牛頭山・牛頭天王についての疑問(続々)

[神仏]牛頭山・牛頭天王についての疑問(続々)

【A】『望月仏教大辞典』などで「牛頭山」の項を引くと、

1.は于闐(ウテン)国=旧・新疆省和闐(新疆ウイグル自治区和田)=ホータンにある山。梵名gośīrşa(ゴーシールシャ)またはgośringa(瞿室食+夌伽)。牛角山・牛角峰山と翻ず。

2.は中国・江蘇省江寧府(現在の南京市に相当)にある山。幽棲寺は<牛頭禅>発祥の地。(牛頭禅は伝教大師によって日本へ伝えられたといわれる)

の二つが挙げられている。(二つしか挙げられていない)
 そして、いずれも”山峯両起して”とか”双峯対峙して宛も牛角の状を作せるを以てこの名あり”などと表現されている。ただし、どちらにも牛頭栴檀に関する記述はない。

 ところが、「牛頭栴檀」の項目を引くと、梵名gośīrşa-candana(ゴーシールシャ・チャンダナ)。印度摩羅耶山(マラヤ山、一名牛頭山)に産する香樹の名(=大意)などとあり、いかにも1.の牛頭山に関係が深そうな感じがしないだろうか?。
 ※厳密にいうと、【摩羅耶山(牛頭山)】とずばり表現しているのは『模範仏教辞典』(東方書院刊)で、『望月仏教大辞典』の方は厳密なために、解説が極めて難解・晦渋である。
 「華厳経に摩羅耶山といへるは即ち南印度にある山脈にして、その南西をマラヤ地方と称し、栴檀の産地として有名なり。
 之を牛頭と名づくる所以は詳ならず。
 若し正法念処経第六十九によらば、鬱単越に十大山あり、その第五を高聚山・・・・・その第二銀峯に多く牛頭栴檀を産す。この山峯は状牛頭に似たり。故にこの峯中に生ずる栴檀樹を号して牛頭栴檀と名づくと云へり」などと、くどくどしいが結局その第二銀峯が一体どこにあるのか、摩羅耶山との関係は?、などのことが示されていない。
 いずれにせよ、二つの仏教辞典がともに、1.の于闐国の牛頭山(梵名gośīrşa(ゴーシールシャ))と牛頭栴檀(梵名gośīrşa-candana(ゴーシールシャ・チャンダナ)の産地たる摩羅耶山との二者の関係(なんらかの関係があるのか、ないのか)について明確に記述していない。このことは、両項目間の整合性の点で大いに不満である。

 なお、中国の代表的な二つの牛頭山において、牛頭天王が信仰されたような形跡が見られないことは、この信仰が印度→中国→朝鮮→日本のルートで漸次伝播したのであろう、というような安直な推測に対して、その説の成り立ち難いことを示しているように感じられる。
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 なお、前々回のブログhttp://d.hatena.ne.jp/heisai/20080510に、 「八坂神社」の見解では、なぜか「摩羅耶山の牛頭栴檀」ではなく「新羅の牛頭山に産する栴檀ということになっている―ということを書いた。
 その”なぜか”は、明治二年八月、紀朝臣繁継の著した『八坂社旧記集録』(の巻頭に位する「八坂郷鎮座大神之記」)の記述が現行の社伝の基本(=明治三十九年・同神社刊『八坂誌』に引用されている)となっているからであろう。
 紀繁継は旧祇園社最後の社務執行・宝寿院であったが、慶応4戊辰年2月(※神仏分離令は同年3月28日)還俗し、建内氏を称した人。(※孝元天皇より出た武内宿禰〜紀百継の子孫と称するこの紀朝臣は、伊利之使主の子孫とされる八坂造と姻戚関係にあったらしい)
 王政復古の直後、神仏分離の思潮に際会し、率先して逸早く仏教色を排したその人物の筆になる社記だけあって、新羅の牛頭山に重点が置かれ、摩羅耶山などは忌避されたのがむしろ当然のことと言える。

 『八坂社舊記集録』(表紙題字『八阪神社舊記集録 合巻』)は上中下三巻、木版本で計二冊。「八坂郷鎮座大神之記」末尾には承暦三(=1079年)紀有方記、右旧記相伝年久紙面損・・・且・家蔵社記古文書焼失過其半矣、幸哉甞有所謄写、因聊抄出以伝焉。・・・としている。
 大納言紀有方は、紀百継七世の孫。紀繁継は、有方の息・行円から数えて七十一世の旧祇園社務執行という。
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◎[神仏]牛頭馬頭の梵名は? ↓
http://d.hatena.ne.jp/heisai/20080423