タクシー問題の構造について

 塾生の“タクシーブーム”に便乗して(笑),一つアップいたします.
 川端君も指摘しているように,やはり,「タクシーの問題」を考えることは,昨今の「構造改革イデオロギー」の誤謬を確認する上でも,そして,その誤謬をどの様に乗り越えていくべきかを考える上でも,示唆に富む問題であるように思います.
 まず,多くの(無論,全て,という訳ではないとは思いますが...)現代の経済学者は,「いかなる市場でも,理想的な“自由”を実現すれば,失敗は回避できる」と信じているように思いますが,このタクシー問題は,そうした経済学者の「思いこみ」が,単なる「妄信」あるいは「迷信」にしか過ぎない,という点を暗示するものの様に思われます.むしろ,適正なルール,すなわち,適正な“規制”がなければ,市場は“必ず”失敗する,ということすらが,この問題から示唆されます.
 そうした帰結は,理論的には,“共有地の悲劇”あるいは“社会的ジレンマ”という理論から,演繹することができます.つまり,地域の中でタクシーを使う人数は限られている“共有地”であるのに,“台数規制”が無ければ,結果として地域のタクシー台数が大幅に増加し,タクシー一台あたりの“あがり”,すなわち,収入が大幅に減少し,結局は最低賃金を下回ってしまう,という“悲劇”が生じてしまいます.これは,各タクシー会社が,利益を増進しようとすればするほど,そういう悲劇が生じてしまう,という問題です(こちらをご参照下さい).
 またこの帰結は,近代経済学の祖であるアダムスミスの主張からも演繹することができます.アダムスミスは,「道徳情操論」という著書を遺していますが,この著書の中で,道徳感情の重要性を論じています.この事より,こうした「道徳的ルール」,社会学社会心理学的に言うなら(インフォーマルな)“規範”があって初めて,市場に秩序が芽生えることがアダムスミスにおいて想定されていたことが分かります.つまり,一定の道徳規範が存在しなければ,「神」は,その「見えざる手」を市場にさしのべはしないのです(たとえば,少々極端な例ですが,「ぼったくりの自由」や「乗り逃げの自由」が認められているような市場では,タクシー市場が無茶苦茶となってしまうのは,致し方なきところでしょう.そんな市場に神がその御手をさしのべる筈はないですよね).詳しくは,こちら,あるいは,さらにはこちらをご参照下さい.
 さて,こうした問題は,“タクシー問題”において色濃く,分かり易く示されていますが,如何なる市場においても生じうる問題です.歴史に「たら・れば」は禁句ではありますが,もしも,産業界も,政府も,庶民も(そして,経済学の学者の皆さんも)共有地の悲劇の存在や,アダムスミスの理論をきちんと理解していたなら,「何でもかんでも規制緩和が正しい!」「何でもかんでも構造改革が正しい!」というような風潮になるはずもなく,昨今の「世界恐慌」が生ずることも無かったろうにと思わずにはおれません.