平家琵琶の豆知識

平家琵琶の相伝者の立場から、やや専門的な解説をするブログです

頼山陽

頼山陽は幕末の京都において平曲の伝承に関わっています。

『平家音楽史』p.565前後に、京都において平曲を学んだ者の名前が列記されています。これは『平安人物志(文政13年版)』「平語」の項目を引用したものであり、国際日本文化研究センターのデータベースで確認することができます。
明治43(1910)年に上梓された『平家音楽史』の表紙には、頼山陽の「日本外史」の一文が琵琶の絵とともに金で装丁されています。しかしこの装丁は昭和49(1974)年の復刻版には掲載されていません。館山漸之進の強い思い入れが復刻版に反映されず、その結果、初版本を知らない人々に頼山陽の存在が知られていないことを残念に思います。
さて、館山漸之進は『平家音楽史』の中でたびたび頼山陽をとりあげています。ここで『平家音楽史』での扱いを見ていきましょう。(原文は長いので、要約のみです。)

【p.18】平家物語の作者については諸説あるが、そのひとつに、比叡山において慈鎮和尚と藤原行長と盲人の生仏が作ったとする『徒然草』第二二六段がある。人物の特定ができないため有力説にはなりえないが、平曲特有の旋律を考えると、行長のような雅楽の名手と、生仏のような声明(しょうみょう)に詳しい人物が関わっていたことは確かであろう。
 漸之進は「頼山陽は、平家(平曲)を評して悲壮感憤の音と言へり」と述べ、戦敗者の悲壮なる境遇の描写は雅楽の名手行長でなければ創作できなかったであろうとしている。
【p.80】漸之進は、文学者たちが平家物語の作者を断定できないのは「平家と称する音楽の譜本たる題号に気付かざるに因りてなり」と考えている。そのなかで日本外史の「世傳平語倚琵琶演焉」について「平家物語は、音楽本たるを、文学者の認定せし証」と解釈し、山陽を高く評価している。
【p.260】明治維新後の京都には、藤村性禅という検校がいた。「音楽雑誌」に穉松なる人物が、平曲の絶滅が近いので京都において保存するべきであると綴っている。穉松は、かつて東京で聞いた原口検校の平曲は山陽の賛辞「其の音悲壮感憤、聴く者凄愴ならざるはなし」どおりだったが、藤村師の平曲には気迫がないと評している。漸之進は、山陽の一節を引用した人物の存在を喜んでいる。
【p.271】漸之進は文久三年に参勤交代で江戸に出向いたときに、原口検校の兄弟子にあたる福住検校の平曲を聴いている。その感想を「其の優暢清婉なる、実に美妙を極めたり」と記し、山陽の「悲壮感憤」と重ね合わせている。
【p.391】島津齊興侯が平曲を深く愛していたことを、漸之進は「其才学の凡ならざるを知るべし」とし、山陽の「悲壮感憤」と同じ感性であると述べている。島津齊彬もそれを感じ、それが後の明治維新の成功につながったと漸之進は考えている。
【p.566】『家庭の頼山陽』からは平曲に関わる十六件の記事を抜粋している。興味深いものが三項目ある。ひとつは、下京の質屋の主人である藤井雪堂から平曲を習ったこと。ひとつは、藤村検校の話によれば、山陽の平曲の相手をした牧善助は「間拍子の抜けたる琵琶の手には、善助いと迷惑し」ていたこと(琵琶を弾いたのは善助と思われるが)。もうひとつは、山陽の語る「宇治川」を聴いた児玉旗山が、情景が浮ぶようであったという漢詩を残したことである。
【p.573】山陽は日本外史の初稿に着手した時にはすでに平曲の趣を知っていたのではないだろうか。尾張藩において「平家正節」を編さんした荻野検校が広島猿楽町出身であることが、山陽が平曲を学ぶきっかけかもしれない。山陽が京都に出たのは荻野検校の没後だが、当時の京都には平曲の名手たる検校や平曲を学ぶ文化人が少なからずいた。山陽は文化人たちとの交遊を通して、好い平曲を聴く機会に恵まれていた。藤村検校の談では山陽は間拍子の抜けた平家を語ったともとれるが、山陽の語りを聴いて漢詩を読んだ児玉旗山を思えば山陽の平家は非凡であったと考えるべきである。
【p.591】大槻如電は平曲保存のために福住検校に平曲を学んだ人である。漸之進の求めに応じ、「頼山陽平家を演ずる実証を得る」ために依田学海に便宜を図ったという。
【p.618】深川照阿は美声だが、惜しいことに口伝が修得できていない。照阿の弟子の津村光華は浅野侯爵家扶である。荻野検校も山陽も広島出身なので、何か感ずることがあって平曲を学んだのだろうか。照阿の弟子で、漸之進からも平家を学んだ竹中悍は、藤井雪堂のように富豪である。雪堂が日本外史の経費を給したように、竹中が平家音楽史に出資してくれないものかとぼやいている。
【p.724】明治四十年九月二十三日付けの「中央新聞」に、邦楽調査嘱託となった漸之進のコメントが載っている。明治以降は西洋音楽か市井の俗曲が評価され、山陽が其音悲壮感憤聴者莫不凄愴と評価した平曲が省みられないのは遺憾だったので、邦楽調査に期待しているとの内容である。

漸之進は頼山陽のことを「平曲を正しく評価した文学者」と確信し、日本外史の一文を表紙に用いたのです。

なお本稿は「雲か山か」第74号 財団法人頼山陽記念文化財団 平成17年4月30日発行 ISSN 0910-6669 に寄稿した拙文「『平家音楽史』と山陽」の一項を加筆したものです。