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2012-02-28

[]『ユービック』/フィリップ・K・ディック 23:13 『ユービック』/フィリップ・K・ディックを含むブックマーク

ユービック (ハヤカワ文庫 SF 314)

他の多くのディックの作品と同様、『ユービック』においても、世界のありようへの違和感、自分の周囲の世界がどんどん足元から崩れていくような、悪夢のような感覚が全体のムードを決定づけている。ただ、本作では、それに加えて、絶えず迫り来る死の匂い、不可避的な死の感触というやつがなんとも濃厚で、そこがこの作品独特の味わいになっているようにおもわれる。主人公たちが迷い込むことになる世界では、"時間の退行"とでも言うべき現象が発生しているのだけれど、この現象は、世界との不調和と死の近接、この双方の感覚を先鋭化し、強烈に印象づけるためのSF的アイデアとして機能していると言えるだろう。

作中、"時間の退行"現象は、2つのパターンで発現しているように見える。まず、ひとつめは、"世界全体の時間の退行"。主人公たちが存在している世界そのものの年代が退行していき、それに合わせて最新のテクノロジーがどんどん古いものに変化していってしまうーー例えば、テレビ受像機はダイヤル同調式AMラジオに、航空機はカーチス=ライトの複葉機にーーという現象。

で、もうひとつが、"主人公たちの身体の時間の退行"。これは世界全体の退行よりももっと急激に訪れるもののようで、主人公たちは「深い疲れを感じ」はじめると、もう間もなくその身体的能力が一気に退行していってしまい、超急激に老化・収縮してしまう(数時間の間に、「ほとんどミイラのように脱水されたもの」になってしまう)。こちらの現象は、主人公たちの身の回りにまでもある程度影響を及ぼしうるもののようで、手にしたタバコがぼろぼろとくずれてしまったり、コーヒーのクリームを開けると腐っていたり、などといった事態も引き起こす。どちらの現象も、いつの間にか時間が退行している…!?という感覚がなかなかに不気味だ。

この現象をどうにか解決するべく主人公たちは奮闘することになる訳だけれども、じつはここでは、現象発生のロジックというやつは、とくに重要ではない。もちろん、作中ではいちおうの回答が用意されているように見えるーー主犯は、半生者の少年、ジョリー・ミラー。それに、"過去に戻って選択し直すことができる"能力者であるパット・コンリーも、何かしらかの力を発揮していたようにおもわれるーーのだけれど、それはこの、"周囲の時間が勝手にどんどん退行していくし、おまけに、自分自身の時間までもいきなり退行してしまうかもしれない世界"の立ち上げにあたって必要とされた、差し当っての回答というやつに過ぎないのだとおもう(少年の力がどのくらいのものなのか、パットの能力がどの程度発揮されていたのか、なんかについては最後まで大して解説されないのだ)。あくまでも物語の主軸になっているのは、悪夢的な世界における自分自身と周囲の環境とのずれの感覚であり、不意に迫り来る死に対する恐怖心なのだ。

この迫り来る死、身体能力の急激な退行についての描写には、なんだか異様な迫力がある。クローゼットのなかでからからに干からび、ボロ布のようになった同僚の亡骸を見つけるシーン、あるいは、自らの死期を悟った人物が、トイレの個室にこもろうと必死で懇願するシーン。そして、物語のクライマックスともいえる、自らの衰弱を認識した主人公が、ひとりきりになることのできるホテルの部屋を目指すシーン。

心臓にズキンと激痛が走って、彼は体を二つに折った。もう一段上がろうとしたが、こんどは失敗した。足をつまずかせ、気がつくとそこにうずくまり、背を丸めて、ちょうどーーそうだ、と彼は思った。あのクローゼットの中のウェンディ。ちょうどこんなふうに背を丸めていたっけ。片手を伸ばして、彼は上着の袖口をつかんだ。そしてひっぱった。

布地がちぎれた。乾ききって脆くなった繊維は安物の仙花紙のように破れた。なんの強度もない……まるでスズメバチがこしらえたなにかのようだった。これで、もう疑いはなくなった。まもなく彼はある足跡を自分のうしろへ残していくことになるだろう。ぼろぼろになった布の切れはしを。ごみ屑の航跡がつらなる先は、ホテルの部屋、あこがれの孤独。向性に支配された最後の労苦の行動。ある指南力が、死に向かって、衰退と非存在に向かって、彼をうながしている。不吉な魔力が彼をつき動かしているーーその終点は墓場。

彼はもう一段登った。(p.279,280)

"ある指南力"、"不吉な魔力"と書かれているのは、死が訪れるその瞬間をひとりで孤独に受け止めたい、というほとんど本能的とも呼べるような欲求であるらしい。正直言って、俺にはこの感覚がいまだにぴんときていないのだけど、長々と描かれるこのシーンの持つ迫力は、些細な疑問など軽く吹き飛ばしてしまうようでもある。

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2012-01-28

[]『高い城の男』/フィリップ・K・ディック 15:31 『高い城の男』/フィリップ・K・ディックを含むブックマーク

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

フィリップ・K・ディック1962年作。彼の作品のなかではわりかし有名な方だとおもわれる一冊だけど、俺は今回はじめて読んだ。物語の舞台は1962年アメリカ。ただし、第2次世界大戦枢軸国側の勝利に終わり、日独によって分割統治されているアメリカ、である。そこでは、もし連合国側が戦争に勝っていたら?という設定の小説(「イナゴ身重く横たわる」)が密かなブームを巻き起こしていたのだが…!

本作は群像劇のような体裁をとっており、アメリカ人、日本人、ドイツ人のさまざまな立場の人物たちが代わる代わる登場する。人種も身分もばらばらな彼らが、この世界に対する己の所見を語ることで、枢軸国側の勝利の結果、世の中がどのように変化したのかが少しずつ明らかになってくる…という構成がおもしろい。敗戦国アメリカでは易占がやたらと流行っているみたいだし、日本人はすっかり失われてしまった戦前のアメリカ文化に強い憧憬を抱いているようだ。そしてドイツは、テレビの普及よりも早く火星植民地化しようと躍起になっているらしい。

なかでも、日本人に対して劣等感を覚えるアメリカ人、って描写が印象深い。日本-アメリカの関係は現実の裏返しになっているわけだけど、これはなかなか強烈だ。

ロバート・チルダンはぱっと顔が赤らむのを感じ、新しく注がれたばかりのグラスの上に背をかがめて、この家のあるじから顔を隠した。最初からなんというひどい失態を演じたもんだろう。大声で政治を論じるという、ばかなまねをやらかしてしまった。しかも、無礼にも異論を唱えたりして。招待者側がうまくとりなしてくれたおかげで、やっとこの場が救われたようなもんだ。わたしはまだ修行がたりない、とチルダンは思った。彼らはとても上品で礼儀正しい。それにひきかえ、わたしは――白い野蛮人だ。まちがいなく。(p.162,163)

事実に直面しろ。わたしはこの日本人たちと自分とがおなじ人間のように思いこもうとしている。だが、よく見るがいい――日本が戦争に勝ち、アメリカが負けたことに対する感謝の念をおれが口走ったときでさえ――それでもまだ共通の地盤はない。言葉の上の意味と、こうやってげんに対面した感じとは、はっきり別物だ。彼らは脳からしてちがう。魂だってちがう。よく見るがいい。(p.169)

まあ、こういうねちねちした心理描写が本作の読みどころだと言えるだろう。PKD作品ではおなじみの、真贋のモチーフなんかは全編通して繰り返し登場するものの、他の作品で見られるようなSF的なぴかぴかしたガジェットは出てこないし、自分自身やこの世界そのものの実在に対する不安だとか、表と裏とが何度もひっくり返されてくらくらときてしまうような酩酊感、といったものもあまり感じられない。そういう意味では、結構しぶめの、普通小説寄りな作品だとおもった。

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2011-12-27

[]『永遠の僕たち』 00:41 『永遠の僕たち』を含むブックマーク

f:id:hayamonogurai:20111227002951j:image:h170

渋谷シネマライズにて。若さゆえの繊細さと危うさ、それが否応なしに引き起こしてしまう痛みと、だからこその美しさ、ってやつを描かせたら、ガス・ヴァン・サントはまず間違いない監督のひとりだろうとおもうのだけど、今作もじつに静謐かつエモーショナルな作品に仕上がっており、とってもよかった。会場では、エンドロール終了後にちょっと拍手している人もいたくらい。映画館に行ったのは数ヶ月ぶりだったけど、いやー、ひさびさに見たのがこれでよかった、って素直におもえる作品だった。

主な登場人物は3人。両親を事故でなくし、生きることに投げやりになっている少年(ヘンリー・ホッパー)と、ガン闘病中で余命3ヶ月の少女(ミア・ワシコウスカ)、ヘンリーにだけ見える、日本兵の幽霊(加瀬亮)だ。作中で展開されていくのは、この設定から誰しもが想像するであろうストーリー−−思春期の男女が主人公の、難病もの、ってやつだ。カップルを見守る年長者がいるのも定番だよね−−なので、真新しさとかがあるわけではないものの、美しく透明感のある映像と音楽、主演のふたりの自然でキュートな演技によって、暖かく穏やかで、でもひりひりと切ない、いかにもガス・ヴァン・サント流のラブ・ストーリーに仕上がっている。

彼の他の作品にも共通することだけど、作品全体に通底するものとして、きわめて純度の高い静謐さ、というやつがあるところがいい。まあ静かでおしゃれなムード作りがうまい、っていじわるな言い方もできるだろうとはおもうのだけど、こういう、登場人物の心象の揺れ動きのみが肝である作品においては、やはりそここそが最重要、というか、そういう全体的な雰囲気と、それを盛りたてるためのディテールが作品の印象を決定する上で果たす役割というのは、本当に果てしなく大きいのだと感じさせられた。ヘンリーがミアを墓のなかの両親に紹介する展開のわくわく感や、夜の森のなかでふたりがかくれんぼするシーンでスフィアン・スティーブンスの歌声が流れ出す瞬間の美しさ、ミアが壁にかけられたダーウィンの肖像画に向かって、「ねえ、チャールズ」って話しかける場面の切なさといったら!

まあそういうわけで、言ってしまえば、きれい過ぎるくらいにきれいにまとめられた、おしゃれ感のある恋愛映画ってわけなのだけど、他者とコミュニケーションを取り結んでいくことに対する切実な気持ちが強い説得力を持っているところはやっぱりガス・ヴァン・サントらしくて−−『ミルク』(id:hayamonogurai:20090627)や『エレファント』(id:hayamonogurai:20090811)なんかは、ぜんぜん別ジャンルの映画だけれど、そういう部分では共通しているとおもう−−、やっぱりこの人の撮る作品は信頼できるし、何度だって見たくなるんだよな、とおもった。

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2011-12-25

[]「キリストのヨルカに召された少年」/フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー 13:32 「キリストのヨルカに召された少年」/フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーを含むブックマーク

12月になってからというもの、仕事がすっかりスーパーハードモードに入ってしまい、土日も含めてまじでほとんど仕事しかしていない生活である。まったく、なんかたのしいこととかないのかねー!とかおもいつつ、たまの気晴らしに電車のなかで青空文庫の短編を読んだりするのが、ちかごろの俺のつましいヨロコビ…というわけなのだけれど、気がついてみればもうクリスマス!ってことで、きょうはドストエフスキーの「キリストのヨルカに召された少年」についてちょっとだけ書くことにする。

ひとことで言うと、クリスマス・イブの晩に、ひもじさと寒さとで死んでしまう少年の話…って、もう、ロシアにはほんとにこういう話が多いのな!去年取り上げたチェーホフの「ワーニカ」(id:hayamonogurai:20101222)も、クリスマス・イブの夜が舞台の、虐げられた子供の物語だったし、きっとこういうの物語がひとつの定型としてあるのだろう。本作も、きっちりとひな型をなぞっている感じの一編で、ストーリーや語り口にとくに変わったところはない。ドストエフスキーの作品だからといって、主人公の少年が社会や神へのうらみつらみについていきなり長広舌をふるい出したり、癲癇の発作で震え出したり、なんてことは起こったりしない。ま、マッチ売りの少女みたいな感じの、ごくごくオーソドックスでちょっぴりかなしい掌編というわけだ(少年は、死の間際に、巨大なクリスマスツリーとそこで幸せそうに過ごす自分と母親、大勢の子供たちの姿を幻視する)。

そこで少年は、自分の指が、そんなにいたいほどかじかんでいるのに気がついて、おいおい泣きながら、さきへかけだした。すると、またそこにも、ガラスの向こうに部屋があって、やっぱりクリスマス・ツリーが立っている。プラムのはいったのや、赤いのや、黄いろいのや、いろんなお菓子が並んでいる。その前には、りっぱな奥さんが四人すわっていて、はいってくる人ごとに、お菓子をやっている。入口のドアは、たえまなしにあいて、おおぜいの人が往来からはいって行く。少年はこっそりそばへよって、いきなりドアをあけて、中へはいった。それを見つけたときの、おとなたちのさわぎようといったら。みんなが、わめいたり、手をふりまわしたりする中で、ひとりの奥さんが、いそいでそばへよってきて、少年の手のひらに一円銅貨をおしこむと、自分でおもてのドアをあけて、少年を追いだしてしまった。

少年は、びっくりぎょうてんした。そのはずみに、銅貨がすべり落ちて、入口の石段でちゃりんと嗚った。まっかになった指はまげることができず、銅貨をにぎっていられなかったからだ。

これは、クリスマスの明るさ、暖かさに惹かれておもわず民家に近づいていった少年が、無情にも追い返されるシーン。ずいぶんあっさりと書いてあるし、いわゆるお定まりのシーンとも言えるとおもうのだけれど、ラスト一段落のあっさり感なんかはやっぱり切ない。

そうそう、タイトルにもなっている、"ヨルカ"っていったい何なのよ?とおもって調べてみたところ、どうやらこれは、子供たちのために開かれる、クリスマス/お正月パーティみたいなものであるらしい。大きなツリーのある広間に子供たちと両親たちとが集まって、仮装したり歌を歌ったりコンサートを聴いたり劇を見たりプレゼントをもらったりする、そういうパーティ。そもそもヨルカ(новогодняя ёлка)というのは、ロシア語もみの木/クリスマスツリーのことを示す単語らしく、そこからこのパーティ自体も"ヨルカ"って呼ばれるようになったのだとか。あー、俺もとっとと仕事終わらせてヨルカ的な集いとかに行きたいね、まったくもう!

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2011-12-04

[]「憤死」/綿矢りさ 01:17 「憤死」/綿矢りさを含むブックマーク

ちょっとまえの『文藝』にて。綿矢の作品のタイトルはなかなか印象的なものがおおいのだけど、今回も、おーそうきたか…っておもわせるようなインパクトのあるタイトルだ。"憤死"するのは、物語の語り手である主人公(♀)の女ともだち、佳穂。彼女は、彼氏に別れを告げられた怒りにまかせ、やつあたり気味に自宅の3階からジャンプ、左足を骨折するのである(よくわからないけど、なんかすごい!)。主人公の"私"は、そんな佳穂に対して、なかなかにきびしい評価を下している。

私とこのような形での久々の対面に、若干戸惑っているのか、佳穂は炒めるまえのソーセージに似た色と太さの指で、落ち着きなくシーツをいじっている。小学生の頃と変わらない、短い爪と丸みのある指先。

佳穂はもう、昔のように妄信的に自分の美しさを信じていないようだ。年相応と呼ぶにはまだ未熟なものの、わずかな含羞を人並みに持ち合わせてしまったのか。身の程知らずで現実を見ないところが、長所だったのに。

小学校の頃の佳穂は非常に個性的で、私はそんな彼女が好きではなく、むしろ嫌いで、一緒にいるのは彼女から得られる利益のみが目的だった。

なんつーかもう、いいたい放題って感じだ。とはいえ、佳穂の方にしてみても、"私"を自分より下に見ているのはまちがいのないところで、ふたりはおたがいに牽制し合いながらコミュニケーションを成立させている、ってところがおもしろい。仲がいいとかわるいとかいう言い方ではしっくりこないような、ちょっとねじれた関係性だ。自意識過剰気味な"私"と無意識過剰な佳穂とのあいだに存在する、ぴりぴりする一歩手前の微妙な感覚、ひとことでは言い表せない空気みたいなものが作品の中核に置かれているわけで、その微妙さ、感覚のえもいわれなさを切り取ってみせることこそが、本作の狙いなのだろうとおもわれる。

本作は"私"の一人称で書かれてはいるけれど、作者の視線自体は"私"からも佳穂からも少し距離を取ったところにあり、それが作品の雰囲気をどこかクールなものにしている。いままでの綿矢の作品の多くについても、やはりそういう傾向があったとおもうのだけど、そういう、どこか自分を安全なところに置いたような、登場人物を冷静に客観視してますよ、っていうようなスタンスをかなぐり捨てた、もっと無防備で勢いのある作品も読んでみたいなーとはおもった。

文藝 2011年 08月号 [雑誌]

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2011-10-31

[]『ルル・オン・ザ・ブリッジ』/ポール・オースター 21:02 『ルル・オン・ザ・ブリッジ』/ポール・オースターを含むブックマーク

f:id:hayamonogurai:20111031205029j:image:h170

映画『ルル・オン・ザ・ブリッジ』の脚本をひさびさに読む。オースター作品のなかでもとりわけファンタジーめいた本作(なにしろ、夢オチなのだ)だけれど、扱われているテーマはヘヴィで、胸にずっしりとくる。個人的には、すごくすきな作品だ。サックス奏者のイジーは、ある晩、クラブでの演奏中に発砲事件に巻きこまれ、二度と演奏のできない身体になってしまう。生きる希望をなかば失った彼だが、ふとしたきっかけから暗闇のなかで青く光るふしぎな石を手にいれ、また、女優志望の若い女性、シリアと出会うことになる。青い石はふたりを結びつけ、ふたりはすぐに愛し合うようになるのだが…!

イジーの経験することは、結局のところ、ただの妄想、死の間際に見た夢でしかないようだ。現実には青い石なんてないし、シリアとイジーが恋することも、イジーがシリアを守ろうと自らの命を懸けることもない。しかし、じゃあその夢/妄想にはまったく意味がなかったのか、まるっきりのゼロだったのかと問われたとき、この物語を読んだ人ならば、決して否とはいえないだろう。つまり、夢、じっさいには起こらなかったことであっても、一度それを経験している以上、それはその本人にとってはまぎれもない真実になり得るのだ。

物語序盤に、こんな台詞のやりとりがある。

ドクター・フィッシャー「あなたは生きているんです。それだけは忘れないでください。生きていて、ここを退院するころには、体調だってある程度は回復します、それが一番大事なことなんです。次にやることが見つかるまではしばらく時間がかかるかもしれませんが、生きてるからこそやり直せるんです。それに、人生って、美しいものなんですよ、マウアーさん。」

イジー「いやあ、違うね。人生は人生さ。自分が美しくしたときだけ、人生は美しい。俺も人生を美しくした、と言いたいが、それはできん。俺がやった、たったひとつの美しいことは楽器を吹くことだった。それができないなら、死んだも同然さ。言ってることわかるかい?」(p.22,23)

このやりとりに基づいていうなら、「イジーは死をまえにして、幻想のなかでシリアと出会い、彼女を愛することで、人生をやり直し、己の人生を美しくすることに成功した」ということになるだろう。それがたとえ夢、あるいは妄想や幻想であったとしても、人がそのように信じる限り、その物語は意味を持ち、力を持つ。たとえ、ちょっと乱暴に触れればかんたんに壊れてしまうような脆いものであったとしても、それはその人にとっては何物にも代えがたい、「一番大事なこと」であり得る、ってわけだ。こういうモチーフは、『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』(id:hayamonogurai:20071214)でも主題として扱われていたけれど、俺はこういうのによわいんだよなー。すぐにぐっときてしまう。

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2011-10-27

[]『方法序説』/ルネ・デカルト(その5) 21:51 『方法序説』/ルネ・デカルト(その5)を含むブックマーク

形而上の問題(コギトと神の存在証明)について語ったあと、デカルトは自然界の諸問題へも手を伸ばしている。第一原理はもうばっちり確立できたのだから、そこから演繹的にさまざまな真理を導いていっちゃうよ俺、というわけだ。本書の後半では、当時、彼が公表できずにいたという『世界論』なる壮大な論文の概要と、心臓の運動、人間/動物の違い、なんかについて簡単に触れていてるのだけれど、このあたりは、正直言って読んでいてあまり盛り上がらない。へえーなるほどね、って得心できる論理的な道筋があまり多くないからだ。ただ、デカルトの提唱する自然学は、当時のスコラ学者たちが信奉していたアリストテレス自然学と底触してしまう部分が多かったらしく、1933年――本書が出版される4年前――にガリレイが断罪されたことなんかも相まって、ここではずいぶんとオブラートに包んだ書き方がなされている。そういう意味でちょっとおもしろいところは、いくつかある。

たとえば、こんなところ。

わたしの判断をいっそう自由に言え、しかもその際、学者のあいだで受け入れられている見解に賛成したり反対したりしないですむよう、わたしはこの現世界はそっくり学者たちの論議にゆだねてしまい、ただ次のような新しい世界で起こるはずのことだけを語ろうと決心した。仮に神が今、想像空間のどこかに新しい世界を構成するのに十分な物質を創造したとし、その物質のさまざまな部分をさまざまに無秩序に揺り動かして、詩人が想像しうるほどの混沌たるカオスをつくりだしたとする。その後はただ、通常の協力だけを自然に与え、神自身が定めた法則に従って自然が動くにまかせた場合の、この新しい世界である。(p.59)

次にわたしは、自然の諸法則が何かを示した。そして、神の無限の完全性という原理のみに論拠を置き、少しでも疑いをはさむ余地のある法則はすべてこれを証明しようと努め、それらの法則は、神が多数の世界を創造したとしても、それが守られないような世界は一つとしてありえないような法則であることを示そうと努めた。(p.60)

しかしわたしは、これらすべてのことから、われわれの住むこの世界が、わたしの提示したような具合に創造されたと推論するつもりはなかった。というのも、神が最初からこの世界をそれがあるべき姿にしたというほうが、はるかに真実らしいからだ。けれども、神がいまこの世界を維持している働きは、神が世界を創造したときの働きとまったく同じだということは確実であり、それは神学者のあいだでも共通に受け入れられている意見である。(P.62)

うーん、なかなかにややこしい。こことは別の、仮定の世界のことをデカルトは語っているのだけれど、その世界における自然の諸法則とは、"いま存在しているこの世界の創造を説明するための仮説"として用いたとしてもじゅうぶんに機能し得るもの、だと言うのだ。

もちろん、この世界は神が創ったものであり、デカルトとしてもその点についてはじゅうぶん同意しているのだけれど、彼の提唱する宇宙生成論には、よくよくかんがえてみれば聖書の記述と相容れないような部分がいくつも含まれている。これでは発表するのに都合がよろしくないよね、ってことで、「これは現実の世界のことではありませんよ…」というエクスキューズを入れた上で、この論についていはあくまでもひとつの仮説、ひとつの寓話として記載するに留めることにした、ということらしい。このあたり、事情はわかるけれど、方法的懐疑や第一原理の証明について語っていたときのデカルトと比べてしまうと、なんとも切れ味がなくて、まどろっこしいなーという感じがしてしまう。

方法序説 (岩波文庫)

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2011-10-22

[]『方法序説』/ルネ・デカルト(その4) 00:27 『方法序説』/ルネ・デカルト(その4)を含むブックマーク

ようやく本書のメインパート、デカルト形而上学の基礎をなす、神の存在と人間の魂の存在を証明するための論拠にまでたどり着いた。先に述べられていたように、この論拠、この基礎こそがすべての学問の土台となるべきものなのだから、こいつはなんとしても確実で疑い得ないもの、絶対の真実でなくてはならない。デカルトは、いったいどのようにして証明を行ったのか?

生き方については、ひどく不確かだとわかっている意見でも、疑う余地のない場合とまったく同じように、時にはそれに従う必要があると、わたしはずっと以前から認めていた。/だが当時わたしは、ただ真理の探究にのみ携わりたいと望んでいたので、これと正反対のことをしなければならないと考えた。ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかを見きわめねばならない、と考えた。(p.45)

とにかくまずはありとあらゆる事象に対して疑いの目を向ける、というのがデカルトのやり方だったらしい。疑って疑って疑いつくして、すこしでも疑いのかかるものはすべからく廃棄していって、それでもなお疑い得ないものが残っていたとき、それこそが堅固でゆるぎない真実であろう、というわけだ。これがまあ、いわゆる方法的懐疑というやつである。疑いをかける対象として、ここでは大きく3つの事柄が取り上げられている。日常的な感覚知覚、幾何学、夢、がそれだ。

感覚や知覚はいつだって人を欺く(人が感知するものと、外界に実在するものとは必ずしも一致しない)ものだし、揺るぐことなどないようにおもえる幾何学証明にしたって、理由づけや判断を誤って認識してしまうケースがあり得る。また、人は夢のなかでも(目覚めているときと同じように)思考することができるが、しかしそのかんがえは実在と一致しているとは限らない。となると、我々がいま生きているとおもっているこの生がひとつの夢だったと仮定した場合、我々がいまこうして感じている感覚や思考や推論の内容など、とにかくあらゆる表象はすべて"疑い得る"ものだということになってしまうだろう…。

…そんな感じに"疑い得る"ものをつぎつぎと消していった末に、どうしても"疑い得ない"ものとしてたったひとつ残されるのが、「コギト・エルゴ・スム(わたしは考える、ゆえにわたしは存在する)」だということになる。「いま私が感じたりおもったりしていることはすべて偽なのではないか?」とかんがえているその瞬間には、そのようにかんがえる自分自身、懐疑し、説得している主体が存在しているじゃないか、というわけだ。

どんな身体も無く、どんな世界も、自分のいるどんな場所も無いとは仮想できるが、だからといって、自分は存在しないとは仮定できない。反対に、自分が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から、きわめて明証的にきわめて確実に、わたしが存在することが帰結する。逆に、ただわたしがかんがえることをやめるだけで、仮にかつて想像したすべての他のものが真であったとしても、わたしが存在したと信じるいかなる理由も無くなる。(p.46,47)

「自分が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から、」「わたしが存在することが帰結する。」つまり、懐疑という手続き(あらゆる表象はすべて"疑い得る"、"不確実な"ものである、とかんがえること)を遂行した結果として、その懐疑主体が確認できる、ということだ。この懐疑の手続きによって、懐疑する主体は自分自身の身体や感覚から切り離されることになる。

わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と。したがって、このわたし、すなわち、わたしをいま存在するものにしている魂は、身体〔物体〕からまったく区別され、しかも身体〔物体〕より認識しやすく、たとえ身体〔物体〕が無かったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはない、と。(p.47)

たとえ、物質(=肉体)が存在しなかったとしても、懐疑する主体(=精神)は存在する。精神のほうが肉体よりも明証的であり、確実に存在するものだ、ということだ。精神は肉体とか感覚とかいうものとは別に存在している、というのがデカルトの主張なわけで、これがいわゆる心身二元論というやつに繋がっていくわけだ。

こうして、デカルトはコギトを哲学の第一原理として打ち立てているのだけれど、本書におけるこの証明の展開は、正直ちょっと駆け足気味なんじゃないかって気もする。もうすこしゆっくり話を進めてくれないと、納得しながら読み進められないよ、っていうか。そもそも、コギトの真性を保証するためには、"考えるためには、考える主体が存在する必要がある(つまり、行為には行為するための主体が必要である)"という大前提が必要なんじゃないか…?とか、俺なんかはおもったりもしてしまう。ただ、デカルトは、この命題は普遍命題から演繹的に導き出されたものではなく、それに先立つ原理としての命題なのだとも述べている。コギトとは、ありとあらゆるものを疑い、偽とした方法的懐疑の末に残ったものであるのだから、当然、"考えるためには、考えるための主体が存在する必要がある"という」ような論理法則に結びついた知識よりも確実なものだ、ということになるわけだ(たぶん…)。

 *

次いで、デカルトは神の存在証明を行っている。その方法とは、「不完全な自分が、完全な存在たる神という概念をどうして認識しているのか?」というものだ。完全性の高いもの(神)が、完全性の低いもの(わたし)に由来するものだというのは矛盾じゃないか、というわけである。

もしわたしが唯一のもので、他のすべてから独立だとして、したがって、わたしが、完全な存在者から分け与えられて持っているこのわずかばかりのものすべてを、自分自身から得ているとすると、同じ理由で、わたしが自分に欠けていると認識する残りの完全性を、すべて自分から得ることができ、わたし自身、無限で、永遠で、不変で、全知で、全能となり、ついには、神のうちにあると認めるあらゆる完全性を持つことができたはずだからである。なぜなら、わたしが今おこなった推論に従えば、わたしの本性に可能なかぎりで神の本性を認識するためには、わたしのなかに何らかの観念が見いだされるすべてのものについて、それを所有することに完全性があるかないかだけを考察すればよかったからであるし、何らかの不完全性を示すものは神のうちには一つもなく、そうでないものはすべて神のうちにあるとわたしは確信していたからである。(p.49,50)

"不完全なわたし"から"完全な神"の観念が生み出されるというのはおかしい(因果の原理に反している)、となると、"完全な神"という観念は、わたし自身ではなく、神自身に由来するものだということになる。つまり、「コギト・エルゴ・スム」という命題が真である以上は、完全者たる神もまた、存在することになる、というわけだ。

まあそういうことなので、ここでデカルトが述べている"神"というのは、とくにキリスト教における神、信仰の対象としての神、という風に限定されるものではない。聖書によってではなく、理性によってその存在が証明される、形而上学的な原理としての神なのだ。

で、この神の存在証明によって、われわれが認識することのできる知識の確実性がようやく担保されることになる。というのも、われわれは不完全な存在であるため、どんなにわれわれにとって明晰であるとおもわれる観念であっても、それが本当に真であるかどうかは"完全な神"の存在抜きでは保障できないのだ。超ざっくり言えば、「わたしはかんがえる、ゆえにわたしは存在する」→「不完全なわたしだが、神という観念を持っている」→「神という完全者が存在する」→「れれわれを創り、また真理を創ったのは神である。神は完全な存在であるので、われわれが理性を十全に利用した末に明晰判明に認識できる真実であれば、それが偽であることはあり得ない」…、という感じの流れになるだろうか。ともかく、この世界の合理性というやつは、完全者たる神の存在を証明することによって、ようやく保障されたわけだ。

方法序説 (岩波文庫)

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2011-10-17

[]『方法序説』/ルネ・デカルト(その3) 22:29 『方法序説』/ルネ・デカルト(その3)を含むブックマーク

さて、先にデカルトが定めた4つの原則のうちのひとつには、「わたしが明証的に真だと認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないこと」というものがあった。けれど、はっきり真であるとわからない限り何ものも受け入れられないとなると、とうてい社会的な生活を営んでいくことなどできはしない。とりあえず日常生活を大過なく過ごしていくための、道徳の規則がなくてはならないだろう、とデカルトはすばやくフォローを入れている。自分の思想、思考のもとになっている部品をひとつひとつ点検し、立て直していくあいだにも日々の生活がなくなるってわけではないので、暫定的なふだん用のモラルの基盤が必要だろう、というわけだ。

そんな暫定状態におけるデカルトの格率というのは、以下の通り。

第一の格率は、わたしの国の法律と慣習に従うことだった。その際、神の恵みを受けて子供のころから教えられた宗教をしっかりと変わらずに守りつづけ、他のすべてにおいては、わたしが共に生きなければならない人のうちで最も良識ある人びとが実際に広く承認している、極端からはもっとも遠い、いちばん穏健な意見に従って自分を導いていく。(p.34,35)

第二の格率は、自分の行動において、できるかぎり確固として果断であり、どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、きわめて確実な意見であるときに劣らず、一貫して従うことだった。この点でわたしは、どこかの森のなかで道に迷った旅人にならった。旅人は、あちらに行き、こちらに行きして、ぐるぐるさまよい歩いてはならないし、まして一カ所にとどまっていてもいけない。いつも同じ方向に向かってできるだけまっすぐ歩き、たとえ最初おそらくただ偶然にこの方向を選ぼうと決めたとしても、たいした理由もなしにその方向を変えてはならない。(p.36,37)

第三の格率は、運命よりもむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、つねに努めることだった。そして一般に、完全にわれわれの力の範囲内にあるものはわれわれの思想しかないと信じるように自分を習慣づけることだった。したがって、われわれの外にあるものについては、最善を尽くしたのち成功しないものはすべて、われわれにとっては絶対的に不可能ということになる。(p.37,28)

もちろん、これらはすべて暫定的な規則であるので、たとえば、「法律と慣習」、「良識ある人びとの意見」、はいずれ検討の俎上に載せられることになるわけだし、自分が従っていた意見よりももっと優れた意見であると理性が正確に判断できるものがあれば、たとえ道なかばであったとしても、べつの道を行くために方向転換することだってあり得るわけだ。デカルトの言う理想――人が自らの理性と判断力とをじゅうぶんに駆使し、ふるまうことができる状態――にその人が近づいていくにつれ、これらの規則は(常に少しずつ修正が加えられながら)絶対的な道徳規則に接近していくことになるのだろう。

学問的な研究の話の途中で日常生活におけるモラルみたいな話が出てくるのは唐突な感じもするけれど、デカルトの、論を進め実践していくうえでの慎重さ、周到さが表れているようでちょっとおもしろい。でも、第二とか第三の格率なんて、わかっちゃいるけど、完全に実行するのはものすごくむずかしいことだよなー。

方法序説 (岩波文庫)

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2011-10-13

[]『方法序説』/ルネ・デカルト(その2) 00:20 『方法序説』/ルネ・デカルト(その2)を含むブックマーク

もちろん、いったいなにが真実であるのか、真実と誤りとを見きわめるためにはどうすればいいのか、ということについては、古くからさまざまな哲学者たちによって議論が交わされてきていた。ただ、彼らの掲げる見解はなにしろ多様であるので、仮にそのうちのどれかに真実が含まれていたとしても、それを見つけだすのはかなりの難題だということになってしまう。さんざん悩んだ挙句、「他の人よりもこの人の意見の方を採るべきだと思われる人」をまちがいなく選別するなんてもう不可能だって!とかんがえるようになったデカルトは、やがて、自分で自分を導いていくことこそが真実に至る最短の道なのだろう、と悟るにまで至ったのだという。

そんな彼が、真実に近づき、真実を見定めるために編み出したのが、論理学、幾何学代数の3つのかんがえかたからいいとこどりをして作った、以下の規則だ。

第一は、わたしが明証的に真だと認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。言い換えれば、注意ぶかく速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、何もわたしの判断のなかに含めないこと。

第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。

第三は、わたしの思考を順序にしたがって導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識にまで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。

そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。(p.28,29)

明晰かつ判明な真実をひとつ見つけることができさえすれば、正しい順序を踏んで思考することで、その真実から次の真実をひき出すことができるはず…というわけだ。シンプルで、さらっと読めてしまえるこれらの規則だけれど、ていねいに順を追って思考しさえすれば、あらゆるものに対して理性を適用し、対象についての適切な理解を得ることができるだろう、とデカルトはかんがえていたわけで、このルールの持つ射程というのはものすごく広大なものだといえるだろう。ちなみに、この4つはそれぞれ、「明証」「分析」「総合」「枚挙」の規則なんていう風に呼ばれていたりする。

これら4つの規則は、あらゆる科学分野、あらゆることがらに対して適用することができるはずなのだけれど、さまざまな科学分野で用いられる知識の原理のおおもとは哲学にある。となれば、まずは哲学の原理において、これは真実だと言えるものを確立してやる必要があるだろうね、とデカルトは書いている。

しかし、それらの学問の原理はすべて哲学から借りるものであるはずなのに、私は哲学でまだ何も確実な原理を見いだしていないことに気がつき、何よりもまず、哲学において原理を打ち立てることに努めるべきだと考えた。そしてそれは、この世で何よりも重要なことであり、速断と偏見がもっとも恐れられるべきことであったから、当時二十三歳だったわたしは、もっと成熟した年齢に達するまでは、これをやりとげようと企ててはならないと考えた。わたしの精神から、その時より前に受け入れていた悪しき意見のすべてを根絶するとともに、たくさんの経験を積み重ねて、後にわたしの推論の材料となるようにし、また自分に命じた方法をたえず修練して、ますますそれを強固にし、あらかじめ十分な時間を準備のために費やしたうえでなければならない、と考えたのである。(p.32,33)

哲学の原理を打ち立てるためには、もっと成熟しなくちゃいけないよな俺、ってかんがえていたという23歳のデカルト。しぶい。

方法序説 (岩波文庫)

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