徳永直「追憶」震災下の流言と虐殺

  先日(4/24)触れた中島氏の文章は、熊本地震より前に書かれたものである。この時、関東大震災時と同じ醜悪なデマが出回ったことは、私達の社会に根深く巣食う排外主義を改めて意識させた(幸い現地でこのデマに動かされた人はあまりいなかったように思う。むしろネット上で高見の見物を決め込んでいた人間が面白半分に過去の歴史を引用したようで、それがいっそう醜悪である)。
  ところで中島氏の引用した徳永直「追憶」(『文芸春秋』1946・11)は、幸いなことに「徳永直の会」によりPDF化されて公開されており、全文読むことができた。この文章は、余りにも鋭く震災下の流言と虐殺に繋がる様子を描いているので、ここに紹介したい。
徳永直の紹介 - 徳永直の会
  当時、25歳だった徳永は小石川博文館印刷所の新造された鉄筋コンクリート四階建て工場の二階で働いていた。震災の直後、頑丈なはずの建物は倒壊し、徳永は死を一瞬覚悟する。結局、負傷したものの一命を取り留めたが、多くの同僚達の生死は不明なままだった。やがて火災が起こり、屋外に避難していた徳永は、そこで人々に呼びかける声を聞く。被災者だった彼の回想は臨場感に溢れている。

みなさアん――というような声が一ときわたかくきこえて、提灯がひとつ、輪をかくように揺れうごくのがみえた。(中略)その提灯は、大ぶりの、まるい提灯であった。横に赤い線がひいてあった。在郷軍人会がつかうマークの、あの山形のギザギザであったかどうか、それは明瞭な記憶ではない。しかし警察の二本の横の赤線に、タテに一本の赤線がある。あれとはちがっていた。
「……ちょッときいてくださアい(中略)…悪漢の……朝鮮人に要じんしなければいかん。……しょくんのそばに朝鮮人はいないか? ……放け火を……」
 私のところからはよくきこえた。今日もおぼえている文句は、「悪漢」「朝鮮人」「放け火を」「しょくんのそばに」などであるが、その男の大きな声の演説は五分か十分の短いものだった。どんな風体かもおぼえていないが、夜とはいえ昼間のようにあかるいのに、提灯をつけて、荷物一つももたない男たちだったので、私らには異様に感じられた。
朝鮮人……気をつけろーウ」
  まえの男が一としきりしゃべってしまうまで、きゅうに呼吸をのんだようにあたりはしずかだったが、提灯がゆれながら築山をおりかけたとき、そのつれらしい声の一つが、一きわたかく、そう怒鳴った瞬間、いっぺんに火がつけられて、ザーッと風がおこったようなさわぎになった。子供の泣き声。男たちのどなりごえ。きれぎれなさけび……。
(中略)
  私ら怪我人はみな工場のもので、朝鮮の人はいなかったが、同じ藪のなかにはいるはずだった。私は植物園の塀一つむこうの長屋町の二階に住んでいたし、その長屋町にはわりにたくさん朝鮮人がいた。そしていまは長屋町じゅうが家をあけて、一ばんちかいこの藪のなかへひなんしているからだ。
「本当かね?」
「嘘だろう」
 私らはそんな風に話しあっていた。信用できない気がしていた。
「いや――」
  するとおこった声で、蚊帳のある藪の入口の方で、荷車にのってる男が叫んだ。もちろんそれは私たちにではなかったが……。
「火をつけたにちげねえ。でなきア、東京じゅういっぺんに火事になるって法はねえじゃねえか……ちきしょ、おれんちの店は――へいになっちまったんだ――」
  池のむこうの丘になっている木だちのなかで、一散に築山の方へかけてゆく人群れがあったが、なにか短い叫び声がしたかと思うと、女だか男だか、白いものがころがるように落ちてきて池のなかへとびこんだ。私のところからよくみえる蚊帳もひッちぎられた。そのあとへ子供を二人、両方にかかえた黒いチマの朝鮮人の内儀さんが真っすぐにつったっていた。(中略)だれが蚊帳をちぎったかわからぬが、子供を脇にかかえこんでいる内儀さんの顔にあらわれれている恐怖の表情――口を半分あけて眼をみひらいている――は、藪の入口の荷車の方をみつめていた。荷車のかげで何があったか私のところからはみえなかったが、すぐ顔から血を流している半裸体の男がこっちへとびだしてくると、何か叫びながら子供ごと内儀さんをひっさらうようにして、塀のやぶけめから逃げていった。
「止せ、止せ――」
「いや、やっつけとかなきゃ――ちきしょ」
「――どこへ行った?」
  ひっちぎれた蚊帳や、ひっくりかえった飯びつのちらかってるあたりで、ざわめきがしばらくつづいたが、いくらか落ちついたじぶん――こんな声もきこえた。
「だってエ、知ってる顔じゃねえか、可哀想よ――」
  だんだんあたりが白みそみて、灰ほこりをあびた人々の顔がしらちゃけてみえるじぶんに――朝鮮人が隊をつくって東京じゅう火を放けてあるいている――というようなうわさも私たちのところまで流れてきた。

  震災当日の9月1日の夜には、早くもデマが流布し始めた。これは朝鮮人虐殺の調査研究で第一人者の山田昭次も「東京では早くもこの日[※1日]の夕方には警官が朝鮮人暴動の情報を流布した」*1と指摘している通りである。
  徳永の筆は、人々の不安や恐怖が、流言へと転化していく不気味さを捉えている。

とにかく地震の恐怖火の恐怖、そのままの形で「朝鮮人さわぎ」へと発展していた。「荒川土堤に百人も針金で結えられて殺されていたよ」とか、「おれんちのおおや(家主)は三人斬ったんだって、すげえ刀をみたぜ」とか、「兵隊はみんな実弾をもってんだゾ」とか、そんな話の方が、すぐ打ちかってしまう空気であった。そしてそういう空気のなかでは私たち久堅支部員、ことにその中心であった独身者ばかりの七八人は、「朝鮮人さわぎ」にたいして冷たんのようであった。べつにそのことで反対も意見もだした記憶はないのだが、私は私が室がりしているうちの同じ植字工、福田というおやじに忠告されたものだ。
「なお(工場ではみなこうよんでいた)さんや、気をつけねえと、しゃけえしゅぎはあぶねエッっていうぜ」

  「空気」に同調しない人々は、特に震災のような非常時に危険視される。翌々日の9月3日には亀戸署に拘束された社会主義者達が軍隊によって殺害され(亀戸事件)、また16日にはアナキスト大杉栄伊藤野枝らが殺害された。これらの事件については、「追憶」冒頭でも述べている。
  徳永も忠告を受けて住民達の「夜警」に加わる。その様子が何とも奇妙で、人々の恐慌状態をよく表している。道路の十間(約180メートル)おきに縄を張って検問を作り、番人は前方から伝わってくる指令を後方に伝える。もっとも、「だれが責任者で、一ばんおしまいの報告はどこにとどくのかもわからない」。
  その内、「伝令」の内容はだんだん緊迫したものになっていく。

「――てき(てきという言葉をつかった)非常線をもぐってしんにゅうするから、路地の入口に歩哨をたてよ。終り」
  文章語と口語とをまじえて云ってくるが、どの非常線もそんな「でんれい」のたびにざわつき緊張した。(中略)「でんれい」のうちには「女、子供に危害を加えられるおそれあり」という意味のもあった。しかし「てき」がどこからくるのか? 非常線は何時間経っても猫の子一匹かからない。そのくせ「でんれい」はだんだんはげしくなっていった。「でんれい」「でんれい」という声が殺気だって、饅頭屋よりももっと前の線で云ってるのがきこえてくる。
「でんれい」
――こんどは饅頭屋のほかに二三人できた。
「――ただいま原町方面よりトラック一台にのったてきが、しんにゅうしつつあり、各自せんとうよういすべし。終り」
  こいつはみんなおどろいた。せんとう用意と云ったところで、せいぜい錆び刀をもっているくらいがいい方で、たいていは棒切れである。みんなであわてていると、どっか路地の奥の方でさわぎがはじまった。「朝鮮人がつかまったゾウ」(中略)「せんとう用意だ」「せんとう用意だ」と怒鳴ってあるくやつ。私もこまった。すると路地奥から戻ってきた二三の声々が云っている。
「死んだか?」「ばかだな、ありゃ桶屋のおやじじゃねえか」「みんな忘れたのかね、あの禿頭をさ。」
  ――するといま一つの声が打ち消すようにさけぶ。
「いや朝鮮人だ。日本語がうめえんだよ」――。

  以前のエントリにも書いたように、朝鮮人と間違われて殺された日本人もいる。流言はますます過激化し、「朝鮮人が約三十人」「ばくだん」を持っている、捕虜にした敵の「ばくだん」を試験的に爆発させるから注意せよ、だの支離滅裂なものになっていく。
  徳永が記したこの出来事の顛末は、とても意味深いものだ。あまりに奇妙な「伝令」内容に、さすがに疑惑を抱いた人々が、連絡の伝わってきた非常線の前方へ押し寄せて行くと、意外な事実が分かる。人々に指令を飛ばしていたのは、長屋に住む騎兵曹長だったらしいのだが、人々の気配を察したのか、押し寄せた時には既にもぬけの空だったのだ。

私たちよりもっと多くの人間が、神社の鳥居とななめむかいくらいにあたる二階長屋のまえでひしめきあっているのだった。
「――だせ、そいつを!」
「――もう逐でんしたと……」
「いる、いる、かくれてやがんだ」
  口々にさけんでいるのがきこえるが、前の方はいっぱいで私らはすすまなかった。しもた家の格子戸はあけはなしになって、なかにも人々がつめこんでいた。私たちはながいことそこへたっていた。しかし空家らしい家のなかにはだれもおらぬようであった。
「――ひでえ野郎だ、一ばんじゅう……」
「――騎兵曹長だとよ」
「騎兵? へーい?」
  どういうわけか、みんな二階をみあげながら、きれぎれにそんなことを云っていた。二階の雨戸はしまっていたが、人気はなさそうにみえた。「ばかにしてやがらア」とか、「どうりで、カツドウみてえだとおもったよ」とか、ブツブツ云いながら五人八人とちらばっていったが、私にもわからなかった。
  しかしその翌晩からは、私たちの近所では「非常線」ごっこはやらなくなった。

  流言の無根拠さと、それに躍らされる愚かさ、恐ろしさをこれほど鮮やかに示した幕切れはあるまい。誰が発したのかも知れない言葉に煽動され、一晩中警戒を続けた人々。それは巷間の人々で、筆者の隣人でもあったはずだ。だが、その人々が、自警団の一員として無辜の朝鮮人虐殺に手を貸したかもしれない。

  少し舌たるい饅頭屋のじじいが「おこたるなかれ」というときの真剣な調子と、舌がもつれて咽喉をつりあげるようにして叫んだ顔を、私はいまもおもいだすことが出来る。

  そして徳永は、昭和9年発行「国民百科大辞典」の「かんとうだいぢしん」の項に「かめゐどじけん」も「ちようせんじんぎやくさつじけん」の記述もなく、まして立項さえされていないことを指摘し、そこに「政治的圧力による歴史のまっ殺」を見る。

歴史はしょせん最後に勝利するものがつくるのだ。百科事典にはなくても、新聞記事にそうあらわれなくても、日本のひろい人民のうちにはちりぢりの形ながら保存されている。(中略)私たち日本人民は、日本人民のただしい民族的発展のために、それらをあつめていつわりない歴史をつくらねばならぬ。朝鮮の人民を殺した日本人民の責任はまだ消えておらぬ。この責任を果すには日本人民の手で、それが誰によっておこなわれたかをあきらかにして、罪の所在と原因を決定したときだ。

  実際に、震災時の虐殺事件の掘り起こしは、心ある市井の人々や歴史学者によってなされてきている。前掲の山田昭次氏や、みすず現代史資料の姜徳相関東大震災朝鮮人』、さらに近年では丹念な証言集など。
政府によって徹底的に隠蔽された「関東大震災朝鮮人虐殺事件」の真相(西崎 雅夫) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
  また中島敦「巡査の居る風景」のように、同時代の文学者達も多くの証言を残している。 
  熊本地震で見られたような排外主義を、今後私達の社会の宿痾とさせないためにも、「歴史のまっ殺」に加担することなく、この出来事に向き合っていく必要があるだろう。

関東大震災時の朝鮮人虐殺―その国家責任と民衆責任

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