ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

制度といのち

 「それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われた。彼らは黙っていた」(マルコ3:4)。
 福島民報の2016年3月15〜19日に「制度に揺れる」という題名の5回連載の記事がありました。
 ●一回目は「公営住宅に入れず 楢葉の原発避難対象外」でした。
 楢葉町は2015年9月に避難指示が解除されました。でも避難先の一つ会津美里町仮設住宅に入っている人々の数は、およそ150人に上るそうです。
 3・11から5年経過し、遅れている災害公営住宅が少しずつ建設されるようになりました。会津若松市内にも大熊、双葉両町民向けの県営の災害公営住宅が整備されました。仮設住まいの某さんは「ある時、部屋が空いていると聞き、『自分たちも入ることができないか』と楢葉町の担当者に相談した。帰ってきた答えは『楢葉町民は制度上利用できない』だった」そうです。なぜなら災害公営住宅原発事故で長期の避難を余儀なくされている市町村の人々が対象で、楢葉町はそれから外れるからです。避難指示解除準備区域→解除で利用出来ないのです。しかし私がこれまで訪れたいわき市の災害公営住宅は結構空家があり、柔軟な法の適用で入居可能なように見えました。実際楢葉町いわき市の災害公営住宅への入居を、復興庁に要望しましたが、担当者は法を盾に認めていません。一方楢葉町内の災害公営住宅は、「津波地震で住宅が全壊または大規模半壊し、家屋を解体した住民らが入居対象で、原子力災害の被災者は対象にならない」のだそうです。原子力災害の被災者は駄目だという事です。法的制度により、避難民の生活(いのち)が無視されています。
 ●二回目は「転居、改築できず 仮設住宅の劣化に苦悩」でした。川俣町の仮設住宅に住む人の事例です。
 仮設住宅は民報によれば「仮設住宅は災害救助法に基づき、原則2年間の使用を前提に整備された。既に震災と原発事故から5年が過ぎ、劣化が進む…」とありました。木材の腐食やシロアリの発生が見られ、断熱性が乏しい為、冬は窓や壁に結露が出来、夏には湿気が溜まるので、年月と共に居住環境が悪化し、居住者のストレスが蓄積します。
 それで入居者の中で住環境改善のため自ら改築する人が現れても不思議ではありませんが、その場合の費用は自己負担で、退去する場合原状回復して県に返還しなければなりません。他の仮設住宅に移る事も出来ません。それは災害救助法では、避難解消と看做されてしまうからです
 ●三回目は「『いつまでここに』みなし仮設 公営住宅化認めず」でした。
 みなし仮設住宅=民間借り上げ住宅は、災害救助法に基づき、プレハブ型の仮設住宅と同様に扱われています。
 しかし既に5年経過し、そこが終の棲家となる事を希望する高齢者の方もいます。それにはこのみなし仮設住宅を災害公営住宅として認めてもらうしかありません。
 しかし民間民間借り上げ住宅は、県の役所の担当者によれば、「家主の個人的な都合である日突然、退去を余儀なくされる場合が想定される」ので、それは災害公営住宅の理念「安定的な居住環境の提供」を満たさないから駄目という事になります。この類の法や制度は存在しません。
 ●四回目は「法的担保どこへ 医療費無料化 見通せぬ財源確保」でした。
 福島県原発事故を受け、18歳以下の医療費無料化を決め、全国で初めてそれを実施しました。しかし国は税の公平さを欠く為、国の事業としての対応は難しいと拒否しました。でも福島復興再生特措法が成立したので、県民健康管理基金への一定の財政的措置を講じるとしていました。それが突然経済産業省の横槍で、理由も示されずに、「基金を活用した医療費無料化は認められない」と通告して来ました。国の財政支援がなければ、当然県の財政は悪化します。担当者は先行きが不安だと言っています。
 ●五回目は「国、原則論に終始 求められる政治の力」でした。
 2012年6月21日衆議院本会議で「子ども・被災者支援法」が可決成立し、6月27日から施行されました。今年2月に開かれた超党派議員連盟の会合では、いろいろ話が取り交わされましたが、四回目で取り上げられた医療費無料化についても話題に上りました。しかし復興庁の担当者は「原発事故の被災県といえども、特定地域だけの無料化を基本方針に入れるのは(医療制度の)公平性の観点から難しい」と説明したそうです。そこで議員連盟は引き続き、政府に訴えてゆくそうですが、「議員の動きは鈍い」とありました。
 この1〜6回の内容を見ますと、国や県などは、原発被災者の切実な訴えに対して、法制度の解釈に拘泥し、憲法25条に規定されている生存権を全く無視しています。彼ら行政に関わる担当者は、人間のいのちを守るという視点が全く欠けています。
 イエス・キリストは上記みことばで、パリサイ人・律法学者らが安息日に一切のことをしてはいけないという細かい法的制度を設け、その日に庶民のいのちを救う事を無視した事を指摘し、普段は限りなく柔和な方なのに、この制度を盾に庶民を苦しめた彼らのやり方に激怒されたのでした。法といのちとどちらが大切なのか?民報の記事もその視点から取り上げられています。私たち信徒も怒りについては慎重でなければなりませんが、重箱の隅をほじくるかのごとく制度を第一にし、人間のいのちを等閑にする当時の当局者に対して、イエスが怒られた事を手本に、もっと怒らなければならないと痛感しました。繰り返します。福島の被災弱者を放置し抹殺しようとする、パリサイ人と化した当局者たちに対して、私たちは激怒し抗議するべきです。