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2009-11-30 フォローして

「河口龍夫展 言葉・時間・生命」

 昨日の記事を書くのに,Takさんの ブログ「弐代目・青い日記帳http://bluediary2.jugem.jp/?pid=1を参考とさせていただきましたが,その中で,ブロガー特別内覧会というものが開かれていことを知りました.これも東京国立近代美術館の新しい試みのようです.

以下が,参加されたブロガーブログのアドレスです.

はろるど・わーど
http://blog.goo.ne.jp/harold1234

二子玉川deぼちぼち絵日記
http://blog.goo.ne.jp/nikotama-life

あるYoginiの日常
http://memeyogini.blog51.fc2.com/

徒然と
http://blog.goo.ne.jp/lysander

あお!ひー
http://blog.goo.ne.jp/aohie

フリージャーナリスト林信行
https://twitter.com/nobi

TWITTERその後

 登録して,何が何だか分からなかったTWITTERですが,1人知り合いを見つけ,互いにフォローすることができ,「つぶやきを」交換する体験もし,メイルとは違ったやり取りが出来ることも分かりました.
 最初は何をフォローすれば分からなかったのでasahi.comをフォローして,ニュースがどんどん入ってくるのを見ていましたが,ちょっと違うのではないかと,2日ぐらいでフォローするのをやめました.自分のニュースの情報源して使えば,それなりに有効なものになるとは思いました.
 要するに,どんな人をフォローして,自分に入っていく情報が面白いものできるか,その情報の流れに自分も参加できれば面白いものになるんでしょうが,うまくつぶやくところが見つかりません.

 通勤時間が長いので,携帯でTWITTERを見ることが多くなり,ここ2,3日,電池が切れそうになっています.
 私の TWITTERhttps://twitter.com/heliograph1950ですよろしく.

2009-11-29 精神の冒険

「河口龍夫展 言葉・時間・生命」

 竹橋東京国立近代美術館へ「河口龍夫展 言葉・時間・生命」を見に行く.
f:id:heliograph:20091129135117j:image

http://www.momat.go.jp/Honkan/kawaguchi_tatsuo/index.html#detailより

 河口龍夫(1940年、 兵庫県神戸市生まれ)は、1960年代から今日に至るまで、現代美術の最前線で活躍を続けてきている作家です。彼は、鉄・銅・鉛といった金属や、光や熱などのエネルギー、さらに化石や植物の種子など、さまざまな素材を用いながら、物質と物質、あるいは物質と人間との間の、目に見えない関係を浮かび上がらせようという一貫した姿勢で制作を続けてきました。

今回の展覧会は、40年以上にわたる河口龍夫の制作のあゆみを、「ものと言葉」「時間」「生命」というキーワードのもとに3つの章で構成し、それぞれのテーマによる過去の主要作品と、新作とをあわせて展示します。「芸術は精神の冒険」であると河口はいいます。彼の作品の前で五感を研ぎ澄ませ、想像力をひろげるとき、私たちは、ものに対する新しい認識の仕方に驚かされたり、人間のスケールを超えたはるかなる過去・現在・未来の時間の流れに思いを馳せたり、あるいは生命の不思議に触れることになるでしょう。

特に象に残ったのは,

  •  銅版,あるいは鉄板を布でくるみ,アルカリ性の溶液を塗り,布の表面に緑青や赤錆が浮き出てきて,抽象画のように見える.《関係―質》 この作品は一応,乾燥させ錆を止めているが,すこしずつ錆は進行していて,完成に近づいているのをみていることになる.

  •  大小さまざまな化石を和紙にフロッタージュして,紙を貼り合わせて大画面にした.《関係―時のフロッタージュ・5億6千万年》

  •  7000もの蓮の種を鉛にくるみ,白い展示台の上に整然と並べた「7000粒の命」

 (この作品。展示するだけアシスタント3人で3日かかったそうですhttp://bluediary2.jugem.jp/?eid=1941より)

等である.

 カタログの中の,河口龍夫さんの文章
 「精神の冒険」としての芸術―関係のこちら側からの記憶の断面としての覚書 より


記憶は「何か見たこと」による残像として生まれる場合が多いようだ.しかし,私の記憶のひとつに「何もみえなかったこと」の記憶が鮮明である.幼児期のある頃,戦火のなかからの逃亡や栄養失調などが重なったためか原因不明のまま一時的にではあったが私は失明しかけたからだ.その時,私は「見ること」を「見えないこと」によって最初に意識したのかもしれない.眼を開いていても何も見えない暗闇のなかで,光とは無縁に見た無数の映像や光を閉ざした脳裏に浮かんだ幻影は,光とは絶縁したものやことの記憶であった.
 暗闇で光とは無縁で「見たこと」は,「見ること」が「見えないこと」によって「見えること」もあることを示唆しており,「見ること」は,必ずしも視覚のみで成立するとは限らないことを物語っているかのように私には思えた.
 画廊を闇にして見えない個展《DARK》[1968年]を開催したり,闇の中で闇を鉄の容器に封印し,その封印した闇を年代を付した一連の《DARK BOX》[1975年〜]の制作は,わたしにとってはある意味では芸術が視覚によりかかり過ぎたことに距離をおこうとしたことを示唆しているかのようだ.
 闇に関係した試みは,視覚を超えて,光と闇を同等に感じることが可能であるかへの挑戦である.つまり「見ること」と「見えないこと」を等価に感じることである.この世界が光から始まったのか,闇から始まったのかの二者択一の放棄であり,「見えること」と「見えないこと」をその未知なる関係を捉えようとすることである.光に向かって冒険があるように闇に向かっての冒険があることへの自覚であった.また,闇に向かっての「精神の冒険」の開始であり,「見えないこと」に向かっての「精神の冒険」でもあるのだ.

 《DARK BOX》は今回も展示されていますし,《関係 闇の中の彩色ドローイング》という暗室の中で色鉛筆で描いたドローイングが暗室の中で展示されていました.それらを懐中電灯を持って鑑賞しました.
 
 美術館の広報事務局がtwitterを使い.情報を流すなど,新しい試みに取り組んでいる.
 TwitterURLはこちらですhttp://twitter.com/KawaguchiTatsuo
実は私がTwitterでフォローしている人が,この展覧会のことを取り上げていたので,今回見に行くことになったのだが,前回のゴーギャン展でも,YouTubeに解説のヴィデオをアップしていたりして,この美術館はいろいろ新しい試みに挑戦しているようだ.
 カタログを買ったが,作品解説が作品解説(ギャラリートーク風に)となっていて,話し言葉でかかれた大谷省吾さんの解説は非常に読みやすく,このあたりも頑張っているなという感じがした.
 今回だけでなく,これからの展覧会でもこのような試みを続けて欲しいものである.

松江泰治

 常設展の写真のコーナーには松江泰治さんの写真が展示されていた.
http://www.momat.go.jp/Honkan/permanent20091003.htmlより

世界各地の「地表」を精緻に撮影した作品で知られる松江泰治(1963〜 )。無人の荒野を過剰なまでの解像度で写しとり、その評価を確立した90年代半ばのモノクローム作品13点を展示します。

会場に置かれた解説の中の.松江さんの文章(アサヒカメラ2002年4月号)

僕の提案は,あらゆる意味での「視点」を変えることです.
「高い所から撮っているんですか?」「航空写真ですか?」とよく聞かれます.答えはノーですが,興味深いしつもんですね.一見すると航空写真のように見えるが,どこか不自然d疑わしい.明らかな俯瞰写真ならば発せられない質問でしょう.写真を言葉で説明することは「見る」行為を停止させること.しっかり見てくださいよ.一点一点それぞれ撮影条件は異なります.
 山に入って谷のへりに立ち,水平に視線を構える.すると谷底から山の峰まで,上からしたまですべてに志映の広がる地点に稀に出会う.大切なことは遠近法や重力から写真を解放すること.これにょって視線は自由に画面をさまよい,見えなかったものが見えてくる.
 見れば見るほどに,思っていたのとは違った全体像が現れる.

を読んで,高いところから俯瞰した作品であると勘違いしていたことに気付いた.

2009-11-28 Gallery巡り

柴田敏雄作品展 「a View」

 先日,見たZEIT-FOTO SALONで行われていた「For Grey」展と併行して開催されていた.BLD Galleryの柴田敏雄作品展 「a View」を見に行く.

 90年代後半からアメリカ各地のダムの撮影も始め、数年前からはカラーの作品も発表し始めるなど、新たな展開を見せている柴田の作品より、本展では、現在まで撮りためたモノクロの未発表作品を中心に展示します。

大きく引き伸ばされたモノクロの作品からは、カラー作品へと移行するまでの柴田のストイックなまでの眼差しの経緯を見て取ることができるでしょう。

 質の高い沢山の作品を撮りためていたことに驚かされた.

トーマス・ルフ『cassini+zycles』


 ギャラリー小柳にトーマス・ルフ『cassini+zycles』展を見に行く.
cassini』はNASAESA(欧州宇宙機関)の土星探査機カッシーニが撮影した画像を加工したもの.もとの画像はNASAからダウンロードしてきたものということなので,早速,Googleで調べると,確かにCASSINI EQUINOX MISSION (http://saturn.jpl.nasa.gov/)というホームページあり,
 例えば,こんな感じの画像がダウンロードできた.
f:id:heliograph:20091129023247j:image

『zycles』は3D CADで描いた数理曲線をプリントアウトしたもの.
ギャラリー小柳ではこのような文章を配布したようだ.

「zycles」シリーズにおいて数学物理学にまでおよびます。19世紀の物理学研究書に掲載された繊細なカーブを描く電磁場の銅版画に想を得たルフは、さまざまな数理曲線が3次元でどのように見えるのかを熟考、その後3Dプログラムを用いて数式に基づいた曲線による幾何学的な構造を組み立て、それを 2次元である平面作品へと変換しました。画面いっぱいに縦横無尽に走るラインは、時には複雑に絡み合い、時にはダイナミックなカーブを描きながら、観る者に無限な空間を感じさせる一方で、細部を見れば見るほどその複雑な構造に引き込まれていくという多様な見方を可能にする視覚システムとなるのです。

「繊細なカーブを描く電磁場の銅版画」とか「3Dプログラムを用いて数式に基づいた曲線による幾何学的な構造を組み立て、それを 2次元である平面作品へと変換しました。」ってよく分からない.

 昔,CHAOS系のコンピュータグラフィックスのプログラムをよく書いていたけど,人に見せると良く分からんと言われた,トーマス・ルフ位になると,これは何を表しているのとか質問されないのだろうか,純粋に画面に現れている画像を見てくれる人は少ない.
KARONSNET(http://www.kalons.net/j/news/articles_1222.html)の編集部ノート(執筆:小金沢智 )によると,

世界的に評価されている作家の作品が必ずしも自分にとって重要な作品とはかぎらない。ギャラリー小柳で発表されたトーマス・ルフの新シリーズ、《cassini》と《zycles》はそのギャップを強く感じる作品だった。土星探査器「cassina」から送信された画像を加工したという《cassini》は、なるほどスマートに、時にポップに天体を仕上げることに成功している。しかし写真が収められている焦げ茶色のフレームも手伝って、それらはそれなりのレベルのインテリアショップに飾られている写真を思わせた。作品が悪いわけではない。が、とりわけ何を感じることもない無味無臭の作品である。

ZIGEN『小豆島』

 Up Field GalleryへZIGEN『小豆島』を見に行く.
 Galleryのホームページの樹の写真に惹かれて行ったが,プリントも小さく,がっかりした.
自分の思っていたのとは別の展覧会だった.

「ニエプスの箱・左」

浅草橋のCASHIへ「ニエプスの箱・左」を見に行った.

http://cashi.jp/jp/exhibition/2009/10/30/1/より,

”ニエプスは写真を霊力捕獲装置であると夢想していた”


秋晴の候、皆様におかれましては益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。この度、CASHI では3人の若手写真家による、展示替えを挟んだ二部構成の写真展「ニエプスの箱・右」「ニエプスの箱・左」を開催いたします。

写真の発明を導いた一人、ニセフォール・ニエプスは写真の原理を以下のようなことと夢想していたという説があります。


『ニエプスは、光はさまざまな物体に触れるとボールのように跳ね返る「流動体=霊力(フリュイッド)」のようなものであると夢想していた。彼は、写真によってこの「流動体=霊力」を捕獲し、それが跳ね返るのを避けながらその刻印を定着しようとしたのである。』(『明るい部屋の謎』セルジュ・ティスロン著、青山勝訳 62 ページより)

シャッターを切るという行為はまさしく捕獲行為です。写真家達は追憶、空気、光、様々なものをカメラの中に閉じ込め、定着させてきました。その捕獲できるものが霊力のようなものとするなら、なんとロマンチックで素敵なことでしょう。


ニエプスの、写真が霊力を捕獲する装置であるというその当時の考えを実証すべく、この度CASHI では観るものを揺さぶるような力を閉じ込めた写真達を、一度の展示替えを挟み同じ作家達で一部、二部と別の展示構成を行いまるでレコードのA 面B 面のように作家達の裏と表を見せる試みを行います。

 おそらく蛍の光跡を捉えた,杉浦慶太さんの作品がすばらしい.(おっと,何の写真はこだわってはいない,そもそも,この展覧会のホームページの画像をみて,このなんだかわからない写真をみたいと思って浅草橋まで出かけたのだ.)
生憎,前半の「ニエプスの箱・右」の方は見ていないが,KARONSNET(http://www.kalons.net/j/news/articles_1552.html)の編集部ノート(執筆:小金沢智 )によると,

両会期通じて最も関心を引かれたのは、「右」で《雲》と題するどう見てもただのまっ白にしか見えない作品を、「左」では「右」と対照的に暗闇の中緑色の光が蠢く作品を発表した杉浦慶太。どちらも、「はたしてこれは何を撮ったものなのか」という〈わからなさ〉があり、それが作品の大きな魅力に繋がっている。そう、すべからく芸術と呼ばれるものにはこの〈わからなさ〉が不可欠なのだ。

前半の「ニエプスの箱・右」を見なかったことが残念だ.

 調べて見ると杉浦慶太は2008年のGEISAI MUSEUM#2でビクター・ピンチェック賞を受賞、同年秋のGEISAI#11にて銅賞を受賞した期待の若手写真家のようで,2009年1月CASHIで行われた,『杉浦慶太「森 -Dark Forest-」』展の案内では,その作品は
http://cashi.jp/jp/exhibition/2009/01/07/1/より

特に夕暮れ過ぎ、夜になる直前の森を撮ったシリーズ「森」は、暗く、静かで冷たい森の表情を撮しつつも、しかし湿気を帯びた森の空気が重たく体にまとわりつく感触をリアルに感じることができる不思議な温かさに満ちた作品です。

と紹介されている.この作品も見たかった.
 4x5で撮影し,スキャナーで取り込み,インクジェットやラムダプリントでの作品を作っているようなので,手法的にも興味があり,これからも注目して行きたい作家だ.

2009-11-27 世界は美しくなくてもいい

伊奈英次「WASTE」


webを見ている内に.「世界は美しくなくてもいい」と言う言葉と出会った.
伊奈英次さんの産業廃棄物を撮った写真集「WASTE」*1について,谷口雅さんが
「世界は美しくなくてもいい」―伊奈英次の『WASTE』が投げかけたもの ―という文章を書いていたのだ.
http://www005.upp.so-net.ne.jp/eiji-ina/criticism/02.htmlより一部引用

これまでの伊奈の仕事においては、対象の状態を選別し、背景を簡略化し、対象へと接近し、あるいは遠望するといった、ミニマルな伊奈独自の視線が加わりシンプルな画面を構成していた。そうした手法を維持しつつ、視線が美へと収束、目的化することを免れることが目論まれているということであろうか。この写真集には美しさだけではなく、美しくなくても良いのだという対象(世界)への態度がある。「世界は美しい」という写真史に残るマニフェストを思いだし、そして、ニューカラーが、「写真へと転換された世界は美しい」と、このマニフェストを言い換えたとすれば、「世界は美しくなくてもいい」という態度保留という醒めた視線がなにかを生み出す可能性を想った。

 アルベルト・レンガー=パッチュ「世界は美しい」という写真集に対する言葉であるのだろうが,サルガドの美しい写真を見て感じる,何か違うというもどかしさはこの「世界は美しくなくてもいい」という気持ちがそうさせているのだと思う.

*1:WASTEシリーズの写真はhttp://www005.upp.so-net.ne.jp/eiji-ina/works/waste/top.htmlで見ることができます.

2009-11-26 西井一夫とサルガド

サルガドと国境なき写真家旅団

 サルガドの写真について,西井一夫をは20世紀写真論・終章―無頼派宣言 (写真叢書)で,

Migrations: Humanity in Transition

Migrations: Humanity in Transition

書評としての文章サルガドと国境なき写真家旅団と SEBATIAO SALGADO『MIGRATIONS』
次のように書いている

 略

 この分厚い写真集は,サルガドが,六年間,世界の四十ヵ国を取材して歩いた成果である.アンゴラモザンビークチャドエチオピアエリトリアリベリアソマリア,シレラレオネなどアフリカは戦争の渦中にあると,サルガドは見ている.私たちは,それらの実相をほとんどまったく知らない.こうした実相を知らずに世界を語ることは不可能なのに,私たちはいまだに無知で平気なのである.哀しいが,それが現実だ.この一点だけでも,私たちは,サルガドの写真を受け入れる必要がある.彼自身が冒頭に長い解説を書いている.そのなかで,彼自身が故国ブラジルから追放された経験についてもふれている.異国で生活をしなければ人びとへの彼の視線は自身の体験に基づいている.この密接に裏打ちされた経験上の基盤なくして,これだけの執念は生まれないだろう.なかには,彼が現実には現場に立てなかったシーンが,テレビ映像の複写という形で挿入されていて,これまでの彼の写真に見られた,きちんとした絵画的構図で,写真としてピント・グラデーションもばっちり,という一部にできすぎの批評を醸した映像的な「美」した要素が大胆に取り入りられている.つまり,写真的表現などという狭い視野でものごとをみているのではなく,必要性においてカメラを使用していることが明確に示されている.サルガドがけっして自己表現のために難民や肉体労働者を被写体にしているのではなく,彼は被写体のために写真を撮っているのだ.この姿勢は,当然私が提唱している「国境なき写真家」集団の精神と合致している.

 略

これらの膨大な写真を見てまず思うのは,ここに写されていない「不在」の人びとのことだ.その「不在」とは,移動中に亡くなった死者のことではない.まだ生まれない未来の子たちでもない.私に不在なのは,いわゆる「先進国」の人びとのことだ.日本人を含めて,ヨーロッパアメリカの人間は,ここには不在なのだ.つまり,第一世界の人びとがここには不在で,第三世界の人びとだけが移動をしいられている.そうしてサルガドは,この第三世界の移動民のなかから新しい人類の秩序が生まれるだろう,と言っている.私個人はそこまで楽観視できないが,すくなくとも二十世紀は「難民の世紀」であり,難民がこれからの主力となろう,とは考えている.

 略

2009-11-25 コラージュ

コラージュって何?

PHOTO GRAPHICA (フォト・グラフィカ) 2010年 01月号 [雑誌]

PHOTO GRAPHICA (フォト・グラフィカ) 2010年 01月号 [雑誌]



を買った.その中で,清水 穣さんが柴田敏雄さんの『For Grey』(長澤章生パブリッシング)の書評を書いている.

 ここ数年,柴田敏雄は「撮影しなかった,落としてきてしまった風景」をカラーで撮影しているが,本書はその最初の集成である.カラー写真によって白黒vsカラー,自然vs人為という二元論を脱した.その結果,彼の現在は,まさに写真のイデオロギーが成立した時期(100年前!)の同時代絵画の問題圏に接続される.モノクロームのコラージュへの色彩の導入,という問題である.まだ写真によってブレがあるのだが,ダムや土留めに制限されていた被写体がその領域を広げ,グレースケールを「灰色」という色彩と見なし,色彩のもたらす現実味と絵画性を相殺して,もはやダムの灰色でなくいまだ灰色という色彩自体でもない,宙づり状態において,カラー写真の新たなコラージュが成立している

柴田さんの作品は,4x5で撮った一枚のネガで引き伸ばされた作品である.私が無知なのかそれをコラージュというのだろうか,空をいれず奥行き感を意図的になくし,風景を平面的に撮り,いくつかのパターン(土留めの模様など)でまるでコラージュのように埋め尽くしているように見えるから,それをコラージュと呼ぶのだろうか?
ART-iTのコラムでも,清水さんは柴田さんの作品をコラージュとして紹介している.
http://www.art-it.asia/u/admin_columns/RAFe8CSvY4y6VXc5w3jU/ より一部引用

小山登美夫ギャラリー 京都のヴァルダ・カイヴァーノ、京都国立近代美術館のウィリアム・ケントリッジ、柴田敏雄の写真、タカ・イシイギャラリーの木村友紀、さらにはタケニナガワの新人、松村有輝……に共通して見られる現象、それが「コラージュ」である。1907年〜1916年は通称ピカソのキュビスト時代と言われるわけだが、まるで示し合わせたかのように、場所も世代も異なる作家たちが、意識的、無意識的にこの時代――キュビスムの時代、シェーンベルクの自由な無調時代、ストレート・フォトグラフィーの倫理の成立期――を参照点とするような作品群を展開しているように見えるのである。モダニズムの揺籃期(100年前!)に回帰するかのようなこれらの作品は、最近耳にする、Alternative modernismという、現代美術の歴史を複数化する傾向、すなわち過去の美術のうちから、ありえたはずだが未展開に終わった潜在的可能性を、現代に延長してきて展開する傾向のなかでも、美術史家の徒な饒舌を待つだけの下らないアカデミスムを免れている最上の部分であろうが、それでも実はアナクロニズムではないか、温故知新にすぎないのではないか、というような問いは、とりあえず措いておこう。00年代における同時多発的なコラージュ復活は、何を意味しているのだろうか?


これに対して,BLOG東京芸術史」で『清水穣「コラージュへ/コラージュから」がよく分からない』
という記事が書かれている.
http://tokyoartvillage.blog36.fc2.com/blog-entry-190.htmlより


そもそも、清水氏の記事に添えてある参考写真の中に、柴田敏雄の鉄橋写真が加わっていることが、よく分からない。文脈上、僕は最初、もしかするとこの作品は山林の平面写真にプラモデルの橋をくっつけて、さらにそれを写真に撮ったコラージュなのかと推測してみた。だが、写真美術館HPでの柴田氏本人の解説によると、

早明浦ダムに流れ込む吉野川にかかっている橋です。(略)プリントしてみると背景の山がとてもフラットで書割のような感じです。そこから赤い橋が突き出ているように見えて視覚的にとても不思議な作品になりました。



という。つまり、背景が書割のように見えはするが、あくまで素朴な写真作品で、作家が狙ってそのコラージュらしさを出したわけでもない。

2009-11-24 For Grey

ZEIT-FOTO SALONへ

 ぼんやりしていたら明日で,柴田敏雄作品展『For Grey』が終わってしまうのに気がついて,ZEIT-FOTO SALONへ向かう.
 この頃は,新しい作品はカラーのみで,白黒では撮っていないそうです.こないだ,府中*1で見た時も感じたのですが,カラーでありながら,目が行くところはグレーの部分で,その諧調が美しいのです.(府中にも展示してあった崖の擁壁の写真は,はじめて府中で見た時は白黒写真だと思いましたが,草の緑に気付きこれはカラーなんだと思ったぐらいです.)
今回は作者自身が,ZZEIT-FOTO SALONのホームページで次のようにかいています.
http://www.zeit-foto.com/exhibition/shibata09.htmlより

梅雨の時期にあかるい曇り空を見て美しいと思いました。
グレーの階調だけでひろがる空がそれだけで美しく、ほとんど無意識に眺めてしまいました。
写真に撮ってみようかとも思いましたが、やめました。
以前、ある女性のギャラリストが、雲だけは撮らないでね、と笑いながら言った言葉が無意識に作用していたのかもしれません。そのときはどうしてなのか深くは聞きませんでしたが、ある年齢になると写真家は雲を撮りたくなる、そういう傾向があるらしいのです。空や雲にノスタルジーを感じるということなのでしょう。
わたしはグレーの階調の美しさが気になったのです。カラーで作品を作るようになり、沢山のプリントを作ってきましたが、最も気にかけていることは「色」のことよりもグレーについてです。カラーの作品の中に白から黒までの階調の美しさを出したいと思っているのです。多分このことと梅雨空の雲の階調が結びついて、私を引きつけたのでしょう。         
2009年8月 柴田敏雄

*1府中美術館の「多摩川で/多摩川から、アートする」

2009-11-23 他者の苦痛へのまなざし

Genesis Project

 今日,2009年10月23日加計塚小学校で行われた,展覧会についての講演会の全文を見つけました.
昨日の「風の旅人」の文章より,Genesis Projectについて,良く分かると思いますので,引用します.
http://photo.kaza.jp/?eid=1100801より

 リサーチをしたら、まだ地球の46パーセントはジェネシス(起源時)と同じ状況にあると気がついたのです。46パーセントが自然な状態というのは、海面を除いての話です。例えば、その46パーセントのうちいくらかは、砂漠ですし、熱帯雨林ですし、寒冷地の森林、あるいは高山地帯でもあります。ジェネシスプロジェクトとは、そこに行って、写真を撮って、みんなが見た事の無い景色を見せる、というコンセプトの元に始めました。それで、その写真から真の意味での地球の自然の素晴らしさに気づいてほしいのです。

 それは写真が生まれた100年前に、海外や他の世界の風景など、それらの世界を実際に見た事のない人たちが、その景色の写真を見て感動しただろう、という事に似ています。僕はこの現代でそういうことをしたいのです。それで、自分たちは自然の一部だと確認をしてもらいたいのです。ひいては、写真というものが、自然を保護し得る一つの手段になればいいと思うのです。

 Genasis Project の写真の何枚かはすごい写真であると思った.しかし,あまりにも出来すぎな構図の写真だなと思うものもあったのも事実だ.(私もそこにいたら同じような写真を撮るかもしれませんが)

他者の苦痛へのまなざし

他者の苦痛へのまなざし

他者の苦痛へのまなざし



にサルガド批判があるというので,本屋に行って買って来ました.
これまた,引用します.

 世界の悲惨(戦争の被害も含まれているが,それに限定されてはいない)を撮り続けている一人の写真家セバスチャン・サルガドは,美しいものは偽物だというこの新たなキャンペーンの主たる標的になってきた.ことに「集団移住者の群れ」と彼が名付けた,七年にわたるプロジェクトにかんして,サルガドは,スペクタクル的で「映画的」とされる美しい構成をもった大きな写真を制作したことで絶えず非難を受けてきた.
 サルガドの展覧会や彼の本の特徴である「人間家族」という神聖めかしたレトリックは,それがいかに不当であるにせよ,彼の写真にとってマイナスの働きをした.(もっとも良心的で立派な写真家のなかにも,ことばに多くのまやかしがあり,それが見逃されている場合がある.)サウルガドの写真は,彼が捉えた悲惨の映像が通常置かれる商業的環境への関連においても白眼視される.だが問題は写真にあるので,どこでどのように展示されるかではない.問題は,写真が無気力な人々,無力な状態へと追いやられた人々に焦点を定めているところにある.

中略

三九ヵ国で撮影されたサルガドの移住写真は,移住という一つの見出しのもとに,原因も種類も異なるあまたの悲惨をひとまとめにしている.グローバルに捉えた苦しみを大きく立ちはだからせることは,もっと「関心」をもたねばならない,という気持ちを人々のなかにかきたてるかもしれない.それは同時に,苦しみや不幸はあまりに巨大で,あまりに根深く,あまりに壮大なので,地域的な政治介入によってそれを変えることは不可能だと,人々に感じさせる.このような大きな規模で捉えた被写体にたいしては,同情は的を失い,抽象的なものとなる.だが,すべての政治は,歴史がすべてそうであるように,具体的なものである.(確実に言えることだが,歴史について本気で考えない人間は,政治を真剣に受け止めることができない.)

 現実的な写真映像が一般的でなかった時代には,見なければいけないものを見せ,苦痛に満ちた現実を身近に引き寄せれば,人々の感情がかきたてられて,人々はより深く感じるはずだと考えられていた.写真が消費者操作のために見事に利用される世界にあっては哀しげな写真の効果を自明のものと期待することはできない.けっかとして,道徳的に鋭敏な写真家や写真の理論家は,戦争写真において感情を喚起する機械的なやり方や,情緒(憐れみ,同情,怒り)の搾取という問題を次第に憂慮するようになった.

 サルガドの写真展を,見てもただ,自分の無力さを感じてしまうだけだからと思って見るのを避けようとしてたのは,このことに関係しているのかもしれない.
 訳者の北條文緒さんが訳者のあとがきで

私たちは映像の語る他者の苦痛をけっして本当には理解することはできない.だがその苦痛を生む世界のメカニズムを把握しようとする契機を,少なくとも写真は与えてくれるのだ,と読者は,著者の主張を今一度辿り直して納得するのである.

とまとめている.

2009-11-22 GENESIS

セバスチャン・サルガド アフリカ 生きとし生けるものの未来へ

f:id:heliograph:20091122192804j:image

東京都写真美術館で『セバスチャン・サルガド アフリカ 生きとし生けるものの未来へ』見た.
http://www.syabi.com/details/sarugado.html

 サルガドの写真展は前に,2003年11月〜2004年1月に,同じ東京都写真美術館で『セバスチャン・サルガド写真展「エッセイ―この大地を受け継ぐもの―」』が開かれている.

http://www.syabi.com/backnumber/schedule/details/salgado.html

このとき,サルガドの写真を見た経験から,何となく今回のサルガドの写真展を見るのを避けていた.
 サルガドの写真を見ると,またあの,自分がこの世界で起きている戦争.迫害,飢餓,過酷な労働等の現実に対して自分は何もしてないという後ろめたさを感じるような気がするからだ.
 美術館に入るまでは,写真新世紀だけを見て,後は新宿ギャラリーに行くつもりだった.でも,何となく800円出して,入場券を買ってしまったのだ.
 
今回の内容は
http://www.timeout.jp/ja/tokyo/feature/162より引用すると

フォト・ドキュメンタリーの先駆者としても知られている写真家セバスチャン・サルガド(Sebastia~o Salgado)の『アフリカ』展が、 東京恵比寿東京都写真美術館で幕を開けた。セバスチャン・サルガドブラジル法律と農業を学び、アメリカでは経済学の修士号を取得。一旦ブラジルの大蔵省に勤務したものの、軍事政権の弾圧を受けフランスに亡命した。その後、パリ大学で農業経済学の博士号を取得し、国際コーヒー機構に就職してから写真を始めたという希代の写真家だ。彼の名を一躍有名にしたのはサハラ砂漠の南、サヘル地域の干ばつと飢餓の写真。彼はそれから30年以上にわたり、写真家としてのキャリアをアフリカに費やしている。

サルガドはなぜアフリカにこだわるのか、その理由の全てがこの展覧会にある。展示されているのはサルガドの代表作である『WORKERS』『EXODUS』の各シリーズと、現在制作中のシリーズ『GENESIS(起源)』からジャスト100点。つまり彼の33年の写真家人生がダイジェストで見られるのだ。自ずと、彼がアフリカにこだわる理由が浮かび上がってくる。サルガドは経済学者としてルワンダを訪ねた時、人々が茶園で労働し生計を立てられるようにシステムを作りあげた。そのルワンダの茶畑で生き生きと働く人々をとらえた写真が展示されているその同じ空間に、ルワンダ難民の写真があるのだ。フツ族ツチ族間で起こった大量虐殺により住むところを追われた人々の写真だ。食糧の配給を待つ孤児、うなだれるコレラ患者、殺された人々の遺体。紛争や飢餓、砂漠化などアフリカが抱える問題に世界各国がさまざまな救済プロジェクトを実行しているのにもかかわらず、一進一退を続けるアフリカの現状。この展覧会では、そうしたアフリカの今をストレートに感じることができるのだ。もちろん凄惨な写真ばかりではない。展示作品の中には、戦闘から逃れた難民を包み込む木漏れ日、苛酷な状況にあっても笑顔を浮かべる人々、まだ人間の手が加えられていない密林など、未来への希望を感じる写真も少なくない。だからこそ今、私たちがアフリカの現状を知ることには意味がある…そう思わずにはいられない展覧会だ。是非、サルガドがとらえたアフリカを観て何かを感じて欲しい。

とあるように,前回と同じく紛争や飢餓の写真もあるのだが,新しい『GENESIS(起源)』というシリーズの写真は今までとはまた違った取り組みをしている.これが,非常に美しい写真であった. 会場でカタログを買おうとしたが,全作品を掲載しているのだけど,印刷された写真のサイズがあまりにも小さいので,GENESISシリーズを掲載した,

風の旅人 (Vol.13(2005))

風の旅人 (Vol.13(2005))

を買って帰った.この本からサルガド自身の『「GENESIS」プロジェクトについて』

 世界はいま,自然も人類も危険な状態にあります.それにも関わらず,この警鐘はあまりにも多く聞かれるため,大きく無視されています.慣例のように国際会議が,地球温暖化,水資源,森林破壊,地球貧困エイズ,その他,地球上の様々な局面の危機について議論するために開かれています.しかし,依然として,人類の多くが生き残るために日々闘い,ごく少数の物が,安楽と利益を独占している状況であることは,問題が表面的にしか取り扱われていないことを示しています.
 確実に言えることは,我々が,地球上における命の本質とのつながりをうしないつつあることです.

中略

 二十世紀を通して,かそくする人口増加と経済発展は,北半球における温帯地域の自然生物の生息地をほとんど破壊してしまいましたが,現在,破壊の焦点は,熱帯地域に移行しています.

 地球に生存する種の半分以上がいるという世界の二五の地域(「ホットスポット」―英国のエコロジスト,ノーマン・マイヤーズによって展開された概念)では,すでに自然の生息域の90%が失われています.非凡な生物多様性は,現在,世界の地表面のわずか1.4%に踏みとどまっているのです.

 多様な生物種が見られるのは,野生の領域のみになっています.地球上の46%ほどの地表であるこれらの乾いた土地,寒冷地,熱帯雨林には固有種としては世界のほんの1.6%の植物,2.3%の脊椎動物(魚以外)しか含んでいません.しかしそれらの地は,水の循環など地域的な,そしてエコシステム(たとえば炭素隔離CO2の回収及び貯蔵)の維持において欠かせません.それらはまた,我々の種としての起源を理解するため,原始的な状態での生物の多様性を探るために残された最後の場所であります.

 このように,すでに環境にはダメージが加えられていますが,純粋な,あるいは無邪気なとも言ってもよい世界は,まだこうした野生の地に見つけることができます.我々の種を地球と結びつける試みとして,私はいま,自然と人類の未だ汚れや傷のない様相を記録するため,この世界を探検するつもりです.アダムもイブもいないとき,また人類が長期間にわたって,自然界との微妙なバランスのなかで,どのように共存してきたのか,ということを確かめるために―.

 私はこのプロジェクトを,人類が自然のなかで自身を発見するための道の一つだと考えています.GENIESIS(旧約聖書の「創世記」)と名付けたのは,可能な限り,われわれの惑星の始まりに戻りたいからです.生命に息吹を与えた,大気に,水に,火に―.まだ「野生」のままで,飼い慣らされるのを拒んだ動物たちに―.原始的な生活様式がほとんど何も影響を受けていない,遠隔の部族に―.そして人類の居住と組織化の,現存するもっとも初期の形態の事例に―戻りたいのです.
 この「旅」は,地球規模の人類学を示す一つの形でもあるわけです.そしてまたこのプロジェクトは,汚れていない世界は保護され,可能な限り広げられて,発展が自動的に破壊とイコールになってしまうことのないよう,そのことを提案するよう計画されています.

せっかくのサルガドの文章なので,翻訳がおかしいところがありますが,そのまま載せました.

GENESIESシリーズの写真は,
http://arts.guardian.co.uk/salgado/image/0,,1299951,00.html
http://www.hackelbury.co.uk/artists/salgado/genesis.html
http://stone-thrower.com/2009/06/14/sebastiao-salgado-%E2%80%9Cgenesis%E2%80%9D/
で見られます.

この後,3Fで開かれている,この間みた『コレクション展「旅」第3部 異邦へ 日本の写真家たちが見つめた異国世界』関連の講演会で港 千尋さんの話を聞く.
 港さん自身が撮った,レビィ・ストロースのインタビュー等をみることができた.
その後,写真新世紀を見たのだが,サルガド,港 千尋,レビィ・ストロースの後だけに,2,3の作品を除いてあまり興味を持てなかった.

2009-11-21 活字から,ウェブへの……

 先週買った雑誌,考える人 2009年秋号の特集は「活字から,ウェブへの……」

考える人 2009年 11月号 [雑誌]

考える人 2009年 11月号 [雑誌]

養老孟司さんへのインタビューから

 紙に印刷された文章と,ネットにのる文章は,どうしたって違ってくるはずなんです.ネットの場合は明らかに,反論を予測しながら書くことになりますから.読む人間がどう反応するかを極端なケースまで予想し書く.ウェブは,書いたことにかんり悪口を言われますからね.しかも,新聞や雑誌とちがって反応がダイレクトだから,書いたほうもついつい悪口をよまざるを得なくなる.そうすると,あれこれのケースを考えながら書くようになって,すっきりした文章にならない.読んでいるとなんだかうるさい感じの文章になる.
 反論を予測しながら書くとどうなるかというと,これは官僚の作文に近くなっていきます.しかし,用意周到な文章なんて,読んでいてこえほどおもしろくないものはない.(笑)

 確かに,BLOG書いていると,当たり障りのないような文章にしてしまいます.ネットで反論されたり,攻撃されるのはこわいですからね.

2009-11-20 トーマス・ルフ インタビュー

アサヒカメラ


 今日は20日カメラ雑誌発売の日,本屋で立ち読みしているうちにアサヒカメラを買う.

アサヒカメラ 2009年 11月号 [雑誌]

アサヒカメラ 2009年 11月号 [雑誌]

気になったのは,今日の写真2009,ゲスト: トーマス・ルフ氏,レギュラー: ホンマタタカシ氏と倉石信之氏による鼎談.
写真の大きさ

ホンマ 大きなプリントをというの要望は,ギャラリーや美術館からもあったのですか?
ルフ やりたいと言ったのは私です.初めてコダックの1.85m×2.5mの大きなサイズのプリントを作ったのは86年で,フランスギャラリーでの展示だったんですが,最初は小さなプリントだけで展示するはずせした.しかし,そのギャラリーには二つスペースがあったので,一つの部屋には小さなサイズを,もう一部屋には何点かの大きなプリントを展示することにしました.一点3千マルクかかりましたが,小さなプリントとはまったく違うものになりました.リアリティーが全く違うものになりました.しかし,大きなプリントを作ったとき,箱庭的な枠から解放されて,全く違う性格を持った独立したイメージになったと思いました.その当時,絵画や彫刻をコレクションとしてきた美術コレクターの人たちにとって,写真は絵画や彫刻には及ばないものとして顧みられていませんでした.しかし,僕の大きなプリントを見たときに,彼らはプリントの前を通り過ぎることができなくなってきた.立ち止まって,じっくり見てしまう力をそのプリントは持っていたからです.いまでは大きなサイズのプリントは珍しくありませんが,最初にあのサイズのマウントを作って,フレームに入れるということをやったのは私です.その後,トーマス・シュトゥルートたちも同じような大きなプリントを作るようになりました.大きなプリントを作ることが,写真というもののステージを上げた.写真に変革をもたらしたと思います.


ベッヒャー先生の写真についての教え

ホンマ ルフさんは写真家ベッヒャー夫妻から教えを受けた「ベッヒャー・スクール」の一人として知られていますが,ベッヒャー先生から学んだことで,いまでも影響を受けていることはありますか?
ルフ いちばん重要なことは,写真を使って作品をつくるときに,自分は絵画でもなく彫刻でもなく版画でもなく,写真をやっていることを意識しなさい,ということでした.それが僕にとっては大きかった.というのは,それは,写真というもののボーダー,限界を意識するということでもあるからです.この言葉はいまだに自分で意識しています.
倉石 写真だけが持つほかのメディアにはない属性を意識せよ.ということですね.ルフさんにとって,写真の持つメディアの特性のなかでもっとも重要なものはなんですか?
ルフ 精度が高いことです.被写体そのものに近いということです.写真はつねにドキュメンタリー,記録であるとされていますが,フィルム時代からファッション写真や広告写真という分野があったよに,現実に手を加えたイメージを生産しているという側面もずっとありました.デジタルになってますますこの映像をこう見えるようにしたい,という演出が簡単にできるようになった.世代的にいえば,いまの若い人はドキュメントのために写真を撮るという意識は薄いのではないかと思います.彼らは写真を使って現実を分析するのではなく,こういうイメージを見せたいということに関心があるのではないでしょうか.70年代に写真を始めて,いままでの間に,映像を取り巻く状況や,映像を見る側の意識が大きく変わったと思います.私はつねに新しくでてきているものを自分の中に取り込もうとしてきました.
ホンマ ルフさんはベッヒャーさんが大学を退いた後に,教授になられて,2006年まで教えていたそうですね.どのようなことを教えていたんですか?
ルフ ベッヒャー先生は「一生続けられる作品に取り組みなさい」といつも言っていました.ベッヒャー先生は大型カメラで撮るということを一生続けられたし,学生にもそう教えてまいりました.しかし,私が教授になった2000年は,デジタルカメラが普及し始め,アナログの時代はすでに過去のものになりつつあったので,大型カメラを使いなさいとは言えなかった.デジタルでもアナログでも,どんなカメラを使ってでもいいと教えていました.私が教えた授業では自由なテーマで何を撮ってもいいことになっていましたが,一つだけ学生達に言っていたのは「何でもいいから撮る,ではなく,何か一つテーマを持って撮りなさい」ということでした.撮影する前にコンセプトを良く考えて作品に取り組むように,ということです.撮影技術に関して言えば,若い学生たちのほうが新しい技術に詳しいので,僕に教えられることはそれほどなかったんですが,作品に対するアドバイスや彼らのコンセプト作りに協力することならできました.

2009-11-19 つぶやけない

ヨコハマ国際映像祭その後

藤幡正樹はなぜ出品を辞退したのか
というart-itのColumn(http://www.art-it.asia/u/admin_columns/YtTiJo3kczqDVj0KEFNG/?mail020)よると,ディスカッションについて,次のように書かれている.

藤幡が提案した「ディスカッション」は、いったんは具体的な日程まで検討されたものの、藤幡の意向で会期中の開催は中止された(藤幡のブログ参照)。会期後の開催に関して、映像祭側は「フェスティバルとして、事業としてやることにはならないのでまったく予定していない」と言う。

 このColumnには,この問題での.両者の言い分をよくまとめられていると思います.

Twitterその後

 さて,どんなものかと始めたTwitter朝日新聞http://twitter.com/asahiをfollowしたのですが,私のTwitterのページは完全に,朝日新聞のニュース速報のページになってしまいました.これは,違うと思いながらも,結構便利となんで,いまのところ残しています.
 どんなくだらないことでも,書き込もうと,携帯から投稿できるようにして,1日頑張ったのですが,その後はつぶやいていません.
 でも,今日はじめてfollowされたので,もう少し,様子をみようと思います.

2009-11-18 アサヒカメラ.net

アサヒカメラ.netがOPEN


デジカメWATCHによると,SNS機能付き「アサヒカメラ.net」が始まったそうだ.
http://dc.watch.impress.co.jp/docs/news/20091119_329891.htmlより

 朝日新聞出版は11日、月刊誌アサヒカメラの公式ウェブサイト「アサヒカメラ.net」をオープンした。
アサヒカメラ.netトップページ

 サイト内は大きく分けて、写真SNS「アサヒカメラ.netフォーラム」と、会員登録不要で楽しめる各種記事ページにわかれている。

 アサヒカメラ.netフォーラムでは、会員登録をするとギャラリーをネット上に開設可能。優れた投稿写真をたたえる「写真の殿堂」(毎月開催)などのコンテストに応募できる。優秀作品は、アサヒカメラ本誌での掲載も予定しているという。

  18日現在、写真SNS以外の主な記事は「テクニック」、「プロの現場報告」、「新製品ニュース」、「試用レポート」、「写真展ガイド」、「新刊ブックガイド」、「写真界ニュース」など。「編集部ブログ」内の情報によると、記事のほとんどはアサヒカメラ.netオリジナルという。

 なお試用レポートは、鬼海弘雄氏による「デジタルで撮るこれからのスナップ」(E-P1、DP2、GR DIGITAL III)や、編集部の「Nikon D300S」を公開中。ウェブギャラリー小林紀晴氏の作品。写真展ガイドでは、セバスチャン・サルガド氏の「AFRICA」( 東京都写真美術館、12月23日まで)を紹介している。


写真雑誌がこのままでは先細りになるので,このようなNETを始めたのだろうが,自分の写真をNET上で公開するシステムはflickr,fotogogue,picasa等がある.確かにnet上での月例写真みたいな「写真の殿堂」(1等賞金 1万円)が目新しいのだけど,写真雑誌から人が離れているのに,写真雑誌と同じようなことをnet上でやって,人を集められるのだろうか?

アサヒカメラ.net のアドレスはhttp://www.asahicamera.net/です.

Google Notebookがなくなる


Firefoxアップデートしたら,それまで,使えていた,Google NotebookのAddonが使えなくなった.
そのうち,サポートされるだろうと思っていたら,いつまでたっても出てきません.今日やっとしりました.Google Notebook は開発が終了し,新規申し込みを停止していたそうです.
http://googlenotebookblog.blogspot.com/2009/01/stopping-development-on-google-notebook.htmlより

Stopping development on Google Notebook
Wednesday, January 14, 2009 6:30 PM
Posted by Raj Krishnan, Product Manager, Google Notebook

At Google, we're constantly working to innovate and improve our products so people can easily find and manage information. At times though, we have to decide where to focus our efforts and which technologies we expect will yield the most benefit to users in the long run.

Starting next week, we plan to stop active development on Google Notebook. This means we'll no longer be adding features or offer Notebook for new users. But don't fret, we'll continue to maintain service for those of you who've already signed up. As part of this plan, however, we will no longer support the Notebook Extension, but as always users who have already signed up will continue to have access to their data via the web interface at http://www.google.com/notebook.

 色々,調べてみると,Evernote というGoogle Notebookをより協力にしたサービスがあるそうで,今日これに登録し,Google Notebookの内容をEvernoteに移す作業を始めました.

evernoteについては,次のEvernote活用ガイドをご覧下さい.

http://evernote.blog67.fc2.com/



 

2009-11-17 どうなっているの?

ヨコハマ国際映像祭作品撤去問題その後

藤幡さんは,2009/11/06のブログhttp://www.art-it.asia/u/ab_fujihatam/?y=2009&m=11&d=6&ca1=)で

「主に以上のような発言をしたことで、11月8日から14日の週あたりに、オープンなディスカッションの場を設けることを、横浜市と検討中です。決まり次第ブログに流しますの注目ください。」

と書いていましたが.
 その後,この件についての書き込みはなく,ディスカッションの場は本当に設けられるのかと思っていましたが.

また,住友さんは2009/11/07に
http://groups.google.co.jp/group/ifamy_crew2009/browse_thread/thread/2ddb7382159efe26

いっぽうで先日の記者会見における出品作家・藤幡正樹さん出品辞退の件では、
ご心配やご迷惑をおかけていると思いますので、
皆さんに現状での経緯をお知らせしたいと思いました。
藤幡さんとは、今後の解決方法について話し合いを続けてきましたが、
以下のようになりました。

1)作品の展示について
音の干渉を避けるための対処をする案をいくつか検討しましたが、
今のところ、作家の主張をただ受け入れた対応には見えない方法を
藤幡さん本人も望んでいるのですが適当な方法が見当たらず、予定通り
3日をもって作品はなくなりました。

2)トークについて
藤幡さんからは問題を話し合うトークが提案され、横浜市とも協議し、
フェスティバルとしてはそういうことを考える機会に柔軟に対応できる
ほうがよいだろうと考え、実際に実施するための調整を図り、実現する
予定でしたが、問題は複雑なため性急にはできないと本人から
撤回する意思を2日前に示されました。

実際に、複雑な問題が絡み合っていると思いますし、私も拙速な
意見を今言える状態にはないと思っています。
藤幡さんにはそのことについて考える機会をいただいたとも思っています。

ひとつだけ訂正をさせていただきたいのは、日本人の作家と海外の
作家の格差については、アーティストフィーは一律でお願いをしてい
ますし、日本人の若い作家の方でも、作品制作などの費用をかけ
ている方もいますし、けっしてそのような格差があるわけではありません。

いろいろな意味で、関係者の間では注目を集めるきっかけには
なりましたが、それだけではなく非常に多くの方の協力を得て実施して
いる事業ですし、なんとか成功させたいとスタッフは一丸となって運営や
PRに努めています。
他の参加アーティストの方たちからも、今後も信頼関係は
変わらずに支援するので気にしないようになどと、言葉をもらって、
スタッフもこのことはもう気にせずにがんばっています。
一般オープンしてからは、私も喜んで見てくださっている人たちと
毎日多く接しています。

発言していますから,ディスカッションの場は設けなくなったと思われるのですが,2009/11/07の2日前は
2009/11/05だからなと思うと,どうなっているのて感じです.

なぜ今?篠山紀信、家宅捜査


ココログニュースより

なぜ今?篠山紀信、家宅捜査

  • 2009.11.16 17:01

写真家篠山紀信が、朝日出版社から発売した写真集『20XX TOKYO』の撮影を巡り、公然わいせつの疑いで11月10日に事務所および自宅の家宅捜索を受けた。警視庁によれば、墓地やJR線路上といった不特定多数が認識できる場所での撮影が公然わいせつ容疑にあたり、写真集自体のわいせつ性は問わないとしている。同庁の事情聴取に、篠山は屋外での撮影を認めているという。

ネットでは警察を批判する声が挙がっている。『Blog d'Epimethee』のブロガーは、人目につく可能性のある場所で裸になることは褒められたことではないが、この撮影が誰の迷惑になったのかと問いかけ、「誰にも迷惑をかけていない行為を法律で処罰するのは国家の処罰権の濫用では」とし、検察が起訴するかを注視したいとつづっている。

同じ写真家横木安良夫氏はブログで、現行犯逮捕なら分かるが、約1年も前の撮影なのに今ごろというのはおかしい、と指摘。また倫理面で問題なら、警察が取り締まるのではなく、墓地やJRが名誉棄損で訴えればいい話だと述べている。

警視庁関係者の話では、これまでにも同様の問題を起こしてきた篠山に対し、お灸をすえる意味もあったのでは、とコメントしているそうだ。今年1月に発売された定価3150円のこの写真集は、現在すでに品切れ状態で、Amazoneの中古品が6万円以上など、プレミア価格がついている。警察が“見せしめ”のつもりだったとしたら、なんとも皮肉な結果といえそうだ。

(ぽこ)

Blog d'Epimethee』のアドレスのhttp://epimethee.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-c65d.html
横木安良夫さんのブログ
THE EYE FORGET by ALAO YOKOGI(http://alao.cocolog-nifty.com/the_eye_forget/2009/11/post-dacc.html

また,藤原新也さんもこの件について,発言しています.
http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php?mode=cal_view&no=20091115
を見て下さい.

 篠山紀信の作品には,前から路上等の屋外で撮ったものがあったと思うのだが,今頃どうして取り締まるのかという感じがした.確かに,墓地に勝手に侵入して撮ったこと自体は問題があると思うので,何が問題であったのかはっきりして欲しい.
 

2009-11-16 写真と記憶

「記憶」の力 

先日blog写真の存在論―ロラン・バルト『明るい部屋』の思想
より, 写真経験と記憶についての文章を引用した.
 http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20091112/1258047957
西井一夫の20世紀写真論・終章―無頼派宣言 (写真叢書)でも,写真と記憶について引用しておく.
第X章「記憶」の力 より

 私が「記憶」について,おそらくはじめてといっていいほどの力を認識したのは,一冊の写真集であった.
中略
 その本はローマン・ヴィシュニアックという人の「A Vanished World」というものだった.
中略
 ヴィシュニアックはそれらユダヤ人達の親密で懐かしい共同体が,一人の狂信的な男の決心によって消滅されることをかぎとると,その事態をを未然に防ぐことをまず考えた.しかし,自身がユダヤ人であり亡命者であることからなしうることはごく限られており,とうてい未然に防ぐてだてなどあろうはずもなかった.では,次に何が可能か.そのときヴィシュニアックに閃いたのは,自分の趣味でもあったカメラであった.消滅させられるシュテートルの人々や生活を写真に撮ること―彼に閃いたこの発想は,まわりの友人から大反対を受けた.
 中略
 そこでヴィシュニアックは家族の支援さえ諦めて,単独でこの決意を実行せざるをえなかった.彼は織物のセールスマンと称して,ベルリンから東欧の町や村へとカメラをオーバーやコートの裡に隠して出かけていった.
 中略
 大半の写真は没収されたが,それでも二千枚近いネガは,父親が別のところに隠して助かった.彼はそのネガと妻子をともなってアメリカへ亡命する.
 中略
 彼の写真がはじめてその意義とともに発表されたのは,鈴木了二氏がニューヨークで見た写真展の1983年冬だったのであり,戦争が終わって四十年近くが過ぎてからのことだった.その写真集には,まるで昨日のことのように,ヴィシュニアックが一枚一枚の写真に写っている人びとや暮らしについて,哀惜のこもったコメントを細かく記している.そこに写っている人びとはもういない.ただいないのではなく,すでに何十年も前に大半はアウシュビッツやトレブリンカのガス室で死んでいる.そこに写っている生活はもう世界のどこにもない.ただなくなったのではなく,ひとつの意志によって消滅させられたのだ.それらは,かってあったが,いまはない,としてかたづけられていいのであろうか.
 否,断然そうではない,とヴィシュニアックは言っている.これらは,忘却という「記憶の敗北」を決して許さないという固い意志でここに現れたのだ.そうして,あの消滅という事態を未然に防ぐことができなかったとしても,これらの世界が跡形もなく消え去ったのでなく,こうして今日の空白のなんかになお記憶として生きているのだということ,それが彼の執念の源であった.「此処に捕らえられている世界は一つの消滅された世界ではあるけれど,しかし,決して打ち負かされてはいない世界のである.あの「歪んだ人間の命令によって残忍に殺されてしまった」六百万人余を,世界はただ傍観していただけだった.その「打ち負かされてはいない世界」を残すために,彼は命がけでこれらの写真を撮った.すなわち記憶のために,である.いま,ここにいない=不在とは,記憶の中に生きていることである.といったのは,ミラン・グンデラである.

 略

A Vanished World

A Vanished World

2009-11-15

アートプログラム青梅2009「空間の身振り」展

 気になっていた,青梅に行ってきました.前に2回写真を撮りに行ったことがあるのですが,一番最初に行ったときに,雨が降り,青梅というと雨,寒さばかりが思い出されるのですが,今日はいい天気で,暖かく,楽しく歩くことが出来ました.

 まずは,青梅市立美術館,青梅織物工業協同組合施設,東京都青梅総合高校と回った,
 そのなかで,印象に残ったのは,
 斉藤美奈子のスライドショー「memory-いなげプロジェクト 2009年」
 作者は幼少期を青梅で過ごした,母校の小学生が撮った写真をもとに構成されたインスタレーション.床に数台のテレビにスライドショウが写す出され,同じく床に置かれたスピーカーから,リコーダーによる単純なメロディーが流れ出す.それも,時々,音がはずれ,よあまり上手ではない(小学生の吹いているような感じ)のが,なんともいえない雰囲気を出していた.
 平田 星司の立体作品「海のプロセス」海辺で拾ったガラス片、海砂、木材、エポキシ樹脂 でガラス瓶のようなオブジェを作り,並べた,会場(旧都立繊維試験場)の窓から柔らかな光と相俟って美しかった.瓶の形,色調から,モランディの静物がを思い出した.
 大竹敦人 「光闇の器/渦」
 針穴から水槽の中や窓の外の景色を球面の曇りガラスをスクリーンに投射させていた.このあいだ,府中の美術館での「多摩川で/多摩川から、アートする」でアーティストトークで大竹さんが今度,青梅で展示するという話を聞き,是非みたいと思って来たのだが,暗室に入り,鑑賞したのだが,水槽の作品が良く分からなくて,会場の入り口にいる大竹さんから直接,説明を聞いた.最初,入った時は,暗さに目が順応しなくてよく見えなかったようで,2回目に暗室入ると,自然に目が慣れて来て,暗幕の皺,自分の靴まで見えるようになると,そのスクリーンの様子もよく見えるようで,水槽の中の水草が揺れ,魚が泳ぐのがよく見えてきた.大竹さんが電気をつけて,会場の仕組みまで説明してもらい,非常に有意義な時間を過ごすことができました.

 その後,もう人会場回るつもりだったのだが,赤塚不二夫会館に入り,一時間以上も会場のビデオを見てしまい.中途半端な形で,帰ることになってしまった.
 でも,これでいいのだ!





 

2009-11-14 近づいては遠ざかる 

近づいては遠ざかる 

仙川東京アート ミュージアムへ[楢橋朝子写真展 2009/1989 近づいては遠ざかる]を見に行く.
安藤忠雄設計の2階まで吹き抜けの細長い箱のような空間
    http://www.tokyoartmuseum.com/
での展示されていた.入館者は一人だけでゆったりとした時間が過ごせた.
楢橋さんのwebサイトはここです.
 http://www.03fotos.com/win/closer.html
デジカメWATCHの展覧会レポ―ト
 http://dc.watch.impress.co.jp/docs/culture/exib/20090930_318188.html
から

■ わからない何かが面白い

 楢橋さんが狙う光景は、一般的なフォトジェニックさとは異なる。

「人の手が加わっているもの、人の痕跡があるものですね。それが悪意であれ、人の意思が見え隠れする光景は、特に気になっていました」

 その後、「NU・E」というタイトルがつけられ、「日本カメラ」での連載後、写真集「NU・E PHOTOGRAPHS 1992-1997」(1997年、蒼穹舎刊)としてまとめられるが、「鵺(ぬえ)は架空の怪物であり、存在しないものなので、何でも入れ込めたから付けた。特に決まりや、コンセプトが強くあるわけではないんです」と話す。

 目に触れた光景の中に違和感を感じると、シャッターを切る。その理由がわかってしまうと、つまらない。

「わだかまりを残したまま、写真になってくれる時がある。それが面白い。そうそう人に通じるものではないかなと思う部分もありますけどね」
■ 目の焦点を外して撮る

 その後、カラーで撮り始めるのだが、そのきっかけは「友人からカラーの自動現像機を譲り受けたから」だそうだ。大小2台あったので、これは使わざるを得ないと思ったという。

「モノクロは撮り手の感性が出てしまう部分があり、カラーの方がどうしてもリアルに写ってしまう。例えば人は人にしか見えないんですね。これまで通りに撮っていたらつまらなそうだぞというのが勘としてあって、面白い部分を探していったら、引いて撮ることが多くなった」

 目の焦点を外して歩き、そこで変なものを感じると撮る。ピントを合わせてみてしまうと、見たものに心情的に寄ってしまうからだ。

「できるだけいろいろなものが写るようにしたい。今ではモノクロとカラーでも、モノの見方をあまり変えないように撮ってみようと思っています。ごちゃごちゃにしようと。自分の写真のスタイルを部分的にでも壊していきたいんですね」

水中写真を撮ろうと出かけた

 ある日、水中を撮ろうと城ヶ島の海に撮影に行ったところ、海に入ると、水が汚なくて、すぐに断念した。陸に向けて、低い位置からシャッターを切っていった。その時に撮った中で、2枚、気になるカットがあって、翌年の2001年から本格的に撮り始めた。

 それが現在も制作が続いている「half awake half asleep in the water」だ。城ヶ島は水陸両用コンパクトカメラのキヤノン・オートボーイD5で撮り、次からはニコノスに変えた。

 海面と、その波越しに岸辺の光景や人の姿が写された光景は、見る人それぞれにさまざまな感興を与える。
<<

野島康三

 松涛美術館へ「生誕120年 野島康三(のじまやすぞう) 肖像の核心展」を見に行く.
今年の夏,京都国立近代美術館で見た写真と同じものが多かった.
 天皇陛下即位20周年ということで,入場料無料でした.明日も無料です.
 ここから,井の頭線の神泉の駅に出て,仙川東京アート ミュージアムへ向かった.


 

2009-11-13 TWIITERって何?

TWITTERに登録しました

 
 なぜTWITTERを始めたと書かないかというと,良くTWITTERのことがわからないからです.
 http://ja.wikipedia.org/wiki/Twitter をみても
 http://www.greenspace.info/twitter/
 も面白さがわからないのですが,とにかく,登録してみて,何がどうなるのか体験してみようと思うのです.

 暇なら,http://twitter.com/heliograph1950
を見て,そして登録済みの人はもちろん,登録してない方は是非,登録して,私をfollowして見て下さい.

野島康三展

 気がついたら,11月15日で,松涛美術館の「生誕120年 野島康三(のじまやすぞう) 肖像の核心展」が終了してしまう.
 明日,行こうと思いますが,雨が降りそうだし,どうなりますかね?

2009-11-12 写真経験と記憶

写真の存在論

写真の存在論―ロラン・バルト『明るい部屋』の思想の 
IV 記憶と記録/写真と存在 
   写真経験と記憶 より 引用

 写真展などで一枚の見知らぬ写真の前にたつときのことを考えてみよう。そのとき,われわれは何を感じ,何を経験するのか。往々にしてわれわれは困惑し,何とかその状況に対応しようとする。われわれは写真の意味を探るだろう。あるいはその写真が与える経験の意味を探るだろう。その芸術としての価値について考えるだろう。日常生活の中でわれわれは,無意味な存在を正面から受け止めることに慣れていない。しかし写真経験は,意味よりも存在を強調的に与えるので,存在自体を無意味なまま受け止めることに慣れていないわれわれは,その無意味さに耐えられず,どうすべかわからない。そこでわれわれは,その写真の意味や価値を理解しようとし,何とかそれを解釈しようとする。いつ,どこで,どのような文脈で撮られたのか,そこに写されているものは何なのか,その写真の意図は何か,鑑賞者としての私に何が求められているのか,その写真について何が言えるのか,その写真のメッセージは何なのか,その美術的価値は,技術的価値は,歴史的価値は何なのか,その倫理的な意味は,政治的な意味は何なんか。―しかし,これらの問いへの答えは写真にはない。写真が与える存在の中に,これらの答えになるようなものが,あらかじめ準備されているのではない。写真経験は,少なくともその経験の最も特徴的な側面においては,われわれに存在を与え,われわれを存在に向かわせる。それは,「何の段取りもなく」,つまり意味の伝達による存在の再構築という過程を経ることもなく,平然と存在の経験を与え,われわれを存在へと向かわせる.そしてその存在自体は無意味なので(つまり「意味」とは別のものとして際立ったものなので),存在の経験としては解釈のしようのない(つまり無理やり解釈する以外にどうしようもない)無意味な経験なのである。しかし,だからと言って,この無意味な経験がそれ自体無意味だとはかぎらない。それはおそらく,意味の秩序に回収されまいと意味に対抗するものの経験なのであり,意味の秩序に回収されまいと意味に対抗する経験なのである.

 中略

 二〇〇八年十月に身近にいた知人が亡くなった。良く十一月には幼い頃から親しかった祖父が亡くなった。その時に(今さらながら),強く感じたことがある。記憶は,その存在がもはや存在しない場合に,独特の重みを持つ,ということである。これは当然のことなのかもしれない。再経験することの出来ない記憶は,それが人物の記憶であれ,風景の記憶であれ,出来事の記億であれ,実在的な支えを失った,脆弱であるがゆえ貴重な,独特の価値をもつ。しかし,それがある「重み」をもったものとして感じられるのはなぜか。思うに,この「重み」の感覚は,その記憶だけがその存在を支えているというある種の責任の感覚である.そしてこの責任の感覚は,その記憶の対象に意味ではなく,存在に向けられているように思われてならない。記憶には「存在の記憶」としての側面があり,ある種の記憶にはその側面が中心的な位置を占め,それがその記憶に独特の重みを与えている。このように思われてならないのである。しかしこの場合でも,記憶はあくまで存在に「向かう」のであり,存在を記憶しているのではないのかもしれない。写真と同じよに。

2009-11-11 若冲

ユリイカ 特集*若冲

ユリイカ2009年11月号 特集=若冲 〈動植綵絵〉・モザイク画・〈象と鯨図屏風〉…永遠に新しい絵師のすべてを読んだ,この中で,京都国立博物館で2000年に「没後200年 若冲展」を企画した狩野博幸さんの「若冲展を思い出しながら」という文章が面白い.特に最後の部分を引用する.

 若冲ブームは今でも続いているようだ。新しい若冲像が提出されたMIHO MUSEUMの展覧会は,図録に「若冲はどこへゆくのか。広がりつづける若冲の宇宙をただ呆然と眺めるだけ」と僕が書いたように新しい若冲の魅力が横溢する。「動植綵絵」がなくたって若冲展は面白い。
 面白いのは若冲である。美術史かヒヨワなために,あらゆる展覧会が一様に面白くない。鮫の脳ミソほどもない学識とやらで絞り出す文章を,図録を購入する人々からちっとも求めていないことすら知りもしない。指導した教師も悪いのだろう。若冲の絵は面白い。その面白さが表現できなければ,無言の方がましである。美術史学をマイナーなものにしているのがおのれたち研究者であることに,いつ気がつくのだろうか。
 印象派など影かたちもない一八世紀の終りに描かれた若冲の絵を見よ。そこには,井原西鶴が俳諧の意識の根本を「自由」(「大矢数」)と規定したことと通底する感覚が厳然としてある。現代のせせこましい文学・美術理論なんぞが,いかに無用・無益なものであるかが,その若冲の象のキュートな表情ひとつで理解できるだろう。

 「動植綵絵」についての文章が並んでいるなかで,この文章はかなり痛快である.そう,私自身は「動植綵絵」よりも,どちらかとうともっと力を抜いた感じの若冲の絵が好きなのです.

2009-11-10 戸田公園駅近くの家

戸田公園駅近くの家

最近,このBlogに「戸田公園駅近くのへんな家」というキーワードでアクセスする人が増えている.flickrにアップしてある写真をsetsとしてまとめました.ご覧下さい.
家
http://www.flickr.com/photos/heliograph/sets/72157622775862330/

ミニチュア

オリンパスはマイクロフォーサーズシステム規格対応機の第2弾となるレンズ交換式デジタルカメラ「E-P2」を海外で発表した.日本で発売は未定.
オプションEVFファインダー,広角ズーム等の発売も準備されたようだ.
 アートフィルターに,「Diorama」が新たに加わり,俯瞰撮影した画像をミニチュアのように加工できるとある.こないだ,見つけてRICHOのCX-2の他にもこのような機能のついたカメラが増えているのだろう.
 そこで,Googleでミニチュアとかジオラマで検索すると,Photo shopで画像を変換する方法やTiltShift makerなどもあることが分かった.
 http://recedinghairline.co.uk/tutorials/fakemodel/
 http://tiltshiftmaker.com/
 自分はこの方法で写真を発表しようと思わない.
 http://blog.goo.ne.jp/shige2006/c/9b5553f66fb5fc80b3db893ea6329b68
 http://www.flickr.com/photos/lbadge/4091093339/in/pool-tiltshiftmaker/
 等を見て,本城直季の作品は確かに4x5を使って撮っているので,比べることは出来ないほどの質の差があるのかもしれないのだが,WEB上では同じように見える.

2009-11-09 ヨコハマ国際映像祭2009 作品撤去問題その後

ヨコハマ国際映像祭の藤幡さんの作品撤去問題のその後.


住友ディレクターの緊急声明のYouTubeリンクがわかりました.
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 この声明の中に,ラボスペースについて,ここで参加者が映像を作り上げるみたいな住友ディレクターの発言がありますが?
ただ,私の行った時は,ラボスペースは閑散としていて,勝手にそのスペースに入っていいのかも分からない状態でした.

 活動していたのは,映像祭の生放送「生CREAM」と喫茶コーナーだけでした.
そう言う場にしたいなら,何か働きがけがないとと思います.ただ,大きな箱を用意しただけでは.

藤幡さんは自身のBLOGでこのように発言しているようです.

出品辞退以後
30日のプレス発表の後、夕方のオープニングの席で、中締めということで、もともとスピーチを頼まれていたので、発言させてもらいました。そこで話したことの要旨を以下に、まとめてみました。

1)今回の僕の出品辞退そのものは、個人的な出来事ですが、こうした問題をオープンにするためにやった、ぎりぎりの判断です。?2)僕の周辺で、フェスティバルに意欲的に参加しようとしてきたさまざまな作家が、悲しいことに次々と参加を辞退してしまうのをいくつも見てきました。作品を提供する作家からすれば、その展示を実現するディレクターやキュレータとの間には緊密な信頼関係がなくてはなりませんが、それがなんともいえない雰囲気のまま裏切られてきたようです。愛の無い場所に作品は置かれたくないし、愛の無い状態では、作品を実現する気さえ起こりません。(その詳細は、いずれ公開したいと思います。知る限りですが。)?3)作家以外のお手伝いやボランティアの扱いにも問題があることも聞いていました。

 こうした問題を考えていくと以下の3点について、このフェスティバル実現のプロセスで、さまざまに議論を尽くして来なかったことが問題であると思われます。そしてなぜそれが実現されなかったのかについて、今後議論を開いていきたいと思います。他の場所で開かれている同様のイベントにとっても、また若い作家にとっても、こうしたオーガナイズの裏側の問題を公開してゆくことは非常に重要だと思っていますので、応援してください。

問題:?
1)フェスティバルとは何か?? トリエンナーレでもなく、アートフェアでもないフェスティバルとは、について、市民に窓口を開いた議論をもっとすべきだったでしょう。入場料を取るとはいえ、市民の税金が使われていますし、フェスティバルは何よりも、新しいもの、見たことの無いもの、まだ価値の定まっていないものを、みんなで見て、その評価に参加する場所だと僕は考えるからです。キュレータが価値を押し付けるといった形式ではないです。

2)市民とのインタラクションは、どうしたら可能か?? かつてのように、例えば「美空ひばりショウ」を持ってくればいいといった、行政による市民サービスという時代は終わりました。「ありがたいアート」を見るために人が集まるという時代ではないです。何が今、映像映画という世界で問題になっているのかについて、作品を通してみんなで考えるというインタラクションが、こうした、ある意味ゆるい場所(フェスティバル)には、あると思うのです。そうした参加を通して、映像を見ることで世界が違って見えた、より良く見えたといった体験をすることが、アートが生活を豊かにしてくれるということだと考えます。

3)映画と映像の間の領域横断は、どうやったら可能か?? 横浜国際映像祭は、映画祭でもなく、現代美術展でもないお祭りであって欲しいということから、映像祭と呼ばれています。おそらくテレビやゲームなども含めた異なった領域を横断しながら、それぞれの領域で起こっている問題や新しい発見を共有するべきだと思われます。そのためにはお互いがお互いを尊敬しあえる状態を作らなくてはなりません。今回のフェスティバルには、映画やテレビ関係の展示は皆無に近いです。

 主に以上のような発言をしたことで、11月8日から14日の週あたりに、オープンなディスカッションの場を設けることを、横浜市と検討中です。決まり次第ブログに流しますの注目ください。
?(フェスティバルの内部で開催すると料金を払う必要がでてしまうので、外部、エントランス部分とかでやるべきではと思っていますが、今、横浜市とも議論しているところです。)

2009-11-08 音が気になる

 蒼穹社,PLACE M,サードディストリクトギャラリー,photgraphers' gallery

午後湘南ラインで新宿へ 蒼穹社で 藤原敦写真展 「トレース」を見る.
次に,PLACE M で,須田一政展「4 CHOME, GINZA, TOKYO, 2008 - 2009」を見る.

同じタイトルで銀座のスナップを作品を発表してからちょうど20年経つ。その作品は撮影がバブル期だったこともあって、今なお平成の中にありながら隔世の感がある。
しかし、この不況の只中でも、銀座という「育ちのいい街」は意外にたくましい。世界のブランドのオープンラッシュだけでなく、かつて参入をゆるさなかった量販店をも取り込み、格式に刺激というトッピングまで備えてしまった。
街は人間の欲望が産み育てる。銀座というステイタスが訪れる人々の上級志向を満たし、浦安のテーマパークとは異なる夢をかなえてくれるのである。
渋谷には渋谷の、浅草には浅草の顔があるように、銀座を行き交う人の顔がある。それはきっと夢=欲望の顔ではないかと私は思う。そして、その表情の動きの一片から個人個人のバックボーンが浮かび上がってくる。街が語りかけてくるモノは観察者が抱えきれないほどの重さを持っているのである。須田一政


ストリート・フォト 画面を見ていると,現在(2008−2009)の写真というより,20年前くらいの写真に見えて何だか不思議な感じがした.

次に サードディストリクトギャラリー芝田文乃 写真展「いったりきたり日記/2008年版」
を見る.
 ポーランド文学翻訳家でもある芝田さんが,去年1年撮った写真を時系列に並べた展覧会.
http://www.3rddg.com/exhibition/2009.11.7/shibata_ayano.html
これは,帰って来てから,ネットで調べたことで,お茶を頂き,勝手なことを喋ってしまいました.
会場でポーランドで撮ってきた音,鳥の声,虫の声,電車や街の音を流していた.
 芝田さんのホームページBLOGは次のようです.
http://www.geocities.jp/nagamimi_2/
http://ayanos.exblog.jp/

次に久し振りに,photgraphers' galleryで松井茂展「GLOSSOLALIA」を聞く.

これは写真ではなく,音声詩の展示,会場にスピーカーが設置され,そこから音が流れている.
何とも,説明できないので,松井茂さんのホームページ
http://www008.upp.so-net.ne.jp/methodpoem/index13.htmlより引用します.

松井茂展「GLOSSOLALIA」
11月3日(火・祝)─16日(月)12:00─20:00(会期中無休)
photographers’ gallery

2009年から制作を始めた音声詩を展示する。
音声詩は、いわゆるオノマトペによって制作された録音物である。
オノマトペは擬音語、擬態語、擬情語、あるいは声喩法と翻訳されることもある。つまり対象となる音や状態、情動を「声」で喩えることを指す。こうしたオノマトペ的な音声に関して、私たちは一般のコミュニケーションの中、すなわち固定されたルールで使用される慣用的な表現を想像しがちではないだろうか? 私は、音声詩で、慣用的な言語のルールに則った意味でコミュニケーションをとろうとは思わない。詩にとって、メディアとして疑われぬ言語を、コミュニケーションを問い直してみたい。
本展タイトル「GLOSSOLALIA」は「異言」を意味し、ある種の憑依状態におけるメタ言語的なものと解される。「万人がまるで自分の言葉であるかのようにして理解することができるような、あるひとつのエクスタシー的言語」とも説明される(ウンベルト・エーコ『完全言語の探求』より)。
音声詩は、どこからとも無く出現する「神」的なことばを召還することを目的とはしない。なぜなら、対象とする世界像を人間の「声」というメディアに置換する行為は、共同性を必要とする神的概念の発明よりも先にある。つまり対象に対し、器官を通して口を衝いて発話される音声は、ごく個人的で純粋な始源として存在する。共同性直前にある音声連続体、あるいはプレコミュニケーション的な「もの」として、音声詩の可能性を提示したい。


音声詩の元になった,具体詩がある.これは松井さんが録音・編集した普通の音である.
具体詩を聞いて さかいれいしう さんが,声で表現し,その音声を松井さんが平仮名で書き起こしスコアとし,また,さかいれしう さん が朗読し録音する.
 会場には,具体詩も置いてあり,ヘッドホンで視聴できるようになっている.音声詩と具体詩の録音時間は全く同じである.
 昨日行った,ヨコハマ国際映像祭で,山川冬樹の作品でも,音が気になったし,今日は芝田文乃さんの会場でも音,最後はもろに音を聞かされることになった.
 前から,録音機が欲しいと思っていたのだが,何だか自分も音の収集をやってみたくなってきた.

誰でも本城直季

 帰りに,カメラ屋により,RICHO CX2 にミニチュアライズという機能があるのを発見.
http://www.ricoh.co.jp/dc/photostyle/knowledge/laboratory/019/lab1.html
これがあれば,だれでも本城直季風の写真が撮れる.
http://www.tokyo-source.com/ts/12/naoki_honjyo/
木村伊衛兵賞を撮ったとき,この手法が彼独自の方法なのかネットでいろいろ話題になったが,彼がいなかったら,こんなモードのあるカメラが発売されることはなかったかもしれない.

2009-11-07 ヨコハマ国際映像祭2009

ヨコハマ国際映像祭2009

 
 ヨコハマ国際映像祭2009をみようと馬車道まで行き,まず,メイン会場1の新港ピアへ行く.
 確かに新しい技術なんだろうけど,大きな会場で,作品が負けている感じがした.特にラボスペースは閑散としてまるで,人を呼び損なった学校の文化祭のような印象を受けた.
 会場奥の喫茶コーナーから外に出て,シートに腰掛け,海をぼんやり眺める.入場料1300円を払ったことを悔やんだ.
 気を取り直して,メイン会場2のBankART Studio NYKへ移動.
 1Fで,
 クリスチャン・マークレイのビデオ・カルテットを見る.
  http://www.ifamy.jp/programs/single/226/より

 楽器を使わずにレコードを自由自在に演奏する実験的なサウンド・パフォーマンス、視覚体験によって音を感じさせる作品などで音楽と美術の両方の分野で高い評価を受けてきた。視覚と聴覚との結びつきを探り続けてきたマークレーが、コンピュータ技術を使って膨大な数の映画からの引用によって構成される映像の四重奏を制作した。互いに関連性のない映画のシーンが音によって繋ぎ合わされ、それはまるで映画をめぐる私たちの集団的記憶のようにも見える。


 これは,面白かった.これで入場料分取り戻した感じ.

 2Fに上がって,
 パブロ・ヴァルブエナのExtension Series (Yokohama)を見る.
 http://www.ifamy.jp/programs/single/269/より

 幼少の頃にビデオゲーム、映画、建築から多大な影響を受け、後のバーチャル・リアリティーやデジタル建築における「空間的概念」の研究及び開発のきっかけとなった。時間の経過により空間が変形していくありさまをリサーチする彼のプロジェクトは、通常は注意を向けられない、空間が一時的に見せる特質をとらえる。それをもとに、屋外の建造物やベンチ、階段、部屋の一部などを対象にして、鑑賞者が時間と知覚によって空間の個性をとらえる作品を発表している。

 上手く説明できないが,BankArt Studio の展示室のコーナーに映し出されるのだが,色を使わない,幾何学的な線や面が動き,それがコーナーにきっちりとあった動きをする.そのうちに,その壁から直方体が飛び出したり,引っ込んだりして見えたりして,不思議な感じがした.

 後,2Fで印象に残ったのは
 山川 冬樹の「The Voice-over」
 http://www.ifamy.jp/programs/single/235/より

 中央アジアに伝わる、身体器官を震わせることで音を出す「ホーメイ」という歌唱法を使ったパフォーマンスで知られる。インスタレーション作品として発表している《The Voice Over》は、声をめぐって、公共放送とプライベートな記憶とが交錯する作品である。作家と遺伝子情報を共有するある人物がテレビ番組に登場して発した声と、死後に残した個人的に録音していた声、さらに作家によって加えられた演奏音が聴こえ、テレビによって公的に共有された映像と個人の記憶、そして声という身体的な音とが重なり合う。

たぶん,作者の父は山川千秋アナウンサーのようだ,父の残した録音(子供の時の自分の声を含む),テレビの映像から構成されていた.ほとんど映像がないのだけど,たくさんの人が見ていた.

 続いて,3Fでは,
まず,アルフレッド・ジャーの「静寂の音」

ルワンダ紛争とそれに対する国際社会の無関心に警告を鳴らす作品を発表するなど、ジャーは、これまで一貫して世界中に氾濫するマス・メディアの映像に眼差しを向けてきた。彼は、一枚の画像が持つ限られた情報の向こう側にある現実の出来事を提示し、映像が社会のなかでどのような役割を果たしているかを伝える。《静寂の音》は、ジャーの代表作とも言われ、ピュリツァー賞を獲得したある有名な写真をめぐるジャーナリズムの倫理性と、それをめぐる資本の問題を鋭く見る者に突きつける。

 映像といえるのは,ケビン・カーターの撮った一枚の写真「ハゲワシと少女」(餓死寸前の少女をハゲワシが狙っているところを撮った)のみ.あとはテクストが表示されるだけ,(よく考えたら,これも映像か?)
 http://d.hatena.ne.jp/kazuki62/20071105/1194252010で見ることができます.
この写真を撮った後,ピュリツァー賞を受賞し,非難を受け,そして自殺してしまいます.

 この写真の版権をもっている会社はビル・ゲイツだということもTEXTに出てきました.

 志賀理江子も「“カナリア”スライドショー」
 http://www.ifamy.jp/programs/single/432/より

 一度見たら忘れられない強烈な写真の数々は、演出や光によって綿密に構成されている。ある地域に滞在し、そこに住む人々を取材しながら導き出された「地図」をもとに撮影していくフィールドワーク的な試みであるため、彼女独特の身体性と感覚が反映され、撮影対象との間に作り上げる関係性が写真に現れている。その結果、撮影場所や個人の名といった記号化された現実とは別の、イメージの中にしか現れない特異な時間を持つ光景がつくりあげられている。」

 前にみた,展覧会の写真を並べただけの“カナリア”よりもずっと面白かった.というか,展覧会や本で見る, 志賀理江子の写真はどちらかというと苦手でしたが,今回のスライドショーでは違って見えました.

 映像系の作品は見るのに時間がかかります.結局.お昼過ぎから,午後7時まで会場にいました.

2009-11-06

東京Y字路

 横尾忠則東京Y字路」を日本橋 西村画廊に見に行く.
 絵を描くときの下絵というか写真は何枚かの写真を組み合わせていたが.
Y字路を真っ正面から一枚で撮っていた.
東京Y字路

伊藤若冲

 西村画廊からの東京駅まで歩く.途中,本屋により
 

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 青土社ホームページから,若冲特集の目次
 

特集*若冲 〈動植綵絵〉・モザイク画・〈象と鯨図屏風〉・・・永遠に新しい絵師のすべて

【徹底討議】
21世紀の若冲 書き換えられる日本美術史 / 辻惟雄×山下裕二

【カラー口絵】
〜この若冲がすごい! 現代の絵師たちが選ぶこの一点〜
   〈菜虫譜〉 / 選=青島千穂
   〈雪中錦鶏図〉 / 選=三瀬夏之介
   〈池辺群虫図〉 / 選=池田学
   〈芭蕉叭々鳥図襖絵〉 / 選=佐伯洋江
   〈鯉魚図〉 / 選=寺田克也
   〈鳥獣花木図屏風〉 / 選=D[di:]
   〈象と鯨図屏風〉 / 選=鈴木志保
   〈隠元豆・玉蜀黍図〉 / 選=秋山亜由子

若冲2009】
若冲の画法 / 横尾忠則
見るものと、見られるものと 二一世紀の 「動植綵絵」 / 黒川創
若冲のマグナム・オーパス。 / 茂木健一郎
若冲展を思い出しながら / 狩野博幸

【〈動植綵絵〉熟観玩味】
動植綵絵」 を観る複数の時間 / 古谷利裕
若冲をもっと遠くに! / 福永信
動物と植物に触れる 伊藤若冲動植綵絵 / 石岡良治

若冲のパラレル・ヴィジョン】
エンサークルメント 冲(むな)しきが若(ごと)し / 高山宏
細部に宿る神 若冲レオナルド / 池上英洋
半生命と若冲の動物群 / 池上高志
伊藤若冲のD4C / 斎藤環

若冲を桃源郷に訪ねる】
笑う象、伸びる鯨、桃源郷の若冲さん / 谷崎由依
桃源にて / 田辺青蛙

【サブカルチャーと(しての)若冲
オレサマたちの夢の跡 / 永山薫
伊藤若冲とサブカルチャー  京都、畸人たちのネットワーク / 樋口ヒロユキ

【資料】
若冲略年譜


 

2009-11-05 写真の存在論

写真の存在論

 帰りに本屋による.

写真の存在論―ロラン・バルト『明るい部屋』の思想

写真の存在論―ロラン・バルト『明るい部屋』の思想

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慶應義塾大学出版会の書籍詳細より引用

『明るい部屋』を精読し、バルトの企てを解読。
ロラン・バルト最期のテクスト『明るい部屋』。亡き母への追悼の書であり、新たな小説性を模索する文学的な実験の書であり、写真が与える経験を思索する写真論であるその書で、バルトはいったい何を問うたのか。バルト 『明るい部屋』に深く寄り添い、バルトが企てた「写真の存在論」を引き受け、写真と経験、経験と存在、存在と写真の関係を読み解く力作。
目次
 序 バルトの企て
  『明るい部屋』第吃精読
  『明るい部屋』第局精読
 掘ー命燭与える経験
 検ゝ憶と記録/写真と存在
 補 『明るい部屋』各節要旨
 あとがき

著者略歴 著者略歴は書籍刊行時のものを表示しています。
荒金直人(あらかね なおと)
慶應義塾大学理工学部専任講師。1969年生まれ。1992年、早稲田大学理工学部建築学科卒業、その夏に渡仏。1996年、エクス・マルセイユ第1大学文学部哲学科卒業(一般課程および学士課程)。同大学大学院哲学研究科修士課程および専門研究課程(DEA)を経て、2003年、ニース大学大学院哲学研究科博士課程修了、哲学博士取得。帰国後、 東京日仏学院、慶應義塾大学、白百合女子大学、明治学院大学、上智大学、早稲田大学での非常勤講師を経て、2006年から現職。共訳書に、ジャン=フランソワ・レイ『レヴィナス政治哲学法政大学出版局、2006年。ジャック・デリダ『フッサール哲学における発生の問題』みすず書房、2007年。

2009-11-04 作品撤去

作品撤去


ヨコハマ国際映像祭に出品していた藤幡正樹さんが作品を撤去したそうです.
以下は,そのプレスリリースです.

作品展示辞退のお知らせ
「Simultaneous Eches」(響き合う音/風景)2009

横浜国際映像祭実行委員会副委員長
東京芸術大学大学院映像研究科長
出品作家
藤幡正樹

 新しい作品、優れた作品を作っていると自負する作家にとって、その価値を認め合うことのできる他者と出会うことが最大の喜びであり、まさにそのことのために作品を作っていると言わざるを得ません。まさにフェスティバルというのは、アートフェアやミュージアムの展示とはことなって、新しい価値観を問う場所であります。つまり、作家にとってフェスティバルに参加するということは、エスタブリッシュ(できあがる)することではなく、新しい可能性に挑戦することを許されたということです。また、出品にあたっては、十分な支払いがなされるべきですが、ここではお金のことは大きな問題ではありません。
むしろ、やってみたかったことを実現し、多くの人にその作品を見てもらいたいという気持ちで参加するものです。つまり、フェスティバルの参加作家にとって大切なことは、フェスティバルの企画者、ディレクターとの信頼関係なのです。しかしながら、今回のフェスティバルは、その意味で最悪であったと言わざるを得ないものであり、本来あるべき両者の信頼関係を大きく突き崩したものでした。
 参加した作家を代表して、以下個人的な問題を話しますが、他の多くの作家も同じ気持ちではないかと思います。

1)まず、展示の場所についてです。自分の作品がどのような、コンテクストの中に入れられるのかに対して敏感でない作家はいません。今回もっとも強く主張してきたことはこのことです。特に新しい技術を使った作品の場合に、おかれ方(コンテクスト)によっては、ただの技術のデモに見えてしまうからです。しかし、最後まで住友くんから納得の行く解説はありませんでした。
2)今回の作品は、音がでる作品であるために、早くから他の作品から隔離された環境であることを伝えていました。本来新港ピアで展示の予定でしたが、壁を作ることがかなり難しいという問題から、最終的にBankArtNYKになりましたが、現場に行ってみると壁が天井まで到達しておらず、音が完全に筒抜けでした。これでは自分の作品をきちっと聞いてもらうことは不可能なので、辞退したいというのが本当の気持ちです。しかし、そればかりではなく、これでは、他の作家に大きな迷惑がかかります。こうした被害を他作家達に及ぼしたくはありません。ますます、辞退したくなりました。
3)海外作家の作品のほとんどはBankArt NYKにありますが、明るいプロジェクターがずらりと並んでいる姿に驚かれると思います。片やフェスティバルの入場券ももらえないで働いているボランティアの作家やその友人がいる一方で、これはどうしたことなんでしょうか。この落差、この優遇と冷遇には目に余るものがあります。悲しくなってきました。
4)作家というのは難しい立場にいます。出品が決まって、名前が印刷された以上辞退することもままならない作家の立場は非常に弱いものです、いやでももう展示をせざるを得ません。特に若い作家のみなさんにとって、こうして与えられた展示のチャンスの大きさから、こうした不満を直接ディレクターにぶつける勇気を持つことはとても難しいものです。
5)こうした状況の中、ついになぜ自分が呼ばれているのかがわからなくなってきました。つまり、さらに悪いことに、誰もが指摘していることですが、このフェスティバルには、コンセプトが、不在です。何を見せたいのか、何を問うているのか、何をしたいのかがわからないという声があちこちから聞こえてきました。そんなフェスティバルに参加してなんの意味があるのでしょうか、さらに自分自身が、そのディレクターを選出した委員会のメンバーでもあるということは、もう自戒の念しか今はありません。参加されているみなさん、特に作家の皆さん、ほんとうに申し訳ありませんでした。ここに深くお詫び申し上げます。

 横浜市の方々へ。文化振興は、かつてのように、有名人を一時的に呼ぶなどの方法で市民へサービスをすれば良いという時代は終わりました。市民の税金を使って行う文化事業である以上は、この土地でいったいどんな文化を紡ぎだすことができるかにかかっているわけであって、市民以外の人間にとっても、参加する人間すべてが創造的な行為に情熱を持てなくてはなりません。問題は、果たしてこれで情熱を共有できたのでしょうか?ということです。
 
 最後に、この議論は、われわれフェスティバルを作り上げる立場に関わる人間の問題であり、これから来場される観賞者、参加者の方々は伺い知ることのできない背後の出来事ですので、それが闇に葬られるのではなく、今後の反省材料として、われわれが学ばなくてはならない事柄なので、あえてこのプレス発表の場所をかりて、お話させていただきました。
 
 お詫び、自作が不本意な形で展示され、さらに他の作家の作品を浸食することになることは、作家として堪え難いことですので、最後になりましたが、以上のような経緯を持って、藤幡の作品「Simultaneous Echoes」(響き合う音/風景)2009の展示を、フォーラム出演作家との関わりもあるので、フォーラム終了(11月3日)後に、撤去することといたします。

ヨコハマ国際映像祭2009 プレス資料


ヨコハマ国際映像祭2009 プレス資料の中のテーマとコンセプトについて を引用しておきます.

テーマ:
CREAM (Creativity for Arts and Media )
現在、一部の人たちのみが生産と流通に関わってきた映像は、デジタル化によって多くの人が自由に扱える道具へと変化しています。今後、私たちにとって文字だけではなく、映像が重要なコミュニケーション・メディアになる時代が必ず来るでしょう。多くの人々が映像を使って社会に参加していくために、多様な個人のあり方が反映される表現と記録について考え、体験するフェスティバルになります。
コンセプト:
DEEP IMAGES ー海としての映像
この地球上で映像とまったく無縁に住むことは難しくなりつつあり、私たちは映像によって世界とつながっていると言っても過言ではないでしょう。とりわけ、近年の技術発達によって一部の人だけではなく、多くの人にとって一般に生活する中で映像を見る、作るといった機会は急速に増えています。
つまり、映像は私たちにとって社会とどう関わっていくかという見方から考えるべき技術なのです。芸術表現においても、美術、映画、身体表現、音楽などの異分野が、こうした汎用性のある映像技術の発達によって共通の視覚文化に参加している同時代の状況をみてとれます。
従来であれば異なる固有の領域にあったものが、他の領域と接触することをこの映像祭では重要視していきます。古いメディアと新しいメディアが共存や相互交渉をする関係を保つことや、異なる芸術分野が積み重ねてきた固有の表現が混じり合っていくことで、これからの未来にはどのような表現が生まれていくのでしょうか。
また、映像は人が、異文化と接触すること、空を飛ぶことや移動すること、自然を観察することなどにおいても大きな役割を担ってきました。このように、視点を移動させることで、自分が眺めるだけではない別の見方による世界のあり方に気づくために映像はまさに欠かせないものなのです。そして、それらは表現と呼ぶものばかりではなく、私たちの歴史や記憶と結びつく記録メディアとしての映像です。現実のなかに潜むまだ気づかれていない可能性を映し出すこと、そして移動することによって複数の見方を獲得することは受容器としての映像のみならず、現実に働きかけをおこなうものにさえなるでしょう。つまり、物事や出来事の表層にとどまるものではなく、私たちの間に横たわり、そのなかに身体を差し入れるような深みのある、海のような存在として映像をみなすことを提案したいと考えています。
ディレクター 住友文彦

2009-11-03 神奈川県立近代美術館 葉山館

白樺誕生100年 白樺派の愛した美術

神奈川県立近代美術館 葉山館へ 「白樺誕生100年 白樺派の愛した美術」展を見に行く.
展覧会情報
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2009/shirakaba/index.html#detail
プレスリリース
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/press/2009r_shirakaba.pdf

興味深かったのが,「絵画の約束論争」という出来事.
 この件に関しては,
 http://www.lib.meiji.ac.jp/openlib/issue/kiyou/no3/pdf/tomizawa.pdf
 http://www.press.ntu.edu.tw/ejournal/files/japanese%5C200512%5C6.pdf
 http://www.pref.mie.jp/bijutsu/HP/hillwind/hill_htm/hill53_2.htm
を記録して,もう少し考えてみたい.

講演会「『白樺』の時代と美術−日本の20世紀美術の形成」講師山梨俊夫 を聞く.

これもうまくまとめられません.

帰り,立石により,昨日現像したフィルムを回収.

2009-11-02

沖縄の写真

結局 HC−110 :水 =1:47 にして20℃10分で,TRI-X(120)を20本(TEST用2本+沖縄18本)現像,
伸ばしてみないと分からないけど,うまくいったと思う.

2009-11-01 HC-110

HC-110

明日,沖縄の写真を現像するため, HC-110を買ってくる.
DATAとしてはKodak HC-110 Developer An Unofficial Resource Pageが参考にするつもりだが,とりあえず,TEST現像から始めようと思う.
 この季節は気温が20℃近くで,液温管理が楽なのだが,明日は気温が急激に下がるようだ.

Andrea Mosaic

Andrea MosaicをInstallして少し遊んでみました.
 http://www.andreaplanet.com/andreamosaic/
元の写真
f:id:heliograph:20090706172802j:image
この写真のMOSAIC,拡大してみると分かりますが,一つ一つのタイルが写真になっているのが分かるはずです.
f:id:heliograph:20091102043250j:image

 

 

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