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2010-05-31 Appleと検閲

Apple による「検閲」

iPad も日本で発売され、日本の出版業界も電子出版に本腰を入れ始めたようだが、Appleは配信するソフトについて暴力や性などに関する表現を審査し、配信を拒否している。この「検閲」はiPad用のソフトでも実施されるわけで、そのことがいろいろなところで話題になっている。

篠山紀信「略式起訴」について、椹木野衣のつぶやき

椹木野衣(noieu)さんがtwitterを始めていた。

http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20100522/1274547323でも取り上げた、『20XX TOKYO』の撮影篠山紀信がが「礼拝所不敬」「公然わいせつ罪」で起訴された件でもいろいろつぶやいている。

noieu
2010.05.21 10:16
篠山紀信礼拝所不敬の罪か。略式起訴だが不穏な響きだな。 via mobile web



noieu
2010.05.21 12:35
不敬罪ということは人の態度を罰するということか。 via mobile web



noieu
2010.05.21 12:45
礼拝所を敬わないことの被害者は、強いて言えば御先祖様や八百万の神々だろう。 via mobile web



noieu
2010.05.21 12:58
実在しない世界まで罪を拡げるなら、今回の件は例の非実在青少年問題にも通じる。 via mobile web



noieu
2010.05.21 21:15
篠山紀信事務所からファクス。処罰決定後の意見表明書。 via web

意見表明書はhttp://d.hatena.ne.jp/heliograph/20100522/1274547323に引用してあります。

noieu
2010.05.21 21:18
概要は既に報道されている通りだが、気になるのは取り調べで「公然わいせつ」にはビーチの全裸を沖の船が目視した際の判例もあると諭されたとか。 via web



noieu
2010.05.21 21:19
とにかく100%視線を遮断しないとダメらしい。って、露天風呂もダメってこと? via web



noieu
2010.05.21 21:23
と思って調べたら、今年に入って下北半島の国道下にある露天が閉鎖されたらしい。ここは前に「殺す・な」のメンバーで恐山に行ったとき夜中に入ったところだ。 via web



noieu
2010.05.21 21:27
国道からの視線を遮断できないという理由らしい。どうもアートだけじゃなくて風呂までダメなのか。日本のアートや観光が衰退することは全体最適化の論点から言って相当に損失度が大きいと思うが。 via web

2010-05-30 意識

物質的恍惚(2)

少しずつ、読み進めている物質的恍惚 (岩波文庫)
P.113〜P.117より

 生きてあるということ、それは他の何であるよりも、意識的であるということだ。この意識なるものは、精神の表明する定式の数々、道徳、あるいは学問など、すべて人間的なるものの基盤である。
(…中略…)
 どうやってこの意識は生まれるのか?自己意識はきっと何よりもまず他者たちへの意識なのだ。他者が自己と相似たものとして感じとられる、つもり判断や、情熱や、感覚などの数々をもちうるものとして感じとられる瞬間からのみ、人間は、言語のきずなを通して、自分が生きているという感情を取り出すことができるのである。
(…中略…)
したがって、意識を創りだすのは、同化(ぼくは一人の人間だ)を異化(ぼくは誰でもよい人間ではない)と結びつける、一つの運動なのである。いずれにせよ、この反応は、たとえそれに本能的なものがそなわっていることがあっても、高度に社会的なものである。問題は集団との関係における個人の位置であり、この個人性を尊重させる必要である。このことはつまり、根本的には、思考が、道徳感覚と同様、社会現象として生まれるということに帰着する。思考すること、自分が思考していると知っていること、すなわち自己であることは、集団生活が命ずるところの一つである。
 だがこれはまだ初歩的な水準である。もっと深く探ってみるなら、自己意識――他者たちへの意識――が社会に面しての反射作用的状態のようなものとなることがあるのに気がつく。それが眼の意識の場合である。眼差しを内包している他人の眼は、肉体的障害や、嫌悪症や、恐怖などの数々を惹き起こすことがある。まじまじと見つめてくる、無躾な眼差しを前にして、誰か居心地の悪さを、あるときは麻痺感をさえ、覚えなかったことがあろうか?未知の人のまぶたから滲み出してくる致命的な攻撃を、誰が感じなかったことがあろうか、それはあなたにのしかかり、あなたを裁き、あなたを解剖する――そんな気を起こさせるのだ、このような他人たちの眼差しは、人が自分自身に注ぐ眼差の起源の一部をなしているのだ。
 それが恥辱感のうちに啓示されようと、あるいは暗黙に了解されるものにとどまっていようと、他人への感覚は自己という感覚を産みだすものである。だがこの感覚は外見とか、振舞いとかいった概念にのみもっぱら結びついてはいない。なぜならあの驚くべきこと、すなわち意識の運動が不逆的であるけれども、とにかく実在する。他人の眼差は自己の眼差になってしまったのだ。
 みずからに回帰するこの行動、この部分的な分裂症的状態こそが、明皙さへの第一段階を形作るものである。自己意識は、その少なからぬ部分が社会的なものであり続ける、けれどもそれはまた自己の完遂でもある。人は自己にとって見せものなのだ、ちょうど他人たちにとって見せものでるように。あらゆる行為と同様、思考の行為が真に遂行されるのは、それが精確になった瞬間からのみである。ということは、それがみずからの持続を創造する行為として感じられている瞬間からなのだ。およそ思考と名のつくもので、思考として生きられていない思考はない、と言うことができよう。それは、およその言葉と名のつくもの、仕ぐさと名のつくもので、言葉として、仕ぐさとして感じられていないものはないのと同様である。これはそうしたもののありようにとって必要な規定なのだ。視線なく、意識なしでは、言葉、仕ぐさ、あるいは行為は存在しない。思考は、それを倍加する(そして擦り減らす)鏡なしでは、無を離れる可能性を持ちえない。
 それどころか、ある意味ではおよそ存在というものがあるのは、その存在の意識によってのみなのだ。

2010-05-29 暗室へ

久しぶりの暗室

 一週間以上風邪を引いている。昼前まで布団でうとうと、ようやく風邪が抜けていった感じになりました。まず、横浜のヨドバシに行き、定着液とドライウェルを買いにいく。
 ヨドバシ一階のApple売り場では、iPadに触ろうと、たくさんの人が押し寄せていた。一瞬自分もその中に入ろうと思ったが思い直して、他のMacbookとかiMacをチョト触って、二階に上がり、暗室用品売場まで歩いている途中に、デジタルフォトフレームの売り場の前を通る。デジタルフォトフレームって結構高くて、3万円もするようなものもある。iPadとの値段の差を考えると、とたんにiPadの値段が安いような気がしてきた。こんなことを考えていたので、縮小された、暗室用品売り場に気付かず、通り過ぎてしまって、一瞬、無くなったのかと思い焦ってしまった。
 
f:id:heliograph:20100529155740j:image
(写真は、ヨドバシカメラではなく地下街のソフトバンクショップ)

 定着液とドライウェルを買って、逗子に戻り立石へ。
f:id:heliograph:20100529175830j:image
バスを降りて、駐車場にまわり、定点観測していた海を撮る。

 XTOL1:2 17分でTRY-X(TXP320) 4x5 24枚現像。

 長い間、暗室に入っていたので、ソーラー電波の腕時計が電池が弱ってしまた。

 撮影から大分たってからの現像。こんなものを撮っていたんだって思うものもあったし、こんな風に写ったんだというものもあった。こうやってネガを見ていると、引き伸ばしをしたくなってきた。

確かにこんなカメラだったら買うかも?

YA_DA(山田大輔)さんが、

YA_DA
2010.05.29 14:05
嗚呼、どんどんフジヤカメラのファンになっていく。 via web

こんなつぶやきをしていたので、遡って調べたら、fujiyacamera((株)フジヤカメラ店)のこんなつぶやきが見つかりました。

fujiyacamera
2010.05.29 13:50
? 前にも一度言いましたが 「液晶ディスプレイ"無し"」で 手ぶれ補正機能 USB端子装備 金属ボディー 光学ファインダー でレトロデザインのレンズ交換式デジタルカメラを 39,800円で どっかのメーカーさん商品化して販売して下さい via TweetDeck

http://twitter.com/fujiyacamera/status/14955615720

fujiyacamera
2010.05.29 13:52
? もうね デジタル世代には予測できる写真は 飽きちゃったんですよ だから液晶ディスプレイはいらないです via TweetDeck

http://twitter.com/fujiyacamera/status/14955723855

fujiyacamera
2010.05.29 13:56
? やっぱ撮影したあとに 家に持ってかえって出来上がりをみるまでの その間のドキドキ感ってすばらしいと思うのです via TweetDeck

http://twitter.com/fujiyacamera/status/14955899091

fujiyacamera
2010.05.29 13:57
? 銀塩だとお金がかかりますからね 今後フィルムもどんどん値上がりしていくでしょうし QT @pikori それ・・銀塩写真・・ via TweetDeck

http://twitter.com/fujiyacamera/status/14955964332

fujiyacamera
2010.05.29 13:59
? 5万超えたら売れません via TweetDeck

http://twitter.com/fujiyacamera/status/14956060030

fujiyacamera
2010.05.29 14:03
? 10年くらい大幅なモデルチェンジをしないカメラがあってもいいと思うんですよ via TweetDeck

http://twitter.com/fujiyacamera/status/14956211711

fujiyacamera
2010.05.29 15:59
@nishidahiro 思想は似てますね しかしながら庶民にはなかなか手が出ない価格帯デス QT ライカのM9がそうなりませんかね? やっぱり3年後くらいにはM10とか出ちゃうんでしょうか? via TweetDeck

http://twitter.com/fujiyacamera/status/14960701742

そういえば、畠山直哉さんが、デジタルカメラを使わない理由は、すぐ結果が分かってしまうからだと言っていました。

2010-05-28 明室と暗室

暗室

部屋の隅から、

重力のデザイン―本から写真へ

重力のデザイン―本から写真へ

が出てきた。なんとなくページをめくっているうちにこんな文章を見つけた。
 
7 気流のなかの本 より


(…前略…)

森山大道さんは、インタビューで、こう語っている。

ぼくはだいたい撮影済みフィルムをとことん溜めこむほうなんです。ここでも目を逸らすわけです。それで、いま撮っているブエノスアイレスにしても、撮って帰ってほとんど忘れてしまっています。本当に忘れてしまっているんですよ。(…中略…)ぎりぎりになるまで見たくないんです。そのかわり、いよいよってときににわかにリアルになるんです。いつも逃げたいかというか、忘れたいというのか、逸らしたいんですね。一週間撮って、すぐ現像ってのはいやですね。で、のっぴきならなくなったら一転猛然と今度は完全にそのなかにはいっちゃうんです。
「絶対平面都市」『d/SIGN』10号、2005年4月


明室と暗室

デジタルカメラの普及は、写真家を暗室という闇から開放する。新聞制作現場でも、デジタルカメラの浸透はほぼ完了したようで、写真部に暗室がない新聞社がある、と某新聞社の人から聞いた。そのひとも、「うちの会社も危ない」と漏らしていた……。トレスコがあったころ、暗室にいる時間をなるべく減らしたくて、拡大・縮小の倍率や紙焼きの枚数などを、明るい部屋であらかじめ計算しておき、満を持す気分で暗室に入ったものだたが、トレスコの消滅によって、明室と暗室の作業の区別ががなくなり、しごとはスマートに快適になったが、なにか失われた気がする。
森山さんが、自信で撮った映像をいったん「忘れる」というのは、撮った自分を、暗室に入る<も
うひとりの自分>の視点から見直したい、ということだろう。「一週間撮って、すぐ現像」するならば、撮った行為が一直線に紙焼きへと定着してしまう、それを避けたいというのだろう。明と暗のあいだは、画然と扉で区切らねばならない。だから、「のっぴきならなくなったら一転猛然と今度は完全にそのなかに入っちゃう」。光を捉える撮影行為を、暗房の闇によって対象化すること、この明と暗のあいだに横たわる切断を、写真表現において不可欠とするのが、暗室作業と共にあるモノクローム写真なのだと思える。
写真のことを念頭に言えば、デザイナーの作業から明室と暗室の区別がなくなったとき、デザインにおいて<もうひとりの自分>が得がたくなっているのではないか。暗闇の中に身を滑りこませる際の少なからぬ抵抗感が、映画館に通いだすと、映画の出来不出来は二の次で、やたらと暗闇の座席に身を沈めたくなり、逆に、映画館を訪ねるのがいったん途切れると、スクリーンに向かう足がぱったりと遠のいてしまう。こんな経験が多くのひとにあるだろう。映画館の闇に潜ることには切断が貼りついているからこそ、<もうひとりの自分>に出会う可能性がある。映画館という暗室で泣き笑いした自分を、外光のもとで振り返ってみることから批評はスタートする。

(…後略…)

明日は、久しぶりに暗室に入り、フィルム現像だ。

2010-05-27 盗撮?

盗撮?

 本当に写真が撮りにくくなったな。と思わされるニュース。

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0527&f=national_0527_006.shtmlより

電車内からホームを撮ったら親子が通報!ネットで「スゲー被害妄想w」と…
【社会ニュース】 2010/05/27(木) 09:01

  大阪市内で電車に乗ろうとした親子が、反対線の電車内から盗撮されるという事件が起こったらしい。「らしい」というのは、盗撮されたかどうかが不明なためである。インターネット上では「スゲー被害妄想w」など、本当に盗撮したのかどうか分からないと疑問を呈する声が上がっている。

  このハプニングは26日、日本全国で配信されている安全・安心(防犯・防災)メールの情報を集めたウェブサイト「全国の安全・安心メール」に掲載されたもの。同サイトでは、「05月26日11時46分頃、大阪市平野区地下鉄平野駅ホーム上で、母親と帰宅中の園児が電車に乗ろうとしたところ、反対線の電車内から携帯電話で写真を撮られるという事案が発生。不審者は、20歳位の若い感じ、中肉、目鼻立ちのしっかりした黒色短髪の男」と不審者情報を提供し、注意を呼び掛けた。

  これを見たネットユーザーらは、「自意識過剰すぎw」「携帯見てただけだろ」「ポスターのQRコード読んでただけじゃないの?」「メールしてただけだったら笑える」「(犯人像は)きわめて爽やかじゃねーかw」などとコメント。また、「音が聞こえるわけでもないし、断言できるということはフラッシュでも光ったのかねぇ」などの意見もあった。

  この親子が本当に盗撮されたのか、盗撮されていないのかは分からない。だが、携帯電話にはさまざまな機能が付いているため盗撮や盗聴に注意が必要なことは確かである。

  それにしてもこれって盗撮っていうのでしょうか?私も電車の中から、写真をよく撮るのですが、そういうふうに思われる危険性があるってことことなんですね。

 最近、私の職場の同僚が毎日に幼稚園の近くの桜の咲く様子をデジカメで定点観測していたら、怪しいと幼稚園児の親から通報されました。

カメラマンと写真家

KEEP20(山縣勉)さんのTwitterより

KEEP20
2010.05.27 19:43
「カメラマンは、見えているものをより良く見せるのに長けた人。写真家は、見えていないものを見る力に長けた人」 via TwitBird iPhone

http://twitter.com/KEEP20/status/14826304927

2010-05-26 線をなぞる

畠山直哉「線をなぞる / 山手通り」

畠山さんの、東京藝術大学大学院映像研究科(馬車道)で行われた講演会で、聞いたことがあった山手通りの作品が発表されるようだ。
http://www.takaishiigallery.com/jp/exhibitions/2010/naoya_h/index.htmlより

畠山直哉 Naoya Hatakeyama
「線をなぞる / 山手通り

2010年7月17日 (土)‐8月14日 (土)

タカ・イシイギャラリーでは、2010年7月17日(土)から8月14(土)まで、畠山直哉の個展「線をなぞる / 山手通り」を開催いたします。今回発表される作品シリーズは、畠山が2008年から2010年にかけて、東京を縦断する山手通りを大橋交差点から熊野町交差点まで、南北10kmに渡って撮影を続けた作品によって構成されます。

畠山は、2007年に神奈川県立近代美術館鎌倉で開催された個展「Draftsman’s Pencil」のカタログに寄せたテキストに、本展と同じく「線をなぞる」というタイトルを付しました。そこでは、存在するあらゆるものが人間の何らかの意思によって構成されている−構成物のほんの僅かな一端さえ人間の手によって決定されたものである−現代都市において、写真家としていかに応答し、生きていくことが可能であるのかが綴られています。

探してみよう、都市の中に隠喩となる線を。僕の道具は、写真という「自然の鉛筆」だったはずだ。だから僕はとりあえず、都市の線を、この鉛筆でまたなぞってみよう。そこには人間の鉛筆が引いた線と、自然の鉛筆が引いた線が重なった、二重の筆跡が現われてくるはずだ。その筆跡のどこかから、いままで隠れて見えなかったものが姿を現し、それが僕たちに隠喩への糸口をつかませ、僕たちを故郷への入り口に導くかもしれない。その可能性を探るために、この鉛筆を使ってみよう。

畠山直哉 (「線をなぞる」 『Draftsman’s Pencil』 神奈川県立近代美術館、2007年 より抜粋 )

山手通りの下には、今年度3月に全線開通をした首都高速・山手トンネルが走っています。畠山が撮影を続ける間、地上は常に工事中であり、そこに見られる景色は文字通り日ごとに変化を続けていました。人間の手によって引かれる線は、まるで刻々と姿を変え、色彩を変える自然のように都市を形作ります。「線をなぞる / 山手通り」の作品シリーズでは、都市に引かれた線と面と色彩が、私たちが日常感知している様相とは異なり、まるで都市という巨大な謎の急所を突くような姿を見せており、都市と自然の境界へ鋭い疑問を投げかけているようです。

2010-05-25 「シノラマ」と公共性

シノラマ

 篠山紀信が9台のカメラを3X3に並べ、同時にシャッターが切れる撮影方法をシノラマと名付けて発表していた。
私も、6x6で3枚の写真を横に並べて撮ることを時々試みているが、なかなかまとまらない。
 複数の写真を組み合わせる表現に何故か惹かれるてしまう。
 何となく、美術手帖 2009年 04月号 [雑誌]を眺めていたら、次のような文章を見つけた。

TDL」の「ヘアヌード」文:斉藤環から一部を引用する。


 略

篠山の、すべての被写体にぎりぎりまで肉薄したいという欲望には、はっきりと「受容」を超えた能動性がある。そう、彼の視線には「堂々たる窃視」や「一瞬の凝視」とでも呼びたくなるような、逆説的な強さがあるのだ。

「シノラマ」と公共性

 こうした「視線の逆説」が、もっともはっきりあらわれているのが「シノラマ」シリーズではないだろうか。もちろん『シノラマニッポン』(世界文化社)も素晴らしいのだが、『大相撲』(小学館)に掲載された力士700人を被写体とした写真である。篠山はこの写真について、次のように書いている。
「なぜシノラマにしたかと言えば、引いてワイドレンズで撮れば一台で撮れないことはないんですけど、できるだけ肉体にちかよりたかったからなんですね」(『写真は戦争だ!現場からの戦況報告』河出書房新社)。
 ここに「シノラマ」の真骨頂がある。「すべてを視る」には俯瞰しなければならない。しかしそれでは、被写体から遠ざかざるをえない。おそらく「シノラマ」とはぎりぎりまで被写体に寄りながら、同時にすべてを視野に収めたいという、矛盾した目玉の欲望の産物である。こうした「視線の逆説」を解消すべく「発明」されたシノラマは巧まずして、すぐれた虚構発生装置となった。
 「見ること」と「見せること」を力業で縫合するシノラマ。篠山にあっては、この両者がしばしば一致する。それはあたかも、「所有」と「贈与」とが一致する身振りであり、そうである限りにおいて、sこには一種の「公共性」が成立する

 略

2010-05-24 西井一夫と藤原新也

西井一夫と藤原新也

藤原新也さんのShinya talkというBlogで「木村伊兵衛賞大団円顛末」というタイトルで、篠山紀信が「公然わいせつ」罪に起訴されたことで、木村伊兵衛写真賞の審査員が総入れ替えになったことについて書いている。
 前半は篠山紀信のコメントを紹介した後、次のような文章を書いている。
以下http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php?mode=cal_view&no=20100523
より引用

この月、つまり篠山が起訴されるであろうと予測される5月に入る前にアサヒカメラの編集長から電話があり、近いうちに会いたいという申し出があった。
妙に急いでいるようだったので前倒しで予定を作ったのだが、その日、編集長の口から出たのは木村伊兵衛賞の審査員の総入れ替えだった。

伊兵衛賞がらみのことであろうと予感はしていたから驚きはなかったが、ひとつの誤謬があった。私の予感とは篠山紀信の審査員解除の了解だと思っていた(かりに篠山が下ろされた場合、抗議の意で私も降りるつもりでいた)のだ。

篠山の事件の一件があって以降、朝日新聞は公然わいせつ罪で起訴され、控訴しない限り犯罪者となってしまう篠山の扱いをどのようにするかとは私の重要な関心事のことだったからである。
というのは伊兵衛賞は先年、アサヒカメラの管轄から新聞本紙の管轄に移っていたからだ。この時点で賞に関する差配や決定権は出版局長および雑誌の編集長から朝日新聞社主に移ったことになる。

いくら凋落したとしても新聞は社会の木鐸(ぼくたく)である。起訴された場合の篠山の扱いは大変厄介だろう。
新聞記事で一記者が篠山擁護論を打つこととはまったく次元の異なることなのだ。
おそらくこの一件をどう判断するかは伊兵衛賞が新聞本紙扱いとなってから毎年授賞式にやってくるようになった社主の采配ひとつにかかるのではないかと思っていた。
そして今年の授賞式の控え室で社主の表情を見たとき、なんとなく悪い予感はしていた。

結果は前記の通りであり、こういった一連の流れの中で伊兵衛賞審査員の総入れ替えという方向が打ち出された(あくまで私個人の観測だが)わけだが、その入れ替えの理由は表向き、審査員の担当年月が長すぎたということとなっている。
確かに私の場合は18年もやっている。キャノン写真新世紀の審査を20年間やっていた写真評論家の飯沢耕太郎が伊兵衛賞の審査員の担当年月は長すぎる(!?)とどこかで書いていたらしいが、それは確かに長いと思う(但しどこかの写真雑誌の編集長も自分のブログで飯沢と同じことを述べていたが、それはくだらない建前論であって本当を言えば長さなんてどうでもいいのである。要はその審査員の眼が曇っていないかどうか、情実に流されないかどうかであって、的確で曇っていず、一切の情実に流されなければ100年やってもかまわないのだ。逆に言えば若くとも眼が曇り、政治や情実に流される人間はどこにもいる)。

しかし私個人は別の意味でこういう役割をあまり長く続けたくないから10年目の審査が終わった段階で当時のアサヒカメラの編集長に審査員辞退を申し出ているという経緯がある。
了解も得たから、その年の授賞式の挨拶の時に来客の前でそのことも触れた。

だが、次の年、どうしても適切な人選ができないので見つかるまで何とか継続してもらえないかとの進言を受け、困っているならと受諾した。
したがって今回の申し出に関してはやっと肩の荷が下りたという思いがある。個人的には「新潮ドキュメント賞」審査を降りた流れで「イメージングコンテスト」も含め今後、審査のようなものから身を引き、自分の仕事に専念したいという思いがあるから、ちょうど良い潮時である。

しかしどうも後味が悪い。

あくまでそれは私個人の観測と再び断っておくが、今回のことは判決が出たあとに篠山一人を下ろすことになった場合、あまりに杓子定規、そして露骨な体制翼賛になってしまうので、経年過による入れ替えという落しどころに落ち着いたのではないかということだ。
だが都築響一などは長くないから、どうもこの落しどころには矛盾が生じる。
その矛盾を解消するためかどうかは分からぬが、今後審査員の受け持ち年月は5年としたいという案を出して来た.
ちなみに都築の受け持ち期間は確か6年。


だが私の経験からすると、この写真表現の錯綜の時代、審査の適切な判断(受賞後の動きも含め)をするには何度かの審査経験をする必要を感じたことからすると、この5年という基準ではやっと適切な判断が出来るころに辞めるということになる。
さらに言えば5年ごと4人の審査員を入れ替えるなら相当の人材の豊富さが必要だが、写真界には本当に人材が少ない(良い写真を撮ることと、他者の作品に対して自分の好き嫌いを極力排し、的確な審査をすることとは別ものである)。したがって年々審査の質の低下は避けられないだろう。もうひとつ言えることはとかくこういった審査には政治や情実が絡みがちであるということだ。写真界のようなタコツボ世界には人の繋がりが妙に絡んでいるからこの危険性は高いし、私が関わった審査の過程でもそういった不穏なものが時に顔を覗かせ、間髪を入れずやわらかい言葉でそういった空気を退けるのはそれなりの芸を必要とした。自分もワルだなと思うこともある。あるいはまた基本的には新しい作家を世に送り出したいと願う他者を思う志も必要である。そういったさまざまな人間として作家としての総合力を必要とするのが審査というものだ。一筋縄ではないのである。若ければいいというものではない。


伊兵衛賞はその都築響一を受賞者にしたあたりから様相が一変した(実は写真家とみなされていなかった都築を伊兵衛賞の俎上に乗せたのも私だが)。
また長島友里恵、ヒロミックス蜷川実花3人を同時に出したときには束にして受賞させるとは女を馬鹿にしているというへんてこりんな批判があったりもした。
あの審査時は本当は長島友里恵、ヒロミックス、二人受賞で落ち着きかけたところにこの人は今の空気感を持っている人だからと私が蜷川実花を強引に押し込んだという経緯があったから女を馬鹿にした張本人は私でもある。
あるいはまた梅佳代の受賞の時にはごうごうたる非難があったりもした。

そのように私が審査をやりはじめてからの年月、この審査過程は保守的な写真世界の住人との闘いであったとの思いが今は過ぎる。
一体に言えることは要するに” 社会と切り結ぶ”ユージン・スミスやキャパや、難民をまるで泰西名画のように撮ってしまい、その写真展オープニングには政治家や国連関係者や大使をはじめとする各界のお歴々がありがたく参列するサルガドのようなマグナム的なフォトジェニックなものを写真だといまだに思い込んでいるのどかな人々(なぜか決まってモノクロ好き)が世間にはたくさんいらっしゃるということである。

以上のような経緯の中で私の今の心配事は、受賞式の冒頭挨拶を何度か聞いたかぎりでは写真を扱う新聞人でありながらほとんど写真というものがわかっていらっしゃらない現朝日新聞社主の意向などが反映して新たな審査員が人選された場合のことである。
つまり伊兵衛賞が妙に保守的なものに回帰する恐れはないかということだ。

そういう心配がふとよぎったから編集長との別れ際にホンマタカシとか蜷川実花なんかはなかなかいいよねぇと小釘を刺しておいた。

しかし彼らが審査員という名の大乗仏教徒になれるかどうか、それには十年の修行も必要だろう。


追記

本トークでは故西井一夫氏に関するコメントをアップしていたが、故人は反論が出来ないので削除することとする。


本人が削除したので、西井一夫についてのどのように書いたのか、よく覚えていないのでやめますが、藤原新也のモノクロ写真に対する見方、マグナム的なフォトジェニックに対する批判的な見方について、西井一夫が『20世紀写真論・終章ー無頼派宣言』西井一夫著(青弓社)で藤原新也についてどう書いてたのかを一部引用しておきます。

 入院中に雑誌「フォーカス」が休刊し、私の友人がメールで次のように言ってきた。
「ところで、先日、朝日新聞藤原新也とかいう男の“フォーカス廃刊にあたって”という評論が載っていたが、俺はじつにくだらないと思った。どうして、あんなのが威張っているんだ。フォーカスが商業写真雑誌として破綻していったことと“白黒写真にこだわる写真家集団のひとりよがり”と、最近の若者の私的写真嗜好とどういう関係があるっていうんだ、とクダをまいておりまする。早く、退院しろ!このあほんだら」
 彼は、センシブルなやつで、私は、やつのセンスを信じているので、さっそく「あんなの」が書いたコピーを送ってもらい読んでみた。結果、そのとおりじつにくだらなかった。ストレスが内向したために、いささか攻撃的に姿勢が傾いている。が、だめだぁこりゃあ。藤原が書いていることはその論理に従えば、「フォーカス」という雑誌が、「LIFE」と同列の“大論”を背負った雑誌であり、マグナムと「フォーカス」の写真もやはり同列で語られる、芸能スキャンダルさえ“大論”の範疇に入るらしい。あきれかえって言葉がない。ここにあるのは、“現在写真に興味を示す新しい世代”への全面降伏にすぎない。つまり、これらは唯一信じることのできる“個人の日常”にレンズを向ける子どもたちに受けない、というただの消費社会の市場原理からすると、当然の帰結といえる “旧世代”の退場になんの留保もなく塩を投げ、“大論”が何であったかを問いもせずに、ヒキコモリを前提なしに肯定していく若者への過度の“おもねり”であるように思えた。私自身は、別段“旧世代”とやらを擁護したいとは思っていない。ただ、藤原さんよ、これじゃあまりに論理が破綻しています。“大論”時代が終わり、利益だけが求められる<市場>がひとり勝ちしたと現状追認してるだけ。「LIFE」は「フォーカス」と同列に語りえぬ“大義大論”をもっていた。“ヒューマニズム”“人道”……。タイトルにLIFE=命と銘打っている、それなりの歴史的必然を背負った時代がたしかにあったのだ。その命がじつはアメリカ人のための命のことにすぎなかったという事実が「LIFE」の命取りとなったのだ。「軒並み休刊に追い込まれている」「写真雑誌」は、出版不況=<市場>の波をいち早く被った「大きな流れのなかの一点景にすぎない」というが、ここでご自身が使用している“大きな流れ”そのものが、若者がまったく興味を感じえない“大論”にすぎないのではないか。はっきり言えば、私は、若者が興味を感じようが、感じまいがどうでもいい。そんな<市場>はほっとけばいい。私は私の道を行く、友達ならそこのところうまくつたえてぇ……??
“大義大論”はいま必要だ。個人など、もっとも信じるにたりない卑怯者にすぎない。芸能スキャンダルにさえまったく興味を感じえない“新しい世代”とやらが小泉構造改革とやらにバカな興味を感じているのは、では、なぜか?
 私の推察では、写真雑誌にかぎらず、たいていの雑誌や書物、メディアつまり言論が表向きには“理性の声”でしか語られてこず、私的な“呟きの響き”はつねに排除されてきた、その絶えることのない呟きが聞き届けられないという諦念が、おそらく呟きそのものを大切にしたいと思う、弱々しいが、絶対的確信に満ちた呟きの連合をつくっていて、そういう人たちは言葉を駆使できないから、畢竟カメラという手軽な自動表現装置に飛びついてただけのことだ。「フォーカス」には「報道写真家の集団マグナムに代表されるような深刻ぶったモノクロ写真」などは一度も掲載されたことはなかった。はっきり言えば、「ドロドロドキドキした誌面」もなかった。最終号の“密会大全”なるページでも、噂の二人は、ぜんぜん無関係な二人として、互いにそっぽを向いているのに、キャプションだけが、ふたりの“ドロドロの人間関係”を“愛人”だの“朝のゴミ出し”だのと騒いでいるだけだ。藤原は、たしかに最初から素人の旅行者としてカラー写真に文章を添える手法でデビューした。だから、モノクロに対するあからさまな蔑視は素人ゆえに問わないが、マグナムを「深刻ぶった」とは許せない。深刻だったのだ。キャパが命を落とすほどには。新しい世代は、キャパにもどうせ興味を感じえないだろうが、知ったことか!キャパは写真を言葉で解説したり、説明したりする愚はしなかった。『ちょっとピンぼけ』は、写真ではなく人生を語ったものだ。ノルマンディー上陸のDデイでキャパの撮った写真はブレている。あまりの恐怖に手が震えて、フィルム交換さえできなかった、彼は怖さであとずさり、上陸用舟艇に引き返している。写真論とは、写真を解説する言論のことではない。写真評論も、写真説明ではない。写真、そして写真家というものが、この世界でこの同時代にどのように在るのか、なぜそうなのかを批判的認識によって論ずるものだ、と私は思っている。これ以上突き詰めると嫌味になる。話題変更。

2010-05-23 物質的恍惚

物質的恍惚

物質的恍惚 (岩波文庫)

物質的恍惚 (岩波文庫)

より、引用
P.50〜P.53

 教養はなにものでもない。人間こそすべてである。その矛盾する真実において、多用で変幻ただならぬその真実において。ギリシャ神話を、植物学を、あるいはポルトガル詩を知っているからというので、自分には教養があると思いこんでいる人たちは、自らを欺いているのだ。教養の領域の限りなさを誤認している彼らは、自分たちが宿している真に偉大なものをしらない。つまり生命だ。
 彼らが会話の中に投げだす、あれら奇橋で変わった名前は僕らを苛立たせる。いったい彼らは、ああいう引用をしたり、ソクラテス以前の哲学者たちを引き合いに出したりすることで、ぼくをきおくれさせられると、ほんとうに思いこんでいるのだろうか?彼らの自称する豊かさは仮面をかぶった貧しさにすぎない。真実はまったくべつの代価を払って得られるものだ。一人の人間が包含している悲惨さ、弱さ、凡庸さをしること、それこそ真の教養だ。読書をした。学んだ、ということは重要ではない。芸術という、尊いブルジョワ的理念、教養ある文明人の、社交界の人の、《立派な人物》のしるし――虚偽であり、社交ゲームであり、付和雷同であり、軽薄さである。生きてあることは、まじめなことだ。ぼくはそれを心にかける。仮装だの作り話なんかをしてほしくないのだ。この旅をするなら、《観光客》としてであってはならぬ――素早く通って、肝要のことしか心に留めぬよう急ぐ観光客、この肝要のことなるものは、《日本》だとか《ヘミングウェイの作品における闘牛の神話》などを語ることによって、わずかな代価で光彩を放つことを可能ならしめるやつなのだ。人生の細部の数々はもっとはるかに人を酔わせるものだ。

 中略

 教養は一つの目的ではない。教養は一つの要素、ほかにもいろいろあるうちの一つで、人間を通じてのみ存在する一つの可塑性の富である。人間は自己を形成するためにそれを用いるべきであって、自己を忘れるためにではない。とりわけ、彼がけっして見失ってはならないのは、芸術や哲学よりもはるかに重要なものとして、彼の生きている世界があることだ。精密で、巧妙で、これもまた無限な世界であって、そこでは過ぎてゆく一秒一秒が何ものかをそれにもたらし、それを変形し、作り出してゆくのだ。そこでは一つのテーブルの角が一つの文明の歴史よりも現実性をそなえ、一つの街路が、その数々の動きをや、慣れ親しんだ顔、敵意ある顔や、迅速で道化じみた一連の小ドラマを見せていて、それを表現しうるかもしれない芸術よりも千倍も多くの秘密と浸透可能性をそなえているのだ。

2010-05-22

田植え(2)

 今日は仲間とやっている田んぼの「田植え」でした。慣れたせいか、あっというまに「田植え」が終りました。
みなが片付けているあいだ。田んぼの奥の森に入り写真を撮りました。
 これで、田んぼも一段落。また4x5をかついでこの森にきたいと思います。
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 今日は、仲間とやっている田んぼの「田植え」でした。みんな慣れたせいかあっという間終りました。
 みなが片付けをしている間、田んぼの上の森に入り、写真を撮りました。これで、田んぼも一段落。、4x5による森のシリーズを続行していこうと思います。

篠山紀信

5月20日の日記に篠山紀信が起訴されたことをかいたが、篠山紀信の今回の事件にかんする見解がG/P galleryのサイトに発表されていました。
http://gptokyo.jp/blog/article/%E7%AF%A0%E5%B1%B1%E7%B4%80%E4%BF%A1%E6%B0%8F%E3%80%8E20XX_TOKYO%E3%80%8F%E5%85%AC%E7%84%B6%E3%82%8F%E3%81%84%E3%81%9B%E3%81%A4%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6より

関係各位の皆様



この度、作品『20XX TOKYO』の撮影が「公然わいせつ罪」にあたるという事件が勃発しました。

関係者の皆様に多大なご心配とご迷惑をお掛けしたことを深くお詫び申し上げます。

この度、この件について略式による罰金とのこととなりました。

これまで捜査途中のこともあり一切発言を控えておりましたが、この様な結論が出た今、この事件についての僕なりの考えを書面に致しましたので、お読み下されば幸いです。



2010年5月20日  篠山紀信


『20XX TOKYO』公然わいせつ事件について



09年11月10日、僕の事務所・自宅、モデル事務所の三ヶ所に突然家宅捜査が入った。

容疑は写真集『20XX TOKYO』の撮影が「公然わいせつ」罪に当るというもので、08年8月〜10月にかけて撮影され、写真集、写真展、雑誌に何度も発表された作品がなぜ今頃捜査されるのかと驚いた。

容疑は作品自体のわいせつ性は問わず、その撮影行為に問題があるということだった。

「公然わいせつ」とはいかなるものかという問いに、僕はストリップショーなどで性器を露出するとか、公園で男が女学生に自分の性器をみせるとか、性行為などを他人のいる公の場で行うこと位しか浮かんでこなかった。

確かに今回問題となった作品の中には、都会の公道で裸になって撮影したものがある。

「公然わいせつ」の正確な定義を知らずとも、街中で無防備に裸でいることはいけないことなど誰が考えても常識でわかる。

そのため撮影は人のいない場所を選び夜間に行い、場所によっては「目かくし」となる大きな遮蔽板を立て、みはり役が人がこない事を確認後、全裸の上にガウンをはおったモデルが撮影する瞬間だけ(数秒から長くて1〜2分)ガウンを脱ぎ裸になった。それは熟練のマジシャンの早業のような撮影だった。

そもそも、この様な都会(TOKYO)にNUDEを置くという作品は40年以上前に発表した『PHANTOM』(1969)に端を発する。東京生まれ東京育ちの僕にとって「TOKYO」を撮影する事はライフワークでもあった。その20年後に写真集と写真展『TOKYO NUDE』(1989)を、そしてその20年後、今回『20XX TOKYO』(2009)を発表した。

様々な写真家が様々な東京をテーマに作品を発表しているが、僕は普段見慣れた光景の中に有り得べからざる異物を置くことにより目から鱗を剥がし、TOKYOが持つ不思議なエネルギーの本質を露呈させようと考えた。その異物がNUDEであり、物である以上、生きた人間の様な感情や体温は必要でなく、マネキンや人形のように無表情でどこか他の惑星から降り立ったレプリカントの様な無機質さで、存在している裸が必要だった。そこには扇情的ポーズのかけらもなく不思議と近未来の都市を予感させるイメージがあった。

さて、警察で聴取された僕は「公然わいせつ」がいかなる罪かを教えられた。それは100%他人の視線を遮る事の出来ない戸外で裸になることはこの罪にあたるという事だった。海岸でヌード撮影会が行われたが、その沖を通過する船から見える可能性があれば、それはこの罪に当たるという判例も教えられた。

いかに僕が人の眼に触れぬ様に、撮影時可能な限りの配慮をしたとしてもTOKYOという都会を完全に密室化することは出来ない。これがこの罪の法律的定義であるとすれば『20XX TOKYO』のすべての写真はこの法に触れる。

だが僕はこの作品の制作時、まさか「公然わいせつ罪」に触れるなど露ほどにも思っていなかった。それは40年間ずっとこの手法で撮影を続けてなんのお咎めも無かったし、エロティックな姿態や営利目的でなく、純粋に作品を創り上げようとする行為は表現者としての自由の範囲内であると考えていたからだ。第一自分が犯している犯罪行為を写真に撮り、それを公に発表するなどという人間がどこにいるだろうか。

だが警察の見解は「100%見られないように出来ない裸はこの罪にあたる」の一点張りであった。僕はそれならばその容疑を認めざるをえず、警察の主張に従った。

そして’10年1月25日、僕とモデル2名が書類送検され、この程略式による罰金ということになった。

無論、撮影現場に使われ不愉快な思いや怒りを感じられた方々には深くお詫びしたい。また作品に誇りを持って参加してくれたモデルやスタッフにも、この事態に巻き込んでしまったことを申し訳なく思っている。

しかしこの事件は色々な疑問を僕に残した。さて、これ以後、戸外のヌード撮影は一切出来ないのだろうか。山奥にはキコリがいる。海には釣り船がいる。空にはいつ何時、ヘリコプターや気球が飛んでくるかも分からない。野外に完全密室などありえない。

また物事には原因があり、結果がある。『20XX TOKYO』は写真作品として東京を表現する為の創造の発露であり、この純粋な創作行為は何者も止める事は出来ない。出来上がった作品のわいせつ性や表現の意図を問わず、問答無用の一切の禁止はこの事にどう答えるのだろうか。そしてこの事件がきっかけになって、創造のエネルギーが抑止され、表現することが窮屈になってしまわないだろうか。

この事件が報じられるやいなや、多くの激励の手紙やメールをいただき感謝している。一方で、実際の仕事上では刷り上った作品が配布されなくなったり、クライアントを慮って撮影がキャンセルになったりの事例もあったが、ジャーナルなメディアではどの雑誌も連載や企画中止などの処置をした編集部は皆無だった。

それでも一連の捜査報道は、表現の萎縮効果を生みかねない。一度壊されてしまうとこの自由は、修復にとてつもない時間とエネルギーを要する。

ヒリヒリドキドキする新しい表現、時代と密接にコミットする表現は、常にこのような事件に抵触する危険をはらんでいる。

もし20年後、まだ僕が写真を撮り続けていたらば、僕はいったいどんなTOKYOを撮ることを許されているのだろう。

僕はこの事件を真摯に教訓として受け止めた上で、さらなる新しい表現に果敢に挑んで行きたいと考えている。



2010年5月20日  篠山紀信

http://gptokyo.jp/blog/article/%E7%AF%A0%E5%B1%B1%E7%B4%80%E4%BF%A1%E6%B0%8F%E3%80%8E20XX_TOKYO%E3%80%8F%E5%85%AC%E7%84%B6%E3%82%8F%E3%81%84%E3%81%9B%E3%81%A4%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6

2010-05-21

銀座ニコンサロン

銀座ニコンサロン『沈 昭良(Shen Chao-Liang)「stage」』展をみる。
http://www.nikon-image.com/activity/salon/exhibition/2010/05_ginza.htm#02より写真展内容

台湾綜芸団”(Taiwanese Cabaret タイワニーズ・キャバレー)とは、いわゆる移動するショー劇団のこと。1970年代から台湾における冠婚葬祭の場で活躍しており、初期においては現在でも使用されている組立式特設ステージだったが、改装トラックもあり、照明と音響設備を備えたオープン式の“ステージトラック”が出現した。そして時代の進歩とともに、経営者や観衆の側から照明や音響設備に対する要求が高まり、今日のきらびやかな油圧電動式ステージトラックに発展した。
ショーの演目内容については、初期には歌と踊りのショーが主体で、歌手の衣装も一般の室内劇場で見られるような華麗なドレスに類似したものだったが、近年になるとセパレート式のビキニスタイルが普通となった。ショーの内容も人目を引く新しい演目が次々に生まれ、歌手以外にダンサーを従えた歌謡ショー、女性のパイプダンス、雑技、マジック、民俗芸能、ボディビル男性のショー、更には女装した男性のショーなど、多種多様である。
また、一定時間内に近隣する数箇所を回ってダンスショーを演じたり、葬儀や廟宇の祭りの隊列に加わってショーを演じたりする。
出演者は、公演場所を転々とする臨時の寄り合いグループである。歌手は若い世代が歓迎される傾向にあり、ある程度年齢を重ねた歌手は司会者や経営者に転じたり、結婚後引退あるいは他の業界に転身したりする。
このシリーズの作品は4×5インチフィルムで撮影されている。撮影対象は今の台湾各地で使用されている大型トラックを改装した移動式ステージである。この“ステージトラック”の台数については正確な統計はないが、実際に営業中の台数は台湾全土で600台を超えるものと推測されている。レンタカー方式が採用され、価格は車の大きさや新旧の程度によって異なり、貸し出す側は借り手の要求に基づき、指定された時間に指定場所まで車を運転して行って引き渡す。
本展で展示する作品は、台湾各地の“台湾綜芸団”が、1994年頃から研究と改装を重ねて今日の姿に至った大型トラックを改装した油圧電動式ステージトラックを撮影した英姿である。
独特の業態、濃厚な文化的な息吹き、きらびやかな色彩、童話のような舞台背景、そして自由奔放な発想。この“綜芸団”という台湾特有の産業は、時間と空間を越え、ある時は平面的に、またある時は立体的に、縦横無尽の展開を見せながら、見る者の想像力をかきたて、観衆と一体化していく。カラー19点・モノクロ1点。

 4x5フィルムをロールスキャナーで取り込み、ラムダプリントして出力。プリントのクオリティが非常に高い。
なんといっても被写体が面白い。
 

2010-05-20 大型カメラで撮る

アサヒカメラ

今日は、カメラ雑誌の発売日なんとなく電車に乗る前に

アサヒカメラ 2010年 06月号 [雑誌]

アサヒカメラ 2010年 06月号 [雑誌]

を買ってしまう。
 百々俊二さんが8x10で大阪の写真が載っていた。題名もずばり「大阪」だ。その撮影ノートから、一部引用

 大判カメラの効用は大きかったです。撮影者である自分の存在を消せる装置ですから、撮影のきっかけは自分の生いたちの記憶からですけれども、大阪では歴史の痕跡が案外と消えず、界隈ごと残っている感じがあります、大阪の半世紀を資料としていま見届ける、そんな写真の作業があっていいし、やれたと感じています。
 その場でコミュニケーションしながら撮ることが必須のカメラでもあります。まず三脚を据え、ここで撮ってますよ、と意思表示しますよね。被写体との会話も始まりますから、
 「おもろいカメラで撮っとるなあ」
 「撮ってもええか?」
 「ええで〜」
 「そしたら悪いけど、この写真使ってもええと書いてくれる?」
という感じなんですね。
 カメラは固定していても、スッと出会う感覚を大事にしたいんです。移動するように。被写体が動けば流れてしまいますが、人を撮ろうというのではなく、場所を撮っているのですから。そもそもこの撮影では、特定のことを指すように撮りたくなかったんです。記憶の遺跡を見つけて写真で指すのではなくて、手のひらでフワッと見るように、といいますか。そんな感覚で撮っても、写すべき細部はきっちりと写してくれるというのが大判の力で、35ミリカメラでも不可能ではないでしょうが、ぼくの場合は使い慣れたフィールドカメラが一番なんです。撮ったらすぐ現像・プリントして一週間くらいで結果を見る、そのリズムにもなじんでいます。撮った写真がつぎの行き先を教えてくれるようでした。写真とはただ撮るだけではなく、撮る前から撮った後まで全体のことなんだと、カメラがあらためて考えさせてくれる方法でもあったわけです。

礼拝所不敬

篠山紀信が略式起訴された。礼拝所不敬ということだ。テレビでは、謝罪文の「事件を教訓として受け止めた上で、新しい表現に挑んでいきたい」という部分だけが報道されていたのだが、新聞を見て、「一連の捜査報道は表現の萎縮(いしゅく)効果を生みかねない。」という一文があった。これがあるとないのでは随分ニュアンスが違います。
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20100521k0000m040066000c.html?link_id=RAH05より

篠山紀信氏:略式起訴…礼拝所不敬など 墓地でヌード撮影

 墓地で公然とヌード写真を撮影したとして、東京区検は20日、写真家篠山紀信氏(69)を礼拝所不敬と公然わいせつ罪で略式起訴した。表現の自由を巡って議論が起きていたが、篠山氏は謝罪文書を出し「一連の捜査報道は表現の萎縮(いしゅく)効果を生みかねない。事件を教訓として受け止めた上で、新しい表現に挑んでいきたい」とコメントした。

 起訴状によると、篠山氏は08年10月15日夜、東京都港区の都立青山霊園内で、女優を全裸で墓石の上に立たせて写真を撮影したとされる。女優は指示に従っていたとして不起訴(起訴猶予)となった。

 篠山氏は百貨店など12カ所でヌード写真を撮影した容疑で書類送検された。区検は、篠山氏が08年9月に警察に注意された後も「下着を着けて撮影していた」との上申書を提出して撮影を続けた経緯や墓の所有者の処罰感情を踏まえて処分を決めたとしている。

 礼拝所不敬罪は、刑法に規定された犯罪。墓石を倒した場合のように、仏堂や墓所などで公然と不敬な行為をした場合に6月以下の懲役または禁固、10万円以下の罰金が科されるが、わいせつ事件での適用は珍しい。【大場弘行】


結局、検察は墓地でヌード写真を撮影したことにしぼって、起訴したってことになるわけで、他の場所でのヌード撮影については、どういう風に考えているのだろうか?

2010-05-19 写真とコンセプト

写真とコンセプト

i_ken(Kenji AIHARA)さんのtwitterより,写真とコンセプトについてのつぶやきを集めてみました。
長い期間につぶやいているので、完全に全部このことに関するつぶやきをあつめているわけではありません。

i_ken
2010.05.18 09:37
heliography(ニエプス)、 pencil of nature(タルボット)から、現在のphotographyという名付け方。ここには明らかに、写真(=真実を写す)という意味での問題系は設定されていない。 via web


i_ken
2010.05.18 09:41
この一連の名付けから見えてくるのは、何度も繰り返すようだが、人間(=作家)がいてもいなくても成立してしまうという写真の外在性。人間(=作家)が介在しなくても出来てしまう「切断面」のことのように思える。 via web


i_ken
2010.05.18 09:45
それとは逆に、日本での写真の受容のされ方。 via web


i_ken
2010.05.18 09:48
「写真」という訳し方(名付け方)には、この写真が持つ外在性の特性を見えづらくしているように思える。 via web


i_ken
2010.05.18 09:52
先日の写美でのサルガド展の動員数(たしか過去最高数だったとか)をみても分かる通り、やはり「写真(=真実を写す」という受容のされ方が、日本では圧倒的であろう。 via web


i_ken
2010.05.18 09:55
ここに、日本の写真がコンセプトを毛嫌いする遠因というか、温床があるように思う。 via web


i_ken
2010.05.18 10:00
先日のpostで、コンセプトはアリバイ作りに似ている、というような類いのtweetをしたが、 via web


i_ken
2010.05.18 10:07
「Photography」なのか「写真」なのかで、このアリバイ作り(=コンセプト)についての考え方が、海外と日本とで相当違っているのではないのか?と思う。 via web


i_ken
i_ken
2010.05.18 18:01
特に、イギリスの批評家シャルロット・コットンの、以下の話。「きちんとしたコンセプトがまずあって、そこにコントロールできないものが合わさると写真が魔術的に良くなる」というところ。 via TweetDeck


i_ken
2010.05.18 18:06
それに続くホンマ氏のコメントも興味深い。「コンセプトなしで自由に撮ってもだめだし、コンセプトがガチガチでもだめだし〜」というところ。 via TweetDeck


i_ken
2010.05.18 18:07
制作において「コンセプト」というものを、どういうポジションに置くべきかを熟知した発言と言える。 via TweetDeck


i_ken
2010.05.18 18:35
再RT→ RT @i_ken コンセプトの話のつづき。コンセプトが抽象的である必要(具体的ではない必要)があるのは、制作の過程で「飛躍」が必要であるから。このコンセプトが具体的なものとして落とされてしまっていると、この「飛躍」の度合いが減ってしまう。 via TweetDeck


i_ken
2010.05.18 18:37
再RT→ RT @i_ken で、コンセプトのつづき。「飛躍」が目的だったら、じゃあ、コンセプトがなくてもいいんじゃね? となりそうですが、そういうことではなくて、飛躍した後にきちんと「着地」することも必要。コンセプトは、この着地点という意味もあります。 via TweetDeck


i_ken
2010.05.18 18:40
再RT→ RT @i_ken 要するに、コンセプトという「足場」がガッチリしていれば、ものすごく高くジャンプ(=飛躍)できるし、その高いジャンプのあとの着地もしっかり受け止められるということかと。 via TweetDeck


i_ken
2010.05.18 18:43
自RTを連発してしまったが、何が言いたいかというと、(少なくとも実作者にとっては)「コンセプト」は作品を成立させるためのものとしてあるべきで、それ以上のものではないということ。 via TweetDeck


i_ken
2010.05.18 18:48
で、先日postしていた、コンセプトは「方便」「便宜」と考えたほうがいいというtweetもこれと同義。 via TweetDeck


i_ken
2010.05.18 18:51
少なくとも実作者にとってのコンセプトは、作品を成立させるためのものでしかない。コンセプトは作品によって越えられるもの。コンセプトと作品はイコールにならなくてもいいし、なる必要もない。 via TweetDeck


i_ken
2010.05.18 18:54
ちなみにこのことについて、実作者の側から明確に発言したのは写真家の山崎博ではないかと思う。→「コンセプトに写真を奉仕させるのではなく、写真にコンセプトを奉仕させる」 via TweetDeck


i_ken
2010.05.18 19:01
山崎氏は日本の写真界の中でもコンセプチュアルの最右翼といってもいい写真家だが、その氏でさえ、このような発言をしているわけで、やはりコンセプトと作品はイコールではないといけないというのは幻想だと改めて思う。 via TweetDeck

芸術を語る

tadanoriyokoo(横尾忠則)さんのtwitterより

tadanoriyokoo
2010.05.19 18:51
芸術が解るという人は芸術を知識や教養の範囲内で捉えようとする人やから、芸術を言語で語りたがるけれど、芸術は本来、感じ取るものやから、言葉では語ることがでけへん。 via web

http://twitter.com/tadanoriyokoo/status/14285760353

tadanoriyokoo
2010.05.19 18:58
生きるためには耳掻き一杯程度の思想は必要かも知れへんけど、ぼくの芸術には思想なんかあらへん。 via web

http://twitter.com/tadanoriyokoo/status/14286002354

tadanoriyokoo
2010.05.19 19:04
思想がないと生きていかれへんちゅう人は、本能さえ裏切る勇気があるんやろか。 via web

http://twitter.com/tadanoriyokoo/status/14286216704

2010-05-18 田毎の月

田毎の月

毎日新聞にこんな記事が出ていた。
http://mainichi.jp/area/nagano/news/20100518ddlk20040002000c.html

棚田:再びピンチ 管理の農家、高齢化 保存活動曲がり角−−千曲 /長野

棄老伝説と「名月の里」で知られる千曲市の「姨捨(おばすて)の棚田」の保存活動が、先細りに陥っている。都会の「オーナー」に農作業を体験してもらおうと棚田の貸し出し事業を行っているが、日常の管理を担う地元農家の高齢化が進み負担が重くなっているからだ。癒やしを求め応募は増えているものの、今年度のオーナーは前年度から2割強減らさざるを得なくなった。全国有数の棚田の行く末が懸念されている。【小田中大】



姨捨棚田

 善光寺平を一望する姨捨山のふもとに広がる約1500枚の水田。春の夜は棚田の1枚ごとに月が映る「田毎(たごと)の月」で知られ、日本三大車窓の一つとされる。平安時代の「大和物語」には、信濃国更級の山へ老いた伯母を捨てた男が、思い直して連れ戻したことから「姨捨山」と名付けられたとの伝説がある。99年、全国の棚田で初めて国の名勝に指定された。

棚田の保全も確かに気になるけど、この
棚田の1枚ごとに月が映る「田毎(たごと)の月」で知られ、日本三大車窓の一つとされる。」
部分を読んで、一つの疑問を思い出したのだ、田んぼでの作業中、仲間と「田毎の月」というのが本当にみられるのかが話題になったのだ。
 「海の上に月が出てたら、月は一つしか映らない。それを分割しったって無理だ、高低差があるとそうみえるのか、でも月と地球の距離と、棚田の高さの差でそんなことが起こるとは思えない」っていうのが私のその時の意見でした。

 色々調べてみました。
 http://homepage3.nifty.com/hosimi/koramu11.htm
 に「「田毎(たごと)の月が見たい」」というコラムを見つけました。

田毎(たごど)の月とは,広辞苑によると,「長野県更級(さらしな)郡,冠着山(かんむりきやま)の山腹の,段々に小さく区切った水田の1つ1つにうつる月」とあります。
 俳句にも
 「帰る雁 田毎の月の くもる夜に」(与謝蕪村
などとうたわれています

 ところで,「田毎の月」は,左の図のように,棚田(斜面の等高線に沿って作られた小さな田)の一つ一つにうつる月なのでしょうか?
 現実には,いくらたくさん田があったとしても,光の反射具合から考えると,同じ月(同じ月の部分)が複数の田に同時にうつることはありえません。
  しかし, 月の高度がまだ低い場合,右の図のように数枚の田にわたって1つの月が分割してうつることはあります。
これが,田毎の月の正体です。

 従って,田毎の月が見られる地形は,次の4つの条件が必要となります。
 1 棚田のように斜面に作られた幅の狭い水田があること。
 2 水がはられた直後か,稲がまだ小さく,水面が十分見える時期であること。(5〜6月)
 3 棚田が見渡せる高台が,その向かい側にあること。
 4 月がのぼってから間もない頃か,もうすぐ沈みそうになっている時間であること。(前者であれば西向きの棚田,後者であれば東向きの棚田である必要があります) 

棚田の一枚ごとに月が映るってことはなさそうです。

http://www32.ocn.ne.jp/~gaido/fusigi/tagoto.htm

にも、いくつかの田にまたがって映り、一つの月がいくつかの田に分割されて映ることの解説があります。

たくさんの田んぼがあるところを歩きながら、田んぼに映る月を見て歩く、様子を田毎の月といったのかな?

「田毎の月」で画像を検索するとこんな絵が見つかりました。安藤広重の名所図会「更科田毎の月」をご覧になりたい方は
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/46/001a790f28b3cb5adf3cb1b7f0a47c09.jpg
を見てください。
 この絵のように映ることは絶対にないようです。
 

2010-05-17 Photoミシュラン

Photoミシュラン騒動

Photoミシュランという、ホームページがある。
http://www.unisonas-dic.com/photo_michelin/index.phpより

巷ではあまたの写真展が毎週開催されています。すべてをみる事は不可能です。そこで、「Photoミシュラン」ではなるべくたくさんの写真展をみて回り、失礼を承知のうえ、自己中心的に独断で簡単な感想と展示作品の評価(5つの星の数で評価する)を記すことにしました。あくまでも評者の主観です。そして、写真に関心のある人たちは参考にして、直接会場に行き、自分の眼で評価し好きな写真家を探して頂ければと思います。それこそ写真作家たちの望むことでしょう。そして、写真を愛するすべての人たちに幸あれ。

ということですが、なかなか批評は辛口です。このサイトがtwitterで話題になりました。

genmegane
2010.05.16 14:23:07
PHOTOミシュラン:写真展を批評&星五つで格付けしている。こういうサイト、とても面白いので増えるといいんだけどなあ。http://www.unisonas-dic.com/photo_michelin/index.php via Twittelator


で始まった。つぶやきの連鎖をhttp://togetter.com/li/21918でまとめてみました。

2010-05-16 田植え

田植え(1)

 今日は田植え。お手伝いしている方の田んぼの田植えです。
 苗の成長が遅れ、今日できるかどうか危ぶまれたのですが、どうにか間に合いました。
 ここでは、田植機を使うので、人間が機械では上手く植えれれない田んぼの端を植えたり、苗が浮いてしまったのを手直しするだけなのですが、田植機「SANAE」ちゃんのご機嫌が悪いと、手作業が増えてと大変な作業になるのですが、今日は「SANAE」ちゃんの機嫌もよく。あっという間に終りました。来週はもう一つの田んぼの田植えです。
f:id:heliograph:20100516145605j:image
上の写真では、稲を植えたかどうか分からないかもしれないので、田んぼの方にカメラを向けて撮ってみました。稲が植えてあるのがわかるでしょうか?
f:id:heliograph:20100516150103j:image

2010-05-15

長谷川等伯

omuraji(大村益三)さんが、長谷川等伯の松林図絵に対する。疑問をつぶやいていたが、今日はqualquelleさんのつぶやきをRTしていた。qualquelleさんはtwilogにまとめていましたので、今日はhttp://twilog.org/qualquelle/からの引用です。

連休中の感想。京都国立博物館で、『没後400年 特別展 長谷川等伯』を見た。展示は初期作品と目される仏画から始まる。金泥を多用した細密描写に、同行の作家氏は、「心の無い絵ですね」「納期の芸術ですね」と目を輝かせていた。


posted at 18:03:24


そこで氏に、「信春=等伯」とか、「信春時代の仏画の細部に後年のモティーフが」とか、「松林図は出身地・七尾海岸線の松にそっくり」といった「説」を紹介してみる。彼は一々怪訝な表情になり、「そんなんでいいんでしょうか」「ほほう。目からウロコが落ちました(棒読み)」と言った。


posted at 18:03:56


実際、「等伯展」に並ぶ作品群は全くトータリティを欠いているだろう。「これも等伯、あれも等伯」というような、「取り敢えず」や「言わずもがな」を一堂に揃えたスペクタクル。言わば「等伯」とは、仮説のアンソロジーであり、蓋然性の束なのだ。


posted at 18:04:30


作家氏は「日本ナカグロ美術ナカグロ史ですね」と言い、うひょひょひょと笑った。


posted at 18:04:43


同展公式サイトは、『松林図屏風』に次のような解説を付していた。「あたかも霧がそこに実在し、おのれを包み込むかのような錯覚を観る者に抱かせ」「温もりや孤独、切なさや美しさ、慟哭(どうこく)や無常など、さまざまな感情を呼び起こさせるのも、もう一つの大きな魅力」


posted at 18:05:17


一方、我々は、「この松、アタリとってますね、ほら、あの根元のところとか。その上で内側を塗りつぶしている。こいつ、チキンじゃないですか」「『心ない』作品ですね。心より手です。手際ですね」


posted at 18:05:47


等伯」という虚構は、特に『松林図屏風』において自縄自縛に陥る。署名もなく、印章は偽印と見られているが、本当に等伯真筆なのか。そして屏風絵なのか襖絵なのか。そもそも本画なのか下図なのか。どちらが右隻で左隻なのか。ぜんぶ分からない。


posted at 18:06:35


にも関わらず、『松林図屏風』は傑作だから等伯であり、等伯だから傑作である。それも、日本絵画史上の最高傑作である。


posted at 18:07:21


樹木や山影の配置、大気表現が『松林図屏風』と似た『檜原図屏風』という作が、禅林寺に蔵されている。この『檜原図』にも署名落款がないが、同展では等伯作と断定されていた。なぜなら、『松林図』と似ているからである。


posted at 18:09:30


前から思っていた事なんだが、近世以前について行われている日本美術史研究というのは、果たして学問なのだろうか。「事実」というものの扱い方が、どうも他の分野とは異なっている気がする。


posted at 18:11:44


等伯展での『松林図』と『檜原図』の扱いには、可能性に可能性を上乗せしたものが「事実」、というような奇怪なヴィジョンが垣間見られた。これをカルトとか疑似科学と言って悪ければ、印象とか共感とか感応を大前提とした、一種の「芸能」ではないか。


posted at 18:13:37

2010-05-14 なぜ書くか

なぜ書くか

精神科医がものを書くとき (ちくま学芸文庫)

精神科医がものを書くとき (ちくま学芸文庫)

を買った。最初に載っている「精神科医がものを書くとき」から引用

 何も書かないのが最高であるといちおうは思う。第一、この言明には「格好のよさ」がある。
 かって詩人ヴァレリーは「なぜ書くか」というアンケートに「弱さによって」と答えたという。彼の書いた散文のほとんどは依頼原稿であった(詩であり代表作の『若きパルク』でさえアンドレ・ジッドの依頼によるものである)。もっとも、断り切れない弱さというだけでなくて、書こうとする内部の衝動に安易に負けてしまうという含みがあるだろう。私の書いたものも、大部分は依頼原稿である。しかし、自分を書かざるをえない場所に追い込んだことも何度かある。たとえば、後で原稿依頼のくることのわかっている研究会に出席するなどである。これは、私が自分に書かせるように罠を仕掛けたということで、私は決して「イノセント(無罪)」ではない。
 では、私が何も書かなかったら、どうなっていたであろうか。振り返ってみれば、あまりよいことになっていないのではないか。ひょっとすると独善的になるか。あるいは無内容になっていたと思う。トーマス・マンは「もし自分が書かなかったら限りなく憂鬱になっていただろう」と言っているが、重い鬱病になっていあたかもしれない。独善的あるいは無内容になる前にまず憂鬱になっていただろう。書くことは明確化であり、単純化であり、表現衝動の「減圧」である。何よりもまず、書くことに耐えない多くの観念が消え去る。あるものは、その他愛なさによって、あるものは不整合によって、あるものは羞恥によって却下される。おそらく、夜中に大発見をしたと思い、朝その下らなさに呆れるのと同じことである。

コニカミノルタプラザへ

新宿コニカミノルタプラザへ行く。
まず、南野慶太「loop」展を見る。
 http://konicaminolta.jp/plaza/schedule/2010may/gallery_a_100511.htmlより作者のコメント
 >>
私たちが生活している身の回りには、輪というものが存在する。それは無限にあり、形、匂い、大きさ、全て異なり、人・言葉・音・色など様々な世界の輪が日々交じ合い、シャボン玉のように形成されては消滅していき、永遠に繰り返されていく。
<<

 街の中で、ガラスや金属部分に映り込む景色、ガラス越しの風景どを撮っている。私もよく同じようなものを撮るので、作者に共感できた。コントラストの強いプリントが印象的だが、私ならどうプリントするのだろうとか考えて見ていた。

次に、田口 眞「地球の表情」展を見る。
http://konicaminolta.jp/plaza/schedule/2010may/gallery_b_100511.htmlより作者のコメント

長い間面倒を見ていた親が亡くなり、それまでやっていた仕事を完全にやめ、学生時代から長い間中断をしていた写真を始めました。地球という貴重な星、悠久の時間により創られた様々な表情を撮り続けています。風景という観点でなく、地球のさまざまな状況で創られた表情を撮るという点から、今は『水、岩など』を主体に、色・象徴を求める事なく創られた形と情景を撮影しています。

6x6で、岩に接近して撮った写真だけで構成した方がよかったような気がする。引いて、どのような岩の一部であるかを見せた写真はいらなかったのではと思った。
 

2010-05-13 ルールのない大量の収集物

これが写真の未来?

 今年の横浜で開かれたカメラショウCP+で、「御苗場」というスペースが設けられていた。
お金を出して、誰でも写真を展示することができるようになっていたようだ。CP+に行ったのだが、写真を展示してあるスペースがあるのは分かったが、遠目に見て自分が見たい写真ではないと思い近づくのをやめてしまった。
 http://www.onaeba.com/
を見て分かったのだが、レヴューアーとして、小山 登美夫(小山登美夫ギャラリー代表)、鈴木 佳子(東京都写真美術館事業企画課普及係主任)、テラウチマサト(写真家/「PHaT PHOTO」編集長)、姫野 希美(赤々舎代表)、天野 太郎(横浜美術館主席学芸員)等が並んでいて、それなりに写真で何か表現しようと思っている人達が出品したのではないかと思うのだが。今日送らてきたGRAPHICATION(FUJIXEROXのPR雑誌)に谷口雅さんが、「御苗場」について「猥雑なまでのエネルギーを生み出すカメラショー」という文章を載せていた。



遠目に眺めて、狭苦しくてゴチャゴチャした展示だなというのが最初の印象だった。老いも若きも「写真好きの聖地」(主催者のキャッチコピー)に集い、好き勝手に展示をしていたそのエネルギーの濃さは多少気持ち悪くもあり、素直に溶け込めるというものではなかった。怖いもの見たさというような気分で通路に足を入れて、半分後悔、写真を見る気分になどととてもなれなくて、展示面に挟まれた狭い通路を足早に通り抜けようとしたのだが、壁面だけでなく通路にも写真や小物が並べられ、立ち止まって熱心に写真を見ている観客に加えて座り込んでいる観客(作者?)などもいて、行く手を阻まれる。コミケとやらの雰囲気に似ているのだろうか。
 左右の壁面をざっと見ていくと、個々の写真はさほど異様なものではなく、ごく普通写真好きな若者、老人たちが撮っていそうな型どおりの写真であった。そうした普通の写真が大量に集められ、ひとつひとつが目立とうとして展示方法に様々な意匠と工夫を凝らしていたことが、猥雑なエネルギーを生み出している原因のようだった。
 ポートレート、風景写真、記念写真、小動物の写真。「空想の美術館」ならぬ「空想の博物館」とでもいうべき写真の旺盛な収集癖、雑多な価値観によって雑多に集められたそれらの画像は、コレクションのルールを持たない大量の収集物として強くその存在を訴えてくる。まるでその壁面が、ストリートの落書き(グラフィティー)のようなエネルギーを発散させていた。



これが写真の未来?
 
 これまで写真を蹂躙するかのような様々な動き、写真がずいぶん稚拙になり、誰もがカメラを持った途端に記録者ではなく(自己)表現者になっていく。その表現は過剰に装飾性に片寄り、自己を中心に捉え、他者の価値観を厚かましく侵食していく、そうした(自己)表現を嫌い、自己を消し去ることで作品の純粋化と自立を想ってきた世代にとっては、耐え難い事態が進行しているようだ。
 しかしながら、この混沌のエネルギーほどに二十一世紀の写真の未来を思わせるものはない。人が集まり、つながりが生まれ、写真というメディアと自分についての言葉が飛び交じっていく。コミュニティという言葉が相応しく思われる。
 デジタルテクノロジーに支えられたこの簡便な表現装置は、所有という人の欲望を仮想し、増幅と拡散を繰り返してゆく。一人一人の欲望を隠さない。剥き出しの写真がそこにあった。ひどいショックを受けたのかもしれないし、その事実を認めざるを得ないと感じたのかもしれない。そしてその圧倒的なエネルギーカオスがうらやましく思えるのにさほど時間はかからなかった。
 気持ちが悪いという感覚が消えることはなかったが、崩れていく価値観と写真の再生の可能性を想い、複雑な想いで会場を後にした。


この会場の様子は
D
で見ることができます。

2010-05-12 禁断の話

「長谷川等伯」の「絵の実力(禁断)」の話

omuraj(大村益三)さんのtwitterより。

omuraji
2010.05.09 23:46
さて本日めでたくも京博の「長谷川等伯展」が終わった。 via web

http://twitter.com/omuraji/status/13671080608

omuraji
2010.05.09 23:46
昨日の事、銀座という場所に出掛け、そこで画廊のお姉さん(某美大絵画系大学院を数年前に修了)と帰る方向が同じなので、一緒の電車で帰ったりした訳である。そしていつしか話題は「長谷川等伯」になった。そして「長谷川等伯」の「絵の実力(禁断)」の話になった。 via web

http://twitter.com/omuraji/status/13671103257

omuraji
2010.05.09 23:47
長谷川等伯」の「絵の実力(禁断)」について。「そうですよね。そう思っているのは、私だけかと思っていて、少し不安に思っていたんですが、やっぱりそうでしょ」。「それは、一緒に京博で見た某美術館の学芸員氏も同じ意見でした」。 via web

http://twitter.com/omuraji/status/13671146019

omuraji
2010.05.09 23:48
その某学芸員氏は、京博の会場で「ああ何てひどい絵だ」を繰り返していた。それは、周りの善男善女に聞かせる意味もあったであろう。 via web

http://twitter.com/omuraji/status/13671178533

omuraji
2010.05.09 23:48
その画廊のお姉さんもまた、東博の会場で友人(某美大絵画系大学院修了)と同じ様な事を、会場で聞えよがしに話していた様だが、しかし「長谷川等伯」の「絵の実力(禁断)」についての自らの最終的な評価には自身が持てなかった様だ。 via web

http://twitter.com/omuraji/status/13671200776
自身->自信

omuraji
2010.05.09 23:49
等伯と言う人物もまた、写楽程ではないが、謎の多い人だ。今回の展覧会はその謎の部分を「仮説」によって強引に埋める事で成立している。例えば信春と等伯は同一人物であるという「仮説(定説とされている)」に従って、前半と後半は強引に繋げられた。 via web

http://twitter.com/omuraji/status/13671232795

omuraji
2010.05.09 23:50
「松林図屏風」が等伯の筆になるというのも「仮説(定説とされている)」に基づく。その上、今回の展示ではその展示スタイルもまた「仮説」によってなされていた。そしてわざわざ「松林図屏風の展示の仕方について」と題された掲示がその傍らに掲げられていた。 via web

http://twitter.com/omuraji/status/13671260500

omuraji
2010.05.09 23:50
>本来、この「松林図屏風」は障壁画(の下絵)の一部をなしていた可能性が高いもので、のちに屏風に仕立てたと考えられています。そこで本展では、制作当初の状態(等伯の意図)に近づけるために折り曲げずに展示しています。 via web

http://twitter.com/omuraji/status/13671274156

omuraji
2010.05.09 23:51
掲示文の前半部は、それが「仮説」である事を匂わせているものの、後半部はいきなり「定説」扱いになっている。 via web

http://twitter.com/omuraji/status/13671309283

omuraji
2010.05.09 23:51
「製作当初の状態=等伯の意図」というのも謎だ。 via web

http://twitter.com/omuraji/status/13671337959

omuraji
2010.05.09 23:52
それでもその「定説」が正しいとしよう。ならば、今日見られる「松林図屏風」の「比類の無さ」は、周囲(敢えて「不要部分」とする)をカットした「トリミング」によって得られたものであるという事を意味している。即ち、この「国宝」は「トリミング」という「エディトリアルワーク」の賜物なのだ。 via web

http://twitter.com/omuraji/status/13671309283

omuraji
2010.05.09 23:53
国宝」がエディトリアルワークの賜物。しかしそれこそが、或る意味で「日本」を表わしていないだろうか。「日本」に於ける価値とは、世界の全体系からの「トリミング」があってこそ、初めて成立するものも多い様な気がする。 via web

http://twitter.com/omuraji/status/13671442865

omuraji
2010.05.10 00:27
長谷川等伯」に戻る。あの「松林図屏風」の展示方法は、結局何を意図したものか。屏風絵にとって、あの状態は丁番部分にストレスの掛かるものだという。しかし一旦、屏風絵というフォーマットを否定して、西洋絵画に互する「絵画」の文脈で見るのなら、それは極めて「正しい」。 via web
http://twitter.com/omuraji/status/13673169792


これを読んだ、edtion1(版一欠)さんがつぶやいた。

edtion1
2010.05.09 23:53
omurajiさんが自称アートファンの方々の楽しみをひっくり返しているww via TweetDeck

http://twitter.com/edtion1/status/13671426515

 そう、東京で「長谷川等伯」展をみたとき考えていたのは、屏風って最初から、折り曲げて、鑑賞することを考え、その効果を計算して描いたのとそうでないのもあるのではないかということだった。
 平面上に描かいたものを、他人に屏風に仕立てられることもあるわけなので、作者がそこまで考えていないと安易には言えないんですね。

 

2010-05-11 見せる人がいなくても写真をとるのか?

ソニー、「ミラーレス一眼レフ発表」


発表されたのは2種類のボディー『NEX-5』『NEX-3』と3本のレンズ「E 16mm F2.8」「E 18-55mm F3.5-5.6 OSS」「E 18-200mm F3.5-6.3 OSS」だ。

主な特長
1. 高画質性能

  • “Exmor”APS HD CMOSセンサー・画像処理エンジン「BIONZ」(ビオンズ)を搭載
  • ISO感度「AUTO」は、ISO200〜1600 ,ISO12800まで手動設定できる。
  • フルハイビジョン動画撮影(『NEX-5』)

2. 世界最小・最軽量のボディ(『NEX-5』。レンズ交換式デジタルカメラボディとして。2010年5月11日広報発表時点。)

3.交換レンズ

  • E16mm F2.8 携帯性に優れた(薄さ22.5mm 質量67g)薄型の広角レンズ。35mm換算24mm
  • E18-55mm F3.5-5.6 OSS 35mm換算で27mm-82.5mmの焦点距離をカバーする光学約3倍のズームレンズ。
  • E18mm-200mm F3.5-6.3 OSS 35mm換算で27mm-300mmの焦点距離をカバーする光学約11倍のズームレンズ

3. その他

詳しくは

を見てください。

 

読者がひとりもいなくても書くことができるのか?


昨日に引き続き高橋源一郎さんかのTwitterより引用しました。

今回は、「読者が一人しかいない作家、読者がいない作家」についてでした。

今日は、読者の話をしたいと思っています。作者がいて、小説を書き、それを何百とか何千とかあるいはそれ以上の数の読者が読む。それがふつうです。というか、ぼくたちはそれをふつうだと思っています。しかし、中には、読者がひとりしかいない作家。読者がひとりもいない作家もいます。
そういう作家はつまらない、とるに足らない存在なのでしょうか。なぜ、読者がひとりもいなくても書くことができるのでしょうか。もしかしたら、それこそが理想の関係なのかもしれないと思うことがあります。そのことをうまくしゃべれたらいいなと思っています。では、24時に路上で。


takagengen
2010.05.11 00:01
メイキングオブ『「悪」と戦う』10の 1…伊藤整文学賞を受賞した宮沢章夫さんの『時間のかかる読書』はたいへん奇妙な本です。というのも、横光利一の『機械』という、原稿用紙で50枚ほど、一時間もかからずに読める短編を、実に11年もかけて読んだ記録だからです。なんという愚行でしょう! via web

http://twitter.com/takagengen/status/13731099359

takagengen
2010.05.11 00:04
メイキング10の2…ぼくだって「全文引用」なんて馬鹿なことをしますが、さすがに宮沢さんにはかなわないと思ったのでした。そして、同時にこの宮沢さんの「愚行」にはきわめて正しいなにかがあるとも思ったのです。ぼくたちは通常、作家が何年もかけて書いた小説を半日で読んで、当然だと考えます。 via web

http://twitter.com/takagengen/status/13731236803

takagengen
2010.05.11 00:07
メイキング10の3…しかし作家が3年かけて書いた、ということは、彼はその作品を3年「読んだ」のです。3年かけて読まれた作品と、半日で読まれた作品は、たとえ同じ言葉が書いてあったとしても別物ではないかとぼくは思うのです。そして、時には、3年かかった作品は3年かけて読むべきだとも。 via web

http://twitter.com/takagengen/status/13731369062

takagengen
2010.05.11 00:10
メイキング10の4…いや、ぼくだってそんなことはしません。そんな時間はないのですから。なのに、宮沢さんは、25頁ほどしかない短編を(作家によっては一日で書いてしまう量です)11年もかけて読んだ。おそらく、宮沢さんは、作者の横光利一が見たのよりもさらに豊かな風景を見たはずです。 via web

http://twitter.com/takagengen/status/13731492901

takagengen
2010.05.11 00:14
メイキング10の5…ぼくが言いたいのは、もし横光利一が生きていたら「ぼくには、少なくともひとりは読者がいた!」と言ったのではないかということです。ただ「読む」のではなく、その先にまで進んでくれる読者が、と。それは、なんというか恐ろしく孤独な読者ではあるのですが。そして、ぼくは別の via web

http://twitter.com/takagengen/status/13731660070

takagengen
2010.05.11 00:17
メイキング10の6…ある、極めて孤独な小説の書き手を思い出したのです。それは、数年前にドキュメンタリー映画が公開されたヘンリー・ダーガーという老人です。ダーガーは1892年にシカゴに生まれ1973年に81歳で亡くなりました。17歳から亡くなる直前間まで彼は病院の掃除夫でした。 via web

http://twitter.com/takagengen/status/13731816299

takagengen
2010.05.11 00:20
メイキング10の7…晩年の40年間、彼は6畳ほどしかないアパートの一室で誰にも知られず創作活動を行っていました。無口で独身で友だちもいない、病院とアパートを往復するだけで半世紀を過ごした彼が亡くなった後、ゴミで埋まった部屋から膨大な数の絵と途方もない長さの小説が見つかったのです。 via web

http://twitter.com/takagengen/status/13731952318

takagengen
2010.05.11 00:29
メイキング10の8…彼の凄まじい絵のはやがて「アウトサイダーアートの傑作」として知られるようになります。しかし、ぼくが魅かれたのは『非現実の王国』と題された、計算すると、長編小説75 冊から150冊分ほどもある、天国的な長さの小説の方でした。どんな人間がそんな無謀なことをできるのか via web

http://twitter.com/takagengen/status/13732357355

takagengen
2010.05.11 00:32
メイキング10の9…もちろんそんな長さのものは出版されてはいません。一部が彼の作品集の中で読めるだけです。それを読むと、読者は不思議な感覚に襲われます。いったい、発表のあても、つもりもなく、このような異様な(戦争)小説を書けるのだろうか、と。ダーガーは狂っていたのでしょうか。 via web

http://twitter.com/takagengen/status/13732492055

takagengen
2010.05.11 00:35
メイキング10の10…ある意味で彼は狂っていたのです。しかし、ある意味で、彼は、その過酷な生涯の中で、狂わずにいるためには、小説を書き続けるしかなかったのです。彼が生きたのはインターネットもなかった時代でした。というか、彼には、犬を飼うために必要な月に2$の金もなかったのです。 via web

http://twitter.com/takagengen/status/13732612065

takagengen
2010.05.11 00:38
メイキング10の11…彼は完全に孤独でした。彼が創作をしていることを知っている人間さえ生前には皆無だったのです。しかしそれにもかかわらず、彼は狂わずに小説を書き続けた。自分という読者に向かって? そうともいえます。いや、そうやって、わかったつもりになるべきではないのかもしれません via web

http://twitter.com/takagengen/status/13732758122

takagengen
2010.05.11 00:40
メイキング10の12…フランツ・カフカは亡くなる前、友人のマックス・ブロートに全著作を燃やすよう遺言したとされています。しかし、ブロートは、カフカの言いつけを守らず、その結果、ぼくたちはカフカの作品を読めることになったのです。実際、カフカは本気でそんなことを言ったのでしょうか。 via web

http://twitter.com/takagengen/status/13732863692

takagengen
2010.05.11 00:43
メイキング10の13…カフカは「本気」だった、とぼくは考えています。彼は「書く」だけで充分だと考えていた。それが結果として、この世界に残り、読者に読まれる必要さえ彼は感じなかった。なぜなら、彼は、彼の作品を書いているその瞬間、瞬間に、「読者」の存在を感じていただろうから、です。 via web

http://twitter.com/takagengen/status/13732972216

takagengen
2010.05.11 00:46
メイキング10の14…たとえば『変身』を読んでください。主人公のグレゴールはある日突然「虫」になる。おそらく、「虫」になった人間はグレゴールだけです。『変身』は、世界でただひとり「虫」になった人間がそれを受け入れる物語です。人間たちは、「虫」の内面に人間がいることに気づきません。 via web

http://twitter.com/takagengen/status/13733127050

takagengen
2010.05.11 00:49
メイキング10の15…しかし、人間もまたその表面とは異なった「内面」をもっていて、それが伝えられないことで悩んでいるのではないでしょうか。だから、ほんとうは人間も「虫」なのです。グレゴールは、「虫」になり、すべての人間から「おまえが理解できない」と宣言されて初めてそのことに気づく via web

http://twitter.com/takagengen/status/13733268045

takagengen
2010.05.11 00:53
メイキング10の16…部屋に閉じこもり、妹からの差し入れをドアから受けとりながら書き続けるカフカこそ「虫」なのです。「書く」ことを通じて、「虫」の孤独を知ること、それが「書く」ことがカフカに送り届けた最大の贈り物でした。だとするなら、それ以上のものを、他人に読まれることを…… via web

http://twitter.com/takagengen/status/13733465808

takagengen
2010.05.11 00:57
メイキング10の17…求める必要などあったでしょうか。「虫」たらざるをえない、にもかかわらずそれを知ることのない人間たちの、すべての運命を見つめることができたと確信した時、「虫」たることの宿命に従うことが、カフカにとって自然であったようにぼくには思えるのです。 via web

http://twitter.com/takagengen/status/13733620623

takagengen
2010.05.11 01:00
メイキング10の18…最後にもう一つ話をさせてください。とても個人的なことです。およそ三十年前、ぼくはデビュー作の『さようなら、ギャングたち』という小説を書きはじめようとしていました。準備はできていました。なにを書くかも決まっていました。でも、一つだけわからないことがあったのです via web

http://twitter.com/takagengen/status/13733744807

takagengen
2010.05.11 01:02
メイキング10の19…それは、「誰に向かって書くか」ということでした。それがぼくにはわからなかった。思えば、その頃のぼくは頭がイカレていました。その十年前にみんなの前から姿を消し、連絡をとっている友人は一人きり。小説を書かなければ死ぬしかないと思い詰めて書き始めたのです。 via web

http://twitter.com/takagengen/status/13733862091

takagengen
2010.05.11 01:06
メイキング10の20…ぼくのことなど誰も興味がない。ぼくがなにかを書いたって読みたいやつなんかいるはずがない。そんなことばかりが頭に浮かび、部屋を歩き回り、犬みたいに吠え、また原稿に向かう。しかし、何行か書くと、不安のあまり歯ぎしりする。もうダメかもしれないと思った時のことです。 via web

http://twitter.com/takagengen/status/13734026089

takagengen
2010.05.11 01:09
メイキング10の21…深く影響を受けていた詩人吉本隆明さんのことが思いうかびました。「あの人ならきっと理解してくれるにちがいない」。なんとなく、いや確信に近い気持ちで、突然、思ったのです。そしたら、書けた。そして、ぼくは「この世にたった一人の読者」に向かって書き始めたのでした。 via web

http://twitter.com/takagengen/status/13734185695

takagengen
2010.05.11 01:12
メイキング10の22…書き上げられた『さようなら、ギャングたち』は佳作入選で、ほとんど話題を呼びませんでした。どうしよう、とぼくは思った。これ以上なにをすればいいのだろう。数カ月後、突然、吉本隆明さんが当時の文芸時評で、『さようなら、ギャングたち』をとりあげてくださったのです。 via web

http://twitter.com/takagengen/status/13734331642

takagengen
2010.05.11 01:16
メイキング10の23…出版社が「吉本さんがとりあげてくれたから売れるんじゃないか」といって単行本化が決まったのは、その後でした。たったひとりで、たったひとりの読者に書いた小説は、そのたったひとりの読者にだけ届いていたのです。読者は、ひとりでいいのです。それがどんなひとりであろうと via web

http://twitter.com/takagengen/status/13734501459

takagengen
2010.05.11 01:18
メイキング10の24…今晩は、ここまで。いいたいことはいくらでもあります。でも、またにします。『「悪」と戦う』の発売まで、あと三日ほどになりました。明日からは、この小説について、話していくつもりです。ありがとう、聞いていただいて。感謝してます。 via web
http://twitter.com/takagengen/status/13734592553


 まだ、flickrBlogでは紹介していない、大型カメラで撮っている写真について誰のために撮っているのかって考えても、見せる人として思い浮かべるのはほんの少ししかいないし、自分一人だけかもしれないという気持ちになることがあります。
 
 

2010-05-10 高橋源一郎さんのtwitter

「真実でなければならない」という幻想

5月7日

朝日新聞でも取り上げられていた。

高橋文学論、ツイッターで 読者と対話「路上ライブ
作家の高橋源一郎さん(59)が今月2日から、インターネット上のツイッターで、文学論をつぶやいている。特定の時間に書き込み、読者と直接やりとりをする。「生放送のラジオ番組のようなもの」だと高橋さん。文学ツイッターの出あいに、どんな関係を見いだそうとしているのか。

 企画のきっかけは、新作小説『「悪」と戦う』(河出書房新社)を刊行することだ。今月14日の発売日まで、ネット上で「メイキングオブ『「悪」と戦う』」と題して連日つぶやくことにした。

以下略

http://book.asahi.com/clip/TKY201005070290.html

今日は、

写真と小説、それから、小説につきまとう「真実でなければならない」という幻想の理由について話すつもりです。

ことでした。

以下、高橋さんのつぶやきを引用しました。

takagengen
2010.05.10 00:02
メイキングオブ『「悪」と戦う』9の1 久しぶりにスーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』を読み返して、以前読んだはずなのにすっかり忘れていたことにぶつかった。それは、ロベール・ドワノーの写真に関するエピソードだ。それはたぶん誰でも一度は見たことのある、ものすごく有名な写真。 via web

http://twitter.com/takagengen/status/13671875272

takagengen
2010.05.10 00:05
メイキング9の2…パリの街頭で、若い恋人たちが口づけを交わしている。左側の女の子は軽く半身で上を向き、右側の男は、カメラに正体するように体を向け、女の子に口づけ中。そんな二人だけの世界に入った恋人たちと無関係に、通行人が歩いている。右端の通行人はカメラがぶれてはっきり映っていない via web

http://twitter.com/takagengen/status/13672064139

takagengen
2010.05.10 00:08
メイキング9の3…世界中で「パリの恋人」として知られたスナップ写真が「やらせ」だとわかったのは、撮影されてから40年後のことだった。もちろん、その写真を愛した人たち(ぼくもその一人)、はガックリした。「ほんとう」だと思っていたのに「うそ」だったから。写真自体には変わりがないのに。 via web

http://twitter.com/takagengen/status/13672212488

takagengen
2010.05.10 00:11
メイキング9の4…キャパのあまりにも有名な「崩れ落ちる兵士」だって、それが演出だとしたら、意味も価値もぜんぜん違ってくるだろう。写真に変わりがなくても。報道写真だから「事実」として受けとるのは当たり前じゃないかって? でも、ある時期まで、報道写真の多くに「演出」が入っていたのだ。 via web

http://twitter.com/takagengen/status/13672348728

takagengen
2010.05.10 00:14
メイキング9の5…写真を前にした時ぼくたちは、写真を見ているのではなく、もしかしたら、そこにあるはずの「真実」を見ようとしているのかもしれない。見たいのは、その映像ではなく、それが「真実」であるという確証なのかもしれない。でも、詩を読む時、書かれていることが真実か気にするだろうか via web

http://twitter.com/takagengen/status/13672504262

takagengen
2010.05.10 00:16
メイキング9の6…映画を見て、どこにこの監督の生の真実があるか考えるだろうか。絵や彫刻を見て、その作者の生涯の隠された真実を探そうと試みるだろうか。でも、写真の前で、まず、ぼくたちは、「真実」かどうかを確かめる。そして、小説を読む時にも。もちろん、あらゆる小説を、ではない… via web

http://twitter.com/takagengen/status/13672639961

takagengen
2010.05.10 00:19
メイキング9の7…あらゆる写真を、ではないようにだ。小説はフィクションだ、ウソだ、作り物だ、そんなことはわかっている、と言いながら、でも、そこになにより「作者の真実」を見たいと思う強い気持ちは残り続ける。なにより、小説家たち自身がそのように実践してきたのだ。『舞姫』は鴎外の…… via web

http://twitter.com/takagengen/status/13672782729

takagengen
2010.05.10 00:22
メイキング9の8…苦しい恋愛のドキュメントだし、漱石の作品の大半は彼自身の苦しい三角関係を描いた(と主張する人は多い)。「私小説」などという、ほとんどノンフィクションのような小説のことを考えずとも、そこに「真実」がある、という視線から、小説は逃れることができない。なぜそんなこと… via web

http://twitter.com/takagengen/status/13672923279

takagengen
2010.05.10 00:26
メイキング9の9…が要求されるのだろう。ぼくは思うのだが、それは読者が不信に満ちているからではないだろうか。美しい物語を作る、血沸き肉踊る物語を作る…それだけでは駄目なのだ。読者はもっと多くを作者に要求する。作者が保持している、作者が隠している、彼(彼女)だけの真実を提供せよと。 via web

http://twitter.com/takagengen/status/13673100209

takagengen
2010.05.10 00:29
メイキング9の10…作者に「犠牲の子山羊」を提出せよと迫るのである。それはなぜだろう。「個」という、逃れることができない場所にいる読者は、ただでは、小説という「公共空間」には踏み出さない。そんなものが信用できるか。ぼくに読んでもらいたいなら、おまえのもっとも大切なものを出してみろ via web

http://twitter.com/takagengen/status/13673261159

takagengen
2010.05.10 00:33
メイキング9の11…そう読者は作者に迫る……ところで少し話を変えてみたい。この話が繋がるかどうか、ぼくにもわからないけど。少し前、このツイッター上で、小さな、個人的な事件があった。数時間、ぼくのアイコンを、息子のしんちゃんに変えたのだ。すると、娘の麻里ちゃんから厳しい指摘があった via web

http://twitter.com/takagengen/status/13673440896

takagengen
2010.05.10 00:35
メイキング9の12…自分の意思を持てない幼児の写真をいろいろなリスクがあるのに載せるのは反対、と麻里ちゃんはいった。まったくその通りだとぼくは思った。120%、それは正しい。だから、ぼくはアイコンを戻した。だが、120%間違っていると思いながら、どうしても言いたいことがあったのだ via web

http://twitter.com/takagengen/status/13673555487

takagengen
2010.05.10 00:38
メイキング9の13…アイコンに自分の子ども(娘)を使っている人がいる。東浩紀さんや宮台真司さんがそうだ。ぼくはそのアイコンを見る度、不思議な感覚に襲われる。あれは、もしかしたら、追悼の写真ではあるまいか。なぜなら、追悼の写真に使われるのは、その対象のもっとも美しい写真だからだし… via web

http://twitter.com/takagengen/status/13673707651

takagengen
2010.05.10 00:41
メイキング9の14…もっとも美しく、過ぎ去ってしまえば戻らぬ瞬間を惜しむ気持ちとは、その季節への追悼だ。そして、その写真の真っ直ぐな視線には、撮る側の愛情も映し出されている。その時、ぼくたちは、また、写真の向こうに「真実」を求めてようとしているのだが、それはその写真が「真実」を… via web

http://twitter.com/takagengen/status/13673888683

takagengen
2010.05.10 00:44
メイキング9の15…匂わせているからに他ならない。だから、あの、子ども(娘)のアイコンは、「愛」に関する「私小説」と同じ構造を持っている。そして、ぼくたちがそのように受けとることができるのは、「作者」が、あえて危険を省みず、娘(家族)を差し出している(ように見える)からなのだ… via web

http://twitter.com/takagengen/status/13673996722

takagengen
2010.05.10 00:46
メイキング9の16…それがどのようなものであっても、そこに「真実」を見つけ出そうとするほどに、ぼくたちは病んでいる。しかも、それは逃れることができない病であるように思われる。だから、ぼくは、間違っているはっきり知りながら、なんの権利もないのに、一枚の写真を使いたいと思ったのだ… via web

http://twitter.com/takagengen/status/13674113113

takagengen
2010.05.10 00:49
メイキング9の17…そのようにして、多くの「私小説」が書かれて、「私」はもちろん、「私」の近くにいる人々が、小説の中に投入された。そのやり方でしか「真実」が担保されないとはぼくは思わない。その多くが無残に終わったことも、中途半端な気持ちで、事実が消費されたことも知っている。だが… via web

http://twitter.com/takagengen/status/13674250124

takagengen
2010.05.10 00:52
メイキング9の18…それが、小説という世界を成り立たせる必須の貨幣である場合もあるのだ。そのことによって、ぼくは、子ども(家族)を、戦場に連れ出してしまうかもしれない。そうしない、と断言することはぼくにはできない。小説家の多くは、みなそういうだろう。だが、と思う。それが…… via web

http://twitter.com/takagengen/status/13674420407

takagengen
2010.05.10 00:55
メイキング9の19…勘違いでないなら、連れ出された子どもが、どんな表情であるかを見てほしいと思う。いや、あのアイコンの写真を見てほしい。あれは「愛されている子ども」の写真ではないかと思う。だから作者は、渾身の力をこめて、その子を守るだろう。守りつつ、その戦場で、読者という孤独な… via web

http://twitter.com/takagengen/status/13674532392

takagengen
2010.05.10 00:59
メイキング9の20…存在への関与も止めないだろう。両立させることは不可能なのかもしれない。それは周りに迷惑をかけるだけなのかもしれない。それにもかかわらず、作者は、止めないだろう。一枚の写真を高く掲げ、前に進むのである。バカだな……今日はここまでにします。聞いてくれてありがとう。 via web

http://twitter.com/takagengen/status/13674732686

2010-05-09 代掻き

代掻き

 今日は、お手伝いをしている田んぼの代掻き。
 田起こしの終わった田んぼに水を張り、まず耕運機で泥を細かく砕きます。そこをトンボで平らにならします。
仕上げは、柱に使うような材木に綱をつけて引っ張って平らにしていたのですが、今年からは、新しい器具が登場。
 2mくらいの塩ビパイプに、30cmくらいのチェーンを何本も取り付け、それにロープを付けて引っ張りました。
 現代農業5月号に除草機として紹介されたものを参考に田んぼの持ち主が作ったもので、代掻きの道具としても使えることが分かりました。
 畔塗りを終え、代掻きを終えて、田植えの準備は無事終了ですが、苗が十分育ってないと、来週、田植えができません。どうなりますか?
 
f:id:heliograph:20100509154357j:image

2010-05-08 風姿花伝

風姿花伝

PLACE M で行われている展覧会「風姿花伝」は見に行っていないし、今日行われた須田一政トークショウにも行けなかった。USTREAM でトークショウを中継されていたようだったが、それも見ていない。twitterで、須田さんの発言のいくつか、紹介されていた。

PlaceM
2010.05.08 20:32
「フィルムのこだわりなどは特にない。なくなる物(印画紙など)を惜しむ気持ちも、最先端のものに飛びつく気もあまりない。」(#fushikaden live at http://ustre.am/haKo ) via TweetDeck

http://twitter.com/PlaceM/status/13603555621

PlaceM
2010.05.08 20:28
「人の写真があまりおもしろくないので、自分が面白いものをつくる。思ったときにはすぐやってくる。あとでとか思うと蜃気楼のように消えてしまう。」 (#fushikaden live at http://ustre.am/haKo ) via TweetDeck

http://twitter.com/PlaceM/status/13603441101

PlaceM
2010.05.08 20:24
「最近の写真は、あまり、、興味がない」(#fushikaden live at http://ustre.am/haKo ) via TweetDeck

http://twitter.com/PlaceM/status/13603299744

PlaceM
2010.05.08 20:04
「やってみて面白くなければすぐやめちゃう」 (#fushikaden live at http://ustre.am/haKo ) via TweetDeck

http://twitter.com/PlaceM/status/13602681824

PlaceM
2010.05.08 19:42
「カメラではなく写真を見るのが好きなことからはじめた。アヴェドンとか」 (#fushikaden live at http://ustre.am/haKo ) via TweetDeck

http://twitter.com/PlaceM/status/13602037813


このような話題にも触れたようですが、内容が分からないので残念です。

PlaceM
2010.05.08 20:14
作品はいつ終わる? (#fushikaden live at http://ustre.am/haKo ) via TweetDeck

http://twitter.com/PlaceM/status/13602975895

PlaceM
2010.05.08 20:04
才能について (#fushikaden live at http://ustre.am/haKo ) via TweetDeck

http://twitter.com/PlaceM/status/13602694408

PlaceM
2010.05.08 19:05
6×6で撮ることについて (#fushikaden live at http://ustre.am/haKo ) via

http://twitter.com/PlaceM/status/13600977651

特に、6x6で撮ることについての話を聞きたかった。誰か、内容をまとめて紹介して欲しい。

田んぼの整備

 今日は田んぼの水回りの整備。周辺の草取り。
 シオカラトンボカラスアゲハアオスジアゲハ等が表れました。
 田んぼの準備は整ったのですが、問題は苗の成長具合です。今のところ、2,3cmしか伸びていないので、一週間後に予定していた田植えは無理かもしれません。
 
f:id:heliograph:20100508134255j:image

2010-05-07 東京都青少年健全育成条例改正案

東京都青少年健全育成条例改正案その後

継続審議となった「東京都青少年健全育成条例改正案」修正案をつくるようだ。
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100508k0000m040025000c.htmlより

石原都知事:性的漫画販売規制の条例案…「文言修正を」

 子供の過激な性行為を描いた漫画の18歳未満への販売を規制する東京都青少年健全育成条例改正案について、石原慎太郎知事は7日の定例会見で「誤解を解くために文言を修正したらいい」と述べ、改正案の表現を一部修正する考えを示した。改正案は3月議会に提案されたが、「表現の自由の侵害」との懸念が広がったため、継続審議となっている。

 改正案は、漫画やアニメで18歳未満として描かれたキャラクターを「非実在青少年」と定義し、非実在青少年への性的暴力を描いた作品などを販売規制する。ところが「言葉の意味が分かりにくい」「定義があいまい」などと批判的な意見が漫画家や出版界からも寄せられていた。

 石原知事は会見で、都職員が考えた非実在青少年を「わけのわからない言葉」「幽霊の話かと思っちゃう」とあっさり否定。一方で内容については「子供の目につくところに置くなという規制だ」と述べ、理解を求めた。

共同通信によれば、
http://www.47news.jp/CN/201005/CN2010050701000630.html

今月18日に都議会総務委員会で社会学者の宮台真司さんら有識者4人を参考人招致して意見を聴く予定。

という動きもあるようだ。

2010-05-06

インファンテリズム

tadanoriyokoo(横尾忠則)さんのtwitterより

tadanoriyokoo
2010.05.06 18:42
ぼくは60代まで歯医者知らずで来た。それが、2、3年前から親知らずが肩がこると時々痛む。今さら抜かなくてもいいでしょうと親しい歯医者に言われているので助かっている。まだ歯を抜いた経験がないが、体内から頭蓋骨の一部を抜きとるなんてこんな恐ろしいことはない。 via web

http://twitter.com/tadanoriyokoo/status/13478346060

tadanoriyokoo
2010.05.06 18:46
以前、歯がボロボロ落ちる夢を何度か見たことがある。身近な人が死ぬ予知夢だと言った人がいたが誰も知らなかった。そういえばぼくの絵の女性は老婆みたいに歯がボロボロに抜けているが、なぜこんな絵を描いたのだろう。http://bit.ly/1Xgurj via web

http://twitter.com/tadanoriyokoo/status/13478444762

tadanoriyokoo
2010.05.06 18:50
ぼくの描く女性は挑発的だ。男性の欲望の具現と評する人もいるが、そうではなく、少年の成熟した大人の女性に対する憧れと恐れを描いているのだ。http://bit.ly/1Xgurj via web

http://twitter.com/tadanoriyokoo/status/13478567292

tadanoriyokoo
2010.05.06 19:00
インファンテリズムこそ芸術の核だ。http://bit.ly/1Xgurj via web

http://twitter.com/tadanoriyokoo/status/13478898564

tadanoriyokoo
2010.05.06 19:01
そのことを確認するためにぼくは執拗に少年物の冒険小説を読みながら、「ン、まだいける!」と自信を持つのだ。http://bit.ly/1Xgurj via web

http://twitter.com/tadanoriyokoo/status/13478907260

tadanoriyokoo
2010.05.06 19:07
マグリットは「ファントム」、ポール・デルボーとニーチェジュール・ベルヌ、キリコはニーチェ三島由紀夫はハガード、皆んなどこかでインファンテリズムと繋がっている。http://bit.ly/1Xgurj via web

http://twitter.com/tadanoriyokoo/status/13479118322

tadanoriyokoo
2010.05.06 19:14
中学生の時、南洋一郎の「バルーバの冒険」を読んでいたが最終巻が出る直前に出版社の倒産。その後45年経って、やっと別の出版社から出た。だけどまだ最終卷は未読のままだ。これを読み終えるとぼくの中の少年性が終ると思うと、まだ読めない。http://bit.ly/1Xgurj via web

http://twitter.com/tadanoriyokoo/status/13479350782

tadanoriyokoo
2010.05.06 19:22
アートを続ける以上常に「幼い老人」でいたい。http://bit.ly/1Xgurj via web

http://twitter.com/tadanoriyokoo/status/13479593604

tadanoriyokoo
2010.05.06 19:41
ヘルマン・ヘッセは人は成熟するに従って若くなると言う。自らの内に少年性を保有していなければ成熟のしようがない。http://bit.ly/1Xgurj via web

http://twitter.com/tadanoriyokoo/status/13480229822

tadanoriyokoo
2010.05.06 19:52
芸術の冒険――内なる少年性に与えられた特権の行使。http://bit.ly/1Xgurj via web

http://twitter.com/tadanoriyokoo/status/13480621030

「インファンテリズム」で検索して、
横尾忠則さんのホームページhttp://www.tadanoriyokoo.com/vision/2008/05.html
の、次のような文章を見つけた。

5月25日
しばらく(さあ2ヶ月以上かな?)絵を描いていないと、このまま永遠に描くことを止めてしまうのかな?とも思ったが、どうもここ数日前から、描きたい気持ちがフツフツと湧いてくるのだった。その点デザインはもう一年以上前から止めているのにちっともそんな気が起こってこないが、これはいよいよ本物であろう。まさか本職であった仕事がある日突然「ヤーメタ」となるんだから人生って気まぐれで面白い。決まったことを決まったようにやっていくというのはどうもぼくの性に合わないらしい。年令と共にだんだんガキっぽくなっていくように思う。芸術におけるインファンテリズム(幼児性)ってきっとこーいうことなんだろうと思う。


「インファンテリズム(幼児性)」か、なんかこれだけは、私にもあるって自信を持って言えます。

2010-05-05 パノラマ

カメラ購入

 水没したカメラは、電池を入れ、POWER ON にすれば、液晶画面に表示されるのだが、すぐにフリーズしてしまう。もう少し乾けば、復活するのではという期待はあるのだが、とりあえず横浜にカメラを見に行くことにした。
 ちょうど、今のカメラで使っていた、電池から、次のタイプの電池にメイカーが切り替えたので、今販売中のカメラで同じ電池を使えるのは一機種のみで、結構高い。それに予備電池を買い足すことを考えると、ますます、お金が必要。やはり、今持っている2個の電池を使えるカメラが欲しい、それにやっとのこの電池用の充電器を手に入れたばかりだ。
 川崎のアウトレットに行き、展示品であるが、少し旧型のカメラを格安で売られていた
買うことにした。
 早速、家から持っていった、充電済みの電池とメモリーカードをセットして川崎の街を歩いた。
 このカメラにはスウイングパノラマというモードがあり、このモードにしてシャッターを押しカメラを一定の速度で地面に水平に保ちながら小さな円を描くようにすると、自動的にパノラマ写真が撮れるのですが、これに結構はまってしまいました。
 Perfect Horizon というソ連製のカメラで街のスナップを撮ってたのですが、カメラの度々の故障で中途半端のままになっていたのですが、Horizonで撮ったときのようにカメラを回す方向と人などの動きが一致すると同じ人が写り込んだりして、HORIZONの時に面白いと思った効果がこのカメラでも得られる。これで、A2程度に伸ばせるのならこのカメラでパノラマシリーズを再挑戦してもようと思う。

2010-05-04

鎌倉近代美術館へ

 神奈川近代美術館鎌倉館へ『春のコレクション展 日本近代洋画の名品選 特集展示―佐藤哲三 生誕100年』を見に行く。
 佐藤哲三の鉛筆のデッサンが良かった。どうも、本格的な油絵よりも、デッサンというか素描の方に惹かれる。
 別館で行われている『新収蔵展』も見たが、荘司福のデッサンにも惹かれた。
 
 

田んぼの作業

 まず神奈川県立近代美術館鎌倉館に行き、お昼、少し前に、もう一つの田んぼの草取り、水路の整理に行きました。
 4、5年ぶりに、サシバが現れたのです。サシバは田んぼの上空を飛び、付近の木に止まり、獲物を探しているようでした。このまま、ここでひと夏過ごしてくれるといいのですが、どうなるでしょう?
 明日は、作業には参加できないので、連休中、最後の田んぼの仕事でしたが、大失敗。
 作業を終え、長靴を洗うために、田んぼに水を引き入れる川?(水路)に入っている時、デジカメを水の中に落としてしまったのです。
 
 とりあえず、今は動きません。乾いたら動くのでしょうか、おそらくダメでしょう。
 いっそ、デジタル一眼レフを買っちゃおうか、田んぼように防水カメラを買うかとか、色々な考えが浮かんできています。さて、どうしますか?

2010-05-03 畔塗り

畔塗り

 今日も田んぼ.畔塗りをしました.田んぼから水が漏れないように、泥を畔に押し付けるの作業です.
今では,畔塗り機というのがあって,大規模な田んぼではそれを使うようですが.われわれは万能と平鍬で行います.田起こしの時,田んぼの淵,つまり畔の方に泥を寄せておき,畔との間を少し空けて,足で真っ直ぐ線を引くように泥を押し込んでおきます.それを田の中に入り,凹んだすきまから万能を入れ,泥を持ち上げ,勢いよく畔に貼り付けます.その後,平鍬で押しつけ,綺麗に仕上げるのです.この作業を終えた時が,田んぼにくっきり縁取りができ,田んぼの姿が一番美しく見えるような気がします.

畔塗り

 今日も田んぼ.畔塗りをしました.田んぼから水が漏れないように、泥を畔に押し付けるの作業です.
今では,畔塗り機というのがあって,大規模な田んぼではそれを使うようですが.われわれは万能と平鍬で行います.田起こしの時,田んぼの淵,つまり畔の方に泥を寄せておき,畔との間を少し空けて,足で真っ直ぐ線を引くように泥を押し込んでおきます.それを田の中に入り,凹んだすきまから万能を入れ,泥を持ち上げ,勢いよく畔に貼り付けます.その後,平鍬で押しつけ,綺麗に仕上げるのです.この作業を終えた時が,田んぼにくっきり縁取りができ,田んぼの姿が一番美しく見えるような気がします.

2010-05-02 今日も田んぼ

『21世紀にマネはいらない。それはどうしてか』<->『21世紀に「いらない」マネを見る理由』

omuraji(大村益三)さんのtwitterより

omuraji
2010.05.02 23:27
昨日のBankART Studio NYKで行われた、村田真氏の『artscape1999>2009 「アートのみかた」』出版記念パーティー。第一部の森司氏との対談の最後の最後で、村田真氏は言った。「現代美術ばかり見てるとバカになる」。 via web

http://twitter.com/omuraji/status/13248182193

omuraji
2010.05.02 23:29
村田真氏は、その受容に於いて「古典美術」と「現代美術」のバランスを取るという意味でそう発言した。 via web

http://twitter.com/omuraji/status/13248312137

omuraji
2010.05.02 23:35
こうした、かつての名作を見るのは楽しいものだ。しかしこのかつての名作と同じ様な絵を描く画家は、同時代的に必要とはされていない。「古典」を穴の開く程見たとしても、それをそのままの形でこの時代に出す事は禁じられている。それは何故か。何故それは「現代」に翻案されねばならないのか。 via web

http://twitter.com/omuraji/status/13248564012

omuraji
2010.05.02 23:37
マネはとても素晴らしいが、21世紀にマネはいらない。それはどうしてか。 via web

http://twitter.com/omuraji/status/13248657165

omuraji
2010.05.02 23:38
ここに「現代美術ばかり」になってしまう理由がある様な気がする。 via web

http://twitter.com/omuraji/status/13248721272


omuraji
2010.05.02 23:39
或いは21世紀に「いらない」マネを見る理由とは何だろうか。 via web

http://twitter.com/omuraji/status/13248783347

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