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2009-01-14

マックスヴェーバー二題

まだセンの書評が終わってないのに次の読み終わっちゃった・・・まあいいか。

職業としての学問 (岩波文庫)

職業としての学問 (岩波文庫)

職業としての政治 (岩波文庫)

職業としての政治 (岩波文庫)

ヴェーバーが1919年ドイツ敗戦の後革命への気運が高まる中で、ミュンヘンにて自由学生同盟の依頼によって行った二つの講演を書籍化したもの。職業問題について考えることを目的に、おそらく名前からして進歩的な学生団体によって依頼されたものである。邦訳のタイトルは「職業としての」だけど、ドイツ語だと双方とも"als Beruf"だ。プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)で、大塚は"Beruf"を「天職」と訳している。プロ倫には宗教的色彩が強いという違いもあるけど、「職業としての」を考えるときも、「職業=天職」というくらいの見方を持っていた方が、ヴェーバーのいうことが心に重みを持って響いてくる気がする。では具体的に見ていきます。

職業としての学問

毎度邪道なことではあるが、これも訳者のあとがきから読んだ方が理解が早いかもしれない(初見で読んだ時みたいな勘当は薄れるけれども)。そのあとがきでまとめていることをさらに短くまとめ直そう。

この本でヴェーバーが言わんとしていることは、以下の三つに集約される([]内はそれに対する自分のコメント)

  • お金を稼ぐための仕事としての観点から学問をみて、旧来のドイツと現在のドイツ、そしてアメリカとを比較する [ここは、当時のドイツの実態を知らないものとしては特に感慨もない]。
  • より純粋化された、職業、天職としての学問の視点から、教師や研究者がとるべき心構えについて。現代において学問はより専門化しているが、各人はその専門分野に専心すべきと説く [タコツボ型をヴェーバー先生が明確に推奨しているというのは意外。タコツボ批判はすぐれて現代的な現象なのかも]。次に、学問は常に進歩するとして、それは学問自らが時代後れになることを欲するからだと論じる [この視点面白い。たしかに、ある思想がつねに最先端にあることを欲していては進歩は生まれない]。
  • 第三に、学問の職分が問題とされ、学問を天職とするものの倫理が説かれる。まず、ザインとゾルレン、学問と政策を区別すべきだとして、教師は自らの価値や世界観を学生に強いたり、学生を政治的に導く指導者であってはないとする。そして、学問の実生活果たす役割を「明確さと責任差を与えることだ」と説き、学生たちにも「日々の仕事(ザッヘ)へ戻れ」と教訓して、講演を閉じる。

第三の議論を元に「だから日教組が」とか言い出す人がいそうだが、それはおかしい話で、まずここでの「学問」というのは主に高等教育を想定しただろう。小学校とか中学校については、どうやっても価値中立的なものとはなりえないわけだ。だから、日教組云々いうためにはまた別の理屈を用意しなきゃならない。

それにしても、こうやって学生たちがそわそわと革命の機運に巻き込まれていく中で、ヴェーバーはその危険をひしひしと身に感じていたんだろう。「時代の機運」に乗ることの危うさ、それを感得していたからこそ、ヴェーバーは何度も何度もしつこいくらいに同じ事を繰り返し(まあ繰り返しはいつものことではありますが)、聴衆に「脅かすような」印象を与えたのだ。しかし、結局ヴェーバーの努力は実を結ばず、民衆は時代のバスに我先にと駆け込んで、ドイツはナチズムの時代を迎えることとなる。

職業としての政治

多分「職業としての学問」よりも有名な、あるいはヴェーバーの中で一番有名な政治論。聞いたことあるようなフレーズがそこかしこに出てきて、「おぉ」と物知り気分に浸れる(馬鹿の戯れ言)。こちらも、あとがきから読むのがいいかも。内容的なまとめはあまりないが、当時の時代背景が描かれていて、時代背景を理解した後に本編を読むと感動もひとしおだと思う。

こちらも内容のまとめから。

  • 最初の10ページくらいで、彼の政治観の大略を論じている。もはや政治学の教科書をそのまま読んでいる気がするほど、まんまな内容。近代国家社会学的な定義は、結局は、国家を含めた全ての政治団体に固有な・特殊の手段、つまり物理的暴力の行使に着目して初めて可能になる。(p.9)国家とは、ある一定の領域の内部で正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である(p.9)政治とは、権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である(p.10)
  • 彼は、支配の正当性の根拠を、歴史性による支配(彼はこれを「『永遠の過去』が持っている権威」と表現している)、カリスマ的支配、合法性による支配の三つに分類し、第二の類型、カリスマによる支配に着目して、政治を天職として抱く指導者がどのようにうまれてきたのかを解明する。
  • 以下、近代国家の成立から現代に至るまで、各国における職業政治家の成立について、名望家から職業政治家への変容を軸に説明される。この部分は、当時の政治のシステムなどがよく理解できてないとわけがわからない。部分的に面白い箇所はあっても、体系的に理解できない。

 私見では、この小さな書を内容的に四つに分けることが可能だ。で、人口に膾炙している、「心情倫理責任倫理」、の有名な部分だけを読みたい人は、最後の「政治と倫理」的な箇所だけを読めば充分だろう。なぜなら、他の三部は、ヴェーバーの到達点とも言える歴史社会学の薀蓄を、「政治」に関して圧縮して注ぎ込んでいるだけだから。つまり、それ以前の本書の3/4は、政治と倫理の関係を知るための十分条件ではあっても、必要条件ではないのだ。

http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2006/09/1919_e6b6.html

まさにおっしゃるとおりである。

そうして、終結部に、有名な政治と倫理の関わりが出てくるのだ。倫理的に方向付けられた全ての行為を、目的の正しさを追求し結果を問題としない心情倫理*1と人は予見しうる結果の責任を負うべきだとする責任倫理に分割し、両者に深い対立関係があると見る。そして、政治の持つ悪魔の力、暴力性ゆえに政治は責任倫理の原理を追求すべき(追求せざるを得ない)と説くのだ*2

さて、これを読んだあと派遣村のことなどで、政治性をまとった運動を不純と考えることを批判したが、少し絡めて考えてみよう。正当な目的のための運動であったとしても、手段が政治的(=不純)とすれば運動全体を不純とする考え方は、正しい目的のためには道徳的に危険な手段を用いることを拒否するという心情倫理的な考え方と正面から重なり合う。結局のところ彼らは政治を心情倫理的に行うことを要求しているのであり、それを突き詰めていったところに実効性があり得るはずはない。かといって、派遣村の擁護側も「政治性をおびえていることに問題はない」とするのではなく、政治性そのものを見ないふりして主張しているのであり、これは批判側と同じ土俵に立っているのである。やはり、日本全体として心情倫理と責任倫理の対立というものがまず意識できてないのではないか。その対立の意識無しには、双方が相俟って「『政治への天職』をもちうる真の人間」を作り出すことはかなわない。


以上、二つ読んでみたが、翻訳の読みやすさと全体としての面白さで「職業としての学問」の方がお勧めなのかな。「職業としての政治」も、もちろん古典中の古典として読むべきリストには入ってるんだろうが、いかんせん中間部の歴史社会論が・・・挫折しそうになる。

どちらにしても、ヴェーバーの面白いところは、ものごとを安易に調停して解決しようというのではなく、対立する考え方のあいだに一旦超えられない溝をつくり、それを何とかして埋めていこう、人間として一つになっていこうとするところなのだと思う。

もし君たちがこれこれの立場をとるべく決心すれば、君たちはその特定の神にのみ仕え、他の神には侮辱を与えることになる。なぜなら、君たちが自己に忠実であるかぎり、君たちは意味上必然的にこれこれの究極の結果に到達するからである。(「職業としての学問」p.63)

こういう言葉は、まさに抜き差しならないものとして、非常な強さと重みと痛々しさを以て、我々に迫ってくる。対立して超えられない二つのものがある、それの持つ痛みを感じて、何とかしてそれらを調停するべく生きていくことが出来るならば、我々はよりよい社会に生きられるのかもしれない。


職業としての政治については、本に溺れたい: マックス・ヴェーバー『職業としての政治』(1919)(2)が非常に分かりやすいです。これを書くにあたっても参考にしたり、一部引用させてもらいました。

*1:p.89で用いられている「絶対倫理」とその後の心情倫理は同一内容であるように思われるのだが、これは違うものをさしているのだろうか。わかる方、コメント欄か何かで教えてください。

*2:基調としてはそうなってるんだが、責任倫理さえあればいいというのではなく、「両々相俟って『政治への天職』をもちうる真の人間を作り出すのである(p.103)」ともある。難しいが、心情倫理に基づいて形成された動機を基に、責任倫理的に行動しろという意味なのだろうか

renqingrenqing 2009/01/14 13:26 TBありがとうございます。

p.89の文は、

 ところが「結果」などおよそ問題にしないのが、この絶対倫理である。

とありますから、すぐ後に出てくる、心情倫理と同じものとみることが素直でしょう。

 では、なぜそういう紛らわしい言葉遣いをしたかといえば、一般的に「倫理的」といえば、心情倫理的に理解されることが普通で、政治(または政治家)に倫理など無縁だと受け止められていたからだと思います。ウェーバーによれば、宗教家とは別の次元で、政治家にも倫理と言うしかない側面があり、それを表現するため、二つの倫理的あり方を、ウェーバーは造語したのでしょう。この訳書でも、「心情倫理」と訳されていますが、「信条倫理」と訳す研究者たちもいて、私もどちらかというと、後者の訳語のほうが、事態を誤解なく理解するのにより適切なのではないか、と思っています。

 心情(信条)倫理と責任倫理との関連ですが、これは以下のように、私は解釈します。

 責任倫理とは、自分の、ある選択、ある行為に対する最終的結果に責任を負う、という態度である。それが可能であるためには、「If〜, then〜(もしあれこれのことをなせば、かれこれという結果になる)」ということが事前にわかっていなければならない。しかし、人間の知的合理性には限界があり、その予想がぎりぎり可能な限りの考慮に基づいていたとしても、結果的にうまくいかない場合がある。その意外の帰結(時には大惨事になる場合もある)に対して、「私の責任だ」と言い切るためには、なんのための政治的選択だったのか、というそもそもの動機、信条への確信がなければ、負の結果責任に耐え切れない。ここにおいて、両者あいまって、政治への天職をもちうる。

hazymnhazymn 2009/01/14 21:04 ありがとうございます。

心情倫理こそが絶対的な倫理であるという、一般的な倫理観が前提としてあるというわけですね。すっきりしました。

心情倫理と責任倫理との関連は、自分のちょっとした経験に照らしてみるとよくわかるようになります。外見的な行動の基準としては、ヴェーバーいうところの責任倫理のような考えを持っていても、そうやって責任倫理的な行動をとるという信念を支えているのは、信条への確信だということはよくあることです。信条への確信なくしては、正当な責任倫理的行動は強度を持ち得ない、逆に言えば責任倫理的行動の強度を保証するための心情倫理ではないか、という理解を自分はしています。

renqingrenqing 2009/01/15 00:37 蛇足。

 自動車の構造にたとえれば、信条(心情)倫理は、ガソリンです。これなくば、1mmも動きません。しかし、自動車ってのは、ただ走れば、動けばいいっていうもんじゃない。目的地に着かなきゃならない。そのためにはハンドルが要る。これが、責任倫理です。しかし、理性的合理的に完璧なハンドルを備えても、動けなきゃどうしようもない。両者あいまって、辛くも、目的地にたどり着ける、ということになります。

 David Hume 流に言い換えれば、情念と理性ですか。「理性は情念の奴隷である。しかし、それでよいのだ。」と Hume は『人性論』で述べているらしい。理性は情念という発条(バネ)によってのみ駆動するわけですね。このバランスがミソということでしょう。

hazymnhazymn 2009/01/16 00:39 わかりやすい説明、ありがとうございます。こういう端的かつわかりやすい説明が出来るようになりたい・・・

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