2011-12-30
江ノ電1200形更新
久しぶりに完全な鉄道ネタです。
1983年の登場から20年近くが経過した江ノ電の1200形(1201F)が車体更新を受け,一部内装が変更されました。偶然これを見かけて変更点などメモしましたので,掲載します。
混雑していたため,写真は終点到着時にファインダーも覗かず適当に撮りました。夜間ということもあり,汚いですがご容赦ください。
一番目立つ変化は,ドア上への案内用LCDの設置でしょう。全ドア上に設置され,LCD装置はドア幅よりも広いものとなっています。1200形は500形よりもドア幅が狭いので,LCD装置自体の幅は500形のそれと同様,即ち500形と同等の装置であると推測でき,ディスプレイの大きさも,おそらく15型で変わりありません。
二面のディスプレイのうち,右側が次駅等案内用となっており,表示方法も500形と同様です(駅名まわりに金の縁取り)。左側は消灯していたのでわかりませんが,500形のものと同等と考えられますので,沿線案内等を放映できるのでしょう。
ドア周りでは他に,開閉時ドアチャイムの設置,ドア端への黄色テープの貼付,床の滑り止めの黄色塗装が従来と変化した点と思われます。
次に,優先席部分手すりへの黄色テープ貼付と,手すり増設が挙げられます。手すりは網棚と一体化していますので,網棚も取り替えたものと思われます。
客室内では,車いすスペース設置ももちろん行われ,その部分についても,床が黄色塗装されています(1251運転室後山側)。
運転席では,方向幕設定器として500形同様のものが新設され,従来の設定器はカバーされていました。「画像切替装置」は500形ではあまり目にしないものですが,要するにドア上の左側ディスプレイへの入力ということでしょうか。運転室側には,DVD挿入口があるのかもしれません。
また,大変見づらいですが,運転手用全面窓遮光幕がこれまた500形同等のものに変更されました。従来の遮光板は撤去されています。
車外設備には大きな変化ありませんが,連接面のこの装置は,おそらく転落防止幌の足場だと思います。準備工事というところでしょうか。
また,1200Fにだけ取り付けられていないと評判だった社銘板も取り付けられたようです。よかったね。
私が発見できた変更点は以上のみでした。探せばもう少し色々出てくるのかもしれませんが・・・
今回の更新は車体,特に内装が中心だったようで,走行機器その他機器類には変更が見られませんでした(重検,全検も通っていません)。クーラーもそのままのようですし,相変わらず釣り掛けモーターの音を高らかに唸らせています。連接台車には早速フラット発生。
それにつけても,車内にLCDを装備した釣り掛け車なんて相当珍しいのではないでしょうか,一時期1200をカルダン化して延命などという噂が流れたこともありましたが,当分その見込みはなさそうです。
さて,すでに1000形の高車齢車3編成が車体更新工事を受けていますが,今回のメニューとはどのように異なっているのでしょうか。
従前は,ドアチャイム設置,車いすスペース設置などが更新の主な内容でした。車いすスペース設置は法令(交通バリアフリー法など)で義務づけられているので,当然なされるべきものです。それに対し,今回はドア上LCD設置,手すり設置など,旅客案内の便に一段と資する,一歩踏み込んだ内容のものとなっているように思われます。大規模更新では,最新車両同等の車内設備にすべきとの判断が下されたのかもしれません。
また,今回着目されるのは,手すり設置,黄色テープ貼付など,他社のバリアフリー対策を導入している点です。近年,江ノ電も時代の流れに乗ってバリアフリー対策に動き始めていますので,その一環として捉えることが出来るでしょう。特にテープ貼付などは費用を要するものでもありませんから,これは他の車両にも施工されるのではないかと思われます。
2011-12-22
ふしぎなキリスト教
- 作者: 橋爪大三郎,大澤真幸
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2011/05/18
- メディア: 新書
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われわれの生きる近代社会は,西洋文明を起点としている。西洋文明の根底にはキリスト教思想が流れ,それは伏流水となってもなお絶えることがない。よって,近代社会を知るには,キリスト教を知る必要がある。以上のような発想の元に行われた対談である。
「初学者から上級者まで」学べることを目標とした対談であるようだが,対談者が大成した社会学者なのだから,前提知識なしの全くの初学者には難しいところも多々あるように思う。また,対談のためやむを得ないが,話題が拡散して個別論点への結論が示されず,論旨不明確な箇所がある。
内容面での特色としては,ユダヤ教の成立と発想を大きく(全体の1/3を割いて)取り上げていることが挙げられる。ユダヤ教のコンセプトを解説した初学者向け書籍はあまり見かけないので,ありがたい。キリスト教についても,個々の教義よりもキリスト教の大まかなコンセプトを伝えることに重点が置かれている。しかし,種々のレビューで指摘されているとおり,事実誤認が生じていることも確かであり(読んでいると違和感がチラチラと出てくる),これをそのまま鵜呑みにするのも危険であろう。(なお,キリスト教に宗教法がないとの筆者の指摘に反駁するレビューを多く見るが,ユダヤ教,イスラム教に比して世俗生活を規律する法を含まないとの意味で捉えれば,筆者の指摘は正当と考える。)
結局のところ,キリスト教が西洋文明において果たした役割を大雑把に理解するには一定程度有用な書籍といえる。かようなグランドデザインの大胆な描写は面白く,興奮を誘われるものではあるが,学問的には不適切な部分も多くなる。かといって,細部まで整合した学問的精密さは,初学者に大雑把な方向性を呈示することを難しくする。本書では,対談という性質もあり,そのバランスが前者に傾きすぎている嫌いがあるのだろう。「面白かった」という読後感がある一方で,もやもやと不可解な点が多く残っている。
2011-12-17
「冷温停止状態」という表現への批判に思うこと
福島第一原発で先日宣言された「冷温停止状態」というのを「欺瞞的なもの」とNewYork Timesが批判してるらしい。しかし,その批判は妥当だろうか。あの状態で普通の原発の「冷温停止」と同一のものだと考えるのは明らかに不合理なのだから,それで騙されるのは騙される方が悪いという気もしないでもない。
被疑者段階での実名報道は許されるのか,即ち被害者であると摘示したことによって名誉毀損が成立しないのか,表現の自由として保護されるのかという問題でも同じようなことが議論されている。こちらでは「被疑者段階では罪が確定しているものではないのは,法律上明らかである,よって実名報道されて名誉毀損等の損害が生じても,それは名誉毀損を行った情報の受取手に問題があって,発信者した側の問題ではない」という議論がなされていて,これが多数説であるように思う。
すると,原発の話でも,客観的に見て,通常状態の安全(冷温停止)と差異あるもの(冷温停止「状態」)を同一と考えてしまう情報の受取手が悪いのであって,発信する側に問題はないとの考えもなしうる。冷温停止状態の定義が冷温停止の定義と異なっている事は政府によって明らかにされ,かつ全体の状況が異なっていることも明白だから,同一であると誤認する可能性はないとの思考である。
もちろん私人の言論と政府の言論での差異は考慮しなければならない。政府には,合理的に考えれば差異あるものを,同一であると誤解してしまう者に対して,その誤解を生ぜしめないように言論する義務が認められるのかもしれない。
しかし,上記義務を度外視すれば,構造としては全く同一である。名誉毀損の議論においても,表現行為だから名誉毀損の違法性が阻却などといった難しい議論をしているのではなく,単純に名誉を毀損するものではないと言っていたと記憶している。
そのようなわけで,今般の発表を殊更に「欺瞞であって許されない」とする見解には疑問があるのである。
もっとも,これは名誉毀損に対する前述の多数説の理解に立てばの話であって,そもそも前述の理解が正当かは疑わしいのだが。
追記
「冷温停止状態」への批判は上記のように疑問もあるが,「事故が収束した」というのは批判を受けて当然の表現だと思う。少なくとも「収束」の語義とは異なる状態にあるためである。
では,政府が「事故収束状態」なる新語を用いて表現すればどうであったか。その語をきちんと定義した上で用いるならば,欺瞞だとの批判は出来ないだろう。「収束状態」と「収束」が異なることは明らかなのだから。
しかし,そんな語を用いて表現したならば,端的に「そのような表現を用いることに意味はなく,愚かな語法だ」として批判することは可能であろう。
2011-12-12
アド・バード
ブログ書くネタがないというわけではないのだが,どうも書いているうちに賞味期限切れのネタになってしまうものが多いので,ここは一つ,色々なところに書き散らした書評の再録でもしてお茶を濁しておこうと思う。
一つ目は,アド・バードである。
- 作者: 椎名誠
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1997/03/11
- メディア: 文庫
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シーナワールド全開のSF三部作第一弾。
二大資本の宣伝戦争が創り出した摩訶不思議な生き物たちと,それによって破壊された都市に暮らす人間たち。
「タイムマシン」における未来のような,恐ろしさを含んだ世界であるはずなのに,どこかユーモラスなのは,その生き物たちのネーミングセンスにもよるだろう。言語感覚がとにかく秀逸なのである。
ストーリーは一般的な冒険小説の体だが,あふれ出るアイディアを止められず,無闇に長くなっている感も。特に後半は無理矢理に収束させた印象があり,前半ほどの躍動感がないのが残念である。また,物語の目的である「父捜し」も,事前に結末が読めてしまうので意外性はない。
とはいっても,最後に主人公兄弟が「夕空晴れて秋風吹き」と歌う場面は,彼らの抱えている気持ちを思うと切なくなる。しかし,その切なさが直接表に出てくることはない。一抹の寂しさを感じさせつつも,あくまで,爽やかでヘンテコな冒険小説なのだ。
多神教と一神教―古代地中海世界の宗教ドラマ
- 作者: 本村凌二
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/09/21
- メディア: 新書
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古代地中海世界において人類が初めて「神」を見出したとき,それは種々の事物の中に見出された,多神教の神であった。しかし今日の世界では,人類の過半が,ユダヤ教,キリスト教,イスラム教という一神教の信者である。
これは何故だろうか?四千年という人類史の大半を占める古代史を解析することで,上記のような人々の心性の変化を明らかにすることが本書のテーマとなっている。古代の人々にとって宗教の持つ意味合いは大きく,宗教をめぐる人々の心性の変化を明らかにすることは,生き生きとした歴史を把握するのに必要なのだろう。
筆者は結局の所,文字,それも表音文字たるアルファベットの発明と,抑圧された環境が一神教の発達の要因であると結論する。そして,一神教の地中海世界全体への拡がりが,ポリスといった公共体の解体と個人としての信仰の出現にも関係すると主張する。
詳細は本書を読むしかないが,「多神教においては神々が人々に語りかけていたが,後にはそれが見られなくなった」との主張は難解である。また,「アルファベットの普及が論理性をもたらし,一神教への道筋をつけた」との記述と「論理ではなく個人の感覚的な神との出会いが一神教をもたらす」との記述がどの様に整合するのか,判然としない。
もっとも,その他の部分も歴史的事実を綿密に分析するというよりは,大胆な推論を繰り返す面が多く見られるから,大まかなグランドデザインを示すものとして読むものだろう。アクエンアテンの一神教とユダヤ人の出エジプトを関連づけるあたりなど,実に胸が躍った。
何故地中海世界のみに一神教が生まれたのか,紀元一世紀のローマ帝国に多数流入した振興一神教で何故キリスト教が生き残ったのか等疑問は尽きないが,ひとまず古代史を見渡すに楽しい一冊である。
なお,堺屋太一は「東大講義録 文明を解く」の中で,キリスト教など地中海の周縁部で生まれた宗教の帝国への流入を,人口自体の周縁部から帝国への流入に由来するものとしているが,これも大雑把ながら少し納得させられてしまう。
- 作者: 堺屋太一
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2003/04/11
- メディア: 単行本
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2011-10-29
北風のことば,太陽のことば
今回も文章について,広い意味でのことばの話です。
Twitterでフォローしているある人の文章を読んでいると,初期村上春樹的な心地よさを感じます。初期村上春樹的な心地よさというのは,甚だ漠とした言い方ですが,暖かい日だまりの中でまどろんでいるような心地よさということです。
僕もそういう優しくて暖かい文章が書けるようになりたいのですが,どうやらそういう言語感覚は与えられなかったみたいです。この7,8年間,村上春樹に愛着を持って読み続けているというのに。
北風と太陽での太陽みたいな説得力のある文章を書く人というのは一定数いて,それはすごい才能だと思います。法学部にいると,北風で見えない敵を丸裸にしようとする文章を書いていることが自然と多くなるので,ますますそう思います。
日常の細々した仕事で役立つのは,地底から吹き上がり身を裂くような北風のことばかもしれません。つよい北風は,旅人を身ぐるみ裸にするのみならず,彼を吹き飛ばすことができるでしょう。しかし,多くの人を真に納得させられるのは,少しもやがかって,おぼろげに照らす太陽のことばであるように思います。
もう少し敷衍しようと思いましたが,眠いのでここまでです。
Twitterだと,140字の制限の中で一つの主題を語らなければならないので自然と1postで1段落分の内容ができあがるのですが,Twitter再録部分に付け加えようとすると,できるだけ精確に表現したいと思うあまり,このことばもあのことばも付け加えなければならないと気が急いて,結局主題の定まらない文になってしまいます。ほら,この文だけ異様に長い。
結局,精確に表現したいと思うあまり,ということ自体が北風の発想なのでしょう。この機会に一度太陽のことばを使ってみようと思ったのに,結局北風のうなり声が太陽をおおい隠してしまいました。






