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2006-10-11 (水)

募金活動に覚えた違和感とは

やや旬の過ぎた感もある「さくらちゃんを救う会」に関する話。

記事にアップするにはあまりに中途半端なメモだが、自分の感じたことを忘れないうちに書き留めておきたい。

「恵まれている」位置から発せられるメッセージ

僕が「さくらちゃんを救う会」がネットで話題になっていることを知ったのは産経新聞の記事「女児の難病移植募金めぐり2ちゃんで「祭り」-ITニュース:イザ!」から。ほぼ同じ時期に、募金活動に対する疑念をまとめた「死ぬ死ぬ詐欺」のまとめサイトはてブ経由でアクセス。そこには、両親の職業や募金団体の疑惑について事細かに記載されていた。

まとめサイトの情報が逐一正確を期したものであるかどうかは、誤解を畏れずに言えば、僕にとってはあまり重要ではなかった。これらのサイトから僕が判断したことは、その少女が紛れもなく「恵まれている」ということだ。

少女は「恵まれている」からこそ、周辺の援助が得やすい立場にいるし、彼ら周辺は情報を効果的に発信する手法に長けている。

だからこそ、普段そのようなことを考える機会のほとんどない自分にこの記事を書かせている。

せきたてられることで感じる違和感

その少女は自分にとって、突然飛び込んできた他者に過ぎない。

見えない他者に対して、僕は自分の思考の枠の中でしか想像を喚起できない。悲しいかなこれが限界だ。だから、この話題に初めて触れたとき、本来は切実であるべき「移植」の語句とは直接関係のないセンセーショナルな語句に惹かれてマウスをクリックしてしまったことを認めなければならない。

「救う会」のページに貼られた愛くるしい少女の表情を見ていると、自分の思考の枠を突き抜けて「行動」をせきたてられるような感覚を覚えた。「せきたてられる」とは、行動する前に立ち止まろうとする自分の意思にかかわらず、第三者が意図する方向に自分を誘導しようとする意志を感じてしまった、といえばよいだろうか。

この感覚を、僕は少なくとも「自分の延長にあるもの」として受け入れることができなかった。この件を自分に近しいものとして受け入れるには、言葉にはできない違和感が僕には大きすぎたのだ。

「見えないもの」は見えないままなのか

「見えるもの」に注目してしまうことで「見えないもの」はさらに見えなくなってしまうのではないか。

あまりにわかりやすい、飛びつきやすい物語を目の前にして感じる、見えるものにしか反応できない自分へのいらだち。あるいは急き立てられた刺激にいともたやすく反応してしまう自分へのいらだち。うまく言葉にはできないが自分の中のひねくれた感情が、この件に対して自分を冷ややかたらしめていたように思う。

とはいうものの、僕たちは目の前に見える情報を頼りに日々の行動の様式を意識せぬままに決定していることを知っている。

見えないものにいつも想像力をめぐらせるほど、僕は知的体力も好奇心も持ち合わせていないし、自分自身の生活にそこまで思索に時間を割く余裕があるわけでもない。

だからこそ、僕のよう日常に追われて社会に想像力を喚起できなくなった者の目を惹くには、副作用を承知で見えないものを見せる「劇薬」が必要なのだ。それが、今回の事例に則して言うならば「募金活動」なのだろう。

だけど、僕はそこに違和感を感じてしまった。

わきあがる感情、得たい感情があるとするならば

自分は、この親子のケースからどのような感情を得ようと思っているのだろうか。

  • 「見えるもの」が得をする一方で置き去りにされる「見えないもの」も等価に扱われるべきだという幻想を抱いているのだろうか。*1
  • 他者の力を集めてまで明らかな「矛盾」を突き破ろうとしていることに対する「抜け駆け」感に異論を表明したいのだろうか。

この件に関するエントリをいくつか目を通しながら、自分自身がなぜこの一件にもやもやを拭えずにいるのか、まだわからずにいる。

関連する記事

Nash Bridgesの始末書 - 金持ちと移植医療
質的観点からの生命は絶対的。生命を量的観点から考えた場合どのようなことが言えるか。
「なんでもかんでも保険で賄うことはできない。だから、効率の悪い命は捨てる。これが保険医療でしょ?これが量的に命を助ける方法なんですよ」
S:今日の一言 - kumiさんからTB受信
ブックマークのコメントに言及いただきました。僕自身、募金への違和感がどこから生まれているのか、もう少し考えることができれば、と思います。
猫は勘定にいれません:僕が募金に違和感を感じるわけ
肉親を亡くされた経験を踏まえて、募金に対する違和感を表明されている。
募金には、ある意味で「裏技」的なところがあるからなんじゃないか。」

*1:端的に言えば、生命は等価なのではないかという幻想にしがみつきたい自分がいる

2006-09-01 (金)

「やさしさ」の拠る立場〜障害者と対等に向き合うこととは

ある昼下がりの風景

月に数度の昼休み、僕の職場にはにぎやかなクッキー売りがやってくる。

介助者に導かれながら地域の作業所からやってくる彼らは、自分たちが作ったクッキーを籠に満載して、部署を尋ねるごとに丁寧に挨拶をしながら職員に売り歩いていく。

僕の隣に座っている先輩は、嬉々として彼らからクッキーを買い上げる。

いったいどんな味なんだろう。興味半分で先輩から分けてもらったクッキーを味わってみる。なんというか、僕には少々味付が甘すぎるようだ。

だから、彼らが無邪気な笑顔でやってきても、僕は彼らの作るクッキーを買うことはない。

対等であるということ

TERRAZINEさんのエントリに影響されて、障害者とのコミュニケーションに関する記事を先日書いたばかりなのだけど、このエントリを読んで『無敵のハンディキャップ―障害者が「プロレスラー」になった日 (文春文庫)]』というノンフィクションを思い出した。

福祉のボランティアをしながら障害者の世間一般のイメージを何とかして変えたいと悶々としていた筆者が、逆転の発想で「障害者をあえて見世物にする」障害者プロレスを立ち上げる話。作品の中では筆者と障害者はまったく対等の関係。障害者レスラーと筆者との“格闘”ともいえる生身のコミュニケーションが不思議にさわやかな読後感をもたらす。

「純真で無垢な障害者などどこにもいない!」と帯に書かれた文句は、当時学生だった自分には十分衝撃的だったのを覚えている。

「やさしさ」の拠る立場

ところで、先輩は彼らからクッキーを買った。僕は買わなかった。両者の間には、下記のような立場の違いがある。

  • 「彼らが障害者だから」、味には触れずにクッキーを「買う」ことをやさしいと考える立場。
  • 彼らが障害者であっても、「口に合わないから」クッキーを「買わない」ことをやさしいと考える立場。

自分自身や自分の肉親がいつ倒れて障害を背負うかわからない。障害が決して自分とは無縁のものではないことを彼らの姿に重ね合わせつつ、頑張る彼らに敬意を込めて「買う」。それをやさしさと呼ぶ人もいるだろう。

僕は違った。僕自身、自分の口にも合わないのに「買う」ことが、かえって彼らに対して失礼な態度のように思えた。彼らは必要以上に自分たちを特別扱いされることを望んでいるのだろうか。障害者として健常者から同情されることを彼らはよしとするのだろうか。直接尋ねたわけではないが、彼らが熱心にクッキーを売り歩いている姿を見ていると、おそらくそうではないような気がした。

だから、自分の嗜好に反してまで彼らに合わせることが、いかにも目上の視線から「買ってあげる」ことを露骨に示すように思えてならなかった。

普段は心の奥深くに沈めている偽善的な感情を呼び戻されるのが、僕は怖かったのだ。

積極的にやさしさを表現するならば

それでも、僕が彼らに積極的にやさしさを表現できるとすれば、どのような選択肢があるのだろうか。

  • 「自分の口に合わないこと」を彼らに伝えることをやさしいと考える立場。

が、もしかしたらありうるのかなあ、と、このエントリを書き終える頃になって思ってみる。

関連する情報

障害者プロレス『ドッグレッグス』
『無敵のハンディキャップ』の著者・北島行徳氏が主宰する障害者プロレス団体のサイト。障害者プロレスの様子を動画で観ることができる。
北島行徳オフィシャルホームページ - 北島行徳 作品リスト
ドッグレッグス」主催の北島行徳氏の著作一覧。

2006-08-29 (火)

配慮を強制されるときに感じる違和感とは〜障害者とのコミュニケーションをめぐって

このエントリを読んでいて、1年以上前にはてブ人気エントリーになった記事を思い出した。「席を譲らなかった若者」の話である。

あらすじは、高齢者が若者に席を譲らせようとわざと聞こえるように嫌みを垂れていたところ、若者に見事切り返されてぐうの音も出なかった、という内容だった。*1

一見刷り込まれている「配慮」

身体の不自由な人、いわゆる障害者には日常生活のいろいろな場面で配慮しなければならないことを、社会で生活していく上で守らなければならない常識的なルールとして、僕たちは親や学校から教わっている。

だから、障害のある人に直接接するとき、その人の性格を知る前にまず「障害がある」ことをインプットして、円滑にコミュニケーションできるよう配慮しなければならないと思考を切り替える。

それは僕自身が教わってきたことを実践する場面でもあり、初めて接する彼らからどのような変化球が投げられるか内心は戸惑うこともあるかもしれないが、配慮することに向こうからの見返りを期待しているわけでもなく、粛々とコミュニケーションは進んでいくのが常である。

「配慮」が強制されるとき

だが、ルールを守ることを当然のように要求される、不利であるがゆえの権利を振りかざしてこられた場合、僕は戸惑うだろう。

本来自発的になされるべきであることを押しつけられることで、これまで自分が配慮してきたつもりでいたことを反故にされるような心境になるのだ。普段は隠れて見えないざらついた部分に直に触れられるような違和感を覚えるのだ。

あるいは、配慮を強制されるということは、これまで充分だと思っていた自分自身の配慮が行き届いていないことから受ける叱咤なのかもしれない。

権利を獲得するためには、声なき者が声をあげなければならないことを彼らは誰よりも知っているのかもしれない。障害者の置かれた立場を当事者として先鋭に感じ取っているからこそ、彼らは日常のコミュニケーションを闘争になぞらえているのかもしれない。

配慮を強制されることで感じる違和感は、自分が「障害者は健常者より不利な立場にある」ことを意識下で考えている驕りからきているのか、単にコミュニケーションの齟齬から感じる不快感に源を発しているのか、自分自身、まだわからずにいる。

*1この記事についたブックマークのエントリーページや、エントリーのコメント欄を読んでいると、当時大きな議論になったことがわかる。

2006-08-06 (日)

亀田興毅選手の判定勝利に覚える既視感〜10年前の「猿岩石」を例に

プロボクサーの亀田興毅選手の判定勝利について、1週間近く経った今でもネットでは様々な見方が提示されているようである。

僕自身、試合風景やワイドショーのコメントはすべてYoutube経由で観たくらいにこの件に関しては無関心だったのだけど、はてブのホッテントリを歩いていて既視感を感じたところがあったので、忘れないうちに書き留めておきたいと思う。

ベタがネタであることが暴露されるとき〜10年前の「猿岩石」を覚えていますか

ベタと信じていたものがネタであることが暴露され、その落差に視聴者が憤慨する。

亀田興毅選手や、亀田親子をバックアップするTBSを批判する記事に目を通していると、いつか味わった感覚を再び体験しているような既視感に囚われた。

思い出したのは、1996年、TV番組「進め! 電波少年」の企画「ユーラシア横断ヒッチハイク」で世間の注目を集めたお笑い芸人「猿岩石」(Wikipediaの解説)である。

年端もいかない芸人二人が手探りで苦難にもまれながら旅を続けていくその様子は書籍化(『猿岩石日記〈Part1〉極限のアジア編―ユーラシア大陸横断ヒッチハイク (角川文庫)』はじめ複数)されて当時のベストセラーにもなったが、途中で飛行機を使っていたことが暴露され、「電波少年」をプロデュースしていた日本テレビと猿岩石は批判の矢面に立たされた。当時10代から20代だった方は、ああ、あの芸人か、と思い出されるかもしれない。

猿岩石のヒッチハイクに夢を託していた視聴者からは罵倒に近い感情的な意見が寄せられていたようだが、「そもそもテレビなど娯楽であり、バラエティ番組に真摯に感情を移入することなどナンセンス」とするオチで論争の幕が下りたように憶えている。

当時の諦念にも近い空気を言い表す下記の記事の固有名詞を差し替えると、今の状況に当てはまる部分が少なからずあることに驚かざるを得ない。

バラエティとは偶然の結果を期待するものではなく、あらかじめ決められたストーリーにしたがって行っている。その途中でのアドリブ(ハプニング)の面白さをミックスはしているがおおむねハッピーエンドに終わるのがオチなのだ。仮に失敗に終わったとしてもバラエティではギャグとして処理されるものなのである。

だから電波少年や同じく雷波少年がやらせインチキ番組だと言って批判するのは筋違いなのである。あれを感動ドキュメントなどと考えるからそういう発想が生まれるのだ。

人生いつもキツイぜ!<やらせと本気の境界線>

ネタがネタと認知されるとき

「猿岩石」が注目を集めたことをよしとして、南米縦断ヒッチハイクなどの似たような企画が別の芸人を使って行われたが、素人目にも彼らが猿岩石のように視聴者の感情に訴えたとは思えなかったし、一瞬は注目されこそすれ、ほどなくメディアでその名を耳にする機会はなくなっていったように思う。

ベタのメッキが剥がれてネタがネタと認定されたことで、ネタをベタだと信じ込まされていた視聴者が離れていったのは想像に難くない。

ネタのレッテルを貼られてしまったら最後、ただの娯楽として消費されてそれでおしまいなのだろう。

メディアリテラシーの話になるけれど

こういうメディアの話になると、学生の時は決まって「メディアリテラシー」の話になったものだ。レポートの課題を求められれば「情報を取捨選択する眼を養わなければならない」と間違いなくしたり顔で書いていただろう。

しかし、ウェブが隅々まで普及して求める情報にアクセスしやすくなった今こそ、情報の真贋を見極めることが逆に容易ではなくなっていることを、情報の流れが複雑化していく「web2.0」の持つ見落としがたい側面として、僕たちはそれとなく気づいている。

メディアが視聴者にアプローチするパラダイムが視聴者優位に変わろうとしている空気にあっても、「持つ者」であるヘッドと「持たざる者」であるロングテールの質の差はたやすく縮まることはないように思える。

自分自身の依拠する情報源が偏ってしかも限りがあることを認めたうえで、「持たざる者は進化する」ことを頭の片隅にでも意識していなければ、いつか見た騒ぎは、また繰り返されるのだろう。

2006-04-19 (水)

差別なのか区別なのか〜会社説明会で質問した学生の言葉が忘れられない

大学のランクと就職活動で得られる情報の格差には深い相関関係があるという話が最近賑やかなようだ。

「就職サイト」は、実は学生にとっての就職に関する情報やチャンスの大学間格差を製造する装置として働いていることに注意しなければならない。

もじれの日々 - 就職情報の大学間格差生成装置としての就職サイト

大学のランクが就職できる企業のランクに高い確率でつながっていることは、ウェブが普及する前は口コミのレベルで学生の間でそれとなく共有されていた意識だったように思う。

資料請求はまだすべてハガキだった10年近く前、就職活動の足慣らしのつもりでのこのこ出かけた会社の説明会で、目が醒めるような質問をする学生がいたことを今でも覚えている。

「自分と違う大学の友人には詳しい資料が送られてきて早い時期から面接してもらっているのに、自分の場合は彼より会ってもらえるの遅いし情報もほとんどもらえない。これはどういうことでしょうか」

同じ四大卒の大学生ならばスタートラインは同じだと彼は信じて疑わなかったのだろう。学生を差別する企業に責任はないのかといわんばかりの剣幕だった。

「え、それは…」

一瞬しどろもどろになった企業の採用担当者。担当者が本音で何を考えていたのか周りの学生はうっすら気づいていたと思う。が、言葉に出すのが躊躇われただけで重苦しい空気がそのあと晴れることはなかった。

「情報格差の原因は『高偏差値大学の学生を採用したい』という企業の意図であり、就職サイト経由だろうがそれ以外だろうがアプローチの手段は関係ない」

diary.yuco.net - 「就職サイト」が大学生を選別している?んなバカな。

どの企業も優秀な人材を効率よく採用したいのは同じこと。旧大蔵省の「ノーパンしゃぶしゃぶ」(1997〜1998年くらい。懐かしい)の前後に学歴社会の弊害を糾すような議論が起きて、一時学歴一切不問でエントリーシートを書かせて選考するのが流行ったようだけど、結果的に勝ち残ったのが所謂偏差値の高い大学の学生ばかりだったとするならば、企業も学習してより効率的に学生を選別する方法を考えるはず。

一度企業に入ってしまえば普段の活動で実力は明らかなのだから、学歴にはほとんど意味がない。

学歴差別について - chem-duckの日記

「偏差値の高い大学を出た学生は戦力になる」という解答が企業の一連の試行錯誤から導かれた結果ならば、それはそれで重みがあると認めなければならないだろう。

そのとき、企業の担当者は「差別」という生々しいニュアンスではなく、むしろ「区別」といったスマートな意識のもとスクリーニングしている可能性が高いと思う。