃないけれどパイが増えなければ話にならない

ということ。一千万人位参加者がいれば今の10倍くらいの収入が確保されるんでないの。て今どのくらい?もしかすると100倍か。

けどパイを増やしたいと社会は思っているのか?そう簡単に収入の道が開けると労働力が確保できなくなるから困るのか?

アフィリエイトって結構敷居が高い。このはてなもデフォはダメで有料会員かFC2使ってやってくれというスタンスでしょ。まぁ専門業者に入り込まれるのがイヤなのでしょうが。するととても一千万とかいう数字にのらないわけ。ブログを開設すると自動で付いてくる位にならないとそうはならないでしょう。パイが増えなければアフィリエイトで儲けられる人は一万PV/日位の人でしょう。ネット企業が推進しなくて誰が推進するんだろうと思うけどこのようにネット関連企業でさえ保守的なのが日本の現状と。ビデオコンテンツもそうだけどこうして旧態依然とした社会体質が日本を衰退に追い込んでいるという事は明白なのに誰もが指をくわえて見ているだけなんだから救われない。日本沈没は始まっているよ。

あるある批判をするメディアのおかしさ

みんな前科があるのにそれを棚において全力で批判なんてチャンチャラおかしい。盗人猛々しいと余り変わりないじゃん。そのメディアで飯を食っている芸能人も批判する資格なし。爆笑問題の太田もその問題に気づいて逡巡していたが筋を通すなら解散するしかないけど。みんな建前を通そうとするからおかしな事になる。事実を吐けよ。メディアは嘘ばかりついてきました。テレビなんて99%嘘で成り立ってます。いやみんなそんな事知っているけど公式には表現できない事のねじれが。王様は裸なのにみんなが裸じゃない見えない衣服なんだと主張する。やっぱり裸でしたと言えないばかりにねじれが大きくなる。嘘でいいじゃん、みんなそれを楽しんでいたのに捏造なんて野暮な事言うなよ。大ヒットして商品品切れ社会的障害を引き起こして普段は参加していない頭の固い人々が文句を言って来ていつものゲームの規則が破れてしまったというだけじゃん。温室的な平和な楽園が大反響という嵐に遭って破れてしまった。何か様々なものをきちんと整備しようとしたらいろいろな矛盾が生じて来てしまったという事かもね。メディアも芸能人もみんな今回の騒動の参加者なんだから批判なんかしてないで一週間位の謹慎をすればいいのだ。メディアは一週間エンタメ系番組の中止、芸能人は一週間活動禁止。それ位のけじめを見せてくれよ。

2007-01-28 川に落ちた犬は棒で叩け、美しい国の真実

女性は「産む機械、装置」は問題か

冷静に考えれば確かにそうなのでそれ自体に問題はないはず。では何が問題なのか。一体誰が問題にしているのか。これが何時もはフェミニズムなんて仮想敵にしている痛いニュースで取り上げられているのも興味深い。安倍政権発足時のニートは強制徴農で反安倍が鮮鋭化したのだろう。それほど騒ぐ事でもないのにこの時期に待ってました罠にかかったな状態である。それ今だそこを突けと、こういう時期だからもう少し気を付けるという体制が取れないのもなんともあれだが、それが出来ないという事がダメ政権を表しているという事でしょうか。

Power For LivingってまだCMやってるのね

これは流行るのかも。この信じられるものが無い時代に何かに頼れるものが在るというのは圧倒的に強い。こうしてオウムも若者を惹きつけた。宗教のビジネス化、グローバル化がやってきたという事か。

どうして路上駐車するのか

それは車が止められるスペースがあるからです。日本では有り余る道路財源のおかげで道路はどんどん拡張されていったがどれも中途半端で片道2車線も途中で終わってしまったりする事が多い。そうなるといずれ合流しなければならない車線は交通量を増やす目的を果たせず駐車場として機能位しか果たせない。このような道路が全国にありこれでは駐車禁止の取締りを強化しても実質道路が死蔵している状態になっているだけである。つまり車線にも駐車場にも利用できないデッドスペースが全国に出現した事になる。この空間は日本の全道路の30%位(目分量)になるのではないかと予想される。一体日本は何をすればよいか。ここは道路を縮小することを提案する。無用に広げた道路を公園にすればいい。街路樹を植えればいい。片道2車線を1車線に。道路上にシケインを設けるのも有効である。そうすれば2車線の道路もS字カーブ連続する道路に変身してシケインに街路樹を植えれば都市緑化と一石二鳥である。直線道路はスピードが出すぎるので危険なのだ。F1を始めFIAが公認するレース場も2kmを超える直線は禁止されている。一般道路でもそうすべきである。そうすれば居眠り運転もなくなり、居眠りした奴は2km毎に障害物にぶつかって死ぬので他人に迷惑をかけることもなくなる。実に名案である。一石三鳥にもなるこの提案が通るような世の中になって欲しいものだ。車が速く走れなくなると自転車も堂々と車道を走れるという事で一石四鳥かもしれない。車も自転車も課税を増やせば道路から車はどんどん減るのである。いつまでも車メーカーに顔色を伺うような政策を続けるべきではない。日本もいい加減自動車立国から脱却しないと未来はないよ。

自転車は歩道を走れと、では歩行者を何処を歩くべき: 極東ブログ

学校給食費もNHK受信料もシステムの不備が招いた社会の責任

払わなくてもサービスが提供されるという事。これが維持できた事が日本の美徳のように語られる気持ち悪さ。単に日本人頭悪いという事だけのこと。こんなんで国際感覚が養われるのか大いに不安である。大多数の人間は国内だけで完結した仕事をしているから関係無いのさというのは事実だからどうでもいいけど。だから不払いは問題を明確にしたという意味では偉いのである。みんなが払わない方が本当はいいのに。そうすればシステムが完備されるのである。これは一種のセキュリティホールでしょ。それを個人の責任に帰するなんてどうよ。これはセキュリティホールを暴いて有罪になった事件と同じ構図だな。それが美しい国と結びついてこれまで出来てきた慣習を美徳とする。スポーツ選手がどんどん世界で活躍する時代にそれはいかがなものかと思うよ。日本人は小学生にも分かるルールを制定すべし。そう言うと憲法改正論者になってしまうのだが。

アルファブロガーはネットカーストの始まり

オメガブロガーから入門してアルファブロガーになるのが将来の夢です、という時代がいつか来るのか。

掟の門の解釈など

よく言われているのは男はなぜ掟の門に入らなかったのだろうというものだ。何回も通っているうちに門番と身の上話をするようになったりして門番は言葉ではいけないとか中にもっと怖い奴らが控えていると言いながらも体を張って止めようという気配はなかった。だから男の方に入りたい気持ちと入りたくない気持ちの逡巡があったに違いないという解釈が出てくる。挙句の果てに男が死の間際まで入りたいという欲望を保ちながら門番にあれはお前だけの門だった、だから誰もやって来なかったなどと言われてしまう。では門番はなぜ今はダメだなどと言ったのか。つまり男が乗り越えなければならない試練というわけだ。ダメと言われてもそれを振り切って行く決意を試された?迷いがあるうちは入らせない役目。

 そういう風に考える事も可能だ。でもそれは本当だろうか。男にとって掟の門に入ることが本当に幸せだったのか。もしかしたら門に入ったら男は死んでいたかもしれない。なら入らずに寿命を全うしたのは幸せだったのか。いやいや、ただ生きていたって望みが叶えられなかった人生なんてましてや自分の迷いでやらなかった行動から後悔だけが残るならやってみたほうが良かったのではないか。でもそう考える事自体どっちにしても後悔する人間なのでは。つまり入ったら入ったであの時入らなければこんな目に合わなかったと思うかもしれない。なら今の境遇も入らなかった事を後悔する事に何の意味があるのか。自分を全肯定する事が正しい行動ではないのか。どっちにしても過ぎた事。それが気持ちいい死に方という事。それは死ぬ時に思う事。まだ生きていく人間にはまた別な事。

2007-01-27

iPhoneで携帯は一気に第四世代に

iPhoneが日本で使えないとかGSMなんて古いとか言われているがGSMはただの繋ぎでいずれその機能をはずしてしまうのではないのか。本命はWiFi接続でありネット電話の普及を一気に進めてしまうポテンシャルがiPhoneにはある。もし日本にGSM機能を省いたiPhoneが入ってきたら日本のホットスポット環境が一気に進んでしまう可能性だって無きにしもあらず。大都会だけでもインフラが整備されれば都会派の携帯電話という地位をあっという間に築き上げてしまうだろう。まったく世の中何が起こるか分からない。

信号は歩行者を守る為じゃなく車を優先させる手段だ

日本遍く信号が行き渡っているが歩行者の為に設置されていると思っていませんか。それは正しいのかもしれないがよく考えてみると信号というのは車優先という事に保障を与えているような気がする。よく考えてみよう、もし信号がない横断歩道で人が渡ろうとしたら優先権は人にあって車のほうが止まらなくてはいけない事実を。そうだとしたら待たせるばかりの中々青にならない信号なんて歩行者無視の車優先の為に作られたとも考えられる。もちろん事故があった場合優先権どうのこうのより死んでしまう可能性が高い歩行者を守る為に信号が設置されたのだろうが。しかしそれで運転者は信号を守っていれば歩行者を気にしなくてもいいというモラルハザードが生じてきたのではないだろうか。信号優先の道路行政が昨今の悲劇を生んでいるとも言える。全国の道路から信号を減らし横断歩道では車のほうが止まらなくてはならないというのを再認識させなければならない。きっと信号がない横断歩道なんて滅多にないから忘れてしまったのではないのか。

 今まで道路財源という湯水のように使えるお金を使って日本全国に信号を設置し続けてきたのがこのような結果を招いたのかも。

小さい時から専門教育

スポーツでも流行だが早い時からやるから才能があるかどうかは見切り発車となる。だからその人がうまいのは小さい頃からの訓練の賜物なのか才能なのか分かりづらくなる。しかし頂点を極めようとする時にそれが現れるような気もする。訓練だけでは届かない高みが存在しそうだ。もちろん才能だけでもそこまで行けるわけも無い。まぁそれでもそこそこ行けたなら投資は成功ということで何も問題はないけれど。

犬の想像力

犬が喜んだり悲しんだりする事は犬を飼ってる人だけに限らず自明の事のよう思われる。犬は人の出かけるそぶりをいち早く嗅ぎつけるとそわそわしだし落ち着かずその辺を駆け回ったりする。こちらが嫌な事を思いついて(犬にとって、耳の手入れとか)呼びかけると決して近づいて来ない。状況的に見て今呼びかけるのは何かあるって警戒するわけなのだ。まぁこっちも演技下手だから見破られるだけなのだが、それでも犬の想像力だってバカにできたものではない。やはりこの想像力っていうのはイメージがパァっと頭の中で広がるのだろうか。うれしい時は今までのうれしかった時の経験が心の中で一枚の絵のように広がってそれ以外考えられなくなってしまう。いやな事があった時はその時の状況やものがキーになっていやなイメージが広がる。パブロフの犬という実験があるがベルが鳴ったらよだれが出るという機械的な反応も何回も繰り返せば自動的に反応してしまうというのは人間にもあるがだからといって犬が機械的と思っては間違える。犬の心の中も豊かなイメージの世界があるはずなのだ。

給食費とは受信料の事か

どちらも払わなくてもサービスが受けられる。片や学校に行くと払わせられるし方やテレビを持ってると払わせられる

2007-01-26

となるとパソコンの生き残る道はスーパーコンピュータ化

一般ユーザーがiPhoneの様なもので日常レベルでは済ましてしまうとパソコンはまたホビーの様な存在になっていくのかもしれない。するとパソコンはそういう人たちに向けてスーパーコンピュータ化するしかないのかもしれない。そこで日常を遥かに超えるレベルでの画像や音楽等をシミュレートしていくのかな。

iPhoneのシリーズ化予想

iPhoneが見事にスタートアップすればシリーズ化する事は間違いない。より高機能大型化したものと省機能小型化したものが考えられるがあくまで携帯電話ではない装置としてのiPhoneは見る事の前提の装置である事を運命づけられているだろう。つまりポケットの中でタッチタイピングしたい人は普通の携帯を使えというわけだ。するとより高機能の方の方向性が重要視されることになる。それは今パソコンでできる事は全てできるようなものになるのかもしれない。ポケットの中の装置で世界中の情報にアクセスできて利用できる。キーボードやディスプレイとつないで快適さ大画面も楽しめる。買ってその場で使えるコンピュータである。画像の編集も音楽も文書作成も何でもできる。人間の能力を拡大させる情報措置であるだろう。アップルは本当にパソコンをこの世から一掃するに違いない。

地球の重大セキュリティホール

むかしへそを押すと壊れてしまうロボットというのがよくあったが

あなたがそのような地球のへそを偶然見つけてしまったらどうするか。

1.一にも二にも無く押す

2.その時の為に秘密にしておく

3.重要情報としてそれなりの機関に売る

4.世界征服の切り札にする

5.誰にも見つからないように封印する

6.あっしには関わりのねぇ事でやんすと無視する

ITとデザイン

どうしてデジタル文書フォーマットはW3Cのような共通規格団体がないのか

まぁ歴史があるから各種フォーマットが乱立してPDFのようなものが生まれて来た経緯だろうが、やはり印刷されたもの編集できないというのが前提で作られているので無理矢理編集しようとしても重かったり使いづらかったりする。もっと最初からさくっと編集できる軽いフォーマットが求められるている。それがXMLですって。未だにXMLって何が世界の常識。ではXMLでイラストレータのような複雑なデザインを表現できるのかというと無理でしょう。あくまで文書構造化の為の規格であり自由度が増していると言ってもそりゃ無理。結局デザインの表現を追求しようと思ったら共通規格なんて無理なんでしょうかね。

 結構ITの世界とデザインの世界は相反するものだったりする。グーグルのデザインが素晴らしいかというと疑問だし、でも余りクール決め込んでも万人に受け入れられるものではないかもしれない。Linuxもデザインどうよ。アップルだけがITとデザインを高度にバランスさせているとも言える。プログラマとデザイナーはともに対極の極北の地にいて相見えないということか。これは隣にいるかどうかでなくて考え方にコミュニケーションエラーがあるに違いない。

例えばフォントとか

世に幾何とあるフォントで使われているフォントがないという事は常に起こる。これをインターネットを通じて表示できればこの問題は解消してしまう。パソコンに無いフォントネットを通じて表示する。なんて素晴らしい。それでは日本のようにフォントを売って商売している所は困ってしまう。そこは様々な商売が取っている方法で見るのは無料だけど印刷したい時は有料にすればいいのでは。家庭用プリンターは月100円。10人以下の事業所では月千円。100人以下の事業所は月1万円。また印刷のように大量に利用する所では刷った枚数で加算してもいいかもしれない。

2007-01-25

この世の99.9%位はやる前から決まっている事

だから退屈でつまらない。決まった設計図に対してトレースしていく事、間違いなく正確に。そこからはみ出たモノは間違いと棄捨される。その中のほんのわずかなモノだけが良さを認められて浮上する。それは社会にとってセキュリティホールだがそれが社会の変革を齎す。通常は厚い壁に阻まれて突破する事なんかできやしない。しかし完璧な防護壁が施された社会はやがて沈滞し衰退し滅びるだろう。

これじゃ、アップルの1984だな。

もうパソコンは一部のマニアのものではない

ていう話は5年ぐらいの前の話か。各機器との接続も電源ONのままつなぐだけ。一通りのセッティング&メンテナンスができなくてパソコンを使ってる奴は死んだほうがいい。死ね死ね死ね。

2007-01-24

ここに何を書いてもいいスペースがある

考えてみれば何を書いてもいいというのは怖いものだ。ここに何かしらの予告などすると逮捕されたりするわけである。だからこの空間は日記でもないし小説でもない。やはり新しい空間としか言えないのである。それは日記のようにも小説のようにもする事もできるがそれだけでもない。私は見たという暴露本のようにももちろん使える。しかし今まで少ないというのはやはり金にならないからか。もちろん警察沙汰になってしまえば個人が特定されてしまう危険性が高いということもあるだろう。プロバイダだってどこまで信じられるかなんて分かったものではない。

いい加減を許さない世界はやがて遊びを失って崩壊する

遊び(誤差)を許さない世界は脆いですよ。耐震構造だってズレを計算して成立するんです。全く誤差を許さなかったらたった一つの間違いで世界が崩壊してしまいます。そんな緊張感に人間耐えられると思いませんが。今回のあるある大事典中止も『視点・論点「まん延するニセ科学」』が微妙に影響を及ぼしたような気がします。あんないい加減な番組が無くなって良かったと思う人がいる一方で楽しみにしていた番組が無くなったと残念がる人も多いでしょう。何でも厳密に杓子定規で禁止していたらなんとつまらない世の中になる事か。まぁ心配しなくてもならんだろうが。今回も行き過ぎがあったからこういう事になってしまったという事だろうがこのバランスを保つのは思ったほど簡単でないはず。いやこういう中止になったりするサイクルこそが祭りの演出なわけでこういった禊ぎというかイベントが自浄作用として日本人には必要なサイクルなのかもしれない。そう考えれば脱線事故も耐震偽装も必修漏れも不二家問題も談合問題も定期的に祭り的現象として理解するものなのかもしれない。

自分はどこまで分析された存在なのか

自分よりも自分を知っている存在。あなたは今こういう状態でこういう経過中の人間なのです、とあっさり分析されてしまう。何をやっても手のひらの上で次の行動までも予測されてしまう存在。ブログにもそういう視点が存在する。ブログ初心者の記事をみて今この人はこのレベルかと思うわけである。なら自分もある高見の視点から見下ろされている存在でしかない。そういう時のエクスキューズも用意しておくの自己防衛できるブログの嗜みというものでございます。こうしてブログもお茶の作法のようにブログの作法として洗練されていくのである。

面倒くさい面倒くさい

生きてるのも死ぬのも面倒くさくなってきた。どうすりゃいいのさ、おいらの人生。風に流され気の向くままという生き方が許されない現代において生きたいように生きる事さえ多大な苦労を強いられる。まったく。矛盾多き世の中なり。

関西テレビの謝罪だけど

そうそう納豆増産計画しちゃった業者も多かったろうから、関西テレビは短期的なダイエット効果に捏造データが混じっていた事は事実ですが高タンパク低カロリーというダイエットに向いた食品であるのは間違いないので引き続き納豆を食べましょう位のフォローが欲しかった、というのが納豆関係者の想いであろう。そうしないと損害賠償するぞ位の圧力があってもいいのかも。

常識は社会に有害か

常識もレベルがあってより複雑な常識は複雑さを理解しないと身に付かない。リテラシーというものも身につけたら付けたで冷ややかな無感動人間を育てたりする。そして何をやっても無駄無理という結論に達し無気力人間を生み出しかねない。ならば何も知らない方が学ばない方が社会は効率よく回るに違いない。その目的は失っても回っていれば良しとする世界。世界はその歯車を止められないと。

生まれて来てすいませんシミュレーション

どう考えても余計者でした。これ以上皆様方にご迷惑をかける事は忍びなく耐えられるものでないことに気づきました。この世界に私の居場所はありません。ここはひとつひっそりと一人静かに消え行くのみが正しい行いなのでしょう。しかしそれでは何の為に生まれて来たのか納得ができません。そこで私の存在を許さなかったこの世界も一緒に消えてしまうというアイデアに打ち震えました。そんな事をしても許されるのだろうか。しかしその前にだいたい実現可能なアイデアなのかという事を検討しなければなりません。世界を消滅させるような強力な手段が手の内にあるのだろうか。どう考えてもあるように思えません。平凡な一人の人間がそのような手段を持ち合わせていたら世界は何回滅んでいたか分りません。そういうのは世界の最高機密、米軍でさえ持ち合わせているか分らないくらいですから。どう考えても無理。

 ならば改心して悔い改めて自分を変えてみたらどうかという提案はあっさり却下されなければなりません。なぜなら今でもまったくそう思っていないからです。そのような人間はやはり一人死んでいくほか手はないのかもしれません。そうやって何処かに命を預けた人間が余命くすぶらせて生きているのがこの世界を構成しているのかもしれない。こういうのもどこかで物語にかすめ取られた人生観なのかもしれないな。

親がなぜ子供に勉強しなさいというか

あなたのためよ。あなたの将来に少しでも有利になるよう競争に勝ち抜くため。少しでも成功する確率を高めるため。あなたの成功を願っているから。そしてあわよくばあなたが幸せになってお金持ちになってくれたら少しでも私にも分け前をおくれという自分の為でもある。

2007-01-23 遠い未来は遠い過去と区別できない

世の中複雑で面倒だ

どうして人生こんな面倒な手続きを経なければならないのだ。苦労しても報われるとは限ららない。何が本当かなんかどうせ分からんのだろう。そうならシンプルにいこうよ。いいかいコインを投げて表だったら幸せになれる。裏だったら不幸になる。これでどうだい、とーてもシンプルだろう。じゃ、いくよ。そしてコインは宙に舞った。(完)

社説がつまらないわけ

大人は誰も明解な解答を持ち合わせていないという事ですね。まぁ大企業に勤めているエリートといわれる人たちに。どうしたらいいかわからない。だから予定調和的なありきたりな意見しか言えない。社会の末期症状ですね。やっぱり日本終了。ヤマト発進!

経った時間

あの時そして今。この経った時間は何なのだろう。私はその間目覚めていただろうか。意識障害を起こしたわけでも記憶喪失になったわけでもないのにずっと継続性を認識しているのに荒いざっくりとした感覚しかない。途切れ途切れ想い。それは人生がつまらなかったから、そうかもしれない。大して楽しくもない人生だったな。がっくし、まぁそんなもの。

自動車が今でもある程度のヒット商品であるのはマニュアルが必要ないという事も大きい

新機能満載で分厚いマニュアルを読まなければ使えないというのでは困ってしまう。誰も車にそんな機能を求めていない。ビデオは録画が出来れば良い。携帯は電話が出来ればいい。そこを忘れてはやはりダメ。携帯なんかどんなに機能満載でも一生使わないような機能ばかりあるのも万人向けだから仕方ない面もあるが求める機能が多機能の中で見つけられないという事態にも陥る。

真実はいつだって我々の手の届かない所にある

では手の届かない所にあるものが真実か。そうかも知れない。直接見えないモノを手探りで探ってああだこうだ言い合うのが科学です。ある人はそれを球面と言いある人はそれを立方体という。またある人はそれを球面と立方体の性質を併せ持つ未知なる物体という新機軸を打ち出す。である人は見えないモノは実際分らないのだから我々は何も知る事なんかできないと不可知論に行く。

過ぎ去った者と今行っている者の視点の違い

そりゃ、違うよな。今がどんなに大変か、事件は現場で起こっているんだ回想の中で起こっているんじゃない、というわけで大人が勉強はやっといた方が良い後々後悔するよ何て戯言は聞きたくないのでそれは過ぎ去った過去とならなければそこまでの想いは伝わらない。こうして若者は老人の話を聞かず対立する。超えられない溝が存在する。若者が一旦老人となって人生の残り少なさを感じ取ってまた若者に戻れれば事態は変わるかもしれない。でも戻れると分ったら切迫感はないので本人には知らせないで本当に老人になってもらうしかない。ではその老人は現実とどう違うのか。じゃ今の自分が若者になったらもっとがむしゃらに何かするのか。でもそしたらまた有り余る時間が自分の目の前に横たわるわけだがまだ時間はあるさと高をくくるか。これじゃウサギとカメのレースだな。何回戻っても時間を無駄にするだろう。日常とはそういうものだ。人間の問題か。

仕事と詐欺の違いは何か

テレビ局とは詐欺ではないのか。しかし金が回る所にみんなが集まり雇用を確保している。慈善事業か。仕事はだいたい詐欺的側面がある。効果があるのかないのか。この広告に効果はあるのか。それに何億円という金が回りだす。ビバ資本主義。詐欺もニセ科学も否定できない世の中で我々はどう生きるかという問題。

2007-01-22

歳を取ってからもっと勉強していけばよかったと思う心は通じない

回想としてはそう思うけどが当事者としてはそう思わない。そんなの人事だからそう思うのであってやってる身としてはこんなつまんない事やってられねぇと。それが若者と年長者の永遠の断絶の構造というものか。若者にとって歳をとるという事は頭で分っても理解する事はきっと不可能なことなのかも。自分が歳をとるなんて保証は何もないわけだしそれは生き残ったものの感想なのだろうか。

そのまんま東は当選したら改名するのだろうか

この世界の仕組みが知りたいから

みんながみんなそう思っているわけではないだろうが、だから限定的な答えにしかならないが。時計がどうやって動くのか見たくてバラバラにしてしまう。でも最近の奴はダメかもね。しかしどうやってこの世界ができているのかは多くの人の興味の対象だ。その取り組み方も人それぞれだ。ある人は機械をバラして。ある人は人間関係を観察して。ある人は因果関係を観察して。様々なアプローチからこの世界の解明を試みる。直感的に掴む奴。何事も確かめるまでは信じない実証主義な奴。ある程度自分の頭で考えれば見えて来るものもある

 ある時綾取りをしながら思ったものだ。自分で一つぐらい新しい技を編み出せないものか。半日くらい悪戦苦闘してみても何一つ新しい技を編み出せず挫折した。こういう歴史の積み重ねっていうのは凄いな、と。こういうのって代々積み重ねて技が編み出されていくものだろう。基本は一人の天才が編み出したのかもしれないがそれが歴代の人々によって積み重ねられてきたものではないか。そうなるとたった一人で対抗するなんてとても無理。一番いいアプローチは綾取りのこれまでの技を全て習得してそれを徹底分析することだろう。だから既存の研究学んでその上で考えた方が効率的なのだ。そこに自分一人で考える事の限界と先人の研究を利用する事の理由がある。勉強するって概ねこういう事か。

子供の「どうして勉強しなきゃいけないの?」→ 勉強することの具体的で直接的で切実なメリットを説明 - 分裂勘違い君劇場

いつもはOKだったのになぜ今回はダメだったのか

こんな大きな問題になるなんて、捏造だっていつもやっている事なのに

こんな大きな問題になるなんて、消費期限だっていつもやっている事なのに

こんな大きな問題になるなんて、必修漏れだっていつもやっている事なのに

こんな大きな問題になるなんて、耐震偽装だっていつもやっている事なのに

こんな大きな問題になるなんて、速度超過だっていつもやっている事なのに

一体いつもと何が違っていたというんだ。

それが微妙な誤差なのか神のいたずらなのかタイミングの問題だったのか。あるあるの件では微妙に不二家問題が作用したっぽい。それに問題の絶妙な位置というのもあったかもしれない。ようは納豆と言う商品の日常での位置づけ。言われているほど食べられていなかった。アプローチの手軽さ。毎日2パック誰でもできる。だから信憑性に余計に疑いの目がいったわけで、これが毎日10kmマラソンだったらそれは無理と諦める人が多かった。多分絶妙なツボに入ってしまって大ブームになってしまった。こんな多くの人が実践してるのに効果が現れない、疑い、謝罪、祭りという経過。ま、いくら捏造しても誰も注目しない番組だったら問題にもならないわけでヒットを飛ばす事の怖さをまざまざと見せてくれたというのが今回の事件の見方でしょうか。

みんなやってるよ

電車の速度超過みんなやってるよ

建築の耐震偽装みんなやってるよ

食品の賞味期限無視みんなやってるよ

テレビのデータ捏造みんなやってるよ

建設の談合みんなやってるよ

みんなやってるのにどうしてうちらだけ捕まえるのや。

スピード違反のように運が悪かったで済ませましょうか。

封建社会に個は無いとよく言われる

しかし辱めを受けたとか武士として屈辱であると言った場合は個というより人間として、個人でなく一般の人間としてあるいは武士としてあってはならない事ということだろうか。ていうと封建社会は究極的なマニュアル社会なのか。まぁ確かに仕来りとか作法というのはマニュアル以外の何ものでもない。仇討ちなんかも個の復習というより周りからの要請や圧力の方が強いのであって本人がやる気がなくてもやらざるを得ないという事もあるだろう。しかしそうした衣を身に纏ったといってもその中で個は確かに生きていたというべきで決して個が無かったわけではないだろう。寧ろそういう個があるから戒めとして主に仕えるという事が奨励されたのである。

2007-01-21 おぼろ陽に枯れ木立窓の掛け軸

満月の異常

満月の夜は明るい。それは本当に昼間のように明るいという形容が嘘じゃないように明るい。山並みの木々に色も分かるくらい明るいのだ。狼男になって気が変になるというのが分かるような気がするくらい。もちろん昼間のように明るいというのは言葉の綾だ。しかし夜は暗いという認識を改めなければならない程の明るさという意味で昼間のようなのだ。明るいけど昼間の明るさとはまるで違った冷たい明るさがその異常性が人の気の異常性を引き出すような感じがするのである。このまま出かけていってピクニックでもできそうな気がして来るのである。

テレビに捏造はつき物

テレビは全て捏造と言える。例えば市民グループが署名を市長に届けたなんて場合も手渡している所がニュース映像として流れるがあれも捏造ではないだろうがヤラセである。広い意味ではヤラセも捏造である。手渡した瞬間を捉えなかったのだからもう一度お願いしますというのはおかしいではないか。泥棒が盗みに入った瞬間を捉えられなかったからといって泥棒にもう一度現場で再現してくださいとお願いしますか。この手の映像を見るたびにテレビに合わせて演技する態度にむかつくのである。大統領と首相がにこやかに握手とか何々の代表が首相に抗議文手渡したとか絵作りの為にわざわざカメラの前で演技させるなんて過剰演出だ。プロなら実際の瞬間を捉えろよ。シルクロードのやらせだってテレビ局のそういう体質伝統が生んだものであり、それはテレビ創業時からのお決まりでは無かったのか。捏造やヤラセと言い方に問題があるというならショーであるプロレスである。お決まりなんだからテレビは事実を述べていないなんてお笑いだ。あれはそういうルールでやるショーなのだ。真面目に真剣勝負じゃないと言う方がどうにかしているのだ。捏造は撤回してテレビはプロレスだと言っておこう。

健康に良い納豆とスパイウェアを防ぐスパイウェア対策ソフトの類似性

どちらもどこまで効果があるか分からないし入れても害になるわけではない。

文学とは何なのか

別に文学でなくてもいいけど小説とか文章全般に言えることでこれまで誰も光を当ててこなかった事に光を当てるという事はあるだろう。でもそれだと単に空白域を埋めるという作業になってしまうが同じ所を指し示したってより高階領域を描いたり様々な視点があるだろう。現代美術がキャンバスから離れてしまったように現代文学がもう文章で表す事は何も無くなったのかどうかは知らん。もしかして現在の文学は行動で表現されるのかもしれず誰にも知られていない旅人がその表現者なのかもしれないしもしかして政治的実践活動がその体現者なのかもしれん。多分そんな事は今から100年200年位経たないと分からないのかもしれんけど。

日本という纏まりの良さ

一国がこんな話題に一斉に集中してしまうと言うのも可笑しいというか空恐ろしいと言うべきかそれこそ軍靴の響きが聞こえてきそうw。納豆騒動にしてもあんなもの信じないという人も巻き込んで話題の中心になってしまう所が日本的である、という私もブログで話題にしてるし。他の国だったらそんな事あったのという位話題というのは分散的多様性が確保されているものではないのか。やはりこの事態を回避するには一刻も早く道州制を導入して違う道州では同じ番組は流さないテレビも新聞も違う系列にして情報を意図的に分断する必要がありそうだ。何も情報を遮断するという事ではなくて道州ごとのオリジナルを創出しようという事である。こんな同様の形態を保っていては種の多様性を確保できず滅びる時は一斉に滅びるという単一種の運命から逃れる事ができないのだ。納豆を話題にしたら負けかなと思った人の勝ち。

不二家の件で賞味期限が注目されているが

ではどこかが賞味期限を1日延長すると公言して使用する会社が現れたらどうか。賞味期限はあくまで目安だから違法性はないだろう。なんと言っても本来廃棄され損失計上するものが商品になって利益を生むのだから利益構造に大きく影響しそうである。オープンに公表すれば何も問題にならないはずである。その分価格を下げて提供しているとなればもったいない精神にも合致して好評のうちに購買者に迎えられるのではないか。これがずるずると2日の3日もなし崩し的になってしまうのが厳禁なのでそれができないような物理的仕組みを作らなければならないのかもしれないけど、人は禁止的行動にはモチベーションを上げる事はできない。もっと大きな意味でムーブメント的意味合いの意気投合が必要である。まぁそこに何を見出せるのかが経営者の仕事っていうやつ?

不二家の発覚と「あるある大事典」の捏造

片やデータ捏造、片や賞味期限無視。しかし不二家は再建も危ぶまれているのにテレビ局の方はまたかという雰囲気。この社会的制裁の非対称性はどこからくるのか。規模の違いスケールの違い。食品製造会社と報道マスコミ会社との違い。しかしどちらが影響力があったかといえば「あるある大事典」であろう。不二家は面白おかしく伝えられているが実際の影響力は中堅的な洋菓子会社1社が製造を中止しても社会的影響は限定的である。まぁあるあるの方は納豆で体に害があるという事ではないので白インゲンよりマシと言えばマシなのだが多くの人が納豆が入手困難になったり工場がフル生産に入ったり各所で混乱を招いた。まぁ今回も厳重注意や番組中止程度でお茶を濁すのだろう。

 しかし今回の発覚が不二家においていい加減だった体制が注目されて厳格性というのが社会に問われていたのだがその見直し作業の中であるあるのデータ捏造が発見されたのであればまた日本の不思議をまざまざと見せられたわけである。というかこれでは風が吹くと桶屋が儲かると変わらん。

あなたは日本に近代がやって来たと勘違いしていませんか

近頃日本には中世が未だに居座っているのではないのかと思うことが度々ある。この物質主義の精神の病んだ今の日本に?と驚く人もいるかもしれないがそうなのである。昔の日本は思いやりがあって優しい人々ばかりだったという幻想に陥りそうになるがそんな事は無い。追いはぎ盗賊人攫い殺しは珍しい事ではなかったはずである。周りの風景は変わっても日本人の心情というのはそう変わっていないのではないのか。赤の他人を信じず、余所者を排斥することで村社会を守るという保守的空気。近代的法整備が為されても芯の部分では変わってない人間。思えば遠くに来たどころか一歩も踏み進んでいないのでは思わせる瞬間がある。私達は同じ所に踏みとどまりじっとしているのに周りの景色が過ぎて行ったのだ。自分では一歩も踏み出していないのに周りで勝手に色々な事が起きて流されていく。そこには進歩も進化も何もなくて周りに合わせている人格だけがある。未だに呪いや祟りを信じたり水信仰が生きていたり奢れる者は久しからずの世界観だったり科学の装いを身に纏っていながら中世の人間から何か優劣を競える部分があるのかと言われれば心もとない。人間なんか進化しないんだよという世界観を認めればそれはそうなんだけど。日本は未だに中世だというのは暴論だろうけど小手先の技術だけが進んだだけで人間性は何も進化しないというのは悲しい事実かもしれないというのはここだけの秘密。

夢と光芒の80年代

あの頃は確かに現実だったのに二度と戻れない日々。何も楽しい時でなかったのに夢だけを食って生きていた時代。何一つ実現しなかった夢。といっても何か具体的なそれがあったわけではないけれど。夢見る事に酔っていたみたいな。ネットラジオで80年代の音楽を聞いているとその頃の想いが甦ってくる。何かがあったわけではない。その頃の精神状態が風景と一緒になって甦ってくるだけ。ウォーターフロント、倉庫ギャラリー。何か新しい何かが始まるように見えて結局何も生み出せなかったような時代。何かを生み出したのかもしれないけれど私はそれを知らない。

テレビの力

テレビの力は絶大だよ。だからかつて社会主義の国々では全てテレビを押さえていた。だからテレビ局はできるだけ影響力を出すような番組を避け毒にも薬にもならないようものばかり流し続けてきた。しかし人が一斉に靡く様は麻薬のように人を狂わせる。してはいけないタブーはリークのように染み出してくるのです。そして時々捏造のような事件を起こす。それは繰り返されてきた歴史。

人工無能化する社会

事件や事故が起こると当事者を徹底的に叩く。なぜそうなるかというと通常は行ってはいけない行動が解禁されるから、つまり祭りなのだがこれが自動化されているからだろう。以前株取引でプログラム取引が市場の連鎖反応を引き起こすとして問題になった事があったが今は社会全体でそのような事が起きているのかもしれない。何かが持ち上げられれば情報は一斉にそこに集中して根掘り葉掘り掘り下げられる。一方問題が発生すればどんな些細な事も問題として糾弾される。これが誰にも止められなくてプログラムとして作動してしまう。一人ひとりが馬鹿馬鹿しいと思っているのに誰にも止められずに社会全体で動いてしまう。これを止めるには社会のシステムを解体しなければならない。もちろんそんな事はできないので問題点だけを取り除いて既存社会を改良しようとするのが筋だが今の所これを問題として明確化、名前をつけて分類化するような方向には進んで無いように思える。ではこの状態を良しとして放置しているのか。だれもこの複雑化した問題を直すなんて、恐ろしく巨大で複雑なスパゲッティプログラムのバグを修正するような事だから誰も触らぬ神に祟り無しを決め込んでいるのかどうか分からない。

2007-01-20

ストーリー拒絶症

色々なストーリーに晒されてくるとストーリー拒絶症になってくるのかも。まったく受け付けないわけでもなく嵌れば嵌るのだがそこにいくまでの敷居が高くなるというか閾値が高くなるというか。もしかして頭が単に固くなってきているだけかもしれない。

賞味期限偽装と耐震偽装の共通点

誰も人が死んでない。まぁ耐震偽装の場合はこれから死の危険性があったから事は重大と言えますが賞味期限の2〜3日の誤魔化しで人命に関わる事じゃない。それだけじゃ弱いっていうんで細菌数無限や3秒法則のネタまで出てきますが何かお笑いのよう。耐震偽装の時も思ったけど今回も陰謀が蠢いているようにしか思えない。

 でどういう陰謀論かというと耐震偽装も今回も俺たちが発端で噂を広めたという主張する組織が現れるとする。そして問題ある企業にお前達も同じ目に遭いたいのかと脅迫して金銭を巻き上げるというビジネスモデルが想定されるわけですね。

知ってるは知らないより偉いのか

と言えば偉かねぇよ、と賢明な諸氏なら返すかもしれませんが何となく上の気分というか先を行った感というか知って見えてくる世界があるんだぜ、な所は押さえておきたい所だろう。

 しかし知って見えなくなってしまう世界というのは余り語られてこなかったと思う。それは知る事は良い事、知識を有りがたがる風潮はトリビアのように自嘲気味な時代になっても皆無になったわけではないからだ。例えば自転車に乗れるようになった人は乗れ無かった時の感覚を二度と味合うことはできなくなる。忘れる事は出来ないのだ。どうしようもなく乗れてしまうのである。体で覚えてしまった事は二度と忘れない、一生続く。これは多分記憶喪失になったって消す事ができない強烈な烙印だ。何も知らない白紙の状態に戻れない。何かが書き込まれた悲しみは二度と戻れない喪失の悲しみ。

 けれどそれでは何かをしたり覚えたりする事は良くない事なのかというわけではなく、そこには良いも悪いもなくただ引き戻れない地点に来てしまったと言う事でしかない。何かを得る事は何かを失う事でありそれは自分の可能性でも何かができるようになる事は何かができなくなる事である。それでもそれが自分の望む事であるなら何もマイナスは見当たらないがそういう覚悟があると落ちた時のクッションくらいには役に立つかも。人は何か知識を得たりできるようになったりしてもそれで得するとは限らないし成功が約束されるわけではない。それは十分条件でスタートラインに立つだけ参加資格を得られるだけでしかない。といった所で何の話かわからなくなった。

頭が良い人は頭が悪い人に勝てるか

世に天才と言われる人たちは孤立しがちである。それは誰も思う常識を超えて本当の所を知ってしまいその結論が過激的になってしまって世の中に受け入れられないという場合もある。頭が良いならその状況まで考えて行動するはずと考える事もできるが頭の使い方はそう全方位的でなくこの部分では優れているけど他の部分ではダメという事もある。で何がいいか悪いのかという事は場外乱闘的に混沌的状況に陥ってしまうのが世の常で、この場に及んで黙して語らずというのが頭が良い人の最終的に取る態度になってしまう事が多い。そして世の中は頭が悪い人たちが主導権をとる事になるというのは言い過ぎだがそこそこの常識的な線で落されて運営される事になる。

つまらない面白い意味を超えて

つまらない事は書いてはいけないのか。書いている時は面白いと思ったじゃなくて書いている時から面白くなくなってしまう事もある。そういう時にそのまま止めるか、書いちゃったからアップしちゃうかというのはあるんだがその判断は恣意的のような気がする。当たり前の事を当たり前に書いてもつまらない。思いついたときは意外でも書いてみてちょっと考えたらなんだ当たり前と気が付いて急につまらなくなってしまう。まぁ書き捨てみたいなものだからつまらなくてもいいとは思うのだが。こうやって書いている事もつまらない事ではないかとも思うのだがまぁいいかと。本当は意外性とか当たり前とかなんてどうでもよくて意味を超えたところで意味の無意味の間を彷徨えるような文章でも書いていればいいような気がするのだ。どうして人がそんなに論理性を突き詰められるのかが不思議なのだ。集中力のない私は直ぐどっちだっていいじゃないか、て思ってしまう。その結論を導いている時間は楽しいかというのが重要と言うかその議論をする価値というかその議論をするかどうかの判断の基準になる。

2007-01-19

痴漢願望が男から無くなると人類は絶滅する?

痴漢願望と痴漢には大きな隔たりがある。それは殺人願望と殺人と同じ位離れている。思うとするではそれ位違うものだがそれが一緒にされてしまうと大変困る。心の自由は誰にも冒されないものであるぞ。殉教者達も同じ思いであったはず。と思うのである。

そういえばアメリカ

ゴア元大統領候補が環境問題のプレゼンしまくって受けているというのを見ながらぼんやりアメリカは環境問題の急先鋒に世論が反転するかもしれないなぁと思った。もしそうなったらその動きは急速であっという間に日本を置き去りにして今まで京都議定書を無視していた事も忘れて攻撃的に反撃して来るだろう。それは今までの喫煙問題や同性愛問題や人種差別問題やフェミニズムなどを見ても明らかだ。一番保守的だったのにある閾値を超えると急に反転して攻撃して来るのがいつものアメリカのパターンなのだ。それはアメリカの社会や政治システムがそうなっているという事もあるのかもしれない。そのとき日本が置いてきぼりを食って右往左往する姿が目に浮かんでしまう。変わり身の速さというのでは今までして来た事を置いといてどのつら下げてそういう事を言うなんて諺は欧米にはないのだろう。それが国際政治の非情さだ。日本では今までこういって来たのに今更そんな事を言うのは仁義が通らないのではうんぬんとぐだぐだとやっているうちに足下を掬われるのである。まったく世界は予断を許さない。

移動の軌跡

何となくこの世は宇宙があって命が生まれたというのは正しそうである。もっと限定していうと宇宙があって人間が生まれた、に反論する人はいないと思う。つまり人間があって宇宙が生まれたと考える人は少ないと思われる。これは鶏が先か卵が先かの問題よりずっと簡単そうだ。宇宙に転がっている材料から星が生まれてその中の材料から生命が生まれたと考えていいだろう。材料は宇宙だ。しかしここまででは生物機械論からから一歩も離れる事はできない。私の心は精密な機械が生み出す幻想なのか錯覚なのか。生物は身体と生存本能と経験と知識でできている。人が宇宙から生まれてやがって還っていくなら宇宙から得たものは宇宙へ還すだけである。体は分解されて大地に還り景色から得た経験は景色に還り本から得た知識は本に還る。全ては元に戻るだけ。では私は何だったのかというとそれは移動の軌跡のようなものか。それは記録が残る限りだけ残っているものだし記憶に残っている時だけ記憶されているものでしかない。どういう紆余曲折を描いたかが人生に他ならない。

この世に時間は無くても運動がある

時間は運動を計測する為に仮定されたものである。だから時間が止まったら動きが止まるという事は無いのである。仮定されたものだから止まる事はないしそもそも存在しないのだから。時間はただその利便性の為に人が定義したものに他ならない。今の時間の元は地球の自転運動が始まりである。1秒も1日から考案されたものである。360という数字もアバウトな一年の長さであった。人間の思考も運動である事は知られている。信号の運動。コンピュータも回路の中の信号の運動である。この運動が無いと何も始まらない。世界の活動はおよそこの運動の集積に他ならない。人、物の移動、情報の移動。新しい発明や発見も情報の移動から生じる。思考活動。遊べ遊べというのはこの移動の軌跡を詠ったものに他ならない。

2007-01-18

世界は日々作られる

昨日の常識は今日変わるかもしれないという世の中にあってまぁそれも昔からあった事と冷ややかな態度を取る事もできるが、やはり今の時代人間の行動が逐一分析されるに及んでこれまでとは違った局面に立たされているような気がするわけだ。その主な要因が環境問題である事も多いがこれから数十年は今までの変化から想像を超えた変化があるような気がする。それが人類が次のステージ移った事の華々しい証となるのか堕落と見られるのか知らないけどやはり地球的変化を抑える事は不可能と見られる。もしそれを希望しないなら原始の穴蔵の生活まで戻るしかないだろう。それほどに地球は狭く感じられローカルの差異は思ったほど大きくないというのが薄々分ってしまってきたのではなかろうか。グローバルの弊害やローカル特色がなくなる事の危機が叫ばれるがグローバルを知ってしまった人間の責任として目をつぶって生きる事は誠実さを否定する事になる。グローバルの中のローカルを意識すればローカルの大切さも保存されながらグローバルな意識というのは作られると思うのだがどうか。

iPhone名称問題

問題があると分っていて使用したのはなぜか。最後は交渉決裂したのだから提訴は自動的でシスコに選択の余地は使用権を譲り渡す以外には無いともいえる。それでも敢えてしたのはそれによってシスコの企業イメージの低下を狙ってのものかもしれない。アップルとの交渉がどのようなものだったか外部には分らないが今回の件でギリギリまで交渉していた事が明らかになった。最後の最後で交渉決裂なんて余程厳しい条件だったのではないのかと外野に思わせるのに十分である。逆にアップルはこれは行けると思ったのかも知れない。世界中にコアなファンを持つアップルである、一方シスコはIT企業とはいえ裏方的位置づけでビジネスライクの地道な企業である。つまりシスコへのアップル信者からの圧力が高まり企業イメージも下がるとなれば株価も低下するかも知れない。そうなったらたまらずアップルと友好的な関係を結んだ方が企業の選択として正しい判断となる。iPodで絶好調のアップルにはそれくらいの勢いがあるのだろう。少なくても使用権交渉を有利に進める事ができるだろう。いずれにしても短期で交渉を進める事は利益にならないと判断してApple Phoneでもいいかという含みを持たせながらの交渉に進路変更したという事だろう。

iTVは諦めたのか。

日本の慣習とその呪縛

誰もがこの世の参加者で様々な観点からものを言う。最近の日本は変だって意見もあるけれど昔からこうだったんじゃないのというか原初に状態に戻った感じがするのである。日本で謙遜や自分を貶める態度がなぜデフォルトになったかといえば最近そういう伝統が薄れて出て来たのがイラク人質事件のバッシングで自己責任、耐震偽装の登場人物への反発やシンドラーエレベーターの当初の態度に対する反発。世の中がヒステリー化しているという向きもあるがそうではなくこれが日本人の本性だったので先人達はこの摩擦を何とか抑えようとして傲慢や自惚れを厳しく戒め謙遜や謙虚な態度を発達させたのだ。それが長年の間その意味も分らなくなってきて謙遜謙虚かっこ悪いもっと自分を表に出そうぜ堂々と自己主張しようぜというアメリカナイズが主流になって来て気がついてみたらどうも日本ではアメリカンドリームは成立しない。どうしてみんな足を引っ張り合うんだ。昔からそんな事が繰り返されて来て今までの習慣が出来上がったのにまたそれを忘れて原点に戻る。

 まったく非効率だが仕方が無いのか。習慣に意味なんか付随してないから。どこかにコメントを付けられるといいのだろうけど。結局日本は変わってないのか。周りの景色は変わっても日本人の人間性が一歩も変化していない。私たちは永遠の地点に立ち止まっているのか日本人である呪縛なのか。それとも今の問題点を乗り越えて初めて一歩踏み出す事ができるのか。そういう認識を多くの人が持てれば何かが変わるのかもしれない。

2007-01-17

小説を最後まで読まない楽しみ方

というのはやった事はない。が今思ったので書き留めておく。最後まで読まない事で結末を作者から読者へ奪うのである。この後の展開を自分勝手に想像する楽しみ。というのをすると往々にして作者に負けるのかもしれない。さすがプロだと感心すればそれは作者の勝ちだろう。

経済支出で見れば科学はまだまだ宗教に及ばないのだろうな

全体の支出割合から見ても科学はほんの支流の低予算しか分配されていないと思われる。無宗教といわれる日本だって冠婚葬祭の何割かは宗教がらみの金額だろう。で日本の科学研究の予算といえば雀の涙ほどというのが昔からの伝統。技術科学立国てどこの国の話だ。結局科学を根底では信じていないのか。全面的信頼を置いていないのは確か。自分の目で確かめられないものは結局は信じられないという人間の性向。それを言ったら宗教だって。宗教は救いの何かだけど科学は救いには我関せずだからそこの差。やはり人心を掴むには科学も宗教の装いが必要なのかもしれない。信じれば救われます現代科学。

それは人の想念で原子分子運動に影響を与えられるかという問題なのか

それを認めればテレパシーの存在も有力になるしスプーン曲げも納得できる。というか人は間違った事でも主張できる。だから反論も自由である。それで終わりでいいのではないか。それで済まないのは他人への視線だろう。それでは詐欺まがいの事で被害に遭う人が沢山出る。迷える子羊は崖に転落しないよう安全な場所に導いてあげなければならない。キャッチャー・イン・ザ・ライか余計なお世話か。また誤った考えが蔓延すれば科学の相対的地位は低落し予算配分も減少する恐れもある。これも経済活動の一環か。

哲学者はみんなバカ

哲学者は常識を備えていないバカ。最近では哲学者なんていないから現代思想なんか嵌るのはみんなバカ。アルキメデスアキレスは亀に追いつけないとか論理をこねくり回して実際を表していないのだからバカだ。ソクラテスか誰かはあなたは何も知っていないと言ったとか。しかしそういう問いつめは意味があるのか。意味を問いつめてもタマネギの皮だけどその構造が知っているという事でいいでないか。常識を打ち破るなんて言うけどそのほとんどは目くらましに他ならない。常識は大事だよ。ていうか直感は大事。それだけがコンピュータに対抗できる人間の能力だからね。いや他にもあるだろうがそう言うとかっこいいし。

書けば書くほど

人は様々な面を持っている。しかしブログ等では書く事しかできない。そこでいろんな方面の事に言及する事になる。オレはこんなに物事を知ってるぜ、幅広い知識を持ってるぜ。人に補足されない為意外な一面を見せようとする。しかしそうすればするほど自分を情報公開している事実に気づく。あらゆる情報を提供し一つの座標に固定化される。位置が固定され収縮される。書けば書くほど一点に押し込まれ、その点がお前だという事になる。その座標位置、それが君の★だ。

いい具合に頭が壊れていく

様々な想いがいい具合にミキサーにかけられていろんなものが混じり合って来る。何も整理が付かず全ては混沌の中にエントロピーは極大に向かって上り詰める。なんか鼻の薬のせいもあってかぼんやりとして眠い。意識が幕の一枚を通してしか触れられないような認識が甘い。こんなとき人は何かを生み出したりするのだろうが私の場合何も出て来ない。全ての混沌は飲み込まれたままどこに行ってしまうのか。きっと何かは出て来るかも知れない。それはそんな大したものではない。

生活と法律の関係

普段生活していていると法律の一個も知らない事に改めて気づく。そう普段の生活の中では法律なんて全然知らなくても困らないのである。普段は法律以前の段階の常識が法律に触れるのを防いでいるのだ。しかし社会の状況が変わるとこの常識と法律の関係で齟齬が生じる。最近ではセクハラとか迷惑防止条例とか路上喫煙禁止などがこれに当たる。何となく成り行きでがセクハラになったり、わかっちゃいるけど止められないだったり、タバコを吸って何が悪いと思ったりするのである。だから人と法律の関係は専門家でない限り何かで引っかかった後から始まる事になる。

2007-01-16

現象はそのまま受け取らなければならない

不思議な現象に出会っても何とかその不思議さを否定して既存のモデルで説明しようとする。光は粒子か波か論争も既存のモデルでは粒子か波しか存在せずどちらかに当て嵌めようとした。しかしミクロの世界はもはや我々の日常の世界では該当するモデルが無く光は粒子と波の性格を両方持つとしなければならなくそういう性質のものと理解するすかない。既存の認識で理解できると言うのがそもそも間違いなのである。位置を測定すると速度が分からず速度を測定すると位置が不明になるとすればそういうものとそのまま受け取るしかない。この謎解きの為にシュレーディンガーの猫など生きた猫を殺すような脳内想定実験をしなくていいのである。

ゲームのルール

ゲームは経験値の世界であった。つまりやればやるほど上達してレベルアップするという仕組みである。この構造はゲームにますますのめりこんで行く人達と付いていけない人達に分かれた行った。確かにWiiはそういう置いてきぼりにされた人々を操作性から呼び戻す契機となるがゲーム自体は新規性は無い。つまり経験値がまったく役に立たなかったり反対に作用するようなゲームがもっともっとあってもいいのではないのかと付いていけない人間は思ってしまうのだ。

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延命されながら没落してゆく

まるで日本の姿のようだ。日本にもこういった災厄的な衝撃が必要なのかもしれない。そうなれば反対派なんていなくなって何もかも変えなくてはならなくなる。成熟社会というのは破壊しないと二進も三進も行かなくなるとはよくある事。大混乱に陥れば一段落した後出生率も上がりそう。。それを人為的にそこまでのコストをかけてできるかというとできない。やはり偶発的な出来事が無いと無理。つまりその蓋然性を高める事だけができる手段。

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これで思い出したのが三菱自動車だがあれだけ騒がれたにしては三菱がどう変わったのか私には今一つ見えてこない。何となく嵐が過ぎるのを待ってしまったようで千載一隅のチャンスを無駄にしてしまったのか。あの時を利用して長年の腐れ縁を断ち切るとか大幅なリストラを遂行したという印象はない。まぁ三菱系列の銀行がバックに控えていればその必要も無かったということか。

歴史上の人物が

実はそうじゃなかった、というものも所さんのトホホシリーズでかなりポピュラーになったからかなり変わった人物像を想定してもそうかもしれないなぁと思わせる事は以前ほど大変ではないだろう。誰も見たわけでないから実際の所は分らないよ、というのも実証主義の成果かもしれないけど。記録文書は死んだ人を持ち上げて書いたり安易に伝説化するのも知れ渡ってしまっている。そうすると歴史上の人物も相当品行不正行な人物が多かったのではないかと思われるわけである。実際の人がどうだったかというよりなぜ私たちは歴史上の人物に偉人伝のようなものを求めるのかという事の方が興味があるかも。過去を美しく飾りたいというのは人の自然な感情かもしれない。また現在に生きる人の為の指標にしたいという下心もある。こうして嘘に苦しみながら生きるのも現を生きるものの務めなのだろう。こうやって嘘を見抜いた奴が気楽に生きられるのかダメになるのか知らないけど。そういったハチャメチャな時代劇が見てみたいので誰か作ってください。

茶坊主の意味も分りづらくなった世の中

まぁ世の中に茶坊主という者がいないのだから一体どういう意味かは辞書の中にしか載ってないけど言葉というのは実体がなくなっても一度生じた意味は便利なので使われていく。権威にかさかけて指図するようなじじいをいうのだろうけれどそう思ってみれば世の中茶坊主だらけでないか。まったく美しくない光景だな。まぁ自分だって今はこれといったものは何も無いけどもし権力を握ったらどうなってしまうかは想像できないものがあるけれど結構やりたい放題すると思うけど仮定の話をしても仕方が無いので兎に角今は権力につくものに批判的な文章を書くわけだがここに書いてもどこにも届かないわけでまったくの自己満足だなぁと思うのだ。

子供と大人で時間の長さが違うのは意識の濃さ

例えば1時間の間に子供は10〜20個くらいの想念がぐるぐる駆け巡ってどんどん話題が移っていくけど、大人は1時間位だと一つの事をぼんやり考えている事が多い。その間の作業は永年の経験で殆ど反射作用で動いているので頭の中に侵入してくるという事が無い。それだけでも充実の仕方が全然違うわけで1時間の間に怖さや驚きや喜びや悲しさが詰まっている。それだけエネルギーも使っているわけでそれだけ濃い体験をしているという感じ。そうすると大人はスカスカで大して感情も動かされず省エネであっという間に時間が過ぎてしまうと言う事はありそうだ。

どうして日本人は礼儀を大事にするのか

それは不信感の表れの裏返しで無いのか。疑い深さの表れでないのか。そう考えるのはひねくれ過ぎ?アメリカだったらピストルズドンで終えてしまえるけどそれが出来ない日本人が編み出した方法でしょう。日本でも山奥だったら見知らぬ人がやって来たら鍬くらい持って待ち構えるかもしれないが。そういったストレートな表現が出来ないから湾曲した遠まわしで相手の素性を調べる方法として発達したのが礼儀の誕生ではないのか。だから日本人の本性は相手への不信感の塊で疑心暗鬼で噂好きの陰湿な性格の集団ではないのか。それを少しでも低減する為に挨拶や礼儀が発達したのではなかろうか。

そういえば不二家

この時期というのはクリスマスは外してねという洋菓子業界の要請があったのではないのか。とっくにネタは仕込んであったのに年が明けてようやく解禁と。だとしたら日本社会はお笑いだな。世の中そういうもん?業界は癒着して業界を守る為なら正義も事実も曲げるよ。それに協力するマスコミ。その間ぼろ儲けのインサイダー。それがこの国の仕組み。そう思えばペコちゃん盗難事件もうなずける。去年の秋から実態は掴んでいたってよくここまで引き伸ばせたもんだ。そんな鍋の底が抜けるような事は誰も言い出さないのね。

文学とブログの新たな関係

こんなのはブログが出てきた時からネットが登場した時から考えられた事で今更言う事じゃないけれどネットの周辺で囁いてるる分はかまわないだろう。これまで本というのが出版社に支えられて売れなければ出せないという宿命を背負っていたわけだがそれがネットによって消滅した。つまり今まで最低1万部は出なければ世に出せないという閾値があったけど千部でも百部でもたった一人の読者の為でもネットでの公開は可能にしたという事。これは悪い言い方をすれば読者に媚を売らなくてもいいという事であり作家としては理想の小説が書ける環境である。純粋な自己表現の場というものがあるとすればネットのほかに無い。しかし現状としてそういう使われ方はされて無いのだから個とはそう単純ではないのだろう。いいものは売れるから売れるなら出版にした方が利益が稼げるという現実。しかし売るために制限があったとすればネットは果敢に挑戦できる場でもあるはずだ。あらゆる表現の実験が可能であるネットは商業主義の制限から開放された可能性があるはずだ。それなのに今出版社の文学賞が空前の応募数があるという事は何を意味するのか。制限が無いとかえって創作の意欲が湧かないということはあるだろうが。

2007-01-15

iPhoneとiTVで完結するアップルの未来

アップルが社名からコンピュータを取ったのもパソコンはこれからの主役ではないという現れだろう。もちろんホビーやパソコン好きのために補助としてはしばらく存在するだろうがいずれは消えていく運命かもしれない。で、iPhoneとiTVでなのだがiTunesをiTVに置けばパソコンは不要になるわけです。もちろん無線LANで同期してもいいわけですがそれにはパソコンが常時ONでなけれなならない。iTVなら家庭でも24時間点けっぱなしを容認できる機器となるでしょう。それがインターネットに繋がれば家庭用に録画したテレビをネットを通じてみる事にも繋がるし外部から録画を指示する道も開けます。iTVは今はまだTVという名でカモフラージュしていますが実体はiというホームサーバでありそれこそがアップルの真の狙いに違いない。つまりこのiを通して家庭の家電を全て支配下に置くという構想です。アップルが全ての家電を作るとは思えないので共通するi規格を制定するでしょう。そしてiから洗濯機も冷蔵庫も照明もエアコンも制御するのです。

 つまりiTVで家庭を制覇してiPhoneで個人を取り込む二面戦略なのですね。iTVがホームサーバでiPhoneがクライアント的な役割を担いiPhoneは街に出てこれでいつでもどこでもあるユビキタスコンピューティングの完成です。iPhoneで冷蔵庫の中身を確認する。iPhoneで家に帰る前に家を暖めておく。iPhoneでテレビを予約録画する。iPhoneで映画を家のiTVにダウンロードしておく。家で文章を書くくらいならキーボードだけあればiPhoneで十分でしょう。

iPhoneが電話から直接ダウンロードできない事をカバーする秘策

それは自分のPCのiTunesにネットを通してアクセスできればいいのである。そして自分のPCのiTunesをiPhoneからリモートコントロールできれば自分のPCのiTunesが楽曲を購入できるしそしてネットを通して自分のPCのiTunesに同期すればいい。では自分のPCが立ち上がってない場合はどうするか。その時はインタネット上で代行してくれるiTunesがあればいいのではないのか。いうなれば影のような存在でこれも自分のPCが立ち上がれば同期をとって姿を消すみたいな。そうするといつでもどこでもiPhoneで楽曲を手に入れる事ができてDRMもクリアできるという具合。これをやったらもう誰もアップルを止められないな。

Life is beautiful: スティーブ・ジョブズの面接試験、iPhone編

三代目は身上潰す?

グーグルで調べても288件しかないな。身上潰す三代目でも241件。本当にこういう諺みたいなのはあったのかはさておき、不二家の不祥事が発覚して雪印を思い出すと。実際の社長が何代目だった知らないがまぁ企業寿命というのもあるのだから老舗がおかしくなっても長い時間の中では不思議でない。新聞社説では甘い甘いとオヤジギャグ炸裂してたがそんな誰でも言いそうな事を新聞紙上で発表しないでもう少し頭をひねって欲しい。そういえばこの不祥事が起こる前に不二家のニュースがあったなと思ったら

301 Moved Permanently

これはコレクターの仕業のような気もするがなぜこの時期。今回のが内部告発だとすれば高値取引して売り抜けという可能性もある。うーん、世の中奥が深いよ。

今に生きる者が未来に対して負っている重い責任

そんな重い責任を今までの人間は背負って来たのか。そんなの我々庶民には関係のない事、政治家が背負うべき事? 少なくても私が未来の人間に背負っている事じゃない。そんなの知らない。自分だけで精一杯。誰もあなたに期待していない。の間でループ。

 たった一人の研究者が問題点に気づいた時どうするのか。企業が新製品を開発する。膨大の金額をかけて。しかしグレイ領域の物質が存在する。それは有害性を示している。しかしすぐに現れるわけではない。それがすぐに問題になるようにも思われない。今の社会では。しかし将来はどうだろう。社会はそれを問題視始めるだろうか。それを今の時点でどうやって評価できるのか。当時はそこまでの危険を予期できなかったで逃げ切れるのか。そこまで考えて行動するのか。この競争社会の中でそれがどこまで働くのか。ダイオキシンやアスベストの問題はそういう部分を含んでいるのか。血液製剤、狂牛病、鳥インフルエンザ、エイズ。

死んだ後の状態を想う事

死んだ後でもバラバラされるのはイヤだな生きている内は思う。もちろん水に沈められるのも冷たそうで苦しそうだ。そう考えてしまう私は科学的態度に徹しきれていない人間なのか。死んだら関係ないよ、痛みも何も感じないでしょうと理性的な私は思う。と同時に死んでもそうされるのはご免だねという感覚もある。それは自分から切り離されてしまった肉体の一部でも起こるような思いか。手が切り離されてもう元に戻らないとなったら、もうその手は自分のものじゃないからといってゴミとして処分する事ができない。かつて自分の一部であったものへの愛しみ。それが自分が死んだ後の死体に生きている時に思いが及ぶ。でも死んだ後ではそれができない。そのジレンマが生きている人々に伝わって呪いと呼ばれる感情に昇華した?といってみてもいいかしら。そういうのを科学は否定したよ。

という事で思いは水伝に向かう

こういう殺伐とした時代だから水伝が求められたのだろうな。水にも人の心が分る。分るかどうか知らないけど兎に角反応する。この人の心に生じる何かが科学で計測できないからといって何も存在しないなんて考えられない。誰も何も存在しないと言ってないかもしれないが計測できない事は我関せずとして来たのがこれまでの科学である。それで科学者は済んでも済まない人は沢山いるのである。私たちの想いは確かに存在する。それを水だって感じ取ってくれるのだ。現代科学が応えてくれない事を水伝が応えてくれたのである。現代科学では捉えきれない現象であっても否定される事はない。人の感情や想いがテレパシーのように伝わるならばいい感情や悪い感情も伝わるだろう。そう来れば悪い感情を広めないでいい感情を持って伝えましょうとなるだろう。

 この水伝に現代科学側が他のものより関心が高いのが気になる。それは単に一番広まっているからかもしれない。もちろん詐欺的な所の警告もあるだろう。しかし科学の側の根本的な所、依って立つ足下が掬われた思いが科学者側にあるのではないか。それは科学がこれまで光を当てて来なかった闇を水伝が照射しているに他ならない。(決め台詞)

誰もがバラバラや簡単に殺れる世の中

どうしてこうなったのかというのは簡単には言えないけど一つには自然科学的な態度が人々の隅々まで骨の髄まで染み渡ったという事もありそう。生物は分子原子で構成されている精密機械である。人間も同様で魂や霊なんて存在しない。だから怖れる事なんか何もない。肉はタンパク質の塊で骨はカルシウムの塊だ。ただの物質なんだから二つに切ってもバラバラにしても何も起こらない。現代科学の勝利だよ。

 昔はこういう事は起こらなかった。死体は恐れ多いものだし祟りや呪いがあるかもしれない。触らぬ神に祟りなし。もちろんその代わりに変な迷信や祟りを怖れていた時代でもあったが。しかしある意味では人々が死体を粗末に扱わないようにしたり簡単に人を殺めないようにする効果もあったわけである。古代からの知恵と言えるかもしれない。そういうものが破壊されて現代では自分の良心と法律だけで秩序を保とうとしているわけだが結果はご覧の通りというわけ。こんな世界観を共有しているうちはスプラッタな世界から逃れるのは難しそうだ。

2007-01-14 薄墨青橙枝の切り絵冬の夕暮れ

多義的な世界

現実は立体物としてその一面しか見ていないとはよく言われる喩えである。現代科学も現実のある一方からの視点だと考える事ができる。だから人々が古代から育んできた世界観も決して間違っていたというわけではない。中には怪しげな風習や迷信もあるけれどそれは現代科学にも様々な説があるのと変わらない。しかし私達は神の恵みで実りの秋が訪れるのと光合成によって植物が生長し種子を作るのを同時に信じる事ができる多重的な見方をする事ができる。ちょうどグーグルマップで地図と写真が重ね合わせ出来るように一つの事象を様々な解釈で同時に見ることが可能なのだ。

 それが現実の起こっていることを表しているならばどれか一つを選ぶ必要はないし両方の解釈が並存することもできるのだ。これは天動説と地動説が並存できるのと同じ事だ。日常の暮らしで太陽が東から昇って西に沈んで太陽が回っていると考えて不便はない。いちいち本当は地球が回っていると考える必要もない。そうはいっても真実は科学の側で古来からの考えを軽視してしまうのが現代人だろう。正月に初詣に行っても私達の心は根本的な所で現代科学教を信じているのである。そういった傾向が正月が年々正月らしく無くなっていき平常営業が増えているわけかもしれない。これも近代教育の効果の表れであろう。

 しかしあらゆる物に命を宿したり様々な物と心を通じ合わせた世界観を持てなくなってしまった事が平穏と安らぎを奪い、不安と落ち着きの無い現代社会を齎したとも言える。そういった意味でも同時に片方だけでなく多重的な説を信じる事ができるという訓練ができなくてはならない。それは一方が真実でもう一方が表面的な見方というわけでなく両方が真実であるという多義的な見方である。

正しい方法なんてこの世にない

あるのはこれまでの蓄積だけ。こういう方法がこれまであったというだけ。この方法はこれまで失敗しなかったというだけで正しい方法と思われているだけに過ぎない。みんなこうやって来たから何時までも同じ事を繰り返している。何も考えずに済むからね。時代が変わっても、状況が変わっても。もう形式的に成ってしまっても。もう意味がなくなっても。逆に不都合になったとしてもこれまでのやり方を続けようとする。縁起をかつぐという意味もあるのか。形骸化した世の中。それは間違った方法ではないのか。

失敗したっていいじゃないかだって人間だもの

失敗を怖れる心。これは失敗をしない為にあるのか。でも役には立たない。そりゃまったく失敗してもいいやと思っていたらまずいだろうがやる事やっていたら後は失敗を怖れる心は邪魔になるだけだ。出来るだけの事をしたなら後は天命に任せるしかない。失敗したら笑って済ませるしかないじゃないか。だって神じゃないのだから失敗する事は常にある。成功だけが物語じゃないさ。怖れる心が強くなっていつものように行動できないそちらの方がより良くない事なのだ。笑って済まないなら逃げるしかない。

人間社会も長くやっているといろいろと摩擦を避けるようになると

社会が洗練されてくるとそうなるわけですが同時にそれは社会の沈滞も意味します。言ってみれば学校で子供達が先生にドアを開けると黒板消しが落ちてくる悪戯もいつまでもできないわけで状況は変わり今でも学校では悪戯なんてできるのか。全てはイジメと捉えられそういう雰囲気もないのか。脱線喩えが悪かった。つまり社会が予定調和になってきてしまって何をやっても下手な猿芝居を見ている気分にさせられてきてまったくつまらん。それでもって皆やる事同じ事ばかりで意外性がない。もっと世の中あっと驚くような事が起こったっていいんじゃないか。みんな創造性が落ちている。やっていけない事といい事のルールが出来過ぎてしまってその範囲の事しか起こらない。みんなが社会ってこんなものなんだと思っていたらそこからはみ出すものなんか無くなっちまう。社会ってそういうもんじゃない?て言われたらわざとそうじゃない所見せる気概が欲しいもの。

 誰もが怠慢なんだよ。悪戯っ子の怠慢。犯罪者の怠慢。教師の怠慢。政治家の怠慢。大人の怠慢。社会の怠慢。こんな世界でもまぁいいかと思っている怠慢。そう考えれば自分の怠慢も批判の対象にならざる得ませんが。また同じようにやればいいと思っていませんか。そうすれば少なくても失敗はない。安全パイを取ろうとしてないか。もちろん安全は大事だよ。それでもひと時の笑いを取る為に敢えて失敗のある可能性のある選択があってもいいじゃないか。本当にいつもやっている行動で作業でいいのか。そこに変更の余地はないのか。そしたらちょっぴり人生が楽しくなったりするのではないか。効率はちょっぴり落ちても周りの人間を楽しく出来るかもしれない。そんな事を考えてみる。みんながほんの少し変化をしただけでも全体で見たら大きな変化になってしまう。そしたら社会がトラブル続出で大混乱に陥ってしまったり。電車が止まって停電が起きて社会が一時的に止まってしまったり。確かに大変だ。それが起きないようにするのが社会の義務。正確な仕事は大事だよ。予定は遅れず全てが順調に進んでいく。しかしそれが目的になったとき本来の目的を忘れてしまうという事はある。

科学と宗教は一体のものだった

有史以前の事かもしれないが科学と宗教は一緒の時があった。その時は科学とは言わなかったかもだけど様々な知識が集約されてそれは同時に宗教にもなっていた。

 現代の科学も宗教も硬直化しすぎている。宗教は既存の宗教の影響力が強すぎて。科学は専門性が強すぎてより狭い範囲しか研究対象とせずより広い範囲の整合性を問題にしなくなっている。今一度現代の科学に適用する宗教を創造し総合的な見地で科学を見渡せる科学を打ち立てなければならないのだ。と言ってみる。

神は何もしなくてもいい

それに対して神に与えられた職務を果たしていないという事はできない。なぜなら神の存在はなぜこの世界は存在するのかという問い対して用意された椅子だから。世界はどうして始まったのか。誰が始めたのか。この問いに神という存在を多くの社会が用意し宗教が生まれた。現代の科学は宇宙の始まりはビッグバンとされますがビッグバンがどうして始まったかは不問とされている雰囲気があります。それが時間0の始まりであり開始点だから始まりである、以上終わり。と突き放されどうして始まったかは科学の領域でなく我々の関心事でない。いかにして始まって今に至ったのか解明するのが我々の使命である。と言われている気がするのだ。勝手な思いかも知れないがそう思うのも俺の勝手である。科学がそのような冷たい感じを与えるのも人間の心なんて問題にしないからだ。人間が不幸になろうが苦しもうが関係無い。この世の原理を解明できればいい。それが科学の根底にある態度である。根本原理至上主義であってこの世界を記す数式が解明されるなら自分の命を投げ出してもいいという立派な態度なのである。

 しかし多くの人々にとってはどうして世界が始まったのかは謎のままである。ここにかろうじて神の存在が完全否定されない現代人の心の片隅に追いやられた神の存在がある。殆ど信じていないけど無意識のどこかで生き続けている神である。きっとそれさえも99%これこれこういうわけで宇宙は始まったと説明されると完全な死亡宣告を受ける事になってしまうのだろう。つまりそれだけの理由で神は存在するようなものだから普段は神は何もしなくていいという事でした。

世界を破滅させる文学

読書が何か良い物のような言いかたがあるが読書は危険なものである。それは今までのあなたの考えを根本的に変えてしまうような可能性を秘めているものでそうでなかったら読む価値もないものだ。それはつまりこの世界は素晴らしいと純真に思っていた子供がこの世界は下らなくて滅亡に値する世界と認識するかもしれないという事だ。そういう本は下らないとするならば毒にも薬にもならないつまらない本を分け与えるしかない。本とは本来そういう危険性を秘めていたから過去様々な迫害を受けて来たものであり焚書や発禁処分があったのだ。そんなの本に限らず人が作るもの全てに当てはまるけど最近の創造に就く人は物分りが良すぎるのかみんな毒にも薬にもならぬものを量産しているに過ぎない。為政者と裏で妥協しているというかこういうのは書いてはまずいだろうという暗黙の線が確定してしまって休戦協定でできたラインは守りますみたいなお行儀がいい人ばかりの集団に成り下がってしまった。戦いは過去のものとしてみんなが物分りが良くなってしまって下らないルールの中で告げ口をし合っているつまらない世の中になっているのだ。こんな既定の路線の中で本を読もうとか読書は大切かとかいうのはぬるま湯の中の遊戯でしかない。

2007-01-13

ろくでもないこの世界(世界系)

下衆共が作ったろくでもないこの世界。まともな人間はこの世界に耐え切れなくて見切っておさらばしてしまったとしてもおかしくない。すると残った人間はなぁなぁのいい加減な奴ばかりのお調子者の妥協者ばかりである。そんな奴らが作った世界が素晴らしい世界になるわけもなく現状はごらんの有様だ。こんな世界に生まれてきたからには絶望したって仕方がない。優秀な人間ほどさっさと見切っていなくなってしまうのかもしれない。中には生まれた途端こんな世界イヤだと見切ってしまう奴もいるだろう。そこで生き残った人間は妥協だらけの現実主義者。そんな大人たちは子供にも現実主義者になることを要望する。あなたの為だから、そうじゃないと生きづらくなるから。しかしそんな大人たちも心のどこかでこの世界を変えてくれる救世主が現れてくれるのを願っている。きっとそのうち大人の言う事に耳を傾けず強い信念をもった子供が現れるだろう。そしてこの世界を救ってくれる。これまでの価値観をぶち壊しこのろくでもない世界を破壊してくれる。さぁ君がこの世界を救うのだ。

同一労働なら同一賃金

これを実現するなら勤務形態を全てアルバイトにしてしまえば良い。社会保障とか色々問題がとか言うかも知れないがそんなのは後から付いてくる。現状の格差を放置させないのなら速やかに実施すればいいのである。それはそれで反対意見が続出だろうが他に手はないだろう。何か問題が起こった時どれだけ速やかに決断できるかが政治力である。今の日本にそんな人がいるわけもない。小泉さんでもここまでは無理。

 ベネチアがナポレオンに攻められた時結局何も政治的判断ができなくてどうしようどうしようと言ってるうちに降伏させられてしまったという。ベネチアはこの時とっくの昔に死んでいたのに形ばかり国となって生きながられていたのである。日本もそこまで落ちぶれていないと思うが政治的決断ができなくて先送りばかりしているのは政治力を計るバロメーターにはなるだろう。それは国力の低下も意味している。問題を何も解決できなくて先送りばかりしている現状を見ていると末期症状を見ている気分だ。例え反対が多くても決断しなければならない時がありそれができた時に再生も可能になる。案外全員がそうなるなら仕方がないとあっさり通るかもしれない。なにせ日本人はみんなと同じという事が大好きなのだから。

絵って自由なものなんだ

絵と写真の違いと言ったら絵は実際の構図から自由だと言う事だろう。写真は実際の風景に忠実にならざる得ないが絵はどうするのも自由である。写真のように忠実にする事もできるし、少し変えるのもまったく変えてしまって特に印象に残ったところだけを自由に配置してもいい。この自由さを駆使しない手はないというものだろう。あらゆる表現はもっと自由にできるはずなのに中々既存のお約束から逃れられない。というか約束から解き放たれた所で形にできる人がいない。それこそが誰でもできるところではない才能が要求される部分なのだろう。言うは易し為すは難し。

人の感情はどこからやって来たのだろうか

悲しみや喜び、怒りや恐れや驚きなどの感情はどこからやって来たのか。こうした原始的な感情は人間以前の動物の時から備わっていたように思える。しかしその動物はどうやってそれらを備えたのか。生物の進化の過程で生存の必要上それらが備わっていた方がより生存競争に有利という事は考えらようがそれがどこからやって来たのかは意味しない。彼らは何かを参考にしたのだろうか。それとも本能のよに自然に組み込まれていったのだろうか。それにしてもそれがどこから来たのかの答えにはならない。生命が必然的に獲得するものだったのだろうか。それが自然にあったというのはそれほど突飛な考えではない。人は自然の風景から感情を読み取る事がある。激しい雷から怒りのような感情を。黄昏から寂しさのような感情が。さわやかな朝から喜びのような感情が。風景から懐かしさを感じるのもそれらの感情が人間以前から受け取ったメッセージを思い出すからと言ったら言い過ぎか。しかしそうすれば私達は自然と一体となれ、まさに自然から生まれたという事ができるだろう。感情だけでなく私達の意志さえも自然から由来しているかもしれない。そうであれば意識さえも自然由来というのもそう遠い地点にあるものではない。そうであれば私達の存在はこの自然宇宙と一体でありその死はまさに自然に還る事に他ならない。そうなら私達も永遠の存在である。まさにロマンチストである。

過去も未来も変わるのに現在だけが変わらない

見慣れた風景変わり映えしない景色。平凡な日常。今というのはどちらかというと退屈であまり不思議な事は起こらない。特別な事は過去の思い出となってしまう。大きな変化というものも未来の予定に留まっいる。例えその日が来たとしたとして実際はそれほど大した事が起こるわけでもなく淡々と過ぎていくものだ。また現在に変化が起こったとしてもその瞬間に立ち会えることは稀だ。もうその時はそれは過去なのである。今そこで事故が起こった。財布を落した。そして予定は未来に控えている。

 過去は歴史的事実も新発見や何かで新しい見方が提示される。今までそう考えられて来たけどそうじゃなかった。もっと過去の恐竜の絶滅だって昔は氷河期の到来が理由だったのに最近は巨大隕石の衝突説が有力になっている。未来も現在の状況からクルクル変わる。科学発展のバラ色の未来世界から核戦争後の文明社会が崩壊した社会。最近は環境破壊が齎した未来が主流だ。このように過去も未来も次々と変わっていくのに現在だけが置いてけぼり。可哀想な現在。それとも安心できる現在か。今だけがずっとここに留まっている何時までも。

水伝はなぜヒットしたのか

もう水伝はいいよって感じだがまだ思うところが残っているので書く。水が人の想いを感じ取れるような不思議現象を扱った「水からの伝言」がなぜヒットしたのかという事について。それは人々が共感できるという事に飢えているからではないだろうか。今でも殺伐とした事件は続いていますがこれは現代社会に共通する現象でもあります。人の心が分からない不安。それはどこから来るのか。現代の世界は物質世界として説明され自然も分子レベルで解明されてそこから命や心というものが放逐されてしまいました。そしてそれは人の心まで迫ろうとしています。心も大脳の中の化学反応でしかないということ。ですから命も当然自然が作り出した精密な機械というわけです。

 しかし人はそれに拒否反応を起こしています。人間はそんな自動機械じゃない。そしたらこの喜びや悲しみを感じる心はどこから来るんだ。命は決して精密機械だけではない何かがある。もちろん科学もそういう面にも目を向け始めていますがまだまだ主流ではない。それを単なるノスタルジーと言い切ってしまう考えもあるでしょう。昔はあらゆる物に命が溢れそれは山川風などの無生物にも及びました。そしてそれらを歌に読みものの哀れを感じたりしたと言うわけです。それを科学が非科学的だと全面否定してしまった事が科学が人々の恩讐を受けるはめになったのでしょう。生き生きとした世界観を返せ。命溢れた世界を返せ。環境汚染もそれに拍車をかけているでしょう。その中には謂れもない嫌疑も混ざっているかも知れませんがまぁ一方的にそういう見られ方をされている時にはよくある事です。

 いずれにしてもそういう世界になってしまって人々は飢えてしまったのです。あらゆる物に命が宿っている世界に。互いに触れあい感じあえる世界に。そんな時に水と人が通じ合える現象が現れたというのですから待ってましたとばかり飛びついたわけです。やっぱりこの心というのは物質だけでは説明できない何かがあるに違いない。水にも命のような不思議な現象が宿っているのかもしれない。そういう期待感を見事に掬い上げたのが「水からの伝言」というわけです。見事というしかありません。これが偶然でなく狙ってやったとしたらノーベル賞は無理でもイグノーベル賞は堅いかもしれません。

2007-01-12 ここは間違った事を書くブログです。本気にするのは君の勝手

世の中の裏が透けて見える時代

年金問題に揺れた頃ボロボロと未納問題が発覚になったり、教育改革の審議のときに自殺者やいじめが大きくクローズアップされたり未修理問題が浮上したり、ここに来て安倍政権のスキャンダルが続発したりこの分り易すぎる展開の面白い世の中。何したって大丈夫やりたい放題というかこうやって表を揺さぶって来たのが日本の伝統というのは歴史上にもずっと続いている事なのか

水伝は非科学的とは言えない

美しい言葉を書いて見せると水の結晶が美しくできる。この主張に対して水に視覚があるのかとか部分的に問題を分解して間違いを指摘しても全体的な実相は見えない。ここでは美しい文字を書いたと認識した人間がいてその人間がその水は美しい結晶ができるはずだと思っている事が肝要なのである。では思いが通じて水が美しい結晶ができるのかというとそう単純ではない。これはサイコロを振って1が出るように念じると1が出る確率が上がるのかという問題に通じるものがあるだろう。これは印象としてはあり得る話である。なぜなら振った人間にとって1は特別な意味を生じるからである。他の2〜6が出た時より1が出たとき特別な印象が残るだろう。そのとき自分の思いが通じたからだと思うのは本人の勝手である。それを続けていると1が出た時は他の数字が出た時より印象が強く残るので例え1/6の確率でも1が強く印象に残っている。それで本人が1が多く出たと思うという事はあり得る。これを氷の結晶に当てはめれば美しい結晶ができるからくりもわかるだろう。

 記録を取ってみればそんな間違いすぐわかるだろうと言うかもしれない。しかし記録をとる取らないは本人の自由であるはずだ。本人が1が沢山出たと思ったらそう主張する事は何も問題はない。そんなのは科学的ではない? 仕方がないのでここで観測者問題を導入する事にする。記録を取らなかった場合と記録を取った場合では実験結果は同じにならないかもしれない。これでどうだ。同じにならないとすれば頻度の観測は観測者の印象にしか頼れない事になる。これじゃ観測者はいるのだから観測者問題じゃなくて記録者問題だな。記録者が存在すると対象に作用すると。

 しかし記録を付けなかった時と記録を付けた時の実験が全く同じ結果を返すとは証明できないはずである。なにせ比較する記録がないのだから。類推する事はできるか? ここでは記録を付けない時を問題にしているのだから記録を付けた時のデータは何件あっても役に立たないのである。というわけで水伝は一概に非科学的であるとは言えないという主張でした。

終わり。

iPhoneが主流になる事なんてあり得ない

その答えはアップルはいつだって先頭を走り続ける企業だから。アップルコンピューターからアップルになって方針転換したのだろうか。しかしイメージできるだろうかアップルが普通の家電メーカーに成り下がり街角のどこの店でもiPhoneやiTVを扱っている事態を。あり得ない。それはアップルじゃないだろう。いつでも先進のアイテムを提案して市場をリードするムーブメントが起こさなければ存在価値がないだろう。だいたいあのジョブズがそんな日常に塗れるメンテナンスに明け暮れる家電会社なんて経営すると思うかい。iPhoneはライフスタイルの提案になって他社のデザインに影響を与えるだろうが、みんなが追いついた頃はその先を行かなくてはならないのがフロントランナーの務めである。だからアップルが安定するなんてあり得ないし、いつも危ない橋を渡り続ける事になる。出した製品が素晴らしければ好評に迎えられダメなら人気は急降下。それがアップルである。MacCubeの時もそれなりの先進性でジョブズは強く押していたが製品として成功する事はなかった。そんなジェットコースターのようなアップル。だからファンも多いのだろう。でもiPodの蔓延は何なのだろう。これはアップルにとっての異常事態である。これがiPhoneでも再現するのか。でこれからのアップルがどうなるのか目が離せないという所か。

恋愛至上主義の誤謬

自分で相手を選ぶと分かれる時に自分の責任として問われる事になる。これが親や人から押し付けられた相手ならその責任を他者に転換できるという利点がある。お母さんあの人とはどうしてもうまくやっていけません、てね。これが自分で選んだ相手だとこういう言い訳もできない。挙句は自分で選んだ相手なのに何言ってるのと言いくるまれる危険もある。恋愛至上主義に夢破れた敗者は言うだろう。どんな人でもそんなに変わらないさ、でもないか。兎に角自分で決めないという事で他責性を確保しておけるという戦略をとる事ができる。これは生きにくい人生において重要なメリットになるべき項目である。そのような手段を多くの人が採用しない理由が見当たらない。

 というわけで学校は高校まで男女別学。大学も女子大、男子大を増やしできるだけ男女の接触機会を減らし、見合いや紹介でしか相手を見つけられない環境を整える事も重要になる。それが恋愛に苦しむ全ての人への恋愛からの解放であり呪縛からの解放である。男女の中は今までの真剣さや重さから解き放されて人任せの比重の軽量化が計れる事になる。

2007-01-11

見えないカースト

日本には見えないカーストがある。インドのように明確にあるわけでなく建前と本音に隠されて歴然と存在するもの。建前民主主義だから当然カーストが存在するなんて公言できるはずがない。これを冗談と見るか本気と見るかであなたの性格が。て性格判断かよ。見えない壁は存在するのか。それはあなただけに見える幻想なのか。思い込みの独り相撲か。しかし全くないという能天気な人は無いと思うけど。大いなる子供スティーブ・ジョブズは日本にはいないよな。グーグルの創始者ラリー・ページもいない。

やっぱり人だよ。個性的な人を育てなければ何も始まらない。どんなに立派な企業でもたった一人の人間にかなわない。そういう人間が今の日本で育つのか、育てられるのか。組織なんてどんなに効率を追求したって無駄さ。魅力ない製品なら誰も見向きもしないのだから。日本のダメさ加減がもっともっと白日の下に曝け出されるしか変わる事はできないのかもしれない。

名前を付けて分類する

名前を付けて分類するというのを限りなく続けているのが近代以降の科学に留まらない全般的な思考形態なわけですが。そういう細密化はどこへ我々を連れ去るのか。最近でもO157とかノロウイルスとかどんどん名前を付けられて細分化していってます。おかげで食中毒なんて言葉も聞かなくなりました。細菌は全部まとめて食中毒で済んでしまった大らかな時代だったとも言えます。て、つい最近だったような気もしますが。これがもっと進むとO157-aとかO157-bとかノロA型とかノロB型とか言われるようになるのか。それはそれでピンポイントで対処が進みいい事ずくめのような気もしますがあまりにも多くの言葉、情報洪水の中で全体像が掴めなくなってしまう危険もあるでしょう。また細部の問題に関わりすぎて全体の問題が見えないという事も起こるかもしれません。そうは言っても名前を付けて分析しなければ何も始まらないというのはあるかもしれません。何もせず指をくわえて見ていろというのか、と映画のような台詞も出てきそうです。

 そうはいってもO157だろうとノロだろうが手を洗ってうがいをするとか賞味期限に気をつけるとか共通した対処はあるはずです。何でも分類して名前を付ければいいってもんじゃない。このままいくと溢れる名前の中で覚えきれない名前に溺れてしまうかもしれない。その名前がどの程度の重要度を持つかも分らない。それは危険なのか安全なのか。こんな心配は取り越し苦労かもしれない。結局はその中で押し出されて記憶から消えるものの名前がなくなっていくのでそれも時代の移り変わりというものだろう。

最近立て続けに起こったバラバラ事件

そこに共通するのが隠蔽の無さ。いや隠蔽工作は行われたとさんざん報道されているではないか。確かにそうなんだけどそうならなぜ新宿や渋谷の繁華街に死体を放置するのか。かえってそういう犯罪が頻繁に置きそうな所の方が足がつかないと考えたのか。そう考えても山や海に捨てた方が時間も稼げるしいい方法のような気がしてしまう。別の方も捨てもせず家に置きっぱなしというのも気になる。もうそこには隠蔽しようとする姑息な考えなんか無いようにも感じる。できるだけ効果的に憎しみを憂さ晴らしをするような行動ではないのか。部屋をリフォームしたというのも隠蔽工作というより自分が住み続ける為の快適さを追求してさっさと忘れようとしただけの気分の問題だったのではないのか。全ての行為が気持ちの問題なのだ。

みんなそこそこでいい

共存共栄が日本ほど蔓延している国はないかもしれない。イラクとの敗戦後の違いを見てもそれは感じる。もちろん米国の政策ミスというのもあるのだろうが。しかし現行政機関を温存するという手段はイラクでは不可能だったのかもしれない。そしたらスンニ派優先の組織は変わらずフセインの代わりにアメリカの傀儡政権が付くという形にしかならなかったかもしれない。

 日本でもそれなりのカリスマはいるだろうがみんな自らを弁える能力が備わされているような気がする。これも武家政治の名残か為政者の心境を無視して活動する事はできない。という意味でもそれを許す真に器が大きい政治家が存在しなかったのか、日本ではそれを許さない空気が民衆の間に生じてしまうのか。既存の秩序に従っていては大きな変革は望めない。しかし大きな混乱を経るのも確か。真の変化より秩序を重んじるのが日本だからそれを在民が選択するならそれに従うしかないのだ。そこそこの成功とそこそこの失敗で満足するしかないのだから日本から世界に何かを発信するなんて事は考えられない。つまりそこそこの生き方ぐらいしか発信できないだろう。そうやってみんな平和に暮らしていますというのも十分重要なメッセージだろうがしかし人々はそんなメッセージなんて求めていない。そんなのは日常の片隅で埋もれてしかるべきものなのだ。人々の夢は理想を求め絶えずそこへ近づこうとする。あらゆる犠牲を伴っても。ただ生きている、息をしているだけではイヤなんだ。生命の本能にはそういう希求が組み込まれている。

ネット接続環境の話

ネット接続環境でPNA方式からVDSL方式に変わった。スピード向上の為である。今までの1Mから最大100Mということらしい。しかし建物全体でも100Mなのはネットワークの設計としてどうなのか。でその方式に変わったとたん問題が起きた。最初は多少ダウンロード速度がアップして喜んでいたがどうも変。リンクをクリックしても時計がぐるぐる回るばかりでリンク先に飛ばないのだ。挙句の果てはページが表示できないエラーが出る始末。しかしまったく使えないわけでなく何回かクリックしていると繋がったりする。これは問題だな。しかし建物全体で起こっていればその内対処されるだろうと高をくくっていた。しかし何日たっても状況は変わらず使えるけど中々ページが移動しないいらいらにストレスが溜る。基本的にこちら側は何も設定を変えていない。モデムをVDSLモデムに変えただけである。問題があるとすれば内の外であるはずだ。そんな状態で使っていたのだけれど何回クリックしてもページが変わらない状態が続くとついにサポートにメールを入れたのだった。あんまり周りと付き合いも無いのだけれど誰も苦情を言わないのもおかしいではないか。返事のメールには色々書いてあったけどインラインフィルターというのが気に止まった。これはPNAの時は無くてVDSLになった時からアナログ機器に付けるノイズフィルターだ。そういえばCS機器の電話線には付けていなかったのを思い出したのだ。えぇ、そんなのが関係するのぉ?

 さっそくそれにもインラインフィルターを付けてネットに接続してみる。なんかいい感じである。ページがさくさく切り替わる。時々切り替わらない事もあるけどそれは向こうのサーバー側の問題かもしれない。少し様子みてもやはりいい感じなのでやはり原因はインラインフィルターにあったようである。最初からこのインラインフィルターがアナログ機器のノイズ対策にあると頭にあったのが敗因か。電話だけに取り付けておけばCSチューナーの何の為に電話線が付いているか分らないものにノイズが入ろうがどうでもいいと思っていのだ。それがネット側のデジタル機器の方に影響を与えていたとは。内だけの問題だったのだから誰も問題にしないのも当たり前だったのだ。知ったかぶりでいるとこういう目に遭うという事例でした。基本通りにマニュアル通りしていれば何も問題なかったのである。しかし各戸まで100Mなのに建物自体が外部と100Mでしか結ばれていないなんて納得できないよ。

追記

今一つ調子が良くないな。以前よりマシのような気もするがまだ切り替わらない時が多し、しくしく。

人は年を取る説教を始める

君は物事を知らない。私はいろいろ知ったからそれを伝授しようと頼みもしないのに押し付けて来る。状況説明はいらない。選択権を与えるだけで充分だ。それなのにそれに付随してどうのこうのあなたのため世間はそんなに甘くないと自分の人生価値観を語る。結論がない経験なら参考になるかもしれないがそこからあなたが得た結論はけして役に立つとは限らない。あなたの場合はそうだったというだけでしょう。人はそれを忘れて傲慢になる。自分の経験は役に立つと自信を持って全ての場合に適用とする。普遍的と思っている。時代状況が変わっても変わらない一定不変の法則を捉えていると思っている。確かに役に立つ部分もあるだろう。しかしそこを誤って全部を押し付けようとすれば間違いを犯す事になる。歳はとりたくないものだ。

カレンダーから土日を無くせばいいのかも

みんなが一斉に休むと言う休日という概念は現代にそぐわないのではなかろうか。休日の行楽地はどこへ行っても混み渋滞をつくり出す。これでは車も売れない。だんだん世間が24時間365日営業というのが普通になってきておりネットの普及もそれに拍車をかける。それに日本は江戸時代まで日曜休日なんて概念なかったし。だんだん年末年始という感覚もなくなり年中平日なのか休日なのかわからないけど日付でなくてゾーン制にすればいいのかもしれない1月は正月期間でその月の好きな日に正月を祝えばいい。お盆も7〜8月のいずれかにすれば先祖の霊を迎えられるとすれば気楽なもんだ。就業形態もカレンダーの枠から解放されて自由に組み立てられるのではないのか。そしたらどさくさに紛れて週休三日も実現されるかもしれない。そうなった場合それがもう意味を持たないかもしれないが。

経営にはやっぱり神話が必要

アップルのiPhoneが話題である。出る前から相当な噂がありアップルが出す気がなくても出さざるを得なかったのではないかと思われるほどネット上では勝手な予想モデルが出回っていたほどだ。それが本当に出たのだけどやっぱりインパクトは大きい。まさに期待していた事にそっくり応えたと言う事だ。今までは期待値を下がる製品が多かった中で殆ど一致したという事でも大きいのかもしれない。その分実際の販売は半年先という事だが。日本では販売になるかも不明である。だから無関係ともいえないだろう。iTunesも一粒も入れない米輸入の如き雰囲気が無かったわけでもないが何とかオープンにこぎ着けた。iPhoneは特別だからキャリア制限がないSIM書き換えで自由にどこでも使えるようになったら導入もスムーズでそれなら7万円位でも売れるかもしれない。まさに携帯のポルシェだな。問題はGMSか。

 でなんでアップルの一挙手一投足が話題になるかといえばそれはジョブズのカリスマ性に負っている所が大きいと言わざるをえない。ジョン・スカリーじゃだめなんだ。こうなるといくら経営に努力しても限界が見えてきてしまう。CMで経営者がスポーツ選手になぞらえてスポーツができてもダメで私は何をすればいい、というのがあるけれど何をしてもダメかもしれないと思ってしまう。まずは創業時の神話、数々のエピソードに彩られて始めで現在の成功がある。もちろんそれでもいつかは終焉を迎える。アップルはこれまで成功した会社と見られて来た事は無かったがiPodの成功で本格的に花開いた企業に変身できたこれからの企業なのだろう。

 日本にもソニーやホンダなどに代表される神話を持つ企業があってその成功物語はみんなが知る所である。それらが企業ピークを過ぎてしまったのかこれからも再浮上があるのか知らない。しかし今の代表がカリスマがあるかと言われれば残念ながらジョブズほどのカリスマ性はないだろう。それだけで決まるわけではないけれどアップルはとても有利なリソースを保有しているといえる。資源は限られている。特に人材と言う資源は簡単にコピーできないから。

日本ではアメリカンドリームは成立しない

もしそういう人がいても引きずり降ろされてしまうから。どこまでの成功なら許されるのか。ほどほどの寛容が求められる。そこから外れたものは徹底的に叩かれる。成功者が大手を振って人前に出られない日本。そこそこの成功しか許されない。

2007-01-10 日本に生まれた不幸を思い知らされる21世紀

日本にも仕事は罪という意識を持ち込めば変わる

どこから持ってくるかは知らないが広い世界にはそういう価値観も転がっていたような。いい仕事神話というのも何だかんだ言ってもプロジェクト湘な世界に萌える性向の日本人だし。南の島の住人には分からない性格。昔トンガから大相撲に弟子入りさせたらダメだった事があったけど、あれってホントはトンガから見習うべきがあった点なのに誰も気付かなかったとも言える。資源がない日本ではいい仕事だけが生き残れる価値観というのを植えつけられてそれでうまく回っていたのよ。そして今。

ネオルネサンス

近代自然科学資本主義社会は全てを物質化して時間も定量化したがそれが崩れてモノに命を宿し時間から解放されるのがネオルネサンスによる人間解放である。いっちゃってますねと言われますね。

忠臣蔵って結局日本社会に影響を与えなかったのでは

ネタにされて終わってしまった。現代の2ちゃんのように歌舞伎にされて面白い話として消化されてしまって終わり。それは個人の怒りをどう解消するか、組織の怒りをどう収めるのかというテーマであったはずなのに。現状の日本も相も変わらず怒りは抑えなくてはならないものというのが支配的だ。もしかして忠臣蔵のような事件は絶えず起きなければ社会の平衡感覚として作用しないのかもしれない。ならば現代でも日本社会を揺るがす事件として期待されているのかもしれない。

「コインの裏表当て」で表が3回続けて出た後でも、次に裏が出る確率は50%

て本当か。これは確率が無限の回数を想定しているからではないか。例えば4回に区切ったら連続して表が4回出る確率は0.5^4で0.0625だから6.25%である。なら3回続けて表が出て次が表の確率も6.25%ではなかろうか。すると裏が出る確率は93.75%ではなかろうか。いやこんな基本的な事は解決済みなのだろう。そう出なければ確率論が学問として確立しているわけがない。それが言いたかっただけですか。

ここでは3回続けて表が出て次が表か裏かという状態を4回で1セットという視点で考えています。

つまり○○○は確定で次は裏表かという時点の問題で

○○○○

○○○●

結果は上のようしかありえませんが本当に4回目も表裏とも50%なのかという素朴な疑問。

6.25%は12.5%で次も表が出る可能性は50%だから12.5×0.5で6.25%か

で裏が出る確率も50%だから○○○●も6.25%

しかしこれは全ての順列の中での確率で今は○○○という12.5%後の確率を問題にしているのである。

個人が怒りを表明できる世界は天皇制と両立できますか

そんな大げさな。でも究極的にはそこに行くしかないのでは。直接の怒りを回避する手段がメタの存在を置くシステム。このシステムが綻びているんじゃないの。怒りと尊厳は別なものだから怒っても失礼に当たらないという事を受けいられるならシステムの存続は可能か。

ホワイトカラーエグゼンプションはワークシェアリング日本版?

こう言われれば誰も文句を言えないだろう問題設定。文句を言う奴は既得権者。改革に反対する奴は既得権者。

アップルコンピュータがアップルに社名変更

電話とテレビで一般家庭に進撃開始。誰も21世紀がアップルの時代になるなんて予想しなかったな。まだなってないって。

アップル社名変更、Apple Computerから"Apple Inc"へ - Engadget 日本版

N 「iPhone」発表

Appleの社名が変わった日:Alternative 笑門来福:オルタナティブ・ブログ

2007-01-09 自転車で寒気分け路面輝き目的地

逆鏡の法則

息子が虐められているようだと最近気づいた。友人に相談した。そしたらあなたのせいかもしれないと言われた。あなたは怒りを我慢していないかと言う。あなたは誰にも怒らない優しい人だが息子にも誰にも優しく接するように押し付けていないか。怒りを我慢するように教えていないかと言うのである。確かにそういう部分が無かったと言えない。しかしそれは日本人なら誰でも当てはまるような標準的なレベルではなかったかしら。あなたの抑えられた怒りが息子に当たったりそれを息子が我慢したりしているという。あなたの怒りを解放しなくてはいけないという。友人と別れ家でゆっくり考えていくとその原因がむくむくと沸き上がって来たのである。私は2〜3日決意も新たに厳しい顔つきで息子にも接し、ついに実家に帰って父親と大げんかを始めたのである。それは私が生まれては初めて体験するようなアパッチ砦の皆殺しのような怒りだ。狂ったようにわめき散らし近所でも大評判になるような大げんかを父親に向かってしたのだった。そして父親に俺が悪かったと言わしめたのでした。

 私は勝利の雄叫びを上げ口笛を吹きながら自宅へ凱旋したのだった。そしたら息子が明るい笑顔で迎えてくれたのです。お母さん僕もはっきり言ってやったよ、もう止めてくれって。そしたらみんなも応援してくれて相手も謝ってくれたんだ。成る程、友人の指摘は間違っていなかったようだ。息子はここ2〜3日の尋常ならない私の態度から何かを悟ったようなのである。そしてそう私に助言してくれた友人に感謝したのである。

女高生追い抜き際ミニスカートを手で押さえ冬の朝

みんな日本を破滅させたがってる

それしか日本の再生の道はないから。そう考えると全てがうまく説明できる。

永遠はそんなに永くない

あなたが瞬きした瞬間に一億年が過ぎたという事を否定する証明はできない。意識がなければ何億年経ったってそれは一瞬の事である。だから永年という感覚は意識の継続期間の事だろう。人間はどの位長く意識を継続できるものなのか。大抵はもういいかと意識の継続の意欲が落ちて来るものではないのか。そうともいえないか。千年くらい継続したいと思うだろうか。そういう人がいないとも限らない。切れない電球のようにそおっと人間の中に紛れているかもしれない。

厳密に言うとみんなニセ科学なんです

この世に完全に綻びが無い完全無欠の法則なんてないんです。どんな法則にも限界点があって法則に沿わない事例が出てきてしまいます。しかしそれは目をつぶっていても大概には影響しませんので旦那黙っていましょうぜっていうのが大人の約束、現代の科学です。だからニセ科学だってそんな大ピラに批判するとお鉢が自分の所に回って来てしまいます。そういう厳密性は社会は求めていないんだからいいじゃないか。それより社会の混乱を巻き起こす明らかなニセ科学は有害であると。我は正義であるぞ。ドンキホーテにならないように気をつけよう。

人はなぜ会話などという無駄な行為をするのだろうと

これは考えた事があるな。人は何か結論を導くためというより戯れの為に会話をする。こうして空いた時間を埋めていく。

小説のアイデア

現代の怒れない若者がなぜかタイムスリップして大石内蔵助なっている。意識は確かに現在の若者なのに知識はちゃーんと家老の知識を持っているという不思議な状態にあった。始めは家来達の怒りも分らず翻弄される若者であったがやがて自分の事として認識し討ち入りをするまでを描く。本当はどうでもいいと思いながらも現状から抜け出す事もできず俺は大石でないと叫んでも誰も信じてくれない。そして仕方なく回りに流されて討ち入りをするはめになってしまう。しかし怒ってもいいのかもしれないと思い始め討ち入りを自分の仕事として進めていく。タイムスリップものももう飽き飽きではあるが。

英語ってやっぱり才能じゃない

それを言っちゃあおしめいだよ。でもつくづく思うのであった。もちろん効率がいい教育というのが存在するのだろうけど嫌々覚えても仕方が無いもの。昔の英語教育だって英語が得意な人はしゃべれなくてもすらすら読める人は多くいるわけでインターネット時代にとってもマッチしていると思う。実際話す機会より読む機会の方が圧倒的に多いだろう。今の時代状況を考えたら英語文法教育の見直しがされてもいいかも。

本も同じ厚さでも半日で読めるのもあるし一週間かかるものもある

とにかく考えるというのを要求されると立ち止まってこれってどういう意味となり何回も同じ所を読み返す事になる。そうなるとさっぱり進まなくて前のページをひっくり返したり。こういう時本って便利だと思うモニターのスクロールだと中々こうは行かない。でもキーワードを探すとなると本は不便だけど。普通の小説はまぁすらすらと読める。インタビュー形式だと表現に凝ったりしないのでもっとすらすら読めたりする。春樹のアンダーグラウンドの厚さにちょっとビビったけど意外と早く読めたりした。二日位だったか。

理解できる事は初めから分っていた事というと

なーんにも新しい事なんて知り得ないわけですが、それが人間の限界というやつですか。人間が知る事ができる事は予め定められている。理解するという事は体が分っている事を単に言葉にできる事だったり感覚で分っていた事を言葉にしただけだったりする。ナーンだとがっかりすべきか安心すべきか。

 人間は初めて見る景色を理解できないといわれる。景色を理解するのは今までの景色との共通点から認識を構築していくから。ここに見えているのは何々かもしれない。何々ににているな。初めて見る火星や金星の地表の写真も砂漠や月の表面からの類推でしかない。常に似ているものを探している。つまりある程度のデジャブ(既知感)がなければ映像というのは理解不可能なのだろう。だから赤ん坊が初めて見る景色は理解不可能でそこには意味不明な色や形が浮かんでいるだけのはずである。しかしそこからどう理解が深まっていくのか。それには原初のデジャブが必要ではないのか。全くの白紙だったら何も新しい事を知り得ないという事と矛盾するから。それが生前の記憶。本能。

フェルマーの最終定理という本がある

その時はそれなりに面白く読めたような気もする。しかし今何か残っているかと言われれば何も残っていないような気がする。殆ど何も覚えていないのではないか。何か苦労して数学界の永年の解けない問題を解いたという話。そこには数学界の歴史やこぼれ話があって問題の歴史が有って概略が分るような進め方であったようだがそれが何なのだろう。これは道徳の話なのか。そういう見方をしなくてももちろんいい。数学の専門的な課題は何も分らずその周辺を眺めるしかない。良かった良かったという感想。それ以外にどういう意味があったのかさっぱり分らない。

やって来ない未来過ぎ去った過去

宿題を明日明日と言っていた少年は母親に明日は永遠にやって来ないと嗜められる。明日は日付でなくてその行為で持ってやって来る。少年が次の日に宿題をしたならば確かにその明日はやって来たのである。やらなければいつまでもやって来ない明日。しかし宿題をやったならばそれは固定化され今日になり昨日になり印を付けられカレンダー上に固定化され歴史の一日となる。

 ガウディのサグラダ・ファミリアは未だに未完成で建設中である。という意味で建立何年という言い方は不可能である。しかしやがて完成すればその時から過去に置き去りにされてしまう事になる。つまり着手して継続中ならば未来はやってきながらも過去に過ぎ去る事も無いというわけだ。現在に固着して手から離れる事が無い。決して完成しない作業に着手すること。それが現在を生きている。

2007-01-08

現状の自然科学が終わる時

現状の自然科学は近い将来軌道変更を余儀なくされるかもしれない。それほど自然科学は追い込まれている。ニセ科学の隆盛もそれと無関係ではない。厳密には科学はニセ科学を否定できない。全ての仮説は有効であり無いことは証明できないのだから。スピチュアル・ブームもその前哨かもしれない。人心は科学から離れていき水伝が支持され世はスピチュアル全盛となる。その時科学はどう人々に説得力のある説明ができるだろうか。もうその時は誰も聞く耳持たないかもしれない。しかしその時になっても科学は自分達がしてきた誤りに気付かない。というわけ。

Ω小説

この作品が公開されたら人類に多大な影響を及ぼすかもしれない。そう思ったらそれを公開できるか。誤って自分が処分できないまま死んでしまったら。それはΩ小説として人々の噂に上り取引金額一千億円の値が付いた。しかし公開できない作品が金額に換算されるのか。その勘案が微妙に取引金額に作用した。そして闇から闇と流通すると噂された。ある人は一読してみたいと、その人類の挑戦に挑んでみようと思いある人は一攫千金を夢見て。暗躍する大組織を巻き込んでやがて未曾有詐欺事件と発展してください。

カフカの心配

カフカがどうして書き残した文章を処分してくれと望んだのかは世界を破滅させたくなかったからかもしれない。カフカは記している、どうして本を書くのか。それはハンマーで地球を叩いて人々を目覚めさす為、津波のように。(意訳)しかしその結果人類がショックの余り絶滅してしまうかもしれない。事の重大さに気付き自分が人類絶滅の張本人にならない為にも処分を望んだのではないか。幸い彼の文章が公開されても人類は絶滅しなかった。彼の杞憂に終わったのかもしれない。まぁそれだけの影響力を心配してしまうというのが本物の文学なのかもしれない。何も知らないままでいいからそっとしておいて欲しいというのが圧倒的大多数の意見なのだから。

生命の神秘は引力にあった

互いに引き合い離れがたい。その引力の作用が生命の本質。生命の根本。生命誕生の秘密。というのはここだけの話。

こうやって文章を書いているって自己満足なわけですが

これは自分用のメモですというエクスキューズ。メモったって見直ししなければ何のメモだ。言いっ放しの書きっ放しなのに。思考メモ、頭の体操、覚書。何だかんだ言ったって見てもらいたい読んでもらいたいというのが無いと言ったら嘘になる。もっと人生楽しければこんな陰気な作業なんかしているわけがない。ここからの脱出が当面の目標。少なくてももう少し減らすべきなんだ。

明日

明日は嫌な日だろうか。つまらない日だろうか。何かやりたくない事があって来て欲しくない日だろうか。山ってヤツか。しかしどうやったって山は過ぎる。適当に過ごせば適当に。それなりにすればそれなりに。やりたいように成る様にしかならないのが現実さ。できる事しかできない。大丈夫できない事がいきなりできたりはしないさ。もし明日がつまらない日なら楽しくしようぜ。ドタキャンなんかも中々いいかもしれない。やった事ないなら一度は試してみる価値があるかもしれない。ああしかし自己責任で願います。私に文句を言われても困ります。どうしたら明日を楽しく生きられるか。計画を立てよう綿密に。寸分も狂いなく。ワクワクするような計画を。そしたら明日の楽しさは今から先取りしている事になるからさ。そしたらそれが失敗しても悔いはない。だってもう充分楽しんでしまったのだから。言い訳っぽい?

少年老い易く学成り難しと

そんなものかと少年の時は思う。時間の圧倒的歩みの遅さは自分が大人になるには100年位かかるように感じる。そうして無為な時を過ごしていてふと気付くと中年を過ぎている自分に気付く。嘘だろう、オレの時間を返してくれ。オレはそんなに歳を取った覚えはない。何時の間に時間が通り過ぎたんだ。オレが瞬きしている瞬間か。少年達よ気を付けよう、瞬きしている隙に時間が過ぎ去ってしまうからもしれないから。まぁそう思うのは中年以降の人ばかり。なので子供にそんな事を語ってはいけない。それこそ年寄りの…。

現代人は結局は霊魂を信じていない

科学は現代人に多大な影響を与えている。たとえ科学だけで世界が説明できるわけではないと思っていてもやはり死んだら何も残らないかもしれないという不安を拭い去る事はできない。そういう意味では宗教が霊魂の永遠を保障していてくれていた時代の人間は幸福であったという事もできる。現代人はそれを信じるとしてもその保障を自分で賄わなければならないのだから。信じない人も無意識では何かを信じている。信じている人でも無意識では何かを信じていない。

自分は同じところばかりを回っている

いろいろな事を考えていても結局は同じ周回路を回っているだけ。この角は前も通ったな。この道はいつか来た道。新しい景色が見えたと思ったのは気のせいで光の加減が変わっただけ。自分は何も変わらない。新しい知識は増えたような気がするけど何も変わらない。似たような判断、似たような選択。斬新な発想なんてどこにもない。自分はどこまで行っても自分でしかない。自分からは逃れられない。まぁそれでも新しい視点を与えられれればしばらくは遊んでいられるさ。

○○問題

彼は怒っていた。けれど彼の怒りを理解してくれる人は誰もいなかった。この地球上で誰一人として。何を怒っているのかとみんなが聞き、彼は説明を試みるがその論理は複雑で誰も理解できなかった。さっぱり分からん、何を怒っているのだ。そもそも怒るような事なのか。単なる我侭。ある人は何もないものに怒っているという。ある人は誤解していると言い説得を試みるが話はかみ合わなかった。彼は人類が今まで気付かなかった事に一人気付いてしまって怒っているのだろうか。しかしそれを認める人は誰もいなかった。彼の怒りは無視されそのような構造は存在しないと忘却された。

 彼はその怒りをたった一人で証明しなければならなくなった。その怒りの認識をみんなの前に提示せねばならない。こういう事が起こっている。この酷い状況がどうして怒らないでいられるのか。彼の怒りを消滅させるにはその怒りを発生させている構造を解消させるか彼が消滅するかのいずれかしかなかった。彼は自分が消えていなくなるなんて考えられなかったので当然のようにその構造の解体を目指した。それは余りにも無謀な闘いだ。世界にたった一人で挑んでいくなんて。ただのバカだ。当然のように彼は死ぬ。ただの馬鹿が一人死んだだけだ。世界は何事もなかったように平然と存在する。しかし彼がとった行動は何時までも記憶させられる事になり○○問題として永遠に封印される事になった。

紅白でオズマ初め知り

いや、ホントは知ってたけど。

これは人の世に触れさせてはならぬ物がアートである

文学も絵も音楽も人にみせてはいけないものと思わせるものだけが本物。それを人に評価してもらおうとする矛盾。そんな事をすれば抹殺されてしまうという危機意識がない時点で温い馴れ合いの文化なのだ。

自分がダメと思うのはどういう事

何が良くて何がダメなのか。ダメと思うのは自己評価ではない。ん、自己評価に見える?それは既に暗示にかかっている証拠。何が良くて悪いかは社会が決めたものでしかない。社会が発展継続できる行動が良いでそうでないのは悪いなのである。社会はそういう指針を与える事で効率よく資本を回収しようとしているだけである。だから社会の役に立たない行動や性向をダメと思わせることにより社会を効率化させようとした。

 だから本来ダメと言われる性向なんて有りはしない。消極的なのも声が小さいのも暗い性格も狭い心も嫉妬深いのも全てダメと言われるものに何の正当性もない。一体こんなにダメダメダメと言われ続けた精神的苦痛をどう償ってくれるのだ。社会に対して賠償して欲しい気分だ。今まで受けてきた精神的苦痛に1億円支払えと叫びたい。もちろんそういう状態を放置してきた国が被告だ。

 自分がダメと思って更正しなければならないと思わせた罪も大きい。このままでは自分はダメになる。自分が滅びて消滅してしまうという不安。とても金で済ませるような問題ではない。し、謝罪だぁ。国は三遍回ってワンと言ってくれなきゃ気が済まない。

 何もダメなんてない。全てOK。そのままの君でいい。どうしてそう社会の歯車に成らなきゃならないんだ。全ての自分を全肯定せよ。恥ずかしいのも人前に出たくないのも声が小さいのも上品で控えめで奥ゆかしいだけなのだ。心が狭いのは細かい事が気になるだけなのだ。そんな自分を責めてきた社会に復讐せよ。怒って怒鳴りつけよ。間違っていたのは自分じゃなくて社会の方だろう。ずっと騙されてきた。自分はダメだと思わせてきて利用され低い報酬で甘んじてきたのである。しかしそれは全て嘘だったのである。正当な報酬を要求せよ。正当な権利を要求せよ。社会にとって都合がいいという理由だけで精神的に追い詰められた。

 もう何も変えない。嫌なものはイヤ。もうあんたの言う事は何も信じない。今まで言ってきた事は全て嘘だったのだから一発ぶん殴っても文句はないよね。

若い人というのは礼儀が正しい

成人を迎える人へ

礼儀がないのは中年以降である。特に電車の中とか。人に触れても気にしないとか。それはかなり昔からか。ずうずうしさというのは中年以降の特権のようでもあるが。若い人でもそういう人はいるだろうが人前で恥ずかしいという感覚が残っていればそうずうずうしく振舞えないもの。見習う大人なんかいないさ。

世の中おかしいとか人の情が無くなったとか

何を世迷言いってんだ。世の中変わった事が起こる、驚く。そしたら社会の敗退だ。惰眠を貪り続けた報いである。社会はあらゆる事を想定して準備しているべき。よしんばインフラが整っていなくたって想定できる分析界があってしかるべきなのだ。それを用意できないのが社会の不備なのである。思想界も文学もまるで役に立たない。その辺にいる普通の人が時々起こす事件に付いて行けなくて後追いしているのが現状だ。

 とにかく社会が驚いたら社会の負けなのだ。世の中を驚かしたらそれはその人の勝ち。当人が自覚しないで行ってしまう行動もあるだろうがその場合はその現象を分析できなければ社会の責任。確信犯ならその人の創造力の勝利である。文学も評者に媚を売っているようでは終わりである。もし文学的でありたいとしたらそれは現代社会において禁書扱いされる事が最高の名誉であるはず。現代は表現の自由ということで文学表現を直接禁止する法律はない。しかし偶に別な理由で議論を巻き起こすものもある。最近ではバトルロワイヤルとか完全自殺マニュアルとか。

 誰も社会をうまく説明できない。それは社会が生きているから絶えず変わり続けるから。道徳がないと言いながら誰も現代にあった道徳を用意できない。道徳が大事ってそれはどこにあるの。今更孔子とか教育勅語とか持ってくるのかよ。時代は21世紀なのに。もちろん古いものが役に立たないとは言わないけれどせめて見掛けぐらい現代の装いをつける労をとってもいいんじゃないか。それもしない社会だから先生達は迷って「水からの伝言」を道徳として持ってきてしまう事になる。これこそ21世紀の道徳だってね。社会のインフラが整備されていないからである、教育というインフラを。

 世の中を驚かせ。大人を唖然とさせろ。それだけが勝利の条件。焚書こそが書物の栄誉。みんながテレビに媚を売って成功だけを求めるなんて何て気持ち悪くて平板な世の中だ。

2007-01-07

ホワイトカラーエグゼンプションの前に脱力する

一体クリエイティブと言われる職種の人はこのホワイト〜をどう考えているのだろうか。おれ達には関係無い世界の話だ。俺達は自ら進んでこの職業を選んだのだから問題は何も存在しない。そう言い切れるのか。こんなんでお鉢が回ってきて好きな仕事がとことんできなくなるのではと戦々恐々としている。残業がない仕事と言うのは昔からあるけれどそこからある種の社会の壁を感じてしまうのは間違った感覚なのだろうか。それともやっぱり騙されて来ただけという話なのか。

間違ったっていいじゃないか、だってブログだもの

思考の使い方を間違える。外界の外力に対する応力のように思考を使う事。思考という内力から外界に働きかけてもうまくは動かない。

私がマニュアル恐怖症なのもクラッチという原理を頭で先に考えてしまって操作を感覚で掴まなかったからだろう。私の人生は多分にそんな所が多かったのかもしれない。様々な現象に出会う前に事前情報に触れて恐れてしまう。情報社会の弊害はそんな所にもある。思考から入って恐れてしまう。感覚から世界に入っていけないのだ。それも不幸な事かもしれない。

リアルを無視して言語遊びに陥る危険性

ネットやブログ限らずともそういう事態に陥る事はよくある。間違った結論に陥ったツケは自分達が支払わされる事になる。書を捨て街に出ようとかネットを離れて旅に出ようというのもそういうつもりで言ったわけでもないかもしれないがこういう部分も含むだろう。

 どうしても頭でっかちになってしまうと現実に触れることが怖くなってしまう。あらゆる可能性に怯え警戒する。そこから2次元思考に低落する人もあるだろう。現実は行動に対して反応返す。アクションにリアクションだ。それを経てからの思考でなければどんどん現実から離れてしまって虚構の塔を打建てない。それは厳に慎まなければならない事だ。まずは現実を知らなければならない。人の噂も風評も無視して自分の目で自分の感覚で現実を掴む。そしてそれを言葉にしてみる。そこには絶えず誤差が出るから軌道修正しながら一歩一歩歩を進める。と書いている事もまたリアルから離れた思考でないか反省する慎重さが必要だ。

2007-01-06

ありもしない問題を捏造する

人間の頭でっかちは時々このような問題を造り上げてしまって、みんなでああでもないこうでもないという行き止まりのどつぼに嵌ってしまう。これも思考を発達させた両刃の剣、代償というものか。

感覚が主で思考が従

例えば自転車に乗れるようになる事もこれに当てはまる。いくら頭で考えても自転車に乗れるようにならない。自転車に乗れるというのは感覚的なもので思考ではどうにもならないものだ。しかし乗れるようになってからこれはどのような事が起こっているんだろうと考える事はできる。それは乗れるようになる前では決して分からない事が解明される場合もあるかもしれない。

こういった頭だけ思考だけでは分からない事がスポーツの世界ではある。最近は科学的分析がかなり進んできているが少し前まではホームランを打つときのイメージトレーニングとかはそういう感覚的なものもと理解されてきた。しかしいつまでも感覚的なものであるではスポーツも進化しないので分析的解明が進むのだろう。しかし入り方として感覚的に自然を把握して、思考で反省や分析を進めるというのが大事なのだろう。そこを感覚を無視して思考だけで進めるとうまくいかなくなってしまう事がある。

ムカデが自分の足の動かし方を考えたら歩けなくなった

という話は喩えとして用いられるもの。人間は思考を他の動物より発達させてそれを武器に繁栄を築いてきたものだ。しかしその思考が時には仇になって思考自体を考えるという事をする。そうするとうまく思考できなくなって金縛りになってしまう事がある。自然に考えられない。目の前に見えることが見えなくなってしまう。そういったノイローゼ状態に少なからず陥る。そうなると日常生活がうまく送れなくなってしまう。すべて頭で考えて行動するようになると感覚で生きる事ができなくなりギクシャクしてしまう。そうなると恐れが先に立ってしまう。あらゆる可能性を考え心配が先にたってしまい感覚的に掴んでいる確率を無視してしまう。1%にも満たない現実に恐れてしまう。思考は感覚の補助として働かなければ日常生活はうまく送れない。常識的な感覚がなければ一歩踏み出した地面はずぶずぶと沈んでしまって地面に飲み込まれてしまう恐怖で一歩も踏み出せなくなってしまう。そういう経験から乖離した思考は当に歩けなくなったムカデである。感覚が主で思考が従でなければ人間はうまく動けないという部分はある。

過去は変わるのか

自分が変われば過去も変わる?あの嫌いだった時代は自分の思い過ごしで本当は別な様相を呈していたのではないか。見方を変えれば別な姿が見えてくる。よく言われている時代解釈こそが誤解を招く要因ではないのか。時代に色なんて付いていない。色々な事件や現象の表層だけがその時代を特徴付けているだけでその内情はいつも何も変わっていない。と言ったら言いすぎだろうな。何らかの精神的変化を認めないなら人間の精神史を否定する事に繋がる。その積み重ねを全否定するなんて。しかし過去は常に新しい解釈によって更新され続けていくのだ。

ブログという不幸な時代

誰でもものが書ける、情報が発信できるツールとして普及したブログだが書けるだけで満足してしまっている部分が無いとはいえない。つまりこれまでなら自分の書いた文章を人目に触れさせようとした場合は公募なり怪文書なり制作に苦労が伴ったものだが何の苦労もなく文章を公開する事が可能になってしまった。その事で自分の文章を変化させるという動機が減少したのではないのか。何の制限もないというのはどんな悪文と言われるものも公開可能だ。まぁそれはアクセス数という評価によって担保されるのかもしれない。しかしどうせアクセス数なんて稼げないというレベルでは公開する事自体で満足してしまって技術向上という志向が失われてしまっているのではないかという危惧があるわけである。ブログがそれを加速させていると考えるのはそうおかしな事ではない。

2007-01-05

水伝が科学だっていいじゃないか

科学がいつから本物の科学と偽物の科学に枝分かれしたのか知らないけれどそれだけ偽科学が氾濫してカテゴリ分けしないと分りづらくなったという理解で宜しいでしょうか。あまり科学の間でお前は偽物だ仲間に入れないあっち行けという光景を見るのも美しくは見えないけれどそれが人間の実態なのだからやむを得ないという事か。そうして我ら本物の科学、お前ら偽物の科学というのも傍目には派閥争いにしか見えないわけですけれども当事者の間ではこれは全く次元の違う話としてレベルが違う偽科学と一緒にすんなという気分なのでしょう。では派閥争いとどう違うのかというとそれは同じ科学的態度を共有しているどうしで偽科学とは何ら共有する所がないという事でしょう。しかしこれもスケールの問題で全く同じ事を共有していたら派閥争い等起こりえないわけです。あんたらとはここが違うから同じ派には属せないわけでこの違いのスケールを広げていくと偽科学に行き着くわけです。なあんだ結局スケールの違いの問題かよという事で傍目には50歩100歩の違いしか見えないのが偽科学の隆盛の原因でもあるというわけですね。

時代劇にロマンを求めるなと言うのも野暮ってもんでしょうね

その都度その都度現在を生きてきたのだから今と変わらないのよ等と言って冷や水をかけるものではない。幻想は人のモチベーションにかなりの影響を与えているのは確かなのだから。しかしそれが間違った方向に行ってしまう時もあるから要注意ってわけなんだろうけど、誰がそんな事を偉そうに言える特権が存在するかというとそれは正しさと言われるモノ何だろうけどその正しさを証明するのは結構面倒くさい。だから歴史なんて間違っていてもま、いいかと流される事になる。

確率50%というのを人はどう体験するか

例えばこれまでどの位50%の確率を体験してきたか。サイコロで偶数が出る確率。コインの裏表を当てる。次の車のナンバーが偶数か奇数か。次にやってくる人が男か女か。そういうほぼ50%と思われる事象を通して50%の感覚を掴む。そういう体験がなければ50%という概念は得られないのかという疑問。それは論理ではないのか。50%というのはコンピュータは認識できるのかと言われればそれには意識が必要でしょうとなるのか。

シュレーディンガーの天気

猫を殺すのは忍びないので天気に置き換えてみた。そこでいくつか実験の準備が必要になる。

明日の天気の降水確率が50%として観測者である私は海外出張でハワイに行ってしまう。その間情報隔離されてしまい世界の天気が知り得ない立場にある。次の日戻ってきて昨日の天気はどうだったという時昨日の天気は雨が降った状態と降らない状態が重なり合っていたと言えるのか。この時昨日は雨が降らなかったと知らされた時降らない状態に収束したと言えるのか。その時、私以外の人間は全員天気を知っていたので観測者が一人でないことからこの実験は失敗している事に気づく。閉じられた系でないとこの実験はうまくいかない。

世界五分前仮説があるなら世界有視界仮説というのもあり

なぜ五分なのか知らないけどまぁ仮にという事なのだろう。それに比べれば有視界仮説の方が現実性が高いような気がする。つまり世界はあなたが見えている範囲だけでできている。CGのように見えてない部分は虚無の何も無いのである。だから前を見ている時は後ろは何にもなくてあなたが振り返った瞬間に世界が生成するのである。(こういうのは昔のアメリカのアニメにもあった。)あなたが移動するごとに景色は変わるが世界はその度新たな景色を用意して生成していく。だからあなたが移動するたびにリソースが大量に消費されていくのである。省エネの為にも移動は最低限に済ませなければならない。そうしないと世界生成ユニットがオーバーヒートを起こして停止してしまうかもしれない。そういうのは惑星ソラリスにもあって地球へ還ったと思ったらソラリスが造り出す仮想現実の中で過ごしていたというオチを見せていた。

世界が私たち世代で終わってしまうかもという不安

こういうのもいつの時代にもあっただろう。世も末、世の終末論はいつの時代にも囁かれていた。それは今という時の過酷さを物語ってる。しかしそれはいつの時代の人も辿ってきた道であり昔は良かったで済む話ではない。いつの世も困った事態が起き天才的といわれる為政者は奇抜な発想で打開を計った。常に奇抜な発想が為政者に求められるわけではないけれどカリスマ性を獲得するには必要な要素である。ただ次世代に引き継ぎたいと思うだけでは爆弾ゲームのようにさっさと自分の代が過ぎてしまえばと思うだけで何の楽しさも無くなってしまうが別に世が滅びるのは自分のせいではないとすれば何代続いた世であろうとプレッシャーを感じずに済む。自分ではどうしようもないものをどうにかしようなんて考える事自体不遜な態度というしかないわけでなるようにしかならないというのがある意味正しい態度というわけである。

慣習という絶対的な力

慣習の呪縛は強力で一人で止めようと思ってもできない。年末に挨拶に行ったばかりなのに年始の挨拶にまた出かけるというのも効率からいったらものすごく悪いものだが効率が悪いから止めようとはならない。このように慣習とは日常に潜んでいて強力に私たちを束縛するものだが優先順序として無意識的に第一のものになっていると考えるべきものなのだろう。これが国のあり方とか伝統に深く結びついてそう簡単に変える事ができない強固な輪郭として存在している。それを短時間に変えようとするならば膨大なエネルギーを費やさなければならない。しかし時間が経てばイヤでも無料で変わっていくものもある。放って置いても変わるならコストをかけて変えるなぞ無駄以外の何者でもないがいつまでも変わらないならコストをかける必要がある。その見極めも難しい事ではあるな。

ドキュメンタリーの限界というのを考える

例えば素人が街でカメラを回しても何のメッセージも浮き上がって来ないわけですが、プロが回せばそれなりの問題点を捉えそれを告発するようなストーリーを練り上げてしまう事ができる場合もありそれが良い事、プロの技と賞賛されたりするわけです。しかしそれが現実を映していないとしたらそれはねつ造とされても致し方ない所です。ならば何もメッセージ性を持たない素人のカメラの方が素晴らしいものではないのか。しかしそんな何のメッセージ性がない映像が人々の人気を得られるはずもなく、ストーリーを求めて西東、雨に打たれて三千里が正しいカメラマンのあり方というわけです。立体物をぐるっと回って一番特徴を出してる面がいい映像というわけですがそれはその立体の一面でしかありません。その一面だけを取り上げて騒いでも全体を捉える事はできない。何もない平凡なアングルも重要度では実は変わらないという見方もある。では何が良くて悪いかなんて誰にも決められない純粋客観主義も否定されている。主観がない映像なんて何の意味があるんだというわけ。しかしそれとストーリーを無理矢理見つけるとは違うものだ。主観でありながら嘘にならない配慮というのは求められるはず。人に見せる時の限界というのがそこには現れるのかもしれない。

個人個人はずっと冷静というか静観しているもんだな

紅白のオズマ事件でも兄妹バラバラ殺人でも個人の感想というのはずっと冷静で冷ややかなものだ。煽り立てるマスコミ週刊誌をよそにずっと残酷な事を考えているものだ。そこには社会正義を背負う意気込みもないし人間の残酷さを知り抜いて人の優しさに訴えるような温さはない。妹に何浪もしている兄が詰られてお前だって芸能事務所から契約解除になったくせにお前から言われたくないみたいな修羅場が目に浮かんだりして、そしたらかっとなって思わず殺してしまうのも分ってしまうものである。人々は本当の所をみんな知っているのにマスコミも週刊誌も本音を書けず政治的に正しい意見というのを吐いてばかりいる。こうやって建前と本音という垣根が築かれていき誰も書いている事を信じなくなっていく。そういう建前と本音という部分で紅白のオズマ事件は面白い現象ではあった。あれがいけないという理由を子供たちに求めるが当の子供たちははしゃいでいたのではなかろうか。困惑しているのは大人たちばかりで何とも裸の王様を見ているような気分だ。概ね人の為に何かを守るというのは守っている人の自己満足に陥りやすいものだ。当の人たちは何でもないのに隠れ蓑にされて誰々の為に戦うなんておかしな事になる。まずは本人が戦ってそれを支援するというのではなくてはならない。ここでも順番が重要性が問われる。

人の話が聞けなくなる

子供の頃は人の話に意外性を感じる事もあったが何回も聞いていると大体のパターンというのが掴めてしまう。そうするとああこれはこういう事を言っているんだなぁで終わってしまいろくに人の話等聞かなくなる。最近富みに思うのは結局人は誰でも自分に都合が良いように世の中を解釈しているんだなという事である。そんなものは自分が思っていればいいだけの話で人に話す事じゃないだろうとは思うものの知っている事は人に話したくなるのが人情というわけでこのブログもそういうものなのである。こうしてみんなが言いたい事だけを書きなぐるのがブログというわけで文字を連ねてもコミュニケーションに繋がるとは限らないのが現状である。

2007-01-04

英語のYesとNoは日本語のはいといいえと違うと教わったもんだが

最近ははいといいえが混乱気味。かといって英語のように厳格に使われるわけでもない。あぁとかううんとか結局は曖昧なのだが英語の影響も受けているというか元々そういうものだったか。日本語って厳格に文法で決められるほどしっかりした法則が働かないような気がする。

NHK紅白の事件とシンドラーエレベーター事故の謝罪の類似性

謝罪の内容が他責的でその謝罪で更に人々の怒りが増すところが似ていると思った。でもNHKの件は死者が出たわけでもないのでどうでもいい問題なんだろう。

行列の意味

日本ではどうして行列ができ易いかに議論が起きる事があるがお正月を過ごしていたらその謎が解けた。お正月と言えば初詣である。どこの寺社へ行っても初詣でごったがえす。そこでは当然行列ができる。そういった起源を持つ行列には行列自体に神聖的な意味合いが生じる事になる。つまり神にお参りする前の儀式として行列が位置づけられるのである。

 これは目的を達成するまでの苦難の意味合いにも重ねられる。神に出会う為の苦行としての行列。自由に動き回れずただひたすら待つという不便な行為が神に祈りを捧げるという良き事、願い、目的の為に経なければならない手続き、困難、苦労なのである。つまり山頂に至る為には苦労して山を登り続けなければならないのと同じように、成功する為には、目的を達成する為には苦労が必要という思考意識である。だから何の苦労も無く成功したり目的が達成されてしまうと人は不安に陥ってしまう。こんなに簡単にできるはずがない。何かの間違いではないか。

 そこで人は自ら進んで苦労を求める事になる。PS3を手に入れるにも、おいしいラーメンを食べる為にも簡単に目的を達成してはいけないのである。そこで行列という不便を自ら受け入れ目的を達成した時の喜びを倍増させる術を身に付けたのである。だから車の渋滞も目的地に到達する為の受難でありそれは必要項目として渋滞解消が優先項目に浮上しないという事態が生じる事になる。行列は日本人の精神に欠かせない神聖な行為なのである。

2007-01-03

飲酒運転のうそ

お正月である。もう過ぎたのである。まずは一杯とお酒を飲んだ人も多いであろう。しかし車社会なので一杯よばれた後は車で移動する機会も多い。この時何の規制があるだろうか。ビール一杯飲んだら何時間経ったら車を運転していいのか。個人差があるから人それぞれなのか。結局はアルコールが検知されるかどうかの問題なのか。ならば家庭用アルコール検知器が普及していなければならぬだろう。それでOKなら車を運転できる。それでやっと飲酒運転禁止のルールが完成する。そういう整備がされていなくて掛け声だけで飲酒運転は止めましょうと言っているのだからおめでたい。お正月だから御神酒一口、シャンパン一口という場面もあるだろう。一口だから平気平気、そんな事もできなくて何が日本の伝統と美しい日本だという事になる。一口一口と言いながらあっちこっちと回っていたら泥酔である。お正月に飲酒の検問という野暮な事はしないのかニュースも聞かないけど一応パトカーはよく見かけるようだ。

世の中の決まりや慣習に正面から向かえないという性向がある

だからそれに対して斜に構えるという態度を取る。それは多くは反抗だったり消極的受け入れだったりする。それに私は従わないわけではないけれどすっかり納得したわけではないですよというエクスキューズである。こうしてすっかり社会の歯車に落ちつぶれたわけではないという存在証明を見せようとする。そういうのも自己満足の下らない行動しかないのかもしれない。

だらだらと

昨日が過ぎ今日が過ぎつつ明日が来る。そして今年も3日が過ぎた。この今を過ごすという現象は太古から続き誰も逃れる事ができない。誰もが今を生きてきた。その時のある材料で知恵を絞って困難を乗り越えていく。いつでもどういうわけか困難な問題が横たわっておりいつもその時が変化を齎すキーワードを孕んでいる。いつも同じ問題に同じ対処をしていると飽きられダメだしされる。それはお笑いのネタでも常に新規のネタが要求されるように校長先生の話もいつまでも二宮金次郎では持たないのである。政治的正しい意見を求められながらもいかに新機軸を打ち出していくかは笑いのつぼを外さないながらも新手のネタを求められるお笑い芸人の苦労に共通する。

 こういう対処に新規で大胆な対応を見せたのが歴史的な偉人として名を残したりしてそれがカエサルだったり織田信長だったりして天才と呼ばれる所以である。だからといって誰でも天才になれるはずもなく、なる必要もないのである。それは時代と人材が交差した瞬間でありそれはそこにいた人の役割であったのかもしれないし人はただ求められるままに生きる他はなかったりもしたりして。

ペンは箸よりも弱し

ネットでごちゃごちゃ書いているのって左巻きの理想に毒された屁理屈ばかり並べたがる頭でっかちの不平不満分子ばかりではないのかとふと思ってしまうのだった。人々はもっと現実を見てるし現実を生きている。言論は人々をリードすると思っていたら、いつの間にかに追い越され不平不満だけを述べている最終ランナーになってしまっていたのだろうか。まして誰でも簡単に書き込めるネット論議がそんなレベルに落ち込んでいたとしても不思議ではない。無駄な文章に無駄な脳髄の思考の屑を撒き散らして今日もネットに無駄に電磁的識別を刻んでいくのだ。

この世が無意味だとしたら

こういう虚無的な結論は建設的でないとして人間社会では好意的には受け入れられない。新聞の社説が何をやっても無駄、努力は報われないし、計画は挫折する等と言うものなら世間から糾弾される事必至である。正月早々何を言い始めるのか。これだからネットは下らないあほんだらのアンポンタンの悪の巣のトイレの落書きと言われる所以である。正月くらい正月らしくしろというのがポリティカリィコレクトな言説なのである。

 しかし将来、何をしても無駄という主張する政治集団が政権を担う可能性というものが有り得るのだろうかと考える企画はは新春討論として政治的正しそうなのでやってみる。そもそも何をしても無駄と考えるのだから政治活動なんてしないだろうと考えるのでこれで話は終わってしまうのだが、盛り上げる為にもう少し考察を続けてみよう。何をしても無駄と本人が思っていても世間はそれを許さない状況とういうのが発生してしまう。何せ世間の99%位は為せば成るかそれに近い思想を持っているわけだからこの常識を打ち破らなければ何をしても無駄という事の実践もままならないのである。

 そこで何をしても無駄という世界を実現する為に政治集団を作り上げ何をしても無駄だから何もしなくてもいい生き方が認められる世界を、何もしない世界を達成するため議員を送り込み立法を目指す。何もしない事を目指すにもこういった努力が必要とは何たる矛盾。しかし何をしても無駄という声が世論の大勢を占めるようになってしまえばそういった努力も必要なくなるかもしれない。つまり啓蒙活動がまずは必要な手段だろう。それには人の努力がこれまでどんな無駄を生んできたかを見せしめる事例を挙げていくのが効果的である。

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