配慮を強制されるときに感じる違和感とは〜障害者とのコミュニケーションをめぐって

このエントリを読んでいて、1年以上前にはてブ人気エントリーになった記事を思い出した。「席を譲らなかった若者」の話である。
あらすじは、高齢者が若者に席を譲らせようとわざと聞こえるように嫌みを垂れていたところ、若者に見事切り返されてぐうの音も出なかった、という内容だった。*1

一見刷り込まれている「配慮」

身体の不自由な人、いわゆる障害者には日常生活のいろいろな場面で配慮しなければならないことを、社会で生活していく上で守らなければならない常識的なルールとして、僕たちは親や学校から教わっている。
だから、障害のある人に直接接するとき、その人の性格を知る前にまず「障害がある」ことをインプットして、円滑にコミュニケーションできるよう配慮しなければならないと思考を切り替える。
それは僕自身が教わってきたことを実践する場面でもあり、初めて接する彼らからどのような変化球が投げられるか内心は戸惑うこともあるかもしれないが、配慮することに向こうからの見返りを期待しているわけでもなく、粛々とコミュニケーションは進んでいくのが常である。

「配慮」が強制されるとき

だが、ルールを守ることを当然のように要求される、不利であるがゆえの権利を振りかざしてこられた場合、僕は戸惑うだろう。
本来自発的になされるべきであることを押しつけられることで、これまで自分が配慮してきたつもりでいたことを反故にされるような心境になるのだ。普段は隠れて見えないざらついた部分に直に触れられるような違和感を覚えるのだ。
あるいは、配慮を強制されるということは、これまで充分だと思っていた自分自身の配慮が行き届いていないことから受ける叱咤なのかもしれない。
権利を獲得するためには、声なき者が声をあげなければならないことを彼らは誰よりも知っているのかもしれない。障害者の置かれた立場を当事者として先鋭に感じ取っているからこそ、彼らは日常のコミュニケーションを闘争になぞらえているのかもしれない。
配慮を強制されることで感じる違和感は、自分が「障害者は健常者より不利な立場にある」ことを意識下で考えている驕りからきているのか、単にコミュニケーションの齟齬から感じる不快感に源を発しているのか、自分自身、まだわからずにいる。

*1:この記事についたブックマークのエントリーページや、エントリーのコメント欄を読んでいると、当時大きな議論になったことがわかる。