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熊本転居日記(普請中)

2018-08-01

東京オリンピックと戦時下日本の共通性

 文春オンライン2018/07/31の辻田真佐憲氏の記事「「暑さはチャンス」なぜ東京オリンピックは「太平洋戦争化」してしまうのか?」より。

 猛暑日本列島で、東京オリンピックはいよいよ「太平洋戦争化」しつつある。五輪組織委員会森喜朗会長は、インタビューにこう答えている。
 「この暑さでやれるという確信を得ないといけない。ある意味、五輪関係者にとってはチャンスで、本当に大丈夫か、どう暑さに打ち勝つか、何の問題もなくやれたかを試すには、こんな機会はない」(2018年7月24日、『日刊スポーツ』)
 これは、典型的な「ピンチはチャンス」論法だ。戦時下日本の指導者たちも、敗色が濃くなるほど、同じように「好機だ」「絶好の機会だ」「神機到来だ」との空手形を切り続けた。

「ピンチはチャンス」論法 1944年、東条英機の場合

 たとえば、東条英機は1944年7月のサイパン島陥落後にこう述べている。
 「正に、帝国は、曠古の(前例のない)重大局面に立つに至つたのである。しかして、今こそ、敵を撃滅して、勝を決するの絶好の機会である」
 そこまでいうならば、なにか特別な秘策があるのかと思ってしまう。だが、続く箇所を読むと、それが空虚精神論にすぎないことがわかる。
 「この秋(とき)に方(あた)り皇国護持のため、我々の進むべき途は唯一つである。心中一片の妄想なく、眼中一介の死生なく、幾多の戦友並びに同胞の鮮血によつて得たる戦訓を活かし、全力を挙げて、速かに敵を撃摧し、勝利を獲得するばかりである」(『週報』1944年7月19日号)
 同じような例は枚挙にいとまがない。いわく、本土に戦線が近づいたので有利。いわく、空襲で日本人の覚悟が固まったので有利――。その悲劇的な帰結は、今日われわれがよく知っているところだ。
 この経験があったからこそ、非科学的な精神論はこの国で深く戒められてきたはずだった。それなのに一部のテレビでは、猛暑日本人選手にとって有利だなどと喧伝されているのだから始末に負えない。

小池百合子の「打ち水」はまるで竹槍精神

 小池百合子都知事は、ついに「総力戦」で暑さ対策に臨むと宣言した。
 「木陰を作る様々な工夫、打ち水、これが意外と効果があるねと、一言でいえば総力戦ということになろうかと思う」(2018年7月23日、テレビ朝日
 しかるに、聞こえてくるのが、木陰、打ち水、よしず、浴衣、かち割り氷などでは、なんとも心もとない。これではまるで「竹槍3万本あれば、英米恐るるに足らず」の竹槍精神ではないか。
 毎日新聞の新名丈夫記者は、1944年2月に「竹槍では間に合はぬ」「飛行機だ、海洋航空機だ」と書いて東条英機を激怒させた。それに倣って、「打ち水では間に合わぬ」「冷房だ、エアコン設置だ」ともいいたくなる。

安倍晋三の「冷暖房はなくても……」とボランティア動員

 もちろん、道路の遮熱性舗装や街頭のミストの設置などの対策も講じられてはいる。だが、もともと「我慢が大事」などの精神論が幅をきかし、小学校のエアコン設置さえ滞っていた国である。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で、秋にもなれば、予算節約の大義名分のもと、精神論が復活するのではないか。
「冷暖房はなくてもいいんじゃないか…」(2015年8月28日、『産経新聞』)
 そういって、新国立競技場のエアコン設置を見送ったのは、ほかならぬ安倍晋三首相だった。
 その一方で、ボランティアの動員などは着々と進められている。企業も大学も、予算や優遇措置などで徐々に切り崩されていくだろう。マスコミだって、「努力と涙と感動」式の肯定的報道で耳目を集めたいという誘惑にどこまで抵抗できるのか甚だ疑わしい。
 このままなし崩し的に東京五輪に突き進みそうだからこそ、太平洋戦争の刺激的な教訓が参照されなければならない。

「文句をいっても仕方がない」という「過剰適応」

 戦時下の軍人や官僚たちも、決して狂っていたわけではない。にもかかわらず、空虚精神論が蔓延ったのは、不可能な状況に無理やり適応しようとしたからだ。
 国力も足りない。物資も足りない。明らかに米英のほうが強い。必敗なのに、必勝といわなければならない。ではどうするか。精神力だ。ピンチはチャンスだ。われらに秘策あり。こう叫ぶしかない。狂気はある意味で、合理的な帰結だったのである。
 それゆえ、東京五輪に関するおかしな状況には異議を唱え続けなければならない。そこに過剰適応して、「もう開催するのだから、文句をいっても仕方がない」「一人ひとりがボランティアなどで協力しよう」などといってしまえば、問題点が曖昧になり、関係者の責任も利権も問われなくなってしまう。
 たとえば、つぎのように――。
「敵は本土に迫り来つた。敵を前にしてお互があれは誰の責任だ、これは誰の責任だと言つてゐては何もならぬ。皆が責任をもつことだ。(中略)今や『我々一億は悉く血を分けた兄弟である』との自覚を喚び起し、困難が加はれば加はるほど一層親しみ睦び、助け合ひ、鉄石の団結をなして仇敵にぶつつかり、これを打ち砕くの覚悟を固めねばならぬ」(『週報』1944年7月19日号)

精神論とその犠牲の繰り返しは御免こうむりたい

 疲弊した現代の日本で、しかもよりにもよって猛暑の時期に、やらなくてもよい五輪を、なぜ開催しなければならないのか。それをねじ込んだのは誰なのか。今後本当に効果的な猛暑対策は取られるのか。
 現在と戦時下では多々差異があるとはいえ、精神論とその犠牲の繰り返しは御免こうむりたいものだ。だからこそ、これから「感動」「応援」の同調圧力が高まるなかでも、こうした問いは絶えず発し続けなければならないのである。


 歴史小説家・杉本苑子が、19歳の時に神宮外苑競技場で見送った学徒出陣の壮行会と、1964年東京オリンピック開会式とを重ね合わせた文章が、昨年の『東京新聞』(2017/8/14)で引用されている。

 二十年前のやはり十月、同じ競技場に私はいた。女子学生のひとりであった。出征してゆく学徒兵たちを秋雨のグラウンドに立って見送ったのである。オリンピック開会式の進行とダブって、出陣学徒壮行会の日の記憶が、いやおうなくよみがえってくるのを、私は押さえることができなかった。
 音楽は、あの日もあった。軍楽隊の吹奏で「君が代」が奏せられ、「海ゆかば」「国の鎮め」のメロディーが、外苑の森を煙らして流れた。しかし、色彩はまったく無かった。私たちは泣きながら征く人々の行進に添って走った。髪もからだもぬれていたが、寒さは感じなかった。おさない、純な感動に燃えきっていたのである。
 オリンピック開会式の興奮に埋まりながら、二十年という歳月が果たした役割の重さ、ふしぎさを私は考えた。同じ若人の祭典、同じ君が代、同じ日の丸でいながら、何という意味の違いであろうか。
 きょうのオリンピックはあの日につながり、あの日もきょうにつながっている。私にはそれが恐ろしい。祝福にみち、光と色彩に飾られたきょうが、いかなる明日につながるか、予想はだれにもつかないのである。私たちにあるのは、きょうをきょうの美しさのまま、なんとしてもあすへつなげなければならないとする祈りだけだ。
 もう戦争のことなど忘れたい。過ぎ去った悪夢に、いつまでもしがみつくのは愚かしいという気持ちはだれにもある。そのくせだれもがじつは不安なのだ。平和の恒久を信じきれない思いは、だれの胸底にもひそんでいる。東京オリンピックが、その不安の反動として、史上最大のはなやかさを誇っているとすれば問題である。二十年後のために−永久にとはいわない。せめてまためぐってくる二十年後のために、きょうのこのオリンピックの意義が、神宮競技場の土にたくましく根をおろしてくれることを心から願わずにはいられない。
東京新聞:東京五輪 平和感じたい 1943年 神宮外苑 出陣学徒壮行会 答辞読んだ江橋さん:社会(TOKYO Web)

2018-07-14

山崎雅弘『[増補版]戦前回帰 「大日本病」の再発』

 第二次大戦下の日本について批判的に検証した本は枚挙にいとまがない。だが本書の特徴は、当時刊行された文献をできるだけ多く引用し、そこにどのようなロジックが働いているのかを分析している点である。
 特に思想宣伝のため官公庁出版物やそこからお墨付きを与えられたパンフレット類への目配りが充実している。教育勅語普及会『教育勅語と我等の行道』(1935)・東京高等蚕糸学校『国体に関する政府の声明書 附文部省訓令』(1935)・小林順一郎『軍部国体明徴運動』(1935)・文部省国体の本義』(1937)・西晋一郎『我が国体及び国民性について』(1933)・池岡直孝『国体明徴と日本教育の使命』(1936)・河野省三『我が国体と神道国体の本義 解説叢書)』(1939)・海後宗臣『大東亜戦争と教育』(1942)・陸軍教育総監部『万邦に冠絶せる我が国体』(1938)・文部省教学局『臣民の道』(1941)・・・
 以上の書物は、満州事変(1931)から国際連盟脱退通告(1933)へと日本が国際社会からの孤立へと進んでいく時期を境に多く刊行されている。本書が引用する竹越与三郎や西園寺公望は、世界(少なくとも西欧列強)という外部を意識して、それらとの協調や外交なしに日本が存続することはできないという認識を持っていた。しかし、脱退後は外部からの掣肘が取れて箍が外れたように、自国の優位性を説く書物が大量に公刊されていく。
 筆者は、これらの多用な文献が示すロジックを丁寧に読み解き、そこに働く物語(イデオロギー装置)を再現する。ここでは簡単に「国体」の論理と呼ぶ。それをまとめると、あらまし次のようになるだろう。
“日本は万世一系天皇が統治する、他に類例を見ない優れた国家である。日本人は天皇を中心として、家族のように「和」の精神で団結している。このような日本の特殊な国柄=「国体」にとって、西欧由来の個人主義共産主義など、個人の権利を掲げて他と争い合うような思潮は、本来馴染まないものである。日本人は、この「国体」を守るためなら死も厭わない。むしろ「国体」を守るために我が身を犠牲にすることは、悠久の「国体」との一体化を意味するのである。”

 まずこの「国体」の論理は、人々に犠牲を強制する。

天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、われらの歴史的生命を今に生かすゆえんであり、ここに国民すべての道徳の根源がある。忠は、天皇を中心として奉り、天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることがわれら国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。そうであれば、天皇の御ために身命を捧げることは、いわゆる自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚するゆえんである。(『国体の本義』、本書p.119-120)

欧米人は遠心的で、個人個人、おのおのが自由であることを望むのに対し、日本人は求心的で、中心へ中心へと集結しようとする。ゆえに彼は枝から枝へと分析し、我は中心の中心を求めて総合統一する。(中略)この全体を統合する中心のためには、身を捨てても嬉しいということは、やがて日本人が忘我的、破我的であると言われ、犠牲的精神に富むと称される原因であろう。中心のために身を捨てる、それはつまり全体のために身を捨てることになる(『万邦に冠絶せる我が国体』、p.162-163)

 例えば誤った作戦で部下を死なせた上官は、この論理によれば免責される。なぜなら戦場で「大いなる」価値=「国体」のために進んで「身を捨てる」ことは、日本人の道徳の基本であり、本来「嬉しい」ことであるはずだからである。言い換えれば、日本という「全体」を守るために、個々の兵士という部分は死んで構わない。国家とは本来国民の生命を保持する機関であるという考えは、ここで逆転している。

 次に合理主義・個人主義など西洋的とみなされたあらゆる思想が排撃される。

みだりに外国の事例学説を援用して、それをわが国体に当てはめ(中略)天皇は国家の機関である、と考えるような、いわゆる天皇機関説は、神聖なるわが国体に悖り、その本義をはなはだしく誤解するもの(p.109)

我が特有の国体なる語は、日本国家の根本的特質を意味するので、日本国家の実質を表わす語であるから、概念として根本的に相違するのである。日本特有の国体なる語に相当する外国語はない(p.135)

日本の社会の本質は、西洋のそれと大いに異なるものがある。しかるに、絶対単位としての個人の結合が社会であり、その共存共栄社会生活の理想なりというように、西洋流の個人主義思想を次代の国民に与えるということは、日本精神を破壊するものである(p.139)

国体の正常なる見方は何であるかといえば、外でもない、理論によらず事実による、ということである。何となれば国体は理論によって生じて来たものではなく、事実として存在しているものだからである。(p.180)

 そもそも国体」とは何かという定義は説明や分析はなされない。なぜなら説明や分析によって理解しようとする態度自体が、西欧的なものだからだ。日本独自の「国体」は、「事実」(日本が天皇を頂く万邦無比の国家であること)をありのまま受け入れることによってのみ感得される。よって、日本人はただ「臣民」として国家の示す針路に盲従すればよい。 

人は孤立した個人でもなければ、普遍的な世界人でもなく、まさしく具体的な歴史人であり、国民である。従って、われらの中では、人倫すなわち人の実践すべき道は、抽象的な人道や観念的な規範ではなく、具体的な歴史の上に展開される皇国の道である。
 人であることは、日本人であることであり、日本人であることは、皇国の道にのっとり臣民の道を行くことである。われらは、国体に基づく確固たる信念に生きることに於いて皇国臣民たり得る(『臣民の道』、p.173-174)

 筆者は「国体」という言葉が「厳密な輪郭を持たず、その時その時の都合に応じて柔軟に拡大解釈」可能だったと指摘する。従って権力者は最大限まで個人生活干渉することができる。

生活は国家に関係なく、自己の自由に属する部面であると見なし、私欲をほしいままにするようなことは、許されないのである。一椀の食、一着の衣といえども、単なる自己のみのものではなく、また遊ぶ暇、眠る間といえども、国を離れた私はなく、すべて国との繋がりにある。(p.175)


 これら戦時下の社会の分析が、現在の読者にとって他人事と思えないとすれば、それはブラック企業から体育会系まで、悪しき日本型組織の典型がここに現われているからだろう。上の一節などは、「国」に「会社」を当てはめると今でも通用する。
 改めて特徴を箇条書きにすると、部分(メンバーの生死)より全体(組織の維持)を重視することからくる(1)上位者の免責・(2)下位者への犠牲の強要・(3)合理的分析や説明の放棄が挙げられる。
 (3)については、日米戦争開戦前に日本の敗戦を予見した「総力戦研究所」にまつわる典型エピソードが挙げられている。

 総力戦研究所には、陸軍海軍の大佐をはじめ、外務省内務省大蔵省農林省、商工省などの官庁の課長や局長が所属して研究員となり、機密情報を含む膨大なデータを用いて実践的かつ多面的な「シミュレーション」が行われました。
 そこで導き出された結論は、「最初の数年間は日本が優勢を確保できるとしても、短期決戦で終結させられる見込みは薄く、長期戦ともなれば日本の国力が急速に疲弊し、最終的には敗北するので、対米戦は行うべきでない」というもので、このすぐ後に発生する日米戦争の様相を、驚くほど正確に予見したものでした。

 当時の近衛文麿首相東條英機陸相は、真珠湾攻撃から三か月前の一九四一年八月二十七日と二十八日に首相官邸で開かれた報告会で、研究結果を知らされました。しかし東條はその席上、「日露戦争で日本が勝てるとは誰も思わなかった。戦争では、予想外のことが勝敗を左右する。諸君の研究は、そうした不確定要素を考慮していない」との理由で、結論への同意を拒んだ上、「この結論は口外してはならない」と釘を刺しました。(p.166)

 さらに保阪正康『あの戦争は何だったのか』からの引用も踏まえて、筆者は次のように述べている。

太平洋戦争開戦直前の日米の戦力比は、陸軍省が内々に試算すると、その総合力は何と一対一〇〈日本が一、アメリカが一〇〉であったという。〈中略〉軍事課では(中略)「一対四」が妥当な数字だと判断し、改めて東條に報告がなされた。東條はその数字を、「物理的な戦力比が一対四なら、日本は人の精神力で勝っているはずだから、五分五分で戦える」、そう結論づけてしまった』

(中略)合理的思考を捨てた多くの日本軍人や日本国民は、この種の思考を「おかしい」と認識する能力を喪失していました。
 反論する者は「ならばお前は、日本人の精神力が低いと言うのか」との筋違いの罵声を浴びせられ、組織や社会の中で孤立させられることになりました
 また、合理的思考や客観的思考を排斥したことで、現実認識を自分に都合良く操作することへの抵抗や疑問が薄れ、自国に有利な方向へと意味を変えられるなら、現実認識を改編・修正することが逆に推奨されるという、異常な心理状態が形成されていました。(p.169-170)

 ここしばらく、私達は「現実認識を自分に都合良く操作する」実例をいやというほど見て来た。「現実認識」どころか記録された「現実」そのものが都合よく「改編・修正」される場面を。そしてそれに異論を唱える者が排除される場面を。
 筆者は第4章で、現政権下において再発した「国体」の論理=「大日本病」への処方箋をいくつか挙げている。特に納得したのは「「形式」ではなく「実質」で物事を考えること」という件。

 文化や信仰政治家が利用する場合、政治家はしばしば、自分の政治目的(実質)を批判から守るための盾として、特定の文化や信仰の「形式」を利用します
 例えば、首相閣僚が自らの靖国神社参拝を正当化する際、内外の批判から身を守るため、これは死者を慰霊する純粋な行いなのだ、という「形式の盾」に隠れます。(中略)英『エコノミスト』紙の記事は、安倍政権の政治的方向性という「実質」で、問題を分析・解説しています。これが、本来のジャーナリズムの役割であり、彼らは政権官庁が問題の本質を擬装・偽装するために用意する「形式の説明」という布を自分の手でめくり上げて、その下に隠れているものに光を当てています。
 これに対し、日本の大手メディアは、政治問題では特に、実質ではなく「形式」で、問題を分析・解説することが多いように見えます。政権官庁が用意する「形式の説明」を丸ごと受け入れた上で、その文脈に沿う形で、問題に光を当てます。(中略)この「実質」と「形式」の違いは、言葉を換えれば、自分で問題に斬り込んで独自の視点で考えるのか、それとも誰かが用意したレールに乗って、あらかじめ決められた角度からのみ問題を見るのか、という違いでもあります。

 靖国神社参拝の場合、「実質」は国民を動員する目的で、政権が「英霊」=「国体」を守るために死んだとされる人々を称揚していたのだとしても、そのような批判的検証は許されない。「慰霊」という「形式」だけを鵜呑みにして、“死者を慰霊するのは悪いことなのか!”という感情的な反論が返ってくるだけである。だから私達は、権力者が何かをする時に口に出す「意匠」に惑わされず、それらの言説の機能ぶりに着目しなければならない。
 「政権官庁」で事に当たる官僚は、東條英機安倍晋三のような権力者の意向に阿り、彼らの要求を最も巧みに実現するようなロジックを組み立て押し付けて来る。例えば敗戦のように政体が劇的に変化した時、彼らは以前と以後の間に断絶や分裂や分裂を感じなかったのだろうか。

 第3章で、筆者は昭和天皇の所謂「人間宣言」に触れて、戦中までの「国体」思想を劇的に覆すものだったとする。

自らと国民との「新たな関係」について、昭和天皇は次のような言葉で再定義し、自分を「現人神」と考えるのとやめるよう、国民に伝えました。

『朕となんじら国民との紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とによって結ばれ、単なる神話と伝説とによって生じたものではない。
 天皇を現御神と見なし、日本国民は他の民族に優越するものであるから、世界を支配すべき運命を有している、という架空なる観念に基づくものでもない。〈中略〉
 一年の計は年頭にあり。朕は朕の信頼する国民が、朕と心を一つにして、自ら奮い、自ら励まし、この大業〈国の再建〉を成就することをこいねがう』

 第2章で紹介した多くの文献を踏まえた上で、この天皇詔書を読むと、これは天皇の「人間宣言」である以上に、戦前・戦中の日本人を酔わせた「国体」思想を完全否定する内容であることがわかります。
 戦前・戦中の日本では「当然の前提」とされた、日本人優越思想とその背景を「単なる神話と伝説」や「架空なる観念」という厳しい言葉を用いて批判し、陋習としての「国体」思想からの訣別を、国民に向けて宣言しています。(p.222-223)

 「戦前・戦中の日本人を酔わせた「国体」思想」の普及に一役買った「第2章で紹介した多くの文献」は、文部省軍部など公的な機関かそれに近い立場から刊行されたものである。従って、発言の権威の淵源を尋ねると、最終的には天皇に行き当たるはずだ。そうだとすれば、天皇は「厳しい言葉を用いて批判」したり「陋習としての「国体」思想からの訣別を、国民に向けて宣言」する前に、自身の名において、その「陋習」が強制された結果、国民に多くの犠牲が強いられたことに対して、慙愧の念を表白すべきではなかっただろうか。

 本書は戦時期日本の「空気」を理解するのに有効だが、疑問点がないわけではない。
 第1章で兵士の生命を使い捨て日本軍の、他国軍隊に見られない異質性を指摘して、その背景に「国体」が強いる犠牲の論理を挙げているが、呼称は変われど、民族・政体・理念など何らかの普遍的価値を守るために犠牲になるという思想は、近代国民国家に共通に見られる現象ではないだろうか。
 たまたま日本では〈万世一系天皇〉が守るべき超越的価値を表していただけで、例えば西洋であれば、社会契約に基づいた憲法とそれが体現する国家が、その価値に当たる。

ルソーの主張の核心は、本来、人の暮らしと安全を保障するために作られたはずの国家が、その根幹となる憲法を守るために人々に命を捧げるよう要求する背理を指摘することにある。だからこそ、人の暮らしと安全を守るためには、むしろ国家を、そして国家を構成する憲法を捨て去ることも必要となる場合がある。
 「国を守るために命を捧げた人に対して礼を尽くすのは当然」という言葉づかいがなされることがあるが、そこでいう「国」が何を指しているかを見極める必要がある。(中略)通常そこで指されている「国」とは、憲法によって構成された政治体としての国であって、それ以前の裸の国土や人々の暮らしではない。人々に死を要求し、しかも肝心な場面で国土や暮らしの背後に身を隠そうとする憲法の危険性を知ることは、憲法を考える第一歩である。(p.62-3)

憲法とは何か (岩波新書)

憲法とは何か (岩波新書)

 だとすれば大切なのは、犠牲の論理が「国土や暮らしの背後に身を隠」し、つまり私達の「文化や信仰」など身近で掛けがえのないものの「意匠」を纏って、こっそりと忍び込むことに対して、常に注意深く警戒し続けることだ。最後に自戒を込めて、太宰治が「家庭の幸福」(『中央公論』1948・8)に記した、「所謂民衆たち」に向かって「厚顔無恥の阿呆らしい一般概論をクソ丁寧に繰りかえすばかり」の「ヘラヘラ笑い」した官僚にぶつけた言葉を想起したい。 

あなたは、さっきから、政府だの、国家だの、さも一大事らしくもったい振って言っていますが、私たちを自殺にみちびくような政府や国家は、さっさと消えたほうがいいんです。誰も惜しいと思やしません。困るのは、あなたたちだけでしょう。何せ、クビになるんだから。

太宰治全集〈9〉 (ちくま文庫)

太宰治全集〈9〉 (ちくま文庫)

昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)

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軍神―近代日本が生んだ「英雄」たちの軌跡 (中公新書)

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餓死した英霊たち (ちくま学芸文庫)

餓死した英霊たち (ちくま学芸文庫)

2018-07-07

「アール・ブリュット」の衝撃

 先週6月30日、たまたま滞在先の大阪鶴橋のホテルで見たNHKETV特集「人知れず表現し続ける者たち供廚鮓た。登場するのは緞里絵・戸谷誠・平野智之ら三人の作者。いわゆる画壇で華々しく活躍する有名作家ではなく、それぞれが歩んでいるユニークな人生と一体化した形で、創作活動を続けている。彼らの作品は「アール・ブリュット」と呼ばれ、近年注目されているそうだ。

 art brutのbrutとは「生の」「加工していない」という意味。その意義については、次の二つが参考になる。

アール・ブリュットとは|ローザンヌ アール・ブリュット・コレクションと日本のアウトサイダー・アート |アール・ブリュット/交差する魂
アール・ブリュットとは
 アール・ブリュットとは、既存の美術や文化潮流とは無縁の文脈によって制作された芸術作品の意味で、英語ではアウトサイダー・アートと称されている。加工されていない生(き)の芸術、伝統や流行、教育などに左右されず自身の内側から湧きあがる衝動のままに表現した芸術である。フランスの画家ジャン・デュビュッフェ(Jean Dubuffet 1901-1985)によって考案されたことばである。

「芸術はわれわれが用意した寝床に身を横たえに来たりはしない。芸術は、その名を口にしたとたん逃げ去ってしまうもので、匿名であることを好む。芸術の最良の瞬間は、その名を忘れたときである。」

 芸術家ジャン・デュビュッフェの言葉は、アール・ブリュットの概念を総括する根幹としてとらえることができる。アール・ブリュットの作者たちは、あらゆる文化的な操作や社会的な適応主義から自由なのだ。彼らは精神病院の患者、孤独に生きる者、社会不適応者、受刑者、あらゆる種類のアウトサイダーたちなのである。
 これらの人々は、沈黙と秘密そして孤独の中、独学で創造活動を行っている。いっさいの伝統に無知であることが、彼らをして創造性にあふれ、破壊的な作品制作を可能にしているのだ。ジャン・デュビュッフェいわく、「われわれが目の当たりにするのは、作者の衝動のみにつきうごかされ、まったく純粋で生の作者によって、あらゆる局面の全体において新たな価値を見いだされた芸術活動なのだ」。

アール・ブリュット(art brut)は「障害者の芸術」ではない | KAIGO LAB(カイゴラボ)
 アール・ブリュット(art brut)という言葉は、フランス語で「生の芸術」を意味するものです。英語ではアウトサイダー・アート(outsider art)とも呼ばれます。アウトサイダーという言葉がネガティブに聞こえるため、あえてフランス語アール・ブリュットが用いられることも多いようです。
アール・ブリュットは、世間一般には「障害者の芸術」という意味で考えられてしまいがちです。しかしこれは「介護=下の世話」というのと同じレベルで、大きな誤解です。本来は、この言葉自体が「障害者の芸術」という表現を否定する形で生まれたものだからです。
 アール・ブリュットという言葉は、西洋美術の価値観を否定したことで有名な画家、ジャン・デュビュフェ(Jean Dubuffet)が生み出したものです(1945年に友人に宛てた手紙の中で登場する)。
 デュビュフェは、それ以前は「精神障害者の芸術」と呼ばれていたものを、アール・ブリュットという言葉で塗り替えたのです。ここには、西洋美術の教育を受けたアーティストによる芸術を孤高として、障害者による芸術を、その下に見るような表現への怒りがあります。

 本来、アール・ブリュットという言葉は、芸術の価値を個人の属性で決めようとする美術界の価値観の破壊を目論む、非常に過激な言葉なのです。(中略)デュビュッフェ自身は、アール・ブリュットについて、次のように述べています。
原初の人間の本質や、最も自発的で個性的な創意に負っている。完全に純粋で、なまで、再発見された、すべての相の総体における作者による芸術活動であり、作者固有の衝動だけから出発している。自発的なそして非常に創意に富んだ特徴を示し、因習的な芸術もしくは月並な文化に可能な限り負っていない。」

 「アウトサイダーアート」と言えば、生涯にわたり両性具有の少女の戦争物語を描き続けたヘンリー・ダーガーを思い浮かべる。
 高校生の時、『芸術新潮』で「アウトサイダーアート」の特集を組んでいたのを読んで衝撃を受けた。彼が書いた「非現実の王国で」は、小林恭二「小説伝」の老人の書いた長編小説のように、架空の国の終わりのない物語である。
壮大すぎた黒歴史…非現実の王国に生きたヘンリー・ダーガーの孤独な人生 - NAVER まとめ

 番組は三人の作家の製作現場や本人・周囲の人々へのインタビューからなる。
 何十年も一人の女性の絵に手を入れ続けている戸谷は、「人間の内部には湖のようなものがあり、それが枯れると死ぬ」という。絵を描くことは、彼にとってその生命の湖に触れ続ける行為である。
 鱸は自身の自殺未遂の経験を語りながら、どうせ人は死ぬのだから、取り合えず今日は死ななくて良いという。ペン先で何かを無限に刻み込むような点描から浮かび上がるのは、赤裸々な人の生殖の在り方。
 平野は律儀に自分の思考過程を実況中継しながら、同じようにかっちりした線で「土足」による外の世界への憧れを語る。
 彼らはなぜ描き続けるのか。番組から感じたのは、生き続けることと描き続けることが等価なのではないかということだった。
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緞里絵「終末」(2007)

 日本では、滋賀県近江八幡市にある「ボーダレス・アートミュージアムNO-MA」が中心的な役割を果たしているらしい。
NHK「人知れず表現し続ける者たち?」で紹介されたKOMOREBI展の作者たち | ボーダレス・アートミュージアム NO-MA

評伝ジャン・デュビュッフェ アール・ブリュットの探求者

評伝ジャン・デュビュッフェ アール・ブリュットの探求者

アール・ブリュット

アール・ブリュット

2018-03-18

山代巴編『この世界の片隅で』

 広島市在住の高雄きくえ氏による「『この世界の片隅に』閉じこめられる日常」(『WOMEN'S DEMOCRATIC JOURNAL femin』2017/7/15)より。高雄氏は、広島で「ひろしま女性学研究所」を運営しているフェミニストである。
つながる/ひろがる/フェミ・ジャーナル -ふぇみん-|インタビュー

アニメ映画この世界の片隅に』は、広島・呉でも昨年11月に公開されて以降いまだに上映されています。(中略)「戦争の悲惨さを声高ではなく静かに訴えている」「戦下の日常を淡々と描いている」ことを人々は称賛し、異見を挟むことさえ憚られる状況です。
 東京で見た知人は、「涙し感動した」鑑賞者が終映後「一斉にスタンディングし拍手をした、もちろん私も」と語り、別な知人は「あの映画のどこに感動し、どこで泣けばいいのか」と苛立ちをぶつけます。どちらにしても、私には多くの戸惑いと違和感が付きまとい続けています。
 その一つが『この世界の片隅に』というタイトル。広島原爆被害を記録した山代巴編『この世界の片隅で』(1965年)のパクリ(きっと)なのですが、「で」を「に」に変えただけ、なのでしょうか。この違いがそもそも私には大きな違和感なのです。
 山代巴らは「在日朝鮮人、被差別部落民、沖縄人」などマイノリティーである被爆者を訪ね歩き、この世界の片隅〈で〉苦しみ続ける存在を世界にひらこうとしました。しかし「嫁ぎ先にも愛される“すず”の日常」は、「家族物語」としてこの世界の片隅〈に〉閉じ込められています。
 「内向き」は、「感動」は呼びますが「問い」を封じ込め、必然的に「声高に叫ばざるをえない人々」への疎ましさをさらに生み出すことにはならないでしょうか。
引用:加納実紀代(@ikuta1665)さん | Twitter


 高雄氏は「パクリ」とかなり強い言い方で批判しているが、実際に『この世界の片隅に』の原作者・こうの史代が、作品執筆に際して山代巴編『この世界の片隅で』を念頭に置いていたのかというと、本人は否定しているそうだ。
 この点については、ブログ紙屋研究所」で次のように論じられている。

 山代巴編の本書『片隅で』は、被爆した広島についてのルポであり、『片隅に』とあまりにも近接したジャンルの本である。
 『片隅に』を描いた、こうの史代が、『片隅で』を知らないはずはなかろう、とぼくは思っていた。それを意識して書いたタイトルに違いないと思ったからだ。
 ところがこうのは、ファン掲示板で次のように書いている。

 実は「この世界の片隅で」は、機会が無くて、わたしはまだ読んでいないのです! ただその存在と、「原爆に生きて」の内容と被っているらしいという事を知っていた程度なのでした。というわけで、「この世界の片隅に」とは無関係なのでした。ごめんなさい!
最近出かけてばかりだ | こうの史代ファンページ 掲示板 | 5891

 読んでいないし、「無関係」なのだという。
 こうのが原爆について描いた物語『夕凪の街 桜の国』では参照文献として山代巴の『原爆に生きて』が取り上げられており、前述の掲示板でも、こうのは山代について、

勿論山代巴には大変な敬意を抱いていて、この人のおかげで原爆文学は大きな広がりと奥行きを持った事は疑いようがない事実ですが、わたしに許されるやり方とはちょっと違う気もしています。

と述べている。
引用:この世界の片隅で

 ここでブログは「邪推」と断りながら、「こうのと山代の手法は大きく異なること」から「あえて距離を置くために「読んでいない」というふりを、こうのはしたのではないか」と述べた上で、 

『片隅に』を読む際に、本書『片隅で』を対象をなすものとして読むことが、『片隅に』を深め、広げていく、豊かな読書法になると信じる。

と結論付けている。

 上記ブログ中で引用されたこうのの発言は、ブログ「今日、考えたこと」で後の省略個所も含めて掲載されている。こちらの方が発言の真意を捉えるのによいだろう。

最近出かけてばかりだ
投稿者:こうの史代 投稿日:2010年 3月14日(日)13時19分24秒 X047192.ppp.dion.ne.jp

 実は「この世界の片隅で」は、機会が無くて、わたしはまだ読んでいないのです! ただその存在と、「原爆に生きて」の内容と被っているらしいという事を知っていた程度なのでした。というわけで、「この世界の片隅に」とは無関係なのでした。ごめんなさい!
 勿論山代巴には大変な敬意を抱いていて、この人のおかげで原爆文学は大きな広がりと奥行きを持った事は疑いようがない事実ですが、わたしに許されるやり方とはちょっと違う気もしています。大田洋子に対しては自分の運と健康を分けたいぐらい惚れているのですが。今思うと、「この世界の片隅で」まで読んでしまうとぐらついてしまいそうで、それで必死で探してでも読もうとしなかったのかも知れません。
 しかし、「原爆エレジー」という言葉はいいですね。
 実はわたしも「この世界の片隅に」では、最初から原爆以外の戦災を描くと言っていたにもかかわらず、すずが被爆しなかった事や、すみが死ぬところまで描かれていない事、黒焦げの死体の山なんかが出てこない事を、あからさまにガッカリする人を目の当たりにしたりしたものでしたよ…。でも自業自得なのかもしれない。広島市で、原爆についてしか学んでこなかったわたし自身は、呉戦災について語ってくれようとした祖母に対して、そういう態度をとらなかっただろうか。そういう人に会うたびに、そんな強い自責の念に駆られたりします。今となっては、そんなわたしを許してくれる人は永遠にいません。決して許されないまま、一生を終える事になるのでしょう。
 「原爆エレジー」は、原爆が「最も威力ある」兵器として登場させられる点で、「権威主義」の一種ではないかとわたしは考えたりしていますが…、右か左か核容認か反対かというおもての意見の対立とは別の次元で、原爆を過大に評価(あるいは批判)するかそうでないか、という別の対立が隠れていて、それは事実や知性の問題ではなく、描き手と読み手の人間性の問題なのだと思います。この辺の事は、いずれ平凡倶楽部で書くと思います。
引用:「『この世界の片隅に』(こうの史代) メモ」について 今日、考えたこと/ウェブリブログ


 こうのが「わたしに許されるやり方とはちょっと違う」と評した山代巴の「やり方」とは何か。それは一言で表すならば、被爆者同士の連帯や被爆者自身による運動を組織化していかなければならない、という発想の有無だと思う。
 例えば、こうのの作品では、最後にすずと周作が母親を失った女の子を「家族」に迎え入れる。これについて前掲の紙屋研究所は「原爆孤児を「養子」にむかえる」という結末が、山代著に見られる「「原爆孤児国内精神養子運動」を含めた広島反戦平和運動を水脈として持っている」と指摘している。

 しかしこの行動は確かに、上記高雄氏の言うように一家族内の範囲内に留まっており、「運動」として組織されたものではない。
 これは勝手な憶測だが、こうのは、組織や運動が囚われがちな手の届く日常性からの離脱、政治性や集団性や権力性といった世界に、どうしても馴染めないものがあったのではないか。日常のトリビアルなものへの凝視は、すず達主婦の目線を通して細大漏らさず書き尽くされている。そして『この世界の片隅に』は、そのような日常性の延長線上に原爆を描きたかったのではないだろうか。
 そしてそれは、すずの物語が1946年で終わっているのに対して、『この世界の片隅で』が、むしろそれ以後の20年をいかに生き抜いてきたか、に焦点を当てているのと無関係ではないように思う。山代が「まえがき」で振り返るように、「今では「原爆を売りものにする」とさえいわれている広島被爆者たちの訴えも、地表に出るまでには、無視され抑圧された長い努力の時期を経過して」いるのであり、戦後社会にその声が聞き入れられるために運動の力が不可欠だった。そして声を上げることが、当事者にとっても認識の変化をもたらした。

川手健は、一般被爆者の手記を集めるためには、被爆者の組織が必要であるといい出しました。しかし組織するためには、まだ立ち上がれずにいる被爆者の家を、一軒一軒訪問して、彼らのところにある要求や訴えを聞かなければなりません。『原子雲の下より』を編集した仲間たちは、その夏からこぞって被爆者の家を訪問することになりました。そして一人一人のまだ立ち上れない苦しみを聞き、要求や訴えを手記にする手伝いをはじめました。これは詩人や作家にとっても、全く新しい道でありました。ものを書いたことのない被爆者たちも、自分の体験を文章にするなかで、自分の思いを確かめることができ、その言葉が活字になって出ると、未知の人に理解される喜びがともない、次第に自分の訴えに自信を持つようになって来ました。そしてこのいとなみを通して、被爆者組織の礎となり、進んで原爆禁止の戦列へ加わって行く人々が続出しました。この事実から考える時、被爆者の手記集『原爆に生きて』は、今日の被爆者組織の礎石であったといえましょう。

 事実、『この世界の片隅で』の各章の多くは、当事者の力強い認識の変革を書き記すことで終わっている。山代は、このような自他に及ぶ認識の深化を「闘い」と呼んでいる。

 この本の名を、『この世界の片隅で』ときめました。それは福島町の人々の、長年にわたる片隅での闘いの積み重ねや、被爆者たちの間でひそやかに培われている同じような闘いの芽生えが、この小篇をまとめさせてくれたという感動によるものであります。現地の片隅での闘いが私どもを変化させた力は大きく、「広島研究の会」は、どこまでも現地に密着して、中断することのない研究を進めなければならないと思われます。

 「世界の片隅」とは、「被爆体験からの思索の歩み」が生まれ出る「現地」を指すと考える。それは、ともすれば世間の大きなうねりに無視されがちなゆえに「片隅」だが、その場所から始めなければ意味がないという「闘い」の現場をも意味する強い言葉だろう。
 しかし、先駆者である川手健(たけし)*1自死を、山代が哀惜を込めて述べるように、運動化・組織化は拡大すればするほど、現場からの離脱という危険をともなう。

峠三吉をのぞく、他の先駆的な人々の名は忘れられ、彼らが発見し積み重ねて来た努力や方法は、受けつがれていません。川手も一九五五年の第一原水爆禁止世界大会が、広島で開かれるまでは、被爆者の会の中心的な活動者でしたが、盛り上がって来た被爆者救援の声は、同時に若い彼の持つ欠陥への批判や攻撃となってあらわれ、彼の意見の用いられない状態をつくり出して行きました。しかし彼は、大学を二年も棒に振って青春を捧げたこの組織と、全く無関係になることは出来ませんでした。一九六〇年四月、遺書も残さず自殺して行くまでの間に、彼が私に送った言葉はつねに、被爆者の組織化の発端において、お互いの発見したあの方法が、捨て去られようとすることへの悲しみを訴えていました。

 この問題は、『この世界の片隅で』だけでなく『原爆に生きて』『囚われの女たち』、牧原憲夫氏の評伝、サークル運動などの背景を踏まえて考えなければならない*2。そして「サークル村」と石牟礼道子震災後の復興など、社会的課題に直面した人々が水平なコミュニケーションに基づいて事に当たる際に、常に直面する課題である。 

この世界の片隅で (岩波新書 青版 566)

この世界の片隅で (岩波新書 青版 566)

山代巴文庫[第2期・4] 原爆に生きて

山代巴文庫[第2期・4] 原爆に生きて

山代巴 模索の軌跡

山代巴 模索の軌跡

1950年代---「記録」の時代 (河出ブックス)

1950年代---「記録」の時代 (河出ブックス)

2018-03-15

レヴィ=ストロース「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう。」

 通勤途中の坂道で、珍しい鳥の鳴き声を聞いた。今まで聞いたこともないような張のある声で、残念ながら種類までは分からなかったが、季節の移り変わりを感じた。帰宅後、歳時記を繰ってみたが、やはり分からない。「早春に平地で囀り始め、気温の上昇にともない冷涼な地帯に移動する」とあるので、鴬かも知れない。俳句を作っていなければ、鳥の種類まで気に掛かることはなかっただろう。

 うぐひすのケキョに力をつかふなり(辻桃子

 それと共に、人間が意識しようと意識していまいと、自然の営みは刻々と進みつつあるのだと感じる。そこには、人間の意志を越えた、文字通りの自然(じねん)の力、「おのづからなりゆくいきおひ」を思わせるものがある。
 私達は自然を様々に意識し意味化しているが、自然が私達人間をどう考えているのかは、知る術がない。自然は人間のように語らないからだ。これはよく考えれば恐ろしいことである。
 個人は、自分を主観的に測るだけでなく、他人の視点も折り合わせて、自己イメージを微調整しながら自分を把握する。主観だけでは独断に陥るからである。国家などの集団も同様だ。しかし人間に対しては、外からの視線がない。他の生物や自然界にとって人間はどのような存在なのか、人間は自分で想像してみるしかないのである。そうしなければ、人間全体が独断に陥ってしまう。
 そこで連想したのが鷲田清一「折々のことば」1046(2018/3/11)だ。

  世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう。(クロード・レヴィ=ストロース
 途中から世界に現れ、やがて先に消えてゆく人類には、その世界に「修復不能な損傷を惹き起すいかなる権利」もない。人類は世界の主ではない。世界の中で自分が占める位置を知るために、人類は自らの背後にもう一つの眼をもつ必要がある。その眼をフランスの民族学者は、のちに世阿弥の「離見の見」に倣い「はるかなる視線」と呼んだ。『悲しき熱帯』(川田順造訳)から。

 鷲田がこの文章を選んだのは、「3・11」の傷痕を踏まえてのことだろう。「世界の中で自分が占める位置を知るため」に「もう一つの眼をもつ」とは、肥大化する人間の科学技術が、自然の中でどのような存在であるのか、客観的に見る目を持つべきだということだと考える。もちろん、自然が常にか弱い被害者であるとは限らず、人間の技術こそが自然の力の前で脆弱たりうることは言うまでもない。
 私達人間の営みは、余りに人間中心の判断に偏りすぎている、というのが鷲田の伝えようとしたことではないか。
 引用されたレヴィ=ストロースの文章は、この脱人間中心主義を徹底している。

 世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう。制度、風俗、慣習など、それらの目録を作り、それらを理解すべく私が自分の人生を過ごして来たものは、一つの創造の束の間の開花であり、それらのものは、この創造との関係において人類がそこで自分の役割を演じることを可能にするという意味を除いては、恐らく何の意味ももってはいない。(中略)人間の精神が創り出したものについて言えば、それらの意味は、人間精神との関わりにおいてしか存在せず、従って人間の精神が姿を消すと同時に無秩序のうちに溶け込んでしまうであろう。

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)