ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

ボストン大学哲学教授チャールズ・クリスウォルドの考える「赦し」と聖書の神の赦し

 1月2日のサイエンティフィックアメリカンサイト(1分英語)に、ボストン大学哲学教授チャールズ・クリスウォルドの「赦すという事の意味」という題の文章が載っていました。その元を調べたらニューヨークタイムズにあったので、それを参照に氏の考える赦しと、聖書の神の赦しを比較してみました。
 クリスウォルド氏は哲学者ですから、赦しとは何か、いつがふさわしいのか、なぜそれが推賞に値するのかといった哲学的思索を展開しています。
 氏も聖書に触れる事の多い環境で育ったのでしょうから、一応聖書的な意味での「赦し」にも言及しています。
 どう考えても人間間の赦しは、復讐心に燃えた怒り及び復讐と密接な関係があると氏は述べています。そして英国の説教者ジョセフ・バトラーの言説を紹介しています。
 さらに進めて赦しは根本的に自己と他者との倫理的な関係であるとか、それが応答を求めている状況に対して相互の或いは社会的な性格を保っているとか、難しい表現が続いています。
 別の著者の間違った解釈も紹介しています。例えば十字架上のキリストは「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)と言われましたが、それは赦しではなく、弁明の訴えだとか言っています。要するに哲学者は聖書を読んでいても、信仰者ではないのでその深い意味を極める事が出来ません。吉本隆明の「マチウ書試論」なども同じような発想だと思います。もう先は読む気がしませんでした。
 それでいて米国のバプテスト派に近いアーミッシュの、有名な一方的な赦しの事にも触れているのです。あちこち該博な知識で人々を惑わすので、困ったものです。ですからパウロは次のように言っています。
 「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません」(コロサイ2:8)。
 クリスウォルド氏の一番言いたい事としては、「理想は二者間の事柄で、両者が歩み寄ること」という点でしょうか。
 しかしそれはこの世においては不可能です。両者に「罪」があるからです。キリスト教信徒でさえ、あのイエス・キリストの山上の説教を行なうのに困難を感じる位だからです。信徒の多い米国がこの山上の説教を実行したら、過激派のアルカイダとの赦し合い、和解も出来るはずです。
 「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません」(マタイ6:14−15)。
 何よりも「赦し」は天からの一方的なものであり、神の愛、憐れみから出たものです。世の人々の許しとは根本的に異なります。そこに神の御子イエス・キリストの十字架での贖いの死があるからです。この方への信仰によってのみ、私たちは赦しを頂くのです。
 「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです」(エペソ1:7)。
 それによって信徒は「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」(エペソ4:32)というご命令を実行出来るようになります。
 なんとなく纏まりませんでした。それは哲学者の考える「赦し」と聖書の赦しが全く異なり、哲学の本質が「むなしい、だましごと」から来ているのに、その土俵に乗ってしまったからでしょう。