平家琵琶の豆知識

1910年に出版された『平家音楽史』(館山漸之進著)の記述について、
平家琵琶の相伝者の立場から、やや専門的に解説していきます。
平家琵琶に関する基礎知識は 平家詞曲研究室をご参照ください。

2008-05-30 譜本「平曲吟譜新集」のこと

平家琵琶の譜本(晴眼者用)には大きく2種類ある。ひとつが1737年の「平家吟譜」、ひとつが1776年の「平家正節(まぶし)」である。「平家吟譜」は平家物語と同じ順番に編纂されているが、現在規範譜「平家正節」は、教習順に編纂されている。

平家吟譜」は、このほど見つかった宮崎文庫記念館蔵「平家物語」を完成直前本と考えると、「延喜聖代」「宗論」「劔之巻」「鏡之巻」をそもそも掲載していない可能性がある。また「有王島下」と「僧都死去」、「東国下向」と「富士川」がそれぞれ1句にまとめられているので、193句ある。

平家正節」は199句。これに八坂流「訪月」を加え、全200句とする。

さて、1860年より平家琵琶を学び始めた弘前藩士津軽平八郎(楠美太素の妹婿。早い時期に藩主津軽氏から分家か)は、灌頂巻を修得した幕末より「平家物語順に再編纂した平家正節」の写本を始め、途中、幕末明治維新の動乱で何度も中断しつつ、明治17年(1884年)になって、ようやくこの写本「平曲吟譜新集」を完成させている。

「宗論」「劔之巻」「鏡之巻」は存在せず、また「祇園精舎」「延喜聖代」は詞(ことば)のみで譜は無い。八坂流「訪月」も別伝なので、「平曲吟譜新集」は196句である。

平家物語の順番なので、12巻組。二つ折りの半紙に7行ずつ14行の詞(ことば)が書かれ、これにフリガナと譜と、琵琶の手を示す朱点や「連平家」のための印などが加筆されている。1句あたりの枚数は平均して半紙5〜6枚なので、1000〜1200枚だろうか。

現在は個人蔵であるが、極めて丁寧に保存され、目立った虫害にも遭っていない。

この「平家吟譜新集」の跋文は楠美晩翠が書いており、さまざまな思いがこめられている。『平家音楽史』p.515で確認することができる。

以下に示すのは原本を翻刻したものだが、読みにくいので適宜句読点を加えた。

【平曲吟譜新集跋】

平八郎君、一日平曲吟譜新集ヲ携来リ、余ニ跋文ヲ嘱ス。即チ繰テ之ヲ閲ス。巻首ニ祇園精舎之句ヲ録シ、巻尾ニ御往生ヲ記シ、全部十二巻トス。「間之物」及ヒ「換節」「五句揃」「炎上物」「源氏揃」等、亦年代順次ニ記載ス。其製頗古平曲吟譜ニ○フ(倣う)。加之肝文之句、亦順次ニ録ス。

間之物 ………… 灌頂巻を修めた後に習う挿入句。

換節 ………… 灌頂巻を修めた後に習う、変化をつけて語って良い節(曲節)。

五句揃・炎上物・源氏揃(揃物のこと)………… 灌頂巻よりも前に習う「伝授物」。

肝文之句 ………… ここでは「読物」の意味か。読物は、灌頂巻直前に習う祝詞や手紙文13句で、その旋律理論は他の187句とは全く異なるため、難易度が高い。

これらの句は、天皇家日本史宗教に関わる内容が多いので、晴眼者はもちろん、盲人でも一定の位を得なければ習うことが許されない。しかし、平家物語を通して鑑賞するには、重要事項が欠落してしまうことになる。

而シテ、大小秘事ノ句ニ、曲節ヲ省クモノハ、平曲者ノ秘事ニ係ルヲ以テナリ。

これは相伝ガード・プロテクトと呼ぶべきしかけである。小秘事2句は詞(ことば)のみで譜は無く、大秘事3句は詞(ことば)すら存在しない。後述するが、津軽平八郎はすでに大・小秘事を修得している。秘事の重さをよく心得、平曲を志す者が灌頂巻の伝授を受ける前に秘事を学ぶことのないように、あるいは免状の無い者が(現代の感覚で言えば、五線譜CD等を参考に)語ることのないように、慎重な配慮をしたのである。

君之此ヲ修録スル意ヲ忖度スルヤ、安永中、荻野検校改正平家正節本ハ、故サラニ、句々ノ位置ヲ顛倒シテ、事跡順次ナラス。故ニ一句ヲ吟シテ、容易ク前後段落ヲ知ル能ハス。君曽テ之ヲ厭ヒ、因テ此ノ挙アル所以ナリ。

平家正節」は教習順に編纂されているため、少し習っただけでは内容の前後関係がわからない。平家物語の流れを確認しつつ平曲を語るための譜本が必要だと、津軽平八郎は考えたのである。

抑、君ハ我旧藩主津軽家ノ支族ニシテ名門タリ。夙ニ文武ヲ好ミ、能ク下僚ヲ鼓舞ス。就中、馬術弓芸ニ達シ、亦書ヲ善クス。万延元年庚申、折笠儀正ニ就キ、平曲ヲ学ヒ、後チ余カ先人太素ニ学フ。遂ニ灌頂之秘ヲ伝フ。自ラ平家正節全部ヲ騰録ス。尚新集ヲ修録シ、業未タ半ナラス。文久中、国家之多事ニ遭ヒ、爾来人事怱忙、平曲亦将ニ地ニ落ントス。

津軽平八郎の出自。平曲は折笠儀正と楠美太素(晩翠の父)に師事。

明治十五年三月廿二日、太素病ヲ以テ歿ス。晩翠、廿年前ノ往事ニ感アリ。平曲ノ遂ニ湮滅センコトヲ恐レ、之カ再興ヲ謀ル。君及ヒ諸輩、大ニ之ヲ慫慂ス。其九月ヨリ、月々旧藩主香花院報恩寺ニ於テ、奉納会ヲ開キ、又月々日ヲ期シテ吟演スルコト六回。是ニ於テ、平曲大ニ旧時ニ復ス。君再ヒ曩ノ吟譜ヲ継録ス。客歳四月、晩翠ヨリ小秘事ヲ伝フ。今年又大秘事ヲ伝フ。茲ニ四月、吟譜修録大成ス。前後凡ソ二十有余年ナリ。古語ニ曰ク、有志者事遂ニ成也ト。君之謂ナリ。君ノ平曲ハ、概シテ平調ニ発シ。緩急長短能ク節度ニ適シ、後学ヲ教授スルコト、聊誤謬ナシ。余常ニ之ヲ嘉ス。併書シテ以テ跋文トス。

明治十七年四月   弘前 楠美晩翠誌

楠美太素死後、楠美晩翠は平曲を再興するため、弘前報恩寺に眠る旧藩主の前で毎月奉納演奏をし、そのほか毎月6回の演奏会を開き、旧弘前藩士を中心に平曲をひろめた。中でも平八郎の語りは緩急自在で、後継者への指導も適切であった。

跋文を見る限り、「平家吟譜新集」は20年近くの歳月をかけて清書されたのではないかと思われる。動乱期を含むためであろうか、まれに字の乱れも見られるが、全体には最初から最後まで勢いが変わらない。津軽平八郎が相当な精神力の持ち主であったことは確かである。

2007-09-24 平家琵琶の研究書を翻刻出版します

館山漸之進が明治43年に発行した『平家音楽史』の基礎資料『平曲古今譚』『平曲統伝記』『平曲温故集』の三部作を活字翻刻し、解題と要約などを加えて出版します。

タイトル平家琵琶にみる伝承と文化

     ―『平曲古今譚』『平曲統伝記』『平曲温故集』―

著者:楠美晩翠(母方の高祖父です)

編者:鈴木まどか・笠井百合子・鈴木元子

出版:大河書房

定価:5880円(5600円+税) A5版・上製函入・312頁・口絵4頁

ISBN:978-4-902417-16-6

刊行:2007年10月25日

幕末江戸において平曲を修得した楠美則徳・楠美太素・楠美晩翠は 、平曲修得に関する日記や書簡、琵琶の調査資料、平曲の伝書や系譜の資料を残しました。これを楠美晩翠が明治十六年に編纂したのが、本三部作です。参勤交代中の武士の日常など、文化史研究の資料としても価値があります。

ジュンク堂bk1紀伊国屋書店大学生協でご注文可能です。

2007-06-30 頼山陽のこと

[]頼山陽

頼山陽幕末京都において平曲の伝承に関わっています。

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平家音楽史』p.565前後に、京都において平曲を学んだ者の名前が列記されています。これは『平安人物志(文政13年版)』「平語」の項目を引用したものであり、国際日本文化研究センターのデータベースで確認することができます。

明治43(1910)年に上梓された『平家音楽史』の表紙には、頼山陽の「日本外史」の一文が琵琶の絵とともに金で装丁されています。しかしこの装丁昭和49(1974)年の復刻版には掲載されていません。館山漸之進の強い思い入れが復刻版に反映されず、その結果、初版本を知らない人々に頼山陽存在が知られていないことを残念に思います。

さて、館山漸之進は『平家音楽史』の中でたびたび頼山陽をとりあげています。ここで『平家音楽史』での扱いを見ていきましょう。(原文は長いので、要約のみです。)

【p.18】平家物語の作者については諸説あるが、そのひとつに、比叡山において慈鎮和尚藤原行長と盲人の生仏が作ったとする『徒然草』第二二六段がある。人物の特定ができないため有力説にはなりえないが、平曲特有の旋律を考えると、行長のような雅楽の名手と、生仏のような声明(しょうみょう)に詳しい人物が関わっていたことは確かであろう。

 漸之進は「頼山陽は、平家(平曲)を評して悲壮感憤の音と言へり」と述べ、戦敗者の悲壮なる境遇の描写は雅楽の名手行長でなければ創作できなかったであろうとしている。

【p.80】漸之進は、文学者たちが平家物語の作者を断定できないのは「平家と称する音楽の譜本たる題号に気付かざるに因りてなり」と考えている。そのなかで日本外史の「世傳平語倚琵琶演焉」について「平家物語は、音楽本たるを、文学者の認定せし証」と解釈し、山陽を高く評価している。

【p.260】明治維新後の京都には、藤村性禅という検校がいた。「音楽雑誌」に穉松なる人物が、平曲の絶滅が近いので京都において保存するべきであると綴っている。穉松は、かつて東京で聞いた原口検校の平曲は山陽の賛辞「其の音悲壮感憤、聴く者凄愴ならざるはなし」どおりだったが、藤村師の平曲には気迫がないと評している。漸之進は、山陽の一節を引用した人物の存在を喜んでいる。

【p.271】漸之進は文久三年に参勤交代で江戸に出向いたときに、原口検校の兄弟子にあたる福住検校の平曲を聴いている。その感想を「其の優暢清婉なる、実に美妙を極めたり」と記し、山陽の「悲壮感憤」と重ね合わせている。

【p.391】島津齊興侯が平曲を深く愛していたことを、漸之進は「其才学の凡ならざるを知るべし」とし、山陽の「悲壮感憤」と同じ感性であると述べている。島津齊彬もそれを感じ、それが後の明治維新の成功につながったと漸之進は考えている。

【p.566】『家庭の頼山陽』からは平曲に関わる十六件の記事を抜粋している。興味深いものが三項目ある。ひとつは、下京の質屋の主人である藤井雪堂から平曲を習ったこと。ひとつは、藤村検校の話によれば、山陽の平曲の相手をした牧善助は「間拍子の抜けたる琵琶の手には、善助いと迷惑し」ていたこと(琵琶を弾いたのは善助と思われるが)。もうひとつは、山陽の語る「宇治川」を聴いた児玉旗山が、情景が浮ぶようであったという漢詩を残したことである。

【p.573】山陽日本外史の初稿に着手した時にはすでに平曲の趣を知っていたのではないだろうか。尾張藩において「平家正節」を編さんした荻野検校が広島猿楽町出身であることが、山陽が平曲を学ぶきっかけかもしれない。山陽京都に出たのは荻野検校の没後だが、当時の京都には平曲の名手たる検校や平曲を学ぶ文化人が少なからずいた。山陽文化人たちとの交遊を通して、好い平曲を聴く機会に恵まれていた。藤村検校の談では山陽は間拍子の抜けた平家を語ったともとれるが、山陽の語りを聴いて漢詩を読んだ児玉旗山を思えば山陽平家は非凡であったと考えるべきである。

【p.591】大槻如電は平曲保存のために福住検校に平曲を学んだ人である。漸之進の求めに応じ、「頼山陽平家を演ずる実証を得る」ために依田学海に便宜を図ったという。

【p.618】深川照阿は美声だが、惜しいことに口伝が修得できていない。照阿の弟子の津村光華は浅野侯爵家扶である。荻野検校も山陽広島出身なので、何か感ずることがあって平曲を学んだのだろうか。照阿の弟子で、漸之進からも平家を学んだ竹中悍は、藤井雪堂のように富豪である。雪堂が日本外史の経費を給したように、竹中が平家音楽史に出資してくれないものかとぼやいている。

【p.724】明治四十年九月二十三日付けの「中央新聞」に、邦楽調査嘱託となった漸之進のコメントが載っている。明治以降は西洋音楽市井の俗曲が評価され、山陽が其音悲壮感憤聴者莫不凄愴と評価した平曲が省みられないのは遺憾だったので、邦楽調査に期待しているとの内容である。

漸之進は頼山陽のことを「平曲を正しく評価した文学者」と確信し、日本外史の一文を表紙に用いたのです。

なお本稿は「雲か山か」第74号 財団法人頼山陽記念文化財団 平成17年4月30日発行 ISSN 0910-6669 に寄稿した拙文「『平家音楽史』と山陽」の一項を加筆したものです。

2007-03-23 深川照阿のこと

[]深川照阿

平家音楽史』p.475〜に深川照阿について紹介されています。

第五 深川照阿

一 深川氏麻岡宗匠の直門人と自称す

  明治41年1月発行「歌舞音曲雑誌」に載せたる深川氏の談(以下、長いので要約のみ)

深川照阿は天保4年に幕府寺社奉行支配下にして御連歌の家に生まれ、14歳の折、偶然一ツ目弁天で「奉納平家」の貼札を見つけて傍聴した。

奥殿に弁財天の尊像を安置し、須弥檀に供物をそなえ、その前面の左右に琵琶を立ててあった。

上座に惣録検校が座し、宗匠麻岡検校、副宗匠福住検校が続き、勾当数名、都名(いちな)の盲人が、それぞれの身分の官服で席を占める。

下座に熨斗目麻上下(裃)の役員が控える。

役員が神前の琵琶を宗匠の前に置き、宗匠調弦。役員がその琵琶を弾奏者に授け、奏者は神前に座して恭しく掻き鳴らす。

(奉納会の後)照阿が若いので、役人がいぶかしく思ったのか感想をきいてくるので、「私は和歌の家に生まれた。平曲の文章がひとつひとつ脳裏に刻まれ、曲節が一層の妙を添えて興味深い」と答えると、麻岡検校から弟子入りしないかと懇ろに勧められ、門下生となった。

最初は青山(弥惣右衛門)の代稽古を受けたが、進歩が著しく師の検校(麻岡検校)も舌を巻き、秘曲まで皆伝し、二なき者と寵愛してますます技量を磨かせてくれた。

現在は、明治維新によって盲人の官職が無くなり、あらゆる音楽が衰微してしまっている。

麻岡検校門人の項目に含まれているものの、引用記事に対する題が「直門人と自称す」です。実は館山漸之進は、照阿の談話を冷ややかに評価をしているのです。

二 楠美太素の旧話

先人曾て話することあり青山弥惣衛門の門人に深川照阿と云ふ青年あり天性怜悧にして音声美麗正当に稽古すれば好い平家になると。

照阿は青山の弟子→麻岡検校の弟子とは聞いていない。

きちんと稽古すれば好い平家になる→声は良いが下手だった。というのです。

三 楠美太素の遺書深川氏と会合の分抄録

安政3年1月に青山宅で行われた語初会、安政4年6月に深川宅で行われた平曲会、安政6年6月に青山宅で行われた平曲会の句組。省略)

遺書とは生前に書いてあった記録(または手紙)の意味です。ここには青山弥惣衛門、深川照阿、楠美太素、それから高木という人物が集って演奏会をした記録があります。

照阿が語ったのは「平家正節」一之上〜二之下(全200句中、教習順で24句めまで)の句と、麻岡検校と二人で語った「康頼祝詞」のみ。「康頼祝詞」は本来178番目に習う「伝授物」ですが、50句を習得時に褒美として稽古が許されています。秘曲皆伝なら「伝授物」も修得済みで一人で語るはずなのに、麻岡検校と一緒に語っているので、漸之進は「照阿はせいぜい50句済」と推測しています。

四 漸之進深川に遇す(以下、長いので要約のみ)

漸之進は明治32年に上京した折、初めて深川に遭い、平家を聞く。音声優美で巧みなるも、正しく素語を学びて位語を熟せし平家にあらず。且つ琵琶を知らず、秘曲を知らず。

東京に平曲の大家がなく、照阿には後進を育ててほしいと思い、灌頂と八坂流訪月を授けるが、照阿は年老いて覚えられなかった。

八 深川氏に大秘事の秘書を貸す

東京の平曲家に、大秘事の曲本を所持する者なし。明治三十六年、漸之進第二の兄、佐野楽翁に書を寄せて、翁に貸さしめ、之れを謄写せしむ。

「位語(くらいがたり)」も琵琶も秘曲もできないので、麻岡が舌を巻いた技量とは思えないし、秘曲皆伝も疑わしいと思っています。

ただ、照阿のほかに平曲を伝える人材が無いので、譜本を確実に遺すために譜本を貸したのです。

灌頂巻と訪月の稽古はしたのに大秘事の稽古をしていないことを見逃してはいけません。平曲の相伝者は、人に教えるとき、その人物の器量を見て教えることになっています。大秘事の譜本を所持する器と、大秘事の稽古が許される器には、大きな違いがあります。

五 深川翁漸之進に和歌二首を示す

明治32年12月26日漸之進深川氏に八坂訪見伝授の時読みし詠歌

   館山大人のみもとへもののついでに

 としを経てかきみだしたるよつの緒を もとのしらべにひきかへさなん

其の後ち復た一首を贈る

 君ならで誰れかはつがんつぎ琵琶の いとほそりゆく音のしらべを

照阿が反省したのか、反省したフリをしたのかは不明ですが、四つの緒(琵琶)の伝承の乱れや衰退を憂いているのは確かだと思います。

六 村田直景平曲談(長いので要約のみ)

徒然草』では、慈鎮和尚は「五徳冠者」信濃前司行長を憐れんで養い、平家物語が成立したとある。

深川照阿翁が10年前から健忘症に罹られたのを憐れんで、照阿の慈善深きを知る者は「今慈鎮」と呼び、照阿が気品高く余念無く琵琶をかきならすのを知る者は「今行長」と呼んでいる。

漸之進は照阿を疑わしく思いつつ、加齢による可能性を示して、後世の人々に結論を委ねているのかもしれません。

歴史は繰り返す、と申します。照阿のような人物が一人ではないことを、漸之進は伝えたかったのかもしれません。

2006-11-20 麻岡検校のこと

[]麻岡検校長歳一

福地桜痴の話が宙ぶらりんのままですが、麻岡検校について紹介しておきます。

平家音楽史』第三十九章 山本検校門人

第一 江戸平家正節流の祖 兼業麻岡長歳一(江戸第六世の宗匠

一 検校次男麻岡眞三郎直話の一

  清水を改めて清川と為り清川を改めて麻岡と為る

(原文は省略)

明治三十八年八月、東京湯島霊雲寺にて荻野検校百年・麻岡検校五十年祭追善会を営んだ漸之進は、来会した麻岡検校の長女と次男眞三郎と面会しています。

明治三十九年十月十五日、館山漸之進は渋谷に住む眞三郎氏を訪ねます。「麻岡検校は眞三郎が13歳の時に亡くなり、兄の城義信も自分も平曲を学ぶことは無かったが、姉は幼年より父に侍して平家を学び、今も記憶している」とのこと。

「もとは清水姓だったのを、勾当出願の時に既に清水勾当があったので重複を避けるために清川を名乗り、検校出願のときに既に清川検校があったので、薩摩公(島津齊宣)より麻布魚らん坂下に居住していたことから麻岡と名乗るように言われ、麻岡検校になった」とのこと。

勾当や検校は、姓の重複を避ける慣わしとなっていることが確認できます。ただ、いろいろな文献を見ておりますと、何らかの条件を満たすときには重複することもあるようです。

二 検校次男麻岡眞三郎直話の二

  検校再び京都に行き、平家の皆伝を受く

(原文は省略)

麻岡検校は十三歳の時に疱瘡で失明、豊川検校に平家を学びますが、これは「平家吟譜」という規範譜でした。尾張と京では荻野検校編纂の「平家正節」になっていたため、麻岡検校は京に上り、山本検校より改正の平家平家正節)を学びます。一度江戸に帰り、薩摩公の思し召しにより費用を賜り、再び京都に上りましたが、山本検校死去後であったため、中村検校より皆伝を受け、これを江戸に広めました。

三 麻岡検校長女の直話

  長女平家読物腰越灌頂小原御幸を諳熟す

(前略)

老女漸之進に先づ語れと云ふ、乃ち小原御幸の口説より中音に至るの一端を語る。老女曰く甚だ悠長なりと、老女之れを諳熟して語る。而して又た読物の腰越を語る、亦た諳熟たり。声しわがれて調簡なるも、音譜正確にして曲調厳正なり。六十八の老体にして尚此の如し。漸之進驚嘆措かざるなり。

之れを学びたる年数を問ふ。老女曰く、父は毎宵復習し、一月にして全部を終はり、余に本を控へさせ、誤謬遺忘の所は本に照して記憶を新にし、余数年之れに当り、遂に全部を諳熟するに至ると。弥々驚き、愈々嘆ずるなり。

(後略)

漸之進の申し出により、別宅に住む麻岡長女(68歳)が招かれます。長女は幼い頃より平家を学び蘊奥を究め、鏡嶋検校に嫁ぎ、鏡嶋検校を平家宗匠にせしめたということを、漸之進は父太素や兄楽翁から聞いていました。

漸之進が一句所望すると、長女より先に語るように言われ、小原御幸の冒頭を語ります。長女は「甚だ悠長なり」と褒め、自らも小原御幸と腰越を諳んじて語ります。

長女は父(麻岡検校)が毎晩復習するとき、譜本を確認しながら同席し、覚えてしまったというのです。ひと月で200句を語ってしまう麻岡検校は、相当な気力と精力があり、しかも無駄な力を入れずに緩急自在に語ることが出来たものと思われます。最初に覚えた平家吟譜の癖が出ないよう、長女に平家正節の譜本を確認させていたことから、伝承に対して誠実であったこともわかります。長女もまた優秀だったのです。

その後、薩摩公が麻岡検校に下賜した「五月雨」の琵琶が津軽順承公に形見として渡り、さらに楠美家の所蔵となったことを伝え、先人たちに思いを馳せたとのことです。

麻岡検校は島津齊宣公や津軽順承公ら、盲人ではない弟子をたくさん育て、免許皆伝を授けています。長女には自らの目の代わりとして同席させ、秘事を諳んじるに至らしめています。

現代の今井検校は盲人男性として貴重な伝承者であり、国をあげて保護すべき対象と考えますが、国風会という団体における「検校」であり、当道制度における検校とは(平家琵琶の伝承においては)意味合いが異なります。

盲人ではない伝承者や女性の伝承者の存在を認めようとしない研究者もいますが、歴史的背景にもっと目を向けてほしいと思っています。