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日記

2016-05-21

 朝7時に起きて、羽田空港へ。11時55分に阿蘇くまもと空港に到着してみると、キープ・アウトのテープが見える。ヒビの入った柱にはテープで補強がされており、1階のトイレは仮設だ。熊本市内へと向かうバスに乗っていても、ブルーシートが目に入る。他の乗客が一斉に窓の外を見ているので顔を上げると、墓石がごろごろ倒れているのが見えた。グーグルマップで確認すると、そのあたりが益城町なのだった。

 まずは「早川倉庫」を目指す。2年前に『まえのひ』という作品が上演された会場で、築140年の倉庫だ。アポもなしに突然訪れてしまったが、早川さんが中を案内してくださった。細かな被害はあったものの、大きな被害はなかったそうだ。これだけ古い建物であるのに、その堅牢さに驚かされる。悲観的に考えるのではなく、前向きに考えたい――そう語る早川さんが印象的だった。

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 そこからチンチン電車で移動して、「Re;li」という洋服屋さんを目指す。去年11月に早川倉庫で開催された「仕立て屋のサーカス」は、この「Re;li」の4周年も兼ねた公演だった(その公演があるときにも僕は熊本を訪れた)。久しぶりで「Re;li」を訪ねてみると、お店には目立った被害はなく、以前と変わらず営業している。せっかくだから何か買いたいところだが、メンズの取り扱いがなく、どうしようかと悩む。

 「女の人に服を買うのって難しいですよね」。何も買わずに帰ってしまう申し訳なさから、そんな話をする。前もお土産として服を買ったことがあるんですけど、サイズが合わなかったりで結局着てもらえなくて、と。そんなふうに話していると、一枚の服が目に留まる。この服はいいかもしれないぞ。そう思って値札を確認すると、一気に冷静な気持ちにさせられる。

 「お店、何時まで営業してるんでしたっけ? ちょっと、これから熊本市内を散策して、そのあいだに買うかどうかを――」。そんなふうに、何も買わずに帰る言い訳をしているうちに急に心変わりをして、「いや、やっぱりこれ、買います」と伝える。あまりにも唐突な心変わりだったせいか、お店のIさんも「急ですね」と笑っていた。クレジットの分割払いを選んで、ホクホクした気持ちで店を出る。

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 時計を確認すると15時だ。すっかりお昼を食べそびれてしまった。街をぶらついていると、「創業明治27年」と看板を出している角打ちの店を見つけたので、吸い込まれる。角打ちというより居酒屋であるが、煮込みとビールを注文して一息つく。店内には作業着姿の男性たちがおり、彼らは定食を平らげている。このあとホテルにチェックインするときも、ロビーにいたのは作業着姿の人ばかりだ。

 少し休んで、日が暮れる頃にホテルを出る。最初に目指したのは「金寿司」だ。最近、福田さんが対談連載で「素晴らしい寿司屋」と語っていたお店。本当はお昼に訪れていたのだが、今はお昼の営業をやめてしまったらしく、夜になるのを待って再訪する。予約をしていなかったので30分しか時間がなかったが、寿司を食うには十分な時間だ。

 このあとも飲み歩くつもりなので、おすすめで6巻握ってもらえませんかとお願いする。追加で日本酒をオーダーすると、3つのお酒をテイスティングさせてくれる。その中から気に入ったものを注文して、寿司を食べる。最初に出てきたのは揚巻貝という聞きなれないネタだ。有明海の名産らしく、細長い貝だ。うまい。その後に次々と出てくる鯖、鯵、ホタルイカ、マテ貝、最後に鰯が出てきたのだが、この鰯が抜群にうまかった。

 最後にデザートまで運ばれてくる。凍ったホオズキの実を食べていると、「おばあちゃん、どげんした?」という声が聴こえてくる。カウンターには祖母、父、母、娘二人の家族連れが座っていたのだが、おばあちゃんが突然涙を流したのだ。感極まったという様子でもなく、ただ涙が溢れてくる――そんな涙であるように見えた。

 18時半には店を出る。2年前、そして1年前の4月に訪れた酒場に流れるつもりであったが、覗いてみると満席だ。今日は土曜日ということもあり、街は大勢の人で賑わっている。それが理由というわけでもないだろうけれど、崩れかけた建物を見かけても何も思わず、普通に通り過ぎてしまっている自分がいる。

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 2軒ほどハシゴしたのち、ラーメン屋を目指す。ここも2年前に訪れた店だ。糖質を気にしていることもあり、ここ数ヶ月は〆にラーメンを食べるということはなかったが、今日は特別だ。すごくうまかった記憶があるのだが、2年ぶりに食べたそのラーメンは微妙な味だ。ラーメンをうまいと感じなくなってしまったのか。しょぼくれた気持ちで街を歩く。2軒目、3軒目を探す酔客で大賑わいだ。焼き芋を売る奇妙なデコトラを見かけた。あとで調べると熊本ではちょっとした有名人であるらしい。繁華街にある喫茶店でブレンドを飲んで、ホテルに戻る。昨日よりも大きな月が出ていた。

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2016-05-20

 夜、池袋へ。ロロの新作公演『あなたがいなかった頃の物語と、いなくなってからの物語』は今日が初日だ。タイトルからして興味深い公演だが、公演に向けて劇作家の三浦直之が発表したテキストもまた興味をそそる。

いなかったあなたは、いなくなった。

彼と彼女が出会わなかったことを誰も知らない。気づいてもいない。そもそも二人が出会うなんてこと、誰も考えたりしない。だって、彼が生きていたとき、彼女はまだ生まれていなかった。だって、彼女が生きていたとき、彼はこの世にいなかった。彼は、彼女をしらないまま生まれて死んでいった。彼女も、彼のことをしらないまま、生まれて死んでいった。だから、当然、二人は出会わなかった。出会う未来の中でしか、出会わないは生まれない。なんて信じない。この世界のほとんどの人たちは出会わなかった。出会ったかもしれない可能性なんかに想い を馳せず、そのたくさんのありふれた別々のバラバラをじっと眺める。そこには物語も奇跡もなくて、ただただ完膚なきまでに出会わなかったっていう事実だけ がある。なんの感傷も呼び起こさずに、ただ、ある。出会ってしまった奇跡より、出会わなかった当たり前を、比喩を用いるまでもないその平凡さを、私は愛し ている。いや、愛してなんかいない。愛するなんて、その平凡さに対して、なんて不誠実だろう。私は、出会わないを、愛さない。


 早めにチケットを予約したこともあり、最前列に座ることができた。森の中にいるような音が流れている。19時過ぎ、開演。役者が登場し、舞台に置かれていた靴を履く。つま先をトントンと打ちつけると、その音がマイクで拾われ(?)、会場に大きく響く。役者のモノローグが始まり、劇の幕が開く。

 モノローグが終わると、二人の役者によるダイアローグが始まる。どうやら母親と娘であるようだ。訛りの強い言葉で交わしながら、母親は娘の靴紐を結んでいる。この靴紐というのが、象徴的なものとして描かれてゆく。娘はその靴紐に「ムスビメ」と名前をつけており、舞台上にはムスビメを演じる役者も登場する(ムスビメは常にそっと見守っている)。

 最初に登場する母親の名前は「桜並木」であり、娘の名前は「花びら」であるようだ。また、「飛沫」と呼ばれる女の子も登場する。この女の子は、登場するたび高い場所にのぼっていく。どうやら人間とは違う位相にある存在であるようだ。登場人物の名前や、強い訛りもあいまって、どこか神話的な世界だが、ただファンタジーの世界を描いているわけではないのがこの作品の面白いところだ。

 舞台が進むにつれて、この作品にはいくつかの層があることが見えてくる。最初に登場する「桜並木」と「花びら」の母娘の物語とは別に、「みさき」と呼ばれる女の子が登場する。みさきはアイフォーンを手に、どこかを探して歩いているようだ。「みさき」の物語が進行するときには、花びらを演じていた女優が月のように寄り添って見守る。「花びら」の物語が進行するときには、「みさき」を演じる女優がそれを見守っている。

 舞台が終盤に差し掛かると、「桜並木」の娘が「花びら」であり、「花びら」の娘が「みさき」であることが見えてくる。「みさき」が生まれてまもなく、「花びら」は姿を消してしまった。彼女の手元に残された手がかりは、母親が祭りのときに歌ったといううたのテープだけだ。そのテープを手に、彼女は母親が生まれた町を辿り、自分が生まれる前、つまりいなかった頃の物語を辿ることになる。

 子どもだった花びらが成長し、いくつかの恋をして、花祭りで「緑唄」と呼ばれるうたを歌い、かつて出会った波打ち際という男性――このキャラクターは本当に素晴らしく、いつも何かを待ち続けている男性だ――と結ばれ、子どもを産むことになる。その出産シーンと、かつて「花びら」が緑唄を歌った十字路に「みさき」がたどり着き、母を知る人たちと出会い、細い横穴をくぐり抜けて自分の住んでいる世界に戻っていくシーンとが交差して、物語はクライマックスを迎える。

 と、物語の構造を抜粋すると説明的になり過ぎるのだが、驚いたのはその演出だ。舞台上には緑色に塗られたいくつものテーブルが置かれており、役者たちはその上を歩き、くぐり、語る。物語が進行しているあいだも、役者たちがその机を動かして配置を変える。机は様々に形を変え、道がつながっていく。また、赤い靴紐は時に長く伸びて、最後には舞台中に張り巡らされていく。あるいは、舞台上にはパイプを組み上げた柱が2本設置されており、それが舞台の天井、照明が吊られている層にまで突き抜けている。そこは「泡沫」の家でもあり、彼女は次第に高いところに上がっていく。人々が紡いできた物語の厚みが――厚みはありながらも、それが1本の頼りない靴紐であるという頼りなさもが――ビジュアルとしても伝わってくる。物語を書き、それを自分で舞台上に表現する劇作家の力に驚かされるし、三浦直之という作家は凄みを増しているとも感じる。

 ただ、この作品を観ているあいだ、僕はずっと違和感を感じていた。そこで描かれている物語も面白いし、舞台の使い方にも驚かされるけれど、目の前で繰り広げられている舞台に胸を打たれることはなかった。それは、役者のモノローグがどうしても引っかかったからだ。

 既に記したように、作品に登場する何人かのキャラクターは強い訛りで話す。「桜並木」も、その夫である「たけし」も、結町に暮らすブス爺さんと呼ばれる男性も方言で話す。「みさき」や「泡沫」、結町で出会う「緑」などは標準語であり、普通の口語で――つまり演劇的なトーンとしてではなく、日常生活とさほど変わらない言葉で会話がなされている。

 ときどき登場するモノローグも標準語で語られる。しかし、その台詞回しがあまりにも演劇的過ぎる。それ以外のシーンが口語で進行するぶん、その芝居がかったトーンがどうしても引っかかってしまう。そこだけ急に漂白された世界になる。それが狙いであるのかもしれないが、そうだとしても効果的だとは思えなかった。物語の構造や舞台上の演出で様々な更新があるのを見れば見るほど、モノローグがいかにも演劇的であることによって、それを聴いている僕の心は冷めてしまう。あの台詞を言うのに、役者はどれだけ体力を削っているのだろう。どうしてあのモノローグをよしとしてしまったのだろう。

 終演後にはアフタートークがあった。それを聞き終えてロビーに出ると、戯曲が販売されていたので購入する。コピーした紙をホッチキスで綴じたものが1000円で販売されているということに、どうしても引っかかる。そのテキストには1000円の価値が十分あるとは思うが、体裁があまりにも素っ気なく感じる。

 「ふくろ」でホッピーを飲みながら、さっそく戯曲を読み始める。僕は「みさき」というキャラクターを「岬」だと思っていた。それは父親の名前が「波打ち際」だということもあるが、最近読んでいる『古事記』の中に、オホクニヌシがスクナビコナと出会うシーンがある。オホクニヌシが出雲の美保の岬にいたところ、波の向こうからスクナビコナ(神)がやってくるのだが、「美保の岬」という箇所についた註釈に「島根半島先端の岬。ミサキは神の依りつく場所である」と書かれていた。しかし、戯曲を読んでみると、「桜並木」の孫であり、「花びら」の娘である彼女の名前は「未咲」であった。

 ハムカツとホタルイカの刺身を平らげて、アパートに帰る。月が煌々と輝いている。調べてみると満月の直前だ。布団を敷いて横になると、窓からちょうど月が見えた。あれ、何がいると思う?――そう知人に訊ねてみると、「カニ! カニと思う!」と返ってくる。満月といえば、最近読み進めている『沖縄の民話』(未來社)の中に「アカナーの話」というのがあった。ある山裾に、アカナーという少年と猿が暮らしていた。アカナーが育てた桃が実ったとき、猿が悪だくらみをする。「桃の実を売りに行って、早く売ったほうが負けたほうの首をちょん切ろう」と提案すると、猿は熟れた桃を手早くもぎ取り、出かけてしまう。

 アカナーも桃を買って売りに出かけたけれど、彼はまだ熟れていない桃しか手に入れられず、誰も買ってはくれなかった。アカナーが海岸で途方に暮れていると、「何が悲しくて泣いているのか」と声が聞こえた。声の主は月だった。話を聞いた月は、(月が手を下したという描写はないのだが)猿に自らの首を切り落とさせ、心優しいアカナーを月の世界に引き上げた。アカナーはその恩に報いるために水を汲んだりご飯を炊いたりしてせっせと働いた。それで沖縄の月の中には、ウサギが餅をつく姿ではなく、アカナーが桶をかつぐ姿が見えるのだ――と。この話を読んで聞かせていたのだが、半分も聞かないうちに知人は眠ってしまった。

はむかつとほたるいか
とろろとうふ、ほっけ、
満月手前、
あれ、なにがいるとおもう?
かに!かにとおもう

平定、されたものたち、沖縄とかアイヌだけでなく

満月の話
よみきかせ

2016-05-19

 朝7時に起きて、『S!』誌の構成に取り掛かる。7割ほど進んだところで身支度をして、東京駅へと向かった。高速バスに乗り込んで、最初の休憩所に着く前には構成を完成させて、メールで送信する。昨晩収録したものを、睡眠時間を削って無理をすることもなく、普通に酒を飲みにも出かけて、翌日の午前中に送信できたことになる。なかなか気持ちがいいことだ。

 14時半、高速バスいわき駅に到着した。まずは駅前の「ラトブ」1階にある寿司屋に入る。回転寿司屋だが、まだレーンが回っているところを見たことがない。刺身で数品食べたのち、メヒカリを食す。うまし。会計を済ませて、日が暮れるまで喫茶店で仕事を進める。『まえのひを再訪する』に使用する写真の選定など。

 17時、MUSIC&BAR「QUEEN」へ。2年前の3月に『まえのひ』を上演した店であり、1年前の3月に再訪した店でもある。今年の3月にいわきを訪れたときも訪ねるつもりでいたのだが、その日は看板に灯りがともっていなかった。今日も看板は暗いままだが、中からは楽器の音が漏れてくる。今日はライブだろうかとスケジュールを確認してみたが、今日はライブの予定はないはずだ。

 スタッフの男性が出てきたところで話を訊ねてみると、今は通常営業はしておらず、ライブがある日にだけ営業しているとのことだった。今日は一般向けではなく、発表会が開催されるとのこと。リハーサル中のお店にお邪魔して、マスターと話をさせてもらう。『まえのひを再訪する』という本を出して、その中でこのお店のことを書かせてもらいたい――その旨を伝える。切手を貼った封筒を一緒に渡して、修正が必要な箇所があれば後日送っていただくつもりだったのだが、「今読みますよ」と言ってくれた。

 読んでもらっているあいだ、ずっと緊張していた。最後まで読めばそんなことはないのだが、途中に少し、失礼だと受け止められかねないという箇所がある。それで余計に緊張していたのだが、マスターは怒ることもなく、「面白かったです」と言ってくれてホッとする。

 この店はライブがある日だけの営業になってしまったけれど、近くに新たなバーをオープンしたのだとマスターが教えてくれたので、飲みに行くことにする。パルマプロシュートを注文すると、ちゃんとドライフルーツが添えられている。ボトルで注文した赤ワインをのんびり飲んでいると、リハーサルの合間を縫ってマスターが顔を出す。

 他の客が注文した“おやじのおじや”を作りながら、マスターがこう語りだす。あのとき、波の音を使ってましたよね。今でもおぼえてる、あの波の音。朝早くに海まで行って、録ってきたんでしたよね? それで、CDJが何台も並んでいてーーいや、感動しました。あの音1つで、場が変わりましたもんね。マスターはしみじみ振り返る。夏にまた来ますと伝えて店を出て、終電に揺られて東京に帰った。

2016-05-18

 夕方、竹橋へ。17時50分、「如水会館」にあるパブに入ってみると、店内にはまだ誰もいなかった。テレビがあるからこの場所になったと聞いたが、テレビは店内ではなく、建物の別の場所にあるのだろう。18時25分、全員揃ったところで『S!』誌の収録が始まる。飲み放題コースなので、じゃんじゃかビールをお代わりする。東京に戻るとまた飲めるようになって、ホッとしている。

 20時半に収録が終わる。僕は2軒目には行かず、高田馬場に引き返す。地下鉄の中ですぐにテープ起こしに取り掛かり、馬場に着くと「スターバックス」に入ってテープ起こしを続ける。22時半には起こしを終えて、知人と「コットンクラブ」で待ち合わせる。ビールで乾杯。

 僕は気の向くままに全国をぶらついているけれど、そろそろ束ねるための“串”のような何かが必要な気がする、という話をした。たとえば、芭蕉であれば「全国の歌枕をめぐる」という“串”があって、そこから『おくのほそ道』が生まれた。別に性急に何かをとってつけても無意味だけれど、自分なりの“串”を考えないといけない気がする。では、どんな“串”があれば面白いと思う?――ビールをお代わりする知人に訊ねてみたけれど、知人は「わかんない」というばかりだ。

2016-05-17

 夜、知人と待ち合わせて“近所の酒場”へ。コの字型のカウンターの店なのだが、たまに見かける男性客が、カウンターの対岸にいる女性二人組とキャッキャとやりとりをしている。店員を呼び出しては「これ、向こうに渡して」とツマミを往復させているのを、ずっと睨みながら酒を飲んだ。