ネットでのコミュニケーションに何を求めるか


深く考えないで捨てるように書く - 中くらいの声でしゃべる」を読んで。


ネットで中くらいでしゃべりたいというニーズについての話。


ネットでは、厳密にアクセスコントロールをして特定の人たちとだけで語り合う小さい会話と、普通に誰でも見られる場所に書くことで誰でも見ることが可能な状態で語る大きな会話というふたつの形がある。


誰でも見られる場所に書くことが大きな会話になっている、というのは、意識していない人も多そうだ。オープンで書いているブログなんかは、たとえ一日数十アクセスしかなくてこれは小さな範囲にしか見えていない語りなんだ、と思っていても、実際には多くの人に見られる状態になっている。

それを拡声器に例えている例も多いが、私的には誰でも行き来できる往来に貼ってあるポスターのようなものだと感じている。話題にならなければ、たまにちらほらと見ていく人がいるくらい(少ないアクセス)なのが、ふとしたきっかけから注目を浴びると次から次へと人が押しよせてくる状態になりえる。多くの人がやってくると、心ない悪戯書きをしていく人が現れたり、口コミで更に注目を浴びたり。

アクセスが少ないから狭い範囲にしか届いていないんだってのはちょっと想像力に欠けていて、誰にでも見られる場所に書いてあるということは、ひょっとしたらそれを何十万人もの人が見に来るかもしれないってことなんだってこと。書いた本人が拡声器を使ってしゃべった自覚がなくても、ネット上の情報伝達の速さはリアルでの拡声器の声の大きさに相当する。


中くらいでしゃべる


それに対して、ネット上で中くらいの声でしゃべることはできないのだろうか?というのがリンク元の話。

さて、これらに対して、中間のニーズも存在する。仲間だけではなくもうちょっと広い範囲で交流をもちたい、新しい出会いもしたいけど、大きくかけ離れた立場の人とは接したくない。いわば、中くらいの声でしゃべりたい、拡声器やマイクは使わないけど手をメガホンにして「誰かいませんかー」と数メートル先まで届くくらいの声で呼びかけたい、という層だ。

声の大きさ的な意味で「中くらい」というのは、ネット上で実現するのは難しいのかな?という気がする。書いたものがしっかりと残ってしまうから、「中くらい」の大きさのつもりで発言しても、それがずっとそこにあり続けて、結果大きな声でしゃべっているのと変わらない状態になってしまうという。


ある程度立ったら書いたログが消えるとか、もしくはログが流れて見えにくい状態になるって形でなら「中くらい」は実現できるのかもしれない。twitterでの独り言なんかは、遡ろうとすれば不可能ではないけれども、非常に面倒くさいので近い時間に発言されたものしか目にされないので、「中くらい」というのに近いのかもしれない。


でも、たとえどんなサービスで「中くらい」なしゃべりが可能だったとしても、それを一気に拡声してしまうソーシャルブックマークみたいなサービスも存在しているから、やはり「中くらい」であるのは難しいように思う。


求めるコミュニケーションの内容による分類・住み分け


声の大きさ的な大、中、小、とは別に、求めるコミュニケーションの内容による分類、住み分けというのは、ネット上で重要かもしれない。


ある発言に対して、「フラットな立場から本音を語り合う、本質を追求しようという場」「同意、なぐさめなどで感情的に満たして欲しいとする場」ってのが一番分かりやすい分類。はてなで話題の中心になりやすいのは前者だし、mixi発言小町などは後者に属するだろう。

同じ場所で、求めるコミュニケーションが違う人同士がぶつかるから問題になりやすい。延々と終わらない論争を続けるよりかは、自分が求めるコミュニケーションを自覚して、それに応じた場所で発言するのがお互いにとっても幸せ。



難しいのは、ネット上のさまざまなコミュニティというのは、かならずしもこういう分かりやすい形にきっちり分類できるとも限らないってこと。上記に挙げたような場所でも、相反する主張を持つモノ同士が共存している。それ故にあちこちで衝突が起こり、揉め事が絶えない。



互いに求めるコミュニケーションの形が違うのなら、せめて誠意を持ってやりとりしたいと思うが、その誠意の形も人によって異なるし、そもそも誠意を持っていない人もいる。

ネット上で活動するってのは、こういう多種多様な思想が入り乱れている場所なんだってのを自覚し、自分は何を求めるのかを考えつつ、新しいコミュニケーションの形を模索するってこと。いままでには存在しなかったコミュニケーション空間なのだから、参加者それぞれがその可能性を考え、試行錯誤でマナーなりノウハウなりルールなりを作り上げていく、そういう過渡期なんだと思う。