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にサルガド批判があるというので,本屋に行って買って来ました.
これまた,引用します.
世界の悲惨(戦争の被害も含まれているが,それに限定されてはいない)を撮り続けている一人の写真家,セバスチャン・サルガドは,美しいものは偽物だというこの新たなキャンペーンの主たる標的になってきた.ことに「集団移住者の群れ」と彼が名付けた,七年にわたるプロジェクトにかんして,サルガドは,スペクタクル的で「映画的」とされる美しい構成をもった大きな写真を制作したことで絶えず非難を受けてきた.
サルガドの展覧会や彼の本の特徴である「人間家族」という神聖めかしたレトリックは,それがいかに不当であるにせよ,彼の写真にとってマイナスの働きをした.(もっとも良心的で立派な写真家のなかにも,ことばに多くのまやかしがあり,それが見逃されている場合がある.)サウルガドの写真は,彼が捉えた悲惨の映像が通常置かれる商業的環境への関連においても白眼視される.だが問題は写真にあるので,どこでどのように展示されるかではない.問題は,写真が無気力な人々,無力な状態へと追いやられた人々に焦点を定めているところにある.
中略
三九ヵ国で撮影されたサルガドの移住写真は,移住という一つの見出しのもとに,原因も種類も異なるあまたの悲惨をひとまとめにしている.グローバルに捉えた苦しみを大きく立ちはだからせることは,もっと「関心」をもたねばならない,という気持ちを人々のなかにかきたてるかもしれない.それは同時に,苦しみや不幸はあまりに巨大で,あまりに根深く,あまりに壮大なので,地域的な政治介入によってそれを変えることは不可能だと,人々に感じさせる.このような大きな規模で捉えた被写体にたいしては,同情は的を失い,抽象的なものとなる.だが,すべての政治は,歴史がすべてそうであるように,具体的なものである.(確実に言えることだが,歴史について本気で考えない人間は,政治を真剣に受け止めることができない.)
現実的な写真映像が一般的でなかった時代には,見なければいけないものを見せ,苦痛に満ちた現実を身近に引き寄せれば,人々の感情がかきたてられて,人々はより深く感じるはずだと考えられていた.写真が消費者操作のために見事に利用される世界にあっては哀しげな写真の効果を自明のものと期待することはできない.けっかとして,道徳的に鋭敏な写真家や写真の理論家は,戦争写真において感情を喚起する機械的なやり方や,情緒(憐れみ,同情,怒り)の搾取という問題を次第に憂慮するようになった.
サルガドの写真展を,見てもただ,自分の無力さを感じてしまうだけだからと思って見るのを避けようとしてたのは,このことに関係しているのかもしれない.
訳者の北條文緒さんが訳者のあとがきで
私たちは映像の語る他者の苦痛をけっして本当には理解することはできない.だがその苦痛を生む世界のメカニズムを把握しようとする契機を,少なくとも写真は与えてくれるのだ,と読者は,著者の主張を今一度辿り直して納得するのである.
とまとめている.
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