平斎の日記

2016-08-17 [歴史]山科論文への素朴な疑問

[歴史]山科論文への素朴な疑問

まえおき

 一昨年(二〇一四年)一月、在野の古代史研究家である山科威氏が

『日本書紀・古事記 編纂関係者に抹消された 邪馬台国』

なる労作を発刊された。

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 同年三月、大阪日日新聞の人物紹介欄“大阪ヒト元気録”で山科氏はこの本の著者として取り上げられたが、その記事のタイトルは、

 「邪馬台国なぜ記紀にない」邪馬台国の謎を追った著作を出版 山科威さん

というもので、記事の本文では、

”古事記・日本書紀の中で邪馬台国についての記述が存在しない謎について独自に切り込み・・・・・”

と、本書の特徴を紹介している。

↓大阪日日新聞 連載・特集 ≫ 大阪ヒト元気録

http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/genkiroku/140319/20140319046.html

 私が本書を一読させて頂いたときの印象は、“論理に矛盾や飛躍がなく、従って、この論文は歴史学会や一般読者にも十分受け入れられるのではないか“というものであった。

 著者ご自身(以下、Y氏と表記)もその後、いろいろな団体の中で研究成果を発表されるなど、自説の普及に務めておられるようであるが、今の所、中々ブームとまでは行かないようである。

 だとすると、本書にはどこかに欠点もしくは弱点があるのだろうか? あるとすればそれはどのような点であるのか? 

 テーマが難しすぎるのか?

(※いや、反応は皆無ではない。このような絶賛の声もある。↓)

読者による山科説紹介記事(teacup.ブログ“AutoPage”)

http://sun.ap.teacup.com/samochanworld/1231.html

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 邪馬台国問題は論議が多岐に亘る。考古学者は文献学の細部には深入りしないし、文献学者も考古学の成果なるものを100%は採用しないだろう。邪馬台国九州論者は大和説を感覚的に受け入れないし、大和論者も九州説を信用しない。皆が自説を金城鉄壁と信じて疑わないところにこの問題の厄介な複雑さがある。

 纏向学研究センター主任研究員・橋本輝彦氏が、先日平群町中央公民館での「ヤマト王権誕生の地 纏向」という講演の冒頭で、“邪馬台国問題は結局、水掛け論になりますから”と言われた言葉に、事柄の本質がすべて言い尽くされているようだ。

 さて、Y氏の論文の本質は、『魏志倭人伝』や『記・紀』などの文献を論理的に分析することによって史実に迫ろう、というもので、文献学の範疇に入るだろう。ただし、著者は考古学者ではないながら、纏向遺跡の発掘成果についても非常によく勉強されていると思う。

 ただ、最初にちょっとだけ批判させて頂くと、本書のタイトルは少々長ったらしい。大阪日日新聞の記事のように『邪馬台国なぜ記紀にない』でもよいだろうし、『記・紀に抹消された邪馬台国』くらいでも十分わかるのではなかろうか?

 しかし、Y氏の考え・信念を忖度してこれを代弁すれば、タイトルでも本文でも、論旨を読者に正しく伝えるためには、これくらい厳密に・丁寧に表現する必要がある、ということなのであろう。

 このY氏の信念は、本文中に“隠蔽””隠蔽工作”“抹消”“抹殺”の語句が極度に頻出することによってもよく理解できるところである。

 まえおきは以上として、本題は少々込み入るので、このブログではなく、別稿としたい。

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【内容情報】(「BOOK」データベースより)

彼らは、その全貌を熟知していた。そこから解明される邪馬台国の真相と日本古代史の多彩な事象ー。

【目次】(「BOOK」データベースより)

序章 「邪馬台国」の謎を追う(未だに「邪馬台国」の謎が解けない不思議/「邪馬台国」の真実探求のための一方法論)

/第1章 記紀の編纂関係者は「邪馬台国」の全容を熟知していた(記紀に「邪馬台国」の記述の無い不思議/記紀に「邪馬台国」の記述が無い理由/記紀編纂における「邪馬台国」苦心の隠蔽工作/『日本書紀』に於ける「魏志倭人伝」の取り扱い/今日まで「卑弥呼」の墳墓遺跡が発見されない謎)

/第2章 「魏志倭人伝」による目撃証言と現場検証により「邪馬台国」の位置を検証する(卑弥呼時代の「邪馬台国」は大和に存在しなかった/北九州に実在した卑弥呼時代の邪馬台国/その他の邪馬台国想定地の問題点)

/第3章 邪馬台国東遷の実態(初めに結論ありきー大和王朝は東遷した邪馬台国の後裔/邪馬台国東遷の具体的経過を推理する/本論展開の中で解明された幾つかの謎)

/補章 邪馬台国東遷の事実から解明される古代史の謎

天照大神と卑弥呼の関係/『古事記』と『日本書紀』二冊が編纂された謎/伊勢神宮創建の謎)

【著者情報】(「BOOK」データベースより)

山科威(ヤマシナタケシ)

1931年生まれ。大阪市出身。神戸大学経営学部卒業。日華油脂株式会社入社。1958年家業の有限会社宝石時計ヤマシナ入社、代表取締役社長に就任。

その間大阪市商店街総連盟副理事長他、地域の諸団体役員を歴任。現在、地域産業会副会長、近畿警察官生野地区友の会会長、歴史研究会本部会員、

東大阪市古代史研究会会員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

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 そもそも、何世紀にも亘る大論争のテーマである邪馬台国問題に、画期的な解決策がそう簡単に得られるとは思えないけれども、甲論乙駁、果てしない論争が繰り返される中から、ひょっとして前人がうっかり見落としていた新しい視点が発見されるかも知れない―それが古代史ファンに共通したひそかな夢であろう。

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2016-08-07 [歴史]纏向学講座

[歴史]纏向学講座

「ヤマト王権誕生の地纏向」

主催:平群史蹟を守る会(夏季公開講演会)

講師:桜井市纏向学研究センター主任研究員

   橋本輝彦 先生

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こんな辺鄙な平群町の公民館で、300名を超す盛況だった。纏向・邪馬台国の人気のほどをよく示していた。邪馬台国は水掛け論になるので、と講演の中では言明を控えておられる様子だったが、持論が那辺にあるかは、大体窺うことができたように思う。

知らないことばかりで、とても勉強になった。

なかでも最後の方、鳥見山の金崎古墳出土(等彌神社旧蔵)の鏡や、上牧町の久渡3号墳出土の画文帯環状乳神獣鏡の話は、特に目新しく感じられ、写されたMAPの「磐余地域の首長墓・金崎古墳群」の字幕が印象に残った。磐余地域・鳥見山は興味深い。

http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-3.pdf#search=’%E7%BA%8F%E5%90%91+%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%B4%80%E8%A6%81+%E7%AC%AC%EF%BC%93%E5%8F%B7’

 「さらに、神社所蔵の資料ではないが今一つ注目すべき資料として、東京国立博物館所蔵の鏡の中に明治34年に個人より寄贈された「奈良県磯城郡桜井町字金崎山林ニ於テ発堀ノ・・・」とされる面径20.8 僂了鯵儕鐺鷽斉鷭旦澄兵命殖院砲ある。注目すべきはこの鏡の出土地がやはり字金崎であること、そして副葬された年代が前期に遡る可能性が高いことで、先の「奉納之覺」所収の鏡の存在とあわせると鳥見山の北西へと延びた字金崎の尾根上(図1)に前期古墳が存在した可能性は高いと考えるが、惜しむらくは金崎の尾根は昭和37年に始まった宅地造成と学校建設に伴い数基の横穴式石室の調査が行われたのみで丘陵の全てが消滅しており、墳丘の状況などの確認の手立てが失われてしまったことである。」(『纏向学研究』第3号・2015年 より引用)

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「卑弥呼の鏡」の説がある画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)が、桜井市の等彌(とみ)神社に神宝として所蔵されていることがわかり、調査した桜井市纒向学研究センターが研究紀要で報告した。他にも鉄刀と勾玉(まがたま)が確認されており、古代の遺跡が密集する市内の鳥見山周辺の古墳から出土した可能性があるという。

 画文帯神獣鏡は破片で、鏡全体の4分1程度が残る。(平斎注:この記事は疑問である。破片の軸装拓本と写真、であろう。映像の三角縁二神二獣鏡の方は、金崎出土ながら、東京国立博物館蔵)一番外側の文様帯は渦雲文。鋸歯文(きょしもん)帯や半円文などを挟み、一番内側のメーンの文様には神像の黄帝(こうてい)や侍者(じしゃ)が配置されている。復元すると、直径が約21センチの「画文帯環状乳神獣鏡」になる。鋳上がりの良い中国鏡と考えられている。

 等彌神社は鳥見山西麓に位置し、2千年近い歴史を持つとされる。古事記によれば、鳥見山は神武天皇が大嘗会(大嘗祭の起源)を行った場所で、周辺には桜井茶臼山古墳(4世紀初め)など古墳が密集。邪馬台国の有力候補地である纒向遺跡にも近い。纒向学研究センターは鳥見山周辺で出土した鏡などが等彌神社で保管されてきたと推定。「鏡はヤマト政権が在地の首長に与えたものと推定され、ヤマト政権による支配体制を考える重要な資料になる」としている。

↑ http://kofun.jp/news/4060.html から転載。

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2016-08-01 [神仏]ダンノダイラ磐座探訪

[神仏]ダンノダイラ磐座探訪

 ウガネットの仲間による三輪明神付近探訪。午前9時、JR森ノ宮駅集合。総勢8名、2班に分かれ別行動。

 A班は大神神社→狭井神社→三輪山登拝→檜原神社→桜井市立埋蔵文化財センター。

 わがB班は大神神社→狭井神社までは同じだが、三輪山登拝はパス。車で箸墓付近から纏向川に沿って県道50号線を東行、辻という所で三輪山と巻向山の山間いの谷を東南方向に進む。

 奥不動の駐車場まで、一応車道が付いてはいるが、エアコンをつけて急勾配を登ったために、Kさんの車がオーバーヒートしたらしく、坂が上がれなくなってしまった。同乗の3人が車から降りて歩き、車もクーラーを止めて辛うじて駐車場に到着した。

 奥不動の境内を抜けて、谷川の流路跡のような難儀な山道を登る。それを苦労して登り切った所から後は普通の山道に入って、比較的楽に「天壇」などの立て看板のある辺りに到着。

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 立て看板の説明によれば、「小川」(水のない川跡の溝)に沿って登れば頂上の池に到達するはずであるが、途中から道がなくなり、また谷川の流路跡をしばらく辿ってみたが、そのような地形が果てしなく続き、とても頂上に辿りつく様子ではないので、あきらめて立て看板の地点まで戻った。そこで、【磐座】は今来た登山道のさらに先に行けばあるらしいことに気付き、さらに進む。

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【磐座】

「ダンノダイラ」の東端に、約20㎥の巨大な磐座が、下半身を埋もれて鎮座している。

昔、出雲村の十二柱神社は本殿がなく、この磐座さんを拝んでいた。(地元伝説)

               奈良県桜井市出雲  野見宿祢顕彰会

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↓ようやく下山したあと、桜井市立纏向学研究センターに立ち寄り、研究員の先生に付近のことを色々と教わる。

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→2009年に発掘された大形建物跡(居館域の小高い広場)を見学してから、桜井市立埋蔵文化財センターでA班と合流。センターの展示物を見学後、A・B班それぞれ帰途につく。

↓纏向遺跡は崇神天皇の宮跡か(毎日新聞 )

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2016-07-24 [交友]リレーウォークの仲間たちと酒盛り

[交友]リレーウォークの仲間たちと酒盛り

 実行委員会の会議のあと、A会長の手作り一品料理や枝豆、Y氏差し入れの生野コリアタウン製キムチ、アルコールは近くの酒屋で調達し、野外パーティーをした。写真はその時の様子(2016.7.21)

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↑クリックすると拡大されます。




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2016-07-21 [歴史]纏向遺跡は崇神天皇の宮跡か

[歴史]纏向遺跡は崇神天皇の宮跡か

<田中卓説による謎解き>京都産大 所功ところいさお教授)

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↑毎日新聞 2009(平成21年)12月31日の記事

友人の青井建之氏から2010年3月に頂いた纏向遺跡に関する新聞各紙の記事(2009.3.21〜同年12.31)の中の一枚。


2009.05.29 「箸塚古墳240〜260年築造」「卑弥呼死亡時期と一致」

      放射性炭素年代測定

2009.11.11 「卑弥呼時代 最大の建物群」

      邪馬台国中枢か 西の3棟と一直線配置

※この2009.11.11には、各紙競って大々的に報道している。

 写真の毎日新聞の記事は、その年の大晦日に別個に掲載された「田中―所功」説である。

 

足立倫行『倭人伝、古事記の正体』「供仝纏記を歩く」(朝日新書・2012年刊)によると、

(桜井市立「纏向学研究センター」寺沢薫所長と橋本輝彦調査研究係長に会った。橋本さんには)「纏向遺跡の辻地区で発掘された大型建物群が、崇神、垂仁、景行など実在したと言われる初期の天皇たちの宮殿である可能性について、尋ねてみた。

 「崇神は4世紀前半に歿したとみなされていますが、田中卓たかし説のように3世紀半ばとすれば、そのような可能性も浮上するかもしれませんね」 と 橋本さんは答えた。

「纏向遺跡で発掘された方位の揃った大型建物跡は、おそらく崇神天皇の「師木の水垣の宮」・・・。

 「いや、それはどうですかね。私は田中説にも、あるいは”アレは卑弥呼の宮殿”という説にも、両方に懐疑的です。・・・・・」橋本さんは沈着な視線で見詰め返した。

と書かれている。(P218〜220より引用)

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 足立倫行氏は1948年生れのノンフィクション作家で、『血脈の日本古代史』(ベスト新書・2015年刊)なども書いている。けれんではなく、まじめな本だと思う。

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