ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

神が支配する世界では出自など一切関係ない

 「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである」(ヨハネ1:12−13)。
 ここでその名とは、救い主イエス・キリストの事である。
 このヨハネ伝を書いたヨハネは、当時血筋を重んじ、律法に精通していると誇るユダヤ人指導者、長老、学者たちから、「無学な、ただの人たち」と揶揄された。
 しかしヨハネはそんな事を意に介さなかった。学歴のない一介の漁師に過ぎなかった彼は、大胆に救いの条件を述べた。即ちただ救い主イエス・キリストの御名を信じた者だけが救われ、神の子となる特権を与えられるという事だった。そこでは血すじ(=親・子・孫等の血のつながり)は関係なく、「肉の欲」(=生まれつきの人間の利己的な努力や行動等)も関係なく、「人の欲」(親の欲、養子縁組等々利他的行動)も関係なかった。ただ信仰の一点だけだった。
 これはアブラハムの子孫だと誇り、律法を守る事による救いを求め、他人に律法を強要するユダヤ人たちに対する痛烈なカウンターパンチだった。それはまた機会の平等、また結果としての平等の表明でもあった。キリスト教会はまさにそのような人々から成り立っていたし、今もそうである。一人一人に賦与された賜物は異なる。それを神の栄光の為に、どう用いているかが問われる世界である。「自分を見ないで、他人を見ないで、神のみ見て歩む」世界である。比較対照などもってのほか、優位の差、貧富の差などつけるのは、罪そのものから出た行為で、神の祝福はゼロだ。
 前回「神童」を取り上げたが、「神の子」とは似ても似つかぬ。『神童は大人になってどうなったのか』(小林哲夫著)を読むと、神童と呼ばれる人々には、結構出自が関わっている事が分かる。遺伝子が幅を利かせる世界でもある。
 その典型的な例が鳩山家である。和夫、一郎、秀夫、威一郎、由紀夫、邦夫と、いずれも並外れた能力で東大を出ている。世の人の羨む家系かも知れない。初代の和夫は東大首席卒業、結婚は東京女子師範学校首席卒業の多賀春子。春子はその優秀な遺伝子を誇っただろうし、子どもである一郎と秀夫には徹底した英才教育を施したそうである。親の欲が優れた子どもを育成した。春子はまた名門の伴侶となる人を探して一郎と結婚させる。姑の欲。そしてこのカップルから威一郎が生まれる。威一郎はまた、優秀な企業の創業者の長女と結婚し、由紀夫と邦夫が生まれる。まるで家系を誇るユダヤ人のようである。上記著者小林哲夫氏は、ナチス・ドイツ的な「優生思想」に準じるものとして触れている。
 しかし私たちの世代に馴染みのある威一郎、由紀夫、邦夫が、庶民の為にどれほどの業績を残したかと言うと、ほとんど無いと思う。由紀夫は旧民主党の結成に関与し、内閣総理大臣になったけれども、官僚の抵抗で挫折し、私たちの期待を裏切ってしまったのは記憶に新しい。2年前には邦夫が病気で亡くなり、もはや忘れ去られようとしている。「事実、知恵ある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、いっさいは忘れられてしまう。知恵ある者も愚かな者とともに死んでいなくなる」(伝道2:16)。書いたソロモンは「すべてがむなしい」とつぶやいた。
 彼ら優秀な人々は、官庁でも大学でも、「嫉妬」と「軽蔑」の渦巻く罪人の世界にいる。そんな限りなく自己中心の人は、本当に幸せと思っているのだろうか。
 私たち信徒なら「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない。そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである」(ヤコブ3:14−15)という神からのご命令を守る。そうすれば神から与えられる本物の自由・平等、喜び、平安、幸福感等々を、十分に享受出来る。