床屋

中野区大和町の床屋

 あなたは子供のころ床屋で顔を剃られたことがあるだろうか? 筆者は毎回だった。
 散髪というのは子供にとっては面倒くさいだけで、できれば行きたくなかった。たいていは日曜日、父親と一緒に近所の床屋に行くのだが、いつも混んでいる。席があくまで小一時間待たされ、さらに髪を切り、洗髪してもらい、全部終わるまでまた小一時間。日曜の貴重な二時間をじっと座って過ごすなんていう退屈さに耐えられなかった。
 それに、翌日学校に行くと必ず囃したてられる。それまでラフに伸びていた髪が急にカッチリと小ぎれいになっちゃうと、格好のからかいのネタになるのだ。誰が散髪してきてもほぼ平等にからかわれていた記憶がある。当時そんな言葉はなかったが「ダッセェー!」という感じ。
 そんな苦痛に満ちた散髪だったが、顔剃りのときだけは楽しかった。ヒゲなんかほとんどはえていないのに大人と同じように蒸しタオルを顔にのせられ、泡をぬられ、剃刀を当てられるのだ。剃るったって、産毛くらいしかないのに。
 あれはなんだったんだろう。筆者が通っていた床屋ではほぼ誰にでもこの顔剃りを施していた。ルーティーンワークとして大人だろうが子供だろうが関係なくやっていたのかな。かなり丁寧で、耳たぶなんかも剃られた記憶がある。

ヒゲが濃くなるという理由で禁止されたが……


 顔剃りの儀式めいた感じが好きだった。顔の下半分をタオルで蒸している間、革の剃刀研ぎにシャーカシャーカと剃刀を上下させるのも、なんかかっこよかったし、鼻の下を剃るときに指で鼻梁を押して豚の鼻みたいにされるのも面白かった。当時はボタンを押すとシェービング・フォームが出てくる便利な機械などないから、泡はマグカップのでかいヤツに習字の筆をもっと太くしたようなハケを突っ込んで茶の湯みたいにシャカシャカかきまわして泡立ててからそのハケで顔にぬる。これがくすぐったいというかこそばゆいというか、とにかく妙に気持ちよかったのだ。
 ところがあるとき普段はめったに来ない母親が床屋まで迎えに来て、終わるまで待っていたことがあった。そのときも普通に顔剃りが行なわれたが、母は驚いて止めさせて、今後顔剃りはしないでくれと申しわたしていた。子供のうちから顔を剃っていると将来ヒゲが濃くなる、というのが理由だった。こちらとしては別に将来のヒゲのことなんかどうでもよくて、この作業を飛ばすことによる時間短縮と、こそばゆい快感とどっちがいいかなぁなんて思っていたのだが。
 結局、床屋は母の申し出をすっかり忘れてしまったらしく、次回からなにごともなかったかのように顔剃りは続いた。その後中学、高校と進んで、顔を剃ってもらうのは普通のこととなったが、ヒゲはちっとも濃くならず、現在でもスカスカの密度の薄い状態でしかはえてこない。

アメリカでも日本でも床屋はコミュニケーションの場

Super Hits

Super Hits

 さて、唐突だが、フィラデルフィア・ソウル初期の名グループにイントルーダーズがいる。「カウボーイ・トゥ・ガール」「ラブ・イズ・ライク・ア・ベースボール・ゲーム」なんていう底抜けに楽しいヒット曲があるが、彼らのベスト盤のジャケットは床屋の店内でポーズをとるメンバーの写真だ。アメリカの黒人コミュニティの間では床屋というのは重要な位置を占めていて、大人も子供も終日たむろしてはだらだらとダベったり、街の噂の情報交換をしたりと、女房や母親の目を逃れて気を抜く場所として機能していた。あのP-ファンクを率いる御大ジョージ・クリントンが自己のグループであるパーラメンツを結成したのも床屋で、メンバーはそこの常連だった。
 また二〇〇三年にDVDが発売された映画『アンダーカバー・ブラザー』でも、白人と戦う黒人のための地下組織への秘密の入り口は床屋なのだ*1 日本でも落語に「浮世床」なんていうのがあるくらいで江戸から明治にかけては、町内の若い衆が床屋にたむろしてよからぬ相談を成す、ということはあったようだ。
 美容院でオバちゃまたちが井戸端会議をするように、理髪店(床屋)は男の解放区だったのだ。子供のころに通っていた床屋もその雰囲気を残していた。店の人と客がよく野球の話で盛り上がっていたことを覚えている。先日その床屋がまだ残っていることを知り、撮影させてもらった。約四〇年前の記憶が一気に甦ってきた。
 最近の床屋はどうなんだろう? 筆者はここ一〇年以上、いわゆる理髪店にはまったく行っていない。一〇〇〇円で散髪してくれるチェーンの床屋に行くか、最近ではバリカンを使い自分で丸刈りにしてしまう。あの整髪料の匂いや、湿度の高い空気、鏡に映る逆さまの時計、ラジオから流れるAM放送、そんなものからすっかり遠ざかってしまった。今でもどこかで床屋政談が戦わされていたりするのだろうか……。

使用機材


CANON T90 / CANON FD 24mm f2 / FUJI NEOPAN400
実はこのカメラが始めて購入した一眼レフ。雑誌のグラビア担当を命じられたとき、まともなカメラを持っていないのはまずいだろうと思って慌てて買いにいった。1986年のことだった。それから途中ブランクはあるものの、今に至るカメラ趣味がスタートしたわけである。当時雑誌グラビアで活躍していたプロカメラマンはキヤノンを使っている人が圧倒的に多かった(少なくとも筆者の周囲はそうだった)ので、キヤノンにしておけば、古くなったレンズをおこぼれちょうだいできるかなという思いもあって選んだのだが、もちろんそれ以外にも、当時のフラッグシップモデルF-1に匹敵する高機能と、ルイジ・コラーニによる奇抜なデザインに惚れて、ボーナスをはたいたのだ。今では普通の機能であるプログラムシフトもこの当時は斬新で、スポット測光とともに、凝った撮影ができる! と大喜びだった。しかしその高機能のほとんどは使えていない。とはいえ、便利で高性能であることは間違いなく、今でもフィルムを通す機会の多いカメラである。
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*1:このシーンはかなりおバカで笑える。というか映画全体がおバカの連続だが(笑)