今年は1月から毎日日記をつけてきたけれど、4月で途絶えてしまった。4月に入ってからは、「ある旅のことを書き残しておかなければ」という思いに駆られて、過去の記憶をたぐりよせ、書き記してばかりいた(これは2ヶ月後くらいにどうにかしたいと思っている)。4月の出来事を思い出して描くのは不可能だけど、この日の日記(?)だけ記しておく。

 夕方、稽古場へ。16時、『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりについて。』の通し稽古を観る。

 最初の台詞を聞いた瞬間に、ここ数年の旅がフラッシュバックする。マームとジプシーはこの作品で旅をしてきた。フィレンツェサンティアゴサラエボ、ポンテデーラ、アンコーナメッシーナ、そしてケルンに至るその旅の様子を、僕はいつも眺めてきた。冒頭の台詞のトーンがそのどれとも違っているからこそ、それぞれの土地のことが思い浮かんだ。

 最初にフィレンツェを訪れたのは2013年の春だ。現地で行われた記者会見で、藤田さんはこう切り出した。

「えっと、僕は28歳って若さですけど、フィレンツェでしか観れないものを作るためにこの土地にきました。日本にいるときも、僕は移動しながら作品を作っているんですけど、その移動しながら作るということが重要だと思ってるし、それが僕らのスタイルだと思っていて。だから、フィレンツェにきたからにはフィレンツェにきたってことを含めて作品を作りたいと思ってます。とにかく、海外で公演するのは今回が初めてのことなので、すごいワクワクしてるっていうのを伝えたいですね」

 「この作品には3つの時間軸があるんです」と藤田さんは説明する。2001年9月11日、その10年後の2011年3月11日、そこから2年経ったところに現在があり、その時間軸を行ったり来たりしてリフレインする作品だ――と。説明を聞いていた記者が「私たちの文明は今、とても難しい時代にあるわけですが、日本の若者はそれとどう対峙しているのですか?」と質問をすると、藤田さんはこう答えた(それにしても、あれから3年経った今、「私たちの文明は今、とても難しい時代にある」という言葉はますます重く感じる)。

「今回の作品は悲劇的な出来事を扱ってるんだけど、その悲劇と僕らの日々との距離を描きたいんですね。悲劇と悲劇としてあるんだけど、僕らはそれとちょっと無関係なところで生きてたりする。その距離を描きたいと思ってます」

 最初の海外公演で鍵となったのは「音」のことだ。初日があけた翌日、藤田さんは皆を前にこんな話をした。

 「昨日のお客さんは意味で観てない部分が多くて、音だけで聴いてる部分があったと思う。でも、それは正解でもある気がする。この劇では「耳を澄ませている」という言葉をしつこくいうわけだけど、今回のおお客さんは知らない国の知らない音を聞くしかない人たちでもあって、その意味ではものすごく耳を澄ませてるんじゃないかと思う。今まで培ってきたものを引き算したくはないんだけど、この土地に見せるってことで音の環境づくりをしたい。音っていうのは音響のことだけじゃなくて、声も音だし、光も音だって言えるかもしれない。そういう意味で音のことをやりたい」

 藤田さんは以前から「旅公演がやりたい」と言っていたが、一つの作品をツアーにまわすことに躊躇していたところがある。フィレンツェ滞在最終日にも、「今は初めての海外公演で発見があるけど、これがどんどんスマートになって考える余地もなくなったとしたら、そのとき僕はこの作品を捨てると思う」と藤田さんは言っていた。それが、『てんとてん』という作品をここまでツアーにまわしてきたのは、旅をするたびに発見があるからということもあるし、「その土地を訪れた」ということが影響する作品だからだろう。

 その「影響」というのは、フィレンツェ公演の1ヶ月後に早くもあらわれることになる。2013年の6月、彼らはツアー2カ国目であるチリ・サンティアゴを訪れた。思い出すのは市場で食べたスープと、当たり屋のようにして車に突っ込もうとしていた野良犬たちのことだ。当然だがそこはイタリアとは別の国だ。その違いを、藤田さんは記者からの取材にも感じたようだった。楽屋に役者を集めると、藤田さんは「イタリアの人よりもつっかかりがあるだろうなと思ったのは、地震津波のことについては近い感覚でいるんだろうなってことで」と話を切り出した。

「今回の作品では、地震のことも扱うわけだよね。チリに来てからの稽古で、『劇場のスケールに声が合ってない』って話をしたじゃん。それは普通に声とか音の話なんだけど、地震のことも──別に地震を知っている人たちのために地震の話をするとかってことではないけど──イタリアと同じ感覚でいちゃ駄目だと思うんだ。もちろんテキストは変えないし、演出や構造も変えないんだけど、意識として一つコマを進めなくちゃいけない気がする。地震のことを語るにあたって、別に演技としてアプローチして欲しいとかってことではないけど、『地震に対してフラットな人たちじゃない』って意識は持ってたほうがいいと思う。チリではそれに関しての作業になってくると思うんだ。

 イタリアのとき、『外国の人は日本語を意味として聞いてない』ってことを何回も言ったよね。日本語を音として聴いてるから、音として速くするみたいなことを言ったと思うんだ。イタリアは初めての海外だったし、そこがエキサイティングなところでもあったんだけど、そこからさらに一歩進めた話として、意味として伝わる部分の形が違ってくると思う。イタリアの人もすごく誠実に聞いてくれたけど、ここの人はまた違う形で聞いてくれるんじゃないかっていう気がする。それが今回のテーマになってくるんだよね、きっと」

 チリは大きな地震のあった国だ。東北を訪れたときに、チリ地震による津波の碑を見たこともある。また、『てんとてん』が上演されたGAMという劇場は、ピノチェトがクーデターを起こして軍事独裁政権を樹立したときに中央オフィスとして使われた場所でもある。独裁政権下では演劇の上演は制限されており、政治的な作品しか上演を許されなかった。民主化が成し遂げられたあと、自由に演劇が上演できるようになったことを象徴させるようにして、中央オフィスが劇場に改装されたのだという。

 僕はチリのことをさほど調べもせずに訪れたけれど、そうした話を聞くと、出来事と私との距離に途方に暮れてしまう。そうした途方もなさは、1年後の2014年のツアーでも感じることになる。

 2013年の旅はフィレンツェに1週間滞在し、日本に帰国して1ヶ月過ごし、再びチリに向けて旅立つというものだったが、2014年は1ヶ月にわたって旅に出ることになった。最初に訪れた国はボスニア・ヘルツェゴビナだ。ボスニアではタイダさんという女性がアテンドしてくれたのだが、タイダさんは日本に滞在した経験もあり、日本語が堪能だ。

 滞在数日目。フェスティバル側が手配してくれた食堂で挽き肉とトマトのリゾットを食べながらタイダさんと皆で談笑していたときのこと。穏やかな会話が途切れたところで、藤田さんが話を振った。

「タイダさんって、え、ボスニアに帰ってきて何年になるんですか?」

「去年の五月に帰ってきたから、もう一年になります」

「それまで日本にいたの?」

「はい。まだ日本に戻るかもわからないけど」

「タイダさんって──その、一九九五年までのときって、ここで子供だったってこと?」。一九九五年というのは、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が終結した年だ。

「はい。私は今、三十五歳です。戦争が始まった四月、私は十二歳で、その年──一九九二年の八月に十三歳になりました。……うん、大変だったね。戦争のとき、私はサラエボにいました。私の家は──日本語で何て言うのかわからない、ファースト・ラインのあたりでした」

「家が最前線にあったってこと? そうなんだ?」

「はい。人が死ぬとこも見ました。私の家のすぐ前で殺されました。家からあまり出られない状況だった。二年間、出られない状態だった」

「家族全員で、ずっと?」

「マイ・ダッドはアーミーにいました。それで、私の弟はすごく小さかったから、マイ・マムは私たちと一緒にいました。……スケアリー。 なんか、信じられないね。夢の中にいたみたい。ただ、そのことを作品の中で語りたいとは思わないです」

 タイダさんは、日本語が話せるということで通訳をしてくれているけれど、彼女の本業は版画家だ。

「その経験は、すごくパーソナルなものです。すごくすごく、私の中にあります。だからあまり外に出したくない。それを売りたくないです。もしそれを売れば、皆共感してくれます。それを売ってるボスニア人のアーティストもいます。戦争のあと、ボスニアの映画は全部戦争の映画になりました。それをやれば有名になれます。でも、何でそればっかり? ボスニアには別の側面も、あります。ボスニアの文化には、面白いところがいっぱいあります。残念なことに、今回は時間がないけど、ボスニアのトラディショナル・ハウスだとか、博物館だとか、本当に皆さんを連れて行きたいです」

 既に記した通り、『てんとてん』という作品は「悲劇と、それとの距離」を扱っている。その作品世界とボスニアというのは、あまりにもリンクするところがあった。その影響は次の土地を訪れたときに生じた。2014年のツアー2箇所目は、フィレンツェとピサの中間地点にある郊外の街・ポンテデーラだ。劇場の目の前に巨大なスーパーマーケット「パノラマ」があり、その近くに移動式遊園地が出ているくらいしか特筆すべきことがない街だ。ここまでの3都市では皆でよく散歩に出かけていたのだが、散歩する道も浮かばず、飲みに出かける店も見当たらず、ほとんどの時間を「パノラマ」とキッチンで過ごすことになった。

 あれはポンテデーラ公演の前日だったか、「パノラマ」での買い物を済ませて歩いているとき、役者の成田亜佑美さんはふいに「『この町』って、どこを思って言えばいい?」と訊ねた。成田さんの台詞には「この町で起こったこと」というフレーズが含まれているのだ。そのときは「それは別に、どこのことも思わなくていいんじゃないの」と答えた藤田さんだったけれど、キッチンに戻ると「え、『どこを思って言えばいい?』ってどういうつもりで言ってるの?」と険しい顔で切り出した。

「『こんな街』って言い方をするとき──日本でやったときはそんなこと気にならなかったんだけど、何も知らないってことがどうしても引っかかっちゃうんだよ」と成田さん。

サラエボのときは、タイダさんがいたから何となくその街のことを聞いたけど、この先、それぐらいのマッチングを求めていくと、全然できなくなってくるよ」と藤田さん。

「『この町で起こったこと』っていうとき、ずっと『てんとてん』の町を──女の子が殺された町のことしか想像してなかったけど、ボスニアって街でやったとき、『この町』っていう台詞をボスニアってことで言っちゃったから」

「それはいいんじゃない? 『てんとてん』って作品はさ、いろんな町のことを言ってるじゃん」

「……うん」

ボスニアでその感覚があったのであれば、その感触を捨てろとは言わないけど。だけどここはボスニアではないよね」

「……うん」

「この作品では、ありとあらゆる街のことを言ってるじゃん」

「……うん」

ボスニアでは具体的になってしまったところはあるけど──あっちゃんの言い方が引っかかるのは、『この街のことを知らない』ってことをどういうつもりで言ってるのかがわからないんだ。だって、僕らはどの街のことだって知らないよね?」

「……うん」

「タイダさんから偶然話は聞けたけど、サラエボのことだって知れたとは思わないしね、そこは。逆にさ、知れたとか言っちゃうのはおこがましいことじゃん。それに、その街に特別な悲劇みたいなことが何もなかったとしても、その街のことが悪いとは全然思わないし」

「悪いとかは言ってないよ、まったく言ってないよ」

 あゆみさんはコンロでお湯を沸かそうとしていた。点火する音が、チッチッチッチッチッチッチッとずっと響いている。キッチンには一緒にスーパーに行った聡子さんもいたけれど、二人だけが話をしていた。僕はスーパーで買ってきたタコのマリネをつまみながら、ビールを飲んでいた。

「じゃあ、『てんとてん』の世界にしようかな」と成田さんが言う。

「いや、だから『しようかな』とかじゃないんだよ」と藤田さん。

「だって、しないとできないんだもん」

「だから──『しようかな』ってことは、じゃあボスニアのときは『てんとてん』の世界で言ってなかったってこと? だとしたら、ボスニアでは『てんとてん』の世界とはまったく別の世界のことを言ってたわけだよね。それはただのクソだよ。絶対そうではないじゃん。え、どういうことで言ってんの? 説明してみて」

「今説明したけど、いい」

「わかんないよ、全然」と藤田さんは苛立たしそうにビールの蓋を開けた。「だって、この町から出ていく人もいるわけじゃん。どの町でも、そういう漠然としたところに向けてやってたはずだけどね。どの町にでも、俺と同じ規模で傷ついている人もいるかもしれないじゃん」

「……うん」

「それでも言えないっていうのであれば、ポンテデーラに着いてからの皆の過ごし方が悪かったってことになるんじゃないの。もっとこの町のことを知っていけばよかったんじゃないの。どうやって知るのかわかんないけどね。出歩ける場所がなさ過ぎるからさ」

「去年、たかちゃんが言ってたじゃない? 『旅をする意味がなくなっちゃう作品にはしたくない』って」

「いや、だから、意味ななくないと思ってるよ」

「うん、意味なくないよ。もっとあゆみの問題だけどね。……うん、わかった。わかったよ」

「そうやって言われても、全然気持ち悪いんだけど」

「だから──そうかもね。ボスニアが強い印象過ぎたってのは絶対にあるから、それをなぞっちゃってる気がするんだと思う」

「たぶん、区別して考えたほうがいいんだよ。まず、『てんとてん』の世界があるじゃん。で、ボスニアで挙げた成果があるじゃん。その上で、今はポンテデーラにいるってことがある──この三つのことをあっちゃんはぐちゃぐちゃに言っちゃってるんだと思う。それはさ、十六夜(吉田町スタジオ)でやったこともあるわけだし、フィレンツェもあるし、サンティアゴもあるわけだから、そこで考えたことは引き算する必要はないってことがまず一つ。だからボスニアで──何泣いてんだよ。ふざけんなよ、マジで」

 僕はうつむいたままタコのマリネをつまんでいた。視線をあげることもできず、ただタコを食べることしかできなくて、終演後に食べるつもりだったタコをあらかた食べ尽くしてしまった。

「だから、ボスニアで出会ったことは絶対に引き算しなくていいの。それは全然良いんだけど、今ポンテデーラにいるってことは、それに引けを取ることだとは思わないって話。あっちゃんもそう言ってるんだとは思うけど、言い方の問題でさ。今まで出会ってきたことに関しては、全然引き算しなくていいと思う」

「どういうこと?」

「だから、ボスニアでやったときに『この街で起きたこと』ってことを言えた感触があったとしたら、ポンテデーラに来たからと言って、それをチャラにする必要はないんだよ。今は偶然ポンテデーラってところにいるけど、ここの土地のことは他の土地と同様に知らないし、ここの土地の人たちのことだって他の土地の人たちと同様に知らないじゃん。それはあえて平等にしていかないと駄目なんじゃないの。だから『てんとてん』の中ではあえて三・一一の話も九・一一の話も言ってるわけだよね。そうすると、『どことしてやればいいの?』ってことじゃなくて、ポンテデーラにいるってことはあるはずだし、どこの土地でも『てんとてん』の中のフィクションの世界をやるっていうのもあるわけだよ」

「うん、そうだね。それはずっとそう思ってたけどね」

「だけど、サラエボに関しては皆の中のパワーバランスが崩れたかもしれないっていう危機感はあるよ。その危機感はずっとあるから、その話は皆としたいんだけど。だけど──こう、蓄積していくじゃん」

「うん、そうだね。蓄積をやりたいんだけど、難しかったら聞いてみた」

「だけど、それでも蓄積をやるしかないよね。蓄積をやるんだけど、それは『どことしてやればいいの?』とかじゃないよね。蓄積をやるんだけど、そこはポンテデーラだし、『てんとてん』の世界だってことじゃないと駄目なんだと思う」

 今振り返ってみても、『てんとてん』という作品は、(それに向けて作ったわけでは当然ないにもかかわらず)ボスニアという土地の歴史とリンクしてしまうところが多かった。そして、藤田さんがボスニアで皆に向けて言っていた、「この土地の人たちに向けて言う」ということは、バランスをとるのがとても大変な作業だと思う。まずは『てんとてん』の世界の言葉として伝えるのだけれども、それをその土地の人に向けて、その土地の人に届く言葉として語る。そして、その言葉には、これまで旅した土地の記憶が蓄積されている──そんなふうに言葉として整理することはできるけれど、それを実際に舞台の上で語る役者には、とても複雑なバランスが要求されるのだろう。
 
 2014年の旅はその後、アドリア海に面したアンコーナシチリア島にあるメッシーナという町を訪ねて終わりを迎えた。それからまた1年後の2015年、『てんとてん』という作品は再び旅に出る。訪れたのはドイツのケルンだ。街を歩いたときの僕の印象は、これまで旅をしてきた土地に比べて移民が多いということだった。ただ、移民の人たちも社会に溶け込んでいて、穏やかな町だったという印象がある(だからこそ半年後にショックを受けることになる)。

 ケルン公演を前にして、藤田さんはまた役者にも皆を集めて話をした。

「今年の『てんとてん』は、この一ヶ所でしかやらないんだけど、いくつか話したくて。この作品は『その土地でやる意味』みたいなことを考えて、その問題には去年からぶち当たってきたわけなんだけど、その問題を変に空中分解させているつもりはなくて。去年のツアーの後半は、そういう話が高まってて、その高まった状態でメッシーナまで行ったノリがあったじゃん。でも、今年はこの一ヶ所のみだから、『ただやればいい』ってことになりそうな感じもなくはないんだけど、僕的にはケルンでやる意味はあると思ってるんだよね。

 それはどういうことかっていうと、その土地でやる意味をどうやって見出すかってなったときに、“その土地のことを調べたりなんだりして見出す”ってことではなくて、“これってどの街にも当てはまることだよね”っていうこととしてやっていくってことだと思う。だから別に、『てんとてん』って作品をやるときに、その街のすべてを孕んで上演したいってことでやっぱりないっていうこと。ただ、観に来てくれるのはこの街の人たちだから、やっぱりこの街でしかやれないことになっていくじゃん。何だろう、今日この日に来てくれる人たち――それが何人であろうと、今日ここにきてくれた人たちとやるってことが重要なことだと思うのね。

 そのときに僕が気をつけてるのは、何だろう、いろんなことを調べたり勉強したりしても、やっぱりその人たちには近づけないところがあるってことで。その“近づけないところがある”ってことが肝だと思うのね。それは海外に限った話じゃなくて、同じ日本人であっても、わかってあげられない部分があるわけだよ。『cocoon』って作品をもってしてでも、沖縄っていうところとどれぐらいちゃんと作業ができたのか、わからないわけだよ。

 そういう意味で言うと、『てんとてん』での作業も『cocoon』での作業も、僕のスタンスの話をすれば同じなんだ。どこに行っても、自分はそこにいてはいけない人なんじゃないか、自分はそこにいないんじゃないかっていう不在感とともにいるんだよ。でも、じゃあ何でそこに足を運んで作品をやるのかっていうと、『自分はそこにいてはいけないんじゃないか』ってことで諦めたくないからなんだよ。どこかに足を運んだときに打ちのめされることもあるわけだけど、その打ちのめされるってことが作品を伸ばす一番の樹液になってると思う。その作業を、どの土地に行ってもやりたいんだよ」

 あれからまた1年が経った。今は2016年だ。今年の『てんとてん』は海外ではなく、東京で観れることになった。それが新しくオープンする劇場「LUMINE 0」のこけら落としであることに意味を感じる。上演されるのは『てんとてん』だけではなく、『あっこのはなし』や『カタチノチガウ』という作品も同時上演される。これまで旅してきた道のりを振り返り、ここからまた旅に出る――その第一歩であるからこそ、レパートリーを3作同時上演ということを選んだのだろう。そのときに選んだレパートリーの一つが『カタチノチガウ』であることにも強い意味を感じる。

 『カタチノチガウ』の初演は2015年の1月で、夏には北京でも上演されているが、藤田さんがこの作品を書いたのは『てんとてん』のツアー中のことだ。2014年に訪れたアンコーナは海沿いの町だったのだが、用意されていた滞在施設は海から車で30分近く離れた山奥にあった。周りには広大な風景が広がっていた。それまで旅してきた場所だって日本とは全然違っているはずなのに、その風景があまりにも違っていることに圧倒されたことを思い出す。この宿泊施設のキッチンで、毎晩のように藤田さんはオニオンスープを作り、次の作品のことを考えているようだった。

 そうして書き上げられた『カタチノチガウ』という作品には、「未来」という言葉が登場する。これ以降の作品では必ず登場するようになった言葉だが、最初はギョッとしたおぼえがある。藤田さんは常々「僕は記憶のことしか扱わない作家だ」と公言していたからだ。過去の悲劇と、現在にいる私を描く作品で旅を繰り返す。その中で生まれてきた作品に「未来」という言葉が登場する。それがとても印象的だったことを思い出す。そうそう、『カタチノチガウ』には、『てんとてん』のツアーで出会ったパブロという犬も登場するのだった。いつまで経っても思い出してばかりいるが、今は2013年でも2014年でも2015年でもなく、2016年の春だ。新しい場所であの作品を観るとどんな気持ちになるのか、今から楽しみだ。