ギリギリ同日の自己ツッコミ

上記「佐藤=西尾という新しいラインが生まれつつあるのかもしれない」って、それこそ太田Jが捏造した「新青春エンタ」のことじゃないのか? 東浩紀はヤツにのせられているだけなんじゃないのか? 実はこういう批評こそが、中立の皮を被った最悪の宣伝なんじゃないか?

たまには批評家らしく・・・

いま話題の例のあの映画を吉祥寺に見に行くが、僕的にはさっぱり面白くなかったので、自宅に帰って西尾維新の新作『きみとぼくの壊れた世界』を読んだ。
実は僕は、この日記では、書評はやらないことにしてきた。日記サイトで気軽に書評を連発していたのでは、商売あがったりになる(ような気がする)からだ。それに、僕はそもそも、他人の作品を必要以上に褒めるのが好きではない。ときどき、「書評者は、読者に買う気を起こさせてはじめて一人前だ」とか説教を垂れるひとに出会うことがあるが、「そりゃ書評じゃなくてただの宣伝だろ」というのが僕の考えだ。批評は批評で独立したもので、創作の腰巾着になる必要はない。異論もあるかもしれないが、まあ、ともかく、僕はそういう考えのひとなのだ。
とはいえ、今日は原則を曲げてみよう。西尾のこの新作はお勧めである。夜月萌え〜とかTAGROキターとかばかり言っているとバカっぽいので、いちおう批評家らしきことを記しておくと、この作品で西尾は、意識的か無意識的か、佐藤友哉的な文体やテーマをかなり大規模に取り入れ始めているように思う。そして、それは、同じく佐藤友哉が、現在連載中の「鏡姉妹の飛ぶ教室」で西尾維新的なキャラクター造形や場面展開を取り入れていることと見事な対照を示している。同世代の作家が影響を受けあうのは決して珍しいことではないが、資質も好みも違う彼らのような作家が、相互の世界を融合させるような方向に歩みだしているのは、とても興味深い現象である。佐藤友哉滝本竜彦私小説と、西尾維新は清涼院やギャルゲーと較べられがちで、実際まだ読者層は離れているはずだが、もしかしたら、いまや。この二人は、将来、JDCトリビュートのようなものではなく、本当の意味での共作を書けるかもしれない、と少し思った。