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2009-12-31 お正月を写そう

フィルム売り場

 毎年,大晦日にフィルムを買う.来年も撮るぞっていう気合いを入れるような感じなのだが,今年も横浜のヨドバシに出かけ,フィルム売り場にいったのだが,周りに人が全くいない,同じ階のデジカメ売り場には人が沢山いるのだが,本当に寂しい.
 気合いを入れて,4x5のTRI-Xの50枚を1箱買った.(フジのACROSの4x5(20枚)の箱が見あたらなかったのだ)もうちょっと銀塩写真を楽しませて欲しいものだ.
 最近,人に言われて気付いたのだが,昔から恒例だった富士フイルムの宣伝のキャッチフレーズ「お正月を写そう、フジカラーで写そう」が2006年 - 2007年の年末年始から「お正月を写そう、フジカラーで残そう」に変更され、フジカラーのデジタルプリントの宣伝となったそうで,2009年 - 2010年のからは写真関連ではない化粧品の宣伝もするようになった.銀塩頑張れ!
富士フイルムの今年の宣伝についてはhttp://www.fujifilm.co.jp/corporate/news/articleffnr_0341.html?link=n2uで.

2009-12-30 写真の不安

Ubuntu9.10 Netbook Remix その後

 壊れしたと思った,USBメモリーをWindowsでフォーマットし直し,インストール再挑戦.
今度は,ブートローダーをUSBメモリーに指定して無事インストール完了.
戸惑ったのは,

の2点でした.

 無事,無線ランとも接続ができました.

中井正一「絵画の不安より」

 自分のカバンの整理をしたら,青空文庫より打ち出した,中井正一の「絵画の不安」を印刷した紙が出てきた.
それを,読み直して,自分の今の状態ではないかと思うような部分があった.

 真に存在するものは不安の上にある。
 この不安なき世界はハイデッガーにとりては饒舌(Gerede)の存在にしかすぎない。それはすでに語られたることについてのおしゃべりである。そこに何の本質凝視もなく、話されたることへの話である。それは何ものかについての直接なる話ではない。みんなが語るところのもの、ありきたりのもの、「だそうだ」のことについての言葉である。人々と共にともかく同じことをいいたい考えたいこころもちである。言葉の……また絵の……その日暮しである。ここにはじめて好奇のこころが意味をもつ。それは何ものかを見究めんとするのではなくして、ただ見ればよいのである。人だかりの中に何でもよい首をつっこみのぞき込む思想の……芸術の……散歩である。思想のショーウィンドのぞきである。そこには存在への執着もなく、強い把握もない。好奇は常にすべてに対して興味をもつとともに、しかも何ものにも執しない。そこで存在はその根を失って日常性の中に堕し、ただ人と共に在って、自分は見失われてしまう。読まれたるもの、語られたるもの……描かれたるもの……についての剽窃(ひょうせつ)に日は過ぎていく。すべてについて、そして何もののためにでもなく問われかつ答えられる。この世界をハイデッガーは「軌道の上の生活」(auf der Spur sein)と名づける。いわば在来の考えかた、ありきたりの日常性の中に楽々と生きることである。真の自分を掘り下げることをにぶらせることである。この世界を彼は「命なき存在」への没落と名づける。自分に飽満せる安易、だらしなき悦楽と放恣、自分に畏(おそ)るることなくかえって、独自の意見を失って人とあるいは党派と異なることへのみの怖れ、自分でありながら自分の外に住むこと、世間への自己解体、自己溶解、これらの墜落を彼はすべてを吸いこむところの過流(Wirbel)という。
 それは、もはや死ぬることなき死への埋没である。」

2009-12-29 アウラとクオリア?

岡崎乾二郎×斉藤環

 大船のbook-offに行き,netbook用のカバンを買う.何気なく,本を見ているうちに,2006年5月号の美術手帖を見つける.
 「斉藤環の境界線上の開拓者達」の最終回で,対談の相手は岡崎乾二郎でちょうどアウラの概念について,岡崎乾二郎が次のように述べていた.ここでクオリアという言葉が出てくるのは,この号の特集が「創造する脳」であったからです.

岡崎

 うーん,たとえばアウラという言葉があるでしょう.作品の唯一性というように誤解されているけれども,むしろ作品の同一性が保証されるシーケンス,コンテクストのことだと考えるべきだと思います.アウラの語源はギリシャ語でそよ風だったわけだし,事物と事物を結びつける風,つまりコミュニケーションが成立する場のことである.写真ではそのコミュニケーションが成立する場が切断されている.読み直してみると,『写真小史』でベンヤミンはきわめて明快にこう規定している.アウラが保証されていない時は,意味も質も,一つに同定できない.にもかかわらず写真あるいは何かを理解しようとすると必ず,それを他の何かに結びつけるためのアウラ,つまりシーケンスが要請される.何に関係するかわからない,いまだに関係として定位されえない関係が感じられる.それが転じて,アウラは何かの予兆のように起こる偏頭痛を意味する言葉になった.偏頭痛っていうのはそれを引き起こす原因から切断されつつ,なおかつそれを感じてしまうから痛いわけですね.クオリアがあると安心していられる人は,この偏頭痛はわからない.「写真にはアウラが無い」と書いたベンヤミンは,いわば偏頭痛のように分析したのだと思います.つまり「写真にはクオリアはない」と言い換えられる(笑).でも偏頭痛は起こる(笑).
 ベンヤミンがいちばん偉い点は,写真を発表する,写真を見るという行為を会話行為のように捉えたところにあると思います.会話の意味ははその会話がなされている場,そのアウラ――その場に流れている風――の中でしか確認できない,会話とは,その場に応じて話すわけですが,写真はその場から切断されてしまい,そこに撮られた人,それを撮った人にとっても,いったい,どこでいつ,誰にこの写真を見られるかわからない.ベンヤミンも,それを顔という概念で説明しています.何が見られ,読み取られてしまうかわからない.言葉に置き換えて言えば,自分が何を喋り何を言ってしまっているか,わからない.
 別の視点で言い換えれば,自分がそれをしていると思っている以外の行為,別の会話を同時にしていたというわけですね,ベンヤミンは正確にそれを領域として特定される無意識でなく「無意識的」なものと言っています.

斉藤環

偏頭痛としてのアウラはという指摘は非常に興味深いです.いちおう医師として(笑)野暮な注釈をしておきますが,アウラというのは正確には偏頭痛の前兆として見えるちかちかした光(閃輝暗点)を指す言葉ですね.

 もう一度『写真小史』を読み直さなきゃ.

2009-12-28

モノリス

大村益三さんのtwitter(http://twitter.com/omuraji)より

人類の誰もいない宇宙空間に浮かぶモノリスは「不思議」な存在でも何でも無い。それは単なる物体に過ぎない。それを「不思議」として発見すれば、そこで初めて「不思議」になる。モノリス自体には「不思議」成分など何も無いのだ。

それでも「作品」たり得るとするならば、それは作品価値の「常住不変」を信じ過ぎている。「作品」とは「評価」の結実なのであり、それ以上でも以下でもない。だからこそ、「人類不在」の場所では作品は作品たり得ない。「評価」という機制無き所に「作品」も何もない。

2001スペースオデッセイに出てきた「モノリス」が、仮に「ミニマルアート作品」だったとして、類人猿の前に現れたそれ、月面に現れたそれ、木星の向こう側にあるそれを、果たして「作品」と呼んで良いのか。つまり「人類」不在の場所で作品は作品たり得るかと言えば、それは勿論ノーだ。

阿部 直樹展[昼の日ざし]

新宿ニコンサロンへ阿部 直樹展[昼の日ざし]を見に行く.
http://www.nikon-image.com/jpn/activity/salon/exhibition/2009/12_shinjyuku.htm#03より

<写真展内容>
朝生まれたばかりの光が、昼になるにつれ、より豊かで力強くなる。そのとき、ものがより生き生きと見える。作者はその午後の光が好きだ。
展示する作品は、光と影が作る立体感に現実を感じ、形から受ける作者の感情を写真に捉えてきたものである。モノクロ30点。

 ピントがはずれた白いものとピントのあった黒い形が合わさって不思議なものが見えてくる.DMに使われいる写真が気になって行った.
http://www.nikon-image.com/jpn/activity/salon/exhibition/img-09/12-03_sin.jpgを見てください.

2009-12-26 ナダール,ザンダー,アヴェドン

肖像写真――時代のまなざし「多木浩二著」

肖像写真―時代のまなざし (岩波新書)

肖像写真―時代のまなざし (岩波新書)

を買う.
 3人の写真家ナダール,アウグスト・ザンダー,リチャード・アヴェドンの肖像写真の差異から,記述された歴史とは違う歴史を浮かび上がらせようというのが作者の狙いである.

 普通,歴史は言語によって記述されねばならない.そのことに強い関心を向けた人びとが,叙述の比喩的性格にまで立ち入ろうちしたことがあった.しかし写真におけるまなざしは,記述的な歴史の構成される以前の状態で働いている.これはまなざしだけでなく,日常の習俗としか思われていないものも,いつのまにか歴史を変えていく新しい力になっていくことと同様である.同時代の歴史とは,記述されうる歴史と,まだ言説にはならないマイナーな実践の二重の関係のなかで進んでいくものである.だからまなざしはもこの関係のなかに巻き込まれ,写真は論証しないから,記述しえない歴史を語るようになるのである.言葉を換えれば,それは「記述される歴史の無意識」をなしているのである.

 ナダールの写真の説明しがたい魅力は,本当にナダールのカメラの前に,ボードレールがいて呼吸し,ナダールの話しかけに答えていたから生まれるのである.ボードレールにかぎらない.すべてのパリのえりーとたちは「かってナダールのアトリエにいた」ことがあるのだ.ところがナダールのまなざしは十九世紀ブルジョワの空間に閉じている.まなざしは十九世紀をまなざしの空間として読み取らせる.わらわらは写真のなかにボードレールの厚ぼったい該当の波打つ襟を知覚し,立てた襟から浮かび上がる彼の白い顔を見る.この一瞬に捕捉された感覚は,おそらくボードレール自身の言葉,彼を歴史的存在として記述する言説の下層に広がる.これが写真の歴史的な能力である.
 ザンダーのまなざしはナダールのようにブルジョワの空間に閉じていない.何よりもありとあらゆる階層の人間が登場しうる空間に開かれいる.まなざしはこうした多様で異質なものの出現を可能にする.

中略

 ザンダーにあっては歴史にはまだ可能性があった.悲劇の到来は感じられたとしても歴史の進展にはまだ可能性はあった.写真のまなざし……つまり感覚世界はこの歴史の下層にひろがっていたのである.
 しかし,アヴェドンのまなざしは,いくら折り重ねても厚みをもちえない奇妙な世界にわれわれを誘い込むのである.われわれはもはや確実な手がかりのない世界にいるか,そこに行こうとしているのである.肖像は,人間が威厳をもちうる限界に到達する.その空白の背景は(これもすべて述べたことだが)白い壁ではなく空白なのであり,和rっわれがいかに希薄であるかを暗示している.ニューヨークのスノビズムを充分身につけながら,彼が見えてくる歴史は,われわれが今後どんな世界に住むのかを暗示し,かつ不安にさせるものをもっている.アヴェドンの示す歴史の無意識は恐ろしい.

2009-12-25 Yokohama Photo Festival

Yokohama Photo Festival

長いあいだ,レンタル暗室に通ってなかったら,私の通っていた,レンタル暗室 The Darkroom Internationalを中心にYokohama Yokohama Photo Festival ( http://www.yokohamaphotofestival.org/ )が開催されるようだ.
 オープンポートフォリオレビューも行われるようだ.
 参加してみたかった.募集開始1分で定員に達したそうで残念.

Ubuntu9.10 Netbook Remix

Ubuntu 9.04をUSBメモリーにインストールして,NetBookで使ってみたが,うまく無線ランが設定できない.Ubuntu9.10 Netbook Remix というのがあり,Netbookと相性が良さそうだと思って,USBインストールしようとしたら,ブートローダーの書き込み場所が間違っているのに気づき,インストール途中で無理やり電源を切ったら,USBメモリーが壊れたようで,その後いくらインストールしようとしても途中で止まってしまう.
 メモリーを買い直して,再挑戦します.

2009-12-24 ダンスインスタレーション

『FURO』

Art-ItのWebページに束芋のインタビュー掲載されています.
http://www.art-it.asia/u/admin_feature/NxPu5vAV0UWX3ZLFbIon/?mail025

束芋とダンス作品で,コラボレーションしたハッド・ナハリン*1という人の文章も特別寄稿として掲載されている.
http://www.art-it.asia/u/admin_columns/frCcJ5pkivs2MDAdHujn/?lang=ja

束芋のステージデザインと映像,オハッド・ナハリン振り付けによるダンスインスタレーション『FURO』(2006年)(音楽:オハッド・フィショフ)の映像がYoutubeで見られることが分かりました.
D

*1:Ohad Naharin 1952年、イスラエル生まれ。22歳のときにバットシェヴァ舞踊団にてダンスを始める。75年に渡米し、マーサ・グラハム舞踊団に入団。翌年、ジュリアード音楽院へ入学し、80年にニューヨークの平林和子スタジオで振付家としてデビューする。90年にバットシェヴァ舞踊団の芸術監督に任命され、『アナフェイズ(細胞分身)』『デカダンス』など数々の作品を制作。98年にフランス政府より「芸術文学部門騎士勲章」を授与され、2002年、04年にはNY のダンスパフォーマンス賞「ベッシー賞」を、05年には「イスラエル賞」ダンス部門賞を受賞した。ダンサーのために創出した「Gaga」と呼ばれる独自のメソッドは、イスラエルでは中高生などにも浸透している。

2009-12-23 啓蒙思想

何故,写真展に行くのか?


大村益三さんのtwitterを読んでいて,思わず考えさせられた文章.例によって,文章を逆にたどっていかなければならないので,読みにくいでしょうが、引用します.
http://twitter.com/omurajiより

>> 美術展に足繁く通う美術ヲタの存在は時に好ましいが、美術展に足繁く通う美術家はどこか怪しい。 7:09 AM Dec 17th webで


で、どうしてあれらがピカソやダヴィンチであってはならないのか。あれがピカソやダヴィンチだったら余程楽しいのにさ。 6:44 AM Dec 17th webで


だから「啓蒙」の側にいる人間は、「これはピカソじゃないですね」とか「これはダヴィンチじゃないですね」などと言うのだ。いや言わざるを得ない事が、彼等「啓蒙」の人間の存在証明なのである。 6:40 AM Dec 17th webで


博物館法を見れば、それが徹頭徹尾「啓蒙思想」の産物である事が判る。博物館に動物園水族館に美術館。それらは蒙を啓かれたい人で賑わう。そうした「啓蒙」の譜にあって、「巨匠様」の「新発見」は、その対象になり得ない場合が多い。要するに、それを「巨匠」の作として認め難いのだ。 6:39 AM Dec 17th webで


さてその無邪気の淵源は、大抵「学習」なのだ。そしてその「学習」とは、要するに「啓蒙思想」のなれの果てである。蒙を啓く。ひでえ言い方だが、しかし我々は我々自身を蒙的な存在であると措定しつつそれを内部化し、わざわざ蒙を啓かれに行き、それを「学習」するのである。 6:35 AM Dec 17th webで


美術の言説は、こうした「巨匠様」を巡るものが馬鹿馬鹿しい程に余りに多い。「巨匠様」程ではなくても「有名人様」でも良いのだが、今日は「巨匠様」の展覧会を見に行きましたとか、今日は「有名人様」の展覧会を見に行きましたとか、お話を聞きに行きましたとか、まあ無邪気なものなのである。 6:29 AM Dec 17th webで


つまり「巨匠様」はリアルな「巨匠」そのものとしてよりも、幻想の中にある「巨匠様」の意味が大きい。我々はそうした幻想としての「巨匠様」を見に美術館にわざわざ再確認しに行くのだ。それは「巨匠」そのものよりも、「巨匠様」を巡る幻想の再確認なのである。 6:26 AM Dec 17th webで


「巨匠様」だってにんげんだもの(byみつを)。失敗作だってあるだろうが。へんてこりんな「新発見」を、「巨匠様」を研究して何年みたいな美術ヲタが、「これは巨匠様の作品とは言えないですね」みたいな「巨匠様ラブ」な発言をしたりする。しかし、何で「巨匠様」は「無謬」の存在なんだ。 6:24 AM Dec 17th webで


だから「巨匠」は画学生や未だに画学生気分の抜けない美術家(略)には単純に憧れの対象であり、時にこうしたへんてこりんな「新発見」があったりすると、大抵は「こんなのは『巨匠様』の作品とは言えない」などと憤慨するのである。で、一体「巨匠様」に何をあんたらは期待しているんだ。 6:19 AM Dec 17th webで


そして時にはそれを画学生や未だに画学生気分の抜けない美術家(それが殆どだ←三度目)が摸写(或いはコンセプトのパクリ元)かなんかしちゃったりして、先日も勤務先の美術大学で、「ピカソの足って懐かしいよね」「そうだね」などという学生の会話を聞いたばかりだが、そうした対象が「巨匠」だ。 6:16 AM Dec 17th webで


何たら美術館に行って、何某という「巨匠」の展覧会を見てきた。とてもためになった。というバリエーションが、美術館に行く画学生や、未だに画学生気分の抜けない美術家(それが殆どだ←くどい)の「巨匠」に対する「期待」である。 6:12 AM Dec 17th webで


一体我々はそうした「巨匠」に何を期待するのか。画学生ならば、或いは未だに画学生気分の抜けない美術家(それが殆どだな)ならば、それを「学習」の対象として見るだろう。例えば美術館に行ってそれらの作品を見に行くという事からして、既に「学習」の対象なのだ。 6:09 AM Dec 17th webで


それよりも、人はそうした「幻の新作」を、何故に期待するのかというテーマの方が面白い。 6:07 AM Dec 17th webで


そのどれもがそんな訳ねえだろな作品ばかりで、それはそれでツッコミ所満載なんだが。 6:05 AM Dec 17th webで


今年も色々と「新発見」があった。ピカソの幻の作品が見つかっただの、ダヴィンチの幻の作品が見つかっただの。あれは一体何なんかね。 6:04 AM Dec 17th webで

これを読んでいて,「写真家は写真展に通うのか?」ってことを考え始めた.

画学生や未だに画学生気分の抜けない美術家(それが殆どだ←三度目)が摸写(或いはコンセプトのパクリ元)かなんかしちゃったりして、

私はコンセプトを盗むっていうより,自分のやろうとしていることと被ってないかなって気持ちはあると思う.学習しにいってんですかね.そんなに勉強すきではなかったはずなのに.

2009-12-22 カラー化された白黒

カラー化された白黒フィルム


何となく,テレビをつっけぱしにしていたら,テレビでこんな番組をやっていた.

シリーズ戦争と平和 よみがえる第二次世界大戦〜カラー化された白黒フィルム〜 | ハイビジョン特集フロンティア シリーズ戦争と平和 よみがえる第二次世界大戦〜カラー化された白黒フィルム〜 | ハイビジョン特集フロンティア
http://www.nhk.or.jp/frontier/warandpeace/0816.htmlより

詳細
1939年9月、ナチス・ドイツポーランド侵攻で始まった第二次世界大戦
6年にわたる戦闘で、世界中が戦場と化し、数千万人の死者を出した史上最悪の戦争である。
2009年9月で戦争開始から70年がたつ。この間、戦争経験者の多くが世を去り、一方で若者たちが歴史への関心と知識を失うなど、世界各国で戦争体験は風化を続けている。戦争を何とか後世へ伝え、あの悲惨な出来事を繰り返すまいという思いは、日本だけでなく、世界の共通の願いである。
このような中で、記録映像をもう一度丹念に掘り起こし、その力をあらためて引き出そうというプロジェクトが進められてきた。最新のデジタル技術と綿密な時代考証により、白黒アーカイブ映像をカラー化し、第二次世界大戦の時代をよりリアルに再現する、という新たな試みだ。

最新のデジタル技術で白黒フィルムをカラー化
第二次世界大戦は、小型化された映画カメラの発達により、戦闘の様子を動く映像で記録する初めての機会となった。戦争の様子は、各国の従軍カメラマンたちによって記録された。
今回、世界各地で眠っている記録映像を再発掘。フランスとの国際共同制作で、最新のデジタル技術を使い、白黒映像のカラー化を進めてきた。
色づけ作業は慎重に行われた。第二次世界大戦は、カラーのスチール写真も残され、兵器や軍服、日用品などの現物も多く残されている。それら1万件にのぼる色情報をデジタルでデータベース化。
映像1フレームごとに、細かい色づけ作業を行った。


兵士の肌の色はみな同じように色つけされている,人の肌の色ってみな微妙に違うんじゃないの?
兵隊の服はまだ記録があるから再現できても,一般の人々が着ている服の色をかってに塗り替えてしまったいいの?
戦死した兵士の血の色がわかるから迫力がでるわけ,見ている内に色々な疑問が湧く.

 もう,白黒の映像では皆,興味を示さないのだろうか? 昔は,ほとんどの人が,白黒で写真を撮ると,どう写るのかとを体験している,だから,逆に,自分の知らない白黒の映像を見ても,どのようなものを写したのかイメージし易かった.最初からカラー写真に接している世代の人は白黒の映像を見ても,イメージが出来なくなっているのか等と考えてしまう.

 結構,批判的な文章がネットで見られると思ったら,沢山の人がこの映像を好意的に受け止めている.
 http://topsy.com/tb/www.nhk.or.jp/frontier/warandpeace/0816.html

 映像が真実を伝えるとは単純には考えない,でも,フィルムを現像して写っていた単純な映像と違って,色を塗るという行為が加わった映像には別の意図が加わる危険性があると思うのだ.

2009-12-21

篠山紀信事務所 家宅捜査問題その後


http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20091215-OYT1T01010.htmより

 紀信さん家宅捜索、ペンクラブが憂慮声明

 写真家篠山紀信さん(69)が今年1月に刊行したヌード写真集「20XX TOKYO」(朝日出版社)の撮影を巡り、警視庁が公然わいせつ容疑で篠山さんの自宅や事務所などを家宅捜索した事件で、日本ペンクラブ阿刀田高会長)は15日、「屋外での写真撮影への公権力介入を憂慮する」とする声明を発表した。

 写真集は、 東京都内の路上や公園、墓地などで全裸の女性を撮影しているが、同クラブは、昨年夏の撮影から1年以上たった段階で、いきなり家宅捜索が行われた点を「乱暴なやり方」と指摘。表現の自由は、発表行為の前段である撮影などにも保障されるべきで、今回のような取り締まりは、表現活動への萎縮をもたらす、としている。
(2009年12月15日20時36分 読売新聞

声明文は
http://www.japanpen.or.jp/statement/2008-2009/post_210.htmlから読めました.

「屋外での写真撮影への公権力介入を憂慮する」

さる11月10日、今年1月に刊行された写真集『20XX TOKYO』の撮影が公然わいせつに当たるとして、写真家篠山紀信氏の自宅や事務所が家宅捜索を受け、関係者への事情聴取はいまだに続いていると伝えられる。篠山氏は以前から同じように屋外で撮影した写真を発表してきたのに、今回突然、昨年夏に行われた撮影が問題とされ、しかもいきなり家宅捜索が行われるという事態となった。

写真家にとって表現活動の一環である撮影行為に対して、公権力の介入が恣意的に行われるのはあってはならないことだが、今回の場合も、いきなり家宅捜索を行うといった乱暴なやり方を含め、警察の対応には疑問を禁じえない。
 表現の自由は、発表行為の前段である撮影や情報収集行為も含め、意見発表・表現行為とまったく同等に保障されるべきものであることは当然である。今回のような取り締まりが恣意的に行われることは、表現活動への萎縮をもたらし、公権力による事前抑制行為となりかねない。


日本ペンクラブは、今回の事態を深く憂慮し、ここに声明を発表する。


2009年12月15日

           

社団法人日本ペンクラブ

会長 阿刀田高

2009-12-20 モナリサ

夏目漱石「永日小品」より「モナリサ」

色々な人をFollowしたり,やめたりしている.どうも,なかなかTwitterとうまく付き合えない感じだが,時々,面白いものを見つける.大村益三さんのtwitterで、夏目漱石の「永日小品」の中の「モナリザ」を引用しているのだが,あらためて漱石を読み直してしまった.twitterは一つの記事に140字までという制限があるので、このように順序が逆になってしまうが、この変な感じがまたいい.
http://twitter.com/omurajiより

翌日(あくるひ)井深は役所へ行って、モナリサとは何だと云って、皆(みんな)に聞いた。しかし誰も分らなかった。じゃダ ヴィンチとは何だと尋ねたが、やっぱり誰も分らなかった。井深は細君の勧(すすめ)に任(まか)せてこの縁喜(えんぎ)の悪い画を、五銭で屑屋(くずや)に売り払った。
同書 10:26 PM Dec 18th webで

井深はそのついでに額の裏を開けて見た。すると画と背中合せに、四つ折の西洋紙が出た。開けて見ると、印気(インキ)で妙な事が書いてある。「モナリサの唇には女性(にょしょう)の謎がある。原始以降この謎を描き得たものはダ ヴィンチだけである。この謎を解き得たものは一人もない。」
同書 10:25 PM Dec 18th webで

四時頃家へ帰って見ると、昨夕の額は仰向(あおむ)けに机の上に乗せてある。午少し過に、欄間の上から突然落ちたのだという。道理で硝子(ガラス)がめちゃめちゃに破れている。井深は額の裏を返して見た。昨夕紐を通した環が、どうした具合か抜けている。
同書 10:24 PM Dec 18th webで

その晩井深は何遍(なんべん)となくこの画を見た。そうして、どことなく細君の評が当っているような気がし出した。
同書 10:23 PM Dec 18th webで

少し経(た)ったら、また首を挙(あ)げて画の方を見た。やはり口元に何か曰(いわ)くがある。けれども非常に落ちついている。切れ長の一重瞼(ひとえまぶち)の中から静かな眸(ひとみ)が座敷の下に落ちた。井深はまた机の方に向き直った。
同書 10:22 PM Dec 18th webで

薄い唇(くちびる)が両方の端で少し反り返って、その反り返った所にちょっと凹を見せている。結んだ口をこれから開けようとするようにも取れる。または開いた口をわざと、閉じたようにも取れる。ただしなぜだか分らない。井深は変な心持がしたが、また机に向った。
同書 10:21 PM Dec 18th webで

井深は机に向って調べものを始めた。十分ばかりすると、ふと首を上げて、額の中が見たくなった。筆を休めて、眼を転ずると、黄色い女が、額の中で薄笑いをしている。井深はじっとその口元を見つめた。全く画工(えかき)の光線のつけ方である。
同書 10:20 PM Dec 18th webで

その時細君は、この女は何をするか分らない人相だ。見ていると変な心持になるから、掛けるのは廃(よ)すが好いと云ってしきりに止(と)めたけれども、井深はなあに御前の神経だと云って聞かなかった。
同書 10:19 PM Dec 18th webで

細君は洋灯を翳した片手を少し上に上げて、しばらく物も言わずに黄ばんだ女の顔を眺めていたが、やがて、気味の悪い顔です事ねえと云った。井深はただ笑って、八十銭だよと答えたぎりである。
同書 10:18 PM Dec 18th webで

井深は細君に灯(ひ)を画の傍(そば)へ翳(かざ)さして、もう一遍(いっぺん)とっくりと八十銭の額を眺めた。総体に渋く黒ずんでいる中に、顔だけが黄(き)ばんで見える。これも時代のせいだろう。井深は坐ったまま細君を顧(かえり)みて、どうだと聞いた。
同書 10:18 PM Dec 18th webで

井深がこの半身の画像を抱(いだ)いて、家(うち)へ帰ったのは、寒い日の暮方であった。薄暗い部屋へ入って、さっそく額(がく)を裸(はだか)にして、壁へ立て懸(か)けて、じっとその前へ坐(すわ)り込んでいると、洋灯(ランプ)を持って細君(さいくん)がやって来た。
同書 10:18 PM Dec 18th webで

懸物(かけもの)でも額でもすぐ人の眼につくような、書斎の装飾が一つ欲しいと思って、見廻していると、色摺(いろずり)の西洋の女の画(え)が、埃(ほこり)だらけになって、横に立て懸(か)けてあった。夏目漱石「永日小品」より「モナリサ」 10:16 PM Dec 18th webで

漱石って結構悪いひとですね。

2009-12-19 反解釈

写真の批評

〔練習場〕http://d.hatena.ne.jp/n-291/20091218#p2より

■これは日本の写真にもあてはまることなのでは。。。 はてなブックマーク - これは日本の写真にもあてはまることなのでは。。。

Twitter / 末永史尚 Fuminao Suenaga: 日本の古美術について、形式分析的なアプローチでの作品 ...

日本の古美術について、形式分析的なアプローチでの作品論てないんだろうかと若冲ワンダーランドの図録見ながら思う。いつまでたってもエピソードを掘り下げるだけで。


http://twitter.com/kachifu/status/6660067661

Twitter / 末永史尚 Fuminao Suenaga: 一般向けの図録に求めることじゃないんだろうけど、筆運 ...

一般向けの図録に求めることじゃないんだろうけど、筆運びにひとつとっても模倣も独創もあるはずなのに、「力強い」「大胆」でいっしょくた。いったいどの部分が創造なんやらあやふやという話

http://twitter.com/kachifu/status/6660224249

反解釈

 上のtwitterの記事が気になりながら、家に帰る途中、本屋に寄って、

を買う。この本のタイトルとなっている、「反解釈」より、引用

 現代における解釈は、つきつめてみると、たいていの場合、芸術作品をあるがままに放っておきたがらない俗物根性にすぎないことがわかる。本物の芸術はわれわれの神経を不安にする力をもっている。だから、芸術作品をその内容を切りつめた上で、それを解釈することによって、ひとは芸術を飼い馴らす。解釈は芸術を手におえるもの、気安いものにする。

 今日要望されているのはどんな批評、いかなる作品論であろうか?芸術作品はとはいわく言いがたいもので、描写やパラフレーズは不可能である、と私は言っているのではない、描写やパラフレーズは可能である。問題はその方法である。作品を簒奪するのではなく、作品に奉仕しようとする批評は、どのようなものとなるのだろうか?
 まず必要とされるのは、芸術の形式にもっと注目することである。内容に対する過度の関心がのぼせあがった解釈を呼び起こすとすれば、形式へのこれまでにない詳しい注目と徹底的な描写は少なくとものぼせあがりを冷やし、黙らせるだろう。必要なのは形式を描写するための語彙――かくあるべしと命令する用語ではなく、かくあると描写する用語だ。
 最良の批評とは(まことに稀少なものだが、)内容への考察を形式への考察のなかに溶解せしめる種類の批評である。

 作品の外形を真に正確に、鋭く、共感をこめて描写するといった批評行為も、それに劣らぬ価値がある。この方が形式分析よりももっとむずかしいと言えるかもしれない。

 われわれの仕事は、芸術作品のなかに最大限の内容を見つけだすことではない。ましてすでそこにある以上の内容を作品からしぼり出すことではない。われわれのなすべきことは、ものを見ることができるように、内容を切りつめることである。
 芸術についてあらゆる解釈と議論は、芸術作品を――そしてひろげて言えば、われわれ自身の経験を――われわれにとっても実在感のあるものにすることを目ざすべきである。作品と経験の確かな実在感を薄めてしまってはならない。批評の機能は、作品がいかにしてそのもであるかを、いや作品がまさにそんものであることを、明らかにすることであって、作品が何を意味しているかを示すことではない。

 解釈学の代わりに、われわれは芸術の官能美学(エロティックス)を必要としている。

2009-12-16 コラージュ

吉田修一著「悪人」と束芋

 悪人を読み終える.あらためて,束芋の「断面の世代」展のカタログを見て,新聞に連載されたときの挿絵を見る.
それを見ているといくつかの場面が思い浮かぶ.次から次へ色々な登場人物の視点からの描写を組み合わせたコラージュのような作品であるる.束芋は自分の作品をコラージュであると言っている.

 断絶と集合―断面の世代が生まれた世代 木村絵里子より(束芋「断面の世代」展のカタログより)

「私の作品はすべてコラージュす.」
横浜での展覧会を2ヶ月ごに控えて,新作やこれまでの作品の特徴について尋ねられた束芋は,以外とも思える答えを発した.
束芋の作品は,どちらかといえばオーソドックスな手法で作り出されるアニメーションだ.画面に登場するあらゆるモチーフは手で描き出される.例えば≪団地層≫であれば,部屋の中に置かれた椅子,テーブル,本棚,植木鉢,照明器具,トイレの便器などのあらゆる家財道具類が,まずは全て個別の原画として描かれる.1秒間の動きに対してすうまいずつ,それぞれの動きを満たす数(数百枚,ときには一つの作品で数千枚にも及ぶこともある)の原画を必要とする.それらは一枚ずつ,パソコンに取り込まれ一連の動きを獲得し,それぞれの動きを持ったモチーフがひとるの画面上で層をなすように組合わされた時,初めて物語を持った映像として立ち上がってくる.

 小説悪人についても,一人一人の登場人物から見た世界が、何層にもなって一つの世界を作り上げているように感じた.
そのようなことを写真で出来るのか,そんな作品がいままであったのかと考えてみると,オノデラユキの昔,ZEITO=FOTO
で見た,『transvest』という展覧会を思い出した.
オノデラユキによる?『transvest』の解説http://www.chukyo-u.ac.jp/c-square/より

『transvest』
―擬態、透き通るボリューム、世界の写し、
小さな葉そっくりに模倣する昆虫のように。―

 「…に似ている」「…のような」。まず、逆光で浮かび上がる等身大の人体シルエットは、誰かに似ている。何かの状況に似ている。彼らのポーズは、ジェスチャーは、服装は、それぞれ懐かしいほど典型的だ。

 暗く、よく見えない体の<部分>に注意をむける。そこには衣服のヒダや皺、フリル、小さな装飾類、あるいはプリントされた布地などのディテールがうっすらとおぼろげに見えるようだ。さらに近づいてよくよく見れば、それらは衣服のディテールなどではないことに気付くだろう。プリーツに見えていたものは、上空から眺めた街路のようであり、ビーズの装飾に見えていたものは広場の夜景ではないのか?
 様々な風景、瞬間、オブジェなどのイメージが、シルエット姿の男の膝や女の足首あたりに、いや、そのからだ全体の表層を被っている。それらは山の斜面であったり、あるいはバロックの装飾、湖の波紋、キャンディー、廃墟、インディオの入れ墨、港の夜景、車、昆虫、ガラスに閉じ込められた小さな気泡…などであって、極小のものから巨大なものまで、古いものも新しいものも、ありとあらゆるイメージが雑多に移植され、やっと見分けられるか見分けられないかのギリギリの暗い表面に沈んでいる。ひっそりと『世界』を内包する身体。
 私たちの視線はその体の表面をイメージからイメージへと滑るように移動していく。まるで高空を飛びながら大陸を眺めているような、自分自身が小さくなったような感覚におそわれる。しかし私たちはその世界のイメージの断片を眺めながらも同時に、それらを閉じ込め囲っている典型的な人体のシルエットの記号性を意識せずにはいられないだろう。イメージの断片は詩であり人体のシルエットは約束されたコードなのか。「ミメシス、ミメティスム、擬態、透き通るボリューム。世界の写し…そして<マイム>、演じる道化師たち」。

 『transvest』という言葉は、異性の服を身につけたがる『服装倒錯』を意味する精神医学用語。この「衣服のような、体のような、皮膚のような」どっちつかずのシルエットに、さらにナンセンスな性別の意味合いを含ませたかった。アイロニーをきかせた道化師たちに与える名前として。

 この作品は照明の加減ひとつで隠れていたイメージが浮かび上がったり沈んだりする。イメージはいつも変化しフィクスしない。まるで子細な自然に呼応する昆虫の擬態のように、極小の昆虫が透けていき世界と同化し、視点の変化とともにまたもや鮮やかに現れるのだ。

2002/6/25
オノデラユキ

2009-12-15 光ー呼吸シリーズより

佐藤時啓 作品展『 Tree 』 光ー呼吸シリーズより

ZEIT-FOTO へ佐藤時啓展を見に行く
http://www.zeit-foto.com/exhibition/sato_09.htmlより

 光ー呼吸シリーズは、私が写真作品の制作を始めて以来続けている、長時間露光によって私自身がランドスケープの中に入り込み発光させる光のシリーズである。
 最近は特に太陽光を反射させる鏡のシリーズを続けている。昨年より樹木のシリーズを開始した。森の中で出会うブナを中心とした木々。その存在や形態は男性モデルの筋骨のように逞しく、女性モデルの柔らかな曲線のように妖艶である。私はその木々の所有する空間に参加し、木々の言葉に耳を傾け、それを増幅し作品とするのだ。
 太陽が東から昇り南中し西に沈む。太陽を木漏れ日の中に求めながら、目的の木に差し込む僅かなチャンスを探す。太陽から木への入射とそこに寄りそう私からの光の反射。それを受けるカメラ。そこには明確に直線的な三角形が出来上がる。その幾何学的緊張感が、私をまた撮影に向かわせる動機である。

2009年9月 佐藤時啓

 世の中には,森や木を主題にした写真が沢山ある.だから,ただ,そのまま木をを撮っただけではもう作品は出来ないのか?そんなことを考えた.私には,画面に写っている鏡の光よりも,樹木の形態の方に目がいく.

2009-12-14 悪人

*[読書]吉田修一著「悪人」
 束芋展では,新聞小説「悪人」の挿絵の原画が展示してあった.
 束芋さんは小説を読み,気になるキーワードをピックアップし,その中から,自分らしいとおもわれるものを書いたそうだ.それも5日分を34.6cm×136.0cmの和紙に墨でかいたのだ.そこのなかから一部をコンピュータに取り込み.彩色したそうだ.それも北斎の版画から色を持ってきたらしい.
 また,「油断髪」では「悪人」の登場人物,金子美保がモチーフだといっている.
そんなわけで,

悪人(上) (朝日文庫)

悪人(上) (朝日文庫)

悪人(下) (朝日文庫)

悪人(下) (朝日文庫)

を買って,読み出してしまいました. 挿絵はないので,どの言葉から,この絵を描いたのかということは分かりませんが,どんな小説か気になったのです.

 

2009-12-13 断面の世代

横浜美術館 束芋「断面の世代」

 横浜美術館束芋「断面の世代」を見に行く.http://www.yaf.or.jp/yma/jiu/2009/exhibition/tabaimo/
 断面の世代とは,カタログより

断面の世代       束芋
団塊の世代」に対して私の世代(大雑把に1970年代生まれ)を「断面の世代」と勝手に名付ける.
横浜美術館での「GOTH−ゴス−」展*1においてキューレーターの木村絵里子さんが説かれた,私たちの世代の特徴「個への執着」.また団塊の世代以上の年齢の人々の興味の対象であったもろもろの事象に対して,同じように興味を持つ私たち.自分たちがまだ生まれてもいない70年代以前の流行や事柄に共感を覚え,それらのリバイバルを大歓迎しているにも関わらず,同じものを目の前にして「共感」しているその態度は,当時のそれとは大きな違いがあるのではないだろうか.
大きな塊になることによって,世の中を大きく動かし,後の世代にも影響を与えてきた世代に対して,私たちは個に執着しどんな小さな差異にも丁寧にスポットライトを当てる(全てにピントを合わせた写真や緻密な描画が魅力の絵画,逆に極端に一点に焦点を合わせた作品も私たち世代の特徴のように思う).
大きな塊の中の一点として自分の存在意義を見出し,その大きな塊の成した功績を自分のものとして感じるよりも,私たちは一つの存在としての機能の功績を重んじる.いくつもの存在を合わせ集団化することで大きな成果が得られるような場合でも,個の尊重と引き換えなくてはならない成果なのであれば,それをよしとしない.

全体の形態からは想像もつかないような一つの部品となるよりも,ペラペラな二次元の存在だとしても,全ての要素を見て取れる断面でありたいと願う.


講堂でアーティストトークを聞く,今回のインスタレーションを準備する様子がよくわかり.非常に面白かった.曲面のスクリーン,鏡を用いたり,束芋の発想を実現させる裏方がいるから出来るのだ.

 下絵を何枚もペンでかき,それをパソコンに取り入れて絵を動かし始めると色々な発想が生まれてくるそうで,パソコンに取り入れる前までは,頭のなかには平凡な映像しか浮かばないとのことでした.

YouTube束芋本人のインタビュー映像が見ることができます.
D

ところで,束芋の名前の由来が分かりました.本名が田端綾子で,美大受験予備校に通っていた頃,友人が3人姉妹を呼び分けるため,それぞれ「たばあね(田端の姉)」,「たばいも(田端の妹)」,「いもいも(妹の妹)」と名付け,それがのちにアーティスト名,「束芋」になったそうだ.

横浜美術館 写真展示室


 束芋展の後,常設展,写真展示室で須田一政「わが東京100」,石内 都「絶唱・横須賀ストーリー」,金村 修「Keihin Machine Soul」,米田知子「震災から10年」を見る.

 金村 修「Keihin Machine Soul」がいい.金村さんが,広角よりも準標準レンズを勧める理由が分かったような気がする.自分はどうしてもフレームの中で,例えば,建物を撮る時,上から下までいれゆとか,写真が説明的になっているのを実感した.むしろ標準レンズで,全体をいれようとしないで街の中に一部を切り取るようなつもりで撮らなければと思う.金村さんに写真を見てもらったとき,画面の中が整い過ぎているというようなことを言われたこと思い出した.

*1:2007年から2008年に横浜美術展で開催されたグループ展「GOTH−ゴス−」展には国内外より束芋と同世代の作家が出品した(束芋は≪ギニョる≫を出品).出品作家に共通する要素として,自己の肉体,とりわけ病や死のイメージの執着を挙げた.

2009-12-12 たしか,いい写真撮ってあったはずだ.

写真を探す

 年賀状を作ろうと,普段から来年の干支に関係のあるものに出会うと撮っておく.毎年続けて出していると、どんな写真になるか楽しみにされているので,気合いが入ってしまう.来年の干支は虎,何回か撮った記憶がある.
 私の写真の整理法は,2009\01\200901年,月,日の順にホルダーをつくり.同じ日に撮った写真はそのホルダーに入れておく,特に大事だと思うものは,flickrにアップし,flickr内でtitleとtagを入力しておく,後で,写真を見つけるときはflickrで検索をし,何日に撮った写真であるかを調べ,ハードディススクのなかのフォルダーの中を見見直せば良いわけである.
 確か,五反田駅のホームで撮った写真で,年賀状に使える,いい写真があった.そういう写真は当然flickrにUpしているはずだと思って,探してもでてこなかった.ようやく,その前後の写真を思い出し,ハードディスクの中から見つけた写真は,どうってことない,使えない写真だった.記憶の中で,その写真を素晴らしいものに変化していたのだ.


 
 

2009-12-11 内藤礼「母型」

2008横浜トリエンナーレ 内藤礼「母型」


 日曜日に、神奈川県立近代美術館の「内藤 礼 すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」を見たが、このときは,内藤 礼の作品をはじめてみたと思っていたが、2008年の横浜トリエンナーレ三渓園で作品をみていたことが分かった。
 これは、2008年の横浜トリエンナーレの中で、最も印象に残った作品であった。
このときの作品を見事に表現している、Nobuyuki Sugihara 砂場の山の隧道の指 というBlogを見つけた。
http://sugihara.blog27.fc2.com/blog-entry-145.htmlより

横笛
内藤礼「母型」
これを見に来た

茅葺きの小屋に入り土間から
薄ぐらい茶室を眺めると、
仄白い糸が一本垂れて
畳の上に置かれた二つの電熱器に温められて
揺らめいている

向かいの戸も開いていて
光が差し、糸がきらめく
向かい側からも人が覗くので、
日が翳り、空間が変わる

そして
その人の動きがおそらく微風をおこし、
すこし遅れてから、
煌めく糸がこの世のものとは思えないような
うつくしい動きで揺らめく
糸の下のほうは、輪っかになっていて
その輪っかの動きが生命のゆらぎ
精霊の瞬きのような複雑な動きをうみだす

それは涙がでるほどうつくしい光景だった

それは茶室という場に作られうる
もっとも完璧な存在の在り方に感じられた

精霊をよびおこした糸

単に電熱器で温められた動きということではなく、
人の動き、吐息、吹き込む風、うつりゆく光、
それらすべてがまばゆいばかりに
一本の糸の動きに凝縮され、茶室という空間に満ち溢れている
そして、輪っかの動きという
メビウスの輪を思わせるような光のすがた
この深い生命と森羅万象の精霊と呼ばれて来たものを
かたちとして呼びおこすこと

この奇跡のような在り方に呆然とする

時折、雨月物語の霧が茶室にも流れこみ
光の糸とともに靄の潮流が風のすがたをあらわす

どうしてこういうことができるのか

都会の暮らしにまいっていて
気枯れ(ケガレ)とハレについて思いを巡らし、緑を求めていた
その時に三渓園とともに出会った「母型」

今まで見た内藤さんの作品のなかでも
一番すごい作品と思います

そのとき、私の撮った写真がこれです。
f:id:heliograph:20091212012347j:image

2009-12-10 Polaroidが復活

著者初の本格的写真論

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20091210#p2で知ったのですが。
twitterで話題になった話。
http://twitter.com/yfujiyamaより

じゃあ今までの活動はなんだったんですか的。キノコが専門でしたか。RT @yuki_tomi 飯沢さんの新著『写真的思考』(河出ブックス)のamazon宣伝文句に「著者初の本格的写真論」てあるんだけど・・・ 「初」て、あんた。 http://bit.ly/7lO082

確かに
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4309624081/ref=pe_2102_15281062_snp_dpより

内容紹介
古今東西のユニークな写真を読み解きながら、写真における神話的想像力の働きに肉迫し、「見る=考える」ことの醍醐味について具体的に考察した、著者初の本格的写真論。

って書いてあります。

写真的思考 (河出ブックス 8)

写真的思考 (河出ブックス 8)

Polaroid再開

http://dc.watch.impress.co.jp/docs/news/20091204_333362.html
■ ポラロイドのインスタント写真は「完全復活」する

 サミット・グローバル・ジャパンCEOのジョヴァンニ・トマセーリ氏は、ポラロイドブランドの特徴を「楽しい」、「自発的な」、「インスタント」と説明。特に「インスタント」という点が重要と強調する。

 ポラロイドカメラはBtoBの分野でも使用されていた経緯があり、日本においてはコンシューマ層をメインターゲットとしながらも、BtoBの重要性についても認識しているという。

 同氏は2008年にポラロイドの旧経営陣がフイルムの製造をやめたことに関しても言及。「ポラロイドフイルムの製造を中止した理由はわからないが、おそらく旧経営陣は、ポラロイドのコアが『インスタント』であることを忘れ、『デジタルの夢』を追いかけてしまったのではないか」と振り返る。実際、製造中止の発表後には世界中から「やめるべきではない」という声が上がったという。

 そのうえで同氏は、ポラロイドカメラおよびフイルムの再販を発表。ポラロイドによるインスタント写真の「完全復活」を宣言した。

 ポラロイドカメラ「ポラロイド1000」は、2010年夏以降に発売。コンシューマー向けインスタントカメラの「SX-70」も2010年中に復刻する予定。

 フイルムはオランダのImpossible b.v.が製造を担当。国内では「ポラロイド600」と「同1000」の販売を再開する。モノクロを2010年春以降、カラーを2010年秋以降に発売するという。


http://twitter.com/polaroidjpより

記者発表で流したビデオをご紹介します。是非ご覧ください! http://www.youtube.com/polaroidjp記者発表で流したビデオをご紹介します。是非ご覧ください! http://www.youtube.com/

D

2009-12-09 Google Documet

Google Documetのファイルが壊れた!!

NetBook+Pocket Wifiをついに買った.これで通勤途中でも,文書は書けると思ったら,とんでもないことが起きた.
職場,移動中,家とコンピュータが違うので,Google Documetに文書を保存し,更新していた.
今朝,電車の中で読み直すため,Net Bookで開いた.夕方,最後のCheckをしようと開けようとしたら,

サーバー エラー

Google ドキュメントのサーバー エラーが発生しました。現在、調査中です。

表示されるではないか.ファイルが壊れてしまったようだ.
今日の朝(12月10日)見ると復旧していました。サーバーの問題だったようです。
 おそらく,電波の状態が悪く,うまく書き戻せなかったのではないだろうか?
そういえば,昨日よる,このBlogの下書きを,電車の中でかき,下書きとして保存したつもりだったのに,家に帰ったら,下書きには何も保存されていなかった.

 こらからは,ハードディスクGoogle Documentの両方に書き込みをしていかないと思っている.
トホホ

ほぼ日刊イトイ新聞 - ヨコオとイトイの THE エンドレス

横尾忠則のY字路シリーズの絵画については,「Y字路談義」(http://www.1101.com/yokoo_tamori/)というほぼ日刊イトイ新聞の連載が面白い.

ことは知っていたが,写真のシリーズについて,横尾忠則と糸井重里との「ヨコオとイトイの THE エンドレス」
が,撮影時の様子もよく分かる.
http://www.1101.com/yokooendless/2009-11-19.htmlを読んでください.

2009-12-08 アクセス解析

 一日,30回ぐらいのアクセスしかなかったのに,今月は50位になった.アクセス解析をみてみると.サルガドを検索した結果,このブログにたどりついた人が多いようだ.サルガドがアクセス数を増やしてくれたのだ.
 そういえばYouTubeにアップした,黄金町の動画はすでに470を超えたようだ.これは説明文に「ちょんの間」とか「売春」って言葉が入っているためではないのかと思っている.期待してみて,何これ?って人が結構いるのではないだろうか?タイトルにこの2つの言葉をタイトルに入れたら,またアクセス数が増えるような気がするがやめて起きます.
 TWITTERは自分をフォローしてる人がだいたいどんな人か分かるし,フォローされてればそこに情報が流れているという,手応えみたいのがある.ブログはその点,コメントとかトラックバックあれば,どんな人に読まれているか分るのですが,それがないと,アクセス解析をして,どういうことに興味を持ってアクセスされているのかが,気になってしまういます.そんなことを書くのも,フォローしてくれる人がすこしずつ出てきたからです.TWITTERの面白みがだんだん分かって来たような気がします.

2009-12-07 Y字路

東京Y字路


ついに買ってしまいました.

東京Y字路

東京Y字路



あとがきより,一部抜粋.

  この本はY字路の写真集である。Y字路のコレクションであり、次なる絵画の資料であり、Y字路観光絵葉書でもあり、Y字路カタログでもあり、アルバムであり、記録でもあり、そして表現を排した表現でもある。
 この 東京大都会には人を一人も存在させなかった。人を排除することで、虚構の風景を出現させたかった、つまり物語の幕が開く瞬間の登場人物不在の舞台を見せたかった。物語の始めと終わりを。

展覧会,本の批評もブログ
に掲載されているようです.
http://sankei.jp.msn.com/culture/arts/091114/art0911140822000-n1.htmより,

【写眼】横尾忠則東京Y字路」(平成19年)

 ■「不在」のリアリズム

 「絵の場合は完成された構図を壊していく。その方が楽しい。でも写真だから、あくまでリアリズムを追求したかった」

  東京の無人のY字路をデジタルカメラで撮り歩いた横尾忠則(73)は、そう振り返る。強烈な色彩感覚、サイケデリックな作風で知られる美術家の作品かと疑いたくなるほど、簡素で禁欲的な写真ばかりが並ぶ。

 掲載写真もどこかで見たような街角。いつもならきっと、知らぬ間に通り過ぎてしまう。対称的で絵画的な構図だけれど、人気(ひとけ)がないせいか、どこか奇妙にゆがんでも見える。

 画面から人が「消える」瞬間を狙って、路上で1、2時間待つこともあったという。「人が小さく写り込んでいる写真もあるんですけどね。でも『ウォーリーをさがせ!』じゃないから、探さないでくださいよ」

 Y字路は、絵画でも10年来のモチーフだった。少年時代に親しんだ模型屋を再訪した際、店は取り壊されていた。記念に撮った写真を見て、そこがY字路だったと気付いた。「写真で始まったモチーフだから、写真として自立させたかったのかな」

 十字路のようにきれいに区画整理されていないY字路は歪(いびつ)だが、人と土地に自然な街の景色でもある。横尾はその輪郭を、人間の不在で強調している。
 「 東京が舞台で人が役者だとすると、無人のY字路には役者がいない。そこには物語の気配しかないけれど、その瞬間が一番面白い」(三品貴志)

読売新聞書評http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20091124bk21.htmより

 泉鏡花の名編「国貞えがく」に、「二股(ふたまた)坂」という地名が出てくる。その郷里の金沢には実際に二俣という町名があるけれど、鏡花らしい幻想の地誌では見せ物の蜘蛛(くも)男が住まい、浮世絵の姉様(あねさま)が買われ、無残にいたぶられるところ。つまりは山中の異界である。

 さて、二股坂ならぬ「Y字路」に魅入られ、10年前から描いてきたのが横尾忠則である。画面には私的な記憶などが描き重ねられ、見慣れたY字路は幻想の交差点と化す。その横尾が 東京都内で、230か所余りのY字路を撮り集めた写真集を出した。夜間、たそがれ時、白昼と様々だが、一つ変わらないのは、そこに誰もいないこと。誰かが、何かが不意にやってきそうな予感があやしく漂う。

 横尾は昨年、泉鏡花文学賞を受賞した。それにちなんで言えば、Y字路とはこの異才にとって、今にも幻想譚(たん)が幕を開けそうな市中の二股坂なのだ。


大竹昭子
http://booklog.kinokuniya.co.jp/ohtake/archives/2009/11/post_53.html
鈴木芳雄(ブルータス副編集長)
http://fukuhen.lammfromm.jp/2009/10/post_720.html
TRANSIT
http://transit.ne.jp/contents/info/2009/10/post-16.php

2009-12-06 すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在してい

内藤礼「すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」

プレスリリースhttp://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/press/2009r_naito.pdfより

 空間を満たす光、空気の揺らぎ、周囲の音――造形を取り巻く要素を作品の場へと呼びこむ、現代日本を代表するアーティストのひとり、内藤礼(1961- )。1980 年代の後半から、「地上の生と世界との連続性」をテーマに、糸や布といった繊細な素材と、光や水などの自然の要素を、ひそやかな、それでいて確かな存在感を放つかたちに昇華させてきた彼女の作品は、国内外で静かな熱狂を呼んできました。
 今回の個展は、ジョルジュ・バタイユが『宗教の理論』に記した一節をタイトルとし、内藤礼が、鶴岡八幡宮境内のモダニズム建築として名高い神奈川県立近代美術館鎌倉館に、新作を中心とするインスタレーションを行うものです。
 展示室の閉ざされた空間と、館外の自然が交錯する中庭や彫刻室。鎌倉館独自の環境に置かれた作品群には順路が定められていません。その作品は、建物と屋外を経巡るひとりひとりの時間のなかで、かつてあった/未だ生まれざる世界の記憶を呼び起こし、見る人の生の時間と交感することでしょう。自然そのものを素材にする近年の仕事に加え、10 年以上の時を経て電球光がふたたび取り上げられて、本展での制作が、これまでの時間を遡りながら、同時に新しい段階への移行を告げるものとなることを予感させます。
 「水の中に水があるように」。世界と等質な全体性の奪回を希求する内藤礼が、鎌倉館にどのような作品を生み出し、また作品を媒介にどのような世界とのつながりを示してくれるのか、大きな期待が寄せられています。
          [タイトル出典:ジョルジュ・バタイユ『宗教の理論』湯浅博雄訳/ 人文書院1985/ ちくま学芸文庫2002、内藤礼により一部変更]


 最初の閉ざされた展示室、布の上に置かれたクリスマスの飾りのような豆電球が十個位輪のよう連なって置かれているのが基本パターンとすれば、そのパターンが展示室のガラスのケースの中に数十箇所に置かれていた。その光が、ケースのガラス、コップ、風船、ビー球等に写る。微妙な光の輪が随所にできる。また、対面するガラスが合わせ鏡のようになり光の輪がどこまでも続いているように見える。
第2室は、同じ柄の布を数十枚で床のほぼ70%位敷き詰めた、その皺や布の重なりのつくる微妙な影が出来ている。東側しか光を入れてないので、夕方はほとんど見えないとのことでした。
 池に面した、テラスの柵に置かれた水を一杯に入れたガラスコップ、池や中庭にわテープが吊られていて、風にまっている。小さなビーズを糸に通し天井から床まで吊るす。
 
 それらのものが作る、光の変化を楽しみました。

 池からの反射する光がつくる模様もそれにまけず美しい。
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f:id:heliograph:20091206124624j:image

2009-12-05 昨日の話

鈴木龍一郎「RyUlysses」


昨日(12月4日),銀座ニコンサロンへ鈴木龍一郎「RyUlysses」を見に行った.

http://www.nikon-image.com/jpn/activity/salon/exhibition/2009/12_ginza.htm#01より

作者がアイルランドの作家ジェイムスジョイスの『ユリシーズ』の影を追いながら、ダブリンの街を彷徨いつつ、パノラマ・カメラで<死と生のあわい>を記録した作品である。撮影期間は2004年から2009年4月までの6年間で、ダブリンへの渡航をくり返し、撮影した。
サンディコーヴの海岸からリングズエンドを経てダブリン市街へ。オコンネル通りを中心に路地から路地へ。そして、ホース岬からパワーズ・コートへ。往きかうダブリン市民の表情から、壁に広がる落書きや飛ぶ鳥の影まで。作者は歩き回るほどに、無限に連鎖してゆくカオスの世界をシャッターを切っては写真化してゆく。
「塔の前のソバカス少女」「食事する山高帽男」「刑務所の壁」「夕闇のキングズタウン駅」「SM館のある路地」「テンプルバーの花嫁」「海辺に立つ家出少年のポスター」等々、モノクロ・パノラマ作品約60点を展示する。
尚、タイトルの「RyUlysses(リユリシーズ)」は、『ユリシーズ(Ulysses)』に作者の名(Ryu)を組み合わせたものである。

 FujiのパノラマカメラTX-1で撮影した作品.パノラマ写真にどうしても惹かれてしまう傾向があるようで,4,5年前,ソ連製のHorizonでかなりの量の写真を撮影したこともあるのだが,Horizonはその間2回修理に出し,ついには,撮影中に落としてしまい諦めたことがある.ある程度撮ると壊れるカメラを買い直す気にはならないので,ひそかに,Panon のWideluxとかこのTX-1(TX-2 )を買いたいなと思っているのだが,なかなか買えません.

菅原一剛「dansa "とてもとてもありがとう”」


これもまた昨日,銀座四丁目のリコーフォトギャラリー「RING CUBE」へ菅原一剛「dansa "とてもとてもありがとう”」を見る.
http://blog_ichigo.kanko-photo.net/2009/12/dansa.htmlより

写真展「dansa」に寄せて

ある日、ぼくたちは電気もガスも水道もないケニアの小さな村を訪れました。
その時、その村には、ケニア赤十字による移動診療所が設置され、
その小さな仮設診療所は多くの人々で溢れていました。
そして、その中はあたたかい”ほんとうの笑顔”で満たされていました。
その笑顔と共に多くの人々が、口々に”最大級のありがとう”という意味を持つ
「ダンサ」という言葉を繰り返していました。
そんな彼らの笑顔と共に発せられた”最大級のありがとう”が
いつでも日常にある世界は、とてもすてきな世界なのだと思います。
だからぼくも、そんな”あたたかい世界”がなくならないように、
しっかりと”ありがとう”を伝えていきたいと思っています。

菅原一剛


 写真の内容ではなく,展示してある写真のプリントアウトの質が悪い.デジタル写真ってこんなに薄っぺらなのかと思われていいのかなという感じであった.
 注目のRicoh GXRを触ることが出来たのが収穫であった.

2009-12-04

篠山紀信事務所 家宅捜査問題

 http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20091117/1258466460で書いたが,篠山紀信事務所が写真集「20XX TOKYO」の写真のロケを問題にされ家宅捜査を受けた.その後,新聞でもこの家宅捜査が行き過ぎではなかったのかという記事を載せはじめた.

朝日新聞
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200912030237_01.html

笠原美智子 「作品をわいせつと判断していないのに、それを写す行為をわいせつだと取り締まるのはおかしいのでは」

飯沢耕太郎 「90年には問題にならなかったのに今回は家宅捜索された。社会の空気の変化を感じて、ほかの写真家が自己規制しかねない」


飯沢さんは産経新聞でもつぎのような発言をしている.
http://sankei.jp.msn.com/culture/arts/091118/art0911180717000-n2.htm

 「まず確認しておきたいのは、作品が『わいせつかどうか』に確たる基準はないということです。摘発する側も、社会の空気を読んでいるし、時代によって境界線は引き直される」

篠山さんのヌードはわいせつというより、裸が衣装であるような、マネキンのような、そんな撮り方。対象との関係性をあまり感じさせない、という明るいエロス(生命力)の表現。それはずっと変わっていない」

「日本の写真表現は、ずっと縮み傾向にあると思う。危ないもの、怖いものを覆い隠そうという意識が強い。クレーム社会になって、文句を言われそうなものはやめよう、出さないでおこう、と自己規制も強まっている。写真家も萎縮(いしゅく)してしまって、悪循環が続いている」

「若い人が、篠山さんでもダメなんだから、やめておこうと思うのがこわい。路上ヌードは撮れなくなるかもしれない。この傾向が強まれば、すべての路上写真がだめになる。ヌードに限らず、公共の場で一切の撮影ができなくなってしまう。そんな危機をはらんでいる」

表現の自由といってももちろん無制限なものではない。ただ、イマジネーションをかたちにする自由というのは、なるべく広く認められる社会であってほしいというのが、表現する側の基本認識でしょう」

三好耕三『SAKURA 櫻覧』展


PGIに三好耕三『SAKURA 櫻覧』を見に行く.
http://www.pgi.ac/content/view/251/1/lang,ja/より

三好耕三は日本を代表する写真家です。1981年から四半世紀を超えてひたすら大型カメラで写真を撮り続けている作者は、これまでに数多くのシリーズとしての作品を生み出してきました。日本各地の風物と子供たちを捉えた「Innocents 天真爛漫」(1985年)、日本の原風景を捉えた「Picture Show 傍観」(1987年)、「Conservatory 温室」(1989年)、90年代にアメリカで撮影した「Southwest」(1994年)や「In the Road」(1997年)。そして、再び日本各地を旅して撮影した「Sakura 櫻」(2003年)、「Seagirt 海廻り」(2004年)、「Tokyo Drive 東京巡景」(2006年)、「Somewhere, Sometime 津々浦々」(2007年)など、人々の心に残る数多くの名作を発表しています。

桜の撮影は1998年から始まりました。毎年春になると「さくら前線」と共に北上する旅を繰り返す作者は、各地の桜を訪ね、気に入った桜だけを写してきました。人々の心を虜にし、「花見」でたくさんの人を集める桜があり、そして、風景の中にたたずむ桜があります。風物としての桜を撮るうちに、しだいに桜そのものを撮るようになった作者は、再び「桜」と向き合っています。「朝、誰もいない桜の下で目覚めた時に、そこに咲いている桜を覧て、その時感じた気持や状態と対等に向き合って撮影している」と、作者は語っています。

長年同じスタンスで写真を続けている作者にとって、写真とは、「フィルムがあり、レンズがあり、暗室で印画紙上に焼き付ける、という写真という塊」であるといいます。そして「その写真という塊の中で、そのようなことをやり続けることが大事だと思っている」と述べています。テーマを決めると旅をして、撮影し、そしてモノクロームのプリントにしている作者は、自分自身に対して約束事をつくり、まるで修行僧のように黙々と、同じペースで「写真」を続けています。

本展では、8x10インチの大型カメラで撮影された2003年以降の作品に加え、16x20インチの超大型カメラで撮影された最新作を含めた、30余点の全紙サイズのモノクローム作品を展示致します。

 桜を撮った写真というと,森山大道東松照明,山崎博,鈴木理策等色々な作品が思い浮かぶが,それらは,どちらかというと,自分自身の表現のために桜を撮っているのだが,ストレートに満開の桜と向かい合っている作品の強さを感じた.

2009-12-03 面白い

スーザン・ソンタグ「同じ時のなかで」美についての議論


 写真を見て感想をいうとき,(評価しようとするとき)「面白い」とか「面白くない」という表現を良く使うのだが,スーザン・ソンタグはそのことに対して鋭い指摘をしています.「同じ時のなかで」に,「美についての議論」という文章があります.
 

 ほぼ一世紀前,美術に関してもっとも威信ある立場にあったいくつかの共同体が大々的な刷新に力を注ぐようになったとき,まず否定すべき考え方として最前線に押し出されたのは美の観念だった.これもまた,避けられないことだったと思える.新しいものを作り出し,宣告する者たちの目には,美は保守的な基準であるとしか映らなかった.ガートルード・スタインいわく,芸術作品を美しいと言ったら,その作品は死んだことになる,と.「美しい」というのみでは「単に美しいだけ」のこと,そう言っているにすぎない.美はその同意語になりさがってしまったのだ.実に味気ない陳腐な賛辞になってしまった.
 だが,目を転じれば,美が抑えきれないで勢いで闊歩しているところもある(当然のことだが).悪名高き耽美主義者オスカー・ワイルドが『虚言の衰退』で「本物の教養人はけっして夕日の美しさを語らない.夕日はしごく古くさいものなのだ」と宣言したとき,夕日はいったんひるみはしたが,その後,復権した.美術(美しい芸術)もまた,今風になれという命を受けて似たような経緯をたどったが,こちらは復権を果たさなかった.芸術の基準としての美が差し止めをくらったからといって,美の信憑性が失墜したと断じるのはとんでもない話だ.そのことはむしろ,この世には芸術と呼ばれるものが存在するという信念自体が薄れてきている,その事実の証左である,と言うべきだ.


 美に歯向かう動きとして,最強にして最大の成功を収めたのは芸術においてだった.美は,そして美を重視することは,自由の制限だと目されるようになった,今様の慣用語で言えば,エリート主義的だと.何かを誉めるにしても,美しいという代わりに「面白い」という表現を使うほうが,もっとずっと開かれた態度をとっているとみなされるようになった.


 「面白い」が相当速く,真っ先に勝利を収めた芸術分野が写真だ.新しい,写真的なものの見方によって,あらゆるものがカメラの潜在的な被写体であるとみなされるようになった.美しいものの範疇には,写真に匹敵するほど広範囲の対象は含まれていなかったし,早晩,美を判断の根拠にするのは野暮のそしりを免れない事態となった,夕日の写真があったする.洗練された会話のセンスが少しでもある人なら誰でも「そう,この写真,面白いじゃない!」という表現を選ぶに違いない(「この夕日,美しいじゃない!」ではなく)


 価値基準として「面白い」を使う.それでも長くやっていると否応なく便利な言い逃れとしての切れ味が弱まってくる.かって不遜と目された「面白い」という言い回しの切っ先は錆びつき,せいぜい,行動や判断の結果を歯牙にもかけない軽蔑的な姿勢にだけ,その残滓が垣間見られる.「面白い」という発言は何を根拠としているか,その真実の裏づけなど最初から意識されていない.何か面白いというのは,美しい(良い)という判断を下す責任を回避するためにほかならない.今や面白いことというのは,領域拡大に邁進している消費主義の概念だ.面白いものが増えれば増えるほど,市場の成長が進む.「退屈」は欠落,空っぽだとされ,「面白さ」を薄めることだと考えられている.「面白ければ何でもよいという無節操で空疎な肯定.これは現実を経験する手立てとしては,すこぶる中途半端なものだ


 芸術の美と天然の美,それぞれに感応することは,相互的に依存関係にある.芸術は,自然のなかの何をいかに享受すべきか,という問題以上の訓練をしてくれるとワイルドは言う(ワイルドは詩と絵画を念頭に置いていた.今日では,自然の美の基準は,たぶん写真によって決められる).美しいものは,ありのままの自然―人間に作られたものを超えるもの―を重い出させてくれ,さらにそれによって,私たちすべてを取り巻く,脈打つものも無生命のものもいっさいを含む現実の,まったき広がりや豊かさを感受する力を刺激し,深めてくれる.
 これを洞察と言えるなら,この洞察には歓迎すべき副産物がある―美の揺るぎなさを,その存在の不可避性を再び獲得し,私たちのエネルギー,共感する心,そして感嘆する気持ちの多くの部分を納得して受け入れるのにひつような判断の基礎となってくれる.そして簒奪てきなものの考え方の滑稽さが明るみにされされる.
 「あの夕日,面白くない?」というセリフを[もし自分が言うとしたら,その場違いな感覚を]想像してみればわかる.

2009-12-02

スーザン・ソンタグ「同じ時のなかで」


 以前に,写真を撮る人には,それぞれ写真のデータベースというものがあって,何かを見たとき,そのなかの一つを呼び出し,写真を撮っているのではないかということを書いたが,スーザン・ソンタグ同じ時のなかで」の写真―小研究の中で,次のようなことを書いている.

08 写真は断片であり,一瞥である.私たちは一瞥と断片とを蓄積している.すべての人は何百という写真画像をストックし,瞬時に呼び出される状態に置いている.あらゆる写真は,記憶に残るため条件を満たそうとしている―忘れがたいものになろうとしている

トレンジャー・シティー


 先日,東京国立近代美術館に置いてあったチラシに「トレンジャー・シティー」という展覧会?があることを知りました.様子を覗いてみたいと思っています.

http://treasurecity.net/about/より


新宿は戦後日本の復興の起点となった場所でもあり、商業都市として驚異的な経済発展を支えてきました。また、鉄道の結節点として世界で最も多く人々が日々交差しています。更に、近代的な摩天楼群と、思い出横丁のような戦後の名残りを残した地域が不思議なバランスで共存している希有な街でもあります。そして、新宿は様々な表現者の活動の舞台となってきました。渡辺克巳森山大道などの写真家大島渚寺山修司唐十郎などの映画、演劇人など。彼らは、この絶えず変化し猥雑さや活力を抱き続ける新宿の魔力に取り憑かれてきました。

ところが、巨大な都市であると同時にあまりに速い変化のスピードのため、かつてこの地がどのような場所であったか、現在はどのような状況で、また将来どうなっていくか、この地域に深く関わっている者にさえ掴みきれません。様々な出来事が埋没しやすい地域だと言えます。しかし、近年の戦争体験者の高齢化に伴い、当時の記憶を伝え続けることが困難になりつつある状況や、大都市化が進んで地域共同体が継続しにくい現状を考えると、何らかの形で新宿という都市の記憶、生活する人々、更には未来像をも捉え直し記録する必要があるのではないでしょうか。

今回、様々な分野で活躍する方々が新宿の過去、現在、未来を読み解きます。分野も現代美術、メディアアート、コミュニティデザイン、教育など多岐にわたります。インタビューや共同作業を通して地域の方々とその街の未来を考える者。地下構造や影などの要素を用いて、新宿を全く違った角度から記述し直す者。この地を映画の舞台と見立てて、独自のドキュメンタリーを構成する者。関わり方や表現手法も様々です。

彼らは、新宿という大都市に様々な手段で深く分 け入り、埋没した財宝(トレジャー)を発見するかのごとく、そこで体験したことを作品化してい きます。 都市を語る方法に一つの解がないからこそ、多面的な語りが存在することに意味があります。この 新しいものが生まれる代償として消滅していくも のも多い新宿を、独自の手法で捉え直す5つの視点と手法をお楽しみください。

トレンジャー・シティー展ディレクタ― 野口靖

2009-12-01 同じ時のなかで

スーザン・ソンタグ「同じ時のなかで」

 置き石のため,湘南ラインが遅れ,時間潰しに本屋に入る.
 先日,買ったPHOTO GRAPHICA (フォト・グラフィカ) 2010年 01月号 [雑誌]の中で2009年の写真集と写真評論という書評欄で竹内真理子さんが取り上げていた.

同じ時のなかで

同じ時のなかで

を買う.
 竹内さんは

 ソンタグの言い分すべてが正しいわけではない.ある意味ではきわめて「アメリカ的」な議論の展開であり,それゆえ批判的に検証されるべき点もある.しかし彼女は,だれよりも大胆に知性と行動の両立を生き抜いた稀有な人物であることにまちがいない.広範な知識と視野の中で写真を考える意味をあらためて教えてくれる一冊.

とその文章を結んでいる.
 その中の写真に関する言葉を断片的に並べた「写真―小研究」という覚書がある. 

 スーザン・ソンタグ他者の苦痛へのまなざしの中で触れていたセバスチャン・サルガドの写真を思い起こされる覚書がある.

10 知ることは,まず第一に,認めることだ.認知という知識の形態は,今では芸術と同定されている.世界においてほとんどの人々に襲いかかっている恐ろしく残虐な事柄や正義にもとる写真は,私たち―特権的で,相対的に安全な立場にいる私たち―に,心を動かせ,と言っているようだ.その一方で,また別種の注目を喚起しているように見える写真もある.こうした現在進行形ともいうべき作品群にとっては,写真は社会的ないし道義的な覚醒を呼びかけ,感じること,行動することを促すためのものではない.認知の手段にすぎない.見て,気づいて,認知する.見ることのうちでも,その方が洒落ている.これが,今,芸術として固定されているものの見方なのだ.


11 しごく真剣に社会的関与をしている写真家の作品でも,芸術的過ぎるとみなされた場合には,非難されることが多い.また,芸術として了解されている写真でも,これと同様の非難に遭うことがある.―憂慮する気持ちがかき消される,という非難.写真は,嘆かわしい出来事,状況,紛争を見せつけておきながら,見る者には超然とした姿勢を保てと言っているようだ,と.本当に恐ろしいことを見せつけ,私たちがどこまで見ることに耐えられるか,受容しうるかの試金石となる写真もあろう,あるいは,しばしばあることだが―もっとも優れた現代写真の多くがこれにあてはまる―陳腐なことを見つめる.ただそれだけを促す写真もある.陳腐なものを見つめ,堪能する.高尚な展覧会や書籍でよく目にする手法は写真の超現実的な並置だが,それによって了解され,高度に常習化された反語的アプローチがこの背景をなしている.

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