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2010-01-31 紅い花

4x5現像

 立石の仕事場で、現像。こないまで作っていた、現像用の塩ビパイプのテストをしようとしたが、外側の管と内側の管があまりにも近くて(3mm)では、フィルムの乳剤面が内側の管に触れるようで、急遽、前に作った、普通の塩ビ管で現像。
 XTOL1:3で現像して、現像液を節約。320TXP(TRI−Xのsheet film)を20℃で12分45秒で現像、いい調子だ。事故もなく14枚無事現像。今回製作した、管は最後2枚現像するとき、現像液を節約するために使用。まぁ役に立ってよかった。
 もしかしたら、現像できるかもしれないが、液を25%しか節約できないし、問題は続けて使うとき、隙間が狭いので乾燥二時間がかかること、フィルムを取り出すのが難しいなど、欠点が多すぎました。

2010-01-30 北井一夫展、土偶展

国立博物館 「土偶展」

f:id:heliograph:20100130164346j:image
中野から上野に移動。国立博物館の「土偶展」を見る。
土偶ってなんであるかは、知らなかった。土偶とは、
 http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=A01&processId=02&event_id=6908によると

  土偶とは、人形(ひとがた)をした土製の焼き物です。ヨーロッパ西アジアの新石器時代(前8300〜前5000)では、土偶は農耕と密接な関係をもち、生産や豊穣を祈る地母神崇拝の像として発達してきました。
 日本の土偶は、縄文時代の草創期(約13,000年前)に出現し、縄文時代の中期(前3000〜前2000)から晩期(前1000〜前400)に最も発達して、個性豊かな土偶が数多く作られました。狩猟採集経済にあった縄文時代の土偶には、ヨーロッパ西アジアの土偶の性格をあてはめることはできません。
 では、日本の土偶はなんのために作られ、どんなふうに使われていたのでしょうか。縄文土偶の解釈にはいろいろな説があります。
 乳房や腰の張った造形には、母体から生まれでる新たな生命の神秘に根ざす再生と生産や、安産祈願の意味を読み取ることができるでしょう。豊かなる獲物の全体的象徴とする説もあります。
 また、ほとんどの土偶が破壊された状態で発掘されることから、病気や怪我を治すための身代わりだったという説もあります。

 だそうで、いくつかの土偶は本当に見事な造形作品で、風格というか、すぐれた芸術作品だけにある、あのピーンと張り詰め雰囲気を回りに漂わせていました。
 土偶展だけでなく2Fの常設展も少しみました。その中で谷文晁(1763〜1840)の描いた『公余探勝図鑑 2巻のうち 巻下 』という巻物で何と昔の久野谷村(現在の逗子市久木)の絵を発見。自分の家のすぐ近くの山の上から描いたのではないかなどと想像したり、かなり興奮しました。

北井一夫展

 中野の冬青社北井一夫写真展「Walking with Leica 2」を見に行く。
 W「Walking with Leica 2」っていうタイトルだが、すべて室内で撮った静物写真といっても、林檎、林檎をむいた皮と芯、皮をむかれた林檎という感じ、柚子を3個かさねたり、紙をくしゃくしゃにして球状にしたものを並べてたりして撮っている。実にやわらかい調子のプリントが並んでいた。
 かって、成田空港の反対運動を撮った『三里塚』の作者がこんな写真をと思う人がいるのか、冬青社にわざわざ電話をけけて文句を言う人もいるようだ。
冬青社ホームページより

  『ライカで散歩』は、住んでいる家の近所を散歩することから始めたのだが、この頃は、外へ出ずに家の中だけで写真にならないかと考えるようになった。はじめは、脱ぎすてた「衣服」にまだ自分が残っているような気がしてそれを撮った。次に朝起きて抜け出したばかりの布団の「枕もと」を、そして何気なく窓のカーテンレールにぶら下がる「ハンガー」を、洗ってから食べるまでの「リンゴ」などを撮ると、面白くなって、次々にイメージが出るようになり、ついには妄想に突き動かされて、作り事のようなかといって自然のままのような、自分でもよく分からないままに「ユズが3個」と「紙屑が3個」へと発展してしまった。

 日本カメラの連載担当編集長がこの写真を見てついに「引き籠りになってしまったみたいですね」とつぶやいた。そうか、引き蘢りとは楽しいものなのかと、私は口に出さずに心で思った。

北井一夫

冬青社の高橋国博さんの『高橋国博のブログ「目」』でその悪評・酷評を受けている様子を次のように書いている。
http://tosei-sha.jugem.jp/?eid=500より

北井一夫写真展「Walking with Leica2」が悪評・酷評を戴いている。
わざわざ電話まで戴く。
なぜ「一個・二個・三個」が北井一夫、或は北井一夫先生の作品なのか。
ギャラー冬青として何を考えているのか。
酷い方はギャラリーとして恥ずかしくないのか。
北井一夫は写真の事をどう思っているのか。とか。

圧倒的に賛同より、悪評・酷評の方か゜多いい。
その割合は七対三ぐらいだと思う。
恐らく、お聞きはしていないが「日本カメラ誌」さんへも同等の声が届いているのではと思う。

ギャラリー冬青としてギャラリスト高橋国博として、言わせて戴く。
北井一夫だから許される。
北井一夫だからこの作品は成立している。成立する。
北井一夫のback grandの上に、この展示作品は表現されているのだ。
近年に無い傑作の作品群である。

写真には主題の力なくして、表現は成立しない。
主題の力が強ければ強い程、主体である写し手は、強固なる意志、思想性、哲学が要求される。
又、主題の力が弱ければ弱いほど、上記の事は言うまでも無く、優しさや丁寧さや時間や皮膚感覚や写し手の、生き様までもが要求される。

北井一夫は私が知りえる写真家の仲でも、数少ない思想、哲学を持ちえている作家の一人である。
北井一夫ほど、アート全体を勉強した写真作家も私は知らない。
彼ほど潔き写真家は類まれである。

余談ではあるが、写真家北井一夫コレクターでもあり、特に近年、若い写真家の作品を求められている。

私は断言する。北井一夫の近年、最も優れた作品群の一つである。
新たな旅たちであり、新たな北井一夫Worldの始まりである。

2010-01-29

FUJIもKODAKも

 銀塩関連の製品をメイカーがどんどん整理していいているようです。でも、今回のは、販売の見直し、パック売りだけにしぼったり、現像液も少量のものをなくして利益を確保(赤字を少なくか)し、存続させようと努力しているのでしょうけど、とにかく銀塩の世界はますます厳しくなりそうです。

ナショナル・フォートのホームページより
http://www.nationalphoto.co.jp/1F/051213_discon.htm

富士フイルムプロフェッショナル製品一部製造販売終了のお知らせ 2010.1.28


 【モノクロフィルム】
 ネオパンアクロス100 135-24*、120**、プレスト400 120、スーパープレスト1600 135-24*、アクロス100 11×14(特注品)
 *135-36は継続。**5ロールパックを新発売予定。

プロフェッショナルカラーネガフィルム】
 プロ400 120*、プロ160NS 120(1/20本)*、プロ160 NC 120、プロ160 4×5(50シート)**、リアラACE 120*
 *5本入りは継続。**10シート入りは継続。その他プロ400 135フィルムの複数本入りラインナップを縮小。

プロフェッショナルリバーサルフィルム】
ベルビア50 120(1/20本)*、ベルビア100F 120(1/20本)*、ベルビア100 120(1/20本)*、
プロビア100F 120(1/20本)*、アスティア100F 120(1/20本)*、プロビア400X 120(1/20本)*、
T64 4×5、4×5 QL、8×10
 *5本入りは継続。その他リバーサル135-36フィルムの複数本入りラインナップを縮小。


【アマチュアカラーネガ】
 135フィルムの一部で、12枚撮り/24枚撮りを終了。また、複数本入りラインナップを縮小。

 製造販売終了時期:2010年3月ごろ(製品により異なりますので、お問い合わせください)。


コダックモノクロ・カラー暗室用品一部製造販売終了のお知らせ 2010.1.27


 マイクロドールXデベロッパー(1L)、リプレニッシャーD76R(1gal)*、デベロッパーDK50(1gal)*、
セレクトールソフトデベロッパー(1gal)、リキッドハードナー(1gal)*、セピアトナー(1qt)*、ブラウントナー(1oz)*、
 T-MAX 100 Direct Positive FIlm Developing Outfit(1qt)*、ハイポクリアニングエージェント(1.25gal)

 RAスープラエンデュラ F面小全紙(50)、 F面全紙(50)*、 N面大全紙(50)*

 *印は、スペシャルオーダー品の製造販売終了。

 製造販売終了時期:2010年2月ごろ(製品により異なりますので、お問い合わせください)。

[読書][引用]内藤礼<母型> 続き

昨日に続いて、
内藤礼〈母型〉 (神戸芸術工科大学レクチャーブックス)より

内藤 中略
私がいくら無意識に作品をつくりだしたといっても、ぜったいその時期だから出てきた作品ということであると思うんですよ。ありうるものとして出してるんですよ。それは、私が10年早く生まれていれば、同じ作品をつくってなかったと思うんですよ。いくら美術に興味がなくて、勉強していなくても、いろいろなかたちで価値観とか存在しうるものというものは浸透しているから、社会や時代と人間は無縁に生きてなくて。自分がたまたま今の時期に生まれて、いろいろなものを与えられて、影響を受けた関係の中に自分がいるということは、どんどん強く思うようになりましたね。作家ってなりはじめのときは、最近はあまりいわれなくなったけど、アイデンティティという言葉がありますが(笑)、<私>はいるのか、<私>に何ができるのかという、独自のものをさがすことから最初スタートして、誰しもそれはあると思うんですが、そういう時期を過ぎると、<私>そのものになにかあるわけでなくて、拾いあげ方というか気づき方……。
中村 そこですね。重要なのは。今日は内藤礼という作家をできるだけ「神秘化」しないように、できるだけ作品をつくる現場の話から離れないようにしてきたつもりですけれども、今の話でそこらへんが一挙に明るくなってきたような気がしますね。いま内藤さんががいったように世界がある状態というのは、誰もがそれぞれ経験しているはずです。それがあるところへいって意識化されるというか、ふつう日常のなかで高速なスピードで通りすぎて認識しているものが、内藤さんの、なにか助けで――内藤さんのことばでいと「気づき」ということになりますか――、時間が微分化されて自分の経験になってくるということがたぶん起こっているんだろうと思います。それはそうだとして、内藤さんが、これが作品になるのかとドキドキしたということは、やっぱり見るほうも考えていること、感じているこtですね。そしてそれは同時にあってもいいことだと思うんだけど。
内藤 それを感じることがたぶん重要なことだと思って出しているんです。そういうところになにかがあるという、そのことじたいをみせるほうが気づいてもらえるというのは……。つくりこんだものが作品だというふうにまず思うわけじゃないですか。人間の行為だと思うわけじゃないですか。でも私自身は……。
中村 今では、つくりこんだものが作品だという思い込みは、以前ほど強くあるわけではないでしょうね。最初にいった、インスタレーションの出てくる根っこにあった古典的な作品のあり方に対する批判のうしろには、たしかにそういう単純な対立があった。だからこそダダイズム以来のレディメイドやポップアートのある種の作品は、私たちが日常見ていると思いこんでいるものに対する視線を新しいものにしてしまったわけだし、そればかりかそういう日常の考え方、ものの感じ方そのものを根本から再考させる糸口になったわけです。でも、それにもかかわらず、現在でも作品を見る側は、作品行為のある種の具体性、具象性というものにすがりつきたい、それでも安心したいということがあるのは変わらないでしょうね。

 先日の、神奈川県立近代美術館鎌倉での「すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」の図録の写真は畠山直哉さんが撮ったのだが、それを見たとき、自分が作品を見て感じていることがそんなに間違ってないんだなって感じた。畠山さんが内藤さんの作品を見て「気づいた」ことが写真だと明確になっている。写真を撮るきっかけって結局「気づき」ではないのだろうか?

2010-01-28 人間がほんとうに新しいものをつくることはありえない

内藤礼<母型>

 展覧会の時、買った

内藤礼〈母型〉 (神戸芸術工科大学レクチャーブックス)

内藤礼〈母型〉 (神戸芸術工科大学レクチャーブックス)

を読んでみる。この本は神戸芸術工科大学で行われた特別講義の記録で、内藤礼詩人中村鐡太郎がインタビューするというかたちで行われている。

 たとえば、富山の水滴が落ちる作品にしても、水滴なんて雨上がりにはどこでも落ちてますよね。水たまりもどこにでもあります。ただ、それを立ち止まって見るかどうか。初めて出会うようにみるかどうかであって。佐久島の庭に細いたこ糸を張って、小さな洗濯バサミで洗濯物を干すように貝紫染めのリボンをつるして。風で、ほんとうにもう自由自在にリボンが揺れるわけです。そこに貝紫染めという、貝による染色をしたということでひとつ作品としての意味は加わってはいますが、ただ、ものが風でゆれるということの、わからない美しさ。美しさのわからさなさとうのかな。美しい、美的な問題だけじゃなくて、時間が過ぎているという、そういうどうしようもない気持ち。ものが動いて変化する、次にどちらへ動くかわからない。今度の横トリの作品もそうですけど。時間が過ぎていく。今この美しい瞬間が次の瞬間にはなくなる、またあらわれる、なくなる。二度と同じ瞬間はないというような。そういうものがほんとうは日常的にまわりに無数にあって。アートのなかに私がみつけているものはそういうものなんだ、ということを強く思うようになってきたんだと思うんですよ。きんざのなかで、よこを歩く人の足もとが見えたほうがいいというのを感じるのも、同じところからきていると思うんですけど。
水路で、息を吹いたら水が波になるという(≪タマ/アニマ(わたしに息を吹きかけてください)≫)、当たり前のことしか最近やってなくて(笑)。作品といてはある意味ラディカルに。これはいわゆる作品であるのか、誰がつくったといえるか、というようなものにどんどんなってきていて。それはそうですよね。私は、そういう差し出したいものを見つけたという、断片を差し出そうとしているわけだから、それは当然そうなってくるわけですね。
ほんとうは、作品をつくるということじゃなくて、そこらにあるものを気づくのは人の心のほうだという……。気づくというのは、それを希求してるかどうかですけど。あらかじめ信じているというか、心のあり方のほうを、私は自分に対しても問いかけているのかもしれない。常に初めて出会うように。だって、私自身が初めて出会うように水滴を見ることができなかったら、作品として外に出すことはありえないですよね。どこにでもあるような現象を。でも私はドキドキしましたよ、こんなあたりまえのことを(笑)。でも、これは当たり前だけれども、取り出す必要がある。どこにあって、みんな限りなく、生きているあいだにくり返しみていることだけれども、作品として取り出すことに意味がある、取り出すべきものがそこにある、ということを示すことになるから。そういう気持ちなんでしょうね。
貝紫染めの染色を佐久島で出会って始めたのもそうですが、あれは古代から世界中いろいろな目的で染色されてきている。いろんな人がくり返しやってきたことを拾うほうが意味がある、と私は思っていますね。人間がほんとうに新しいものをつくることはありえないから。ないから、それは。それは――拾えたんですよ、新しいものじゃない

2010-01-27 作ることと見せること

田中功起 質問する

 まえから考えていた。「展覧会楽しみにしていますよ。」とか「早く展覧会やりなさい。」ってよく言われるが、いつも思うのが、展覧会という形式への疑問がある。
 この往復書簡が面白い。
 田中功起->成相肇 件名:行為と作品と展覧会の関係
 http://www.art-it.asia/u/admin_columns/Oo34Wt6cHiqLpUMVJAgF/
 成相肇->田中功起 件名:作ることと見ること
 http://www.art-it.asia/u/admin_columns/6d1MUNYvsKzeSZyFC9r2/?mail030

カメラ毎日の時代

 高校時代から(1968年)から昭和60年まで買い続けていたカメラ毎日の紹介した写真を中心とする写真展が川崎市市民ミュージアムで開かれている。
http://www.kawasaki-museum.jp/display/exhibition/exhibition_de.php?id=109より

■「カメラ毎日」の時代 ‐平成21年度寄贈資料を中心に‐
2010年1月21日(木)〜4月11日(日)
会場:アートギャラリー1
料金:無料
 カメラ毎日は、昭和29(1954)年6月号から昭和60(1985)年4月号まで31年間、379号続いた毎日新聞社が刊行した写真雑誌です。月例コンテストやカメラの性能に記事の重点を置く写真雑誌が多い中、カメラ毎日は若手写真家の新しい表現の紹介に重点を置きました。今回の展示では、今年度当館に寄贈されたカメラ毎日と、当館収蔵の森山大道荒木経惟須田一政田村彰英、土田ヒロミなどのカメラ毎日が育てた作家達の作品をご覧いただきます。また、カメラ毎日が積極的に紹介した海外作家の中からダイアン・アーバス、リー・フリードランダー、ラルティーグの作品もあわせて展示します。

2010-01-26

東京都写真美術館「躍動するイメージ。 石田尚志とアブストラクト・アニメーションの源流」

 東京都写真美術館へ「躍動するイメージ。 石田尚志とアブストラクト・アニメーションの源流」を見に行く。一月二日に「木村伊兵衛アンリ・カルティエ=ブレッソン東洋と西洋のまなざし」と「日本の新進作家展vol.8『出発-6人のアーティストによる旅』」は見たのだが、地下のこの展示は時間切れでよく見ていなかった。
 石田さんの≪フーガの技法≫が面白かった。16ミリで上映されていた作品は、バッハフーガの技法チェンバロの演奏と共に抽象的なアニメーションが展開する。言葉ではなんとも表現できないのだが、カタログの中の岡村恵子さんの文章を引用しておく

今回16ミリフィルムでのループ上映を試みる≪フーガの技法≫は、石田作品のなかでは若干異質な「アプローチが入っている作品である。通常事前にストリーボードやコンテを起こさずに即興的に描き進める石田が≪フーガの技法≫では、J.S.バッハの同題曲の旋律とフーガ形式の構造を、映像に変換しているからである。エンドクレジットの後に示されるスキームに、楽曲それぞれの旋律に対応した基本の、モチーフが表示されているとおり、原則としてスコアを追いながら、イメージと旋律の同期をはかる、複数の旋律が錯綜するときには、画面を分割したり、複数の映像を透過光の上で重ね合わせたりして撮影しているとはいえ、スコアをそのまま図案化しているわけでも、ハンス・リヒターばりにストイックに幾何学的抽象モティーフを用いて、忠実に映像に変換しているのでもなく、「ムニュムニュ」をふくむ有機的なモティーフが終盤にむけて順次介入してくるのは、決して石田の欲求がフーガの構造の図式化にとどまるのではなく、むしろ映像による再演奏あるいは共演だからではないか。画面を分割したり、一掃したりを繰り返し、畳みこむように盛り上がりを見せる展開には、遠近法的空間やスクリーンの矩形という呪縛から必死の遁走の末にも、しっかりと作品をとらえて逃さないフレームの悪魔的な存在感と、その悪魔に弄ばれる画家のある種の快楽とが見え隠れする。


石田さんのホームページにもいくつかフーガの技法に関する文章が載っている。

「映画と絵巻の関係」、「多視的な表現」等、先週みたオサム・ジェムス・中川の「BANTA」との関連も見えてきた。

2010-01-25

大村益三さんのtwitterより

http://twitter.com/omurajより

「紙の写真」を主な対象とする「芸術」としての「写真」もまた、写真全体の副産物、乃至はオプションの位置に移行する。それは写真をリードはしない。リードする事があったとしても、それは蓋然的なものに留まる。「写真芸術」から物神性を抜いた後には一体何が残るのか。
12:09 PM Jan 24th from web


これからの「紙の本」は、デジタルデータの副産物、乃至はオプションの位置に移行するだろう。「紙の写真」がそうなった様に。
12:05 PM Jan 24th from web



kindle DX が日本でも、買えるようになったようです。
http://www.amazon.com/dp/B0015TG12Q

フィルムがなくなるって! 大騒ぎ

 知らなかったから、良かったのかもしれないが、一時、富士フィルムが主なフィルムを販売しなくなるのではないかと、大騒ぎになっていたようです。
 結局、1本で販売しなくなり、3本とか5本パックでの販売となるようです。
 ことの発端は、ナショナルフォトが誤った情報を載せたことからのようだ。
 詳しくは、
http://haniwa.asablo.jp/blog/2010/01/21/4827416 
http://arata.tv/camera/2010/01/post-526.html
で見てください。
 銀塩がいつまで残るのかって、多くの人が心配しているのでしょう。最初の情報でまとめ買いしちゃった人いるんだろうな。
 フィルムを使わなきゃ。フィルム現像のテスト用にACROSでも買ってみよう。

 

2010-01-24 展覧会へ

現像用パイプ


 塩ビのパイプで製作中の、4x5の現像用のパイプほぼ完成。実際に作り出すと、フィルムを取り出すために、パイプの端の一部を凹ましたらり、内側のパイプの両端を塞がなければならなくなったりして、材料や道具を買ったりしてかなりの出費となった。
 接着剤が完全に安定した、来週の土日にテスト現像するつもりだが、果たしてうまくいくのだろうか?
 うまくいったら、写真で構造を公開します。

山口聡一郎「East Point ―岡山東部風景―」


 新宿蒼穹舎へ山口聡一郎「East Point -岡山東部風景」展を見にいく。
http://www.sokyusha.com/gallery/20100108_yamaguchi.htmlより

撮影場所は、吉井川を中心に形成された、小さな山々の穏やかな谷に広がるわずかばかりの田畑のある美しい集落や、 以前は河口の入口の入り江や湿地帯であったであろう、干拓された田園地帯の素朴な営みの風景。


 白黒で細長いフォーマットだったので、6x12よる銀塩写真だと思ったのだが、デジタルで撮影し上下を切った写真ということだった。このフォーマットだと、画面の奥に延びている道などがある方が、単に奥行きのない山並み等を撮ったものより面白いと思った。展示するほうとしても、同じパターンばかりでは単調になるので、いろいろなパターンを展示しているのだろうから偉そうなことはいえない。

YATSUTAKA KOJIMA 「NEW YORK トウキョウ2009」


 蒼穹舎を出てPLACE M へ。YATSUTAKA KOJIMA 「NEW YORK トウキョウ2009」展を見にいく。

 http://www.placem.com/schedule/2010/20100118/100118.html
 
 タイトルには本当はNew York と東京の間に → ← が上下に入るのだが、入力できなかった。
 コンピュータがこれだけ普及すると、タイトルを考えるとき、その記号の文字コードがあるかどうか考えないといけないのかもしれない。
 多分4x5で撮ったNew York(白黒)と東京(カラー)の写真。自分でまだ、他人の写真をどうのこうのというほど4x5で写真を撮っていないので、どうのこうのいう資格はないのだが、ただ、白黒写真のプリントが、特に空暗めで、コントラストがもう少し欲しいと思った。空の調子を雲などが出てこないように一様にグレーにしたかったのかもしれない。

2010-01-23 崖 BANTA

オサム・ジェームス・中川展「BANTA:沁みついた記憶」へ

銀座Nikon Salonへオサム・ジェームス・中川展「BANTA:沁みついた記憶」を見に行く。
http://www.nikon-image.com/jpn/activity/salon/exhibition/2010/01_ginza.htmより

<写真展内容>
沖縄では、海面まで数十メートルにおよぶ壮大な断崖のことを「バンタ」と言う。
作者は、初めてこれらの断崖の上に立った時からずっと、あの鮮烈な思いを忘れることができない。目の前に広がる果てしない海と空の青と、畏怖を感じさせる絶壁。歴史に増幅された美の記憶である。
絶壁を下まで降りて断崖を見上げた時、その奥底に潜む何か強いものに襲われた。得体の知れぬ力強さに圧倒された作者は、しばらくシャッターを押すことができず、その場に立ち尽くした。
表面に滲み出た陰影、えぐり取られ、石灰岩がむき出しになった白い岩肌と、黒く焼け焦げた洞窟。それらは、崖が目撃してきたもの全てを赤裸々に物語っている。
6カ月間にわたる探索と撮影の後、作者は撮りためた数千枚におよぶ画像フィルムを繋ぎ合わせるためにスタジオに戻った。デジタル画像を再び加工するなかで、崖は沖縄の歴史のメタファーとなり、あの美と畏れの狭間に立った作者の体験は、ハイパーリアルな写真を創り出した。
本展「BANTA」シリーズの個展は、昨年6月、日本国内で初めて沖縄佐喜眞美術館にて発表され、作品(ピグメントインクジェット出力)は、昨年度ニューヨークメトロポリタン美術館ヒューストン美術館、カンサスシティー・ネルソン・アトキンズ美術館に収蔵された。カラー21点。

<作者のプロフィール>
オサム・ジェームス・中川(オサム ジェームス ナカガワ
1962年ニューヨーク生まれ。生後7カ月で両親とともに日本に帰国し、15歳まで東京で育つ。その後テキサス州ヒューストンに移住し、高校、大学を卒業後、ヒューストン大学芸術学部にて修士号を取得。現在はアメリカインディアナ大学芸術学部写真学科長、准教授として教鞭を執っている。現在、ニューヨーク・グッゲンハイム財団からのフェローシップを受けて沖縄に滞在し、さらなる制作活動を行っている。
主な写真展(個展)は、セピア・ギャラリーニューヨーク)、マックマートレイ・ギャラリーヒューストン)、ヒューストン写真センターなどで行われ、出展された主なグループ展(会場含む)は、ノールデリッヒ・フォトフェスティバル(オランダ)、国際フォトターゲ(ドイツ)、コーコラン美術館(ワシントン D.C.)、クエンカ・ビエンナーレエクアドル)、東京都写真美術館などがある。
また、作品はジョージ・イーストマン・ハウス、ヒューストン美術館、クライスラー美術館、東京都写真美術館シカゴ現代写真美術館、沖縄佐喜眞美術館などに永久収蔵されている。


 今月号の日本カメラを立ち読みしたとき、単なるパノラマ写真だと思っていたのだが、この写真は複数の写真を繋いで作った写真であった。とうてい、その場に立っていては肉眼では同時には捉えられない世界が表現されている。
 写真の大きさがある程度ないと作者の狙いが分からなくなるということを改めて思った。


 崖の上から、足元を見たときの景色から、水平に見たときの海面までが一緒に一枚の写真となっているのだ。(http://osamujamesnakagawa.com/?images=banta&i=3)

 逆に、崖のしたで水平に見たときの景色と上を見上げた景色が一緒に繋がっていたりする。(http://osamujamesnakagawa.com/?images=banta&i=6

 世界が湾曲して見え、不思議な感じがする。

 会場で購入した、写真集BANTA(双美堂 sobido press ))でヨシ比嘉さんは次のような文書をよせている。

一点透視図法でなりたつカメラを中川は巧みに使いながら東洋の複数視点の思想を貫いた。私はその不思議な効果をバンタシリーズで気付き新鮮な思いをした。作品の底辺と眼の高さを平行にして作品を見上げると谷底の海面に落ち込んだような距離に孤独感を体験し、作品の上部と平行に目線をおくと崖の上から100メートル近い海を見下ろす恐怖感で足がすくむ。こうして画面と平行に視点を変えると透視法による錯覚が生じる。


 もちろん、ここは、沖縄戦のときに米軍に追い込まれ、たくさんの人が崖の上から身を投げ出した所である。
 中川さん自身丸木位里・俊の描いた「沖縄戦の図」に刺激を受けられているようだが、BANTAに続いて、GAMAの写真を撮り出したいうことだが、戦争とこの写真について語ることは私にはうまくできそうもないので、このことについては、写真評論家の竹内万里子さんが同じくこの写真集に載せた「他者の痛みへ向かって」という文章の最後を引用しておく。

写真を通して他者の痛みを引き受けようとする前に、まずは目の前にあるこの光景を、他者でなく自分自身のものとして見つめ、受け入れようと試みること。もし他者の痛みを引き受ける可能性が、まだかろうじて私たちに残されているのだとしたら、すべてはそこから始まるのではなかったか。中川氏が素朴な記録性への信奉に身をゆだねることなく、写真の緻密な描写性を追及しながらもそれを自律した地点まで大胆に突詰めようとしているのは、そのためであるように私には思われてならない。その作品は、いま写真が倫理的に何をなし得るのかという問いに対する、ひとつの回答であるだろう。

2010-01-21

+81 鈴木理策インタビュー

 この間買った。+81 Vol.46: Photographer issue 4ではNINE PHOTOGRAOHERSと題して、9人の写真家を特集ているが、鈴木理策さんも取り上げられている。写真だけでなくインタビューも掲載されていて、去年、受講した鈴木理策さんのワークショップでの発言をまとめようとして、苦労したことがあったが、(http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20090322)そのことに関連する発言があったのでここに引用しておきます。

 +81 :鈴木さんの作品からは客観性と同時に独自の観点のようなものを感じますが、特別な意識はありますか?
 RS :それは撮り方のせいかもしれません。大きなカメラを構えてファインダーを覗くと、対象が動かない風景であっても、絵柄として整えようとするし、シャッターチャンスを狙うのが当然です。けれど、そうして撮ると自分の意図を写真を見る人に見透かされてしまうので、そうした撮り方はしません。自分がその場にいたことだけがテーマとしてあって、そこでの撮り方や構図、シャッターを押すタイミングなどは自分の外に任せたい、自分の外という表現は分かりづらいですが、例えば、カメラを構えたままじっとしていて、遠くで鳥が囀いたり、風で木々が音をたてたり、外因的なきっかけでシャッターを押す。つまり、僕が見た風景を写真にするのではなく、僕がいた場所をカメラに任せて撮ってもらう感じです。すると「僕はこう撮りました」という領域から外れることができる。写真の中で「こう見て下さい」と語ってしまうと、見る側はその通りにしか受け取らず、自分もそこに縛られてしまうから、僕は、写真の”ただ写ってしまう”という点が面白いと思う。それから作品を見た時に感じる生々しさというものも写真の大きな魅力だと思うので、見る側にそれを経験させたいです。

2010-01-20 もう限界

「SELF AND OTHERS」DVD発売

佐藤真監督の「SELF AND OTHERS」がDVDで発売されました。以前はビデオテープで販売されていたのですが、迷っているうちに見かけなくなってしまったので、今度こそ買おうと思います。

SELF AND OTHERS [DVD]

SELF AND OTHERS [DVD]

Twitter Down

携帯で、twitterを見ようとしても、こんな感じだった。
f:id:heliograph:20100120213204j:image
この画面、おかしくて、思わずデジカメで撮ってしまいました。
ニュース(http://mainichi.jp/enta/music/news/20100120mog00m200066000c.html)によると。


広瀬香美:“史上初”のツイッター会見開始遅れる ツイッターがダウン

 歌手の広瀬香美さんが20日、ウェブサービス「Twitter(ツイッター)」ユーザーを「記者」にした“史上初”の会見を都内で開こうとしたところ、開始予定の午後9時の約20分前からツイッターがダウン。広瀬さんのブログでのネット中継のみとなり、午後9時25分ごろから会見が始まった。

 広瀬さんは「わたしのせいでツイッターが落ちちゃった」と興奮気味。ツイッターに続いて広瀬さんのブログもダウンした。
広瀬香美:“史上初”のツイッター会見開始遅れる ツイッターがダウン

 歌手の広瀬香美さんが20日、ウェブサービス「Twitter(ツイッター)」ユーザーを「記者」にした“史上初”の会見を都内で開こうとしたところ、開始予定の午後9時の約20分前からツイッターがダウン。広瀬さんのブログでのネット中継のみとなり、午後9時25分ごろから会見が始まった。

 広瀬さんは「わたしのせいでツイッターが落ちちゃった」と興奮気味。ツイッターに続いて広瀬さんのブログもダウンした。

2010-01-19

内原恭彦作品集「それから」

http://d.hatena.ne.jp/uzi/20100107#p1より。

2005年末に発表したデータ作品集SOB completeに続く、データ作品集「それから」を販売します。2005年末に発表したデータ作品集SOB completeに続く、データ作品集「それから」を販売します。

自分DVDRに焼いて、作品集を売る。これも、写真作品を発表する方法の一つなのかもしれない。

DESIREE DOLRON

昨日、紹介しました。 DESIREE DOLRON の写真Xteriors IX(http://www.gabrielrolt.com/imagePopup.aspx?pos=8&img=10)に、ちゃんと、Kodak Endura Print と書いてありました。じゃ、これは銀塩写真家と思いましたが、この紙はデジタルの出力にも対応しているので、どちらか分かりません。

2010-01-18 レビューのレビュー

ヨコハマ国際映像祭のレビュー記事

artscape といサイトで、ヨコハマ国際映像祭のディレクター住友文彦さんが、学芸員レポートして、「ヨコハマ国際映像祭のレビュー記事」という文章を書いている。
http://artscape.jp/report/curator/1211633_1634.htmlより

ヨコハマ国際映像祭の仕事で、前回の寄稿以降はほとんど展覧会を見に行っていない。そのため展覧会レビューを書くことはできないのだが、むしろ他の人が書いた展覧会レビューは丁寧に見たので、レビューのレビューのようなことを試みることにした。すでに発表されているものと未発表だが原稿が事前に届いているものから、それなりの数の人の目に触れると思われる紙媒体でまとまった分量のものを対象に書いてみる。

と始まる。レビューって「批評」って意味でしょ。
 自分の仕事の批評した文章を自身で批評したのを発表するってことになるわけで、何か自分の意に沿わないことを書かれたとき、反論するの別にいいのだけど・・・、何か変な感じがするのは私がおかしいのだろうか?

+81

 本屋に寄り、

+81 Vol.46: Photographer issue 4

+81 Vol.46: Photographer issue 4

を買ってしまう。DESIREE DOLRON という人の写真家の写真が気になったのだ。
おそらく、デジタルで処理したであると思われる。フェルメールをおもわせるような、ポートレイトもすごいが、2本の樹を撮った写真に思わず惹かれた。
http://www.desireedolron.com/
で見てください、WORKのxteriorsの最期(11枚のうちの11枚目)の写真です。

http://www.gabrielrolt.com/imagePopup.aspx?pos=8&img=10の方が見やすいと思います。
 

2010-01-17 ポートフォリオレビュー

横浜フォトフェスティバル

午後から、横浜赤レンガで開かれている、横浜フォトフェスティバルに出かける。
ポートフォリオレビュー」で、まず、高橋 昇さんが、去年開いたPGIでの写真展「底流」http://www.pgi.ac/content/view/239/63/lang,ja/の写真を持って来ていたので、それを久みて、会場をうろうろ、長嶋一憲(http://web.mac,com/cbm853)さんのThe Extraction of 5 Streets in Tokyoに惹かれて、長嶋さんに話を伺った。後は、もっぱら次の部屋の「ポートフォリオレビューの仲間達」という、

2009年、レビューサンタフェ、アルルフォトフォリオレビューで写真家永田陽一が出会ったステキな世界の写真家達を紹介するスライドショー。

を見ることにした。
以下に、そこで気になった写真家ホームページを書き出しておきます。
Catherine Cameron http://catherinecameron.com/ Catherine Cameron
Ferit Kuyas http://feritkuyas.com/
Oyvind Hjelmen http://www.oyvindhjelmen.com/
Celine Wu http://celinewu.com/index.html
Elizabeth Fleming http://www.elizabethfleming.com/
Janelle Lynch http://www.janellelynch.net/
Kaycie Roberts http://kaycieroberts.com/home.html
Graham Miller http://www.grahammiller.com.au/#
Ari Salomon http://www.helloari.com/
Angela Bacon-Kidwell http://www.angelabaconkidwell.com/
Aline SmithsonAline Smithson http://www.alinesmithson.com/
Kurt Tong http://www.kurttong.co.uk/
Georg Kuettinger http://www.georgkuettinger.de/
Susan Burnstine http://www.susanburnstine.com/portfolios.htm
Jonathan Blaustein http://www.jblau.com/
Billie Mandle http://billiemandle.com/
Mark Menjivar http://www.markmenjivar.com/
Sonja Thomsen http://www.sonjathomsen.com/

2010-01-16 4x5現像

4x5の現像法方法を考え直すため,塩ビパイプを2本組み合わせて,現像液につけるパイプを制作.このために,今日の午後は,東急ハンズや世界堂を移動しながら何を使って隙間をつくるかとか,内側のパイプの穴をどうやって塞ぐかを色々考えましたが,外側と内側のパイプの間にゴム板をはさみ,隙間を作っり,穴は理化学用品売り場のゴム栓を使って塞ぎました.現像液を節約するため.隙間を3mmにしたのだが.欲張りすぎて,ムラができるかどうか,心配になってきました.

 

2010-01-15 セザンヌの塗り残し

近藤耕人「見ることと語ること」


昔から、セザンヌの部分的にしか色が塗られてない絵が、そうして魅力的にかんじるのか気になってしょうがない。 自分でそんなセザンヌ風の絵を描こうとまねしようとしてもうまくいかなかったこともあった。
そんなわけで、セザンヌに関する本をつい買ってしまう。先週も鎌倉で見つけた
近藤耕人「見ることと語ること」(青土社
という本を買ってしまった。その中から セザンヌの色彩と構成面(プラン)光の薄片の奥行より引用。

 セザンヌエミール・ベルナールへの手紙の中で、彼の絵画の重要な構成要素である構成面(プラン)について述べている。「わたしは確信をもっていうのだが、ある眼の感覚がわれわれの視覚器官の中に生まれて、色彩感覚(sensations colorantes)によって表わされたもろもろの構成面(プラン)を中間調あるいは四分の一の調光でわれわれに分類させる。したがって生の光は画家にとっては存在しないのだ。当然の帰結として黒から白へ行くかぎり、この抽象の最たるものが眼にも脳にも同じく支持点となるようなものだから、われわれはふらつき、泰然自若としていられなくなる。」(一九〇四年一二月二十三日)
 セザンヌはここではっきりと、伝統的な絵画の色化(ヴァルール)に対する色彩感覚の優位の原理を宣言しているのであって、光は色彩に転換させられている。<プラン>の問題はセザンヌの頭について離れなかった。ベルナールは『セザンヌの回想』の中で、ある夕、バルザックの『知られざる傑作』の主人公フレンホーフェルの話が出たとき、セザンヌは突然立ち上がり、黙って人差し指で自分の胸を叩き、眼に一杯涙を浮かべたと書いているが、そのあとセザンヌは人差し指を両眼の間にもっていってもぐもぐいった、「そうだ、こうすればいろいろな構成面(プラン)がはっきり見える。これだゴーギャンが一生分からなかったのは。」このあとにベルナールがつけた表現は、このプランという言葉の意味をいくらか明らかにしてくれる。「セザンヌのいう通りだと思った。平らな表面が扁平なままになっていれば、美しい油絵とはいえない。もろもろの物体は回転し、離れ、生きなくてはならぬ。絵画芸術の魅力はそこにある。」
 この言葉自体がなんと生きていることであろう。絵画はまさにルネサンス以来の平面ではなく、立体的になろうとしている。それも中世において絵画の基本であった湾曲した漆喰壁やモザイクの天井が立体的であったという意味でなく、またマザッチョやウッチェルロのように遠近法による立体感を出すとか、マンテーニャのように古代ローマ彫刻を憧れて、鉛白による素材感を表すというのでもなく、絵画の平面自体が、現実の物体の世界の重なり合いに対抗しようとし始めている。絵画の中で物体が存在し始めているのである。さらに後の手紙でも、セザンヌは<プラン>のことを述べている。
 「七十歳に近いほどの高齢になると――照明を当てるはずの色彩感覚が私には固定観念(アブストラクション)となって、画布を絵具で覆うこともできず、ものの接触点が細かく微妙なときは物の境界線をたどることもできません。他方ではもろもろのプランが入り組んで、そこで新印象主義は黒い線を引いて輪郭を定めるが、それは断固として闘わねばならぬ欠陥です」(一九〇五年十月二十三日、エミール・ベルナールへ)。

2010-01-14 追憶のダンス

河瀬直美監督「追憶のダンス」DVD発売

 西井一夫をが癌で亡くなる2ヶ月前に面識のない河瀬直美を呼び出し、自分の最期を撮らせたドキュメンタリー「追憶のダンス」がDVDで単独で発売された。河瀬直美ドキュメンタリー DVD-BOXの中に入っていたのだが、今度は単独なので買ってみたいと思う。

追臆のダンス [DVD]

追臆のダンス [DVD]

河瀬直美official site の「追憶のダンス」の作品解説のページ
http://www.kawasenaomi.com/ja/works/documentary_film/post_19/

2010-01-13 内藤礼する?

芸術の機能


 昨日の続き,稲葉振一郎のモダンのクールダウン (片隅の啓蒙)から引用した中で、最初の

芸術は、人々に自分の認知能力の新たな使い方を開き,知覚によって得られる新たな快楽を開発する,という機能を持ちます.


の部分を読んだ時に、頭に浮かんだのは内藤礼の作品だ。表現でない表現というか、例えば、鎌倉の近代美術館で見た第2展示室の作品等はたた、同じ柄の布を何枚も敷き詰めて、部屋の一部から入る光があたり、それによって浮かび上がってくる、布の微妙な皺の模様を見るものである。アーティストトークで作者は、大地あるいは海を上方から見下ろしているように布の柄を細かなものにしたと言っていたが、確かに、アーティストトークを聞く前に見た時、、松江泰治の「地表」http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20091129/1259509287を思い浮かべた。
 この作品を見た後は、布の作る微妙な皺を見ることまでもが、知覚による快楽となるのかもしれない。
 数年前に、松江泰治の「地表」を見た後、建築現場等にある、砂の山の表面が作る模様が気になり、「松江泰治する」とか思いながら、かなりの数の写真を撮ったことを思い出した。確かに、ある種の作品に出会った後、日常に見ていたものが急に気になるものになることがあると思う。
 今後、自分の中では「内藤礼する」ってことは、微妙な布の作る皺を写したりすることになるのかも・・・
 

2010-01-12 知覚によって得られる新たな快楽

稲葉振一郎「モダンのクールダウン」


先週買って来た.

モダンのクールダウン (片隅の啓蒙)

モダンのクールダウン (片隅の啓蒙)

より

 認知科学的に見れば芸術は、人々に自分の認知能力の新たな使い方を開き,知覚によって得られる新たな快楽を開発する,という機能を持ちます.このように抽象的に書いてしまえば,このような働きは表現を通じなくとも果たすことができそうに思います.事実そうでしょう.しかしながら,芸術作品がこのような機能を果たす標準的なやり方は,まさに(実在する何かであれ,架空の、想像上ないし理論上の何かであれ)何ごとかを具体的に表現することです.一番わかりやすい陳腐な例を挙げると,具体的に実在する物事を絵によってでも言葉によってでもとにかく描写することです.ここで,芸術家の横に素人の鑑賞者がもいて,芸術家が見て描いている対象を自分でも認知しているとしましょう.この場合,鑑賞者に対して作品が与える効果とは,まずもって理想的には,「へえ,これってこんな風にも見えるんだ」という驚きでしょう.
 つまりは,このような驚きを与え,新たなものの見方,感じ方,考え方へと人を導くきっかけは,まさにその人がすでに見知っている同じものについて,新たな見方,感じ方,考え方もまた可能なんだよ,という実例を示すことこそ,最も効率的に与えることができるのではないか,ということです,この実例をの示し方としてとりあえず考えうる典型的なやりかたは,一つは実際に実演して見せて,まねさせる,というものですが,もうひとつがまさに「もの」になった実例――すなわち表現を見せること,です.
 以上のごとく考えるならば,モダン・アートはリアリズムを中心とする近代主義=ブルジョワ的モダンの芸術に破れ去らざるを得ない,という結論になってしまいますが,ことはそう単純ではありません.高度に批評的,そして理論的な営みとしてのモダン・アートは、芸術を求める鑑賞者大衆のニーズにはよく応えることができなかった代わりに,文学・芸術学・哲学を中心に,アカデミズムと合流しています.反面,美術,そして音楽においてより一層顕著なことですが,鑑賞者大衆の主たる関心もまた,同時代の芸術家の作品よりは古典的な近代,一八,一九世紀から二〇世紀前半の偉大な伝統のほうにこそ向けられています.つまり単純にブルジョワ的モダン,リアリズムが勝利した,とは言えないのです.


 

2010-01-11 すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在してい

 神奈川県立近代美術館鎌倉内藤礼「すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」展で,アーティストトークがあるというので,出かける.
 美術館の入場券売場の前に行列ができるほどの盛況,窓口一つでは対応しきれず,二つにし,開始時間を2時から,2時10分にしてようやく開始.会場のイサムノグチのこけしの像のある中庭は,人がビッシリ入り,副館長の水沢勉さんとの対談の形で内藤礼さんのアーティストトークが始まったのだが,マイクを使っても中庭には声が届かず,美術館の外の声や,バイクの音が聞こえてきて,聞き取りにくい上に,集中力も途切れ気味でしたので,
 内容は
 http://d.hatena.ne.jp/blueshuttle/20100111#p1
 http://ameblo.jp/sgts/theme-10018176171.html
 を見ていただくことにして,
 今日の美術館の様子をご覧下さい(外の展示は撮影可)
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 夕方,暗くなった時の様子を見たくて,閉館まで会場をうろうろ動き回った.その間,内藤さんはずっとファンにとり囲まれ,質問に答えていた.

2010-01-10 オーロラの向かう所

長澤英俊「オーロラの向かう所」

 神奈川県立近代美術館葉山館へ長澤英俊「オーロラの向かう所」展を見に行く。
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2009/nagasawa/index.htmlより

 長澤英俊はイタリアを拠点に活躍する世界的な彫刻家です。1940年に旧満州(現中国東北部)で生まれた長澤は、母の故郷の 埼玉県川島町で育ち、多摩美術大学に学びました。在学中から旅を繰り返していた長澤は、1966年に日本を発って東南アジア中近東を自転車で横断。1年後に到着したミラノにそのまま住みつき、同時代のイタリア芸術家と交流しながら本格的な活動を始めます。
 長澤は最初期にはオブジェによる作品を制作していましたが、1970年代に入ると大理石ブロンズといった素材を用いて彫刻的な表現へと向かいます。彫刻の原点を問い直すような制作を通して、次第に長澤の独創的な手法が生み出され、豊穣なイメージと壮大な構想を感じさせる作品へと結実していきます。それらの作品はヨーロッパで高く評価されるようになり、ヴェネツィアビエンナーレドクメンタなどの主要な国際展でもたびたび紹介されてきました。また、近年では重力や力学の原理を応用しながら、独特な構造で成り立つ作品も手掛けています。
 長澤の作品では、形とイメージ、時間と空間、眼に見えるものと見えないものの関係が深く考察され、それらがある時は詩的に、ある時は明快にあらわされています。その鋭敏な洞察力と豊かな感受性によって生まれる芸術は、深遠で根源的な世界、作者の語る「イデア」の世界を私たちに鮮やかにもたらしてくれるに違いありません。
 この展覧会は、1993年に開催されて以来の日本国内における待望の回顧展となります。会場の展示空間を生かして作家自身が練ったプランをもとに、1970年代以降の代表作を振り返りながら、近年の大作を中心とした約19点を紹介します。

 長澤さん自身が作品を見ながら語る。アーティストトークに参加した。
 上にも書かれている「イデア」という言葉がさかんに使われいた。カタログの学芸員是枝開さんとのインタビューで「イデア」について触れている所を引用すると。

是枝 長澤さんが今まで繰り返して語っていらっしゃる「イデア」ということについて確認しておきたいのですが、プラトン哲学では「時空を超越した非物質的、絶対的な永遠の実在」ということであったり、「見られたもの、知られたもの、姿、形」という意味があったり、あるいは「感覚的世界の個物の原型」という意味であったりします。今日では少し意味が変わって来て観念的というような意味合いでっも使われたりしているのですけれど、長澤さんが繰り返し語っていらっしゃるイデアは、プラトン的な、哲学で使っているような検証的な意味での形而上学的なイデアということでよろしいせしょうか。
長澤 かつてギリシャ時代にフォルマ(形)はイデアを伴っていたのですよ。それがいつの間ににかイデアと形というものが離れていってしまって、今、形というものを明確に把握できなくなっているでしょ。僕は形というものは常にイデアを伴うものだと思っています。イデアとはものの原型として考えられる究極の存在。
・・・・・・・・
中略
・・・・・・・・
イデアという風な存在の仕方をしているのか、どういう風に捕まえるのか、どうお前のところにやって来るのか、とよく訊かれる。でも、いろいろな表現というものがあるとは思うのだけれど、どこからかやって来るものには違いない。僕はイデアというものは、僕の中から常に出てくるもおだとは思っていないのです。だけど僕の脳細胞を経由していることは確かなのだけれどね。その時に宇宙のなかに何か琴線のようなものが、ピーンと張ったものがあって、これは非科学的な表現ですけど、それに触れるか触れないかがイデアの響きというか、宇宙を響かせる存在としてのイデアみたいなものはそういう風にして存在しているのではないかと。それから、普段訓練して常に注意深く見ていると、目の前に常にイデアというものは通過していくのに、そういう訓練をしていないと実は見えない。だけど見えたとしても、今度はそれを捕まえられるだけの技術があるかどうかににもよりますね。だから、見えていても捕まえることができない人はそのイデアを把握することができない。だから実はみんなの周りに常にある存在なのではないかと。それで、プラトン的に言うと、かって我々がいた遥か遠いところ、というのはどこか解らないけれど、そこからやってくる常に自分たちを惹きつけるもの。僕は≪イペルラニオ≫(IPERURANIO、1996年)という作品を作った。「iperiranio」というのはハイパー・オラーニュというプラトンの言っているイデアの世界の名前なのです。

 
 彫刻と光の問題というか作品をどのような光でみるべきかというのも色々考えさせられた展示であった。アーティストトークでは、展覧会場の都合で会場の光をコントロールするのが難しいといという話があった。もっと光を抑えたかったようだが、隣の部屋との関係から妥協、展覧会のタイトルでもある「オーロラの向こうに」という作品の展示を諦めたそのためだそうだ、これを展示すると5,6個作品の展示ができなくなるとのことだった。
 アーティストトークが終わった後、『長澤英俊:イタリアの日本人』というジャンパオロ・ペンコ監督の映像(58分)を見て、少し暗くなった、海に面した展示室に入ると、作品の表情がまた変わっていた。
 そういえば、鎌倉館の内藤礼さんについて、色々なブログで紹介され、晴れた日に行った方が良いと書かれている。おそらく、布を床に敷いた部屋の作品、中庭やテラスのテープの作品、テラスの水を入れたコップの作品等を見るときのことを考えてそういう発言をしているのだと思うのだけで、果たしてそうなのか自然の中に置いたということは雨や夕方の暗さも作者の計算の中に入っているのではないか、明日は内藤礼さんのアーティストトークがある。夕方その辺を自分の目で確かめたみようと思っている。

2010-01-09 あえてノーファインダーで

池袋 

ノーファインダーで,
f:id:heliograph:20091218215056j:image

コンタクト

1月2日におなじように東京都写真美術館に行っていた.山方伸さんのブレッソンのコンタクトを見ての感想が,
山方伸さんのblogに載っていました.http://d.hatena.ne.jp/blepharisma/20100102より

写美は想像通り混んでいた。それに写真をじっくり見るような体の状態でもなかったので、人の隙間から展示してある写真を見ていた。ブレッソンのコンタクトプリントも展示してあって、それは人の隙間からだと何かよくわからなかったのできちんと見ておこうと思ったけど、コンタクトプリントは一人一人時間をかけてみているようで少し行列が出来はじめていた。並ぶのは嫌だったからちょっとした隙間があるとそこへ割り込んでサッと見てその行列から離脱して、またどこかにちょっとした隙間が空くとサッと割り込んでというのを繰り返して五枚くらいは見ただろうか。同じ場所をほんの少しだけカメラの位置を変えて何枚も写真を撮っていたりする。そういう撮り方はやっぱり意識が構図に向かっているからだと思う。「あ、この木は画面からはずしておこう」とか「地面の模様がおもしろいからもうちょっと地面の分量を増やそう」とかそういう意識がコンタクトシートから見えてくる。僕自身もそういうことをしたりするけど、そういうのは大抵よくない場合が多い。もしくは最初に撮った写真がやっぱり一番よかったりする。あーだこーだと考えながらシャッターを押し始めている時にはもう何かは過ぎ去っているのだろう。稀にそれでもおもしろい写真も撮れたりするから写真はよくわからないのだけれど。とにかくブレッソンのようなコンタクトプリントになってしまうような撮り方だとすぐに限界がきてしまうような気がするから、ブレッソンのようにならないように気をつけようと思った。でもあんなのを人の十倍くらいの量を撮っていたらまた話は違ってくるのだろうけど。

 だいたい,同じような感想だ.4,5年前,ピンホール写真を撮っていたときは,ファインダーがないので,だいたい中心をこっちに向けというだけで,露光させていた.4x5で65mmで撮る時も,ピンホールに近い感じがする.絞り込んで,,65mmでF32とかに絞れば,距離も合わせなくていいし,だいたいイメージサークルが4x5ぎりぎりであるからアオリなんかも考えず,カメラをどこに向けるかだけで撮って見た方が,面白いかもしれない.
t

2010-01-08 写真を選ぶのは難しい

新宿

 実は昨日撮った写真ですが,flickrにアップしたら,9回も見られました.私の写真にしてはこれでも画期的なアクセス数なのです.それがこの写真です
f:id:heliograph:20100107125524j:image
自分としては,昨日の自分が選んだ写真の方がいいと思ったのですが,アクセスが多いのが,必ずしもそんなに気に入っている写真でないことの方が多いようです.

TeX環境インストール完了(多分)

 実は,xdviで文字化けしたのは,もとのfileのコードがEUC-jpでなかったのが原因のようで,Windowsで作った,Shift-jisのファイルをEUC-jpに変換して,コンパイルしたら,xdviでちゃんと表示されました.
 EmacsYateXインストールされ,かなり良い環境になってきました.
 今回
 http://thiros.blog.so-net.ne.jp/
 http://thiros.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300403762-1
 の記事が参考になりました.

2010-01-07 久し振りに新宿を歩いた

現像方法

 4x5の現像は結局,排水用の塩ビパイプVU40を切って,その内側にフィルムを丸めて内側に貼り付け,それを現像液に浸すようにした.現像液は100円均一で買ったゴミ箱に入れている.これだと一度に8枚現像出来るのだが,大量に現像液を使うので、少し改良しようと思う.内側にこれより細いパイプを入れてそのパイプの端ををふさげばいいわけなのだが,どうやって固定させるかが問題である.不器用な私でも出来るような方法を少し考えてみたい.

2010-01-06 鎌倉へ

4x5を担いで名越へ

 今日は自宅から,名越緑地まで歩きそこで緑地脇の雑木林を撮る,そこから法性寺を経由してハイランドに通じる尾根に出て,鎌倉側の谷の雑木林を撮る.
 前にハッセルで撮った時は,絞りを開放にし,ボケた所とピントの合った所がある写真で有ったが.今回の4x5のシリーズは基本的にパンフォーカス(前に,植物がかかりボケているのもあるが)で行くつもり.絞りf45,f32,1秒で撮っている.

 Super Angulon 65mm F8 10枚  Fujinon 135mm f5.6 4枚 計 14枚(Tri-X Pro)ISO感度を160として撮影.

今日は現像には行かないで,鎌倉古本屋に行く.

2010-01-05 撮影開始

4x5始め

 午後,立石の仕事場に行き,フィルムをフィルムフォルダーに装填.修理してから使っていない.Super Angulon 65mm F8 とFujinon 75mm F8 を持って,立石の海岸へ.強い風で,波がものすごい勢いで押し寄せていた.カメラと三脚が吹き飛ぶのではと心配しながら撮影を開始,4枚目を撮影し,引き蓋をフィルムフォルダーに挿入しようとしたところで,引き蓋を吹き飛ばされ.ここでの撮影を断念.(もちろん4枚目フィルムは感光させて,廃棄)トンネルを抜けて小安の里へ移動.林の中で撮影を始めたが,すぐに暗くなり,8枚目を撮ったところで,仕事場に戻り,現像.
DATA FILM TRI-X Pro (ISO320) 8枚
   現像液 POTA 20℃ 12分
逆光気味で撮影した海岸のフィルムはまずまずのネガとなったが,林で撮影したものはコントラストのない薄いネガになってしまった.
今度はISO160で撮影し現像時間15分位で現像しようと思う.

2010-01-04 誰でも芸術家 <=> 誰もが一般人

大村益三のTWITTER(http://twitter.com/omuraji)より

誰もが出来る事。それを美術が目指すのであれば、それは自ら「特別」から退場する事を意味する。そういった気概が無いのに「誰でも芸術家である」とは無責任な言い様であろう。「誰でも芸術家である」は、一方で「誰もが一般人である」を意味するからだ。

日本国にとっては、お手盛りで文化勲章を与える価値も美術には無いのだろう。それは恐らく「特別」から美術が滑り落ちていく予兆だ。

文化勲章受賞者に2年連続で美術関係者は入っていない。昭和12年の制定以来、お手盛りで文化勲章を授与していた美術が外された事など一回として無かったが、それが2年も外された。その煽りで日本美術院のトップは文化勲章受章者から文化功労者クラスに格下げされた。

日本政府の芸術に対する保護振興策が削減され、それに対して芸術関係者は懸念を評したりしているが、それは芸術が国を挙げての保護振興に値する「特別」であると思っているからだ。

「誰もが芸術家である」とはボイスの提唱したテーゼだった。そしてそれは半ば実現してしまった。「誰もが芸術家を僣称すれば芸術家である」。全ての善男善女に芸術家たる権利は開かれてしまった。従って芸術家は「特別」な存在を意味しない。

2010-01-03

TEX環境構築失敗

ubuntu 9.10 netbook RemixをいれたnetbookTexをinstallしようとした.platexは動いてるようだが,xdviは文字化け.fontが上手く設定できないようで,dvi2psもfontがないというエラーをだして止まる.

2010-01-02 東京都写真美術館へ

東京都写真美術館へ

 1月2日は東京都写真美術館の入場料は無料だってことで、恵比寿まででかける。

 ギャラリートーク町がちょうど終わる頃、ギャラリーに入る。

 ギャラリートークでは、木村伊兵衛の「本郷森川町」の写真について話をしていた。展示してあるのは、木村伊兵衛が選んだものでなく多分

 を発行するときに選んだもので、(ちくま文庫の写真集を編集するとき編者が選んだと言っていた)「本郷森川町」の写真は何コマか撮影していて、木村伊兵衛自身は別のコマを選んで雑誌に発表しているそうで、この写真の方が気に入られていて色々なところに使われているとのことだった。
確かに、

定本木村伊兵衛

定本木村伊兵衛

では、表紙に使われている。
 写真はよく、撮るとき鷄酉のシャッターを押すという選択だけでなく、撮った写真から選び出すという選択も作品を作る上で大事と言われるが、本人が選ばなかった写真が木村伊作品とと思うのだが、木村伊兵衛のこの写真ははたして木村伊兵衛の作品と言えるのか疑問だ?
 会場の出口付近に二人のベタが資料として展示してあった。木村伊兵衛のベタは雑誌や本で発表されていたが、カルティエ=ブレッソンのベタをみたのは始めてであった。カルティエ=ブレッソでも最初から構図をきれいに決めているわけではなく、何コマかずらして色々試行錯誤しながら撮っていることがわかり面白かった。

  •  日本の新進作家展vol.8「出発-6人のアーティストによる旅」

http://www.syabi.com/details/sakka_vol8.htmlより

今回はこれからの活躍が期待される写真家、映像作家の作品を通し、6人の作家の「旅」を提示します。彼らのとらえた風景は、日本国内から海外、都市や僻地、あるいは現実ではない架空の風景もあり、その表現は千差万別です。しかし彼らの作品から、私たちが日常生活している場とは異質な空間が、世界には存在することを、あらためて認識できるはずです。「旅」の写真を通し、新たな知覚の旅へと出発していただけることでしょう。

【出品アーティスト】
石川直樹
1977年 東京生まれ。2008年 日本写真協会新人賞。石川の旅は、旅というよりは冒険といった言葉が近い。今回は風光明媚なだけではない「富士山」を取り上げている。

□百々武
1977年 大阪府生まれ。日本の島々に注目している。近代化する生活と、島ならではの風習などに挟まれて生きている人々の姿を通し、日本人の現実の1側面を際立たせている。

□内藤さゆり
1978年 広島県生まれ。2005年 コニカミノルタ フォトプレミオ入選。独自の光と色彩にあふれる画面を作りだす。旅人よりも住む人に近い感覚でポルトガルの風景を捉えている。

尾仲浩二
1960年 福岡県生まれ。2006年 日本写真協会賞新人賞。活動の初期から「旅」をテーマに作品を発表4Xしている。失われていく日本の姿を、独自の視線を通して追い続けている。

□さわひらき
1977年 石川県生まれ。今回の作品は、現実の旅ではなく、想像の世界の旅がモチーフ。ノスタルジックで繊細な作品はモノトーンの静かな画面がきわめて印象深い。

□百瀬俊哉
1968年 東京生まれ。1994年 九州産業大学准教授。2002年 第21回土門拳賞受賞。世界中の都市の人がいない風景を撮り続けることで、その都市の本質に迫っている。

 尾仲浩二さんが、新進作家かなと思った。作品は35mmで撮って、小さなプリントであるが自分が4x5で街をこんな風に撮りたいなと思った。百瀬俊哉さんの作品も4x5で撮ったもので、これもすごく参考になった。
 石川直樹の「Mt.Fuji」はNikonSalonで見たのとは、違う展示の仕方だった。
 そして、今日の収穫は、さわひらき さんの動画。この作品はすごく気にいった。
 さわひらき さんのホームページART iTのインタビュー記事のurlは次の通りです。また気になる作家が増えた。
 http://www.softkipper.com/
 http://www.art-it.jp/interview07.php


時間がなく、ちゃんと見ることができなかった。

2010-01-01 あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます.
毎年,年賀状用に虎にちなんだ写真を集めておいて,その中から一枚選び,年賀状に使っている.今年の候補作を並べておきます.
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