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2009-10-30 記憶と写真

記憶と写真

 いつも通らない,逗子駅の乗り換え通路で,横須賀線120周年のポスターを何枚か見つけた.
その中の一つ,
f:id:heliograph:20091030082750j:image
には,昭和40年当時の鎌倉の写真が使われているが,ちょど昭和40年位から,当時,住んでいた川崎から鎌倉に写真を撮りに行きはじめたのだが,記憶の中の鎌倉よりずっと昔の写真のように思われる.すごく不思議な感じがする.

2009-10-29 Y字路

Y字路

横尾忠則東京Y字路」写真展が西村画廊で開催されている. 期間は2009年10月20日(火) - 11月21日(土)ですので,是非,行ってみたいと思っています.
http://www.nishimura-gallery.com/exhibition/2009/Yokoo-09Y-junctions.html

ほぼ日刊イトイ新聞のY字路談義http://www.1101.com/yokoo_tamori/2004-07-07.htmlを読み,私もY字路を撮りはじめました.

 私のY字路の写真はここにまとめてあります.
 http://www.flickr.com/photos/heliograph/sets/72157600006856374/

 この場所は横尾忠則さんも撮っていますが,これは私の撮った写真です.
 DSC00437

2009-10-28


先日,府中市美術館主催のワークショップでバスカメラに乗ったが,佐藤時啓さんのバスカメラに関するホームページを見つけました.
http://www.geocities.jp/buscamera/about/about.html

 佐藤時啓がこれまで実施してきたワンダリングカメラプロジェクトは、移動することのできるカメラオブスクラでしたが、これは新たな試みで、映像を体験しながら動くことのできる可動式のカメラオブスクラです。
 昨年、 秋田、取手と実施し、いよいよ、 東京銀座で走らせる事になりました。
 サイトシ−イングバスカメラは、文字通り風景を見るためのバスで、それ自体がカメラの構造を持ったものです。つまり、闇があって光が差し込むと、そこには必ず映像が映る、という現象を使った可動式のカメラオブスクラということになります。
 デジタルイメ−ジ万能の現代には、どのような映像を得ることも不可能ではありませんが、箱に穴が開いただけの仕組みで、カメラ自体が移動することにより、映像が動き、さらに重力が加わり、身体ごと映像に加わるという体験は、どんな方法でも代替できず、これまでの映像体験とは全く異なる新鮮なものだと思います。

 具体的に説明しますと、遮光されたバスの通路には、2m×5m程の、透過式のスクリ−ンが吊られています。また、左右両側の窓には、それぞれ離れた位置に2コずつ合計4コのレンズが取り付けられています。
 乗客が着座したのち、闇の状態のバスの空間に、レンズを遮へいする黒い膜が取り外されると、車窓からの左右それぞれに異なる映像が投影される事になります。それが一部重なり合います。
 また、さらに左右それぞれの映像は2つの位置が違うレンズによって、少しズレて映さます。それら4つの映像が微妙にずれ、少し重なり合い、進行方向への慣性と重力とにはまるで無関係であるかのように現出し、乗客をえも言われぬ未知の知覚体験へと誘います。溶けるような、懐かしい、まるでサイケデリックな映像体験とも言えるかもしれません。
 
 私たちは、原初的な現象を用いた新たな可能性を、多くの人に体験してもらうためのプロジェクトを行っています。

佐藤時啓

アートプログラム青梅「空間の身振り」展

 府中市美術館の「多摩川で/多摩川から、アートする」展のアーティストトークで,お話しを聞いた大竹敦人が『アートプログラム青梅「空間の身振り」展』参加します.
http://www.art-program-ome.com/index.html

「空間の身振り」
絵画を前にして空間といえば、ものが描かれていない余白か、遠近法によって表現された奥行きを指す。また立体作品の場合は、彫り込まれたり構成されたりした透き間を言う。
そして、ひろく生活の場においては、物が充溢していない所をそう呼んでいる。
作者が提示する作品は、未完の作品を前にして周囲を頻繁に動き回り、熟考しつつ手足を動かした結果であり、作者の経験と思想の形象化であろう。そこには作者の全身的な身振りが潜在している。
私たちが作品を鑑賞することは、能筆の書を見るとき自ずとその筆跡をなぞってしまうように、作者の創造の過程を追体験すると同時に、その身振りを体感することでもある。
言ってみれば、空間にこそ、自由な想像と行動が許されているのである。
今回、場所を選んで展示された作品から、十人十色の「空間の身振り」を感じ取り、楽しんでいただければ幸いです。
(大橋紀生 おおはしのりお/ 東京造形大学非常勤教員、エディター)

 何カ所かの会場に別れていますが,大竹さんの作品は東京都青梅総合高等学校で展示されるようです.
 

2009-10-26

『船、山にのぼる』のDVDが発売されるそうです


http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=47215486&comm_id=2839803
より

船、山にのぼる』のDVD発売が決まりましたのでお知らせします。
ただし、大手のショップに並ぶような発売形態ではなく、自主流通に近い形態になります。その分、お求めやすい価格になっているかと思います。

船、山にのぼる
●2009年10月31日 発売開始。
●予価:\2,400(税別)
●発売元:BankART1929 http://www.bankart1929.com/
(問い合わせ:TEL 045-663-2812→10月31日以降、お問い合わせください。)
DVD特典:予告編、小冊子(40P)
●英語字幕版も収録。(リージョンオール、NTSC

※小冊子はミニ写真集のような充実した内容になりそうです。

※10月31日より、BankARTショップにて販売開始。通信販売も可能かと思います。詳しい販売方法が分かりましたら、またお知らせいたします。

※ちなみに、10月31日よりBankART NYKを会場の一つとしまして、横浜国際映像祭 http://ifamy.jp/ が開催されます。


DVDといえば,『カメラになった男』( 監督:小原真史)はまだ発売されないのでしょうか?

フラヌール/ブリコラージュ

横浜国際映像祭09のプログラムより http://www.ifamy.jp/programs/single/469/
「フラヌール/ブリコラージュ
会場 新港ピア
開館時間 11:00-19:00(土日祝/10:00-19:00)
住所   横浜市中区新港2-5
アクセス情報
電車で:みなとみらい線馬車道駅」または「日本大通り駅」から徒歩10分
JR・市営地下鉄桜木町駅」から徒歩15分

芸術人類学者である中島智を中心としたプロジェクト。芸術と人類学に共通する根源的な創造行為として「ブリコラージュ*1」と「フラヌール*2」に焦点を当てる。この二つの領域は無意識性、無目的性、非合理性に貫かれていながらも、それでも「なにか」を生み出してしまう行為と考えられる。つまり、意思や目的、合理性や機能性、記号性や商品性をまったく欠いた行為からもう一度「創造性」を救いだすことがこのプロジェクトの目的である。従って、アーティストのみならず誰しもが本プロジェクトに参加できるのだが、そこでデジタルカメラが重要な道具となっていることは興味深い。写真の発明以降、無意識の創造性と密接に結びついてきた「映像」の伝統がこのプロジェクトには色濃く息づいている。

*1ブリコラージュBricolage)は、「寄せ集めて自分で作る」「ものを自分で修繕する」こと。「器用仕事」とも訳される。元来はフランス語で、「繕う」「ごまかす」を意味するフランス語の動詞 "bricoler" に由来する。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5より

*2:街歩きの楽しみを語るとき、よく引き合いに出されるのが哲学者ヴァルター・ベンヤミン。その著『パサージュ論』の中でベンヤミンは、群衆の中に身を隠して都市の街路をさまよい、街のできごとを観察する散歩者たちを「フラヌール」と言った

2009-10-24 EMPEROR OF JAPAN 

GALLERY COSMOS

 所幸則「渋谷1second 感染。写真展2」

テーマは「ワンセコンド(1秒) 瞬間と永遠」

渋谷の駅周辺の風景(あくまで主役は風景、建築物)の なかで
自分では一瞬もそこにとどまれない儚い存在である人間や(人間が走らせてる)車を
使って、建物は動かないけれどそこに生きて存在する人間たちを空気のように扱う事で
生き物のように変貌して行く今の街を表現するために 、
トコロスタイルのランドスケープ
1sec(ワンセコンド)というシリーズを撮り始めました。
詳しくは会場で見て体感してください。

瞬間と永遠がそこにはあります。

 手法としては,デジカメで低速シャッターで何枚か連写してそれを,重ねて印刷したもの.本人はアスファルトが黒いのが好きだといっていたが,確かに黒いプリント.
 所幸則のホームページhttp://tokoroyukinori.com/見ると,いかにもHDR撮ったという写真だったのだが,今回の展示してあるものは印象が違う.

 EMPEROR OF JAPAN

 gallery ART UNLIMITED  伊奈英次「EIJI INA Contacts EMPEROR OF JAPAN 」展のオープニングへ.
 やはり,銀塩の写真を見るとほっとする.銀塩というよりちゃんとした諧調の写真を見るとと言うべきか.
 8x10のコンタクトを壁一面に展示してあった.すごい迫力だ.(さすがに全150枚は展示仕切れなかったようだ.)
 久し振りに,写真の仲間にも会えて楽しい時間を過ごせた.

 
 

 

2009-10-23 とりあえずは肉眼レフで

とりあえずは肉眼レフで

 
フォトネシア―眼の回帰線・沖縄から
中平卓馬沖縄」についての文章「眼の回帰線―中平卓馬の国境」より

「客観性という悪しき神話―松永優事件*1を考える」(一九七四年)において,映像の物神崇拝が成立する根拠により踏み込んで探求されることになる.ここで中平は「そもそも写真とは何なのか,写真の持つ意味は何か,それは社会的にどのように形成されるのか」という問いをたて,検察側から提出された二枚の「証拠写真」や「犯行現場写真の証拠能力等に関する検察官の意見」を丹念に検証し,事物や出来事の断片にしか過ぎない映像が,加工され全体の象徴にされ「事件」と報道される.その操作と操作主体に注目し,映像の特権性を批判し覆す.近代の所産であるカメラと国家の共犯関係が透視され暴き出されるのだ.技術的合理性を保証するのが,近代最大の政治的建築物である<国家>であり「映像が国家レベルにおいて問題になる時,それは極めてあらわな,そして峻厳な形をとって現れざるをえない」と読み込んでいた.
 この論考のなかでとりわけ注目すべきところは,写真の「客観性」や「科学性」において全面的に信頼すべきだと主張する国家権力に対し,「見る」という行為の全体性を解き明かしたことである.こんなふうに言っていた.「カメラのとらえうる視覚はあくまでも部分的,局所的な平面的視覚にすぎない.一方『見る』とはただ視覚にとどまるものではなく,みずからの身体をそこにつつみこまれた全体的な行為である」と.ここからいわゆる「肉眼レフ」の思想が導き出される.この「肉眼レフ」の思想は,一人の青年の生死にかかわるデッチアゲ裁判に写真が深く関与してしまったことへの写真家としてそれこそ存在を賭けて考え抜いたところで到達した「見る」ことを身体に取り戻す試みでもあったと言えよう.「とりあえずは肉眼レフで」(一九七四年)でも「ある特定の事物を見ること,しかしそれは日常生活のうえでは私をつつみ込む全体性の一環として事物を見ているのだ,その息づかい,固く言えば私の身体性が見ることにはふくまれている」と言っていた.しかしそうした「見る」ことが,ファインダーを通して四角いフレイムに切り取られると関係総体から切り離され,特定の事物しか指示しなくなり,それゆえに象徴性が吹き込まれてしまうことに注意深くなければならない.としていた.そこからウジェーヌ・アッジェやウォーカー・エバンスのように,カメラが世界をそのまま捉えることができるまで「『なぜ写真を撮らないか』という質問に対しては,とりあえず『オレは肉眼レフで商売しているから』とでも答えておこう」と結んでいた.

*1沖縄返還闘争によるデモで一人の警官が死亡したときに読売新聞が掲載した写真によって一人の青年(松永優)が不当に逮捕されたのであるが、のちにこの青年は実は警察官を助けようとしていたのだということが判明し、1枚の写真が説明文によってまったく逆の意味をもち得ること、写真が言葉のイラストレーションと化してしまったことに中平は衝撃を受けた。カメラのもつ暴力的な側面、つまり「私」による世界への加害を怖れ、自らの強烈な視線による写真の作品化を拒んだ中平はこの後自らを空っぽにするという方法によりカメラの受動性をつきつめていくことになる。小原真史 挑発する写真家 中平卓馬より http://www.ipm.jp/ipmj/kohara/kohara72b.htmlより

2009-10-21 オリオン座流星群

オリオン座流星群

オリオン座流星群をみようと,湘南国際村の上まで行って見ました.
同じようなことを考えている人が多いのか,沢山の人がいました.そこで,少し離れた,子安の里の畑の前で観察し始めたのですが,近所の家の犬が吠え始めたので逃げ出し,立石の駐車場に移り,そこで,しばらく観察しましたが,生憎,雲がかっかってきて,オリオン座も見えなくなり,諦めました.

 国立天文台「見えるかな?オリオン座流星群」キャンペーン http://www.nao.ac.jp/phenomena/20091019/index.html

Youtubeから関連動画を探してみました. 
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2009-10-20 Perceiving

Perceiving

日本カメラ 2009年 11月号 [雑誌]

日本カメラ 2009年 11月号 [雑誌]



を買う.めったにカメラ雑誌を買わないのだが,今回は掲載されている,栗田紘一郎さんの「Perceiving」という写真が気になったのだ.
同じ,写真ではないが,
http://www.koichirokurita.com/mercator.html
を見ていただければ,分かると思うが,8x10で数枚で視覚をずらし,撮影された作品だ,しかも,一枚一枚はプラチナ・プリントで制作されているようだ.英辞郎によれば

perceive
【他動】
1. 〔目や耳などの感覚{かんかく}で〕〜に気付く、〜を見抜く{みぬく}
2. 〜を理解{りかい}する、〜を把握{はあく}する、〜だと分かる


ということだが,栗田さんは学生時代,視覚心理学専攻について研究していたそうで,
口絵の解説には次のように書かれている.

人の知覚システム<人は,はっきり物が認知出来る中心線を幾度も移動させて記憶の集合として知覚する>をヒントに制作.8x10インチの精密な描写h人の目の中心視を意味し,また標準レンズで撮影された複数のコマは人が見るときの視点の移動動作を置き換えている.実際には非常に広い視野を撮影しているのにもかかわらず,超広角レンズの画面よりむしろ自然に見える.

栗田さん自身のホームページで,Perceivingについて次のように書いている.

 During my years as a student, there was a time when I was involved in the psychological study and research of perception. “How and what does the human eye see”is studied with the scientific method.However, as the eye is connected to the mind, I came to the conclusion neither method could come up with a definite answer.
 Since becoming a photographer, I was still interested in “how people see” and how the eye functions. Our eyes focal field is limited to about 2-3 degrees. The more we depart from this field the less clear the
image becomes. Unlike photography, the human eye can not focus on a wide angled focal field. Therefore, in everyday life, the center of the vision moves randomly at an interval of 1/10 of a second, viewing various parts, which are memorized and perceived as a whole. The totality of sceneries and objects we see is a collection of borderless parts made possible through time and memory.
 While using this mechanism of the eye, the mind selects what it needs, consciously an unconsciously, from the whole perceptual field, and memorizes it, which is the act of perceiving. I wanted to connect photography with my many years spent pondering about mind and perception. Contrary to ordinary photography, which takes images with a single shutter, this Perceiving Series simulates the motions of eyes and head, and the movement of the viewpoint by using a 8x10 camera attached with a close-to-the- standard lens, while panning for each visual angle: the field I want to photograph is composed of a sequence.

 
 動画と静止画について考えるならば,はっきり物が認知出来る中心線を幾度も移動させるということは動画なら出来る,静止画一枚では当然無理なのだ.人の知覚システムに近い表現が出来るのは動画の方なのだろう.
 
 

2009-10-19

枯れた花

 
 昨日,枯れた花を撮った,決して上手く撮れたとは思わないけど.枯れた花を撮るといえば内村恭彦さんの写真を思い出す人が多いかも知れない.考えてみると,枯れた花の絵をみてこんなものでも絵になるんというか美しいと思ってのは,たしか,ホルスト ヤンセンというドイツの画家の展覧会をみた時が最初だったのではないだろうか?調べてみると,その展覧会は1982年に開かれている.ハッセルで撮っている植物のシリーズも枯れた植物を良く撮っているが,これも,ハンセンの影響がいくらかかあったのだろうか,でも考えて見ると,荒木 経惟さんには,墓に供えた花が枯れているのを撮ったものがあるし,西村陽一郎さんのLifeも花瓶にさした花が枯れていくのを撮ったものだった.枯れた花を撮るというのも,既に,一つの写真のスタイルになってしまっていて,決して新しい写真の表現とは言えないのだろ.
 人々がまだ気付いてない新しい表現なんて残っているのだろうか?
 今日も苦し紛れに駅のポスターを撮ってみましたが,あまり面白くはないですね.

 

2009-10-18 脱穀

脱穀

 今日は,脱穀の日でした.昨日の夕方,雨が降ったので,稲が濡れてしまいました.午前中は,脱穀の後に,藁をしばるために,去年の藁で藁をしばるための準備をしました.
 午後から,脱穀と掛け干し(丸太で作った稲を乾かすためのジャングルジムのようなもの)の片付けをしました.
 来週,晴れれば,籾摺りをしてお米はやっと玄米になるのです.

はてなダイアリープラス

 昨日,ドン・キホーテの写真―まなざしと記憶の戯れから,引用した文章の手前,中途半端な写真を載せにくいのですが,昼ご飯前に,お邪魔している家の庭の片隅で撮った写真をアップしました.
 今月,デザインを変えて,大きな写真を載せられるようにしたのはいいのですが,一月にアップできる写真の容量の制限を超えそうなので,あわてて,「はてなダイアリープラス」を申し込み3GBまでアップできるようにしました.これからは,気楽に色々な写真を掲載していこうと思います.

2009-10-17 ドンキホーテの写真

ドンキホーテの写真

 今日は沖縄で撮ってきた写真を現像するために立石の仕事場に向かったのだが,今月一杯,水道が使えないことが判明.現像をあきらめて,部屋に横積みになっている本の中から,

ドン・キホーテの写真―まなざしと記憶の戯れ

ドン・キホーテの写真―まなざしと記憶の戯れ

を取り出して読み出す.
 その中に次のような言葉を見つけた.風景に秘められた欲望という文書の中から引用します.

 前略
 このような安心と郷愁を誘う風景はどこかに原風景がある.人々の憧れに共通するものであるから分かりやすく,それだけに平凡なものである.それに比して人目を引かず,一見美しくも目zらしくもない事物に注目し,そこに類例もなく定義もできない美を見出して人に共感を与えることができれば,それこそ美の発見であり創造といえるのだが,それには忍耐がいり,執着と探索が成功の条件だが,可能性は少ない.しかし成功が美の創造の目的ではないから,そこにしか真実はないというのが唯一の励みである.
 まなざしが,えてして通俗の同義語の美でなく,真実といえるなにか得体の知れない,超越的な価値を含んでいて,それを観る者を密かな解放の次元へ引き上げる表象,しかし超現実的な顕れではなく地上の,現実の相をとらえるとき,そのまなざしはそれだけですでに卓越した感性であり,才能といえるものの入り口でさえある.そのようなまなざしはどこから得られるものか天性のものか.
 それはおそらく,既成の美の観念を棄て,心地よいものに目を向けることから得られるものなのだ.人に知られぬもの,人に受け入れられぬものに惹かれ,目を近づけ,眼を凝らす感応力であり,その不思議さを楽しむ心である.それは友達とルールに従ってゲームを楽しまなくても,独り遊びで時を過ごせる子供の創意である.
 私はそこに何を見出すのだろか.私の頭の中には生涯の夢ともいえる数知れぬイメジが重なり,浮遊し,記憶像とも想像ともつかなくなり,時とともにその合成したものも入り混じっている.それは私の背後にもち歩くイメジのライブラリ―であり,私の目の身体である.それは図書館のように分類整理されたものではなく,記憶と想像の当てにならない,投げやりで乱雑,無責任な堆積であるが,知の幕が上がり,目の照明が点るや,無秩序なイメジの倉庫の一隅は,たちまち一筋のプロットに従って連想の鎖に繋がれ始める.イメジたちはゆるやかに前後につき,おもむろに整列を始め,物語を紡ぎ出すのである.
中略
 見えないものを見えるようにする芸術家の想像力が一般の人に共感を与えるのは,そこに表象されたものが,実は観る人の心に沈潜していたもので,知ってはいたが忘れていた,予感があったが気がつかないでいた像に思えるからである.それはまったく未知のものではなく,意識の表面に浮上してこようとしながら,自分が怠慢であったり意欲がなかったためにはっきり突き止めることのなかった真実で,それが分かれば人生の隙間が埋まり,自分の所在が手応えのあるものになる.視界の霧が晴れる心地がする.プルーストの『失われたものを求めて』んpプチット・マドレーヌが紅茶茶碗のそこから浮かび上がらせたコンブレ―の記憶のようなものである.自分の目で見,シャッターを押して,写真を撮ったのに,まだ見えないでいた映像が魔法のように現像液の中から魔法のように出現してくるのに似ている.人はみな心の中に思い思いの画像を秘めていて,だれかの手によってその像が描き出されると,それは本当に自分のもので,ひちが代わって白紙の中から取りだしてくれたように喜び,そこに自分の目を見出して共感をもつのである.

2009-10-16 YouTube

 YouTube vs flickr


 先日,YouTubeに登校した黄金町の動画がついに100アクセスを越えた.
たった,100アクセスなんて少ないと思うかもしれないが.
 数年続けて,投稿しているflickrで100アクセスを越えた写真は3つしかない.
ですからほぼ一ヶ月で100を越えてビックリしています.
もう一度ここにアップしてみます.
  D
 黄金町の街を歩いている雰囲気,偶然に録音された音が効果を上げている.
 映像だけでなく音も入るVideoの力はやはりすごいと思う.

 最新の一眼レフカメラに動画を撮れるような機能がついてきて誰が使うのかと思っていたのだが,
 10月号のコマーシャルフォトには一眼レフで撮るムービーの特集があった.

【特集】この潮流に乗り遅れるな!
デジタル一眼ムービーで広がる仕事
キヤノン EOS 5D Mark II、ニコン D90など、
デジタル一眼レフのムービー機能を仕事に活用している事例を取材。
あわせて編集ワークフロー、ムービー用サポートキットを紹介する。
 
●竹田祥記+Satoshi SAIKUSA(CM&PV
●梅川良満(Web)宮本敬文+廣中克敏(CM&PV
●牧田良輔(MV
●渡辺伸次(PV
●大原 勳(BRIDAL MOVIE)
 
EOS 5D MarkIIムービーの編集ワークフローの基本
●注目のムービー用サポートキットredrockmicro/Zacuto 

 もう,それを使ってプロが動画の仕事ができるほどの性能になっているのだ.

2009-10-15

コニカミノルタプラザへ

増田 新写真展「屋上天国」,伊原美代子写真展「日々是好日」〜みさお と ふくまる〜 を見る.

伊奈英次写真展

伊奈英次 さがみはら写真賞2009 受賞記念
EIJI INA Contacts EMPEROR OF JAPAN  

「EMPEROR OF JAPAN」の8x10をコンタクトプリント全150点を展示を展示するそうです.

期間:10月24日(土)〜11月28日(土)
場所:〒107-0062 東京都港区南青山1-26-4 六本木ダイヤビル3F gallery ART UNLIMITED

http://www.artunlimited.co.jp/
    

2009-10-14 動画と静止画

動画と静止画

先日のフォトシティさがみはらのシンポジウムで話題になった.動画と静止画について,フォトネシア―眼の回帰線・沖縄の中で,動画と静止画について話が出てくる.
 比嘉豊光についての 「ラディカルな風景の思想−比嘉豊光」 という文章の中で,
 <声>の発見と<記録>への情熱という節があるが,そこで戦争体験を,記録する作業を行った比嘉豊光の次のような言葉が紹介されている.

 オジーオバ−たちはもろに島クトゥバで五十年前のことを昨日あったことのように喋るわけよ.戦争体験は集団自決とか日本軍の虐殺とかいっぱいあって,あまり喋らないだろうと思った.ところが島クトゥバで喋らせたら感情をもろに出して喋る.これはすごいな〜,と思った.もちろん写真も撮ったが,写真よりも言葉の持つ力を感じた.けれども,テープにおこして文字にしてみると,その迫力が半減するわけよ.ああ,これはあのときと全然違うな,と思った.島クトゥバのテープおこしはとても難儀な作業で,それは仕方ないんだけど,写真を撮りながら映像の記録が必要だなと思った.そのときはテープレコーダーとスチールの写真で記録した.ビデオを撮るなんて思ってもみなかった.

 そして,比嘉は豊光は琉球弧を記録する会で記録活動で写真集「光るナムイの神々」とビデオ作品「ナナムイ」を制作する.スチールカメラとビデオカメラの両方を持つようになったのだ.戦争体験を沖縄各地の言葉で記録する作業は100人の証言記録「島クトゥバで語る戦世」(2003年に山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映 6巻6時間),「島クトゥバで語る戦世〜500人の記憶〜」(2005年 沖縄各地で上映)と続き,今も1000人を目標として撮影は続けられているそうだ.
 それと平行して,写真集「島クトゥバで語る戦世〜100人の記憶〜」(琉球弧を記録sする会),『わった〜「島クトゥバで語る戦世」―684』(ゆめあーる 2007年)を出版している.
 
 こうやってビデオと写真の作品を作り続けている比嘉豊光にとっては動画と静止画のどちらかが優れているとかは問題ではなく,それぞれの特性を生かして作品を作り続けているだけなのだろう.

2009-10-13 太陽の鉛筆

フォトネシア目の回帰線・沖縄 仲里効

フォトネシア―眼の回帰線・沖縄

フォトネシア―眼の回帰線・沖縄

を買う.

 沖縄写真家比嘉康雄,比嘉東光,平敷兼七,平良隆,大城弘明,嘉納辰彦,伊志嶺隆と沖縄と深く関わった本土からの写真家中平卓馬東松照明の写真活動を通して,沖縄で写真を撮るということ,ひいては写真を撮ることとはどんなことなんだろと深く考えさせられる,素晴らしい本だと思う.

 この本に引用されている.東松照明の「太陽の鉛筆」に収められている文章「宮古日記」から

写真家は通過者であったりするが.が,それも,見る状態が変化するだけで,見つづけることには変わりはない.写真家は医師のごとく治療するのではなく,弁護士のごとく弁護するのでなく,学者のごとく分析するのでなく,神父のごとく支えるのでなく,落語家のごとく笑わせもせず,歌手のごとく酔わせもせず,ただ見るだけだ.それでよい.いや,それしかない.写真家は見ることがすべてだ.だから写真家は徹頭徹尾見つづけなければならぬのだ.対象を正面から見据え,全身を目として世界と向き合う,見ることに賭ける人間,それが写真家なのだ.

2009-10-12 府中市美術館

多摩川で/多摩川から、アートする


 アーティストトークで柴田敏雄さんと大竹敦人氏の話を聞いた.
一昨日も柴田さんの話を聞いたばかりだが,今日も聞きに行きました.

 印象に残った言葉

 何を撮るかというより,何を撮らないかということを大事にしている.今までになかった独自の写真を撮ろうと考えている.

 水辺線とか空のような遠近感を感じさせるものを写真の中に入れないようにして撮っている.また絞りをF45にして,被写界深度を深くしパンフォーカスのボケるところどこにもがないようにしている.

 大竹敦人さんは,球形ガラスの容器の内部に写真乳剤を塗り,遮光した状態で河原に置き,針穴を開けて撮影したピンホール写真の作品を作っている人だ.

 写真乳剤をガラス面に固定するのが難しい.前に,ステンレスの板に写真乳剤を塗った作品を制作していたのでその経験が生きている.その辺は職人に徹してやっている.

 作品を作るときは淡々と精神性とかそういうものを考えないで制作しているようと思っている.

 水に関する作品が多い.11月に青梅でやる作品展では自然の水ではなく,人工的に水槽に水を張り,ピンホールで作品を制作している最中である.

バスカメラ

 府中市美術館でワークショップとして企画された
「サイトシーイングバスカメラで府中の風景再発見! 」に参加しました.
美術館の紹介文より

 写真家美術家の佐藤 時啓(さとう ときひろ)氏の考案によるカメラの原理を利用したバス、その名も「サイトシーイングバスカメラ」。
バスの窓をふさいでレンズを設置するとバスがカメラに変身します。バスの中のスクリーンにはどんな風景が映るのでしょう?
全国各地で活動してきた「サイトシーイングバスカメラ」が、今回は府中市美術館の周辺を走ります。約20分間の不思議な体験をお楽しみください。


様子はhttp://www.flickr.com/photos/heliograph/sets/72157622569221258/
で見て下さい.

2009-10-11

長野重一「鎌倉-KAMAKURA」展


北鎌倉ワイツギャラリ−へ 長野重一鎌倉-KAMAKURA」展を見に行く.

岩波写真文庫写真部員時代に撮った鎌倉の写真.「鎌倉-KMAKURA」は道路標識などが英語で書かれていた時代の写真だからであろう.そんな道路標識に,逗子にあった「渚ホテル」を示す「NAGISA HOTEL」の看板が写っている写真があった.調べて見ると岩波文庫12「鎌倉」は1950年8月30日初版であるから,それより前の鎌倉の写真のようだ.

天園

 北鎌倉から鎌倉へ出るのに久し振りに,明月谷->天園->獅子舞->永福寺跡->鎌倉宮->鎌倉
のコースを急遽歩く.
 先週の台風の後のせいか,空気が清んでいるのか,光がすごく綺麗に感じた.

動画を撮る


 昨日のフォトシティさがみはら2009のパネルディスカッションでの話題になった動画と静止画について,

 鶴岡八幡宮の池でアオサギが魚を捕っていた.
 うまくアオサギが魚を銜えているところを巧く撮れなかったので,途中から動画に切り替えたり連写モードにして写真を撮った.確かに,アオサギが魚を咥えているところではなくても,アオサギの魚を捕らえる動作を記録するなら静止画よりも動画の方がはるかに有効だと思う.写真作品にはならなくても,ある出来事を記録するには動画の方がより正確に事実を伝えられるだろう.写真が担ってきた記録という面で,動画がどんどん使われていくのだろう.でも,動画を見るのには時間がかかる.やはり一枚一枚の写真も大事なのかもしれない.
 最近発売されるデジタル一眼にはフルハイビジョンで動画を撮る機能があるし,ビデオカメラので撮れる静止画お画像も良くなっている.カメラとビデオの区別がなくなるのもそう遠いことではないだろう.

セザンヌ覺書 伊藤廉著


 小町通り古本屋で伊藤廉著「セザンヌ覺書」を買う.書き込みがあるのだけれども,本屋で数ページ読んだだけで引き込まれてしまい買ってしまった.

 僕はいつもおもひ出す.それは,ヴォラルがもってゐたヴィクトアル山の小さな繪で灰色に近い濁ったような逭色で描かれてゐたものをみたときのことである.その不思議なおどろきを自分がおどろいたことがある.ふしぎなおどろきといふのは,こういう工合だった.大抵の油繪におどろゐてゐるときには,色彩とか調子とか,筆さばきの巧さとか,繪具のつき工合のよさとか,構圖とか,さういふものが,割合ひに,はつきりとみえてゐて,それをおどろいてゐる,と一應,そういふふうにいひたいのである.無論,本當のおどろきの因をなすものは,魂の問題につながつてゐる.だが魂の問題の前へ自分が置かれるまでの道筋に繪畫的技術の巧さが,大抵の場合にはよこたはつてゐたようである.ヴィクトアル山の繪をみたときには,それがなかつたのだ.油繪の技巧のことは,全く考えのうえになかつたのだ.何だか變なものに接觸して,むやみにおどろゐている,とすいふようにいつてみたいおどろき方であった.そのことを繰返しておもひだす.
 これは繪をみてゐて,きれいだとか,こころよいとか,たのしいとかいふような工合ではない.おそろしくはないが,多少,不氣味である.得體のしれぬやうな,變なものである.畫面には,蛤形の筆觸が無數にかさなつてゐるだけである.山の塊にちがひないが,さういふ塊が別段に山らしい容貌をしてゐるわけではない.そこにあるものは,灰逭色の筆あとだけだ.それよりも灰逭色のしみだといつてもいいやうなものである.さういふものだから,繪の技巧は,技巧としてみえてこなかつたのかもしれない.かういふ感動の様子に似た様子をさがすと,僕は玉澗*1を思ひ出す.

 きれいでも,こころよいものでもないものでも気になるものがあるといった感じをよく表わしていると思う.昔,デッサンを習っていたころ伊藤廉の「デッサンのすすめ」「絵の話」を読んだことがあるはずなのだが,これも読み直してみようと思う.もっとも,デッサンを教わった人から読めと勧められたから購入しただけで,そのころはちゃんと読めなかったのかもしれない.

*1
ぎょくかん 玉澗 Yujian

南宋(1127-1279)末・元(1271-1368)初の僧侶、画家。

 法諱は若芬{ジャクフン} Ruofen、字は仲石、号は玉澗、金華(浙江省金華)の人。俗姓は曹氏。天台を学び、臨安(浙江省杭州)天竺寺書記となる。
 詩書画を善くして時に三絶と称せられた。画は、揚無咎(1097-1169)を師として墨梅を善くし、また諸方を遊歴して山水を写した。

 旧来、中国では忘れ去られた画家であるが、室町時代以来、日本では牧谿と並んで大変もてはやされ、日本絵画に与えた影響は極めて大きい。

2009-10-10 フォトシティさがみはら

COMPUTER LAND


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JR橋本駅前のゲームセンター.フォトシティさがみはらのパネルディスカッションを聞きにいくため橋本まで行く.

フォトシティさがみはら

フォトシティさがみはら2009
パネルディスカッション「写真の未来と可能性を語る」
コーディネーター:徳山喜雄氏(写真家朝日新聞 東京本社写真センター)
パネラー:伊奈英次氏/さがみはら写真賞受賞者(第9回・2009年)
パネラー:今森光彦氏/土門拳賞受賞者(第28回・2009年)
パネラー:柴田敏雄氏/日本写真協会賞作家賞(2009年)、東川写真賞国内作家賞
を聞きに行く.


印象に残ったことを書いておく.

柴田さんの 写真を撮るとき,三脚を立て大型カメラを組み立て水準器を使って水平垂直を見る.そういう動作をしながら気持ちをを集中させて撮って行く.


今森さんから,動画から取り出す静止がでも十分な画質をもったデジタル撮影機(レッド?)が出てきたが,動画の一部の写真と最初から一枚しか撮らない写真とは決定的に違うものではないのか?流れを撮るのが動画であり.静止画は最初から一つのピークを狙って撮るのは違うのではないか.
 伊奈さんが将来その動画から選んだ静止画をトリミングするのが写真家の仕事になるのではないか,そもそも静止画の方が不自然なのではないか?と言うと.

 今村さんは,極論であるが動く映像は文化ではないとまで言い出した.動画は垂れ流しである.静止画の方が精神性があるとのことだ.


 ここで,会場にいた江成常夫から,柴田さんに質問と言うことで,

 柴田さんの写真は普通の人には切り取れない絵画的な造形的な作品であるが,地球規模で問題になっている自然,環境に対する考え方はどうなのか,表現には思想性がないと作品として成立しないのではないか.

 思想といわれような自然を守るとか制作上の思想というものはない,逆にそういうものを持っていると,単思考的なってしまう,人工物と対比させてある自然を俯瞰してみるニュートラルな立場で作品を作っている.


 『表現には思想性がないと作品として成立しないのではない』この言葉はどうなんだろう?

ところで,思想性という言葉で検索をしたら次のような言葉を拾った.
司馬遼太郎坂の上の雲 第8巻』 あとがき2 より)

思想性とは、おおげさなことばである。しかし物事を現実主義的に判断するにあたって、思想性があることは濃いフィルターをかけて物をみるようなものであり、現実というものの計量をあやまりやすい。ときに計量すら否定し、「たとえ現実はそうであってもこうあるべきだ」という側にかたむきやすい。芸術にとって日常的に必要なこのフィルターは、政治の場ではときにそれを前進させる刺激剤や発芽剤の役割をはたすことがあっても、ときに政治そのものをほろぼしてしまう危険性がある。



司馬遼太郎も思想性は芸術には一応必要だと言っているけど,写真家が濃いフィルターをかけてモノを見てはいけないような気もする.

私は私

BOOK OFFで買う.電車の中で読む,次の文章で思わず笑う.

『もしも誰かが私なら私は私じゃありません。
けれど私が私ならだれも私じゃないでしょう。
誰も私じゃなかったら私はいったいだれなのか
もしも私が誰かなら私はたぶん私でしょう 』

2009-10-09 デザイン変更


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 朝,逗子駅のホームから,土木工事に使う車の駐車場を撮る.

 昨日から,デザインの変更をしている.写真が大きく表示できることを第一に考えました.
あまり,デザインについてというか,HTMLとかCSSのことがわからないまま試行錯誤で行っているので,大変時間がかかってしまいました.デザインが乱れてしまったときに,見に来た人はビックリしたと思います.まだ,FOOTERのところが思い通りではないのですが,少しずつ直して行きます.

 

2009-10-08 北島敬三 1975-1991 コザ/東京/ニューヨーク/東欧/ソ連


東京都写真美術館 『北島敬三 1975-1991 コザ/東京ニューヨーク東欧ソ連
『コレクション展「旅」第3部「異邦へ 日本の写真家たちが見つめた異国世界」』
『心の眼 稲越功一の写真』
を見に行く.
なんといっても北島敬三の写真に圧倒された.
 自主ギャラリー「CAMP」の様子が展示してあるのだがが,印画紙を何枚も並壁に貼ったり,ロール印画紙を壁に貼り付けて,引き伸ばし機を移動させながら露光し,スポンジに現像液や定着液を含ませて,現像しているのがよくわかった.
 
 ストロボを焚いて撮った,コザやニューヨークの写真もすごいが,なんといっても,東ヨーロッパでの自然光で人の表情を中心に撮ったストリートスナップはそのプリントの大きさ(950x1330mm)もあるのだろうが,その前をなんども往復して見入ってしまった.
 
 今回は,大型カメラによる作品「PLACES」や「PORTRAITS」は展示されいない,あえて1991年以降封印してきたストリートスナップだけで展覧会をやった理由は次のようである.

小原真史・北島敬三 インタビュー『eyes vol.62』より



6年位前から手元に残っているネガを全部見直して,あらためてプリントを作っているのですが,それは私にとって単に「昔の写真」ではありません.それを現在に接続する回路というものがどこかに残されているはずですし,何でもない一枚の写真があるときリアルティをもって立ち上がってくる可能性は常に存在し続けているのではないでしょうか.そういう写真の物質的抵抗力に賭けてみたくて,今回は初期のストリートスナップを中心に構成することにしました.



1975年にとりあえず入っただけの大学を辞めて「WORKSHOP写真学校」へ行きました.その後は森山さんたちと立ち上げた自主ギャラリー「CAMP」を拠点にしばらく活動していましたが,当時森山さんに「人間を撮らなきゃだめだよ」といわれたことをよく覚えています.まだ写真を始めたばかりの私は「人を撮る」という森山さんの欲望を半ば引き受けるような形で撮影に向かった部分があったのかもしれません.
最初「復帰」後間もない沖縄東京を往復しながら,その後はニューヨーク,西ベルリン,東ヨーロッパなどに滞在して手探りで撮ってきました.結果的に冷戦期の西と東を象徴する場所を選んでいることになるわけですが,やはり被写体として面白い場所はそういう政治的緊張感のある都市だったのでしょう.ただ最初に撮ったコザに関しては,「沖縄」という問題が自分の中で大きくなってきたこともあり,発表しきれずに挫折してしまいました.若かったからかもしれませんが,今度撮る時はどんなにつれくても発表しようと,逆にいえばそういえば思えない場所は撮らないと決めました.コザをきっかけにして行ったニューヨークは,資本主義陣営を代表する街だけあって,広告やテレビなどのイメージに浸透されつくしたかのような人々の姿が印象的で,その後に撮影した東ヨーロッパとは人の顔も全然違いました.



15年くらいスナップショットを続けましたが,シャッターチャンスや,フレーミングに重きを置くような写真がだんだんつまらなく思えてきて,3,4年モヤモヤした状況が続いた中で,1991年に雑誌の仕事を兼ねてソ連へ撮影に行きました.ソ連という一つの体制が崩壊することによって,そこに住む人の顔も服装も一変してしまうことを目の当たりにしたこともあり,顔が自分の主題として大きくなっていきました.この時期の撮り方としてはストリートスナップポートレイトの中間で,その人の社会的地位を示すような記号や,属している空間も含めた全身像を撮っていました.ちょうど試行錯誤していた時期のものです.街を歩きながら撮影をする方法にリアリティを感じられなくなったこともあり,90年代あたりから三脚と大型カメラで複数の人物の肖像を経年的に撮って行く方法に切り替えて,それが現在まで続く「PORTRAITS」のシリーズになっています.



「PORTRAITS」は白いシャツを着た人を白いバックで証明写真のように撮影していく作業なので,シャッターチャンスや「いい写真」「悪い写真」というようなことも起こりえないはずです.そうすると全ての写真が等価で,極端にいえば「古い写真や」「新しい写真」も関係なくなって,構造的には一枚一枚が横並びの写真群になります.そういう作業を継続していくうちに,だんだんと昔撮った写真も現在の「PORTRAITS」と同じ手つきで扱うべきなのではないかと考えるようになりました.
写真を単なる過去の記録として消費するのではなくて,それを「現在の写真」として蘇らせるような回路を開いてやることが重要ではないでしょうか.撮影から何十年と時間が経つと,かつて撮った場所も政治的状況の変化と共に大きく姿を変えており,もう写真のなかでしか存在していませんが,その写真は「現在の写真」としてまざまざと存在しています.言葉やほかのメディアとは違った写真のモノとしての抵抗力を,この展覧会で私自身も見てみたいのです.だから「私の写真」というよりも,写真を介してそこに写っている人や場所を見てもらいたいし,今は自分は丁寧にプリントを仕上げることなのだと思います.


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沖縄で撮った植物だけでまとめてみました.
 http://taiyo-no-egaku-e.tumblr.com/post/207593799をご覧下さい.

2009-10-07

 この頃は,沖縄で撮ってきた写真ばかり,Tumblrに掲載するだけで,この日記をまじめに書いてなかったら,アクセス数がガクンと減ってしまった.
 沖縄のでの写真撮影が刺激になって,戻ってきてから,コンパクトデジカメでも写真を撮るようになるかと思ったのだが,また撮らなくなってきた.
 沖縄でも思ったのだが,今の35mmの画角より28mmの画角の方が好きなようで,どうしても28mmのついたカメラが気になる.
 今日は新宿で降りて,前から気になっていたSIGMAのDP-1sの情報を集めようとしたのだけど,カタログも置いてなかった.
他のコンパクトデジカメでは
 CANON PowerShot G11,CANON PowerShot S90 ,Richo GR DIGITAL III がやはり気になる.

 こんなことかいても,アクセス数は増えないだろうな.




 

2009-10-05

沖縄恩納村 安富祖の写真をtumblrにもアップする. 
 http://taiyo-no-egaku-e.tumblr.com/post/205107469
をご覧下さい.
 沖縄のこの土の色なかなか忘れられません.

2009-10-04

 銀座ニコンサロンに千田貴子展「沙漠の雨」を見に行く.
 http://www.nikon-image.com/jpn/activity/salon/exhibition/2009/09_ginza.htm#03より

<写真展内容>
中国の西域、新疆ウイグル自治区。その中央部に日本がすっぽり入ってしまう広大なタクラマカン沙漠が広がっている。
天山山脈から吹き降ろす風につつまれ、日常生活から解放された思いと少しばかりの不安を抱きながら、作者はタクラマカンを縦断するバスに揺られていた。
窓を通り過ぎる風景は、記憶の底に沈んだ光景を呼び起こすように次から次へと作者の中に飛び込んでくる。時折、重そうな荷物を積んだトラックとすれ違いながら、沈みゆく夕日に向かって、どこまでもまっすぐな道を次のオアシスに向かってバスは走って行く。
突然どこからともなくどす黒い低い雲が空を覆った。雨である。砂で汚れた窓に黒い雨粒が打ちつける。乾ききった大地に吸い込まれるように雨が染み込んでいく。たちまち辺りは湿度を帯びた風景に変わっていった。モノクロ約40点。

 かって,TPO PHOTOSCHOOLで一緒に受講した人の作品展.
 ニコンサロンでの展覧会も三回目,今月号のアサヒカメラにもこの作品の一部が掲載されている.
 私はその間にグループ展に2回だけ参加しただけだ.とにかくやりかけの作品を着実にまとめて行かなければと思う.
 

 沖縄で久し振りに写真を撮ったせいか,銀座を歩きながら,コンパクトデジカメのシャッターを押すことが出来た.

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2009-10-03

 久し振りに,鎌倉古本屋に行く.
 「日本近代写真の成立と展開」(東京都写真美術館)を手にとり,島村逢紅(しまむらほうこう、1890年-1944年),
西山清(にしやまきよし 1893年-1983年)の写真を眺めているうちにこのカタログをかってしまう.
 Wikipediaより引用

『日本近代写真の成立と展開』(にほんきんだいしゃしんのせいりつとてんかい)は、1995年(1月21日-3月26日)に開催された東京都写真美術館の総合開館記念展の1つ。

日本の近代写真(おおむね、関東大震災(1923年)から第二次世界大戦末(1945年)まで)を網羅的に紹介した展覧会。「構成派」の淵上白陽に始まり、芸術写真のソフトフォーカスのなごりを見つつ、野島康三、安井仲治中山岩太らのシャープな新興写真の作品群にうつり、小石清によるおおいなる前衛化を経て、平井輝七や日本各地に発生した群小写真グループの写真家たちの前衛写真にいたり、やがて報道写真、その極限としてのFRONTへとたどり着く、という日本戦前の近代写真のあゆみを鳥瞰できる。

特に、1980年代後半から1990年代前半にかけての、日本各地の美術館での掘り起こしの成果を大いに取り込んでいる点が高く評価できる。具体的には、ソシエテ・イルフ、ナゴヤ・フォト・アバンガルド、満洲写真作家協会などの紹介である。

その展覧会図録は、この分野の基礎的資料であり、市販されている同種の資料がないことから、極めて重要である。250点近い図版を見ることができるとともに、「カメラ・眼×鉄・構成」、「初夏神経」、「メセム属」といった戦前を代表する写真集が全ページ紹介されている点が、白眉である。ただ、年表がない、現在における参考文献の紹介がない、解説が少ないなどの難がある。

tumblr沖縄の基地の写真をアップ. http://taiyo-no-egaku-e.tumblr.com/post/203437604/ をご覧下さい.

2009-10-02

 飛行機の出るまでの,約3時間那覇の街をAutocordで撮る.
国際通りの裏側を通り,市場通り付近を中心に撮った.
古い街並みを崩し,どんどん東京みたいになって行く最中というか,辛うじて,古い建物が残っているところだ.写真はいくらでも撮れそうだ.Tri-X 10本
 今回,沖縄で18本撮影したことになる.

 家に戻り,取りあえず,デジカメの写真を整理するというか,バスの中から撮影したものだけをflickrにアップしました.
 http://www.flickr.com/photos/heliograph/sets/72157622376701921/を見て下さい.

Tumblrにも写真をアップ.http://taiyo-no-egaku-e.tumblr.com/を見て下さい.

2009-10-01

沖縄3日目。夕方、安富祖の村落をAutocordを首から下げて歩く。家、植物、土地の色が本土とは違う、久しぶりに撮り歩きしながら興奮した。
「見慣れぬ怪しい男が歩きまわっている」と警戒されてないかなと思ったが、小学生の女の子に「こんにちは」と声かけられ、ちょっとホットしたが、その直後に犬に吠えられなかなか泣き止まないのには閉口した。
結局、tri-x5本.

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