マーム同行記2日目

 空が曇っているのか、着陸態勢に入ってからも窓の外は白い雲で覆われていた。雲が途切れると、すぐそこに現実の街が見えてきてギョッとする。赤い屋根をした可愛らしい建物が目立つ、のどかな風景が広がっている。朝8時、雲が途切れて20秒ほどで飛行機はボスニアに着陸をした。飛行機が着陸すると同時に、誰かが拍手をする音が聴こえてくる。

 20分ほど待ってようやく入国審査を終えて(会話もなくほぼフリーパスだ)、預けていた荷物を無事に受け取る。バゲージ・クレームの場所にはATMが置かれていて、門田さんと聡子さんが何やら操作をしている。ユーロをボスニア通貨に両替できないか調べているようだ。1台のATMは両替できることがわかり、皆で順番に両替をする。終わった人から外へ出ていくと、通訳をしてくれるボスニア人女性のタイダさんが出迎えてくれた。空港の表にはプジョーのバスと、もう1台待機している。後部座席に荷物を詰め込んで、全員が出てくるまでそれぞれに風景を眺めている。「やっぱり寒いね」「風が気持ちいい」と、それぞれつぶやくように感想を漏らす。

「いやー、かなやんいないと静かだよね」と藤田さん。
「そんなこと言わないであげてよ」と波佐谷さん。
「だって、もしかなやんも一緒だったら、空港を出た瞬間に『さーむーいーかも!』みたいにデカい声で言うじゃん」
「『うわ、眩しいー!』とかね」と尾野島さんも会話に加わる。
「眩しいは絶対言ってるよね、これ。『イタリアで買ったサングラス、持ってくればよかったー!』って」と藤田さん。
「前回賑やかだったふたりがいないからね」と熊木さん。たしかに、昨年のツアーのときに賑やかだった植松さんと林さんはここにいない。
「ほんと、誰も感想を言う人がいないよね、今。この土地に対する感想を言う人がいない」と藤田さんは言った。

 出発を待つあいだ、実子さんは三脚とビデオカメラの準備をしていた。フィレンツェサンティアゴに続いて、今回もまた空港から街までの映像をビデオで撮影しておくようだ。

 「誰も感想を言う人がいない」とは言え、実際に街を走り始めてみると感想が涌き上がってくる。当たり前の話だけど、知らない街だ、と思う。窓まで広告になったバス。移動式遊園地。巨大なショッピングモール。通勤時間帯とあって満員の路面電車。いろんな電車の集まる車両基地のような場所。教会とモスク。

「あれ、全部銃弾の痕だよね?」と藤田さんが言った。ボスニアの建物は、真新しい建物をのぞけば、大半の建物に穴が空いている。コンクリートでまだらに穴を塞いだ建物もあるけれど、穴が空いたままの建物のほうが多くある。「これ、“てん”の意味が違ってくるな」と藤田さんも言っていたけれど、車窓の景色を眺めていると、この街で内戦があったのだということを、あらためてはっきり感じさせられる。もちろん内戦のことは情報として知っていたけれど、風景が訴えかけてくる。

 30分ほど走ったところで9時半、バスはホテルに到着した。「これからどうします?」と訊ねられると、藤田さんは「とにかくサラエボを歩きたいです」と答える。

サラエボは小さい街だから、歩いてまわれますよ」とタイダさん。
「どこでお昼ごはん食べたらいいっすかね?」
「このホテルがあるのはオールド・シティの近くです。オールド・シティはボスニアで一番伝統的なエリアだから、そこがいいと思います」
「そうしましょう。なんかでも、旧市街地で食べるのがスタイルみたいになってきてるね」

 タイダさんは本当に流暢な日本語を話す。それもそのはず、日本に暮らしていたのだという。「7年間、相模大野に住んでました」と聞くと、皆「相模大野?!」と盛り上がる。この場にいる大半の人は桜美林大学出身だから、相模大野はすぐ近所だ。もしかしたらタイダさんと誰かはすれ違ったことがあるかもしれない。

 あまり時間を空けると眠ってしまうかもしれないから、1時間後に集合して街を散策することになった。僕は皆と宿が別なので、そこまで案内してもらう。「ゲストハウス」と聞いて少し緊張していたけれど、僕に用意されていた部屋は広々としたひとり部屋だった(手配してくれたのは植松さんだろうか――植松さんありがとう)。荷物を使い勝手が良いように配置をして、シャワーを浴びる。ちゃんとお湯も出るし、水圧もバッチリだ。皆もまずは水回りを確認したようで、今回のツアーのLINEで、実子さんが「ボスニア 水圧、よし」と投稿していた。

 10時半、皆で散歩に出かける。初めて歩くボスニアの街には、教会の鐘の音が響いていた。坂を少し下ったところに広場があった。このエリアは観光地になっているようだ。広場の真ん中には鳩を餌付けしているおじさんがいて、無数の鳩が集まってきている。すごいねえ、と口々に話していると子供が近づいてきて袖を触り、「ウーノ、マーニ、プリーズ」と話しかけてくる。途端に皆の顔が暗くなった。

 広場を抜けるとレストラン街に出た。香ばしい匂いが漂っている、どの建物も古くてこぢんまりしていて可愛らしい。お店選びはタイダさんにお任せして、「RADNO VRIJEME」というお店に入った。このお店にはメニューというものがなく、ナンみたいなので肉団子をくるんだ料理を出すという。「チェバーピ」という料理で、肉団子の数は5個と10個がある。皆、5個入りを注文した。

「飲み物はどうしますか?」とタイダさん。
「今日はもうビール飲んでいいかな?」と藤田さんが言う。僕もビールが飲みたい気分だったけれど、この店はアルコールを扱っていなかった。残念だ。チェバーピを食べるときはほとんどの人がヨーグルトを注文するというので(たしかに周りを見ると皆ヨーグルトを飲んでいる)、飲み物はほぼ全員ヨーグルトにした。タイダさんに教わり、「ジリアリー」(?)とボスニア語で乾杯する。少し前まで販売されていた、砂糖が別になった明治ブルガリアヨーグルトをプレーンで食べたような味がする。「おいしい?」と訊ねられ、皆「おいしい」と答える。ボスニアオスマン帝国に支配されていた国で、建築や文化でもイスラム圏の影響を強く受けている――タイダさんはそう教えてくれた。このヨーグルトの飲み物も、隣国・トルコにも似た飲み物があるという。

 ほどなくして料理が運ばれてきた。

ボスニア語で『ありがとう』って何だっけ?」と亜佑美さんが訊ねると、タイダさんが「???」と教えてくれる(ただ、今ではもうその発言を再現することができない)。「全然覚えられないんだよね。何で覚えられないんだろう?」「これまで全然聞いたことがないからね」と藤田さんは話している。

 たしかに、ボスニア語はカタカナにして覚えづらい発音だ。ボスニア語はスラブ系の言語だから、英語やドイツ語とはまったく違っていて、ロシア語やチェコ語ポーランド語に近いという。タイダさんはそれらの言語を話すことはできないけれど、聞いているとたまに意味がわかることがあるそうだ。ちなみに、ボスニアの人はアルファベットとキリル文字を両方使うそうだ。小学校ではまずアルファベットを勉強して、次にキリル文字を勉強し、そのあとは1週間をアルファベットで、次の1週間はキリル文字で授業が行われる。だから教科書にも二つの言語が併記されているそうだ。

 チェバーピを一口食べる。何の肉なのかわからないけれど、塩とスパイスが効いていてとてもうまい。ビールが無性に飲みたくなる味だけれども、この肉とヨーグルトの組み合わせがボスニアの味なのだとタイダさんは説明する。



「ちょっと様子がわかったかもしれない」と藤田さん。「スーパーに行ってワインを買って、あとは近くの肉屋でハムとか買って過ごそう。ヨーロッパの料理って、やっぱワインに合うよね」
「そうかもね。味が濃いめだよね」と亜佑美さん。
「塩分がすごくないっすか?」
「たしかに、すごい塩が効いてる」と僕。「これは身体のでき方が違うよなと思いますよね」と、大昔の人みたいなことを口にしてしまう。

 食事を終えて、ホテルでもらった地図を眺めていると、犬のマークがあった。
「そういえば、また犬がいたね」と亜佑美さんが言う。「野良犬、多いんですか?」
「野良犬、多いです。今、社会問題になってます」とタイダさん。
「そうなんだ? チリに行ったときも、野良犬がおっきな問題になってるって言ってたよね」
「チリ?――チリとサラエボはちょっと違います。サラエボの野良犬は一回病院に行ってチェックされてます」

 昨年、チリに出かけたときに不思議に思ったのは、チリの記者が「私たち西洋の人間からすると……」という言い方をしたことだった。言われてみれば南米も西洋なのかもしれないけれど、これまで南米のことを西洋という枠組であまり考えたことがなかった。ただ、ボスニアの人からすると、チリとボスニアはまったく別だという意識があるのかもしれない。そのあたりのグラデーションのことは、僕にはよくわからない。

 ふと店の外に目をやると、先ほど物乞いをしてきた親子の姿が見えた。母親の“演技指導”に対して、子供は不服そうに膨れっ面を見せ、どこかに駈けて去ってゆく。



 店を出て、街を歩く。ボスニアは金細工が有名らしく、近くには金細工を扱う店と工房とが軒を連ねていた。中にはアンティークショップもあり、薬莢をリメイクしたお土産もある。店主だろうか、軒先で老人がひなたぼっこをしている。特に何も買わずに金細工屋街をあとにして、今回出演するフェスティバル「MESS」の事務局を目指して歩き出す。あちこちにテラス席のあるカフェがあり、どこも大入りだ。道も人で溢れている。しかも観光客風というわけでもなく、地元の人に見える。今日は平日のはずだけれども、一体どうしてこんなに人出があるのだろう?

 12時45分、フェスティバルの事務局に到着した。事務局の人に挨拶していると、ひげもじゃの男性が入ってくる。藤田さんの姿に気づくと、顔をほころばせて到着を喜んでくれている。この男性は昨年のフィレンツェ公演を見てくれて、今回ボスニアに招いてくれたディレクターだ。事務局の人たちは歓迎してくれて、いろんな人に紹介してくれる。その中に、なんとサッカー日本代表オシム監督の甥もいた。その話を振られると、彼は「オシムサン! オッシムサン!」と威勢良く答えてくれる。ほとんど一発ギャグみたいになっていておかしい。

挨拶した中にはチーフディレクターもいた。彼はフェスティバルの歴史を説明してくれたけれど、門田さんもタイダさんもいなかったので、「バルカン半島で一番古いフェスティバルだ」ということと、「最近は日本とボスニアの交流があったばかりだから、またこうして交流する機会を持てて嬉しく思う」と言ってくれたこと以外、話の内容をあまり理解することはできなかった。

 門田さんとタイダさんは、このあとの予定を事務局の人たちと話し合っていた。今日の夜に会場の下見をさせてもらうはずだったけれど、別の公演をやっている影響で、入れたとしても遅い時間になってしまう上に、ちらっとしか入れないらしかった。

「たかちゃんさえいいなら、明日の朝早めに小屋入りするってことでもいいと思うけど、どうしましょう」と熊木さんが訊ねると、「うん、朝でいいよ。明日にしよう」と藤田さんは答えた。とりあえず図面はもらって、その上で――と舞台監督の熊木さん、音響の角田さん、照明の南さんが相談しているあいだ、あとの皆はロビーで待機していた。

「今日はお休みってこと?」と聡子さん。
「今日はもう、歩くしかないね」と藤田さん。
「歩きたい、歩きたい」
「歩いて、ビール飲んで、歩いて、ビール飲んで――で、寝るっていう」
「さっきタイダが教えてくれた、こっちのお酒――ラキヤだっけ――も気になるよね」

 ところで、今回のボスニア滞在中は朝・昼・晩とも食事が用意されている。ただ、それは宿泊しているホテルではなく、事務局の近くにあるホテルのレストランだ。今日のお昼から食事できるけれど、まだ胃袋の中にチェバーピが残っているのでディナーから食べることにする。現在の時刻は14時、ディナーは19時にとることに決めた。

「ってことは、19時まで歩き続ければいいんだよね?」と亜佑美さん。
「いや、休もうよ」と藤田さん。「正直、さすがに疲れてきてる」

 僕も、そしておそらく藤田さんも、どこかのカフェに入ってビールを飲みたい気分だったけれど、先にサラエボ事件の起きた橋を見学することになる。今年はサラエボ事件が起きてちょうど100年なんですよね――そんな話をしていると、綺麗な小川が見えてきた。せせらぎの音が涼しげで心地良い。目の前にある橋のたもとでは、なぜか電気歯ブラシの露店が出ていた。その何気ない橋こそが、サラエボ事件の起きたラテン橋だった。

 橋の上から川を眺めていた藤田さんが、「どっかのシーンで一言足そうかな」と口にした。
「今回の『てんとてん』にですか?」と僕。
「そうっすね」と語る藤田さんは、もうその“一言”を考え始めているようだった。

 ラテン橋に続けて、1992年の8月に内戦で焼失した建物に案内された。建物は最近再建されたばかりで、表には「DO NOT FORGET. REMEMBER AND WARN!」と刻まれた石碑が掲げられていた。見学料の2マルクを払って中に入る。この建物は、かつて図書館だった場所だけれども、200万点を超す資料が焼失したのだという。こうして目の当たりにしても、内戦で焼失したということにうまくイメージが結べないでいる。自然災害などではなく、内戦によって街が、日常が破壊されるというのは、一体どういうことなのだろう。僕は広島出身で、小さい頃は毎年のように原爆ドームを訪れていた。今振り返ってみると、そこでイメージしていた原爆の被害というものは――もちろんそれが「人類の過ち」であることはセットで教えられていたけれど――どこか天から振ってきたようなイメージがあった。この街の人にとっては、もっと違ったイメージがあるのではないか。

 見学を終えると、タイダさんはコーヒーの飲める店に連れて行ってくれた。チェバーピを食べた店のすぐ近くのところだ。ボスニアのコーヒー――ボスニアン・コーヒーは独特なのだという。その飲み方を教えてくれたけれど、ラテン橋と図書館のことを思い返していた。ぼんやりしていることがすぐにバレてしまって、「橋本さん、教わる気ゼロですか」と指摘されてしまった。僕の前には、荻原さんと尾野島さんが座っていた。近くの席に座っている女の子を見て、「あの人も同い年ぐらいかな」「同い年ぐらいってことは、戦争を知ってる世代ってことなのかな」なんて話をしていた。

 ところで、ボスニアン・コーヒーには特有の器がある。小さなポットに入ったコーヒーを、お猪口のような器に移して飲むのだ。藤田さんはその器のことが気に入ったようで、コーヒーを飲み干したあとでそれを売っているエリアに行ってみることになる。そこはさきほど訪れた金細工屋街だ。じっくり何軒か物色して、藤田さんはボスニアン・コーヒーのセット(40マルク)を小道具として購入した。

 買い物を終えると、街で一番大きなモスクを訪ねた。モスクに入ったのはおそらく人生初だけど、妙な不安をおぼえた。不思議なバランス感覚で成り立っている空間だ。モスクと言えばドーム――それは知識として知っていたけれど、中に入ってみるとボコボコとドームがあり、中心がいくつもあるようで不思議だ。イスラムアッラームハンマドという二人の神がいるから、一神教であるキリスト教徒は違うのだと、タイダさんが教えてくれた。そして、モスクにお祈りするとき、前のほうに男性が、後ろのほうに女性が陣取るのだという。

「何でこんなあからさまに男尊女卑なんですかね?」と藤田さんが言う。

 そういえば日本でも――昔は酒蔵もそうだったし、今でも相撲の土俵はそうだけれども――神事とされることでは女人禁制の空間はある。その話を聞いて思い出したのは坂口安吾の『堕落論』だ。

 いったいが日本の武人は古来婦女子の心情を知らないと言われているが、之は皮相の見解で、彼等の案出した武士道という武骨千万な法則は人間の弱点に対する防壁がその最大の意味であった。

 人間が作り出したルールというのは、往々にしてこうした法則の下にある。宗教において男尊女卑が取られているというのも、女性に対する畏れに由来しているのかもしれない――『堕落論』の名前を出しつつその話をすると、「僕、実は『堕落論』を読むゼミだったんですよね」と藤田さんは言った。前にも話した気がするけど、宗教ってことのあり方が気になっていると藤田さんは言った。

――日本人からすると、やっぱり不思議ですよね。こうしてモスクにお祈りに来てる人を見ると。

藤田 でも、演劇っていうのも、その期間だけとはいえ、ある形式がその空間に存在してるわけですよね。

――演劇の場合、作品ごとに区切ると「その期間だけ」になりますけど、やってる人たちはずっと劇場にいる宗派なわけですよね。しかも、その中でも「これはアリ」「これはナシ」ってことで細かく別れているという。

藤田 そうなんですよね。だから、信仰云々ってことは抜きにしても、このモスクに感じる違和感ってことが面白くて。しかも、この空間に対して習慣として訪れる人がいるんですよね。教会とかを見て「面白いな」と感じるのはそこで。

――不思議ですよね。習慣って側面も多いにあるから、忙しい人でもちょっと立ち止まって十字を切ってたりして。

藤田 ただ、それで言うと、観客も不思議なんですよ。マームの場合、何回か観に来てくれる人がいたりするんですけど、それも不思議としてありますよね。だけど、去年のツアーのとき、「こんなに教会に来るってことは、日本に比べてテレビが面白くないんじゃない?」って言い方をしたじゃないですか、僕は。でも、宗教みたいなことは切り離せない気がしていて。

――それは、何と切り離せない?

藤田 劇場に来るって行為と、ですね。日本だと、舞台を観に行くってこともそうだけど、どこかに出かけるってことがスペシャル過ぎる気がするんですよ。今日も歩いてて思ったけど、ボスニアってめっちゃ人歩いてますよね?

――たしかに、平日なのに多いですよね。しかも、ボスニアフィレンツェとかと違って観光客が多いって雰囲気でもないですもんね。

藤田 ですよね。教会に出かける時間もそうだけど、宗教のあるところだと時間が決まってるわけじゃないですか。その中で、決められた時間に合わせてどこかに出かけるってことが日本よりもライトにある感じもするし、そこに行く楽しみもある気がして。これはフィレンツェのときに思ったことなんですけど、大きなミサがあるとき、教会の前でめっちゃたむろして笑い合ってる人たちがいたじゃないですか。ああいう風景って、日本だとないですよね。これは宗教の違いがどうとかっていうよりも、外に出て誰かと話をして笑い合う――そういうことに対する感覚が日本とは全然違う気がしてます。

 モスクを出てスーパーマーケットに歩いているうちに、インタビューみたいになっていた。会話に夢中で、うっかりクルマに轢かれそうになり、うっと立ち止まる。すると、僕の右後ろを歩いていた人と少し接触した。急に止まって申し訳なかったなと振り返ると、サングラスをした女性が立っていた。すぐに前に向き直して歩き始めたものの、何か違和感をおぼえて振り返ると、彼女の手は僕の右ポケットのすぐ近くに伸びていた。最初は何のことかわからなかったけれど、数秒経って「あ、スリだ!」と気づく。彼女たちは僕と一緒にスーパーマーケットに入ってきたものの、僕が警戒心を強めたことを察知して何も買わずに立ち去った。ちなみに、まだ1日目だというのに、スリの被害に遭いそうになった人が僕以外にも数人いる。

 話を“インタビュー”に戻す。僕が今日のうちに聞いておきたかったのは、どうして「台詞を足そう」と思ったのかということだ。

藤田 いや、今年た『てんとてん〜』を作ってるときに、思ったんですよ。去年のフィレンツェ公演とサンティアゴ公演は、僕の中ではまだ腑に落ちてないし、もどかしさが残ったな、と。これは橋本さんのフィレンツェ日記を読んでみて思ったことでもあるけど――たとえば1週間ほどこの街に滞在したとしても、この街の人たちのことをわかった気にはなれないので、“フィールドワーク”みたいなことってすごく危ういんだと思うんですよ。ボスニアのことだって、「この土地にきたから、この土地ことがわかる」ってことはないんだけど、何が「もどかしい」って――去年だと空港からホテルまでの風景をずっと撮影していたり、ちょっとした小道具を見つけては買ったりしてるけど、「この土地とは関われない」ちょいうふうに諦めている。

――なるほど。たかだか1週間で拾った気になんてなれないけれど、だけど一方で「関わることなんてできない」と思うわけにもいかないってことですよね?

藤田 そうそう。たとえ1週間弱でも、関わったという事実は事実なわけで。だけど――日本で新しいバージョンの「てんとてん」を作ってるときに思ったんですけど、やっぱりこの作品は日本で上演することを目的として作ってるわけじゃないってことなんですよね。そのことを考えたときに、去年のツアーっていうのは、街で小道具を買って、それをライブビデオで映して、それで「フィレンツェに来ました」みたいなことをやってたわけなんだけど、そこがちょっともどかしくて。去年の段階ではそれが限界だったのかもしれないけど、やっぱり何かの状態で「この土地に来た」ってことを、テキストとして加えたいと思ったんです。そういう意味では、今年8月5日に彩の国さいたま芸術劇場で通し稽古をしたバージョンがフィックスだとは思えなくて、それぞれの土地土地でのフィックスがあるんじゃないと思ってる。小道具を買ってフィックスとか、街の映像を映してフィックスとかってことではなくて――。

――やっぱり、言葉があってフィックスだ、と。

藤田 そう。ボスニアに関しては、サラエボ事件からちょうど100年だって話を聞いたのも大きくて。あと、これは去年橋本さんも言ってたことだけど、今年のバージョンだと「2014年という“てん”に立たされている」ってことをラスト近くで聡子が言うじゃないですか。その言葉が、まだちょっと引っかかっていて。あの台詞に込められてるのは「2014年という時間に立たされている」っていう意味合いだけなんだけど、じゃあ「2014年の今、どこに立っているのか」ということに踏み込むことが、僕の回答でもあるというか……。とにかく、「今ボスニアに来て、サラエボのこの劇場に立ってる」ってことは言いたいんですよ。聡子のラストの台詞が、各地で全部ニュアンスが違ってるほうがいいんじゃないかって、今は思ってます。

 スーパーマーケットで買い物をしたあとで一度解散し、19時、食事の会場である「ホテル・ボスニア」に出かけた。ホテルからは徒歩15分といった距離だ。他には誰もお客さんがいなくて、食事会場は閑散としていた。スピーカーからはなぜか「禁じられた遊び」が流れている。食事が運ばれてくると、ほぼ無言のまま、皆で食事を済ませた。しばらく経ったところで、「これ、ひとりのほうがまだ腑に落ちる状況だよね」と聡子さんが言った。食後は皆のホテルに押し掛けて、波佐谷さんと藤田さんの部屋を訪ね、22時過ぎまで赤ワインを飲んでいた。