2005-10-15(土)
■[本]夕凪の街桜の国 
- 作者: こうの史代
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2004/10/12
- メディア: コミック
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だいぶん前からこの漫画の感想を書こうと思ってたんだけど、どおにも上手くいかない。人に(あまりすすめることはないけど)すすめるにしても「いやあ、なんかいいんですわこれ」くらいの事しか言えないわけなのだ。どんな話?と聞かれたりもして、広島の、原爆の、とか色々頑張って説明してみるんだけど、何か違う気がする。
たとえばこおゆう大文字のキーワード。
「広島」「戦争」「原爆」「死」「泣ける」「かわいそう」「感動」うんぬん。
もお、こおゆう単語を聞いただけで、うさんくさ〜、なんて思って、読む気すらなくなる人もいるだろう。まあ、ぼくもそおゆう部分はあるんですけどね。
戦争とゆえば「レイテ戦記」だろう、「ゆきゆきて神軍」だろう、「神聖喜劇」だろう、とか、なるべくそおゆう態度をとっておきたいわけなんですよ。そおゆう態度のそおゆうってゆうのはどおゆうものをさすのかって言われたら困るんですけどね(まあ大岡昇平とか大西巨人とか、読んでない人は読んどいて下さい。「ゆきゆきて神軍」もすごくいかした映画だから見といて下さい)。
記号として、そこに置くだけで、暴力性をおびてしまう言葉とゆうのが確かにある。たとえば「平和」「自由」「正義」「愛」「人権」「平等」、まあなんでもいいんだけど、それを発するだけで、或いわ発せられるだけで、圧迫感を感じてしまう言葉だ。ハイハイワカリマシタ、へェ悪ウゴザンシタってかんじで。
だからぼくはこの漫画を人に(あまりすすめることはないけど)すすめるのに、そしてこおゆう場でこの漫画を語るのに「広島」「戦争」「原爆」のキーワードを使うとゆうのにすごく抵抗があった。それらがあまりにも意味を帯びすぎた言葉だからだ。でも今日、さっきもお一度この漫画を読んでみたんだけど、やっぱりそれは無理だと感じた。
この「夕凪の街 さくらの国」は徹頭徹尾、あたまの先からつめの先まで「広島」の「原爆」の「戦争」(戦後、とはあえて言わんとくね)の漫画であった。ああ、今なんとなく思ったのだけど「火垂るの墓」を読んだ(見た)ときに抱いてしまった感想にも、似てる気がする(もちろん作品の内容は違うけど)。困ったなあ、すごくいいんだけど、こんなもんどおやって人に説明したらいいんだろう、いいに決まってるだけに、それ以外の感想を持ちえないだけに、これを読んだぼく自身の口から出る言葉が、すべてうそくさくなる。
一つの作品を100人が読んだら100通りの感想が出てくる、読んだ時にその(感想の)多様性が保証される、てゆうのは、表現(作品)にとってはものすごく大事なことで、かつ理想的な事だと思う。でも時として、不自由で窮屈な作品とゆうのが存在する。「感動する」しかないよおな作品である(結局のところ好き嫌いの問題だから、それがキライな人にとってはただ単にそおゆう作品に接するのは苦痛でしかない)。
まあここまで読んでくれたひまな人は、ぼくが結局ここでこの本の、具体的な内容(ストーリーとか)には触れないだろう、なんて事をわかってくれてると思うんだけど、まあそのとおり。具体的なことは特に言うつもりはないので、まだ読んでなくて、かつ気がむいて、ひまな人は一度読んでみて下さいよ。それで「ああ、おもしろいなあ」なんて思ったら、教えて下さい。しょおもないなあ、と思ったら、そのままブックオフにでも売りにいってください。まあこんなところです。人それぞれ。ごめんなすって。
■追悼・井之川巨(犬惑星から) 
http://d.hatena.ne.jp/dogplanet/
今日、なんの気なしに検索していたら、井之川さんが今年の3月に逝去していたことを初めて知った。近所に住んでた反戦詩人で、大崎図書館に寄贈されていた著書を読んで以来のファンだったからいつか会いに行こうと思っていたのに、もう会えない。いつも自転車でマンションの前を通るたび元気かなあと勝手に空想したり、妻と部屋の前まで行って「いきなり訪問したら失礼だよね」と言って帰ってきたり、ストーカー寸前のファンでした。ご冥福をお祈りします。 井之川巨「もしもぼくが死んだら」 犬惑星 - 四丁目の反戦詩人id:dogplanet:20040519
もう五年くらい前になるんだろうか。忘れてしまったけど、いつだったか犬山の家に行くと彼がめずらしく目を輝かして詩集を何冊も床にひろげながら「井之川巨!井之川巨!」とあほみたいに言っていたのを思い出す。「うちの近くに住んでるんだよね。会ってみたいなア」などと。もう十月ですよ。気付くのが遅いんだって。でも、人が死ぬとゆうのは、なかなかに考えにくい事だと思う。それが好きな人ならばなおさら。たとえ年寄りであっても、病人であっても、人間は、生きているのがあたりまえの状態なんだと思う。退屈であっても、死にたい死にたいとか言っていても、重い病にかかったりなんかしていても、普通に寝て、朝起きて、歯をみがいたりするもんです。生きてる限りいつか死んでしまうのは当たり前、とかね、そおゆうこと言う人もいてますけど、人が死ぬのは決して当たり前のことなんかじゃないわけです、たぶんね。あまりにも唐突に、そしてあっけなく、うんこするみたいに、歯をみがくみたいに、風が吹くみたいに、この世からいなくなってしまう。高田渡にしても、井之川巨にしても。
■[資料]糞尿アンソロジー 
詩誌「騒」にて井之川巨と同人であった原満三寿氏の書いた「評伝 金子光晴」ISBN:4894482460は700ページ近くある執念の書だ。でかい本なので枕がわりにもなるから好きな人とか眠たい人は手にいれて読んで下さい。ぼくはもうかれこれ一ヶ月くらいこの本よんでてこの前やっと読み終わりました。んで、この本に、金子光晴が糞尿について書いた文章(詩)のアンソロジーがのっているんです。こおゆうのを真面目に調べあげてしまう原満三寿とゆう人はもうものすごいエライのです。んでそれが非常に便利なので、資料に役立てたいです。(まあこの本を読んでる人はたぶんあまりいないだろうから、何も書かずに引用してさも自分が集めたみたいにしてやろうとか、いっしゅん悪魔が囁いたけど、そんな事はしない。「評伝金子光晴」からの孫引きです)
以下
彼女の赤い臀の穴のにほいを私は嗅ぎ、前檣トップで、油汗にひたってゐた。 「航海」 女たち。/チリッと舌をさす、辛い、火傷しさうな/野糞。(中略)/ あの女たちの黒い皺。黒い肛門。 「女たちへのエレジー」 健全な白い歯並。こいつが第一だ。ぬれて光る唇。漆戸棚のやうな黒光りする頑丈 な胃。鉄のやうなはらわた。よく締まった肛門。/さあ。持ってらっしゃい。なん でもたべるわ。花でも、葉でも、虫でも、サラダでも、牛でも、らくだでも、男た ちでも、あしたにならないうちに、みんな消化して、ふというんこにしておしだし てしまふから。/そんな女に僕は、ときどき路傍ですれちがふんだが。 「短章E」 ごむ風船みたいにふわついたお嬢さん。/青空で、ぱんぱん割れるお嬢さん。/ うんこをちっぴりお尻につけて/とびまはってゐるお嬢さん。 「えなの唄」 ―なにもひけ目はねえ。皇后さまだって/女はからだをうっていきるほかないのだ から。/うれしがらせてささやきにくるこんにゃくどもも、女とねて、女をしゃぶ りまはしたあとでは/こんな女とねてしみついたきたならしさを、どう洗ひおとし たものかといらだちながら、おのれにあいそをつかしていった/―女じゃねえ。い や人間でもねえ。/あれは糞壷なんだ。 「どぶ」(伏字挿入) 恋人よ。/とうとう/僕はあなたのうんこになりました。//そして狭い糞壷のな かで/ほかのうんこといっしょに/蝿がうみつけた幼虫どもに/ くすぐられてゐる。 「もう一篇の詩」 糞尿は、泥よりもやはらかい。//泥よりも平等な糞尿をはこぶ/苦力たち 「愛情10」 紙捩りで一本づつ抜いた毛の/初ものの愛らしさが残るふくらみも/ しらずにもらす小便でじくじくして/みるかげもない。いまは、狐穴。 「愛情11」
ひまがあったら(まあ、じゅうぶんひまなんだけど)他の人のぶんも入れたりしてちゃんとした糞尿アンソロジーを作りたいですね。でもいま手元に全然本がないのですよ。そおいえば昔安岡章太郎が「滑稽糞尿譚」てゆう小説とエッセイのアンソロジーを編んでましたけど。・・・・・・それでまあ今なんとなく頭の中だけで思い出すのは、例えば阿部和重の「シンセミア」で、主人公の警察官中山が中学生の彼女とホテルに入って、なんか別の人と携帯電話でしゃべりながらジュースの瓶を彼女の肛門にさしこんで、それをペロペロ舐めたりにおいをかいだりってゆう、素敵な描写があった気がする。あと藤枝静男の「空気頭」だったっけ。うんこをカリカリに乾燥さしてそれを砕いてふりかけにして御飯を食べるシーンがありませんでしたっけ。勘違いだったらごめんなさい。谷崎潤一郎なんてどうですかね。ぜんぜん思いつかないけど。有名なところでは「細雪」の雪子が結婚前に下痢になるシーンとか。どんなんか忘れましたけど。ウンゲロの御大松沢呉一とか、根本敬とか、そのへんの人は入れだすときりがないので却下で。とりあえずなんか意外性みたいなんがほしいなあ。って、まあこのへんで。ごきげんよう。
「深夜、寝しずまった人たちのあいだで一人眼をさました僕は、しびれたような頭を持ちあげ、掛椅子をつたって下におりると、ふらふらしながら船室に立った。からだが伸びちぢみするひどい動揺であった。僕の寝ている下の藁布団のベッドで譚嬢は、しずかに眠っていた。船に馴れて、船酔いに苦しんでいるものはなかった。僕は、からだをかがみこむようにして、彼女の寝顔をしばらく眺めていたが、腹の割れ目から手を入れて、彼女のからだにさわった。じっとりとからだが汗ばんでいた。腹のほうから、背のほうをさぐってゆくと、小高くふくれあがった肛門らしいものをさぐりあてた。その手を引きぬいて、指を鼻にかざすと、日本人とすこしも変わらない、強い糞臭がした。同糞同臭だとおもうと、<お手てつなげば、世界は一つ>というフランスの詩王ポール・フォールの小唄の一節がおもいだされて、可笑しかった。
(『ねむれ巴里』)
本のちゃんとした画像がなかったんで自分で撮った。大きさを比べるために右下にサトウの切りモチ置いてみたんだけどわかりにくいよね。

