北の大地から送る物欲日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

Webから検索
Google
ブログ内検索

記事一覧
最近のコメント
RSS feed meter for http://d.hatena.ne.jp/hejihogu/
スカウター : 北の大地から送る物欲日記

track feed あわせて読みたい
[TopHatenar] hejihogu なかのひと

昔話題だった
ビリーズブートキャンプの体験日記!
入隊記録(1)からどうぞ 

Facebookにファンページを作りました。
このブログが気に入ったら「いいね!」
をクリック!

2007-12-01

[]携帯とPCのネット利用は融合できるだろうか?


自己表現のプラットフォームは移り変わる:佐々木俊尚 ジャーナリストの視点 - CNET Japan」を読んで。


ブログなんて、しょせんはひとつの表現コンテナー(メディア)に過ぎない。Web2.0の時代において最も大切なのはコンテナーではなく、コンテンツそのものだ。オピニオンや感情を外部に表出したいと思い、それを実行に移すというその行為こそに意味がある。

自己表現のプラットフォームは移り変わる:佐々木俊尚 ジャーナリストの視点 - CNET Japan

今ではブログをメインの情報発信場所として利用しているが、自分のネットでの情報発信について元々を思い起こしてみれば、パソコン通信から始まり、IRCチャット、ホームページ、掲示板、ブログ、そして最近ではTwitterのようなミニブログだったりUstreamのような動画配信だったりと、新しい表現コンテナーが出るたびにそれを試しつつ、自分の情報発信場所として利用してきている。

それぞれの場所ごとに特性が違うので、それぞれの場所にあった発信内容になる。


ブログという方法を使った情報発信自体はまだまだいろんな可能性があって、これからも新しいブロガーが参入してきたり、新しい手段で情報発信するブロガーが現れると思うが、ブログを情報発信場所として考えるとそろそろユーザー数が飽和しつつあるのではないか、というのは薄々感じている部分だったりする。

若年齢層における携帯ネットの高い普及率や、SNSユーザーの増加、twitterのような緩いコミュニケーションの増加を見ていると、ブログほど重くなく、気軽に情報発信でき、身近な繋がりを実感できるような場所を求めている人が多く、そういう方向へとユーザーが流れているんじゃないだろうか。


ブログの使い方は人それぞれでいろんな使い方があるが、ある程度以上の読者がつくようなブログの使い方、単なる日記程度ではなく、有用な情報発信だったり、読ませる文章だったりを提供する人の割合ってのは、いくらネットの普及で情報発信が簡単になってきたとはいえ、そう簡単に増えない。実際、自分の知人の中でホームページやブログで情報発信している人、ってのはかなり少なくないだろうか? 感覚的には、数十人に一人くらいだと感じている。

ある程度PCを使いこなせる30代以下な私の周りでそうなんだから、全年齢層で考えたら100人に一人、日本人が1億2千万人だとしたら120万人くらい、と考えると、実際のブログ利用者の数と結構あっている気がする。(実際はブログ利用者が800万人以上と報告されていたように思うが、開設したもののそのまま放置なんて人も大量にいる)

ブログアクティブユーザー数ランキング(2007年9月版)」における毎月のアクティブブログユーザー数もだいたい200万人前後で推移している。



今は携帯でのネット利用とPCでのネット利用というのは大きな断絶があるが、今後これがどう変化していくかは興味深いところ。このまま別な場所として進んでいくのか、どこかで融合するのか。

携帯は携帯端末に適した見せ方があるとは思うが(狭い画面での情報)、一方でiPod touch上のsafariを使っていると、PCでのネットをそのまま使うことも十分可能なんじゃないかとも思える。


最近GoogleがOpenSocialのというSNSのプラットフォームを発表して話題になったけれども、これはSNSのオープン化にとって大きなターニングポイントとなる可能性がある。世の中のすべてのデータを可視化し、検索可能にしていくのがGoogleのミッションだが、SNSをオープン化し、人間関係情報やコンテンツを異なるSNS間で共有できるOpenSocialの仕組みは、このミッションを補強するものとなる。それは同時に、オープンな言論空間をSNS世界の中に作り出す可能性を生み出す。

 そう考えると、ブログというプラットフォームが徐々に衰退し、SNSに移っていく可能性は十分に考えられる。特に現在のブログのプラットフォームは、コメント欄のノイズを排除しにくい構造になっており、この問題がブログからSNSへの移行を促すことになるかもしれない。しかしこの方向への進化は、まだこれからだ。

自己表現のプラットフォームは移り変わる:佐々木俊尚 ジャーナリストの視点 - CNET Japan

ブログとSNSの両方を使っていると、どうしてもオープンなブログの方が使い心地がよくて、そっちの利用が多くなってしまった。人によってはクローズドなSNSの方が居心地がよいと感じる人も多いだろうし、両方をうまく使い分けている人もいるだろう。

オープンなブログは、大量のスパムコメント、スパムトラックバックだったり、内容によっては多くの批判を浴びてしまったりなんてことがあって、ある程度の強さを持っている人でないと続けにくい状況になってきてしまってたりする。

一方のSNSはスパムは少ないし、批判も構造上ブログよりは少ないが、過度の馴れ合い文化に疲れてしまう人がいたり、私のように閉じられてる世界であまり情報発信の面白みを感じないというのがあるが、オープン化されることでそういう状況が変化することも十分考えられる。


個々のユーザーアカウントで各種サービスが連携されているはてななどは、はてな村と揶揄されるような状況ってのがオープンSNSに近い雰囲気を持っているのではないだろうか。良くも悪くも独特な雰囲気はある。



携帯でネットをする感覚(知人と他愛もない内容のやりとりをマメに行う)ってのと、今年になって流行っているTwitterの感覚(知人+周りの人々と他愛もない内容のやりとりをマメに行う)がかなり似通っていて、Twitterの方はモバイルサイトやモバトゥイッターのようなサービスで携帯からも利用できることを見ていると、携帯でのネット利用もPCでのネット利用も、携帯側が進化すれば、いずれは同化してしまった方がいいのではないか、と思うが、そうなったらそうなったで携帯を利用してきた層とPCを利用してきた層との文化的な違いによる激しい衝突が起こりそうな気もしたり。異なる文化圏が交わると大きな衝突が生まれやすい。



できれば、ネット上は、文化の断絶がなく年齢に関わらず交流できる場になってほしい。

[]BAN祭再びか?


今日に入ってから、Twitter上で発言できないというユーザーがちらほら出てきているようです。かつてのBAN祭、再びか?ログは見えるものの、発言ができないみたいで、はてなグループのついったー部内にそういう症状になったユーザー達が集まってるようです。

BAN部 - はてなグループ::ついったー部


なんか返信のログがおかしくなったりしてたので、Twitter内のトラブルな可能性も高い今回のBAN騒動、早く直るといいですね。

[]任天堂DSでのコンテンツ配信


映画やアニメなどの映像や、書籍、コミックなど出版物のコンテンツをPC経由で配信。専用microSDカードを介してDSで再生するというもの。スタート時は300タイトル、2010年には1万タイトルを目指す。なお、ゲームの販売は行なわない。

ニンテンドーDS向け動画/書籍配信が'08年3月に開始

いろんな電子機器が発達してきて、さまざまな方法でコンテンツを視聴できる環境が登場してきているけど、携帯ゲーム機である任天堂DSもそれに参入。

専用microSDカードをつかってPC経由ってのがちょっと面倒さを感じるけど、コンテンツ再生媒体としてのDSってのは販売台数が多いので有望そうだ。


特徴は、映画やコミック、書籍などのコンテンツをそのまま鑑賞できるほか、タッチペンを用いたインタラクティブな操作も可能とする点。具体的な配信タイトルなどは決まっていないが、会場では、ルーブル美術館を案内するコンテンツをデモ。タッチペンで館内図から観たい場所を選んで絵を鑑賞するほか、手法や作者の性別などから検索するといった機能も紹介していた。

ニンテンドーDS向け動画/書籍配信が'08年3月に開始

DSならではなインタラクティブな操作が可能ってのが面白い試み。



携帯電話に携帯ゲーム機に携帯ミュージック・ビデオプレーヤーに電子ブックリーダーに、といろんなコンテンツを持ち運んで楽しむ方法がでてきているけど、どれが主流になって残るんだろうか。

[]コンテンツの価値と対価の移り変わり


fladdict.net blog: 「品質」という概念の価値が相対的に下がっている」を読んで。


実際にネットのさまざまなサービスを利用した上での、「品質」に対する考察。


芸術的な映画や音楽会や絵画のようにそれそのものの鑑賞の主目的にとなるコンテンツ、あるいはファッションや車のように社会的階級やセックスアピールとして機能する、自己プレゼンテーション用の装置においては「品質」というものは、今後も機能する。

一方で、カラオケや話題、ネタレベルのコンテンツ、そして社会に露出する必要のない狭いコミュニティ(2chやニコニコがその象徴)上でのコンテンツほど、品質以上に「即時性」、「コンテクストへの非依存性」、「会話の誘発性」、「突っ込まれビリティ」などの価値が上昇していく。結果、コミュニケーションの踏み台にすぎないコンテンツでは、品質の価値が限りなく0に近づいていく。そういう意味で脳内メーカーとかは象徴的だった。場合によっては、今後は「品質」というのが、表層の精緻さからコミュニケーションを誘発させる装置としての完成度という意味へと変貌してくのではないかと思う。

fladdict.net blog: 「品質」という概念の価値が相対的に下がっている

「コミュニケーション性」ってのも「品質」と同じようにコンテンツの価値を評価する上での要素となっていて、最近ネットで広まることが多くなったコンテンツは「品質」が低くても「コミュニケーション性」が高くてトータル的に価値が高まってる、私もそんな風に感じることが多い。

あと、コンテンツ自体の「品質」とは別に「ブランド力」みたいな部分ってのも、「コミュニケーション性」と似たような価値として働いているんじゃないだろうか。自分が感じる「品質」とは別に大勢が認めているからという価値基準での「ブランド力」。他にもあるかもしれないが、こういういろんな面の価値が合計されてそのコンテンツの価値として認められる。



人々の持っているお金や時間は有限なので、多くの人が「コミュニケーション性」に惹かれそれらの価値を高く感じるようになれば、相対的に「品質」や「ブランド力」のような他の判断基準の価値が下がっていく。



どんどんと人々の興味の対象が広く浅くなっていく時代においては、コンテンツとコンテンツの対価というものも、品質の高いコンテンツに高い対価を、というスタイルから個々の対価は低く、でも幅広い多くの対象から対価を得るという形に変わっていく必要があるんじゃないだろうか。


ネットではあらゆるコンテンツが無料で手に入る、と思っている人々がどんどん増えていく状況は非常にまずいように思う。全てのコンテンツが有料になる必要もないが、自分が価値を認めたものに対しては対価を支払える環境がないと、そのコンテンツの価値はどんどんと下がっていくだろう。

価値があるものにはそれなりの対価を支払うってのは、今までは作り手側が決めた値段を支払うのみだったのが、これからは受け手側が感じた価値で値段を決めて支払うなんて流れになるんじゃないかってこと。ネット上ではそういう動きもちらほらと見え始めてきている。


かつてはコンテンツを複製し、独占流通させることで多くの対価を得ていた流通が強い時代から、より価値の高いコンテンツ(品質・ブランド力・コミュニケーション性など)を提供する人の場所へ対価が集まるしくみってのは、非常に自然な流れだと思う。素晴らしいコンテンツはそれを作った人、それを楽しむ人々がいてこそのもの。ネットはコンテンツの作り手とそれを楽しむユーザーの距離を縮め、それを流通させる存在を排除していく。

もちろん、既存の流通で多くの対価を得ていた人たちからの猛烈な抵抗があるんだろうけど、それがどこまで続くのか。激しすぎる抵抗は、逆に流通自体の寿命を早く縮めていくようにも感じる。(ネットでのコンテンツ拡散の抑止→反動での既存流通コンテンツ拒否やネットでのコンテンツ発表への動きの高まり→急速な流通経路の変化)

コンテンツを流通させている人たちが考えるべきは、現実として現れてしまったネットという新たな流通経路を認め、どうやってクリエイターとユーザーを結びつける行為から対価を得られるかを真剣に考えること。



価値の高いモノを作ってる人がそれに見合った対価を得ていけるような社会は、ネットによる流通コストの激減で実現されるのか。10年、20年後にどうなっているか、振り返るそのときに期待したい。

[]相手を変えるためじゃなく自分を変えるために議論したい


ブロガーに意見して考えが変えられるなんて思ったら大間違い - novtan別館」を読んで。


ブログでも掲示板でもそうですが、ネット上で誰かと議論してるときって勝ち負けにこだわりすぎてる人が多いよなあ、と感じます。

私にとってネット上で誰かと議論するのは、相手が何を考えてるのかをより深く知りたいから、ってのがあって、相手に勝ちたい、負けたくない、とか相手を言い負かそうとか、相手の考えを変えてやろう、なんては思わない。

相手と議論しあって、互いに何を考えているのか分かって、それが相容れないものだったらそう考える人もいるんだな、それでおしまいです。相手との議論で何か得るものがあって自分の考えを変えるってのはアリだけど、それを相手に求めようとは思わない。もちろん、相手が自分の意見を見て考えを変えるってのはそれはそれで相手の自由。


自分の考えというものを確立するために、より多くの人がどう考えているのかを知りたい。だから、いろんな人と会話してみたいし、なぜそう思うか、考えるかが知りたい。何かの話題があるときに、深く追求する一方で、一歩引いた視線で見ることが多いのも、その話題をより深く理解するため。


相手の考えを変えるために議論するのではなくて、自分の考えをより深くするために、自分を変えるために議論したい。



ウェブに(限ったことではないけど)言論の自由があることを信じている人は、他者がそれを受け入れない自由も十分に持っている上で、価値観のあわないものを排除するのではなく、避けていく努力をすべきだと思う次第。

ブロガーに意見して考えが変えられるなんて思ったら大間違い - novtan別館

スルー力などと呼ばれる部分ですね。


いろんな話題にふれるのが好きですが、それが相互理解とか情報共有ではなく、単なる感情のぶつけ合いになってしまいそうな分野はスルーすることが多いかも。

[]ネットという表現の場


茂木健一郎 クオリア日記: 表現者はいいわけをしてはいけない」を読んで。


作品と呼ばれるような表現をどう表現し、どう鑑賞するか。



本とか芸術のような表現を世の中に出すってことは「いいわけをしてはいけない」ってことなんだと思う。伝えるべき、いや、表現したいものは全て作品の中にこめる。そうやって表現としての高みに昇っていく。



ただ、最近現れたネットという表現の場を見てると、違う形の表現もあるのかな、という気もする。

ネット上に上げた自分の表現、それに対する反応を見て全ての反応に返事を返すことは不可能だけれども、反応に対しての返答という形で最初の表現を深めていく。そうして、観客をも巻き込んだ形で作り上げていく表現の形もあるんじゃないだろうか。



かつての個人でしか作り上げることのできなかった表現の時代から、大勢の知を共有して作っていく表現の時代への変貌。

[]完璧に分かり合うことはありえないけど分かり合うためには


私の見ているあなたは、あなたではない何か - 深く考えないで捨てるように書く」を読んで。


ネットでもリアルでも、たくさんの自分ではない他人と接しているわけですが、他人がどういう人なのかという自分の捉え方がリアルでは修正しやすいがネットではそうではないかも、という記事。



こういう感覚は確かにあります。ある他人がどういう人か?ってのは、自分が感じたその人の印象ってのが自分の中にあって、その人とのさまざまなやり取りによってそれは修正されつつ構築されていくのが、リアルだと情報量が多いので修正しやすいが、ネットだとどうしても文字中心になりがちで修正が効き難いという。


文字だけのやりとりが多いブログなどでは、書いたエントリひとつひとつが独立して読まれることが多いですから、書いた本人である私が意図していない内容として読まれることが多々あります。基本的に人は「自分の読みたいように読む」という習性がありますから、同じ文章を見てもどう感じるかは人それぞれで、書き手が思ってもいなかったことを読み手が読み取るなんてのはごく普通にありがちなこと。

なるべくそうならないような文章の書き方もありますが、やたらと堅苦しくかしこまった文章になってしまって、面白みがなくなってしまったりする。


リアルの生活でも同様のことは起こりうるのだが、ネットがそれと決定的に異なるのは、細かい修正の機会が少ない、ということなのではないか、と思う。

例えば、あるエントリを書く。それに対して反論や感想やその他の意見がくる。その時、それを修正したいと思ったら、できることは、さらにそれに対する反論しかない。「そうじゃないんだけどな」と言ったところで、誰も納得はしない。

リアルなら、ある程度互いの関係が続く間柄ならば、「そうじゃないんだけどな」とつぶやいて、放っておけば、たいがいなんとかなる。「そうじゃない」ことを面と向かっての反論以外で相手に伝える機会と手段が多々あるからだ。

私の見ているあなたは、あなたではない何か - 深く考えないで捨てるように書く

「そうじゃないんだけどな」で誰も納得はしないわけではないと思いますが、相手に理解してもらおうと思ったら何故そう思ったのかを明確に返す必要がありますよね。「○○はこうで、私は△△と思っているから××」のように。

まぁ、これはネットでもリアルでも同様なのですが、一見多い情報量で理解しているんじゃないか?と思えるリアルの方でも、実は単なる自分の思い込みで本人の考えてることとは違う解釈をしてるなんてことも多いのかな?と思うことがあります。



結局のところ、人に何かを伝えるときってのは、細かいコミュニケーションを誠実に続けていく以外はわき道にそれやすい(誤読、誤解など)んだろうなぁ。

他人と完璧に分かり合うことなんてのは不可能ですが、なるべく分かり合いたいと思ったらやりとり・修正を続けていくしかない。一方的に自分の主張をぶつけるだけではなかなか近づけません。

[]大きな荷物をわくわくして開けたら・・・


法務だけど理系女子の綴るblog: Amazonさんから空気のお届けものです


Amazonから送られてくる商品が入ったダンボールサイズが中味とつりあってない??という記事。


私も最近はよくAmazonを利用するようになりましたが、確かに中味は少し(本1冊やCD1枚など)なのに大きめなダンボールで届くことってありますね。サイズがあってないのはなんか無駄にも感じますが、送る側の作業効率などからサイズをある程度統一した方が逆に効率的になるなんてこと、Amazonくらい大量に荷物をさばく環境になるとあるのかもしれません。