マーム同行記5日目

 今日もまた、朝8時半にホテルのロビーに集合する。段々リズムがなじんできた。朝食会場にいた藤田さんが、「はあ、緊張する」と話している。「イタリアとはまた違った緊張感がある」

 今日は公演初日だ。雲一つない青空が広がっている。会場に到着すると、ゆるやかに作業が始まっていく。今日の開演時刻は22時と長丁場だ。熊木さんが舞台上に掃除機をかけて、役者さんはそれぞれアップを始めている。藤田さんはロビーにいて、パソコンで何か作業をしていた。すると、現地の照明スタッフのにぎやか4人組――本当にいつも楽しそうに話している――がやってきて、よろよろとハシゴを運び、照明の調整作業を行う。そのうちの一人が「今日はピンク・フライデーだぜ!」と陽気に言う。本当なのかどうかはわからないけれど、4人のうち3人がピンクのシャツを着ていた。

 紙カップ式の自動販売機でエスプレッソを購入していると、亜佑美さんが「橋本さん、10時からミーティングするみたいですよ」と教えてくれる。時計を見ると9時58分だ。ほどなくして役者の皆がロビーに集まってくる。「もっと近づけば」と近くに座らせて、藤田さんが話を始めた。

「思うことは色々あるんだけど、去年サンティアゴで感じた違和感みたいなのは正直なくて、結構ストレートな作品になるんだろうなってことはすごい思ってるんだよね。フィレンツェサンティアゴに比べて、この街の話を聞く機会が多かったけど、偶然の一致みたいなことは結構あって。あと、100年前にサラエボ事件があったとか、30年前にはオリンピックがあったとか、普通にメモリアルな年でもあるわけだよね、2014年って年は。それが『てんとてん』で語られてることに変にマッチしてる部分はあると思うんだけど、わかりやすいものになり過ぎるんじゃないかっていう恐れはある。

 ただ――この作品は、日本でやってもぼやけたまま何だろうなってことは、ボスニアに来てとにかく思った。日本でやってると、ただの上京の話になっちゃう部分があると思うんだ。今回、地震の話とか9.11の話とかをあえて言ってるわけだけど、日本だと『ストレート過ぎじゃない?』って言われかねないところはあるわけだよね。でも、この作品は海外に来るってことが最後のピースになってるところがあるからあえてストレートに言ってるところがあるわけじゃん。それを端的に言うことで、それを聞かされてる人たちは『自分たちの街でもそういうことがあるよね』ってことを思うわけだよね。それを繋げてくれるのが、まるまる(荻原さん)っていうキャラクターなんだって気がする。

 こっちに来る前に、日本の人に『てんとてん』通し稽古を何回も見せたけど、日本の人にとってまるまるの存在って結構謎だったと思うんだ。まるまるのことを何であんなに粘ったのか、日本にいるときはわかってなかったんだけど――まるは『同じ街で小さい女の子が殺された』って話をするわけだけど、ちょうどこの作品を作ってた時期に佐世保の事件があったりして、日本でもいろんなことがあったわけだよね。そのことをねちっこく書こうとしたのは、まるまるが語るその台詞が、その国であったこと――今回で言えばボスニアで起きた出来事とを繋げてくれるんじゃないかっていう気がする。それがこの国の人にどう聴こえるのかはすごく緊張するところだけど――一番は被害者/加害者の問題だよね」

 “まるまる”こと荻原さんが語るその台詞は、昨日の日記でも引用した台詞だ。

「今日の朝さ、先生が言ってたじゃん」「私たちは被害者にもなれるし、加害者にもなれるって」「人として、まっとうな人間として、どちらにもならないようにしろって言われたじゃん」「私もいつか殺されるかもしれないし、人を殺すかもしれないってこと? 何でそんなことを想定して生きていかなくちゃいけないの?」

「あの台詞ってさ、日本語で聞くと、ぶっちゃけ『すごくシンプルな台詞だな』って思っちゃうんだけど、でも、それぐらいシンプルなことをやってみたときにどうなるのかってことをやってみたくて、ああいう台詞を書いてるんだと思う。

サラエボってのはすごく小さい街だけど、3日間ぐらいだけど滞在してみると、本当にすごい出来事があった街だなと思ったんだよね。そういう街で上演するのは初めてだけど、今回はあきらかにサラエボ公演のオリジナル感が出ると思うから、そういう意味では全然不安じゃないんだよね」

 今振り返ってみると、フィレンツェ公演やサンティアゴ公演のときは、街を歩いてみたりはしたけれど、その街に生まれ育った人にその街の話を聞いたことはなかった。そう考えると、ボスニア公演に、この街に生まれ育ったタイダさんがついてくれたのは――そして彼女のパーソナルな話をしてくれたのは、本当に大きなことだったように思えてくる(ただ、その一方で、ボスニア公演が上演前の時点で意義ある経験になっているということは、これから先のツアーに対する呪縛にもなりうる気がする)。

「ツアーで作品を発表するってことについて、『どこで上演するにしても、やることは変わんない』って言う人もいるけど、やることが変わんないわけがないと思うんだよ。一つ一つ違うはずだと思うんだよ。去年もこの話はしたけど、その『違う』ってことができないとツアーをする意味がないと思う。ただ、去年この話をしたときは、『それをやんないと、“マームとジプシーとして”意味がない』みたいな感じで言っちゃってたと思うんだけど、“マームとジプシーとして”っていうより、そうしていかないと“この作品が”生き延びれないってことなのかもしれない。

 この作品って、駄作は駄作かもしれない。いや、駄作な部分は結構あると思ってる。駄作って言うとアレだけど、『何てくだらないんだろう』みたいなところはあるし、それが愛おしくもある。すごくおおざっぱなことを言ってしまっているところもあるし、ちょっとしたことで存在意義がなくなりかねないところもあるんだけど、何かがハマれば、マームのどの作品にもない力を発揮する気がしていて。それは現地で買った小道具を出せばいいってことではないし、聡子の最後の台詞を変えればいいって問題でもなくて、もっと中身の話だと主う。たとえば、あっちゃんは『この街に残る』って話をするわけだけど、この土地の人たちにとって、その言葉がどう聴こえるのかを想像しなきゃいけないと思うんだ。それについて、俺も想像して『こうだよね』ってことを言ったりもするけど、細かいことは役者さんたちがコントロールしていくしかないと思うんだ、やっぱり。この街の人にとって、『被害者』とか『加害者』とかって台詞がどう聴こえるのか――そのことを考えながらやったほうが、絶対に面白いと思う」

 ミーティングが終わる頃に、字幕用のプロジェクターが到着した。「精密機器だから、こっちでセッティングする」と現地のスタッフに言われていたのに、映像用のプロジェクターの上にボンとのっけて、そのスタッフは帰って行った。

 ボスニア公演では、舞台の中央に映像用のスクリーンが配置され、その上手側に字幕が映写される。映像用のプロジェクターはスクリーンに対して垂直に映写されているけれど、字幕は斜めになってしまっている。そのせいでフォーカスも均等にならず、光量も弱いため文字が読みづらくなる。ただ、プロジェクターを載せる台は1つしかないとのことで、テーブルを重ねて急拵えのプロジェクター台にすることにしたようだ。

「こんな手作り公演になるとは」と熊木さんは苦笑している。
「もはやオブジェじゃん」と藤田さん。
「でも、さすがに動じなくなってきたけどね」と熊木さんは言った。

 今日の稽古開始は何時なのだろうと、ホワイトボードを確認しにいく。

9:00 House in {subtitle projector set up / Light. Sound→adjustment}
12:00- Rehearsal start

 と、ホワイトボードの手前に紙が置かれているのが見えた。何だろうと近づいてみると、「祝・2014年ヨーロッパツアー初日」と書かれた紙が置かれていた。蜷川さんをはじめとして、彩の国埼玉芸術劇場の皆さんが寄せ書きを送ってくれていたのだ。

 メッセージをしみじみ読んでいるところに、ミネラルウォーターが運ばれてくる。ボスニアは湿度がとても低く、昨日の稽古のときにこんな会話をしていた。

「これ、結構喉が枯れるから、舞台上に水を置いといたほうがいい気がするね。水を飲めるタイミング、結構あるよね?」と藤田さん。
「ある」と亜佑美さん。
「水を飲みながらやったほうがいい気がする。これ、半端じゃなく乾燥してるよ。だって、ここでしゃべってるだけでも喉枯れてくるもん。もやはリップとかも舞台上に置いといていいよ」

 それで昨日のうちにミネラルウォーターをオーダーしていたのだけれど、500mLのものを頼んでいたはずなのに、巨大なペットボトルが2ダース届いてしまった。2.5Lサイズのミネラルウォーター。「会場がでかいし、でかいの飲もうよ」なんて言って笑っているうちに12時50分になり、「よーし、頑張ろう!」という藤田さんの言葉で稽古が始まった。

最初のうちは昨日よりも穏やかに稽古が進んでいたのだけれど、何度かミスが続いてしまう。そのたびに藤田さんは苛立たしそうに「はい、ストップ!」と指示を出し、もう一度同じシーンをやり直すことになる。それを何度か繰り返したところで、藤田さんがたまりかねた様子で口を開く。

「役者さん、凡ミスが多過ぎるよ本当に。ほんといい加減にしてほしい。え、今のは何でなの? 今のは誰が間違ったの?」
「今のって?」
「今のとこも躓いたじゃん。何なの、本当に。え、今のシーン、躓いたよね?」
「そうだね」
「え、誰が躓いたの?――原因がわかってないじゃん。だから何回やっても躓くわけじゃん。そういうことが一人一人のパフォーマンスを落としてるってわかってる? 何でこんな低レベルなことをやってるわけ? 躓いたとしたら、何が原因だったのかを6人で共有しようよ。信じられないぐらい低レベルな仕事してるよ、それ。ちゃんとして、本当に。同じ箇所で2回間違えるとか、ナシだから」

 機材の調整のために、稽古は1分ほど中断された。調整が行われているあいだ、役者の6人は黙ったまま、うつむきがちに立ち尽くしていた。

 声を発する向き、会場に合わせた動き、登場人物の関係性、字幕のこと――様々なことが微調整されていく。

「去年さ、日本地図をプロジェクターで映したとき、地図の上に『JAPAN』って入れてなかったっけ? 今のシーン、字幕を見てたんだけど、日本語の台詞が『この土地』っていう言い方をしてるから、字幕に日本って言葉が一つもないんだよね。でも、あの地図を見ても、日本だと認識されないかもしれないよね?――どうしようかな。どれぐらい細かく入れればいいのか、悩むな」

 悪戦苦闘しながらも、16時51分にようやくラストまで稽古をすることができた。少し休憩を挟んでエピローグのシーンだけもう一度稽古をすると、1時間ほど休憩となった。会場には客席が並べられていき、最終的に150脚もの椅子が並べられた。椅子が並べ終わると、会場の清掃作業が始まる。

 皆が休んでいるあいだ、僕は少し外を散策してみた。会場の近くには金網で囲まれた広場があり、小学生や中学生がサッカーボールを追いかけている。外で遊んでいる子供を、このあたりではよく見かける。皆楽しそうに駈け回っている。少しずつ、日が傾いて夜が近づいてくる。

 18時半、ドレスリハーサルが行われた。ドレスリハーサルと言っても、衣装がヨレるのはもったいないので、稽古着のままリハーサルが行われた。客席には藤田さん、それに後ろのほうにタイダさん、ピンク・フライデー4人組のうち2人も座っている。僕は、ここまでの稽古を観てきたし、日本での公演や公開リハーサルも観てきたけれど、この土地に来て、昨年とはまったく違った作品になっていると感じた。これは決して悪い意味ではないけれど、去年のほうが美しい作品だった。最後にカーテンコールの練習をやって、ドレスリハーサルは終わった。

「ちょっとね、今のは良くなくてね」――しばらく何かを考えていた藤田さんは、言葉を選びながら話を始めた。「ちょっと、言わなきゃいけないことが多過ぎて怖いんだけど。……時間がないな。とにかく雑だよ。え、悪いっていう自覚はない? 雑だったよ、本当に。それは、逆にどうする? ほんとに雑だなと思った。どうしようかな。すごいコミュニケーションが取れてない感じがする。あと、ツノと音の話を全部やり直さなきゃいけないぐらい、場当たりの時と違っちゃってる」

 そう話すと、藤田さんは音響の角田さんと音の調整作業に入ってゆく。気になるシーンの音を一つ一つ確認しながら、「役者さんの声に譲らないって感覚で音を出して欲しいんだ」と指示を出しつつ最終チェックが行われる。散々なダメ出しをされた役者の6人は、何かを考えながら、舞台上をプリセットの状態に整え、それが終わると食事をしたり、ステージ上で横になり仮眠を取ったり、台本を読み返したり――それぞれに一人の時間を過ごしている。開場予定時刻まではあと1時間ほどだ。皆、何を思ってこの時間を過ごしているのだろう?

 開場時刻ギリギリまで、音響や映像の作業は続いた。映像スタッフでもあり出演者でもある実子さんは本当に大変そうだ。ちなみに、この時間のあいだに役者さん皆を写真に収めようと思っていたけれど、亜佑美さんにだけレンズを向けることができなかった。誰にカメラを向けることにも緊張感はあるのだけど、亜佑美さんに対してカメラを向けることが一番怖くて、撮ることができなかった。

 21時45分、ロビーに出てみると、開場に詰めかけたお客さんで賑わっていた。「150席も用意しなくていいのでは」と思っていたけれど、定刻通り開場してみると、8割から9割ほど席は埋まった。藤田さんは、会場の一番後ろで観ると言う。熊木さんが「椅子持ってこようか」と訊ねたけれど、藤田さんは「いや、自分の芝居を座って観れないよ」と言った。「落ち着かなさ過ぎて気が違いそうになる」

 立ったり座ったりを繰り返していた藤田さんと一緒に、すぐ隣にあるバーに出かけて、ハイネケンをテイクアウトで購入した(2マルク)。今日はサッカーの試合があるらしく、バーは盛況だ。会場に戻ると、藤田さんは皆に「開演したら、飲みます」と言い訳(?)している。

 そわそわしているところに、大きなビデオカメラが運ばれてくる。フェスティバルが公演の模様を撮影してくれるのかと思っていたけれど、大きな風防のついたマイクや、さらには照明もセッティングされていて、どうも公演の撮影というわけではなさそうだ。この撮影クルーは、1つがフェスティバル側の撮影クルーで、それぞれが藤田さんのインタビューを取りにきたのだ。

――今回の作品のアイディアはどうやって生まれたんですか?

藤田 えっと、2011年に大きな地震があって、そのとき僕は何も被害はなかったんだよね。その『被害はなかった』っていう距離について描きたいってことが最初のアイディアですね。

――オーディエンスにはどんなメッセージを送りたい?

藤田 メッセージを送るというより、僕らが作ったものに立ち会ってもらったときに、どういうふうに感じてもらうかはほんとに自由だと思っていて。音楽を楽しむだけの人がいてもいいと思ってるし、僕らがやるのは日本って国のことだけど、日本の国っていうこととボスニアの国っていうことを重ねる人もいるかもしれないし、いろんな可能性を散りばめた作品になってると思います。

 開演15分をあって、さすがにインタビューは手短に終わった。と、もう1つの撮影クルーがスタンバイを始めた。こちらはボスニアのテレビ局だという。

――作品の中で重要なことは何ですか?

藤田 それは音、ですね。でも、ミュージカルって意味じゃなくて、音楽と台詞がせめぎ合ってる状態にあるってことで。あと、物語もすごく大切なんだけど、この空間に来てくれた人に、ちゃんと音として伝わるようにするってことがすごい重要です。

――観客との関係はどうやって作りますか?


藤田 今日来てくれた人は、日本人じゃなくてボスニアの人じゃないですか。僕らはサラエボに住んでる人たちとは違う国の人だから、「役者と観客の関係が難しい」ってこと以上に難しいところがあるんだけど、でも、それ以上に難しいところがあるんだけど、だけどどうにか違う国の人にも観てもらえるような音にするってことが、今日のこの会場、この空間で大切なことだなと思います」

 ツアー初日となるサラエボ公演は、ほぼ定刻通りに開演した。当初は「出入り自由の環境で上演される」と言われて戦々恐々としていたけれど、ほぼ全員が食い入るように舞台に見入ってくれていた。そして、“しんたろう君”(尾野島さん)が目出し帽にロープと釣り竿を手に、“あやちゃん”(荻原さん)の家出を手伝いに行くシーンや、“はさたに君”(波佐谷さん)が妙な節回しで語るシーンは、日本と同じようにウケている。意外と、どこに行ってもニュアンスは伝わるものだなと思う。それからもう一つ、今年の『てんとてん』は昨年に比べるとリフレインが控えめになっていて、比較的速いテンポで会話が進んでいく。字幕を追っているだけでも大変で、皆字幕のほうばかり観てしまうのではないかと勝手に心配していたけれど、ほとんどのお客さんは役者の動きをずっと目で追っていた。

 23時28分、ボスニア公演は無事終演した。僕は2階にある映写室みたな場所にビデオカメラをセットしておいたので、受付の男性から再び映写室の鍵を借りる。受付の男性も公演を観てくれていたらしく、「グレイト!」と言ってくれた。

「MESS」というフェスティバルは、ミーティング・ポイントにもなっているバーがあるらしかった。そこに皆で行こうと話していたものの、もう日付が変わりそうな時間だし、何より皆、くったり疲れていた。

「これ、疲れるな」と藤田さん。
「ほんと疲れたよね」と波佐谷さん。
「わっかんねえな、海外。身ぐるみはがされる感じがする」と藤田さん。「ちょっと、今日はもう皆死んでるから……バーに行かずに帰る? 帰って部屋飲みにするか」
「今日は15時間労働だからね」と熊木さんが言った。朝9時に入ったわけだから――本当だ、15時間もここにいたことになる。

 皆でクルマに乗り込んで、ホテルに引き返す。
「なんかさ、最後のところさ、笑われてましたよね」と亜佑美さんが言う。「あれって何でかわかりますか?」
 笑いが起きたのは、ボスニア公演用に加筆された台詞のところだった。それは、エピローグの最後の最後に登場する、聡子さんの台詞だ。

「目を、開けると。1914年から100年経った、1984年から30年経った、2014年、ボスニアサラエボだ。わたしは、わたしたちは。いま、と、いう、てんに。立たされているのかもしれない。いま、と、いう、てんに。いま、って、てん、の。先にある。ひかりは。ひかりは。ひかりは。ひかりは」


 この箇所――英語の字幕だと「It is been 100 years since 1914」と表示される箇所で、一部から笑いが起きたのだった。たしかに、僕もなぜそこで(一部の観客からとはいえ)笑いが起きたのか、気になっていた。

「どうなんでしょうね? 100年前の話は一切してなかった上に、100年前の出来事とは全然関係なさそうな人が急に100年前の話を始めたからかもしれないですね」
「たしかに、唐突かもしれないね。でも、優しい笑いだったよね」と亜佑美さん。
「どうですか? やってて去年のツアーと違いはありましたか?」と亜佑美さんに訊ねてみる。
「ありましたね。あゆみはすごくあった。でも、それは去年とは変わったからかもしれない。通し稽古をやったときから『ヤバいな』と思ってましたよ。すごい、怖かった。台詞を言うのが怖かった」
「怖かった?」
「うん。『この街で起こったこと』とか、そのへんの台詞を言うのがすごい怖かった。あと、“あゆみ”は『この街に残る』って決めたけど、“さとこちゃん”(聡子さん)は『こんな街、出ていく』って決めるじゃないですか。日本にいたときは『出ていかないで』と思ってたんだけど、『出てってもいいよ』というか、『出ていったほうがいいのかもしれない』っていう気持ちがあったんですよね」
「向こうで観てるときは全然そんなこと感じなかったけど、こうしてボスニアに来てみると、この街に向けて作ったんじゃないかというほどボスニアの事情と重なるところがある作品でしたね」
「そうそう、違うのにね。でも、そういうストレートなところが怖いなと思ってたけど、やってみると『そこまででもないかも』と思ったよ。こっちは怖いなと思ってたけど、お客さんはそこまでストレートじゃなかったなと思った」

 ホテルには0時半に到着した。波佐谷さんと藤田さんの部屋で飲むことにして、僕も部屋について行く。冷蔵庫にはビールが3本だけビールが入っていて(1本4マルクで、スーパーの倍の値段)、それで乾杯をした。ひと口飲んだ波佐谷さんが「もうダメだ、疲れた」とささやく。「そんなリアルな音量で言わないでくださいよ」と藤田さんは笑う。「皆、初日でこんな疲れててどうするんですか」

 そんな話をしてたところに、聡子さんが飲みにやってくる。ほどなくして門田さんも自室にあったビールを届けにきてくれた(藤田さんが「冷蔵庫のビールを飲んじゃいますが、三本しかなく、橋本さん、ふじた、はさたにで、一撃で飲んじゃうので、みんな、みんなの部屋のビール、ありったけ、ください」と、LINEでメッセージをまわしていたのだ)。ややあって亜佑美さんもやってきて、ゆるりと飲み始める。

「今日、お客さんの反応はどうだった?」と藤田さん。
「どうだろう。あんまり見えないんだよね」と波佐谷さん。波佐谷さんはサングラスをかけてステージに立っているのだ。
「でも、真剣に観てくれてたよね?」と聡子さん。
「あっちゃん的にはどうだった?」
「なんかね、最後に笑われたことが引っ掛かって仕方がないんだよね」
「笑われたね」
「ちょっと、いじめに遭った気持ちになったよ。『あ、笑われた』って」
「でも、俺は笑われたことに対してそんなにネガティブには思ってないんだよね。『それは笑うよね』とも思うから」と藤田さん。
「ちょっと思ったのは、それだけライトに受け取られてるのかなって」と波佐谷さん。
「ね、思ったよね。あゆみはさ、戦争のこととかあるから、すごく緊張してたけど」
「ちょっとさ、『私の考え過ぎだったようですね』って感じだったもんね」と聡子さん。「ボスニアのことを知らないがゆえにさ、こっちで色々思い過ぎちゃってたのかもしれない」
「それで言うと、最後の1914年って台詞だけの話じゃないよね」と藤田さんは言った。「被害者/加害者の話とかも出てくるけど、日本語でやってるわけだから、日本人がやってる日本の話に聞こえるんだろうなとは思った。それなのに、いきなりボスニアの話を最後でするわけだから、そりゃ笑うよねって思うよ。あと、ボスニア・コーヒーの器をライブカメラで映すわけだけど、そこで笑ってる人もいたもんね。そこで笑われることは全然問題ないと思ってる。
 前も言ったけどさ、外国の人が日本で作品を発表するとき、京都とかで売ってる木刀をいきなり小道具として使ってたら、すごい恥ずかしいじゃん。そういう恥ずかしいことを、あえてやってるわけだよね。そういう距離で俺らがいるってことは、見世物としていいのかもしれないとも思っちゃった。それをボスニアの人が観たら、『日本人が何かやってんな』と思うじゃん。そこは笑われてもっていうか、その距離ってことが描きたいことでもあるわけだから、笑われることにナイーブにはならなかったよ。笑った人が全員じゃないけど、笑われてもいいじゃんと思った」

 部屋飲みは1時半過ぎまで続いた。僕は公演中にワインを1本開けていたから相当酔っ払っていて、どうやってホテルまで帰ったのか、記憶がおぼろげになっている。