2009-12-01
ゼロ年代を締めくくる傑作! 『Steins;Gate』シュタインズゲート
傑作です。
一気にプレイし終えました。いくつか瑕疵があるけれども傑作だといって差し支えないと思います。テーマ的にもループものとしての構造的にも、ゼロ年代を締めくくる作品の一つであることに間違いありません。
どんな話か、の紹介については敷居さんがよい記事を書いてくださってますので、そちらを見る方がよいでしょう。
リンク:『Steins;Gate(シュタインズ・ゲート)』はガチ - 敷居の先住民
さて、ではスタート。
ぼくの記事はネタバレしまくりなので、ご覧になるまえに十分注意してください。
そしてまた勿体ないので、公式サイトと、この記事は、プレイしてから読むことをお奨めします(笑)。
内容としては『紫色のクオリア』とほぼまったく同系統の物語で、だけどテーマ的にはやや及ばなかった、という印象でしょうか。惜しい、と思います。とはいっても十分すぎるぐらい楽しませて貰ったので、正直文句はいえないのですが。プレイが終了してからもだいぶ余韻を引きずっている感じがあるくらいです。さて、それではその「やや及ばなかった」という話を書いてみることにしましょう。両作品には「大切な人が理不尽な死を迎えてしまい、タイプリープによってそれに抗う」という共通した特徴・物語構造があります。
紫色のクオリアについては詳細を省きますが、シュタインズゲートにおいては、まゆりという幼馴じみの死が、真の物語のスタートとなります。彼女の死に納得のいかない、主人公・岡部倫太郎はタイムリープという手段を用いてどうにかしてそれを回避しようとします*1。
といっても、何度タイムリープしてもまゆりを助けることはできません。繰り返し繰り返しまゆりは死にます。しかし諦めない岡部は、牧瀬紅莉栖をはじめとした仲間たちと共に、まゆりを助けようと奮闘します。その途中で待ち受けているのは、『まゆりを救うには、他のヒロインのたちの幸せを踏みつぶさなければならない』というもので、岡部は、ラボメンを取るのか、それともまゆりを助けるのか、ということを何度も何度も、ひたすら試されることになる。
まゆりの命と、仲間達の幸せ。その二つを天秤にかけ、どちらが岡部にとって重いのかを何度も問いかけられ、そしてまた、どちらが重いのかを岡部が決めていい状況なわけです。岡部は、まゆりの命よりもラボメンが大切だとおもったら、いつでもまゆりの命を捨てていいし、そのかわりに、ラボメンの幸せをまゆりのために踏みにじってもいい。その権利が岡部に与えられてしまいます。岡部だけがタイムリープすることができるという特権によってです。権利とは立場であり権力です。自分の好みで自分が望む未来を選んでいいという絶対的な力に他なりません。自分が好きなように自分の周りを変えてもいい。それができる権力が、どういうわけか岡部にだけ与えられてしまいます。しかし、だからこそ、選択を迫られる度に岡部は苦悩することになります。「自分には選ぶ資格はないはずだ」と。
それは何故なのでしょうか。
なぜならば、岡部に与えられるものは「権利」であって「資格」ではありません。自分が好きなように過去を改竄できるというのは、それは、無限にも等しい責任を背負う行為になってしまうからです。そしてその責任を背負うことは、いくら口先で「できる」などと言おうが、不可能なものは不可能です。
なぜなら、岡部に与えられた力というのは「地球全体の歴史を岡部自身が操作していい」というレベルにあるもので*2、すなわち、岡部が過去を改竄するとは、地球に住む人間すべてを幸福にする、ということだからです。ま、そんなの無理ですよね(笑)。岡部という一人の人間だけで、地球上にいる60億の人間すべてに幸福を約束することは絶対にできません。そしてそもそも、岡部によって過去が変えられてしまう、という事実を知らず、責任を仮託することのできない人間のほうがはるかに多い。59億9999万9990人くらいは、過去を変えてもいいよ、と託すことすらできないわけです。それって、過去を変えられる側からしたら納得いかないことですよね。人々の運命を勝手にいじくりまわすことはエゴイズムに他ならないわけです。マッドサイエンティストであり独善的な人間なのだ、と嘯く岡部の身に、まさにその権利が与えられたとき、そのあまりの責任の重さに苦悩するわけですね。
でも、実際には作中では過去改変は行われます。それは「まゆりを救うこと」と「SERNの支配構造を破壊すること」が等価関係になっているためです。鈴羽から伝えられる未来には、生きながらにして死んだ世界、つまりは『ディストピア』が待っていると伝えられます。つまり、地球上のほぼすべての人間、すくなくとも8割くらい(適当に言ってます)の人間は不幸になることが約束されており、だからこそ岡部には、いまここで歴史を改変してもいい、という正当化がなされるわけです(ちなみに、このシュタインズゲートというゲームの脚本が素晴らしい点は、最終章である11章において、そうやって歴史改変することの無意味さすら暴かれる、という点にあるのですが、それは後述)。
ちょっと回りくどいですね。整理しましょう。重要な点は、
「岡部には(絶対的な権力として)過去を変える力がある」そして「その行為はマクロ的に、地球規模的に見ても、正しい行為であるのが保証されている」という二点です。
これの二点によって、岡部は過去を変えることが許されます。そしてまた、その行為は「まゆりを助ける」という自身の目的とも合致しており、岡部も変える気まんまんです。ですが、いざ変えていい、となったときに気づくことになります。その行為は、これまで自分をたすけてくれた仲間達の想いを踏みにじる行為に他ならないのだと。
もちろん、倫理的な問題として、フェイリス、るかの二人は、二人自身が自分の都合のためだけに過去改変したという罪を持っているので、これについてはむしろ「元に戻さなければならない」とも言えます。ようするに「自分は男じゃなくて女の子に生まれたかったから、過去を変えちゃいました☆」ということで、それによって10億人の人が不幸になっていたとしたら、それって最低な行為ですよね(笑)。だから、むしろこの二人については変えてもいい、といえます。鈴羽については、ほぼ全人類が不幸な状態にあるのを助けるために覚悟を決めてやってきているわけですから、本人の意志を尊重するという名目で、過去を変えることが許されます。もちろん、そんな単純な話じゃないわけですが。
……とこんな感じで、鈴羽、フェイリス、るか、という3人を踏みにじって、未来は不幸なんだから過去改変は正しい、という免罪符をかざしてなんとか、まゆりを救おうとするわけです。そして実際に、あと一歩でまゆりを救える! というところまでやってきます。
だけど、最後の最後で、まゆりを救うためには、紅莉栖が死ななければならない、という事実に直面するんですね。ここで重要なのは、紅莉栖は、るかやフェイリスのように「自分がやりたいように過去を変えた」わけでも「過去をかえるためには自分が犠牲になってもいい」と覚悟したわけでもなんでもない! というところにあります。それどころか過去を変えるために岡部にめちゃくちゃ手伝ってくれた人間なわけで、むしろ、これまでのことにふかく感謝をすべき相手であり、岡部自身も紅莉栖に惹かれており、そして彼女もまた岡部に好意を抱いています。だけど死ね、というのがこの物語の秀逸な点であり、そしてクライマックスといえます。
無論、マクロ的にまゆりを助けることは正しい、という担保はあります。しかし、もともと岡部がまゆりを助けようと思ったのは、ごく個人的な感情で「まゆりが死ぬのなんか納得できない!」という点から出発しています。全世界が救われるから、などというのは後付の論理で、もともとは、まゆりを助けたいからこそ何度も何度もタイムリープを繰り返しているわけですよね。だから、やはりここで岡部が求められている選択の本質は以下のようなものでしょう。「紅莉栖を助けてもまゆりを助けても、どっちらでもいい。さあ好きな方を選べ」と。エグい。実にエグい(笑)。
岡部倫太郎
『俺は"神"じゃない。気が付いたらそれに等しい立場にいたけど、全然違う』
『誰を助けて、誰を見殺しにするかなんて、俺は……もう、決められない……っ』
そう、これはエゴです。マクロの免罪符こそ持っていますが、どちらを救うかを決めるのはあくまで岡部であり、その選ぶ基準はあくまで岡部の感情なんです。それを自覚しているからこそ、岡部は悩み、そして苦しむことになります(その証拠としては、物語の分岐が紅莉栖への好感度の深さに拠っているという点が挙げられます)。
……で、ここまでが前置きなわけですが(長いな!)、一番最初の「テーマ的に紫色のクオリアに一歩及んでいない」という記述に戻るとしましょう。では何故、これだけ岡部の葛藤と苦悩をえぐりだしているのにもかかわらず、クオリアにテーマ的に一歩及んでいないのか。それは「どちらを救うか?」という行為、そして「まゆりを救う」という行為に対して、まゆりや紅莉栖の視点からの言葉が重視されていない、という点にあります。ここで重視されていないというのがポイントで、微妙には入ってはいるんですよね(苦笑)。だけど、それが主題に昇ってきておらず、あくまで岡部の主観の域を出ていない。他者の視点をどれだけ取り入れているかという話でもあります*3。助ける助けないの基準が、主人公の感情から出ていないんですね。だから、どちらを救うかの選択が、キャラクターへの好意の深さで決定されるようなシステムになっている。
その点『紫色のクオリア』が秀逸だったのは、誰かを救おうとするならば、その救われる相手の気持ちをこそ尊重しなければならない、という結論を導き出しているところにあります。
紫色のクオリアでは、主人公のマナブが、このシュタインズゲートと同様に、タームリープ(とか)を駆使してあの手この手で、死んでしまう少女・ゆかりを助けようとし、助ける直前にまで到達します。しかし、いざ、助けられる、となったときにゆかりから告げられるのは「助かりたいとか助けて欲しいとか、そういう私の気持ちを無視して勝手に決めないで!」というものでした。つまり、本当に相手のことを思って、誰かを助けようと思うのならば、その人が本当に助かりたいのか、助けて欲しいのか、というのが大大大前提なんですよね。なぜなら、そもそも助けるという行為はその人を尊重する、大切にする、という気持ちの表れだから。それを無視して「その人が死ぬのは見たくない」というのは、単なるナルシシズムに過ぎないでしょう。その点に非常に自覚的に描いていた『紫色のクオリア』はやはり秀逸な作品だったと僕は思います。
ではそこで、シュタインズゲートはどうだったでしょうか。
岡部は「まゆりを助ける」と言ってはいますが、基本的に「数日後、まゆりが死んでしまう」という事実は本人には決して告げません。そのうえで岡部はタイムリープでまゆりの死を回避しようとします。しかし、助けようとしていることを告げないのは、実はまゆりの意志を無視しているんです。そしてまた、まゆりは自己犠牲的……というか他者優先的なキャラクターとして造形されており「誰かを犠牲にしてまで生きるなんて嫌だ」という言葉も出しています(うろ覚え。記憶が正しければ。言ったのは紅莉栖だったかも)。岡部に助けられた過去があるからこそ、誰かの助けになり、感謝を返すような人間になっているんですね。
まゆりは確かに「誰かを犠牲にしてまで生きたくない」と告げてはいるけれども、それを真正面から取り上げて書いてはいません。「誰かを犠牲にしてまで生きたくない」→「これまでの俺の行動は所詮自己満足だったのか!」という『気づき』が無いんですね。そしてまた岡部はどちらを助けるの? という問いに対して、ほとんど関わっていないんです。それに対して、真正面から「私の気持ちを無視しないで」と描いた紫色のクオリアの方が、やはりテーマ的には軍配があがると言えるのではないでしょうか。
まとめると、紫色のクオリアが『救われる側の人間の気持ちを無視した一方的な奉仕は所詮ナルシシズムにすぎない』という話だったのに対して、シュタインズゲートの方は『誰を救って誰を見捨てるなんてことは自分には(神ではない以上)選ぶことはできない』という点に留まっている、という違いですね。*4
さて、いろいろ批判も書きましたが……ではシュタインズゲートはダメダメだったのか? というと、全然そんなことはないと思います。
何故なら、トゥルーエンドの存在が、この作品の価値をぐっと高めているからです。これまで持ち上げてきた『紫色のクオリア』にも欠点がありました。それは「え、これでいいの……」的な終わり方だった点にあるでしょう(ぼくも某氏に指摘されるまで、全然考えてなかったので、あまり偉そうなことは言えませんが)、つまり、紫色のクオリアのラストシーン「if」では、根本的解決がなされていないように見えてしまう、という点。その解決手段について、よっぽど深く考えないと解決方法まで思いつくことはできず、誤解的な読みを誘いがちです。ゆかりはこのままだと助からないし、マナブもあのままじゃ二人に別れたまま、というように見えてしまう。根本的問題が解決されていないということは、ようするにバッドエンドでいい、という結論なわけで「幸せになることを諦めろ」という結論に見えてしまいます。それって、まあ、評価しづらいですよね(笑)。不幸よりは幸せな方がいいのは、一般的な感性を持っている人間に共通のことだと思います(そこでバッドエンドフェチになった人、ハッピーエンドに飽きた人にこそ、ハッピーエンドの方がいいじゃん! という物語にしたのが、いわゆるこの「シュタインズゲート」や「ひぐらしのなく頃に」といったような作品になるわけですが、その詳細も割愛)。
では、シュタインズゲートが出したトゥルーエンドの結末はどんなものだったのか。
そのためには、α世界線からβ世界線へと移動することがどういう意味を持っているのかを知る必要があります。シナリオのほぼ全てで、岡部はα世界線から、少しはマシな世界になっているであろうβ世界線への移動することを目指し、何度も何度もタイムリープすることになります。β世界線とは、まゆりが死なない世界でもあり、これで、世界を救うこととまゆりを助けることが等価関係になっているということは、先にも述べたとおりです。
しかし、11章になって衝撃の真実が明かされるんですね。α世界線では「SERNが世界を支配し生きてても意味のないようなディストピアになってしまう」と語れてしますが、しかし、実はβ世界線とは「第三次世界大戦が勃発してしまい、50億人の人間が死んでしまう世界」だと明かされる。つまり、岡部が「世界を救うため」と思って頑張っていた行為は、実は「世界を滅ぼすため」の行動だったと明かされるんですね。と、同時に、これは紅莉栖の死がほぼ完全な無駄死にであったことを示すことでもあり、二重の意味で岡部は衝撃を受けることになります。というかプレイヤーが衝撃を受けます(笑)。
で、あれば、もう一つ別の世界線に行けばいいじゃないか、と考えるのが普通だと思います。ようするに、α・βに続く、γという世界線があるならば、そちらに移ればいいじゃないか、と。ぼくも最初はそういう風に考えていました。
ですが、これは間違いなんですね。
なぜかというと、以下の理由があります。
1:β世界線がα世界線よりも最悪な世界であったように、γ世界線がα・β世界線よりもマシな世界であるという保証はどこにもない。
2:そもそもアトラクタフィールドという抗えない「運命」とも呼べるシステムが世界線には存在しているため、構造上、人間に「自由」が許されていない。
3:タイムマシンが引金になって残酷な未来へと移り変わっている以上、タイムマシンがあるかぎり、α世界線やβ世界線と同様に悲惨な世界が待っている可能性が高い。
以上の三点により、γ世界線に行ったとしても、そもそもの根本的な解決にならないんですね。そこでこれら全ての問題を解決するために出された結論は「シュタインズゲート」という、アトラクタフィールドの干渉を受けない世界線に移動し、そしてタイムマシンが生まれる原因となった『中鉢論文』を抹消する、というものでした。
ぼくは、このオチは非常にただしい結論だと思います。この「シュタインズゲート」という世界線に移ること――は、そもそもの『タイムマシンという存在を否定する』ということなんです。どういうことかというと、アトラクタフィールドが存在しないということは、つまり世界の可能性が収束しないので『未来がどうなるかは誰にもわからない』。そして、タイムマシンが生まれる起源を抹消するのだから、当然タイムマシンは生まれない。上気に挙げた構造的悲劇(なんじゃそら)を解決する手段が提示され、そしてちゃんと解決しているんですね。
・「シュタインズゲート」という世界線移るので、アトラクタフィールドは存在しない(問題1と2の解決)
・タイムマシンが生まれる起源を削除する(問題3の解決)
ここで重要なのは、あくまで「構造的」な悲劇を回避するという結論になっているというところです。シュタインズゲートの価値観・結論を示す紅莉栖の台詞を引用してみましょう。
『これまでの自分を否定したくないの。例え失敗ばかりだったとしても、それを含めて今の自分があるんだから』
もちろん「世界線・シュタインズゲート」にはアトラクタフィールドが存在しません。それは、可能性は収束しないかわりに、何が起こるか分からない、という世界です。喜びも悲しみも平等に存在する世界。たしかにタイムマシンがあれば未来はわかるかもしれませんし、過去も変えられるかもしれません。でも「そういうズル(チート)はしないよ!」という意志が、上記の紅莉栖の言葉にはあります。何が起ころうともその事実は受け入れる、というめちゃくちゃ格好いい台詞です。
最後に示される、「シュタインズゲート」という世界線……これってようするに僕たちが生きている現実の世界と一緒です。最後の11章は、つまり、岡部が世界を受け入れる物語になっている。構造的な問題点をキチッと解決したうえで、主人公がその新しい世界・価値観を受け入れ、認める……その点はとても評価できると思います。*5
まとめましょう。
この『シュタインズゲート』とは、構造的に避けられない理不尽な不幸には徹底して抗い、しかし、その上で、自分の行動によって生まれた結果・事象は受け入れ、そして認める……という物語です。
もちろん、この切り取り方すらも一面的なものです。ミクロの「個人の救済」という視点とも微妙に交錯していますし、中二病という側面でこの物語はもっと大いに語られるべきでしょう。エンタメ史的にも重要視するべき作品の一つだと思います。伏線回収は上手いし、物語に没入させるための「引き」の作り方も非常に上手い。海外ドラマを参考にして作ったという話ですが、それについては非常に納得。その性で冗長になった、とも言えますが、でも楽しめたからそこに不満はありません(笑)。
というわけで、「個人の救済」においてクオリアに及んでいない、等の瑕疵はあるものの、総合的にみればやはり傑作かな、と思います。この記事のタイトル通り『ゼロ年代を締めくくる傑作』でしょう。
おすすめです!
客観評価:★★★★★ -α
主観評価:★★★★★
*1:ちなみに、「タイムリープ」と「タイムトラベル」を使い分けていないので「時間を自由に操る権利」のことをタイムリープと呼んでいると思ってくれていいです
*2:バタフライ効果、という言葉が作中に何度も登場します。小さな因果の変化でも、まわりまわって大きな変化になってしまう、というもの
*3:ノベルゲームのフォーマットだから、という側面もあるでしょう
*4:ところで与太話ですが、個人的には紅莉栖の好感度が高いとまゆり EDになって、まゆりの好感度が高いと紅莉栖EDになるというのを妄想していました(好感度が高いほど自己犠牲的になる)。るかENDの使い方がめちゃくちゃもったいないと思ったのはぼくだけなのでしょうか……。
*5:それはそれとして、11章の演出のだめだめさにはかなり苦言を呈したいところでもあります。物語全体を、どうにも評価しずらい気分になったのもそれによります。「紅莉栖を今度こそ助ける!」と決めたわりに、まだチャンスが残っているのに一度の失敗でヘタれるあたりとか(まあ殺してしまったわけですから、そこまで求めるのは酷なのかもしれませんが)、むしろ未来岡部から再々度助ける場面こそ曲入れて熱い演出するところだろ! とか、ハッピーEDなんだからあの哀しげなBGMなんとかしろ、とかとか。……いや、好きだから言ってんですけどね。
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- Haitena だいありー - 紫色のクオリア,Steins;Gate - 読了

