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2009-06-30

 鈴木理策さんのワークショップで,鈴木さんは「行き場のない写真」という話をされた。
 発表されるあてもないまま、作者のもとにため込まれたたくさんの写真があるのではないかという話で、そういう写真のことを「行き場のない写真」と言ったのだ。
 ワークショップの最後に発表しなさい「行き場のない写真」にならないためにと声かけられた。
 けれども、自分の写真を行き場を見つけてやるには,どうしたらいいのだろうか?
 一回の個展によって,「行き場のない写真」が世の中に居場所を見つけるとは思えない.
 「個展を開きなさい,そうすれば,色々な批判を受け,成長する.このままだったら,ずっとこのレベルにいるだけだ.」と,さんざん色々な人に言われてきた.
 むしろ,自分で「個展」を開き,あまりにも周りの反応のなさに絶望し,写真から遠ざかっていった人の方が多いのではないかと思っている.
 もしかして「行き場のない写真」≒「成仏できない写真」なのかもしれない,いつまでも,その写真のことを引きずっていないで,次に転進するために個展をするのだ.「個展」≒「葬式」だと思えばいいのだ.
 とにかく,この一夏,写真を撮りつつ,まずどのタイプの写真の「葬式」を挙げるべきかを考えてみようと思う.


 

2009-06-29

 帰りが遅くなっても,池袋の街を歩いたり,途中下車してホームから景色を撮っていたのだが,同じような写真しか撮っていないような気がするのと,何となく疲れがたまり気力も無くなってきていることもあって,無理して写真を撮らなくなった.
 電車も窓側の席に座るよりも,窓に背を向けて座る方が楽なので,電車からの景色もずっと撮っていない.今日はたまたま窓際の席しか空いていなかったので,窓際に座り久し振りに「流れる風景」シリーズを撮る.
 そういえば,先週ニコンサロンに行ったとき,juna21林 秀煥展[Picturesque]という写真展を行っていた.
 展覧会の案内より

<時間は空間上に存在して、物体は多面をもっている。>
歴史的に写真は、固定されたひとつの消失点で停止した時間を記録する機能を示してきた。
固定されたまま、時間的、空間的な“停止”の対象をただの視線(カメラ)の動きを使って時間の流れと空間の移動を同時に1つの写真で表現しようとした。つまり、静止した被写体の静止した空間を、ただカメラの瞬時の動きを通る時に、空間の流れを込めて見ることができる。
1カットの写真で、カメラのシャッターを長く開放したまま、瞬間的な動きを与えるイメージは、固定されたひとつの消失点を基準にすることができない。このような視線自体の水平的な動きは、遠近感の破壊を試みる。遠近感の破壊は、物事の間の距離感も、物体の明確な形と色も消え、ただ流れの形状のみを残す。これは、動かず1カ所を長く受けることができない、忙しい現代の人々の風景を認識する方法と似ていると、作者は思う。
交通手段(高速歩行を含む)を利用して、すぐにどこかに移動しながら眺めた風景は、自分が見た多数の画像と一緒に解読し、頭の中に保存することに忙しい。
このような風景は、ひとつの消失点に停止された遠近感の深さに来るより早く、多くのイメージとすれ違いながら、かすんでいることの残像だけで覚えているだけだ。

 時間と多視点からのイメージを組み込むというのは,ここ数年取り組んできた私のテーマでもあった
ので,興味深くというか同じようなことをやっているなと思ってみていた.
 きっとそれが刺激になり,今日の写真をとらせたのかもしれない.
f:id:heliograph:20090629213053j:image
f:id:heliograph:20090629213054j:image

2009-06-28

布団から抜け出すと,かなり雨が本格的に降っていた.
何となく,コンピュータを立ち上げて,ネットサーフィン.昨日,展覧会を見に行った坂田峰夫さんのBLOGを見つける.http://d.hatena.ne.jp/MINEO_SAKATA/をご覧下さい.特に,http://d.hatena.ne.jp/MINEO_SAKATA/about にフォトグラムへの思い,技法についての解説が書いてあります.
 ただ,坂田さんのフォトグラムの技法のことが気になり,顕微鏡レントゲンがキーワードにして調べてみるが,よく分からない.
 前から,フォトグラムについては自分でもいくつかアイデアがあるのでいろいろ試してみたいことが出てきた.

 昨日,何気なくWilliam Eggleston 2 1/4 を6x6の作品とかいてしまったが,もしかして,2 1/4というフォーマットがあるのではと気になり出して,検索をしてみる. 

Rollei and Rolleiflex, Franke & Heidecke, respected names in the history of medium format 2 1/4 inch photography.


という文章を見つけた.どうやら 2 1/4って6x6の同じ意味のようだ.
2 1/4(inch)=2.54×2.25=5.715(cm)であるから,ほぼ6x6の実画面の一辺と同じ長さだ.

 昼は横浜へ,カメラ屋で何となく時間をつぶす.今月号の写真雑誌を読んだり,O社のデジタル一眼の新製品を手に撮ったりしているうちに,このカメラを買いたくなったしまった.幸い,大人気注文が殺到し,7月中旬まで手に入らないようだ.諦められるか?この夏は4x5をかついで街に出るはずだったのに,自分のいい加減さに呆れる.
 

 
 
 

2009-06-27


今日はギャラリーを回り,新橋で降りて,

を見て,日本橋から地下鉄広尾まで移動し,
 TOKIO OUT of PLACE で 『坂田峰夫展 l u x』
を見た.

鈴木理策 「WHITE」』は2度目.
 ガーディアン・ガーデンの『韓国若手作家による「4つの方法」展』の金玉善(キム・オクソン) “Happy Together”は

国境を越えた人――国際結婚をした私を人はそう呼ぶ。このシリーズは異国籍や同性愛など、いわゆる異文化同士のカップルの肖像であり、相手の文化に対する関心と同時に、風習や価値観の相違からくる葛藤への取り組みだ。他のカップルを記録することで、私が解くべき問題を探ってみたい。
1967年ソウル生まれ。1996年弘益大学産業美術大学院写真デザイン専攻修了

 という作品であるが,すべての写真が,二人のうちの一人(おそらく韓国籍の人)だけがカメラに視線を向け,もう一人が他に視線を向けているのが気になった.
 実は昨日ある人に,ポートレイトの撮影を頼まれたのだが,カメラの方を見てもらうのか,ずらした方がいいのかが非常に気になったのだ.そんなことがあったので,この作品が非常に気になったのだ.(ちなみに,カメラを見ていない方の写真を昨日は選びました.)
 他に,朴昇勳(パク・スンフン) “TEXTUS (織物 -woven fabrics、2008”

“TEXTUS”は緯糸と経糸から成る織物をイメージした作品だ。8×10ホルダーに映画用16?フィルムを隙間なく貼り付け撮影し、組み替えることで最終的なイメージを作り上げた。観る者は各自の経験により、まるでpuzzleのように複雑かつ多様な個人的意味を生成することになる。
1978年スウォン生まれ。2009年中央大学一般大学院写真専攻修了

が面白かった.
 ZEIT-FOTO SALONまでは予定の行動だったのだが,最後の2つ,野村仁展と坂田峰夫展は,ZEITOで壁に貼ってあったDMで見つけたものだ.
 野村仁展は魚眼レンズで一日の太陽の軌跡を記録した写真や赤道儀を使い景色が自転によって動いているのを写した写真等興味深かった.
 今日の収穫は『坂田峰夫展 l u x』である.
 http://www.outofplace.jp/TOKIO%20OoP/Mineo%20Sakata%20release%20.html
 フォトグラムといっても,単に印画紙の上に者を置いて光をあてたのではないらしい,ものは直接印画紙の上には置いてないようで,作者の言葉では「顕微鏡レントゲンのような装置」のようなものですという以上の説明はなかった.カラー印画紙とガラスによりスペクトルに分解されたカラーの作品もあったが,白黒の植物のシリーズが素晴らしかった.展示以外の植物のフォトグラムの作品を沢山見せて頂き,非常に楽しい時を過ごすことが出来ました.
 帰りは,恵比寿まで歩き,途中NADiff APARTにより,Richard Avedon,Diane Arbus等が人物写真で,被写体の人の視線がどこに向かっているかを調べた.Diane Arbusの写した人達はじっとカメラを見据えていた.Richard Avedonのはまちまちであったが,有名なMarilyn Monroeの写真はこちらをカメラを見ていなかった.
 昨日の話に戻るけど,Avedonのポートレイトに沢山の6x6の作品があった.視線の話とは別だが,写真集を見ているうちに気がついたのだけど William Eggleston 2 1/4 も6x6の作品でした.

 とにかく,充実した一日でした.

 

 

2009-06-26

 正方形のフォーマットって安定しててしまって面白みがないとか,簡単に写真になってしまうとか言われることがよくある.
 先日買った,写真と日々(清水穣著)にも.正方形のフォーマットについて,清水穣と松江泰治との対談が載っている.
 「cell」を巡る対話 松江泰治×清水穣より引用 M:松江 S:清水

 M 正方形はそれ自体が美しい.僕たちは新しい美しさを探さないといけないから,これまで作品に取り入れなかった.他方で正方形は一番醜いフォーマットだと思う.
 S 一つには,正方形というフォーマットは安易だと思うんです.縦位置と横位置にはそれぞれ意味があるわけど,そのどちらでもないという,決定回避.しかも正方形は,画面に何となくためができて何かあるなと思わせぶりに見える.さらに箱みたいにオブジェとしてきれいにまとまる,と,簡単にアート作品を作れるフォーマットとして安易なんです.
 世の中にはそれに頼り切った作家もいるから,松江さんがあえて正方形を使うのには皮肉の意味がある.「正方形を使えば絵になるでしょうよ.でもそれはいいことだ.」と突き放している.しかし「cell」の作品を見ると,思わせぶりな嫌らしさみたいものはない.なぜかといえば,正方形の画面を使う作家の多くは6x6のフォーマットで撮るわけだけど,そのフレームでもって,風景の中からここを絵づくりをするわけで……
 M 撮るときに正方形でフレーミングすることが,思わせぶりなものを作ってしまう.
 S 他方,「cell」の場合はフレーミングの結果の正方形じゃない.写っていた細部を拡大するとき掬い網の形みたいものですね.それに過ぎないから画面の感じが確かに違ってきて,だから嫌らしさがない.
 M それはレンズの中心軸が画面の真ん中にあるかないかじゃないかな,画面の端の方を拡大すると,レンズの中心軸をはずしているからすごくよそよそしい感じになる.6x6のカメラだと,フレーミングすると中心は必ず画面の真ん中にあってそれで完成してしまう.「cell」は完成してないふうに見えるんじゃないか.
 S 実際,写そうと思ったものではなく,写っていたものに過ぎない.仮に人間に180度見えるとしたら,165度とか178度とかそんなところのものを拾っている.レンズの中心軸,つまり関心が真ん中にあった上での正方形の絵づくりじゃなくて,芯をはずした,このよそよそしさは,「cell」の大きな特徴ですね.

 前に,6x6って上手く見えるんだよねって言われた後,Horizon(24mm x 56mのパノラマ)を使って,しばらく写真を撮ったことがある.

 6x6で素晴らしい作品を作っている作家の名前を列挙してみると.
  Diane Arbus, Robert Mapplethorpe Robert Adams, Lee Friedlander
須田一政植田正治鬼海弘雄
 この人達の作品がとても安易とは思わないのだが……

2009-06-25

 新宿トップスのビル8Fにあるカフェ ユイット とギャラリーユイットが28日に閉店となる.
そこで,店の常連である森山大道展「8 Fleurs」がギャラリーの最後の展示となった.
 この「8 Fleurs」展を企画したのが写真家の西村陽一郎さんである.
 そもそも西村陽一郎さんのフォトグラムの展覧会「水の記憶」を見に行き,この店に通うようになったのだった.それが縁でルーニーで行われた西村さんのワークショップでフォトグラムの体験をしたり,時々,西村さんに写真を見てもらいアドバイスを頂いたりした.
 友人がここで展覧会をしたとき,お手伝いしたり,仲間と長いことおしゃべりした思い出が一杯の場所がなくなってしまう.
 今日は一人なのに良く森山さんが座る,メインテーブルを独占する最高の贅沢をすることができた.いつか,ここで展覧会をやるのを目標としてきただけに非常に残念だ.どこかで,この店が再会されるのをお祈りしています.
 
f:id:heliograph:20090625210427j:image

何年も続けている,flickrのView countsがやっと9999になった,10000になるのはいつになるのかと思っていたのだが,ようやくここまで来ました.
f:id:heliograph:20090626020042j:image


どうか日記だけでなく,
http://www.flickr.com/photos/heliograph/
もよろしくお願いします.
 

2009-06-24

 この2週間近く,写真を撮り歩いてなかったが,今日は用事もあり,新大久保から歩き出し,大久保,新宿ニコンサロン,ジュンク堂と歩いたので,久し振りに100枚以上の写真を撮った.
f:id:heliograph:20090624163002j:image
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f:id:heliograph:20090624173929j:image
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写真を撮って歩いているうちにいろいろなことを考えた.とりあえず,夏に向かっての目標が何となく出来た.
 途中,中古カメラ屋で4x5のfilmfolderを買う.そうです,4x5をいよいよ担ぎ出そうと思っているのです.

2009-06-23

[]

 展覧会が終わって,疲れがどっと出てきた感じです.
 今日は,レンタルフレームの送料の精算に四谷ルーニーまで行きました.
 行く途中で,TOTEM POLE PHOTO GALLERYにより,
 TIOUS × TOTEM POLE PHOTO GALLERY  「Opera」を見る.
 ちょうどOpeninng Partyの最中だったようで,入っていっても,誰からも挨拶されず,場違いな感じがして慌てて出てきた.
 写真をよく知らない人が紛れ込んできたような感じになってしまった.

 今回の横浜美術館での展示が終わってから考えているのだが,結局,仲間内だけ集まって当たり障りのないことをしゃべっているだけの展覧会をやる必要はないと思う.皆がいうように展覧会をやることにより,ほんとうに自分を高める(=よりよい作品を作れるようになる)ことになるのだろうか?
 ルーニーで送料の精算を行い,ギャラリーをのぞく,
   中山慶治写真展「1979年の迷宮」
 を見る.
 入ったとき「迷宮」って言葉に思わず苦笑.
 こちらは,作者から挨拶があり,展示を2周して見た.

 新宿ジュンク堂により,
 

日々是写真

日々是写真

四角形の歴史 (こどもの哲学・大人の絵本)

四角形の歴史 (こどもの哲学・大人の絵本)



を買う.買わなかったが,

現代アメリカ写真を読む―デモクラシーの眺望 (写真叢書)

現代アメリカ写真を読む―デモクラシーの眺望 (写真叢書)

を少し見る.

2009-06-21

 今日で展覧会は終わりました.片付けの後,打ち上げと,深夜帰宅となりました.
展覧会を終えてお感想は明日以降書きたいと思います.

2009-06-20

 朝から,会場に行く.今日は午前中の人の入りは少ない.土曜日なので,仕事が休みの人が多く,朝はゆっくり休んで,昼ぐらいから動き出す人が多いのだろうか?
 
 美術館の前のベンチに座り,知人が来るのをチェックしていたのだが,写真を見終わって,帰るときになって気がついたのことが2回あり,案内も出来ずに本当に申し訳ないことをしました.

 でも,中の冷房がきついこともあり,外のベンチで待ち続けました.
  しまいにはベンチに横になり,空を見上げて,久し振りに雲の流れて行くのを観察したりして時を過ごしました.
f:id:heliograph:20090620154315j:image
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 今日は全部で5人の知人が来場して下さいました.本当にありがとうございます.

 明日は,最終日,片付けです.一応一区切りついたので,今後どのように写真を続けるか少し真剣に考えたいと思います.

 とにかく,やりかけたというか,まとめていないシリーズがいくつかあったり,やりたいなって思っていることもあったりで,頭の中はゴッチャゴチャです.いろいろな商売に手を出して倒産しかけている会社みたいな状態です.

 
 
 
 

2009-06-19

 今日は午後から,展覧会会場で受付の当番.
朝,10時過ぎに横浜美術館Gallery1に行き,ポートフォリオを置く.美術館前のベンチにしばらくいたが,近くでコーヒーを飲みながら時間つぶし,食事後会場で当番.芳名帳を見ると,知人がその間に尋ねてくれていた.午後からだろうと油断していて大変申し訳ないことをしてしまいました.
 
 午前中に比べて客足が途絶え,約一時間くらい人が入らない.そのうちにちらほら入り始めたのだが,ほとんどの人が私の作品の前を素早く通り過ぎていく,一つの写真を見る時間ってあっという間なんだっというのが実感.せっかくポートフォリオを作ったのに全く見ない.
 その後,職場の同僚が奥さんと見に来てくれて,ポートフォリオを見てもらい一安心.結局,来た人もほとんど知人の写真を見ていくだけのようだ.
 時々,写真学校の学生,横浜美術館企画展フランス絵画の19世紀」を見に来て,ついでに立ち寄る人もいるのだが,結局,ポートフォリオを開いてくれたのは2,3人だけだった.

 待つ時間が多かったので,
 



 を読み終えた.我が家の付近の昔の様子が描写されている作品で,興味深く読むことが出来た.


 

2009-06-18

 六本木に用があり,恵比寿で下車.Nadiff a/p/a/r/t の2階G/P Galleryで上田義彦個展『QUINAULT』を見る.
 G/P GalleryのHPhttp://www.gptokyo.jp/exhibition/index.php)から

 上田義彦が1990 年代初頭に撮った名作『QUINAULT』が、上田義彦自身のセレクトによる7点の「ニューエディション」として、ここに登場します。アメリカ・インディアンにより「QUINAULT」と名づけられた森を撮影したこの美しいシリーズは、写真集化され、今も国内外で高い評価を得ており、コレクターたちからもニューエディションが待望されていました。珠宝とも言えるこのシリーズを御披露目させていただきますので、ぜひ御高覧たまわればと思います。会期中、上田義彦によるトークショーも予定しております。

 このQUINAULTとという森はどこにあるか調べた,ワシントン州オリンピック半島にあるようだ.

 
大きな地図で見る

 今度,森に入るとき,4x5を担いでいこうかと思っている.

2009-06-16

ほぼ,ポートフォリオに入れる写真のセレクトと並び順は出来たと思う.
ただ,いかにも買ったポートフォリオのケースが安っぽい感じでやだ.
前に,アルミ板で表紙を作った手作りのポートフォリオを見たが,自作するかどうか迷う.

今日も写真は撮らなかった.時間的な余裕が全くない.体を壊さないためにもこの方が正常なのかも,とにかく毎日写真を撮らなきゃという,プレッシャーを感じなくなってきた.いいことなのかどうかは分からない.

2009-06-15 グループ展

 今日から,展覧会が始まりました.
 昨日は,昼過ぎから,21時位まで準備をしました.17時までの予定だったのに,時間を延長してまでも,少しでも良い展示にしようと色々動き回って下さる,美術館の職員の人達に感謝するというか,そのプロ意識に感動しました.沢山のノウハウも得ることができたように思います,
 ここまででも,十分このグループ展に参加して良かったと思っています.

 家に帰って来て,日記にこのことを書かねばと思っていたのですが,コンピュータの電源は入れたのですが,結局,疲れから,何も書かないで寝てしまいました.
 f:id:heliograph:20090614205735j:image
 

 
 昨日,最後に,鈴木理策さんが,ポートフォリオを作って会場に置いてみてはとのアドバイスをして下さったので,今日はポートフォリオを作ることにしました.金土日の3日間には会場に置くつもりです.
 どういう順で,どのような構成で見せるべきか考えるのは難しいけれども,結構,楽しい作業です.
 

2009-06-13

 午前中に戸田に用事があった.赤羽湘南ラインに乗り換えようとしたのだが,接続が悪く,それでは赤羽で食事をしようと,改札を出て,何年振りかで赤羽の街に飛び出した.食事の後,カメラを撮りだし街をうろつくが,今日はあまりシャッターを押せなかった.
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明日,いよいよ搬入だ,確認のため自分の引き伸ばしたものを見る.ずっと見てなかったので頭の中では,すごい作品になっていたのだが,見てがっくりした.もっと黒の締まりがあったように思うのだが,鈴木理策さんになんだこの伸ばしはとか.言われたらどしようなんて考えてしまった.とにかく,これだけしか準備出来なかったのだから,開き直るしかないのだ.
 考えてみたら,自分でオーバーマットを付けて額装したことがなかった.後で,Webで調べておこう.




 

2009-06-12

更新

電車のなかからメイルでかいています。
頑張ってというか、半分眠りながら、深夜に書いた昨日の日記を書き込みせずにコンピューターの電源を落としてしまったようです。

数日、写真も撮っていません。終電帰りが2日続いてます。明日も仕事があるので、日曜日の搬入、展示準備がかなり辛くなりそうです。


昨日,Google Readerの未読を少なくしようとして見ていたホームページからたどり着いた,東京国立近代美術館増田伶さんのインタビューに写真家小野規さんが答えている.
 http://onotad.free.fr/page-fieldwork/interview-ffp(japanese).html
から,引用します.

      • この連作のなかで「植物」という存在(への視線、関心)が担う役割は、とても重要なものに見えますが

写真を始める以前から、植物という有機体の存在のありよう、そして形態に興味を持ってきました。 とくに樹木という存在には「有機的知性」とでもいえるものが凝縮されていると思います。 形態、構造、生命維持のシステム・・・すべてにおいて高度に洗練・完成されています。 写真の発明直後から多くのパイオニアたちが樹木にレンズを向けてきたのは、19世紀の自然志向という以外に、その有機的形態に凝縮された知性、写真とは別の体系にある知性を視覚化したかったのかもしれません。 

荒地の雑草群も一見混沌として無秩序が支配しているように見えますが、実際は一定の生活サイクルのもと、移動や増殖を繰り返しながら変化を続けていく集合的な存在です。 そこには強い存続への希求があり、一気に破滅したりするようなことはありません。 

複雑に交錯する有機的なフォルムの集合体は、モダニズム的、幾何学的なフォルムの対極にあるようでいながら、実際はそれをも飲み込み、乗り越えていく存在です。

幾何学的なフレームは、写真のフレームもそうですが、フレーム内のものを取り込み、その外にあるものを排除します。 しかし荒地の雑草は、そこにフレームを設置しても、種子や地下茎によってフレームを乗り越え、いずれフレームそのものを覆い隠してしまいます。

そうしたフレーム/枠組みを乗り越えていく有機的な存在として、荒地の雑草群の複雑なフォルムは、郊外における人間のありようとどこか重なるところがあるように思います。 

      • 「植物」がこの連作においてはたしているのと同様、小野さんの仕事にとってやはり19世紀の写真という「参照系」は、とても重要な位置を占めていると思います。それはどのようなものなのでしょう?

たしかに私の作品の多くは、19世紀の写真との対話のように展開してきています。 19世紀は写真が新しいメディアとして記録性と表現性の両面において大きく発展した世紀ですが、この時期の写真家の幾人かは、まなざしのありよう、対象との距離のとりかた、光への感受性など、実に非凡で器の大きい作家ではなかったかと思っています。 むろん植民地主義とのかかわりなど必ずしも肯定できない部分も多々ありますが、彼らの写真からは学ぶことがいまだに多く、一部を引用し、現代のコンテクストに移し替えてみたいという欲求を感じるのです。

19世紀の写真家たちは一般にプリミティヴな記録写真家という評価をされることが多いですが、それは20世紀以後のアートを指向するモダンな写真を良しとする視点からの物言いだと思います。 モダンとは新しいものを作り続けることにより前に向かって逃走していくことだとボードリヤールが言っていたように思いますが、私自身は今モダンであること、新しいスタイルを発明し続けることにそれほど必然を感じていません。 むしろ後ろを再検証することでより確実に前に進めないか、という思いがあります。 歴史を参考にしながら、瞬間より、ゆっくりと風景にしみ込んだ時間を記録したい。 そのための描写ツールとして写真はなかなかすぐれているし、記録性を追求していくことで表現性が出てくるというパラドクサルなメディアなんだと思っています。

たとえば荒地の雑草のシリーズでは(今回は会場の都合上出品点数が少なく明確に伝わりにくいかもしれませんが)、アルフレッド・スティーグリッツの「Grass」やハリー・キャラハンの写真作品のように、カンディンスキーから抽象表現主義に続くオールオーバーな絵画的表面を指向するモダニスト的展開が想起されますが、それとは違うオータナティヴな可能性を探りたかった。モダニスト的展開とは同時に団地の建築そのものでもあるから。 そうした時、19 世紀フランスのフォンテーヌブロー派の写真家が意外な可能性を提示してくれました。 つまり、有機的な現実を抽象的なフォルムに分解するな、光とともに描写せよ、ということです。 

19 世紀フランスのフォンテーヌブロー派の写真家ってどの人を言っているのかがわからない.絵画でも,フォンテーヌブロー派のことはあまり意識してこなかった.
ちょっと調べてみたい.
 「有機的な現実を抽象的なフォルムに分解するな、光とともに描写せよ」
ってところが,気に入っているのです.

2009-06-09

タイトルを決める.さんざん迷ったあげく.
 Grass Labyrinth ―草迷宮
にしました.
 泉鏡花の「草迷宮」の舞台の逗子・葉山で撮った写真ですし.
自宅は,泉鏡花がよく訪れたと言われる「岩殿寺」にあるし,現像した仕事場は秋谷にあるからって理由にならないけど,無理やり納得させました.
 でも,題名のイメージだけでは使っては失礼かと.

草迷宮 (岩波文庫)

草迷宮 (岩波文庫)

を買って読みました.なかなか複雑な構成の作品で,最初のうちは読み辛かったですが,次第に,その作品の世界に引き込まれ,久し振りに小説を読む楽しさを味会うことができました.
 私の作品は鏡花の「草迷宮」にはとうてい及びませんが,草むらの中のなんとも妖しい様子が少しでも,感じてもらえればっと思っています.

2009-06-08

titleについて,
山崎博「動く写真! 止まる映画!!」より引用

 ●表現とタイトルの関係
 映画「HELIOGRAPHY」は,言ってみれば太陽が沈んでまた昇ってくる.それだけなんですね.でも,それは再現ではない.長時間露光もそうでうけど,そういう現実を見た人はいないんですよ.だから再現しているのとは違う.やっぱり,メディアを通過させることができる世界は,人間がその目で見ている世界とは違うわけです.そういう考え方が僕の制作する際の最も基本的なものとしてありますね.その上で,何にどうやってカメラを向けるかということが重なってくる.
 昔,こんなことを言ったことがあります.「何を写すかとどう写すかは同義だ」って,本当は,その二つは違うことのはずです.だけど,なにをどう写したいかっていうのが同時に出てくることもあって,その時は同義と言ってもいいくらいに近い.これを写すんだからこう写さないといけないってね.
 それは,タイトルにも同じようなことが言えるんです.理屈じゃなくてね.言語化するということ自体が表現の一端というより,映像の源に触れる行為に他ならないと思うんです.言語化することと,本質を考えることは同じことなんです.だから,音楽に影響を受けるように言葉にも何かを感じることがあるし,影響を受ける.
 僕自身は,あんまり詩的なタイトルはつけません.即物的なタイトルばっかりなんです.それも自分が作った言葉じゃない.一般名詞かしている言葉ばかりです.例えば,最初の個展は「OBSERVATION」ってタイトルでした.その言葉は,リチャード・アヴェドンが写真集のタイトルに使ってますよね.でも彼のは「OBSERVATION」じゃないだろうっていうのが,僕にはあったから.だからあえて同じ言葉を使ったんです.
 それから,太陽を長時間露光で撮った時には,ニェペスのヘリオグラフィーがすぐに頭に浮かんで,一発で「HELIOGRAPHY」に決めました.要するに,「方法=表現=コンセプト」となること.方法論と表現と言語化された概念が同じ地平に立つのが一番いい.
 学生によく言うんですけど,飾るようなタイトルをつけては駄目です.作品をなんとか持ち上げたいから言葉を付加する,というのも駄目,中から出てくる,考え方を決めた時にもうタイトルが決まっているのが理想だと思います.

 まだ,タイトルは決まらない.
 横浜美術館より連絡がある.美術館のホームページに今度のグループ展の案内が掲載されました.

 http://www.yaf.or.jp/yma/citizen/005/

 をご覧下さい.

2009-06-07

 昼は用事があり,夜になってからDMのラベル打ち出し,以外に手間取る.途中から,ソフトをACCESSに切り替える.
 10日まで,自分の作品のtitleを決め無ければならない.これが結構難しい.個展をやるときのtitleはきめているのだが,それはもったいなくて使えない.
 ぎりぎりまで,考えることになりそうだ.
 写真を撮ってはいるのだが,flickr,heliograph.infoの写真を更新する暇がありません.
 まとめて,後日アップします.

2009-06-06

 DMを出すためのDATAの整理,住所が分からない人が結構いるので,調べるのが大変だ.
伸ばしの作業が終わったのに,何となくあのプリントで良かったのかとか,前にTRI-Xで撮った方を伸ばした方がよかったのか考えてしまう.
 自分が惹かれてシャッターを押した光景,それをまたプリントし改めて,こんな風に写ってたんだと感動したプリントが他の人にも感動を呼ぶのかどうか,前に写真家の白岡順さんに写真を見せたとき,「自分がいいと思う写真を作るしかない,もしかしたら,それを誰も評価しないかもしれないけど.」と言われたことを思いだす.
 

2009-06-05

 風の旅人の編集長佐伯 剛が37号で「写真の可能性」という文章を書いている.その中で杉本博司についてこんな文章を載せている.

信頼に値する絶対的な価値基準のない近代社会での”真実”とは,自らの信念とか評論家の意見とは関係なく,社会的に成功すること.杉本博司はそう信じて実践し,大成功を収めた.絶対的な真偽を必要としない相対的価値世界で,ひとまず優位的な立場を獲得し,さらに高度情報化社会の中でファッション性を生成し価値を増幅させていく現代アート産業の虚構戦略.杉本博司の虚実を反転させた写真は,本人の手の届かないところで商品価値を高めていき,商業アート市場で桁外れの金額で取引されるようになり,資本主義社会のなかの「真」として君臨する.しかし,金融工学を厳密に駆使して作り上げた仮想マネーのように虚に虚を積み重ねて膨れあがった「真」は,或る日突然,「虚」がバブルであったことが判明し,実態そのものに戻ることは間違いないだろう.
 杉本博司の写真が,実態そのものに戻る時,そこにあるのは,「視覚は信頼するに値する」という前提で始まった「近代主義」を,視覚表現によって否定する自己言及のパラドックスである.「言葉は重要でない」と言葉で言うのに等しく,人間の表現そのものに対する不信.それが現代の世界そのものであると認識し,その中で表現を行う者の表現は,行く着くところ,自己の表現および自己に対する不信を示すだけになる.

2009-06-04

 朝,職場に行く前にコニカミノルタプラザへ,小浪次郎写真展「UK -カーテンコール-」,荻 由美佳写真展「ONE DAY WORK,東京写真月間2009「風の旅人〜今ここにある旅」を見る.
 小浪次郎展では,会場に置いてあった,作者の父親の写真のポートフォリオに感銘を受けた.
 「風の旅人〜今ここにある旅」では,有元伸也「金のエンジェル」が印象に残った.
 ここで,アンケートに答えて,

風の旅人 37号 Find the root永遠の現在 7 時と悠

風の旅人 37号 Find the root永遠の現在 7 時と悠

をもらう.

 その,風の旅人に「見ようとする意思」というタイトルで連載している小栗康平の文章が面白い.
「標準化できない視覚のミソ」という文書なのだが,
 まず,パワーポイントについて

ずいぶん前のことになるけれど、友人の会社でこれを使い始めた。大人数が集まる社員全体研修でのことである。紙で描いたものを配ったり、矢印が示されて動いたし音も出る。会社では「見える化」といったことをいっていた。問題を見えるものにして行こうという取り組みだった。それはそれで必要とされていたことではあったけれど、これは見せ方の問題だから、見せ方を変えたからといって私たちの頭の中までもが変わるわけではない。ソフトとは、他の人の頭の中に作られた、汎用性のあるただの仕組みにしか過ぎない。

 その後,世田谷パブリックセンターで見た「春琴」という劇(原作は谷崎潤一郎の「春琴抄」)見た感想が書かれているのだが,締めくくりが

 視覚化とは、ただ見えるものにすることではない。見えさえすればそれでいいと考えてしまうのは、見えてるものは共有されるという思い込みがあるからだ。一部が共有されているのであって、おおかたはまだ隠れてみえていない。「陰鬱」とはそこをを指すことではないのか。見え方、見えてくるその現われ方が、大事なのだ。そのために私たちは、視覚性、視覚のその性質を確かめようとするのである。
 このところそうした問いそのものがいたるところで欠落している。俗な言い方をすればエンタメ化、ということになるのだろうが、そのようにしてエンタメ化された、喜びだか悲しみだかは知らないけれど、概念のごとき感情に、人生はこうだったのよね、と言わんばかりのお手軽な作品がなんと多くなってしまったことか。

となっている.演劇のことについて書かれているのだが,写真のことについて書かれた文章のように思える.

2009-06-03

山崎博「動く写真! 止まる映画!!」より引用

昔,寺山さんに,「山崎,写真やるんなら世界を測れ」みたいなことを言われました.でも寺山さんのイメージは「ピエロが物差しで地面を測る」的なモノで,そう言われた時,僕は何とも言われなかったんだけど,「そうじゃない.写真じゃ芝居とは違う.僕はもっと写真的なことをやるんだ」って思ってたんですね.でも,振り返ってみると結局,僕はやっぱり写真で世界を測ってることになっているような気もします.何ていったらいいかな…….決して戯画化はしないということは,言える.光学的な,写真的なものを通して,デフォルメはするかもしれないけれど戯画化はしない.その点では,演劇とは違うものであるはずなんです.世界を測ると言っても,その測り方がまったく違うということ.
 コンセプチャアルな写真の撮り方をすると,ということをよく言われるわけです.確かにコンセプチャアルなところはあるんでしょうね.ただ,部屋の中でコンセプト考えてその通りの写真がきれいにできるわけではない.撮影する現場に行くとそこで予測できないものがある.長時間露光でいえば,太陽が段々動いていくのをじっ−と見ていても線にはならないし,雲がどう入ってくるかはわからない現像してみて初めてわかることも多いんです.こんなことだったのかみたいなことがね.
 そんなことをなぜするのか.それは「写真とは何だろう?」という疑問が僕のなかにあって,その答えを探し求めているっていうのが一つ.それと同時に,ただ単純に写真を撮りたいという欲望がある.「美人を」撮りたいじゃなくて,「写真を」撮りたい.つまり,写真でしかあり得ない世界を,しかも今までなかったみたいなことを表現したいんですね.ちょっと,大袈裟な話になっちゃいますけど.
 そういう動機で写真に向かっていると,前にもちょっと話した,アーティストなのか写真家なのかみたいなことにかまけてられないんです.現実にないもの写真でしかない手段で提示することができればそれでいい.人がなんて言うかは,気にすることはありません.そうやって提示したものがどれだけの価値――と言ってもお金の問題じゃなくて,どれだけ驚いてくれたかみたいなこと――を待つかが僕にとっては大切なんです.

2009-06-02

 

 Rooneeに伸ばした大全紙を運び,オーバーマットの切り抜きを依頼.3回に分けてプリントしたのでサイズにばらつきがある.出展する5枚を決めてないので,一番小さいサイズで依頼.
 目白からバスでRooneeまで行ったのだが,降りる停留所を間違え,歩き疲れた.帰りは新宿まで写真を撮りながら歩く.
 家に帰ると横浜美術館からDM葉書が届いていた.これも発送しなければならない.
 

2009-06-01

 昨日は,暗室に入り大全紙10枚引き伸ばし,乾燥を終えた一週間まえの写真を持ち帰り,苦手なスポッティングの作業をした.老眼には非常につらい作業.結局,3時近くまでかかり,BLOGの更新も休んだ.
 今日は昨日伸ばした分を受け取り,スポッティング.昨日の伸ばしより,ゴミが少なく簡単に終わらすことができた.昨日か作業で眼が弱り,ゴミがみつからなので,速く終わったのかもしれない.

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