Hatena::ブログ(Diary)

ハテヘイの日記

2018-11-13

競争による研究者の疲弊

19:45

「ひときれのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる」(箴言17:1

 本庶佑教授がノーベル賞を獲得した後、すぐにはモノにならない研究についての議論が起きている。

 その中に「選択と集中」という言葉が出て来た。この定義が難しいが、ネットで調べると「競争力のある事業を『選択』し、経営資源をこの選択した事業に『集中』するという経営手法、あるいは経営理論。1981〜2001年の間、アメリカゼネラル・エレクトリックGE)の最高経営責任者であったウェルチJohn Francis Welch(1935― )が提唱・採用した」と、日本大百科全書で分かりやすく定義していた。

 これを日本の大学の研究に適用したのが、おそらく財務省主計局である。これによって既に14年前法人化していた国立大学とその研究者たちは、競争に疲れ、研究力は細る一方だという(朝日新聞の記事より)。

 何が起きたのだろうか?財務省は大学の「運営費交付金」(大学存続の為の基礎的な経費の補助)を毎年減らし、代わって公募等によって一部の大学を選び(=選択、そこに「競争的資金」(研究機関や研究者から研究課題を公募し、第三者による審査を経て優れた課題に配分される研究資金)を投入する(=集中)やり方を推し進めて来た。

 それに対して大学側は、この「運営費交付金」の削減で、基礎的な研究の為の資金繰りが厳しく、あちこち奔走しているうち、十分な研究の時間まで取れなくなり、学術論文の生産力が著しく減少してしまったと訴える。

 追い討ちをかけたのが「競争的資金」の導入である。大学間・研究者間でそれを獲得する為の競争を強いられる。その為研究者は凄い圧力を感じ、疲れてしまって、ますます論文の質も落ちてしまうという。

 一方財務省としては「運営費交付金」の減少は僅かで、教育・研究費などの補助金は逆に増えていると主張する。そしてそれらを有効に活用するのは、納税者に対する重要な責務だと冷徹に言い放つ。その為互いに競わせ、頑張っている研究者は強力に支援し、そうでない研究者は支援しないと言うのである。

 私は双方の言い分に三分の理はあると思うが、共通しているのが「弱肉強食」の考え方だと思う。ダーウインがそれを考えに入れていたかどうかは別にして、『種の起源』発表以降、創造論から人間中心主義に移ってしまった。果てしない競争・闘争の中、進化論の比率が飛躍的に高まり、今日に至っていると考える。世界のどこでも同じだ。皆疲弊し切っている。

 やっと人間共生の思想も生まれて来たが、聖書の土台のない日本では、その潮流はまだまだだと思う。

 では聖書ではどう言っているか。「…天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」(マタイ5:45)。これは恵みの雨で、神による生命の営みの為の基礎的な運営費に相当する。選択なんていう問題ではない。

 一方競争についてどう言っているか。使徒パウロの思考にそれが現れている。「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい」(コリント第一9:24)。彼は古代オリンピック競技を念頭に置いている。競い合う事を否定していない。

 しかしだ。「こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです』」(マタイ20:8−14)とイエス・キリストは言われた。

 神の国経済はそういう事だ。信仰者は皆天国に行き、主イエス・キリストを中心に、世々限りなく平等に共生する。先の一連の不祥事で悪巧みに長けた財務省の人々は、こんな経済を理解出来ない。だから最後には泣いて歯噛みするのみ。

mm3493mm3493 2018/11/16 07:31 ご無沙汰しております。
会社経営手法を、国政に持ち込んだことがおかしいということでしょうか。

2018-11-11

 神政から王制へ

18:11

 「主はサムエルに仰せられた。『彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ。」そこで、サムエルイスラエルの人々に、『おのおの自分の町に帰りなさい」と言った」(サムエル第一8:22)。

 イスラエルの地では、主なる神が預言者サムエルを通して統治していた。いわゆる神政政治である。ところが彼が年老いると、後継者となる筈の子どもたちは堕落し主の道を歩まなかった。民は大いに不満であった。そこで民が考えたのは、他の国々と同様、一人の王を立てて統治させるという事だった。

 サムエルは気に入らなかったが、神はご自分を差し置いての彼らの願望を、受け入れられたのである。その時イスラエル史上初めての王として、サウルが選ばれた。民は皆喜び叫んだ。

 しかし神は民に対して、まずご自分を畏敬し、仕え、従うよう釘を刺された。そうでなければ王も民も滅ぼしつくされる、とも警告された。サウルは最初腰が低かったが、王位に居る間次第に高慢になり、主に背いて民を苦しめるようになった。完全に自分中心の独裁者になった。

 結局神意、また民意にも背いた彼は、敵の手にかかって殺され、首もはねられた。そして彼のあと、有名なダビデが王となる。まだ王になる前、ダビデは圧倒的な武具を誇る敵に対して、単独で立ち向かい、簡単な武具で敵を倒した。最初恐れていた民も、彼に信頼を置くようになった。

 翻って沖縄の統治を考えて見る。故翁長知事の意思を受け継いだ玉城デニー氏が大勝した。辺野古米軍基地建設は民意で否定されたのである。

 しかし民意を無視する独裁者となった国の首相は、玉木知事の要請や対話を一蹴した。民意を踏みにじったのである。

 私はこの民意が神のみこころとも一致すると信じる。だから裁きは神に委ね、ひたすら祈りを続ける。翻意し善政を行うようにと。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』」(ローマ12:19)。

 伝道者の書3章1節に有名な「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」というみことばがある。だから3節「くずすのに時があり、建てるのに時がある」。この時がいつか必ず来る。独裁者は滅びる。

 

2018-11-09

公文書の紛失と永遠に残るもの

08:18

 「 王が、あの巻き物、バルクがエレミヤの口述で書きしるしたことばを焼いて後、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。『あなたは再びもう一つの巻き物を取り、ユダの王エホヤキムが焼いた先の巻き物にあった先のことばを残らず、それに書きしるせ』」(エレミヤ36:27、28)。

 ユダの王エホヤキムは、主なる神がエレミヤを通して語られた聖書の巻き物を焼いてしまった。中国における焚書坑儒ユダヤ版である。

 しかし「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(イザヤ40:8)とある。神のことば即ち聖書は永遠に変わらず保たれる。人間が幾ら抹消しようとしても無駄である。それどころか王エホヤキムはその企ての為に、主から重い刑罰を受ける事になった「彼のしかばねは捨てられて、昼は暑さに、夜は寒さにさらされる」。

 安倍政権のもとで、公文書の隠ぺい、改ざんねつ造がなされた事は疑いの余地がない。敗戦直後不都合な公文書が焼き捨てられたという出来事があったが、それ以来の悪質な行為だと言われている。当然政権トップの長はエホヤキムと同じ定めに遭う。「主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます」(コリント第一4:5)。誰も悪質な行為の責任を逃れ、その裁きを逃れる事は出来ないのだ。

 一方あの東日本大震災から7年10ヶ月になろうとしている。当時無数の記録文書や映像が作成され、皆がそれらに目を奪われていた。

 しかしそれらを全て残す事は不可能である。だからあの時こんなエピソードがあったと僅かに記憶していたものを、再度調べる為ネットで検索しても、もう消えてしまっている事が多い。

 今年2月の河北新報サイトを見ると、岩手宮城福島3県の沿岸37市町村のうち、半数近い16市町村震災関連文書について、全量保存といった特別な措置を講じていないことが判明した。人の手によって、特定な目的で(賠償問題が主眼)、選択的保存がされている。いわき市楢葉町文書の一部だけだ。

 さすが原発被災地のうち、最も深刻だった南相馬市浪江町双葉町大熊町富岡町は、全量保存を決めている。原発事故がいかに悲惨なものか、それらの市や町の資料は、後の世代に語ってくれるだろう。

 福音書の1つであるヨハネ伝を書いたヨハネは、イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う」ヨハネ21:25)と言っている。イエスに一番近かった弟子がそう告白している。

 従って全世界のあらゆる出来事のうち、必要不可欠なものがそこに凝縮され、いつまでも保たれている。

 聖書のことばは、永遠に残る。世界中の人々が今もその言葉の中から、貴重な教訓を得ている。心のビタミンとなっている。人間の目からすると、まことに不思議な事である。



 

A0153A0153 2018/11/10 14:40 そうか、資料保存のことは考えませんでした。重要なことですね。政権の公文書改竄、ねつ造は、問題外の犯罪です。

hatehei666hatehei666 2018/11/10 17:59 A0153さんへ
福島でずっと住み、いろいろ考えてこられた貴兄なら、震災前と震災後の変貌ぶりが記憶に焼きついていると考えます。
一方私は震災後の福島しか知らないので、どれほど津波や原発が大きな変化をもたらしたのか、やはりありのままの文書で確かめてみたいと思いました。
しかしキーワードで検索しても、もはやネットではヒットしなくなり、これでは記憶している世代の人々が亡くなると、元の木阿弥になってしまうという危機感を持った次第です。
イノベ構想では「東日本大震災・原子力災害アーカイブ拠点施設整備事業」がこれから実行段階になると思いますが、なにしろ国や県の主導では、都合の悪い資料は選んで削除されることも起こりえると思いました。難しい問題ですね。

2018-11-07

防潮堤の強化で確かに砂浜が消えている

06:24

 「あなたは境を定め、水がそれを越えないようにされました。水が再び地をおおうことのないようにされました」(詩104:9)

 神は「地のすべての境を定め」ておられる。そのようにして自然の調和を計られた。

 しかし人間がひどい罪を犯したので、ごく少数の人々や家畜を除き、大洪水で地上の全てを絶滅させられた。

 少数の人とはノアセム、ハム、ヤペテとその妻たちである。

 けれども人間は度し難く罪深いので、何でも自分たちでやって自然を制御しようとする。神が決められた境を移そうとする。

 福島県浜通りを襲った大津波の為、防御策として延長400キロにも及ぶ防潮堤の工事が、今なお進められている。これによって浜が全く見えなくなった。浜通りという通称はもはや過去のものである。

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 この防潮堤は「高潮や津波などによって海水が陸上に浸入するのを防止するために,陸岸に築造される海岸構造物」という定義がなされており、勿来地区では陸側の法面について見ると、写真の左コンクリの道から海を見渡せる。その道から陸地までが緩やかになっているので、少し注意が必要だが、立って慎重に上り下り出来る。

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 問題は勾配の急な海側の法面だが、その下に消波ブロックが少なくも6列くらい並ぶ。写真のブロックは4角形をしたテトラポットで、登録商標となっており、うかつに使えない。

 この消波ブロックが問題である。今年6月頃はその海側に砂浜があって、台風でも近づかなければ、そこを犬を連れて散歩したり、蟹捕りをしたり出来た。

 ところがこの夏は大型台風の連続で、波6,7メートルとか予測され、去った後の海は無残な姿を曝す事になった。侵食が一気に進んでしまったのである。この消波ブロックはそれに対して、はなはだ弱く、そこで砂が抉られ深くなってしまった。そして露出していた砂浜は完全に水没した。

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 左写真で手前のテトラ付近が深くなっており、砂の下の岩礁までが露出している。数メートル先が砂浜だったところで、そのほうが浅い。だから夏にそこから沖に向って泳ぐ事は可能だが(ちなみに遊泳禁止区域となっている)、そこまで接近出来ないのである。防潮堤の階段を降りると、もう岩礁があちこちに出ていて、波は結構高く寄せて来るから、均衡を崩して倒れ大怪我をする事になる。

 砂浜が水没すれば、後は波の力で徐々に深くなるだろう。勿来地区で唯一砂浜が残っている海水浴場も、狭まる一方で、やがては消えるのではないか。

 沖には試験操業の船が見られるが、防潮堤の道まで上り、沖を見ても何だか淋しい。神が決められた境を人間が崩した。浜通り全体を見ても、砂浜で戯れる事は、そのうち全く出来なくなるだろう。

 

yonnbabayonnbaba 2018/11/07 07:49 海を見ても、川を見ても、近ごろは陸との境が自然のままであるところは少なく、寂しい気がします。政(まつりごと)はまず治山治水なのかも知れませんが、やはり自然は征服すべき敵ではなく、なんとかうまく付き合っていく相手だと思うのですが。

hatehei666hatehei666 2018/11/07 22:34 yonnbabaさんへ
川もそうでしたね。昭和30年代、まだ高度成長期に入る前の多摩川は、子どもの私にとって黄金の遊び場所。深いところで泳ぎ、浅いところで釣りをし、その雄大な自然を満喫していました。
1974年の多摩川堤防決壊の状況をテレビで見ていてショックでした。
2000年代に入り、その多摩川から水を引いた玉川上水を久我山で久しぶりに見て、コンクリだらけ、水がほんの少しという光景も衝撃的でした。やはり小さい頃、鬱蒼と木々が茂り、どす黒い水が渦を成して流れているのを、恐怖心で覗いていた事、今も鮮烈に思い出します。
仰る通り、自然との上手な付き合い方を考えないと、いずれは自然からの痛いしっぺ返しがあると思います。全能と称する人間は想定外だったと言って逃げるのでしょうが。

nankainankai 2018/11/08 17:34 コメントありがとうございました。
経済が第一の今の世を人が第一の世に転換してゆく、この歴史の流れはまだまだ小さいですが、必ずそうなってゆくと確信して、できるところかややってゆくつもりです。
ブログが下記の方に移転しているので、今後はこちらによろしくお願いします。
https://nankai.hatenablog.com/

A0153A0153 2018/11/08 18:41 高潮や津波に対するに高い防潮堤というやり方は間違っていると思います。それは土建会社の金もうけのための工事だと思ってます。海が見えて、高波津波の場合は速やかに逃げるということが正しい対策と思います。伊豆の下田に行った時にそう思いました。東日本大震災前だったのですが、あそこは、海に面した高い堤防というものがありませんでした。あれー、津波の時どうするんだと思って聞いてみると地元の人はどこどこに逃げると言ってました。ところどころに海抜が多く表示されています。その方が正しいと思いますね。海が見えなくて津波に備えることができるでしょうか。巨大堤防の失敗がありましたね。土建会社の金もうけですよ。巨大堤防で津波を防ごうというのは。

hatehei666hatehei666 2018/11/08 19:21 A0153さんへ
私も全く同感です。あの膨大なコンクリの量は、確かに大手ゼネコンを利していますね。特にスーパーの5社は年間売り上げ1兆円にもなるそうで凄いです。
被災庶民を差し置いてのあの大規模な建設は、まさに災害便乗型資本主義の典型でしょうね。

hatehei666hatehei666 2018/11/08 19:46 nankaiさんのブログを見ていると、本当にすっきり腑に落ちるという感じで、いつも楽しみです。
サイトが変わった事を教えて下さりありがとうございます。11月4日の内容で安田さん叩きの理由が良くわかりました。
放射能に関わる「年間20ミリシーベルトは安全という国家による殺人」のリンクを読んでみたかったですが、ページが見つかりませんとありました。
それでネットの検索から見つけました。貴重なデータだと思います。

2018-11-04

会堂にいたユダヤ教徒の襲撃

18:49

 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり」(ローマ11:25)

 トランプ大統領アメリカで10月29日に起きた銃乱射事件は、改めてユダヤ人異邦人の関係を考えさせられた。

 事もあろうに、ユダヤ人の会堂(シナゴグ)で行事を行っていた彼らに、白人至上主義者が侵入し、銃を向けて11人を殺害したのだ。

 再度ユダヤ人問題を考えて見る。遠い昔彼らはユダヤの地で主なる神に背く大きな罪を犯し、分裂した北イスラエル王国と南ユダ王国は、異邦人の国によって滅ぼされ、離散ユダヤ人となってしまった。

 そして新約聖書の時代になり、救い主イエス・キリストがこの世に来られると、ユダヤ人の相当数がこの福音を頑固に拒否した。その為神は怒って救いの対象を異邦人に広げられた。現在異邦人の教会が主体となり、福音の伝道を全世界に展開している。その伝道の初期、イスラエルに戻っていたユダヤ人、離散して夫々の国に留まっていたユダヤ人たちが、異邦人の教会を迫害していた。迫害の先頭に立っていたパウロは、復活のイエス・キリストと出会い、劇的に回心した。そして今度は異邦人への福音の伝道で先頭に立った。その為福音を信じないユダヤ人たちは、このパウロをも殺してしまおうと画策したのである。

 上記聖書箇所の「異邦人の完成」とは、異邦人の救いが一杯に満ちるまでという事だ。

 一方ユダヤ人は離散先でおとなしく暮らしているように見える。しかしイスラエルでは違う。1948年の建国宣言の時から、そこに住んでいたパレスチナ人を迫害し、今日に至っている。キリストの福音を信じているイスラエルユダヤ人はごく少数である。

 その後終末が来て神の選びの民ユダヤ人は全て信じなかった罪を悔い改め、異邦人と共に世々限りなく共生するようになる。

 さて米国の白人だが、彼らは白人こそ最も優れた人種であるという、根強い盲目の信仰を抱いている。この「人種」という差別化が、ダーウインの進化論に基づいてなされて来た思想である。これはいわゆる福音(=イエス・キリストが来られたという良い知らせ)とは全く無縁である。彼らは信仰者ではない。銃を乱射した犯人は「(ユダヤ人)は白人の敵だ」と言ったそうだが、この言葉だけで、彼らが信徒でない事はすぐ分かる。

 有名な山上の説教でキリストは「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:43,44)と言われた。また「そこで、イエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです」(マタイ22:37−39)ともある。

 この山上の説教の実践ほど難しい事はない。しかしキリストは敵への愛を説き、武力ではなく祈りをもって平和な解決を勧められたのだ。

 これは白人を自称し、生存競争自然淘汰標榜する米国人には全く受け入れられない事だ。また信徒と称する皮膚の白い米国人でも根強い偏見があり、概して同じ教会で皮膚の黒い信徒と共に礼拝しない。皆同じ異邦人なのに。

 だから米国南部保守派で、報道などでは「福音派」と呼ばれる人々には良く注意したほうがよい。特にイスラエルを擁護する人々は間違っている。福音を信じない彼らを支えようとするのは、自己矛盾である。そうではなくて、彼らの救いの為に祈り、愛の手を差し出すのが、真のクリスチャンなのである。

 こうした未信徒の白人が増えれば増えるほど、真の福音派は減り、ますます米国は不幸になる。改めてそんな事を整理してみた。間違ったところがあれば赦して欲しい。土台は聖書キリストのみである。