中野剛志著『自由貿易の罠――覚醒する保護主義』(青土社)


 青山さんに続いて。


 危機的状況に突入したリーマンショック以降の世界経済の中で、各国が輸入制限、関税引き上げ、政府調達における国内製品優遇など保護主義的な政策を導入しており、国際会議に終結する各国首脳やメディアに登場するエコノミスト達は、八〇年前の世界恐慌の際に保護主義が世界大戦につながった記憶から警戒心を顕わにし、自由貿易体制を堅持すべしと熱心に説いている。
 しかし著者はあえて大胆に、自由貿易理論の弱点を様々な角度から指摘するとともに、現在の世界的不況を脱出する上ではむしろ保護主義が一つの有力なオプションたりうるということを、種々の学説や事実を紹介しながら示している。


 デフレ対策
 「保護貿易は自国中心主義の危険な政策であり、自由貿易こそが世界の平和と発展に資するのだ」という信念は広く一般に共有されており、私も中学か高校の社会科(歴史)の授業でそのように習った記憶がある。だから、保護主義が有益なのだと言われて抵抗を感じる人も多いだろうが、著者の議論を理解する上で重要なポイントとなるのは、「デフレの克服」という論点だ。
 日本政府も先月「デフレ宣言」を行ったように、現在の経済上の最大の課題はデフレであり、需要の不足である。ところで、著者が指摘するのは、自由貿易はグローバルな価格競争を伴うのである以上、物価の下落圧力が働くという当然の事実だ。そして物価下落は先進国の労働者の賃金を低下させ、ひいては内需を縮小させるという悪循環を引き起こすのである。
 貿易制限は外需を縮小させるので、その限りで一種のデフレ圧力となるのは確かである。しかし「今日、われわれは、ケインズ主義的な内需拡大政策を知っている。それゆえ、内需拡大政策とそのメカニズムを十分に知らなかった一九二〇‐一九三〇年代の世界ほどに、保護貿易による外需の減少を深刻に懸念する必要なはないはずなのである」(二八頁)。
 むしろ、著者が指摘するのは、自由貿易内需拡大政策の効果を減殺してしまうという可能性だ。政府が景気対策として内需拡大のための財政出動を行ったとしても、自由貿易体制下では、その需要によって潤うのが他国の輸出産業である場合があるからである。
 つまり、デフレ対策が主要な問題となっている状況下では、自由貿易は経済の発展に資するどころか、有害ですらあり得るのだ。逆に、各国が保護主義的な措置を講じた上で財政出動を行い、内需を拡大させ、国内経済を成長させれば、その結果として貿易量が拡大することもあり得る。実際、一九世紀から二〇世紀の初頭にかけて、保護主義的な措置を取っていた国々が高い成長率を享受し、貿易量も拡大させていたという事実を著者は紹介している。
 

 自由貿易論の根拠
 自由貿易論の根拠として最もよく知られているのはリカードの「比較優位論」だが、それは「完全雇用」「運送費はゼロ」「各国民の効用関数が同じ(嗜好が同じ)」といった、およそ非現実的な仮定の上で成り立つものにすぎない。また著者は、インドの経済学者バグワティの自由貿易論を理論の洗練度において相対的に高く評価しているが、J・バグワティの議論は結局のところ第二次世界大戦後の一時期に貿易量の拡大と経済成長の相関がみられたという限定的な事実に依拠しており、その因果関係は曖昧であると指摘する。
 著者は、「経済学者たちは、自由貿易が強力な理論的根拠をもつものではないことを承知しており、また、貿易制限がより適切である場合もあることを薄々感じている節すらある」(十八頁)という。それにもかかわらず一般に保護主義が忌避されるのは、結局のところ、市場に介入する政府の能力に対する根強い不信感があるからである。実際に、(政府の役割を重視したバグワティのような例外を除いて)多くの論者の自由貿易論の拠り所は、突き詰めれば、能力の不完全な政府が介入するぐらいならば市場に任せておいた方がまし、という極めて消極的なものなのである。
 そこで著者は本書の後半で、市場に介入する政府の能力は本当に信用に足りないものなのかどうか、そして、その能力を高めるためには何が必要なのかの検討へと進んでゆく。
 

 プラグマティズム
 著者は「産業政策」を保護主義の一形態として扱い、その是非に関する様々な学説を取り上げており、その中には主流派経済学の「幼稚産業保護」論や「戦略的貿易政策」論も含まれている。しかし主流派経済学の産業政策論は、著者に言わせれば市場主義の一形態でしかない。つまり、効率的な市場という前提から出発して演繹的に経済を理解しようとする「合理主義」に陥っており、経済政策の目的を「経済厚生の増大」という単一の基準に還元してしまっているため、現実の経済政策を理解したり構想したりする上では全く役に立たない。
 著者が産業政策のあるべき姿を論じる上で、その中心に据えられるのは、J・デューイらによって打ち立てられた「プラグマティズム」の思想である。それは簡単にいえば、抽象的な「理論」から社会を理解する合理主義ではなく、具体的状況の中に入り込み、「実践」を通じて社会を理解する経験主義を重視する立場である。
 著者のいう「産業政策のプラグマティズム」は、政府が設計主義的に市場活動に枠をはめて規制するという活動ではなく、民間主体と協調しながら産業活動に参入し、個別具体的な問題の理解に努め、その解決策を探求する中で、経済社会に関する新たな知見を獲得し、後の政策にも活用していくという一連のプロセスである。理論に基づいて実践し、所定の目的に応じた手段を選択するばかりではなく、実践の中で理論を鍛え上げ、手段を実行する過程でより適切な目的(目標)を設定し直すという、理論と実践、目的と手段の相互作用を重視する立場である。
 実際、著者は経済学者によるいくつかの分析を紹介して、かつての通産省による産業政策が、民間企業に対する一方的な指導ではなく、様々な利害関係者の間で合意形成を行うための「媒介」の役割を担っていたのであり、問題解決のためのコミュニケーションを促進する活動に他ならなかったのだと論じている。
 このような政府の活動を、「政府の能力は不完全である」との理由で排除するのはばかげている。政府も民間もともに不完全な能力しか持たないのだ。政府は、民間企業と協調して産業活動に参加することで社会的紐帯の中に埋め込まれつつ、特定の利益集団の政治的圧力に屈しないよう一定の自律性を確保しながら、問題解決のノウハウを蓄積し、その能力を向上させていくべきだと著者は言う。
 
 ドグマから自由な議論
 本書の議論から我々が学ぶべきことは多い。
 第一に、「デフレ」という、現在の経済社会が陥っている危機の本質を直撃した議論であるということだ。デフレの脅威は俄かに広い議論を惹起していて、たとえば「緊縮財政論(財政再建論)」が一種のドグマとして我々の思考を縛っており大胆なデフレ対策の実行を妨げていることについては、何人かの論者が批判を行っている*1。ここに著者が、「自由貿易論」というもう一つの巨大なドグマを批判対象として付け加えたのは、非常に新鮮で刺激的だ。
 第二に、この間の「行政改革」を通じて政府の無能力化が推し進められようとしている中で、「プラグマティズム」の思想を論じ、政府の活動の意義を理論的に捉えなおしていることの意義は大きいだろう。
 そして第三に、著者の指摘するとおり「自由貿易」という強力なドグマが今崩れ去ろうとしているのをはじめとして、今後経済に関する常識は大きく転換する可能性があるということだ。イギリスの経済誌エコノミスト』が7月に、「過去三十年間の英米マクロ経済学の訓練はまったく時間の無駄であった」「現代のマクロ経済学の訓練は深刻なハンディキャップに他ならなかった」「ケインズらの智恵が過去七十年の間にすっかり忘れ去られてしまった」といった議論を紹介し、今回の経済危機を受けて経済学の歴史がリセットされようとしていることを示唆する論説を掲載していた*2。要するに、我々が長らく聞かされてきた経済学のウソが誰の目にも明らかになりつつあるのであって、ようやく、合理主義的経済学のドグマから自由になって思考することが可能になる(かも知れない)のである。そのとき、著者のいう「合理主義」のモデルから抜け出せずにいる者と、モデルの前提を「プラグマティック」に問うことのできる者との間には、決定的な差が開くに違いない。
 既存のモデルやドグマを疑い、通説に外れた議論を恐れずに展開してみるには絶好の機会がやってきたということだ。そして本書こそ、まさにその大きな象徴であると言えるだろう。

*1:著者中野氏も、たとえば2009年11月5日付毎日新聞紙上で「国債は『ツケ』ではない」と題して論じている。

*2:http://www.economist.com/displayStory.cfm?story_ID=14030288

中野剛志さんの最近の著書。

いずれも世間一般では良い事と見なされている「小さな政府」、「規制緩和」、「自由貿易」等の間違えを的確に指摘している良書です。
当たり前の話が異端とされる日本の現状は憂うべきものがあり、ともすると悲観的になりますが、
中野剛志さんの著書は誠に精神を安定させてくれます。
最近のものから並べてみました。ぜひ皆様もお読みください。

自由貿易の罠 覚醒する保護主義

自由貿易の罠 覚醒する保護主義

恐慌の黙示録―資本主義は生き残ることができるのか

恐慌の黙示録―資本主義は生き残ることができるのか

経済はナショナリズムで動く

経済はナショナリズムで動く

国力論 経済ナショナリズムの系譜

国力論 経済ナショナリズムの系譜

タクシー問題の構造について

 塾生の“タクシーブーム”に便乗して(笑),一つアップいたします.
 川端君も指摘しているように,やはり,「タクシーの問題」を考えることは,昨今の「構造改革イデオロギー」の誤謬を確認する上でも,そして,その誤謬をどの様に乗り越えていくべきかを考える上でも,示唆に富む問題であるように思います.
 まず,多くの(無論,全て,という訳ではないとは思いますが...)現代の経済学者は,「いかなる市場でも,理想的な“自由”を実現すれば,失敗は回避できる」と信じているように思いますが,このタクシー問題は,そうした経済学者の「思いこみ」が,単なる「妄信」あるいは「迷信」にしか過ぎない,という点を暗示するものの様に思われます.むしろ,適正なルール,すなわち,適正な“規制”がなければ,市場は“必ず”失敗する,ということすらが,この問題から示唆されます.
 そうした帰結は,理論的には,“共有地の悲劇”あるいは“社会的ジレンマ”という理論から,演繹することができます.つまり,地域の中でタクシーを使う人数は限られている“共有地”であるのに,“台数規制”が無ければ,結果として地域のタクシー台数が大幅に増加し,タクシー一台あたりの“あがり”,すなわち,収入が大幅に減少し,結局は最低賃金を下回ってしまう,という“悲劇”が生じてしまいます.これは,各タクシー会社が,利益を増進しようとすればするほど,そういう悲劇が生じてしまう,という問題です(こちらをご参照下さい).
 またこの帰結は,近代経済学の祖であるアダムスミスの主張からも演繹することができます.アダムスミスは,「道徳情操論」という著書を遺していますが,この著書の中で,道徳感情の重要性を論じています.この事より,こうした「道徳的ルール」,社会学社会心理学的に言うなら(インフォーマルな)“規範”があって初めて,市場に秩序が芽生えることがアダムスミスにおいて想定されていたことが分かります.つまり,一定の道徳規範が存在しなければ,「神」は,その「見えざる手」を市場にさしのべはしないのです(たとえば,少々極端な例ですが,「ぼったくりの自由」や「乗り逃げの自由」が認められているような市場では,タクシー市場が無茶苦茶となってしまうのは,致し方なきところでしょう.そんな市場に神がその御手をさしのべる筈はないですよね).詳しくは,こちら,あるいは,さらにはこちらをご参照下さい.
 さて,こうした問題は,“タクシー問題”において色濃く,分かり易く示されていますが,如何なる市場においても生じうる問題です.歴史に「たら・れば」は禁句ではありますが,もしも,産業界も,政府も,庶民も(そして,経済学の学者の皆さんも)共有地の悲劇の存在や,アダムスミスの理論をきちんと理解していたなら,「何でもかんでも規制緩和が正しい!」「何でもかんでも構造改革が正しい!」というような風潮になるはずもなく,昨今の「世界恐慌」が生ずることも無かったろうにと思わずにはおれません.

タクシー問題について


 新年明けましておめでとうございます。
 突然ですが、いま塾生の間で、「タクシー」ブームが起きています。
 これはじつに興味深い話題です。2つ下のエントリでタクシー問題を紹介されている藤井教授は、国交省の審議会等でも積極的に発言されています。
 数日前、日経新聞が下記のような「タクシー規制強化」反対の社説を書いていました。

 問題多いタクシー規制強化(12/26)
 http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20081225AS1K2500225122008.html


 国土交通省がタクシーの規制強化に乗り出す。新規参入の要件を引き上げるほか、台数が増えすぎた地域では減車を促す措置も講じる。現状に様々な問題があるとしても、それは業界の自主努力で解決するのが本来の道筋だ。過度の行政介入は望ましいものではない。
 (略)
 業界の自助努力も欠かせない。供給過剰は無理な増車に走った業界が招いた事態である。これを解消するには、身を削るリストラか、需要を増やすための営業努力が必要だが、その取り組みは十分だったのか。
 自分の責任は棚上げし、苦しくなれば規制強化や値上げを政府に求めるのでは、利用者の理解は得られまい。運転手の待遇改善についても、労使の協議でできることはまだ残っているはずだ。雇用状況が厳しくなるなかで、新規参入や増車を制約すればタクシー運転手への転職という選択肢を閉ざすことにもなる。
 (略)


 「自分の責任は棚上げし、苦しくなれば規制強化や値上げを政府に求めるのでは、利用者の理解は得られまい」と言われると、たいていの人は「業界ってのはなんてわがままなんだ! 自由競争しないなんてけしからん!」と、日経新聞に賛意を示すのかも知れません。
 しかし、それはまったく間違っています。私はタクシーについては素人ですが、庶民感覚で素朴に考えても、利用者としては競争とか何とかよりも、タクシーの運転手に無理せず仕事をしてもらわないと恐いですよね(笑)


 まずは藤井教授が書かれた新聞コラム(2つ下のエントリからリンクが貼られているもの)を読んでいただきたいと思います。そして、このタクシー問題では豊川博圭氏という方のブログが大変鋭い内容で、勉強になるので必読です。
 今回の日経新聞記事に対しても、すぐに反論を書かれていました。

 日経社説の知能の低さ
 http://footcall.blog24.fc2.com/blog-entry-115.html


 (略)
 この論説委員は明らかに規制改革会議方面から吹き込まれて一方的な論説を書いていますけれど、タクシーの問題は構造問題であり、個々のプレイヤー(事業者、乗務員)がどうこうできる問題ではないという基本の基本が分かっていないようです。
 (略)


 規制緩和論の不毛さについて、豊川氏はブログ全体を通してさまざまに批判されています。また、ノルウェーの鯖漁業とタクシーとか、規制緩和とモラルハザードとか、医師不足問題とタクシー問題とか、規制改革会議の論理破たんとか、EV導入の可能性とか、素敵な運転手さんの泣ける話とか、農村文化とタクシー市場とか、テーマ設定が多様で、「タクシー業界」という範囲に留まらない示唆も多く非常に勉強になります。


 タクシー問題というのは、大雑把に言えば「規制緩和が失敗した」ことの実例の一つのようです。あらゆる規制改革に反対する必要はないでしょうが、このところすっかりイデオロギーと化してしまった「規制緩和論」「構造改革論」「小さな政府論」を懐疑し、冷静な議論を行うためのきっかけの一つになり得る、きわめて重要なトピックだと思われます。

観光カリスマ百選

「観光カリスマ」という言葉はあまり聞き馴染みのない言葉かもしれません。
今から数年前のこととなりますが,内閣府国土交通省農林水産省が運営母体となり,「『観光カリスマ百選』選定委員会」が設立され,全国各地において,地域のために尽力し,観光振興を成功に導かれた方100名が,観光カリスマとして認定されました。

観光カリスマ百選

従来型の個性のない観光地が低迷する中、各観光地の魅力を高めるためには、観光振興を成功に導いた人々のたぐいまれな努力に学ぶことが極めて効果が高いと考えられます。そのため、「『観光カリスマ百選』選定委員会」を設立し、その先達となる人々を『観光カリスマ百選』として選定することとなりました。...

ここには,地域が抱える様々な問題に真剣に向き合い,地域づくりに活き活きと取り組まれた方のお話が描かれています。地域のために頑張り,観光振興を成功に導くという途方もないことをやり遂げる姿は尊敬に値します。

自分の住む地域のために頑張った人に対して,感謝する,ということは,当然のことではありますが,とても大切なことと思います。そうした人に対して,冷笑するでもなく,穿った見方をするでもなく,素直に「ありがとう」,と言うところに,健全さや麗しさがあるように思われます。国力や地域力も,そうした健全なる良識があってこそ育まれるのかもしれません。この意味で,地域のために「頑張る人」「元気な人」を選定するという今回の取り組みに共感を覚えました。

現在,観光カリスマの方を対象に,取材を行っています。皆さん,大変元気な方です。この体験については,改めて,ご紹介できればと思います。

政府がタクシーの自由化を返上

わたしたちが普段よく使う「タクシー」ですが,小泉内閣の時の2002年に,自由化されました.ですが,その自由化の弊害が大きく,この度,自由化路線を変更する方針を,国交省がまとめました.

タクシー業界 自由化返上 過剰深刻、台数・参入の壁修復

国土交通省は5日、タクシーの供給過剰問題で、営業台数が増えすぎていると判断した地域では一斉減車を促せる制度を新たに創設する方針を明らかにした。・・・新規参入や増車が事実上自由化された02年からわずか7年で、台数を制限する規制強化に方針を戻す。・・・

「自由化」「自由競争」「規制緩和」といった方針が何でもかんでも礼賛された風潮が,(専門家であるなら誰もが事前に予測していた....)「自由化の弊害」を目の当たりにして,少しずつ変わりつつあるのかもしれません.

ちなみに,「タクシーの自由化」の弊害については,
 タクシーが無制限に増えてしまい
   → タクシー待ちの渋滞が起こると共に,
   → 一台あたりの収入が減少し,
   → そのために最低賃金割れを起こす運転手が増え
   → そのために,仕方なく「値上げ」してしまい
   → 少しでも稼ごうとする運転手が増えて過労のため事故が増える
といったものでした (→参考).

少々ややこしいですが,自由化すれば安くて質の良いサービスが供給される,とは,必ずしも言えず,自由化によって,サービスの質が劣化し,値段が上がることもある,ということです.なお,最近東京のタクシーの初乗りが,最近710円に値上がりしましたが,これにも「自由化」が根本的原因となっています.

...ですので,逆説的ですが,今回の「規制」が,タクシー運賃の「値下げ」に繋がることもある,とも言えそうです.

「構造改革」から「構造強化」へ――中野剛志著『経済はナショナリズムで動く』を読んで

 

経済はナショナリズムで動く

経済はナショナリズムで動く

 著者は、(1)現代経済の主要なトピックをひと通り概観して「世界経済の動脈は、今や、ことごとくナショナリズムによってわしづかみにされている」(八頁)ということを明らかにした上で、(2)その「経済ナショナリズム」が歴史的・理論的に見て世界経済の正常態であることを論証し、(3)にもかかわらず「グローバル化による国家の退場」という誤った前提に基づいて「構造改革」に邁進してきた我が国の経済政策・経済世論を批判して、(4)「国力」を増進するための具体的な処方箋を提示してみせる。
 前著『国力論』が「主流派経済学」の不毛を指摘する思想の書だったとすれば、本書は「主流派経済政策」の誤謬を指弾する実践の書だ。


 ナショナリズムに覆われた世界
 冷戦終結以降の世界経済は、一見すると自由主義的な「グローバル化」を大々的に展開してきたように見える。しかし著者は、その内実を冷静に見つめてみれば、先進各国は世界経済で勝ち残るため、そしてナショナルな価値・文化を守るために、一貫して「経済ナショナリズム」を実践してきたのだと言う。
 そもそも九十年代以降の「グローバリズム」そのものが、アメリカが金融技術・情報技術における自国の優位性を活かすべく世界に仕掛けた「国家戦略」だったし、ヨーロッパにおけるEU統合の進展も、アメリカ主導のグローバリゼーションに対抗してヨーロッパ固有の文化を守るために採られた戦略だった。さらに近年で言えば、資源ナショナリズムの台頭や政府系ファンドの巨大化など、「ナショナリズム」の色合いは強まるばかりである。
 またアカデミズムの世界でも、社会主義が頓挫したことから「資本主義内の(国ごとの)多様性」が大きな論争点となり、国家や共同体のありようと資本主義システムとの深い結びつきが明らかにされたのだった。そして、国際金融市場の混乱、国際テロの活発化、南北格差拡大、各国固有文化の破壊など、グローバリゼーションの弊害が顕在化するにつれて、各国の知識人たちは「ネイション」の意義を再確認するという方向で思想的抵抗を試み続けたのである。


 「国家」「市場」「市民社会」の相互依存
 世界各国の経済が一貫して「ナショナリズム」に突き動かされているというのは、著者に言わせれば当然の成り行きである。なぜならそもそも近代社会は、歴史的にも論理的にも、「国家」と「市場」と「市民社会」の相互依存関係抜きには成立しないシステムだからである。
 「はじめに個人ありき」で近代社会の成り立ちを説明しようとする社会契約論は間違っている。近代的個人というのは、国家権力が伝統社会の封建的秩序を解体して、その束縛から人々を解放することによって生まれたものである。近代的な大規模市場も、もともとは十七・十八世紀のヨーロッパで、国家権力が伝統的共同体の特権や因習を廃止して、通貨など取引の規格を広範囲に統一することによって可能になったものである。
 また国家と市場の関係として重要なのは、司法や警察権力による秩序維持である。安定した社会秩序がなければ大規模かつ長期的な投資は不可能で、経済発展のしようがないからだ。そして国家そのものも、民間企業がリスクを負担できないような基礎研究やインフラ構築に投資し、課税や国債発行によって市場に大きな影響を与えている経済主体だから、市場経済を論じる上でも国家の存在は無視できないのである。
 ところで、近代的個人や市場を成り立たせている権利と規制の「法」体系は、国家が制定すればそれで良しというものではなく、それを適切に解釈して実行に移す人々の慣習的秩序、つまり共同体がなければ有効に機能しない。E・デュルケムが言ったように、「非契約的関係」が先に存在しなければ人々が契約を取り結ぶことなどあり得ず、法や契約が機能するのは、法制度や契約行為の持つ象徴的な権威を、共同体の成員があらかじめ受け入れている場合だけなのである。また、経済活動というのは単なる自己利益の追求ではなく、人々は家族や共同体から「働く動機」や「自己を律する道徳」を得て市場に参加している。K・ポランニーが論じたように、経済システムは「社会に埋め込まれ」て初めて機能するのである。
 そこで近代国家の中に生み出されたのが、封建社会ほど強い束縛力は持たないが、人々をゆるやかに結び付けることによってルールを機能させる「中間組織」(家族、地域社会、協同組合、産業組織、社交クラブ、政治団体など)の層、つまり「市民社会」である。この「市民社会」の分厚い層の中で育まれる人々の共同意識や健全な判断力が、「個人」と「国家」の間をつないで市場を機能させるとともに、国家の暴走としての「全体主義」が作動するのを防いでいるのである。


 ネイションの生み出すエネルギー
 近代国家は旧来の慣習的秩序を解体して、標準言語や画一的文化を普及させ、大規模市場の制度を作り出した。そして、運命として人々が受け入れざるを得ないような「ナショナルアイデンティティ」――それを具体的な言葉や形にしたものが「ナショナルシンボル」である――を鼓舞することで、「ネイション」の意識や情念を育んでいった。このネイションの意識こそは経済発展の最大のエネルギー源であって、市場の整備や産業化の推進のための経済政策に支持を与え、人々の情念に働きかけて大規模に動員することを可能にするものである。また、経済発展そのものが、人々の移動やコミュニケーションを大規模化・活発化することを通じて、ネイションの意識をより一層強化してゆく。さらに、ネイションの持っているエネルギー、秩序、動員力は、グローバルな諸問題を解決する上でも最も有効な武器となるだろう。
 ただし、国内に成熟した「市民社会」の層が存在しないままに経済が急速に発展してしまったり、市場システムがあまりにも急激に発達して市民社会の秩序から遊離してしまったりすると、ナショナリズムは過激化して逆に社会を不安定化させる。そして最悪の場合は「全体主義」に転化するだろう。ネイションからエネルギーを引き出しながら、その暴走を制御していくという舵取りは容易ではないのである。西洋の場合でも、現在のような比較的落ち着いた「ネイションステイト」の枠組みを手に入れるには、数百年にわたる戦争の歴史を経なければならなかったし、中国などは今まさにこの困難に直面しているところである。
 著者は、「国民国家(ネイションステイト)のシステムは、いまだ発展途上の段階にある」(一六三頁)と言うが、この指摘は極めて重要だ。我々は、ネイションステイトの超克を目指すのでも、現にあるネイションステイトを唯一の完成形とみなすのでもなく、「国力」を引き出しつつ制御するというネイションステイトの運営の難しさを理解した上で、「よりよきネイションステイト」を目指して改善の努力を続けていかねばならないのである。


 不毛な「構造改革」からの転換を
 日本にはもともと、「日本的経営」や「産業政策」などを駆使した経済ナショナリズムによる成功の経験がある。また、各国の歴史や社会事情が経済発展に果たす重要な役割を論じてきた、独特の開発経済学の伝統もある。にもかかわらず平成の日本は、経済の「グローバリゼーション」という変化の表層を真に受けて、国力の基盤を台無しにするような「構造改革」を次々に実行してきたのだった。改革すべきとされた官民協調の体制や、共同体的な経営手法・取引慣行には非効率な側面もあったかも知れないが、それは日本における「市民社会」の具体的なありように他ならず、経済システムはそこに埋め込まれて初めて機能するのだし、その「市民社会」こそは全体主義への防波堤であったはずだ。
 この構造改革の誤りを改めて、収縮しつつあるネイションのエネルギーつまり「国力」を再活性化するために、我々は何をしなければならないのか。著者は本書の後半で、「財政金融政策」、「産業政策」、「エネルギー・環境政策」、「保護貿易自由貿易(の使い分け)」、「社会福祉政策」、「企業の買収防衛政策」など具体的な政策を挙げて、それらがネイションの連帯を強化し、ネイションの連帯がまたそれらの政策に力を与えるという、国力増進のメカニズムを分かりやすく解説してくれている。
 また著者は、アメリカのブルッキングス研究所が取り組んでいる「ハミルトンプロジェクト」や、イギリスとスウェーデンが共同で作成した「ソーシャルブリッジ」というレポートを紹介し、欧米の経済政策に関する議論が、その最先端において明確に「経済ナショナリズム」を打ち出していることを指摘する。いずれも、ナショナルな価値を尊重し、弱者の排除や雇用の不安定化を防いで国民の連帯を強化し、投資における政府の役割を重視することでネイションの力を引き出して、グローバル化の中で生き残りを図るという戦略である。
 諸外国が「経済ナショナリズム」による国力増進を図る中で、ひとり日本だけが「改革」による自滅の道を歩むことになるのかも知れない。しかし著者は、日本には本当はたぐい稀な「国力」の可能性があるはずなのだと言う。著者は「真の国力とは、他国から資源や富を収奪してくる強制力ではなく、富、文化、制度、思想を生み出し続ける能力である」(一八九頁)と言っているが、この二つの「国力」の区別は極めて重要だ。
 一般に「国力」と言えば、軍事力や外交力、あるいは海外市場への支配力といった、「他国に対する強制力」(外へ向かう影響力)がイメージされる。そのような能力については、日本はアメリカや中国やロシアには敵わないし、強化していく必要があることも確かである。しかし著者が真の国力と呼ぶものは、「何かをするための力」(内なる潜在力)のことだ。言い換えれば、価値を「奪う」能力ではなく価値を「生み出す」能力のことである。この「真の国力」については、(国民的合意を必要とする)省エネの取り組みの先進性や、高度に発達した製造業の伝統に見られるように、我が国は優れた可能性を持っているのだ。成熟した「市民社会」の層を持たないアメリカやロシアや中国は、こうした「何かをするための能力」に劣っているからこそ、「他国に対する強制力」を志向せざるを得ないのである。


 必要なのは「構造強化」
 ちょうど本書が発売されて十日ほど後に、アメリカで大統領選挙が実施された。当選したオバマ議員は、選挙戦においても当選後の演説においても、「国民統合」の必要を繰り返し主張していた。ポピュリズムの傾きが強いことや、そもそもアメリカでナショナリスティックな「統合」が熱烈に叫ばれるのは歴史的に珍しくないということを割り引いたとしても、「市民社会」から遊離した情報技術と金融技術にリードされてきた現代の経済システムが自壊しつつあるこの局面で、社会保障や製造業の重要性を説いて、国民社会の統合による国力の増進という方向性を打ち出していたのは、非常に印象的であった。
 翻って日本社会にあるものはと言えば、国民統合とは正反対の、「悪者探し」の否定的な空気のみである。五年間にわたった小泉政権の高支持率は、敵を見つけては叩いて国民社会の分断を煽り、守るべきものを破壊して人気を集めるという危険極まりないポピュリズムによるものであった。小泉後に登場した三つの政権は、いずれもそれぞれのやり方で国民統合を志向しているようには見える。しかしメディアと世間に漂っているのは今もなお、「官僚が悪い」、「政治家が悪い」、「大企業が悪い」、「若者が悪い」、「左翼が悪い」……云々という「悪者探し」、「敵探し」のムードでしかない。
 著者の理論の核心は、経済社会を発展させる「活力」の源泉はネイションステイトであり、その「活力」に具体的な形を与える仕組みもネイションステイトに他ならないということである。人間社会の「活力」というものを正面から主題化して経済思想・経済政策論を組み立てるというこの試みは、極めて画期的であると私は思う。主流派の経済学も、平成日本の構造改革論も、「活力」そのものはどこからともなくやって来るものだと前提した上で、資源の効率的配分や規制の撤廃を論じていたにすぎない。要するに「邪魔さえ取り除いてやれば、活力は無限に噴き出てくるに違いない」というわけだが、本書を読み終えれば、それがいかに馬鹿げた前提であったかが理解できる。
 現代日本の「閉塞感」とやらを突破するのだと言って「敵探し」と「構造改革」に躍起になるというムードを生み出しているのは、この馬鹿げた前提なのではないだろうか。今我々に必要なのは、言わば「構造強化」の実践である。つまり、「活力」を生み出す社会の構造――その最も基本的な枠組みがネイションステイトである――を正しく認識すること、そしてその構造を強化する方法を考えて実行に移すことだ。本書は、その作業に着手しようとする者にとって、最良の(ひょっとすると現段階ではほぼ唯一の)手引書となるに違いない。