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平民新聞

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2008-06-06(金)

他人の死

数日間、とくにパソコンの電源をつけることもなく、ぼやっと考えていたのは、とある日記書きの死についてであった。ぼくは正直なところ彼の日記をたまに読んでは、なんつうのか、どうにもイケスカナイ人だなァ、というような印象を持っていて、ただ彼は、ぼくが親しくしている人の友達だ、というのは知っていたし、日記を読んでいくらぼくがブーブー言っていようとも、実際に会う機会でもあれば普通に楽しく酒が飲める相手だろう、というような事も知っていた。なぜ会ったこともない人間に対して、そんな事を「知っていた」と書くのかといえば、彼はとても猫が好きで、ぼくも猫が好きだからだ。ただそれだけ。そんな印象。猫を魚に酒を飲む、か。数日前、西友でうんこをしながら、退屈しのぎに携帯電話からハテナブックマークを見ていて、その彼がどうやら、死んでしまったのだ、という話題をいきなり目にした時に、ぼくはなんとも、非常に複雑な気分になったというか、ひらたくいえば、わりとかなしい気分になった。そこで思ったのは、どんな相手であれ、その存在や発言に対して「どうでもいいやこんなやつ」「おれとは合わないなあ」というような、そんなくだらない感想でさえもが、その相手の存在、すなわち相手が「生きている」という事実を大前提として持ちえた感情であり、ぼくの感じたなんともフクザツな気分、とまどいっていうのは、その超当たり前の大前提が、何の前ぶれもなく突如として崩れてしまった、っていう所からくるんだろうな、ということだ。同じ時代にインターネットで日記を書いたり、読んだり、というのは、お互いに「生きている」という当たり前の事実を前にしてのみ可能な事であって、もしかするとそれは稀有な瞬間なのかもしれない。ぼくや、あなたが立つ足場というのは、(時としてぼくはそれを忘れてしまいそうになるのだけれど)決して強固なものではない。何年も、ネットの空間をたゆたっていると、文字上の世界で、あ、あの人も結婚したのか、とか子供がうまれたのか、とか、めでたいニュースを目にする事も多く、そんな時は全く関係のないぼくまでうれしくなったりもするのだけど、当然のことながら、やっぱりかなしい出来事も時として目にしてしまうわけで、その究極が、他人の死であると思う。本質的に、自分の死というものを自分では認識できない以上、生きている人間は、ぼくは、ことあるごとに他人の死に対しつまづいてみせる、そんな仕草しか出来ない。会った事もない他人の死についてぼくが語れる事は元より何もないのだし、過ぎた饒舌は故人に対し失礼だろうと思う。だからぼくはここを読んでいる人に話しかけたい。好きな人も嫌いな人も、とにかくみんな長生きしてほしいと思っています。そして、こういうことは、他人様に言うのもうさんくさい話だろうから、自分自身に対して強く言い聞かせたい。生に執着を。いつまでも踊っていたいんです。*1

*1:これは今日書いた日記じゃなくって、けっこう前に書いたやつです。

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団結しろ万国のまよなかの白痴ども/きみらのことは誰も詩に書かない(岩田宏/のぞみをすてろ)