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放誕の人 橘逸勢考

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2012-02-03

私感 入唐中の橘逸勢

11:19

延暦23年(西暦804年)5月12日難波津(なにわづ)を出航した遣唐使船の4隻は瀬戸内海を西進して、まずは北九州博多をめざす。博多でいったん上陸して大宰府(だざいふ)におもむく。大宰府は西の大陸への外交の拠点であって、ここで1ヶ月くらいかけて語学とか唐の習慣等を教わったようだ。そして、ふたたび乗船して九州の西の島づたいに南下して、東シナ海に乗り出したのは7月6日であったという。扶桑略記によるとこの年の8月10日暴風雨で神泉苑左右閣などが倒れたとある。遣唐使一行の船団はこの台風に遭遇したのではないだろうか。最澄の乗船した第二船は、なんとか目的地に着いたが、遣唐大使藤原葛野麻呂や橘逸勢空海が乗船していた第一船は大きく南に1000キロも漂流して唐の地にたどりついた。

この経緯は「私感 橘逸勢入唐の謎」にも記している。しかし、そのときは《大胆な「私感」がある》、と記していただけになっている。《大胆な「私感」》は次回に記したい。

後年の歴史家や作家は、橘逸勢に対する評価は非常に低い。たとえば前にも出したこともある空海の伝記のなかで橘逸勢を物見遊山的感覚で入唐したように描写しているが(具体的に出版社の名前を入れたら差しさわりがあることがあるので、これからは入れない。)それは違う。二度も死ぬ思いまでして唐に渡っていくのは、気軽な物見遊山であるわけがない。

私のように橘逸勢を中心に物事を考えようと、そうでなかろうと、人間として冷静に考えてみれば自明の理でないだろうか。

しかし、入唐中の橘逸勢の行動については文徳天皇実録、嘉祥3年5月15日に「唐中文人呼為橘秀才」の九文字が記録として残っている。「唐の文人橘逸勢を秀才と呼んだ」と記しているのだ。

それだけでは私も想像のしようがない。

同じく入唐した空海は、帰朝して真言宗の一大宗派を立ち上げて弟子に語り、空海入定後に弟子がまとめた「御遺告」の中で入唐中の行動や成果が伝えられている。青竜寺の僧恵果(けいか)から真言密教の秘法を学びとり、「遍照金剛(へんじょうこんごう)」の法号が与えられたという。しかし、「ご遺告」のなかには唐の渡る遣唐使大使であった藤原葛野麻呂の名前はあるのだが、橘逸勢の名前はどこにもないのである(この謎への「私感」を述べるのは、ずっと後のことになる)。

ということは、今回では橘逸勢の入唐の真の目的や入唐中の行動の推理すらできない。ただ、2度にわたって、死ぬ思いをして唐に渡り、歴史の中に唐への留学生として名を残した男で、唐の文人から橘秀才と呼ばれた男が、儒学の修行とはうらはらの、社会学習−酒や美姫に学資を蕩尽した観のあるという評価をする歴史学者や作家には憤慨すら覚えるのである。

あまり感情的になってはいけないので、客観的事実を追ってみたい。

804年12月、唐の都長安に入った一行は翌805年2月10日、橘逸勢空海を残し、最澄と共に帰国の途につく。

しかし、この年の暮には高階真人遠成(たかしなのまひととおなり)が遣唐判官(ほうがん)として入唐している。この入唐の目的には諸説あり、唐の皇帝が亡くなり、新帝着任の慶賀のためという明確な目的を示す人もいるが、ほとんどが目的不明となっている。そのなかで、歴史人物事典の高階遠成を調べてみたら以下のように記述してあった。「延暦24(805)年、遣唐判官として入唐し、翌年10月、留学生橘逸勢と留学僧空海らを伴って帰国した。遠成の出立は2年前に派遣された遣唐大使藤原葛野麻呂らの帰国した直後で、しかも突然の派遣であり、おそらく中国に残った遣唐使たちを迎えるためであったと思われる。これは中国で学んだ密教の本義を早く日本に伝えたいと思っていた空海に特に幸いした。逸勢と空海から帰国を依頼されて皇帝に提出した遠成の上申書が《旧唐書》《新唐書》に収められている。なお、遠成は在唐中の元和1(806)年1月、中国官職「中太夫、試太子允」を賜っている。帰国復命の日に従五位上を授けられ、以後主計頭、民部少輔を歴任した。」とある。

では、遠成は具体的に誰を迎えに危ない目をしてまで唐に行ったのか。帰国したのが橘逸勢空海であって、この記述によれば「空海は幸いした」とあるが、逸勢は帰国したとしか読み取れない。では空海を帰国させるために派遣されたのかといえば、そうは考えられない。遣唐大使葛野麻呂が帰国する頃には、まだ、留学の成果は全然上がっていなかった。空海の才能を葛野麻呂が認めていたとしても、わざわざ国費を費やして迎えの船を出すように朝廷に申し出るとは考えられない。そのうえ空海は帰国しても大宰府に留め置かれている。一方、逸勢は遠成と共に京に帰っていった。そのとき、空海は「御請来目録」を遠成に託した。その上表文に「空海、欠期の罪、死して余りありと云々」と記されている。20年の約束で唐に国費まで使い、わずか2年で帰ってきたというのは死罪以上の罪深いことであると書いたのだ。罪深いのは、空海と同じく20年の約束で留学生として唐に渡った逸勢も同じこと。しかし、堂々と遠成と共に京に帰っている。欠期の罪は空海だけのことで逸勢には該当しないということと解釈できる。

結論を記す。高階遠成は橘逸勢を迎えるため唐に渡ったのだ。

次回は橘逸勢の真の目的を「私感」したい。

菊蔵菊蔵 2012/04/19 11:10 お久しぶりです。橘逸勢は書にしても、過小評価されているようです。特に大権威の春○○重さんが逸勢について評価していないので、右へならへの傾向もあります。
さて、橘逸勢が帰国に際し、請願書を提出しておりますが、そこには、唐語が話せないため天文地理を学べないとあり、音楽をマスターしたので国の為に云々とあります。
では何故「橘秀才」と呼ばれたのか疑問でした。
現在、やっとある程度までは解明できましたが、文献の裏付ができてないので、後日裏付け研究する予定でおります。

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