ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

競争による研究者の疲弊

「ひときれのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる」(箴言17:1
 本庶佑教授がノーベル賞を獲得した後、すぐにはモノにならない研究についての議論が起きている。
 その中に「選択と集中」という言葉が出て来た。この定義が難しいが、ネットで調べると「競争力のある事業を『選択』し、経営資源をこの選択した事業に『集中』するという経営手法、あるいは経営理論。1981〜2001年の間、アメリカのゼネラル・エレクトリック(GE)の最高経営責任者であったウェルチJohn Francis Welch(1935― )が提唱・採用した」と、日本大百科全書で分かりやすく定義していた。
 これを日本の大学の研究に適用したのが、おそらく財務省主計局である。これによって既に14年前法人化していた国立大学とその研究者たちは、競争に疲れ、研究力は細る一方だという(朝日新聞の記事より)。
 何が起きたのだろうか?財務省は大学の「運営費交付金」(大学存続の為の基礎的な経費の補助)を毎年減らし、代わって公募等によって一部の大学を選び(=選択)、そこに「競争的資金」(研究機関や研究者から研究課題を公募し、第三者による審査を経て優れた課題に配分される研究資金)を投入する(=集中)やり方を推し進めて来た。
 それに対して大学側は、この「運営費交付金」の削減で、基礎的な研究の為の資金繰りが厳しく、あちこち奔走しているうち、十分な研究の時間まで取れなくなり、学術論文の生産力が著しく減少してしまったと訴える。
 追い討ちをかけたのが「競争的資金」の導入である。大学間・研究者間でそれを獲得する為の競争を強いられる。その為研究者は凄い圧力を感じ、疲れてしまって、ますます論文の質も落ちてしまうという。
 一方財務省としては「運営費交付金」の減少は僅かで、教育・研究費などの補助金は逆に増えていると主張する。そしてそれらを有効に活用するのは、納税者に対する重要な責務だと冷徹に言い放つ。その為互いに競わせ、頑張っている研究者は強力に支援し、そうでない研究者は支援しないと言うのである。
 私は双方の言い分に三分の理はあると思うが、共通しているのが「弱肉強食」の考え方だと思う。ダーウインがそれを考えに入れていたかどうかは別にして、『種の起源』発表以降、創造論から人間中心主義に移ってしまった。果てしない競争・闘争の中、進化論の比率が飛躍的に高まり、今日に至っていると考える。世界のどこでも同じだ。皆疲弊し切っている。
 やっと人間共生の思想も生まれて来たが、聖書の土台のない日本では、その潮流はまだまだだと思う。
 では聖書ではどう言っているか。「…天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」(マタイ5:45)。これは恵みの雨で、神による生命の営みの為の基礎的な運営費に相当する。選択なんていう問題ではない。
 一方競争についてどう言っているか。使徒パウロの思考にそれが現れている。「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい」(コリント第一9:24)。彼は古代オリンピック競技を念頭に置いている。競い合う事を否定していない。
 しかしだ。「こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです』」(マタイ20:8−14)とイエス・キリストは言われた。
 神の国の経済はそういう事だ。信仰者は皆天国に行き、主イエス・キリストを中心に、世々限りなく平等に共生する。先の一連の不祥事で悪巧みに長けた財務省の人々は、こんな経済を理解出来ない。だから最後には泣いて歯噛みするのみ。