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2010-06-30 Nature of photographs

写真の本質

早めに職場を出て、本屋へ。
まず、私の日本語雑記を買う。念のためにと、写真論・写真集の棚をチェックしに行って。こんな本を見つけました。

写真の本質―スティーヴン・ショアー入門書

写真の本質―スティーヴン・ショアー入門書

手にとってすぐ買うことにしました。
これは、http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20100223/1266940754で紹介した。

The Nature of Photographs

The Nature of Photographs

を翻訳したものである。
写真を主な4つの章

  • 物理的レベル
  • 描写レベル
  • メンタルレベル
  • メンタル・モデリング

に分け、写真の本質を理解する方法、つまり、写真がどのように機能するかを解説している。
 その解説するために、紹介している写真はスティーブン・ショアの写真だけでなく、ウォーカー・エバンス、ロバート・フランク、ユージェーヌ・アジェ、アルフレッド・スティーグリッツ、ローバート・アダムス、ダイアン・アーバス、リー・フリード・ランダー、ベルントとヒラ・ベッヒャー夫妻、シンディ・シャーマンジョエルスターンフェルド、トーマス・シュトゥルート、アンドレアス・ガスキー、リチャード・プリンス(まだまだ無名な人の写真を含めて沢山あります。)の写真が紹介されています。
 その写真を見るだけでも充分に価値のある本だとおもいます。文章は簡潔ですぐに読めます。とにかく、写真の選び方がすごい。はじめて、スティーグリッツの写真をみて感動しました。
 http://www.carrieacosta.com/class/advanced/nature_of_photographs.pdfでnature of photographのダイジェスト版のスライドショー(パワーポイントか?)が見ることができます。ただし、紹介している写真は大分違います。英語ですが、この本の雰囲気が分かると思います。

2010-06-29 Nikonもミラーレス、Canonは?

Canonミラーレスの噂が

これも同じく,デジカメInfoより、

Photo RumorsにキヤノンのAPS-H ミラーレス機に関するより詳細な噂が掲載されています。

Canon APS-H 1.3x mirrorless

* 以下は、私が受け取ったAPS-H(1.3x)ミラーレス機の可能性についてのメールによるもの

しばしばEOSのテストをしている友人が「キヤノンがAPS-Hのミラーレス機を発表する」と言っている。私がAPS-Cではないのかと聞くと、「1.3xだ」と彼は主張した。「(APS-Hのミラーレス機は)重く、大きくそしてとても高価になりそうだ」と私がコメントすると、彼は「そうはならない。サイズと重さは、パナソニックのG1/GH1ほどもない」と語り、「価格は二桁Dと同じくらいになるかもしれない」とテスト機の作りのクオリティと機能から推測している。

キヤノンがAPS-Hセンサーをミラーレス機に採用して、より需要があると思われる7Dクラスに採用しない理由としては、「キヤノンはレンズをすでに2系列持っており、(APS-Hの)超広角の問題を解決する3つ目のレンズシステムを追加したくないためで、ミラーレス機ならいずれにしろ新しいレンズ群を作らなければならないため」と友人は考えている。このためセンサーはどんなサイズでも可能だ。そして、私の友人によると、キヤノンは次の理由でAPS-Hを選択するということだ。

- APS-Cアップデートに次ぐアップデートで改善が困難になってきている
- センサーの製造コストが下落し、APS-CAPS-Hに大きな違いがなくなっている
- キヤノンは1D用の新型APS-Hセンサーを数年おきに作っているが、他のカメラと開発コストを共有できていない。今回は1D Mark4の16MPセンサーを流用することができる
- 設計によっては、大きなセンサーは必ずしもライバルよりも大きく重いボディになることを意味しない

PhotoRumorsの記事はhttp://photorumors.com/2010/06/09/canon-aps-h-1-3x-mirrorless/で見ることができます。

ニコンもミラーレス機を発売か?

デジカメInfoに次のような情報が出ている。
http://digicame-info.com/2010/06/post-153.htmlより

ニコンが質疑応答でミラーレス機について言及
Nikon Rumorsに新世代機に関するニコンからのコメントが掲載されています。
・Nikon: "we considered a variety of so-called mirrorless interchangeable lens cameras"

  • 以下のやりとりは、ニコンの中期経営計画の質疑応答によるもの

Q: ニコンの新世代デジタルカメラに関して何か話して貰えるか?
A: デジタル一眼市場に投入する様々な種類の"レンズ交換式ミラーレス機"と呼ばれているカメラを考えていたが、我々は、この新世代デジタルカメラを発表する市場動向に基づいた適切なタイミングを見極めている

  • 私はこれは大きな記事だと思う。なぜならば、これによってニコンがミラーレス機の計画を初めて公式に認めたからだ。今や、ニコンはもう戻ることはできない。留意するべきは、ミラーレス機の存在を否定しなかったことで、ニコンは「適切な時期がきたら発表するだろう」と言っている。唯一の問題は、「我々は(ミラーレス機を)考えていた」と過去形を使っていることで、最終的な決定がなされたのかどうかが明確でない点だ

(※以上、Nikon Rumorsの管理人さんが投稿したコメントより)

http://nikonrumors.com/2010/06/27/nikon-we-considered-a-variety-of-so-called-mirrorless-interchangeable-lens-cameras.aspx で、Nikon Rumors の記事が読めます。

Canonもミラーレスを出すのかが気になりますが、今のコンデジの次に何を買うべきか、ますます迷ってしまいます。


フェリックス・ティオリエ写真展 −いま蘇る19世紀末ピクトリアリズムの写真家−

「ピクトリアリズム」や「自然主義」の写真はいいやと思っていたのですが、行こうかなぁって考えています。
BIJUTSUTECHO (美術手帖)のtwitterより

2010.06.27 21:44
世田谷美術館で開催中の「フェリックス・ティオリエ写真展」に行ってきました。7月25日まで! 19世紀末フランス写真家で、その死後ずっと知られていなかったけれど、子孫の方がプリントを発見して80年代から紹介されはじめたそうです。http://bit.ly/1Jra5F via web


2010.06.27 21:48
ティオリエの写真は、すべてオリジナルプリントです。モノクロの濃淡がきれいで、画面のなかの空間がすごくて、じっくり見てしまいます。オートクロームのカラー写真は7点ずつ、3期にわけて展示。いま2期目で、3期は7月6日から。おすすめです! via web


2010.06.28 21:00
正しくはヴィンテージ・プリントでした!約170点展示です、ぜひ。 RT @SCOF75 フェリックス・ティオリエ!早く行かないとまた終わっちゃう。オリジナルプリント!?RT @BIJUTSUTECHOティオリエの写真は、オリジナルプリントhttp://bit.ly/dgLfi7 via web

2010-06-28 言語多様性

中井久夫<著>「私の日本語雑記」

6月27日朝日新聞の朝刊に

私の日本語雑記

私の日本語雑記

斉藤環による書評が載った。
ネットにもうすぐ書評が載ると思うのですが、待てないので、以下に『私の日本語雑記 中井久夫<著>』の斉藤環書評(2010年6月27日朝日新聞)を引用します。

…略…
 私を含むある世代以上の精神科医には、数多くの“中井伝説"が知られている。臨床家としてのそれはもとより、「ことば」にまつわる伝説が実に多い。「本の背表紙を眺めていると中身が全部出てきて苦しいからと、すべてを逆さまに並べていた」「ドイツ語の読書で疲れた頭をフランス語の本で癒していた」等々。
 色調が浮かばれないゆえロシア語だけは駄目だったと恐ろしいことを口にする中井には、完全に余業の域を超えた翻訳家としての顔がある。それも精神医療に限らず、数多くのギリシャ詩の翻訳やヴァレリーの代表作『若きパルク』を、詳細な注解付きで出版している。
…略…
 本書の後半、中井の相貌は翻訳家としてのそれに変わっていく。「言語は風雪に耐えなければならない」とする中井は、言葉をあたかも言語世界という生態系に棲み分け進化する生きものとみなす。
 それゆえ中井が憂うのは、IT化がもたらす言語(実質的には英語)の一元化である。「絶対的な言語支配で地球を覆おうといううのがグローバリゼーション」であるとして、何が問題なのか。一つには「言語専制下では、複雑な事態に対して過度の単純化が行われ」がちなためだ。そうなれば「世界はすりガラスのように見えなく」なり、あるスローガンのもとで自壊するかもしれない。それゆえ中井は、生物多様性とどうように“言語多様性"を擁護しようとする。
 ここに至って、私たちは気付くだろう。精神科医と翻訳家がともに「文化移転者」とされるのは、多様で複雑な世界の肯定という責務を共用しているためであることに。

 今日、本屋に寄ろうとしたが、忙しくて寄れなかった。是非読んでみたい一冊だ。

『現代写真論』シャーロット・コットンの書評

『現代写真論』シャーロット・コットン(晶文社)の1章の読書ノートのようなものを
http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20100624/1277411200
で試みたが、2章以降については、まだ手付かずになってしまったが、大竹昭子さんの同署の書評を、
http://booklog.kinokuniya.co.jp/ohtake/archives/2010/06/25/
で読むことができます。

2010-06-27

暗室へ

 午後から、立石へ、フィルム現像4x5(TXP) 10枚、(ASA160で撮影 Xtol 1:2 17分 20℃)
f:id:heliograph:20100627143444j:image

芸術の理解

omuraji (大村益三)さんのtwitterから

2010.06.27 21:32
「芸術・文化の振興」という言い方が良くされる。「芸術・文化の振興」。これは一体どういう事だろうか。「振興」とは「芸術・文化」を「理解」させようとする事なのだろうか。しかし一体どうやったら「理解」というものを構築出来るのだろう。 via web


2010.06.27 21:33
残念ながら、人は「理解」には中々至らないという現実がある。その代わりに、人は常に「誤解」をし、「誤読」をし、そして「曲解」する。 via web


2010.06.27 21:33
観客は常に「作者」を「誤解」し、「誤読」し、「曲解」する。敢えて言えば、全ての観客は「作者」に対して「曲解」や「誤解」や「誤読」をしか出来ない。 via web


2010.06.27 21:33
しかしそれを避けようと、「理解」志向の「作者」は、「宣言文」やら「コンセプト文」等で、その「曲解」や「誤解」や「誤読」の可能性を潰す事で、自らの「作品」を「理解」させようとする。 via web


2010.06.27 21:34
「理解」はそれら「誤解」、「誤読」、「曲解」等を、「理解させる側」が都合よく「修正」し、「排除」する事だろうか。但し、人が「理解」した振りをする事は多々ある。そして、それを「理解された」と無邪気に思い込む人もいる。 via web


2010.06.27 21:34
恐らく「芸術」の「受容」の根底には、「誤解」や「誤読」や「曲解」がある。「理解」の「芸術」は、「曲解」や「誤解」や「誤読」程に「豊か」ではないだろう。「作者」は「曲解」や「誤解」や「誤読」される事を受け入れなければならない。 via web


2010.06.27 21:34
そして「曲解」や「誤解」や「誤読」を受け入れた時、「作者性」の問題もまた解消するだろう。 via web

2010-06-26

建築はどこにあるの?七つのインスタレーション

東京国立近代美術館建築はどこにあるの?七つのインスタレーション」を見に行く。
前に、http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20100602/1275499835で紹介した展覧会だ。
展覧会趣旨 (http://www.momat.go.jp/Honkan/where_is_architecture/Press_Release.pdfより)

この「建築展」では新作インスタレーションが展示されます。参加するのは、世代もタイプも異なる7組の日本の建築家たちです。「建物」をつくるときとは異なる条件の中で彼らが頼るもの。それはきっと、建築家として鍛え上げてきた、論理(ロジック)と技術(テクニック) と感性(エステティック)のバランスがとれた思考方法となるでしょう。このバランス感覚に長けているからこそ、現在、日本の建築は世界的に注目されていると言えます。そして、もしそうしたところに「建築」の特徴があるのだとすれば、建築を考える際に重要なのは、「建築とはなにか」を問うことではなくて、どこにどのような形で建築が現われてきているかを捜すことではないでしょうか。
三種類の多面体でつくられた空間、「空間」が生滅する場、動物にも見える東屋(あずまや) 、模型の一日を見せる映像空間、繊細( フラジャイル)な構造体、スケール感覚が不思議な広場など、多種多様なインスタレーションを通して、建築はどこにあるのか、ぜひ捜してみてください。

また、展覧会が出来ていく様子を、http://www.momat.go.jp/Honkan/where_is_architecture/work_in_progress/#でみるこtもできます。
http://www.momat.go.jp/Honkan/where_is_architecture/work_in_progress/#より

建築家によるインスタレーションは、いつも美術館が展示しているそれとはちょっと違います。意味のある新しい「空間」をつくるために、会場を実測し、模型などでスタディし、見積りをとって唸り、次の案を考える……
こうしたプロセスが、できあがった作品と同じくらい重要なのです。そこで彼らの「work in progress」を、特別にご紹介することにしました。各建築家が不定期に、制作状況をアップしてくれています。人によって「スピード」や「量」が異なるのもポイントのひとつ。ちなみに空間の割り振りが全て決定したのは、2009年12月の中旬のことでした。
保坂健二朗(本展キューレーター)


この展覧会は、会場で写真を撮っていいし、発表してもいいことになっていました。どんな様子なのか写真を見て下さい。
特に私が面白いと思った3人の建築家の作品を取り上げます。

中村竜治 とうもろこし畑

会場で配られていたパンフレットの作者の文章

紙でできた建造物です。
平面は各頂点が30°、60°、90°の三角形をしています。高さは人の身長ぐらいで、辺の長さは長いところで16メートルぐらいあります。既存の柱を利用し、できるだけ全体が一度に見えないようになるまで大きくしています。
そのような塊を紙のフレームで均質に満たしています。
周りを歩くと、たくさんの線の重なりによって「向こう」の見え方が変化していきます。
風景の一部のように希薄で、それ自体を見るというよりは、歩きながら向こう側にあるほかの展示物が変化していくのをなんとなく感じる、そういう空間になればいいなと思っています。

f:id:heliograph:20100626153104j:image
中村竜治/とうもろこし畑/建築はどこにあるの?7つのインスタレーション/東京国立近代美術館


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中村竜治/とうもろこし畑/建築はどこにあるの?7つのインスタレーション/東京国立近代美術館


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中村竜治/とうもろこし畑/建築はどこにあるの?7つのインスタレーション/東京国立近代美術館


panorama でも撮ってみました。
f:id:heliograph:20100626153711j:image:w800
中村竜治/とうもろこし畑/建築はどこにあるの?7つのインスタレーション/東京国立近代美術館


歩きまわって、向う側がどのように透けて見えるかの変化を楽しんだ。これらをどのように作ったかはhttp://www.momat.go.jp/Honkan/where_is_architecture/work_in_progress/#/nakamura_ryuji/を見ると良く分かります。

内藤廣 赤縞

会場で配られていたパンフレットの作者の文章

昔は、現場で大工さんが垂直を出すのに「下げ振り」というのを使っていた。糸に重りを付けて下げるだけの単純なものだった。近年、レーザーを使って垂直を出す道具が出現した。ある時、現場でレーザーが荒々しいコンクリートの表面に緑色のラインを描いているのを見て、それがとても美しいものに思えた。物質の不均質さと抽象的なライン、その対比がこの時ほどハッキリと見えたことはない。
美術館という現実の建物の中に、抽象的な空間を出現させようと思った。あの時見たレーザーのライン、その美しさを加速し、再現しようと思った。「赤縞」ときわめて今風でないタイトルを付けたのは、せめて現場の気分を少しでも残したかったからだ。このレーザーで刻まれた領域に足を踏み入れると、いつもは見えていない空間の抽象性を体感することになる。空間の抽象性、それは20世紀近代が夢として追い求めたものだ。これはそのビジョンの断片である。

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内藤廣/赤縞/建築はどこにあるの?7つのインスタレーション/東京国立近代美術館


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内藤廣/赤縞/建築はどこにあるの?7つのインスタレーション/東京国立近代美術館


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内藤廣/赤縞/建築はどこにあるの?7つのインスタレーション/東京国立近代美術館


 この部屋では、レースのような薄い白い布が用意されていて、それを振り回しながら、布の上に現れる抽象的な模様の変化を楽しんだ。

伊東豊雄 うちのうちのうち

会場で配られていたパンフレットの作者の文章

現在愛媛県瀬戸内海の島、大三島に「今治市伊東豊雄建築ミュージアム(仮)」のプロジェクトが進行中です。このプロジェクトでは3種類の多面体を組み合わせて全体が構成されますが、この空間には垂直の柱や壁が全くありません。私達自身にも想像の及ばないこの多面体内部の空間を体験してみたいと思い、今回の多面体によるインスタレーションを試みることにしました。
今回の多面体は実現する伊東ミュージアムの約1/2のスケールです。謂わば「美術館のなかにもうひとつの美術館をつくる」ことになります。
さらにこの多面体内部の傾斜する壁面には、私たちが最近取り組んでいる新しい幾何学に基づく空間構成システムを展示しました。いずれも実現したプロジェクト、或いは進行中のプロジェクトのために私達が用いたシステムで、3次元
チューブの連続体であったり、湾曲するアーチの連続体などです。これらは無限に拡張可能で、20世紀の直行グリッドに変わる21世紀の建築幾何学を暗示するものです。このような美術館内美術館を散策し、柔らかく、トポロジカルに歪んだ空間を想像していただきたいと思います。

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伊東豊雄/うちのうちのうち/建築はどこにあるの?7つのインスタレーション/東京国立近代美術館


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伊東豊雄/うちのうちのうち/建築はどこにあるの?7つのインスタレーション/東京国立近代美術館


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伊東豊雄/うちのうちのうち/建築はどこにあるの?7つのインスタレーション/東京国立近代美術館


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伊東豊雄/うちのうちのうち/建築はどこにあるの?7つのインスタレーション/東京国立近代美術館


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伊東豊雄/うちのうちのうち/建築はどこにあるの?7つのインスタレーション/東京国立近代美術館


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伊東豊雄/うちのうちのうち/建築はどこにあるの?7つのインスタレーション/東京国立近代美術館


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伊東豊雄/うちのうちのうち/建築はどこにあるの?7つのインスタレーション/東京国立近代美術館


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伊東豊雄/うちのうちのうち/建築はどこにあるの?7つのインスタレーション/東京国立近代美術館

2010-06-25 なぜ、植物図鑑か

来たるべき言葉のために

先日、中平卓馬の写真集『来たるべき言葉のために」』復刻されることを
http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20100607
で書いたが、はてなカウンターのログを見ると、『来たるべき言葉のために』で検索して見に来て下さる人が多い。
中平卓馬の人気って、相変わらず高い。中平卓馬といえば『なぜ、植物図鑑か』で、『来たるべき言葉のために』で発表したような写真を否定し、「植物図鑑」のような写真を撮るという決意を表明したのではなっかたのか?

「なぜ、植物図鑑か」
雑誌『美術手帖』1972年8−9月合併号に掲載された吉川知生の投書に中平卓馬が応えるもので、評論というよりは彼のそれまでの写真作品からの訣別、そして新たな作品への意思表示であるといえる。

ある雑誌に発表された「記録という幻影 ドキュメントからモニュメントへ」に対して吉川は、中平の写真からポエジーが喪われてゆくこと、そして一方で批評家としての饒舌さを増していくことを批判した。

これに対して中平は「あるがまま世界に向き合うこと」こそこの時代の表現であるとし、その目標として「図鑑」を挙げた。また、動物には「なまぐささ」が、鉱物には「彼岸の堅牢さ」があるとして、その中間にある「植物」の図鑑を考えた。(→カール・フォン・リンネ、博物学


中平卓馬は「私は写真家である」と宣言することによって写真家になり、60年代の後半から精力的に活動していった。しかし、初の写真集『来るべき言葉のために』(1970年)の後、自身の写真表現に疑問を抱いた中平はスランプに陥り、写真家としては長く沈黙することとなる。1973年には「なぜ、植物図鑑か」という自分自身への辛辣な批評により、以前の自分、つまり『来るべき言葉のために』を否定し、新たな写真集へ向かおうとする。そのタイトルは『なぜ植物図鑑か』と命名されたが、それはついに実現することはなかった。『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像評論集』の後、中平は「政治の季節」に絶望し、70年代という時代状況も重なって以前のように写真を撮ることができなくなっていく。おそらく「なぜ、植物図鑑か」での極端な方向転換と中平の思想的誠実さが写真家としての中平卓馬を袋小路に追い詰めてしまったのであろう。その後中平は知覚異常のため何度か入退院を繰り返し、76年には篠山紀信の写真と中平の文章による「決闘写真論」をアサヒカメラに連載し、77年ユジューヌ・アジェやウォーカー・エヴァンス論を含む『決闘写真論』を出版するなどして写真への情熱をとりもどそうと模索するが、うまくはいかなかったようである。そして同年9月、中平は逗子の自宅でのパーティーで酔いつぶれ急性アルコール中毒により意識不明の重態になった。そして、そこから奇跡的に生還はするものの、逆行性記憶喪失により記憶の大部分を失い、失語症などの後遺症と闘うこととなる中平からは以前のようにわれわれをアジテートするような言葉は失われてしまっていた。それ以降、中平は写真を撮ることこそやめなかったが、その後の二冊の写真集(『新たなる凝視』1983年『Adieu a X(あばよ、X)』1989年)には『なぜ、植物図鑑か』というタイトルがつけられることはなかったのである

 自分自身が強く否定した写真(「写真決闘論」の中で、逗子海岸で焼いたのは「来るべき言葉のために」のネガだったのでは)が復刻されて注目を集めている。中平ファンは『来るべき言葉のために』の写真とそれ以後の『新たなる凝視』『Adieu a X(あばよ、X)』の写真のどちらに惹かれるのであろうか、もし、『来るべき言葉のために』ために惹かれているのなら、『なぜ、植物図鑑か』をどう読むのか、そんなことを考えてしまう。

2010-06-24 これがアートであるならば?

現代写真論 コンテンポラリーアートとしての写真のゆくえ シャーロット・コットン著 大橋悦子・大木美智子 訳

http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20100609/1276108159

現代写真論

現代写真論

を買い、これから紹介しますと言ったままになっていました。この本について、一章毎、じぶんなりにまとめて行きたいと思います。
 この本では、現代写真を次の8つのカテゴリーに分け、そのカテゴリー毎を章にして実際の写真家の仕事を紹介しながら解説をしている。
1章 これがアートであるならば?
2章 昔々
3章 デッドパン
4章 重要なものとつまらないもの
5章 ライフ
6章 歴史の瞬間
7章 再生と再編
8章 フィジカルマテリアル

作者はこのカテゴリーを写真の様式や主題ではなく、写真家の動機や、実際の作品づくりの側面からの分類であるといっている。各章毎にカテゴリーの考え方と実際に紹介された作家の作品を抜き出していきたいと思う。
今日はまず、1章について、

1章 これがアートであるならば


 「写真家とはただ独り、日常生活を貪り回り、構図のなかに目をとらえるすばらしい一撃がやってくるのを待ち望む」というステレオタイプ的な見方に挑む。

 ここで取り上げた写真は、写真家がひとつの画像を作りだすために用意した戦略やハプニングから生まれている。観察し、連続した出来事からある一瞬を切り取るという従来の写真の撮り方よりも、ある出来事を演出するという行為に重点が置かれているのである。


1970年代半ばから70年代のコンセプチャルアートでは、

 その場限りの芸術的な発想や活動を伝える手段として、写真を活用した。そうして写真はオブジェに代わってギャラリーや美術誌を飾るようになる。記録にもアート作品そのものにもなるという、写真に備わった知的な活力と多義性は、以後、コンテぽラリーアートとしての写真において重要な要素となっていく。こうした写真は、アートの実践とはこうあるべきだという従来の基準をくつがえし、より平凡なアートの制作のあり方を示した。アートとは、ごく普通の、日常の事物に寄り添うプロセスであるということを明らかになり、写真は、「よい」絵を創る義務を逃れるための道具となったのである。


紹介している写真家(一部しか紹介していません)

  • ジリアン・ウェアリング 「サイン:誰かがあなたに言わせたいことではなく、あなたが彼らに言わせたいこと」

Gillian Wearing  「Signs that Say What You Want Them To Say and Not Signs that Say What Someone Else Wants You To Say」

ロンドンの路上で通行人に声をかけ、自分自身についておもうことを一枚の白い紙に書いてもらい、その紙と一緒に彼らのポートレイトを撮影した。こうして撮影された写真には、被写体がかかえる個人的な問題や心の状態が現れている。被写体に自己決定権を与えるという発想は、これまでの記録写真の伝統にはありえなかった。被写体の考え方を焦点にすえることで、ウェアリングは日常生活の本質に迫った。それは、伝統的な肖像画や記録写真の枠を超え、芸術的戦略を介入させることで、より効果的に捉えることができるのである。

ここで、これらの写真が見ることができます。
http://www.tate.org.uk/servlet/ArtistWorks?cgroupid=999999961&artistid=2648&page=1



  • ジョルジュ・ルース

 George Rousse 

ルースは取り壊し予定の建物を塗装することで、その風景を変容させた。それをある一定の角度から撮影すると、円形や格子模様などの幾何学的な形態が写真画面に浮かびあがる。その画像は一見したところ、部分的に色を抜いた写真を合成したように見えるが、実際はその場で風景を丹念に作り上げ、カメラの位置を固定して完璧な演出のもとに作り出されたのである。ルースはある物理的な空間に別個の情景を置くことで、三次元を平面画像に作り変えようとしたのである。

http://www.georgesrousse.com/
http://www.georgesrousse.com/english/works-selection/09-construction-deconstruction.htmlを見て下さい。
(本に載っている作品はみつからなかった)

  • ティム・ディヴィス 「リテイル」

Tim Davis 「Retail」
>>最後に紹介するのは、反復をテーマにした写真である。その実践は、フィールドワークや、仮説を科学的に実証実験しているのに似ている。反復は、思索を形に変えるものなのだ。では、反復の中の類似と差異を見てみよう。アメリカ写真家であり、詩人でもあるティム・ディヴィスの<<リテイル>>は、夜の郊外の住宅街の窓に写る、ファースト・フード店のネオンサインを撮影したシリーズ。

http://www.davistim.com/
写真は http://www.davistim.com/images/retail/retail_1.html で

  • フィリップ=ロルカ・ディコルシア 「顔」

 Philip+Lorca diCarcia 「Head」

人通りの激しいニューヨークの路上に大がかりなフラッシュライトの装置を設置した。通行人が撮影エリアに入ると,ディなコルシアはフラッシュライトを作動させ、通行人を照らし出す。それを、遠くから望遠レンズで撮影する。この<<頭>>シリーズで考察された装置は、被写体に気づかれことなく撮影を行ない、極めて自然で予測不可能な画像を生み出した。日常のなかで過ぎ去っていく一瞬の姿があらわになり、被写体の意識をとりはらったポートレイト写真ができあがったのである。

http://www.lslimited.com/cgi-local/portfolio.cgi?level_1=1
http://www.artphoto-site.com/b_170.html

    • ロニ・ホーン 「あなたこそが天気」

 Roni Horn 「You Are the Weather」

 ひとりの女性の顔を写した、61枚のポートレイト写真で構成されている。彼女の顔をアップせ繰り返し撮影し、展示することで、その表情に現れたわずかな差異が、さまざまな感情をあらわにしている。その表情を細部にわたり念入りに観察すると、可能的な意味合いさえ読み取ることができる。彼女の顔は水中に立った状態で撮影されたため、その表情は撮影日の天候から感じる肉体的な快、不快の度合いに左右されている。作品のタイトルはそこから来ているのだが、ここにある「あなた」とは鑑賞者をも指している。天気と同様に、彼女の感情をかき立てているのは、この作品を見ている「あなた」なのだ、と、作品のなかにひきこんでいるのだ。この章を通して見てきたように、確定した構造が、予測も制御もできない要素と拮抗したとき、作品には魔術的な力が宿るのである。

D

You Are the Weather

You Are the Weather

2010-06-23 沈黙は金

沈黙は金

tadanoriyokoo(横尾忠則)さんのtwitterより

tadanoriyokoo
2010.06.22 18:45
「ポスト印象派」展を仕事で見ました。作家の諸田玲子さんと絵を見ながらしゃべりました。普通絵は黙って見るものです。それがツイッターみたいにしゃべりながら見たのです。黙って見る時の方が声を出す以上に多くのことを語っているのに気づきました。 via web



tadanoriyokoo
2010.06.22 18:45
沈黙は金です。沈黙以上の言葉は他に見つかりません。今日はそのことを実感しました。http://bit.ly/1Xgurj via web



tadanoriyokoo
2010.06.22 18:46
美術鑑賞には言葉は邪魔になります。言葉が美術を理解させていますが、一方で感性を剥奪させてもいます。美術は理解するものではなく洋服の前を開くようにして感受するものです。 via web

2010-06-22 『20XX TOKYO』公然わいせつ事件

美術手帖7月号

美術手帖7月号

美術手帖 2010年 07月号 [雑誌]

美術手帖 2010年 07月号 [雑誌]

を買った。
篠山紀信『20XX TOKYO』事件を考えるということで、

という文や対談が載っている。
その中から、椹木野衣さんの文章から引用

    • 略--

ところで、いまかりに誰かが昼間から裸のまま道を歩いたとしよう。特に誰かを誘惑するわけでない。ただ歩くのだ。すると、道行く人はそれを奇異の目でみるだろう。彼は何も壊してないし、何かを盗ったわけでもない。むしろ裸という財を惜しげもなく投げ出している。が、すぐにかの人は逮捕されるのにちがいない。罪状は「公然わいせつ」つまり、たとえ誘惑しようとしない身体でも、まったく素のまま公然と夜にさらせば、それは「わいせつ」に当たってしまうのだ。言い換えれば、日本では内面に誘惑の動機など皆無でも、単に裸というだけで充分にその罪を裁かれうる。
 それは社会がヌーディストを公に容認する欧米との違いでもあるだろう。ヌーディストの裸は誘惑する身体であるどころか、いわば“無垢(ネイキッド)"の身体で、むしろ、こうした自然に性的視線を向ける側に、「わいせつ」の原基があることになる。反対にキリスト教の根付いた欧米では、たとえ密室であっても背徳的な裸体はありうる。それは充分に罪深い。ゆえに欧米では、公然さよりも密室性の方が罪深さに近くありうるのだ。が、反対に日本では、誰も見ていなければ、どんな涜神的な振舞いでさえも、それが充分に罪深くあることはない。信仰なき密室の裸で言ってみれば物のようなものだ。ところが西洋ではギリシャに遡れば「公共の場」での裸こそ、素のかれ自身でありうる。つまり日本で問われているのは結局、物としての裸体が置かれた場所が公然か否かであるにすぎない。ゆえに信仰の問題はおろか、それが社会倫理の問題であるかどうかすら、実は極めて怪しい。

    • 略--

法的な定義をめぐる諸説はわからないが、だからこそ公然というのは多くの人が行き交う群集的な環境のなかで鍛えられるべきで、絶えず利害調整によって汲み取られ直される概念なのだ。そもそも、誰もいない浜辺や深夜の「人気がない」墓地まで「公然」ということになってしまえば、社会全体が機能しなくなってしまうのではないか。

    • 略--

 ちなみに今回の略式起訴では罪状に「公然わいせつ」だけでなく「礼拝所不敬」も挙げられていた。これは不敬罪の一種だから加害性よりも態度の不遜を裁く特質を持ち、あえていえば被害者は先祖の霊や八百万の神々ということになる(この点で礼拝所不敬の罪は先頃の実在しない青少年を被害者とする東京都青少年健全育成条例改正案とある意味、足並みを揃える傾向にある)。

    • 略--

 ところで、写真雑誌はこの事件に対してどういう記事を載せているのだろうか?今月号は買っていないので、明日、アサヒカメラ、日本カメラあたりをチェックしよう。

船山に登る

 映画といえば、「船山に登る」の上映情報がでました。
 『船、山にのぼる』夏の上映情報 http://www.fune-yama.com/diary/archives/939.html
 『船、山にのぼる』公式サイト http://www.fune-yama.com/

メイプルソープとコレクター

http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20090303に書いた、映画「メイプルソープコレクター」(原題:「BLACK WHITE + GRAY A PORTRAIT OF SAM WAGSTAFF + ROBERT MAPPLETHORPE」)のDVDが発売されるようだ、2009年の3月に夜行バス東京についた、直後に見たので、半分寝てしまい。もう一度見たかったので、手に入れたい。

メイプルソープとコレクター [DVD]

メイプルソープとコレクター [DVD]

2010-06-21

六本木クロッシング 2010展: 芸術は可能か? (3)

昨日書いた、照屋勇賢の「告知―森」について、照屋自身がギャラリートークでこのように語っているようだ。
森美術館Blogより(http://moriartmuseum.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-ba39.html

 照屋:紙袋の作品は《告知―森》といって、10年ぐらい続けているシリーズです。毎年、気持ちはどんどん変化しているので今の感覚をお話しすると、紙が持っている「木の記憶」というか、「いまだに木である」ということを証明できればいいなと思っています。
 制作しているとき、紙の張りや強さに、外に生えている木と同じような強さを感じます。そうしたものが凝縮した形で出てこないか、生まれてこないか、大量生産される紙袋の中にも個として存在する木があるんじゃないか、そんな気持ちでつくっています。みなさんが紙袋を覗くときは木と一対一になるので、個人的な関係を木に築いてもらえればと思います。
 ちなみに、作品になっている木はすべて実在している木です。僕が旅で見つけたり、近所で見たりしている木を写真に撮って、それを見ながら再現しました。だからこれは木のポートレートです。

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作家:照屋勇賢
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスライセンスされています。
さて、印象に残った作品は、映像作品でログズギャラリーの「DELAY」という作品
http://roguesgallery.jp/works_delay.htmlによると、

1994年、ログズギャラリーは車と車の走行音(エンジンやウィンカーの音などの事)、車内に積んだ音響機材を使ったドライブ・パフォーマンス「ガソリンミュージック&クルージング」を開始。2006年には2台のビデオカメラと1台のGPSを同車に設置し、以後ログズギャラリーはすべての「ガソリンミュージック&クルージング」をこれらの機材で記録している。
DELAYシリーズはそうした記録を素材として制作されたものであり、シリーズそれぞれの作品は、ドライブを行なった地域やコース、天候の変化、また交通状況などを反映して、それぞれに異なった表情を見せる。
DELAYは、ドライブ・パフォーマンス「ガソリンミュージック&クルージング」と同じ映像の長さを持ち、シリーズの各作品によって、その再生時間はそれぞれに異なる(およそ30〜60分)。

 今回は、プロジェクターで後方撮影の映像のみを素材として、ひとつの画面の中に同じ映像を64個配置し、中心から螺旋状に約1/10秒ずつ遅らせて再生させていた。「ガソリンミュージック」の音響の迫力もすごいが、何よりも、映像の少しずつずれて表示されいるのをじっと見ていると、不思議な感覚になる。特に車が外を走っていたのがトンネル内に入っているときなどに、画面の変化、外灯などの光がスクリーンを動きまわるのを見ていると、実に不思議な感覚になる。
これを見て下さい。
D

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作家:ログズギャラリー
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスライセンスされています。


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作家:ログズギャラリー
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスライセンスされています。


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作家:ログズギャラリー
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスライセンスされています。

[MAM賞]を受賞したのが、青山悟の「Gliter Pieces 」という作品、これも公式Blogに青山悟さん自身が自分の作品についてかったえいますので、それを引用します
http://moriartmuseum.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/a-e8b9.htmlより

青山悟さんの作品《Glitter Pieces》は緻密に縫われた刺繍ですが、一見しただけではその素材はおろか、写真なのか絵なのかもわかりません。やはり「どうやってつくったのか」が気になるメンバーは多いようで、フリートーク開始直後は素材や制作方法に関する質問が続きましたが、だんだんと作品のコンセプトへと話題は移っていきました。メンバーと青山さんの会話をご紹介します

――これは本当に刺繍なんですよね?写真みたいに見えるし、光っているし、不思議。

青山:不思議なことは何もしていなくて、本当にただ縫っているだけなんです。オーガンジーという透明な布の下に写真を置いて、最初にボールペンでアウトラインをとって、あとはひたすら手動のミシンで縫っています。使っているのは黒糸と1、2色のメタリックの糸で、グラデーションになっているところは上糸と下糸の色の組み合わせを変えたりして、微妙なトーンの変化をつけています。

――1つの作品に、どれぐらいの時間がかかるんですか?

青山:ディテール次第なので、ものによって全然違ってきちゃうんですけど……数週間のもあれば、2〜3カ月ぐらいのものも。ここにある作品全部で、だいたい1年分ぐらいですね。

――えっ、そんなに!?観ている人は、まさかそんなに時間がかかっているとは考えないんじゃないかと思うんですけど……。

青山:そこだけをアピールしたいわけじゃないので、全然構いません。

――歴史的に重要な写真を選んでいるんですか?

青山:最近のものもありますよ。例えばブッシュ大統領を辞めるときの報道写真とか。ロシアの労働環境についての記事や、「アメリカの時代は終わりだ」という記事からとったものも。イメージは全部「不況」に関係するものを選んでいます。

作品の表と裏は、実際の記事の切り抜きの表と裏です。裏の作品は、表の記事を選んで切り抜いたらたまたまそうなっていたというだけなので、全くの偶然です。だから裏は意味も失われているし、色も失われている(※編注:表はカラー、裏はモノクロ)。そうなると「労働の無駄」以外の何物でもないんだけれど、でもそれって「本当に無駄なの?もうちょっと労働について考えたほうがいいんじゃないの?」という作品です。

実は、裏は「まったく意味をなしてない」と言いながら、意味をなしているように見える作品もあります。例えば「不況時代のファッション」という記事をモチーフにした作品の裏は、日本の高級マンションの広告です。これは2つで意味をなしているという見方もできますが、裏は選んだつもりはないので偶然です。


ちょっと見ると写真かなと思うような作品です。

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作家:青山悟
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスライセンスされています。


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作家:青山悟
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスライセンスされています。


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作家:青山悟
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスライセンスされています。

他にも、紹介した作品や、写真がありますが、それはflickrにアップしようと思っています。






 

2010-06-20 芸術は可能か?

六本木クロッシング 2010展: 芸術は可能か? (2)

昨日、「六本木クロッシング展」の会場で、写真を撮ったのでまとめますと言ったのはいいのだけど、写真を見直したのだが中々大変。とにかくこれでBlogを書いてみたいと思います。
まずは、[オーディエンス賞]受賞者:照屋勇賢の作品
展覧会場に入って最初に展示されていた作家。まず、面白いと思った。のがこの『告知の―森』という作品。木の形を紙袋の一部を使って作り、それを紙袋の中に収めて発表していた。形も、照明によってできた影の形も面白かったので、写真を何枚も撮ったのだが、カタログには

 告知の―森(1999年ー)は、ファーストフードや高級ブランドの紙袋の一面を切り取り、それを糊で精巧に張り合わせて木の形の立体物を作る作品。消費社会の一部である紙袋の原料が木であることを示し、環境問題を示唆する。

と書かれていた。そうか、環境問題までは正直いって思わなかった。でも、純粋に造形作品として面白いのは確かだ。
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作家:照屋勇賢
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスライセンスされています。


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作家:照屋勇賢
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスライセンスされています。


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作家:照屋勇賢
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスライセンスされています。


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作家:照屋勇賢
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスライセンスされています。


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作家:照屋勇賢
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスライセンスされています。


どうしても、写真に目が行くのだが、志賀絵里子の写真。すでに発表している「カナリア」を平面ではなく屏風のように。凹凸に配置して展示していた。
写真を屏風のようにして配置して発表する、ことを色々考えていたので、展示の仕方が参考になった。


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作家:志賀絵里子
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスライセンスされています。


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作家:志賀絵里子
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスライセンスされています。


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作家:志賀絵里子
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスライセンスされています。


まえに、http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20100319/1269017431で、書いたのだが

タカザワケンジ(kenkenT)さんのTwitterより

米田知子。ある建物の壁、カーテンの変奏曲。その建物が何なのかも重要だが、それがわからなくても伝わる何かに興味がある。

http://twitter.com/kenkenT/status/10716471737

六本木クロッシング2010展:芸術は可能か?」に出品した、作品の話らしい、米田知子さんの今までの作品の発表の仕方を考えると、きっとその建物の謂れが鑑賞者にわかるように展示してあるのだろう。それがわからなくても伝わる何かがあるっていうことか?
 確かめに行ってこようか?

この展覧会に行こうと思い立った作品だ。
 結果から言うと、「私には伝わってくるものはなかった。」とはまでは言いわないが、やはりこれがなんであるかという種明かしが全くないとしたら、どうななるのだろうか何て考えてしまう。
 そもそも、米田知子の作品に出会ったときからこのような手法に対する疑問があるのだ。たしか「森の写真」や「海岸の写真」が展示してあり、普通の風景写真として見たとき、キャプションを読みそこがフランス第2次世界大戦の激戦地であることを知ったとき、何となく、過去に何か過去に何かが起こった場所の写真を集めただけで作品になるのか?でも、実際自分も、ここでこういう事件があったなどとを知るとそこの土地に対して、何かの思いができることは確かなのだ、考えはそこら辺をグルグル回っているのだ。

今回その辺のことを米田自身がこういう説明をしている。
http://moriartmuseum.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-d030.html森美術館の公式Blogより)

私は景色や物や人物を撮っていますが、イメージの構成のようなものだけでなく、その裏側というか、“見えない部分”にとても興味があるのです。例えば風景を写した《Scene》という作品に写っているのは、かつて戦争があったり大事件が起きたりした場所ですが、観てもそうとはわからないような、たわいない風景です。その写真に《ビーチ―ノルマンディ上陸作戦の海岸/ソードビーチ・フランス》など、客観的でシンプルなタイトルをつけています。写真のイメージはとてものどかなリゾート海岸ですが、そこはかつて戦士が倒れ、激しい戦争があった場所なのです。

こうしたイメージを人種や国や性別、政治的な考えなどが異なる方々が観たとき、それぞれ違うイメージが一人ひとりのメンタルに浮かぶと思います。観客が持つメンタル・イメージは見ることができませんが、私はそこにとても興味があるのです。
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さて今回展示しているのはこういう作品、タイトルは「Kimusa 10」


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作家:米田知子
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスライセンスされています。


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作家:米田知子
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスライセンスされています。


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f:id:heliograph:20100621000530p:image:w100
作家:米田知子
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスライセンスされています。

種明かしは、これも、森美術館Blog http://moriartmuseum.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-77d7.htmlから

米田:今回「六本木クロッシング2010展」で展示している作品は、去年(2009年)の10月に韓国ソウルで撮影したものです。タイトルの《Kimusa》は、シンプルにその場所の名前で、韓国国軍機務司令部だった所です。

1910年代、そこには李氏朝鮮の官庁がありました。写っている建物は1930年代、日本の植民地時代に官立病院として建てられたもので、韓国にはもうあまり残っていないといわれるモダニズム建築の1つです。これが戦後は韓国の軍事病院として使われ、1970年代には国軍機務司令部になりました。今から2年後の2012年には、国立現代美術館になるそうです。

このように歴史の中で国家権力によって変貌を遂げてきた建物の痕跡を、私は写真に撮りました。撮ったのは外部と遮断されているインテリアで、壁だったり、窓だったりします。例えば窓を撮った作品がありますが、それは軍人が使う部屋の窓でマジックミラーになっていて、外からは何も見えないけれど、中からは風景が見えるんです。地下の写真もあります。地下トンネル大統領府とつながっていたりする、そんな秘密の諜報機関です。


「写真ってなんだろうか?」「作品を発表するってどういことなのか?」って問題と関わってくる問題です。

まだ、まだこの展覧会での写真があるので明日もいくつか紹介したいと思います。

2010-06-19 芸術は可能か?

六本木クロッシング2010展: 芸術は可能か?

 田町からチィバスに乗り、六本木ヒルズに。森美術館六本木クロッシング2010展: 芸術は可能か?」を見る。

 会場で写真も撮ったので、ちょっと整理してから、Blogにアップします。
 

 川田喜久治「ワールズ・エンド」展

 品川から田町へ移動。PGIの川田喜久治「ワールズ・エンド」展を見る。
展覧会場に置いてあった、パンフレットには次のよう作者は書いている。

近年、「ユリイカEureka全都市」と「見えない都市 Invisible City」を発表した。
また、「Atlas 全都市 1988-2006」はこの二つのシリーズをまとめたものだった。今回の「ワールズ・エンド World's End」は、2008年の暮れから2010年の3月までの写真です。

その間、この地で毎日撮影することを自分に課した。それと毎日かを泳ぐこと。この地にこだわるのは、そこで何かが崩壊しているから。泳ぐのは心臓に油を注ぐため。
各シリーズはそれぞれスタンスの違いがあるが、このタイトルがトータルな姿に一番近いような気がする。「一瞬のねじれやファルス」、瞬間のパニックは写真のなかでかなり頻繁に起こる。「写すほど写真は妖しく、不思議がいたるところに舞い上がる。幻影の書とは写真集のことかも...」。

「世界の果て World's End」というブランドの時計は逆にも廻るし、動かなくもなる。人や風景もそこから消えかかり、高速シャッターで切り落とされた瞬間はチリとなり、あの不思議な呼吸もピクセルのなかで積み木のように固まっている。ASA 2000〜3000 1/2000〜1/5000

3-24.Tokyo.2010

なお、PGIのホームページ
http://www.pgi.ac/content/view/262/1/lang,ja/
によると。

 撮影は、都市に突如として現れる不可思議なオブジェや人、工事現場に置かれた重機などが、主に車中から撮影されています。

とのことです。とにかく、今年で77才になる人が、毎日写真を撮り、デジタル写真を加工して作品を作っている。頭の下がる思いがしました。

「ウィリアム エグルストン: パリ―京都」展

 原美術館へ「ウィリアム エグルストン: パリ―京都」展を見に行く。
一部屋だけ、昔のアメリカ南部で撮影した「ウィリアム エグルストンズ ガイド」の一部の写真が展示されていた。ここだけが、ダイトランスファープリント(染料転写方式)の作品。いい色だ。
 エグルストンの最近の作品について、評価しない人もいるようだが、共感出来た。自分もこんな風に撮るだろうなと思えるような作品があった。
 まだ、カタログは出来上がってないので、メイルアドレスを知らせておき、出来上がり次第メイルをもらうことにする。
 待ちきれずに

William Eggleston's Guide

William Eggleston's Guide

あたりを買ってしまうかもしれない。
その他、ミュージアムショップでもビラが置いてありましたが日本語字幕付DVDウィリアム・エグルストン(原題:William Eggleston: Photographer)』が7月に発売されるようです。詳細はhttp://egglestonfilm.com/?p=35を見て下さい。

2010-06-18 退屈

Why I Returned My iPad

yuchihara(内原恭彦)さんのtwitterがこんなことをつぶやいていた

yuchihara
2010.06.18 11:54
「退屈は大事。本当は誰もが追求すべき心の状態だ。」(僕がiPadを一週間で返品した理由)http://bit.ly/9blpDt iPad持っていても退屈を感じられないところがだめなんじゃない? via web


http://bit.ly/9blpDt を見てみると。
元々は、http://blogs.hbr.org/bregman/2010/06/why-i-returned-my-ipad.htmlのPeter Bregmanの「Why I Returned My iPad」の文章を市村佐登美と言う人が日本語に訳したページだった。Long Tail Worldといのがそのサイトの名前。いろいろな英文のサイトを翻訳して掲載しているようだ。

ところで、『僕がiPadを返品した理由:Why I Returned My iPad - HBR 』より一部引用すると。


…略…
さて、このどこが問題なのか? こう書いてくるとまるで自分は超プロダクティブな人間ではないか。1分でも空き時間があれば、何か作って、何か消化していたのだから。

ところが何かが ― 睡眠時間もそれなりに大事だが、それだけじゃない何かが ― 忙しさに紛れて消えているのだ。何か失ってはならない、とても大事なもの。それは…

退屈。

退屈は大事。本当は誰もが追求すべき心の状態だ。退屈になると心は行き場を失って、何かエキサイティングなもの、何か面白い着地点を求めて、ひとり歩きを始める。そしてそこからクリエイティビティが生まれる。

僕の場合、なぜか生産的なことロクにしてない時に一番良い考えが浮かんでくるのだ。走ってるんだけどiPod聴いてない時、座って、なんもせず、誰か待ってる時。ベッドに横になって眠りにつくまで、あれこれ心がさ迷う時。こうした「無駄にした」瞬間、特にこれと言って埋まってない時間が人生には、欠かせない。

こうした時間があるからこそ僕らは、往々にして無意識ではあるけれど、心を整理し、生きる意味を考え、点と点を繋ぐことができる。こうした時間があるからこそ、己に問いかけ、己の声に耳を傾けるのだ。

こうした時間を失くすこと、その時間を仕事やら生産効率やらで置き換えることは、間違ってる。もっと最悪なのが、失くすだけならまだしも僕らは自分から進んでこれを、放棄しているのである。

iPadならその問題はないよ」と、いみじくも指摘したのは兄弟のアンソニーだ。 ―因みに今彼は『My Idiot Brother(俺のマヌケな兄弟)』 っていう映画作ってる。

「自分の問題だね。あんま使い過ぎないようにするこった」

その通り。悪いのは自分。これは自分の問題なのだ。そばにあると、つい使わずにいられない。しかも不幸なことに、あれはいつもそばにいる。だから返した。一件落着。

それにしても今回のことは、退屈がいかに大事か学ぶ良いきっかけになったよ。おかげで今は余った時間、空き時間、歩く時間、移動時間、待ち時間があれば、前よりずっと意識的にその時間を活かして自分の心を自由にさ迷わせるようになった。

…略…


 私も、netBook を持ち歩いて、通勤中も電車の中もネットにつなげていたが、さすがにその時間がすくなくなって来た。
 確かに、退屈と付き合うことも大事な事だと思う。

暗がりのあかり チェコ写真の現在展


『暗がりのあかり チェコ写真の現在展』(2010年6月19日〜8月8日 資生堂ギャラリー
が開催される。
http://www.shiseido.co.jp/gallery/exhibition/index.htmlより

写真の創成期より連綿と続く伝統と歴史を継承し、新たな表現を開拓し続けてきたチェコ写真の現在を、ポートレート、風景、フォトモンタージュ、ドキュメンタリーなど多岐に渡る彼らの作品を通して紹介します。

1830年代半ばの写真登場直後より、チェコスロバキアにも写真技術は伝わり、当時から多くの写真家たちが活躍していました。そして1990年以降、写真が芸術表現の手法として用いられるようになるとともに、同国からフランティシェク・ドルティコル、ヨゼフ・スデック、ヤン・サウデック、ヨゼフ・コーデルカなど、多くの重要な写真家が輩出されてきました。1991年のソビエト連邦解体から自由化を経て、旧共産圏の芸術文化が一挙に世界中へ広まりましたが、チェコの写真表現もその潮流にのり、欧米をはじめとする西側諸国へと広く知れ渡ることとなりました。そして1998年から99年にかけて、バルセロナ、パリ、ローザンヌプラハミュンヘンの5都市で「モダンビューティー:チェコアヴァンギャルド写真1918-1948」展が開催され、チェコの写真芸術を世界的に認知させることとなりました。また2005年には、プラハ工芸美術館とプラハギャラリーの2館を会場に、「チェコ20世紀写真展」が開催されました。同展は、チェコ国内で初めて20世紀におけるチェコ写真の歴史と発展を紹介するという趣旨のもと、400人以上のチェコスロバキア写真家による作品約1300点が出品され、その後2009年にドイツ・ボンの国立芸術展覧会ホールへも巡回しています。

本展は、その独特な表現と作品水準の高さで世界的に注目を集めるチェコ写真の現在を紹介する、日本初の展覧会となります。モノクローム写真を主流として独自の発展を続けてきたチェコ写真を現在最も注目を集める10名の写真家の作品約50点を通してお楽しみください。


 英語ではDarkness for Light   Czech Photography Today というそうだ。
 Darkness for Light 展覧会のタイトルとして使えそうな感じだ。

2010-06-17 アナザーワールド

千葉市

JR千葉駅から「伊藤若冲 アナザーワールド」展を見に千葉市美術館まで歩いたのですが、途中道に迷い、栄町という「アナザーワールド」に紛れ込み、久しぶりに緊張しながら写真を撮りました。どうして、ああいう店の前に、怖そうな人が立っているのですかね。
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「伊藤若冲 アナザーワールド」へ

午後は、千葉市美術館へ『伊藤若冲 アナザーワールド』へ2008年北陸の旧家で見つかった『象と鯨図屏風』を見たいと思ったのだ。
千葉市美術館のホームページhttp://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2010/0522/0522.html)では

若冲のアナザーワールド、水墨画の世界に浸る

伊藤若冲(1716-1800)のブームが継続中です。京都国立博物館での「没後200年 若冲展」展で、一般にも広くその名を知られる存在となり、その後も展覧会の開催、画集の刊行が続いています。もはや一過性のブームではなく日本絵画の大スターとしての地位を確立したようです。

動植綵絵》(宮内庁三の丸尚蔵館)のような華麗な着色の作品だけが若冲の世界ではありません。若冲は晩年にいたるまで多くの水墨の作品を残しました。もしかしたら水墨画のほうが若冲の個性であるかたちの面白さは際立つかもしれません。

本展覧会は、若冲の水墨の作品を中心に、関連する着色の作品をも含めて構成します。加えて、河村若芝・鶴亭らの黄檗絵画の作品によってその水墨表現の前史を示し、若冲水墨画の世界に迫ります。前期(5月22日〜6月6日)後期(6月8日〜6月27日)合わせて165点を展示する予定です。

首都圏での若冲の大規模な展覧会は昭和46年(1971)に開催された東京国立博物館での特別展観以来、約40年ぶりとなります。若冲のアナザーワールド、水墨画の世界をご堪能下さい。

とアナザワールドって水墨画の世界ということなのようなのだが、カタログに館長の小林忠さんが「伊藤若冲の多彩な絵画世界」という文章で、

 陸と海の最大の動物を白黒の対比によって示した<<象と鯨図屏風>>にみるような、大胆な発想と省略の利いた造形、稚気に富んだ拓まざるユーモアなど、まことぬ若冲絵画世界は、人の意表を突き、他の誰のそれとも異なる「アナザーワールド」であるに相違ない。このところ高まり続ける若冲再評価の動きは、現代においてもなお見る者に衝撃を与える。強烈な個性の輝きに魅せられるからこそなのであろう。

前にも、http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20091111でかいたが、

私自身は「動植綵絵」よりも,どちらかとうともっと力を抜いた感じの若冲の絵が好きなのです.

だから、小林忠さんのいう「アナザーワールド」を楽しめ、良い展覧会だと思いました。でも、若冲=「動植綵絵」(華麗な彩色画)と思っている人が見に来て、水墨画ばかり並んでいると期待はずれってことになるので、予め水墨画中心ですよって美術館の方が言い訳するための「アナザワールド」って言っているのだったら情けないですね。

三井 公一写真展「iの記憶」へ

 午前中、epSITEへ「三井 公一写真展『iの記憶』」を見に行く。iPhoneで撮った写真の展覧会だ。ちょっと調べてみたら、iPhone,iPhone3Gが200万画素パンフォーカスカメラでiPhone3GSで300万画素マクロ対応オートフォーカスカメラになったようだ。
http://www.epson.jp/epsite/event/gallery2/10/1012.htmによると

 世界的なヒットを記録したアップル携帯電話iPhone」 。そのシンプルなカメラ機能と数々のアプリケーションで撮影・加工した、日々の記憶をつづる。

ってことだから、色々なアプリケーションで加工もしているのだろう。この画素数でも、ちゃんと手を加えればこれだけ大きく伸ばせることがわかりました。
 駅に戻る時、PENTAX FORUMにより、645Dを触ってきた。まぁ当分は4x5で勝負します。

2010-06-16

中平卓馬の「日々」

私も読んで中平卓馬 (KAWADE道の手帖)に良く分からなかった。清水穣さんの論考「中平卓馬の「日々」」について、大嶋浩さんがブログ「コーカス・レース - Art&Photo/Critic&Clinic」中で次のように述べている。
http://blog.goo.ne.jp/zalzal04/e/817eb6628c2af9fd38f730e5a68bb145より

旧聞に属して恐縮だが、たまたま河出書房新社発行の『中平卓馬−来るべき写真家』所収の清水穣の論考「中平卓馬の「日々」」を改めて読んでみたのだが、ここで清水穣が展開する「アブソープション(没入)」と「シアトリカリティ(演劇性)」の区別にどうも納得がいかない。そもそも「没入」と「演劇性」は並列的なものとして区別できるものなのか(もともと次元の異なる概念なのだから、その相違を語ることに意味がない)。「没入」が効果の結果だとすれば、「演劇性」とは効果の方法ではないのか。つまり、「没入」という効果を生み出すための方法の一つが「演劇性」ではないのか。フレームを忘れさせるために(没入させるために)演劇的な方法が必要となるのだ。「演劇性」におけるフレーム(枠)とは、イメージを自律させるためのフレームであり(つまり、イリュージョンを自律させるためであり)、区別・分離を強調させるためのものではない。「没入」によって「被写体を通常の人間的現実から分離し、真にリアルな現実へ」導くためには、むしろ「演劇性」を回避する必要があるのではないのか(フリードを参照)。分離・区別する力としてのイメージを「演劇性」から遠ざけることこそが近現代美術おける最良の試みであり、挑戦ではなかったか。中平卓馬における「なぜ、植物図鑑か」以降における写真の試みはむしろ、「没入」から「演劇性」を引き剥がし、「没入」という近代的経験をハイデッガー的な存在の経験につなげたことにあるのではないだろうか(「演劇性」とは異なる分離・区別の方法)。

都議会最終日 青少年健全育成条例改正案が否決

東京都議会で、青少年健全育成条例改正案が否決されました。
毎日jphttp://mainichi.jp/select/wadai/news/20100617k0000m040040000c.html)より

 東京都議会は16日の定例会本会議で、18歳未満の性的行為を過度に描いた漫画の18歳未満への販売を規制する都青少年健全育成条例改正案を3人差で否決した。知事与党の自民や公明は賛成したが、民主、共産など野党会派が反対した。都側は改正案を練り直し、9月定例会以後に再提案する方針。

 改正案は、18歳未満として描かれた漫画やアニメのキャラクターを「非実在青少年」との造語で規定。こうしたキャラクターの性的行為を売り物にした作品を子供に販売しないよう書店などに自主規制を求めるなどの内容。「表現の自由が侵される」として、著名漫画家らが反対表明していた。

知事提出の条例案が否決されたのは青島知事の時代以来12年ぶりとのことで、
TOKYO MX NEWS http://www.mxtv.co.jp/mxnews/news/201006166.htmlによると。

知事は閉会後に民主党控え室を訪れ、きょうの討論の中に事実と反することがあったとして「正確にものを言ってもらいたい。日本語の解読能力がないな、君らは」と抗議する一幕もありました。また石原知事は記者団には「数が通れば道理が引っ込む典型的な例。反対のための反対を数に任せて通せば行政の能率は上がらないし都民が迷惑するだけ」と述べ、代案も出さずにかたくなに反対した民主の姿勢をあらためて批判しました。

一時は、民主党の中に賛成する人もいて、成立するのではと思われていたのですがこんな形になりました。また、9月に再提出する時、どのような案をだしてくるのでしょうか?

2010-06-15 TOPSYってすごい!いや怖い!

topsyって何

 先にかいたPHOTOミシュランの話、twitterの検索では中々見つからない。色々調べてみたら、topsyというサイトがあることを知った。
http://topsy.com/
topsyはtwitterのための検索エンジンで、短縮URLを展開して検索でき便利なようだ。たしかにここで"PHOTOミシュラン"で検索し、今週内という制限をつけて探すこおとが出来た。びっくりしたのがhttp://topsy.com/twitter/heliograph1950をみると、自分のtwitterでどのようなことをやっていたのか、一目瞭然になってしまうのだ。しらないうちにこんなまとめを作ってしまう、仕組みが出来てしまうことに。便利だと思うより、むしろ恐ろしくなってしまた。

Photoミシュランその後

m_m1941 (松代守弘)さんのtwitterより

“なにかと物議を醸しているPHOTOミシュランですが、短評と評者(イニシャル表記)が追加されています。 http://bit.ly/92JR8O

短評はもともとあったのですから、評者(イニシャル表記)が加えられました。

2010-06-14 深瀬昌久、柳沢信、石内都

季刊写真映像

 本といえば、先週の土曜日、赤羽古書店で手に入れたのが、季刊写真絵像<第2号>(写真評論社)
特集3が「瑛九遺作集=フォトデッサン」ということで、まとめて瑛九のフォトデッサンが見ることができるというので買ってきたのだが、特集1の「深瀬昌久=兇」に寄せている深瀬昌久の文章がすごい。いかにも深瀬昌久と言う感じの文章だ。

ドロまみれのザーメン=深瀬昌久

髪の毛が好き。髪の長い女は髪を大切にする。枝毛を切りながら指先の触感をいつくしむ。猫が好き、とりわけ体毛の柔らかいシャム猫が。眠ると鼻が乾き目覚めると濡れる。猫の鼻は女の性器。
ぼくの5才の時、捨猫を拾ってきた。赤と黒のダラダラ模様のメスの三毛猫。タマと名づけた。小学校2年生のとき(大東亜戦争中だ)、毛皮供出で、北海道の12月の雪道を、カマスに他の猫どもと一緒につめこまれ、馬そりで屠殺場にいってしまった。そして翌年の6月、あの嬉しさは忘れていない。アカシヤの花の咲き匂う生家の前で、ボロボロにうすよごれ鼻すりつけてきたタマをどのようにして逃れどのようにして帰ってきたのか。あの軌跡―ヒヤッと濡れた冷たい鼻の感触は、忘れられない。今、タマでない別のシャム猫がひざに乗っかっている。
ぼくにも初恋があった。娼婦での体験があった。結婚は22才のとき、初恋への人の思いと、娼婦の肉への溺れと、若い生活の苦しさと。8年間つづいた葛藤の末、母性的で美しかった女は、ぼくにくたびれ果てて、去ってしまった。そしてまた結婚し今年で6年目。ぼくも35才。もう沢山だという気がする。去年、退屈という退屈な理由で家を離れて新宿に住んでみた。9ヶ月の短い間だったけれど、肉に溺れてもみたけれど、人の生身がやたら切なく、今ポカンとして、白い雲をみていたい。
畜生め、ドロドロとドロまみれのザーメンを空いっぱいにまき散らし、孤独も連帯も嗤っちゃえ。写真をうつしているから写真家とはかぎらない、生きているから生者でもない。ぼくはいったいなんなだろう。多分馬鹿で気狂いだ。人生なんてぼくにはもともとなかったと考えればいい。めんどうくさいのに生きる必要なんてどこにもなかったみたい。だけどこの胸のかきむしられる怨恨だけは死ぬまで大事に飼ってやれ。あしたはあしたの陽が昇るだろうが、ぼくが見たいのは、燃える血の太陽だ。
一パイ水が飲みたいけれど、地獄の井戸はからぽだってさ。
<兇>なんて兇悪な題名になったけれど、本当は<西瓜>にしようと思ったけれど、<西瓜>では園芸雑誌になってしまうので<兇>になった。これらのささやかな映像群は<兇>にふるえちゃっている。

 深瀬昌久は1992年6月20日深夜、新宿ゴールデン街で階段から転落し、以後意識がないと聞くが、この雑誌は1969年9月25日発行であるが、何かその後の深瀬の運命を暗示しているような気がする。

 もう一つ文章を紹介したい。2008年に亡くなった柳沢信の「13小節のブルース」という作品(多分その後、写真集「都市の軌跡」(アサヒソノラマ社)に含まれる写真もあるようだ)。その街の表情を捉えた写真の13枚の作品集の13枚目の写真の下に書かれた柳沢信の文章もいい。

われわれの生も死もいまだに偶然であり、その偶然に身をゆだねることで生きられるように、街も、その中のビルや高速道路も、計画を越えた時の流れと偶然に見をさらして生きている。
街を造るのが都市計画家でなく、時の流れや、その中をうろつくわれわれであることに気がつけば、街の表情がわれわれの姿と瓜二つに思える時があるのは、なんの不思議もなくなる。

まだまだ全部読んでいないが、他にもたくさん読むところがありそうだ。

石内都『Tokyo bay blues』の情報


昨日、蒼穹舎に行ったのに気付かなかった石内都写真集『Tokyo bay blues』はもう店頭に出たようです。

kenkenT(タカザワケンジ)さんのtwitterより

kenkenT
2010.06.14 08:28:43
石内都写真集『Tokyo bay blues』(蒼穹舎)。1982〜4の二年間に撮影された湾岸景。カラーポジによるスナップショット。人の匂いのする海の写真。経年変化で赤味を帯びている写真もあるが、その色味までが80年代初頭の落ち着かない雰囲気を表現しているようにも感じられる。 via Twitter for iPhone


kenkenT
2010.06.14 08:36:31
石内都『tokyo bay blues』。編集した大田通貴さんに聞いたところ、7〜8000カットから選んだものだという。「カメラ毎日」最後の編集長、故・西井一夫がカラーで、という依頼で連載を頼み、ポジを撮りなれていなかった石内さんが珍しくたくさんシャッターを切っていたのだという。 via Twitter for iPhone


kenkenT
2010.06.14 08:45:20
石内都『tokyo bay blues』。すごくいいのでぜひ見てください。新宿御苑の蒼穹舎で手に取って見られる。また、出版されたばかりの初期作品集「Sweet Home Yokosuka 1976-1980」も蒼穹舎あった。そちらもぜひ。http://bit.ly/8OeL3Q via Twitter for iPhone


kenkenT
2010.06.14 08:47:54
石内さんの「あとがき」にその当時のことが書かれています。ぜひぜひ。“@w_dori: @kenkenT 『tokyo bay blues』西井氏が見たかった石内さんのカラー、見てみたくなりました。” via Twitter for iPhone

2010-06-13 新宿

新宿ギャラリー巡り

サード・ディストリクトギャラリーへ原美樹子「Blind Letter」展を見る。
http://www.3rddg.com/exhibition/2010.6.4/hara_mikiko.htmlより

息子が今より小さい頃
一緒に遊んでほしい子を 叩いたり 殴ったりしていた
それを制しながら
自分が小学生の頃 先生の気をひきたくて
その先生に噛みついていたことを思い出した

動機と行為と あたまと身体と 内と外と 自分と他人と

ずれる
ねじれる
こんがらがる

そんな思いと
古くて長いおつきあい

                 原 美樹子

サード・ディストリクトギャラリーの「そのままのポートレイトを見たい。」という企画展。会場に置いてあったパンフレットによると。

写真機が世界の隅々にまで携帯され、ポートレイトは過剰に蔓延している。JPEGのなかには撮影時間、位置情報といったメタデータが撮影者の意向を問わず記録されていく。何が欠けているのか。僕らの見たい世界は検索エンジンの走査や画像の解析からは発見することができない。人間の顔は普遍だ。かつて写真機は肖像画家の特権を剥ぎ、解体し、人心を瞬く間に満たしたはずだった。今、ストリートに曝されたはずの顔には気休めのぼかしが加えられ、枯渇したこの島国の記憶と想像力のなかで、僕らはいつだって他人の目線を読み、一方で遮断し、商標登録済みの顔で埋め尽くされた広告のコンコースをすれすれの肩越しにそそくさと歩いている。顔を直視してレンズを通過した光をただ、そのまま見たい。そして、世界はそこにある。5つの連続写真展。

ということで、行われた5つの写真展

  • 2010.5.4 - 5.12 阿部真士「Snap」

  • 2010.5.14 - 5.23 山内道雄「東京 2009.12.」

  • 2010.5.25 - 6.2 星玄人「Hoshi haruto street photo exhibition 4 “ Osaka ”」

  • 2010.6.4 - 6.13 原美樹子「Blind Letter」

  • 2010.6.15 - 6.23 川島紀良「Zephyros」

の1つであった。今日の原美樹子「Blind Letter」は6x6によるスナップ。好きな写真だ。だけど、原美樹子の写真についてどう書けばいいのだろうと色々考えてみたけれどうまく書けない。苦しまぐれに原美樹子で検索していてこんな山田大輔さんの「工事現場」からこんな文章をみつけた。(061018と日付があるので2006年の文章である)
http://www1.odn.ne.jp/~caa31720/note_book_14.htmlより

☆おそらくは、原美樹子に「この時、なにを考えて撮ったのですか?」「この写真はなにを狙ったのですか?」「これは何を表現したかったのですか?」等々の質問をぶつけても、言いよどみとその先にある沈黙にぶつかるばかりだろう。なぜなら、原美樹子の写真には「形式」があるばかりだから。金村修、吉野英里香らにも共通する鈴木清直伝のスナップの形式。原美樹子もまたそのスナップの形式の伝承者のひとりだ。カラー写真であること、使っているクラッシック・カメラの性能上ほぼ完全にノーファインダーであること、カメラの先にあるものが通行人とは限らないこと等の差異は、ある。差異はあるが、形式の頑固な継承者のひとりであることははっきりしている。
形式主義者に(頑固な形式主義者に!)、内面的葛藤やら映像的意味付けやらについて問うたところで、無意味だ。

☆嘗て、原美樹子の存在は、風船に思えた。風に揺られつつも青い空へすーっと吸い込まれていく青い風船。いつか空にまぎれ、見えなくなってしまうであろう舞い上がる風船。そんなふうに思えた。「いいなあ・・」と溜息をつき、口を開けて下から見上げるしかないような風船。
 でもその後、原美樹子は、上昇より重力を選んだような気がする。選んだ? いや、そもそも青い空の先へと舞い上がろうなんて一度も願っていなかったのかもしれない。99年に新木場のSOKOギャラリーに出してた展示のタイトルは、「cloud 9」だった。なんでも「空一番高い雲」とかいう意味なのらしかった。空高くあがっても雲だったのだ。一番空高く上がった雲でありながらもなおかつ木々へと草々へと花々へと土へと降り注ぐことが、はじめから原美樹子の願いだったのかもしれない。
 谷口雅が、「嘗て空に向いていた原美樹子のカメラに地面が写り込むようになってきた」と書いていたの読んでそんなことを思った。

すすめられたお茶を飲み、「いいなあ・・」と溜息をついて会場を出て、
この後、

  • photographers' gallery+IKAZUCHI 大友真志展「Mourai 7」

  • 蒼穹舎 コウノジュンイチ写真展 「Wandering」

  • Place M 瀬戸正人 「BANGKOK 1982-2010」

  • TOTEM POLE PHOTO GALLERY Shinjuku×TPPG (有元伸也、下平竜矢、関口直樹、比留間達朗、福山えみ)

を見た。

2010-06-12 今日の写真

戸田公園駅近くの不思議な家

 一年に2、3度、JR戸田公園駅に行く、用事を済ましてから、時間があるとき寄るのがこの家だ。見つけてから10年近くたったし、建物自体は古いものだったので、今日訪ねるとき、残っているのか心配にした。まだ残っていたというか、このように少し姿を変えて存在していた。

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2010-06-11 世界の一細片をわれわれに指して見せる人

物質的恍惚(3)

 昨日は、作品を「見ること」についてのtwitterでの話題を引用しました。
改めて岡崎乾二郎さんの発言を中心に抜粋すると。

kenjirookazaki
2010-06-05 14:37:03
@pas_pascal 僕の意見を言わせてもらうと、うっかり(いや必ずある)自分が見ていないものを見つけることがいちばん大事。見る、ことは選択ですから、必ず見ていないものがある。だから「見る」と単一化して述べてはだめ。これは校正の要領と同様、テクニックの問題にすぎませんが。


pas_pascal
2010-06-05 14:45:30
@kenjirookazaki わかります。そう、「自分が見ていないものを見つけるため」には、やはり 知識は必要ですよね?


kenjirookazaki
2010-06-05 14:49:36
@pas_pascal あらたな 知識は必要ありません(知識がまったくない人はいません)。何を知っているか、知らないか の分別ができることが重要です。知覚されているなかで、つまり何が知らない情報で、あるか、それを判別できる能力というか、潔さ。


kenjirookazaki
2010-06-05 14:50:42
@pas_pascal そもそも それがないと新しい知識も、視覚(の自覚)もえられませんし。


pas_pascal
2010-06-05 14:53:47
@kenjirookazaki 「何を知っているか、知らないか(無知の知) の分別」ができるということこそ、高度な「知」ですよね?「知識」とは区別すべきなのかもしれないけど。


kenjirookazaki
2010-06-05 15:00:17
@pas_pascal 高度とか、そして知と必要もないかも。知としても、むしろ行動、行為の知であり、その技術方法。動物とかこそそれを備えています。動物は本能に従っていると言われるけれど、その本能とは、知らない(新しい)情報を見逃さない姿勢そのもの。それはたしかに知識ではない


それに対して、見る方ではなく作る方の芸術家はとはどういうことをする人なのか?
ル・クレジオ物質的恍惚 (岩波文庫)では、「芸術家は世界の一細片をわれわれに指してみせる人のことである。」とあった。この前後を引用する。
p.217-p.218

 もし芸術に一つの力が、効能があるとすれば、それは芸術がわれわれに世界を、嘆賞すべきものとして差し出すからではなく、あるいは神秘の鍵の数々を贈ってくれるからではない。また、われわれをわれわれ自身に啓示するからでもない。聾で盲目で唖の世界において啓示されることなんか、何の役にたつというのか? いや、芸術の力、それは事物を相ともに眺めるべきものとしてわれわれに差し出すことである。
 一枚の絵、一本の映画、一冊の本は、それ自体として何ものでもない。それらは分かち持たれる瞬間からしか存在しないのだ。そしてそれが可能ならしめる伝達(コミュンカシオン)は、言語の(あるいは記号の)伝達であるよりは、生命のさまざまな動きの交流(コミュニオン)なのである。それはひとつの方向づけ、有益な指標である。芸術家とは、世界の一細片をわれわれに指して見せる人のことである。彼らはわれわれに、彼の眼差を辿るよう、彼の冒険に参加するように誘う。そしてわれわれの眼が対象のほうへ向けられるとき、ただそのときにのみ、われわれはわれわれの夜という重荷の一部をおろすのだ。断じて芸術作品が人間たちを超えることはあるまい。それは彼ら人間たちまで到達する一つの手段、他にもたくさんある手段のうちの一つにすぎない。

2010-06-10 美術において作品を「見る」こと

美術において作品を「見る」こと、教育についてのツイートまとめ


oqoom(奥村雄樹)、kachifu(末永史尚)、pas_pascal(urara_nakamura)、kktnk(田中功起)、miyajiiiiiiiing(miyashita sayuri)、kenjirookazaki(岡崎乾二郎)、ac_katsura(桂 英史)さんらがツイートしたことをkachifu(末永史尚)さんがまとめた『美術において作品を「見る」こと、教育についてのツイートまとめ』です。

http://togetter.com/li/26981より引用しました。

oqoom
2010-06-05 10:30:59
講評したくないなぁ。五時間くらいそれぞれが全員の作品をひたすらじっくり見るだけの会にしようか。たぶん話すことよりもっとたくさんのことが見えてくる。 #okumurazemi


oqoom
2010-06-05 10:36:54
話はズレるが、鑑賞教育がどうのってよく言うけど、いちばん大事なのは対象をじっくりじっくり見てそのとき自分の中に沸き起こる反応を可能な限り精緻に意識化することじゃないのかな。それを数多くこなせば、美術史や制度の文脈にも自然と興味がわくし、前に見た作品との比較も自然としちゃうだろうし


kachifu
2010-06-05 10:46:17
@oqoom え、それが「鑑賞教育」なのでは…。すくなくともアメリア・アレナス的な意味では。


oqoom
2010-06-05 10:49:29
あ、そうなんすかw ぼくが言いたいのは、(現代)美術を楽しむには知識が必要だ的な考えはいかん、逆に見方を狭める…てことでした。RT @kachifu: @oqoom え、それが「鑑賞教育」なのでは…。すくなくともアメリア・アレナス的な意味では。


pas_pascal
2010-06-05 10:56:09
プラド《裸のマハ》の前で先生と6歳くらいの子供たち・先生は「どう見える、どう感じる?」と静かに言っただけ・子供たちはじいっと長い間絵を眺めていた。6歳の子どもがゴヤのあの絵を見て自分の中にわき起こる感覚を確かめている・とてつもなくすごいことです。


kachifu
2010-06-05 10:59:54
@oqoom なるほど。それはイカンですねw。完全同意っす。ぼくのほうはぼくのほうで、小〜高教育の中で圧倒的に「鑑賞<制作」なのがなんだかなとおもってたので。観れないから、知識参照型になっちゃうんじゃないかと。


kachifu
2010-06-05 11:07:42
@oqoom あ、さっきかいた「鑑賞<制作」の「鑑賞」は奥村〜アメリア的な意味での鑑賞です。念為。


pas_pascal
2010-06-05 11:25:33
プラドにいた先生は、子どもたちが絵をまず自由に楽しんで好きになることを大切にしている。そしたら、もし必要なら、知識は自然とあとからついてくるはず、と。好きなことについては、強制なんかされなくても、知らなくていいと言われても、いろいろ知りたくなりますから・


kktnk
2010-06-05 12:45:55
賛成。ちなみに「現代アートの舞台裏」で読んだマイケル・アッシャーの批評会、彼はほぼしゃべらず、学生同士で話させ、たった3人に朝から夜1時までかける。RT @oqoom: 五時間くらいそれぞれが全員の作品をひたすらじっくり見るだけの会にしようか #okumurazemi


kktnk
2010-06-05 12:51:27
そうですね、子どもはそれでいいと思う。でも美大レベルでは最低限の知識は無理してでも身につけるべきだと思う。自分を守るためにも。RT @pas_pascal: 子どもたちが絵をまず自由に楽しんで好きになることを大切もし必要なら、知識は自然とあとからついてくる


ac_katsura
2010-06-05 13:20:52
@kktnk @pas_pascal せめて外国語で本を読んだり、カタカナではなく原題で作品に触れる習慣は学部の間に身につけておいて欲しいところです。


pas_pascal
2010-06-05 13:24:57
@kktnk 美大生についてはわたしもそう思う。というかそれが当然だと思う。というか知識が必要じゃないなら、子どもの時のままでいいはずで、美大に入る必要もないと思う。


oqoom
2010-06-05 13:35:18
ポイントは、美大生であれ誰であれ、じっくり見るってことがベースになきゃダメってことじゃないでしょうか。そこに知識を上乗せする。知識だけあっても余計バカになるというか。。 @ac_katsura @pas_pascal @kktnk


kktnk
2010-06-05 13:49:38
そうですね、名前や用語など読み方も含めて違っていて苦労してますので。RT @ac_katsura: @kktnk @pas_pascal せめて外国語で本を読んだり、カタカナではなく原題で作品に触れる習慣は学部の間に身につけておいて欲しいところです。


kktnk
2010-06-05 13:52:32
半分賛成。なぜなら「じっくり見る」ってことは逃げにもなるので。知識は逃げられない。まあ、バランスなんだけど、「バランス」も逃げ口上か。 RT @oqoom: ポイントはじっくり見るってことがベースになきゃダメ @ac_katsura @pas_pasca


pas_pascal
2010-06-05 14:14:52
@kktnk 「じっくり見る」ということ、本当に「見ている」ということがどういうことなのか、という問題に関わると思います。 何時間でも「ぼんやり」眺め続けることはどんなひとにでもできますので。


miyajiiiiiiiing
2010-06-05 14:17:12
@oqoomじっくり見る(聞く)のは大賛成ですが、言葉にするのもこのゼミの重点では?というか皆5時間(どころか5分も)黙っていられないだろう予感。。。 #okumurazemi


oqoom
2010-06-05 14:21:46
@miyajiiiiiiiing そうだね、やめますw でも一箇所で誰かを中心に話すのではなく、同時多発的に其処彼処で話の輪ができてる…ってのはアリかなとまだ思ったりして。どうかなあ


kenjirookazaki
2010-06-05 14:37:03
@pas_pascal 僕の意見を言わせてもらうと、うっかり(いや必ずある)自分が見ていないものを見つけることがいちばん大事。見る、ことは選択ですから、必ず見ていないものがある。だから「見る」と単一化して述べてはだめ。これは校正の要領と同様、テクニックの問題にすぎませんが。


kktnk
2010-06-05 14:38:04
@pas_pascal たぶん、まずはその作品そのものから何が読み取れるのかということがあり、そのあとに、ではそれが分かった上でどう解釈できるのか、なにを自分が付け加えるのか。分析して批評ってことが「見る」ことに求めること。アッシャーの批評会はそれを徹底させているように見える。


kktnk
2010-06-05 14:42:16
@pas_pascal まあ、でもそれは大学院生に求めることかもしれませんね。学部はとにかくつづけるためにアクティブに見たり作ったりが必要です。その意味では「ぼんやり見る」だけでも、「見ない」よりはましかもしれない。自分から見にいくことが圧倒的に少ない印象が学生にはあったので


kenjirookazaki
2010-06-05 14:44:34
@kktnk こんにちは。交差しました。読み取れる、という言葉は大概、どう語り伝えるかを前提に含んでいて誤解もされやすい。テクニックとは読み取れない(と思いなしてる)ものをどう見るか、それは、それをいかに意識するか。意識することは、当然それを語りうる=読む可能性の確保を含みますね


pas_pascal
2010-06-05 14:45:30
@kenjirookazaki わかります。そう、「自分が見ていないものを見つけるため」には、やはり 知識は必要ですよね?


oqoom
2010-06-05 14:46:42
自分がうっかり見ていないものを見つけるためにこそ、他者の言葉が必要なんでしょうね。まずは。@kktnk @kenjirookazaki @pas_pascal


kenjirookazaki
2010-06-05 14:49:36
@pas_pascal あらたな 知識は必要ありません(知識がまったくない人はいません)。何を知っているか、知らないか の分別ができることが重要です。知覚されているなかで、つまり何が知らない情報で、あるか、それを判別できる能力というか、潔さ。


kenjirookazaki
2010-06-05 14:50:42
@pas_pascal そもそも それがないと新しい知識も、視覚(の自覚)もえられませんし。


pas_pascal
2010-06-05 14:53:47
@kenjirookazaki 「何を知っているか、知らないか(無知の知) の分別」ができるということこそ、高度な「知」ですよね?「知識」とは区別すべきなのかもしれないけど。


kenjirookazaki
2010-06-05 15:00:17
@pas_pascal 高度とか、そして知と必要もないかも。知としても、むしろ行動、行為の知であり、その技術方法。動物とかこそそれを備えています。動物は本能に従っていると言われるけれど、その本能とは、知らない(新しい)情報を見逃さない姿勢そのもの。それはたしかに知識ではない


oqoom
2010-06-05 15:01:04
なんだか、作品を見ることについて、いろんな人たちが同時多発的につぶやいて交差してるな…


kachifu
2010-06-05 15:04:17
なんか鑑賞の話がオカザキさんにまで拡散してるね。


kktnk
2010-06-05 15:05:49
@kenjirookazaki 遅れました。確かに「読み取れないものをどう見るか」ということなんでしょうね。どうしても見たいものだけを見てしまうものですから。RTされていた「様々な角度から考えることのできる人材」もまさに同じようなことですね。


oqoom
2010-06-05 15:06:53
A 即物的に時間をかけ、文字通りさまざまな角度から作品を見ること、その場を体験すること、そのとき揺動する自分の知覚を分析すること。B その上で必要とあらば他者・外部・既存の言説を参照すること。AとBの順序が狂うとイカン。と思います。 @kktnk @pas_pascal


oqoom
2010-06-05 15:07:30
僕がこんなつぶやきをした端緒には、いぜんとあるトークで「ふつうの人が現代美術を楽しめるようにもっと知識を与える教育をすべき」的な人がいて、違うんじゃないかと思ったことがあります。


oqoom
2010-06-05 15:07:39
僕の結論は、むしろ中途半端に知識や御託や理屈を伝えるより、まずは「時間をかけてさまざまな角度からじっくり作品を見てみてください」と言うことが一番だろってことでして。


kenjirookazaki
2010-06-05 15:08:41
@kktnk 芸術の勉強=訓練=教育こそ、こういう風に行われ、それを目指されなければなりませんね。


oqoom
2010-06-05 15:09:34
自分の中に勝手に浮かび上がってくる「気付き」を逃さず掴み取ること。その技術。


kktnk
2010-06-05 15:09:5
そこから見えないのならば後ろに回って見る、物事がひとつの側面に限らないということを知っている。知らないということを知っている上で知ろうとする。作り手でさえも気づかないことを見る者が発見する。3


pas_pascal
2010-06-05 15:13:57
@kenjirookazaki でも、動物に本能的に備わっている「行動の知」ともいえるものを、人が絵画を見る時引き出す(何を知っているか、知らないかの分別を知る)ようになるためには、やはり根底にはいわゆる知識が必要な気がしますが?


kktnk
2010-06-05 15:15:28
@kenjirookazaki そうですね、美術大学はその意味で多用な見方を持つ、美術家なり、批評家なり、いや、もっと別の分野も含めて、そのなかで学生がもまれることがいいと思いますね。小さい中ではどうしても見方が一辺倒になりやすいので。


kktnk
2010-06-05 15:17:51
講評会ではだれも言葉を発せず、みなツイートするとか。「気づき」を書き言葉にすることでより意識化される。RT @oqoom: 自分の中に勝手に浮かび上がってくる「気付き」を逃さず掴み取ること。その技術。


kenjirookazaki
2010-06-05 15:22:29
@pas_pascal あの〜。人は(自分が見ていると思って見ていなかった、盲点が発見される(する)のがいちばんショックかつ面白い=刺激を受けるもの、それで勉強意欲ははじめて高まるものでしょう? (そして、これは知識のレベル関係なく、赤ちゃんでも成り立つということです)。


oqoom
2010-06-05 15:23:34
そう、会話でのやりとりと書き言葉でのやりとりってホントにまったく違うんだよね。両者をどう使い分けるか、ってのは僕が本当に学ぶべきこと。 RT @kktnk: 講評会ではだれも言葉を発せず、みなツイートするとか。「気づき」を書き言葉にすることでより意識化される。


kachifu
2010-06-05 15:25:20
そもそも対象になにかを期待しないと「見る」に至らない。また同時代、同じ場所で作られたものは知識はいらないかもしれないけど時代も場所も異なる対象の場合は知識があればより「見えて」くるかもしれない。


oqoom
2010-06-05 15:27:02
こりゃーぜひどなたかトゥギャってほしいなあ(ぼくのパソだとなぜか出来ないのです)。いろいろ論点は錯綜してるかもだけどさ。さて出かけよう!


pas_pascal
2010-06-05 15:38:50
@kktnk 反射神経がにぶすぎるので、あちこちへの同時並行的なマルチな受け答えができない・困ったものですw たしかにどんなに「ぼんやり」でも見ないよりは見た方がいいですよね・

2010-06-09 「写真+プログラム」

現代写真論

現代写真論

現代写真論

を購入。結構面白い。ちょっと整理してから紹介します。

この本を買ったので、買うのを止めましたが、気になった写真集「Rugged TimeScape」(Foil社)という写真集がhttp://fashionjp.net/highfashiononline/open_space/shintsubo_ikegami.htmlに詳しく紹介されていた。

新津保が撮影した光、煙、雲、森などのさまざまな流体運動の画像データと、池上が組んだ高度なプログラムの相互作用によって生み出された、テクスチャーの総体としての、新しい風景写真集。物理的な時間とは異なる、風景の中に存在する主観的な時間が折り畳み、引き延ばされてゆく。

ということです。是非このサイトで写真を見てください。

 昨日、掲載したスウィングパノラマの写真も、ある意味「写真+プログラム」で作った写真です。

エグルストンの展覧会SCAI THE BATHHOUSEでも開催

BIJUTSUTECHO (美術手帖)のtwitterによると。エグルストンの写真展が7/2〜8/4にSCAI THE BATHHOUSEでも開催されるようです。

BIJUTSUTECHO
2010.06.08 18:54
原美術館ウィリアム・エグルストン展が先日始まりました。2000年代に撮った「京都」と「パリ」のシリーズぜんぶと、初期作も数点展示中。今年71歳のエグルストンは、相変わらずお洒落な紳士でした。8/22まで。 via web


BIJUTSUTECHO
2010.06.08 19:02
エグルストン続き。やっぱり写真界ではカリスマ?レジェンドなのか、今回、取材がとても混み合っていました。初期の毒気もすごくいいけど最近のも新鮮。今時の写真家の先を行く若々しい作品が驚き。ちなみにSCAI THE BATHHOUSEでも7/2〜8/4に2000年代の個展が開催予定です via web


今日現在、http://www.scaithebathhouse.com/ja/ではエグルストンの写真展に関して、まだ何も発表されてません。

2010-06-08 電車からパノラマ

パノラマ

 そうこないだ買った。コンパクトデジカメにはスイングパノラマというモードがあった。
今日は動いている電車の中から。このモードにして、シャッターを押してみた。スイングしてなくても、それなりに画像をつなげてくれた。でも、上手くいく確率は1/3位。カメラが画像を上手くつなげられないと。途中で諦めてしまう。
f:id:heliograph:20100608124517j:image:h600
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f:id:heliograph:20100608124655j:image:h600
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絵画で投資ファンド

edtion1(版一欠)さんのtwitterより

edtion1
2010.06.07 22:28
投資ファンド:悪質横行…証券監視委の検査追いつかず - 毎日jp http://bit.ly/97LKWz奈良美智さんの絵画を共同で買い、転売して利益を配当するとうたった業者も同月、業務停止3カ月の処分に』 via TweetDeck

を見る。へぇ、絵画でそんなことするのってひどいと思ったけど。

omuraji (大村益三)さんはこういうふうに書き込んでいる。

omuraji
2010.06.08 08:51
ポップアート画で人気の現代美術家奈良美智(よしとも)さんの絵画を共同で買い、転売して利益を配当するとうたった業者も同月、業務停止3カ月の処分に。」毎日jp http://bit.ly/dsLazx via web


omuraji
2010.06.08 08:52
プライマリマーケットの価格が、セカンダリのそれに依存するとするなら、即ちセカンダリでの価格上昇がプライマリの価格上昇を保障するとするならば、それは「転売」の存在を前提にしていると言える。 via web


omuraji
2010.06.08 08:53
換言すれば、美術作品の価格は、他でもないその作品を、購入した者が手放す事に依存する。「購入した作品を機を見て売り払う」事こそが、美術のマーケットを成立させる。 via web


omuraji
2010.06.08 08:55
美術作品に対する「愛」の形には、「手放す」もあるという事か。 via web


ふーん。確かに。

2010-06-07 来たるべき言葉のために

souwaikanzaki (神崎雄三)さんのtwitterによると、中平卓馬の写真集「来たるべき言葉のために」が復刻されるとのことだ。

souwaikanzaki
2010.05.28 20:45
中平卓馬の「来たるべき言葉のために」が復刊http://www.shelf.ne.jp/forth/forth1.html via web


このつぶやきのリンク先(写真集を専門に扱う本屋Shelf)、http://www.shelf.ne.jp/forth/forth1.htmlを見ると。この他にも気になる写真集が6月中に発売されるようだ。
以下にまとめてみました。

荒木経惟『センチメンタルな旅』(1971)、森山大道『写真よさようなら』 (1972)等と並んで、60年代から70年代初頭の日本の写真について語られるとき、必ず言及される重要な写真集。『Provoke』掲載作品をはじめ、中平卓馬の初期作品の魅力を余すところなく伝える写真群が1970年の出版から40年を経て、ここに生き生きと蘇る。(pr)
テキスト Japanese
税込予価 \6,930
6月中〜下旬入荷予定。

16p 19x15cm 72photo オリジナルプリント1枚、サイン入り
伊奈英次が世界各地のセキュリティカメラをドキュメントした異色のシリーズを収録。カラー。
テキスト English
税込予価 \11,025
6月下旬入荷予定。

1982年から1984年に撮影されたカラー作品。
テキスト Jap/Eng
税込予価 \4,750
6月25日頃入荷予定。初回サイン本入荷予定。

  • Northern 2: 北方写真師たちへの追想 (森山大道)

 昨年発行され好評だった『NORTHERN』の第二弾。収録作品の大半が未公開。「北海道写真の黎明、まさにそれは日本写真の黎明期でもあった。ふと思うだけでも、田本研造を筆頭に木津幸吉、横山松三郎、武林盛一、井田こう吉、佐久間範造といった先達写真師たちの名が浮かぶ。明治4年から始まる北海道開拓事業全般にわたる記録写真の撮影にそれら多くの写真師たちが選ばれ、携わり、膨大な数の貴重な記録写真を今に遺し、資料としての役割はもとより、はるか後年写真に携わる僕たちにも、計り知れない多くのメッセージを送り続けてきているのである。」(森山大道
テキスト Japanese
税込予価 \3,150
6月11日発行予定。

何を描いているかではなく、如何に描かれているか

tadanoriyokoo(横尾忠則)さんのtwitterより

tadanoriyokoo
2010.06.07 19:06
テレビの美術番組を見ていると、出演者が語る内容は絵の背後の物語(画家の生活、人生、歴史)ばかりで、表現(描写)についての話はほとんどない。何を描いているかではなく、如何に描かれているかについても、もっと語る必要がある。 via web



tadanoriyokoo
2010.06.07 19:06
結局絵画を知識と教養の枠の中でしか捉えられない、そんな教条主義が絵画観賞の中心になっている。芸術を通して「自由」とは? についてもっと語るべきなのに……。 via web

2010-06-06 話の話

前田川へ

 午後から、立石へ。先日買った。Fujinon 180mm F5.6 をSinar Fにセットし、それを担いで、前田川遊歩道を歩いたが、シャッターを中々押せない。結局、この遊歩道では、2枚のみ。帰り、それよりも高い位置にある一般道を歩きながら8枚、川沿いの斜面の木々を上から撮る。
 Sinarを担いで歩いくのは非常に辛い。やったのおもいで仕事場に戻ったが、現像する元気は残ってなかった。

話の話

 神奈川県立近代美術館葉山館へ、『話の話 ロシアアニメーションの巨匠 ノルシュテイン&ヤールブソワ』展を見に行く。
 http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2010/norshtein/index.htmlより

 ロシアを代表するアニメーション作家ユーリー・ノルシュテイン(1941-)と、その作品の多くの美術監督を務めるフランチェスカ・ヤールブソワ(1942-)夫妻のこれまでで最大の展覧会を、ノルシュテインが愛する日本で開催します。
  本展覧会のタイトルにもなっている、彼の経験や想い出に基づく映画『話の話』(1979)は、1984 年に35 人の国際的な評論家や企画者によって、「歴史上、世界最高のアニメーション」に選ばれました。「映像の詩人」とも呼ばれるノルシュテインの映像は切り絵による繊細な表現を用いて、鋭い観察眼から生み出された詩情溢れる映像をつくり出します。その世界は人間や世界への愛情に満ちています。また、マルチプレーンと呼ばれる多層のガラス面に切り絵を配置する手法によって創り出される、彼独自の深い映像空間は、アニメーション・ファンのみならず、世界中の映像作家をも魅了してきました。
  本展覧会では、ノルシュテインが監督をしたアニメーション映画を中心に、ヤールブソワの美しいエスキースや、マルチプレーンを展覧会用に再現したマケットを交え、夫妻の創作の過程、映画完成後の展開の全貌を紹介します。


 未完成のアニメーション「外套」一部が上映されていた。主人公アカーキーが部屋に戻り、着替えをし、外套を点検し、食事をし、文字を清書し、お茶をすすり、眠りにつく場面なのだが、顔の表情、動作をこれでもかと思うくらい細部にこだわり、丁寧に表現しようとしている。(例えば、字を書くのに、紙を広げるまえに、手で机をさわり、点検し、食事をしたときに残した、パン屑をつまみ上げ、口にいれる場面、紅茶を飲むっとき熱いカップに触る手動き等)
 その前に上映されていた、別のアニメーションでは、途中、寝不足のためか意識が飛びそうになっていたのだが、音のない世界なのだが画面に引き込まれてしまった。

 カタログに書かれたユーリー・ノルシュテインの「とりわけ親愛なる日本の皆様!」(児島宏子 訳)から一部を引用する。

 展覧会全体を貫くのは、監督と美術監督との会話であり、1秒に24回明滅する映画のコマです。きらめいては消えるコマをつかまえるのは難しい。人の幻想を刻印すにる機械は存在しないのです。この展覧会は、表現へと導く最初のヒントと、スクリーンにフィックスされた映画との間に潜む過渡的な段階に位置しています。ファンタジーは何によって育まれるのでしょうか?子ども時代を語るフランチェスカの話、荒地に生える野草、錆びた鉄、カミツレの茎のからまる塀の穴。列車の車輪の連打音、魚の鰭がゆっくりゆれる仄暗い水。カーテン越しに部屋に差し込む陽光。母が髪からピンを取り、頭をふると髪が滝のように肩や背中に降りかかるのを子どもの私が見とれると、固い鼈甲の櫛の歯が長い髪にさっくりつきささり、根元から先端まで流れる髪を集めて箒のかたちにするとき、また櫛をしっかり握った母の手の柔らかく自在な動き。そして、微かな音をたてて髪をとかす櫛の動きが記憶に留められたのです。私は歌麿の版画を目にして、この光景をとつおい思い出します。中庭にくぐもる匂いから、隣家の窓に反射し、私たちの共同住宅の狭く長い廊下にまっすぐ差し込む夕べの陽光まで。また薄明かりの下、水道管からしたたる水の音が聞こえ、粘土製の水差しにアスターの花がアニリン染料の粉塵をあびる廊下の暗いトンネルで、ゆらめく光線までも。
 ふと明かりが震えて消えてしまう。向かいの家で誰かが窓をカーテンで覆ったのです。暗くなってきた廊下から戸口を覗けば、明るい8月の白夜に目がくらむことでしょう。まさにこの廊下を通って、「話の話」のオオカミの子がまぶしい光のさなかへ入って行くのいです。この光景を理解するためには時の推移が必要でした。取るに足らぬプロットなどはありません。芸術にとってはすべてが等しく重要です。日常生活の中で気づかれない最も小さな部分が芸術作品では大事な出来事になるのです。
今では、時が充分に流れ、なぜ言葉で表される日本の詩と絵画が何の妨げもなく自由に、芸術における私の渇仰する対象になったのか分かっていただけるのではないでしょうか。私は論理というのが苦手で、身のまわりの世界を自分自身に説明しなければならない理由がわからないのです。実用的な言語は暗喩と比較すれば頼りないものです。日々親しんでいる日常の細々した出来事を、首尾が一貫して調和のとれた手段で数えていけば、それはとりもなおさず暗喩、すなわちメタファーに形をかえるのです。

2010-06-05

逗子駅

終電より2つ前の電車で逗子に戻る。向こう側のホームには一瞬人が誰もいないように見えた。
f:id:heliograph:20100606000628j:image

視覚的な記憶

kenjirookazaki(岡崎乾二郎)さんのtwitterより、視覚的記憶について

もし、人が視覚的な記憶をまったくもたなかったら、あるいは、反対に完全な視覚的記憶(直接、いま網膜に刻印されているようにそれを見ることができる)をもっていたとしても、そのどちらであっても、人は(何かを写した)絵などを描いたり見たりする必要はなかっただろう、とb・ベレンソン。
kenjirookazaki
2010-05-30 04:14:57



けれど大部分の我々は、何か名前を聞いて、なんとなくそれらの漠然とした像が浮かぶにすぎない。目の前にもう、いない人の姿を正確に思い出そうと努力してもうまくいかない。そんなとき粗雑な肖像画や写真であれ嬉々と飛びつく。そんなものでも我々の心にある彼の像より完全で活き活きしているから
kenjirookazaki
2010-05-30 04:24:23



でも我々がもし完全な視覚記憶をもっていたら、今はいない友人の名前をあげただけで、ほとんど彼が目前にいるかのように(否それどころではない)、何百回も、一度しかないはずの瞬間に立ち会ったかのように彼の姿を見るだろう。
kenjirookazaki
2010-05-30 04:28:22



おのおのの瞬間の無数の、この人のやさしい影像がいちいち現れ、友人として我々に挨拶しては消えていく、そして我々は勝手に、気分にまかせてそれらのどれかを、もっとも(自分にとって)彼に相応しい表象として選ぶのである( B・ベレンソンによる、フラッシュバック論)
kenjirookazaki
2010-05-30 04:33:25



けれど視覚的に完全であっても、ゆえに像としてはどの像も不完全である。(個々の瞬間は、彼の風貌の一面しか伝えてくれないのだから)。つまり視覚再現の完全さは像の類似を不完全にする。そのようなとき、視覚のみに与えうる楽しみが二つ残る、ひとつは図解。もうひとつは装飾。つまり色彩と動勢。
kenjirookazaki
2010-05-30 04:39:39



つまり視覚的な記憶は、抽象において完全になる。(完全な視覚記憶は抽象=色彩と動勢による=に近づく)。
kenjirookazaki
2010-05-30 05:06:14

2010-06-04 無趣味の力

針生一郎氏告別式における岡崎乾二郎さんの弔辞


針生一郎氏告別式における岡崎乾二郎さんの弔辞が公開されています。
http://kankarakan.jugem.jp/?eid=921より一部引用しました。

(…前略…)

批評は、いかなる作品、事象を対象に論じるときでも、それが関係する利害、権力と距離をもち、
それを切断した上でなされなければならない。

ゆえに批評には 必然的に社会への批判が含まれる。
言論が自律するとはそういうことである。
それが評論の原則であり条件である。

けれど、いつからかこういう弁は 無骨であり野暮であると いまでは敬遠されます。
煩わしい事など忘れて スマートに文化を楽しめばいいと。
距離をもつことは 決して無縁であることではない、
無縁であると振る舞うことこそ権力、利害、政治に関わるための都合のよい身振りです。

だから、いくら忘れたふりをしても事件は起こりつづけ、歴史が停止したことはない。
どんな事件も厄介であるし面倒なものです。

誰もが憧れる芸術ゆえに、かえって精神と感性に与える負担は計り知れない。
こんなときに無骨だと遠ざけられていた評論が ご都合よく召還されます。


(…中略…)

針生先生は、戦後の出発において、抵抗の拠点として、
主体性などはまったく意味がないと自覚した、と言われました。
むしろ抵抗とは物質、つまり主体によってはコントロールできない身体と、
そこに付随する感性によってこそ可能なのだと。

だから文学よりも美術批評に力を入れるようになったと。
抵抗は主体でも意識でもなく、主体すらも逆らえない物質、身体こそが行なう。
すなわち物質に準ずる。

それが針生先生の思想であり、日常の実践そのものだった。

千絵さんの言葉を引用します。

あらゆる 進言や忠告を拒否し、
周囲のやきもきや マネージを完全に スルーし、
ダブルブックも 失念も 遅刻も 無頓着。
禁忌を禁忌と思わず、
失禁を失とも禁とも感じず、
病気を病気と思い悩む感知力もなく、
最期まで 現役で仕事に出かけた。

無趣味の力という名言で、針生先生の批評原理の核心を述べてもいる千絵さんが、
感知力がない、あるいは鈍感力と、辛辣な言葉で述べるのは、褒め言葉です。
(と僕は受け取ります)

(…後略…)

岡崎乾二郎さんのtwitterより

twitterでも、kenjirookazaki(岡崎乾二郎)さんが、針生一郎さんについて、つぶやいていた。

kenjirookazaki
2010.05.27 01:37
批評は『どんなことが起ったか』ということよりも『在ったことのなかで、いままでにまったく起ったことのないのはどんなことか』と尋ねなければならない」、針生一郎は《アヴァンギャルド探偵》1956で、ポーの「モルグ街の殺人」から、この一節を引き出す。 via web



kenjirookazaki
2010.05.27 01:44
アヴァンギャルド探偵》は、当時武井昭夫と行われていた論争記。論争のきっかけは、花田清輝の「林檎をめぐる一考察」。いわゆるセザンヌの林檎よりも、ニュートンの林檎よりもウイリアム・テルの林檎を選ぶという論。 via web



kenjirookazaki
2010.05.27 01:45
花田清輝の「林檎をめぐる一考察」は メイヤー・シャピロの「セザンヌの林檎」と比べるといっそう輝く。 via web



kenjirookazaki
2010.05.27 01:48
モルグ街の殺人 の犯人は、オラウータンであったが、数々の証言から帰納的(唯物論的に)に考えれば、なぜ、それが明白であるのに、それを誰もが気づかないか?それを語らず、回避してしまうのか? via web



kenjirookazaki
2010.05.27 01:54
ポー曰く、分析家の腕の見せどころは、単なる法則の限界を越えたところにあるのだ。彼は黙っていながら多くの観察や推理をする。そうして得られた知識の範囲の違いは、推理の正しさよりも観察の質にあるのだ。必要な知識は、なにを観察すべきかを知ることなのである。 via web



kenjirookazaki
2010.05.27 02:01
花田清輝のテルの林檎論と、モルグ街のオラウータン犯人。どちらも人間的な感覚実感(感情移入可能性)を相手にしないことにある。これは制作、批評双方に通じる技術論でもあった。針生一郎の出発点が、このような「非情なる」唯物論(〜「サドの眼」)にあったのは確か。それがとぼけたユーモアにも。 via web



kenjirookazaki
2010.05.27 02:10
針生先生の逸話、若い頃美術批評家には、感覚による趣味判断が必要だろう、と年長の批評家(植村鷹千代?)にたしなめられたものだけど、70過ぎに入院したとき、病院食をおいしそうに食べていたら、娘さんに、「これぞ、無趣味の力 !」 と、おおいにほめられ、はげまされた、と。 via web



kenjirookazaki
2010.05.27 02:12
無趣味の力とは、こそが、美的判断力である。ちなみにポーが、分析力とよんでいるのは、むしろ総合判断。 via web



kenjirookazaki
2010.05.27 02:14
もちろん無趣味の力こそが、美的判断力の本質。ちなみにポーが、分析力とよんでいるのは、むしろ総合判断(反省的判断)。 via web



kenjirookazaki
2010.05.27 02:19
30年以上のつきあいがあったけれど、針生先生。大事な話になると(みると)、だいたい、下を向いて寝ていた。聞いているのか聞いていないのか? via web



kenjirookazaki
2010.05.27 02:22
歩く姿は こんな風→http://bit.ly/czp870おやすみなさい。 via web

東急東横店屋上

 東急東横店で行われる「世界の中古カメラフェア」に行く 。ここ何年か、この催し物に出かけるが、ここに行くと、屋上に出て、自動販売機の飲み物を買い、休んだ後、写真を撮る。結局、今日は何も買わずに家に帰りました。
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2010-06-03 若き詩人への手紙

引用の引用

若き詩人への手紙・若き女性への手紙 (新潮文庫)

若き詩人への手紙・若き女性への手紙 (新潮文庫)



を買ってしまう。
実はtakagengen(高橋源一郎)さんのtwitterで引用されていたのを読んで、どうしても読みたくなったのです。
togetterで、thagy(萩原 徹)さんがまためた、
高橋源一郎氏自身による、“新著『悪と戦う』メイキング”http://togetter.com/li/18161
でtakagengen(高橋源一郎)さんが、引用したところを引用しました。

メイキング13の6…これから先は「全文引用」です。でも、とても有名なことばでもありますね。リルケの「若き詩人への手紙」です。本屋に行けば文庫もある。でも、いいでしょう。路上演奏では他人の曲だって歌うのです。それに、いまや、誰でも知っているようなものではないのかもしれませんしね。
takagengen
2010-05-14 00:26:11



13の7「あなたは、自分の詩がいいものなのかとわたしに尋ねます。わたしに尋ねる前は他の人たちに尋ねました。あなたは詩を雑誌に送り、他人の詩と比較なさった。そして、あなたの試作が編集者に拒まれると、不安を感じるのです。だから、わたしはそういうことを一切を止めるよう言おうと思います」
takagengen
2010-05-14 00:32:01



13の8「あなたは外部を見ているのです。それは何よりもまず、いましてはならないことなのです。誰も、あなたを助けることはできません。誰も、決して。ただ一つ、方法があるだけです。深く考えなさい。あなたのもっとも深い場所で。あなたに書けと命ずる根拠があるかを。それがあなたの心の最も…」
takagengen
2010-05-14 00:38:38



メイキング13の9「深いところで根を張り伸ばしているかどうかを調べなさい。書くことを拒まれたら、死ぬしかないと言えるかどうか、白状してごらんなさい。なによりもまず、夜の最も静かな時間に、ほんとうに書かずにはいられないのか、と自分に尋ねなさい。心のなかを掘って深い返事を探しなさい」
takagengen
2010-05-14 00:42:41



13の10「そして、もしその返事が『イエス』なら、もしあなたがこの真剣な問いに、『ぼくは書かずにはいられない』と力強く返事をすることができるなら、あなたの生活をその必然性に従い建てなさい。あなたの生活は、その最もつまらない、最も取るに足りない瞬間にいたるまで、そのやみがたい心の」
takagengen
2010-05-14 00:47:24



13の11「動きのしるしになり、証言にならなければなりません。自然に近づきなさい。、あなたが見、体験し、愛し、失うものを、最初の人間のようになって言いあらわす努力をなさい。恋愛詩を書いてはなりません。最初は、よく知れわたった月並みな形式はお避けなさい、そういうものこそ…」
takagengen
2010-05-14 00:51:07



13の12「むずかしいものなのです。たくさんの輝かしい作品がある場所で独自なものを産み出すには、大きな成熟した力が必要です。だから、一般的な主題を避けて、あなた自身の日常生活が提供する主題を選びなさい。自分の悲しみや望み、あぶくのような思い、そして見知らぬものへの信仰を描きなさい
takagengen
2010-05-14 00:56:02



13の13「これらすべてのことを、心からの静かな謙遜と誠実をこめて、描きなさい。そして、自分の心を言いあらわすためには、あなたの周囲の事物、あなたの夢の形、あなた自身の思い出を使いなさい。もし自分の日常が貧しく見えるなら、日常を非難しないで、自分を非難なさい。自分は優れた詩人…」
takagengen
2010-05-14 01:00:00



13の14「…ではないから、日常の豊かさを呼び出すことができないのだ、と白状しなさい。創造する人には、貧しさというものも、貧しくてどうでもよいというような場所もないのです。もしあなたが牢獄につながれて、牢獄の壁が世の中のざわめきをすこしもあなたの五感に伝えることができなくとも」
takagengen
2010-05-14 01:03:17



13の15「あなたには、あなたの幼年時代という、。貴重な、王者のような富、この思い出の宝庫があるではありませんか。そこへあなたの注意をお向けなさい。このはるかな過去の沈んだ感動を浮きあがらせるようにお努めなさい。そうすれば、あなたの個性は強くなるでしょう。あなたの孤独は広くなり」
takagengen
2010-05-14 01:05:39



13の16「それはまるで、明るい住まいのようで、他の人々が起こす騒音はその住まいの遠くを通りすぎるだけでしょう……そして、この内部への転向から、自分の世界への沈潜から、詩が生まれ出るとするならば、あなたは、それがよい詩かどうか、と誰かに尋ねてみようとは考えないでしょう」
takagengen
2010-05-14 01:09:56



13の17「あなたはまた、雑誌に、こうしたあなたの作品に興味を持たせようと試みたりもしないでしょう。なぜなら、あなたはこれらの作品を、あなたが生まれながらに持っているもの、あなたの生命の一片であり声であると考えるようになるはずだからです」
takagengen
2010-05-14 01:12:48



13の18「芸術作品は、必然の結果になるものならば、よいものです。芸術作品が、いまわたしが述べたような場所からやって来たものであるかどうか、それを見るのが、芸術作品の判断で、それ以外に判断する基準はないのです。それゆえわたしはあなたにこう忠告するほかなかったのです、つまり……」
takagengen
2010-05-14 01:16:13



13の19「深く考えなさい、あなたの生活が生まれてくる深みを吟味なさい。その時、あなたは、あなたの生活のみなもとで、創造しないではいられないかどうかという問いの返事を見いだすでしょう。その返事を、聞こえるがままに、解釈をしないで、受け取りなさい。もしかしたら、その時、あなたは…」
takagengen
2010-05-14 01:19:02



13の20「芸術家とい天職を授かっていたことに気づくかもしれません。そのときは、その運命を引受けなさい、そして外部から来るかもしれない報酬のことは、けっして問題にしないで、その運命を、運命の重さと大きさとを、耐え忍びなさい」
takagengen
2010-05-14 01:21:42



13の21「創造する人間はなりま独自の世界でなければなりません。そして、あらゆるものを、自分の中からと、自分がつき従っている自然のなかとに見いださなければならないのです」。以上、リルケが、ひとりの無名の若い詩人へ贈ったことばです。
takagengen
2010-05-14 01:25:12



13の22…リルケは「書く」というおこないについて、こんな風に述べました。しかし、ぼくは、この「書く」は「生きる」と言い換えても同じではないかと思います。だとするなら、このことばは、「生きる」ことに呻吟するすべての人への贈り物ではないかと思うのです。外ではない、すべては内側に…。
takagengen
2010-05-14 01:28:22



13の23…だから、「書く」ことも「読む」ことも、「生きる」ことと無縁ではない、無縁ではないどころか、「生きる」ことそのものだ… そのことを、あらゆる言語芸術は主張しているとぼくは思っています。なにより、小説こそは。これで、メイキング『「悪」と戦う』は終わります。ありがとう。
takagengen
2010-05-14 01:30:52


さて、本を買って、役者高安国世さんの役者後記を読むと、こんなことが書いてありました。

 何かリルケのものを読みたい、という若い友人に向かって、僕はいつも『若き詩人への手紙』をまず読むように勧めてきた。そこには孤独に、純粋に悩む若い詩人に答え得るすべてのものが語られている。
例えば幼年時代について、孤独について、恋愛について。この手紙を読んで力を得ない者は、すえでに詩人たる資格がないと極言して差支えない。「恋愛も苦しい死と同様、そこにはなんら解明も解決もあり得ない」というような、恐ろしくもありがたい言葉を、身にしみて感じないような青春があったら、それは真面目さを欠いた、すでに失われた青春と言ってよいだろう。
 ただ、残念なことに、この若き詩人フランツ・クサーファ・カプスは後年、リルケのこれほどの助言にもかかわらず、いわゆるジャーナリズムに頼って、ベルリンの絵入週刊新聞に、みじめな大衆小説を書いているのを僕はこの眼で見た。たとえどのような生活の労苦があったにせよ、これほどのリルケの信頼に応えるのに、この有様はなんということであろうか、僕はしばし悲憤の涙にくれ、人間のあわれさに慟哭したのであった。それだけにリルケの高潔な生涯は、ますます僕たちに力をもって迫ってくるのである。孤独などを今どき持ち出すのは、時勢にかなわないことであるかも知れぬ。だが孤独を知らぬ文学者とは、そもそも何者であろうか。それ自身実りない孤独を、あのように豊穣な孤独にまで持ち上げたリルケを、僕たちはいつまでも忘れることはできない。恋愛についてもそうだ。リルケは一見きびしく恋愛を否定しているかに見える(『ドゥイノの悲歌』でもそうだ)。だがリルケほど恋愛の真に在るべき姿をしっていた者もまれなのではないか。死についてもそうだ。死を単なる死滅、消滅の意味から、われわれの生に意義のあらしめる強大な力まで高めた者は、リルケにまさる者はないのである。
(…略…)

2010-06-02 美術館での撮影

建築はどこにあるの?

河口龍夫展でtwitterを利用して、展覧会情報をつぶやいていた「東京国立近代美術館」が、今度はflickr内に、展覧会場の様子を写真に撮らせて、その写真を投稿するスペースを作った。
 建築はどこにあるの?7つのインスタレーション
という、東京国立近代美術館 企画展ギャラリーで行われている展覧会で、期間は2010年4月29日(木)〜8月8日(日)である。
展覧会情報http://www.momat.go.jp/Honkan/where_is_architecture/index.html#outline
から、写真撮影についてのみ、引用しました

建築はどこにあるの?」 
あなたの答えを写真におさめよう!

本展では、下記の条件の範囲内で作品を写真撮影いただけます。

・三脚の使用はご遠慮ください。
・フラッシュの使用はご遠慮ください。
・作品に触れないでください。
・動画の撮影はご遠慮ください。
・他の来館者の鑑賞を妨げるような撮影はご遠慮ください。

※撮影された作品写真に来館者が写っている場合、その写真の
公表にあたって写り込んだ方の肖像権に触れる場合があります
ので、ご注意ください。ご使用の際は、利用者の責任において
お願いいたします。
※所蔵作品展会場で写真撮影をされる際には、条件が異なります
ので、1F受付にお申出ください。

[撮影された写真の利用に関して]
・撮影された作品写真は、営利目的にはご利用できませんので、
ご注意ください。
・撮影された作品写真に変更を加えることはできません。
・撮影された作品写真をブログや写真共有サービスなどに利用
する場合は、下記の情報を表示ください。

建築家名
・作品名
・「建築はどこにあるの? 7つのインスタレーション
東京国立近代美術館

投稿された写真はflickr
http://www.flickr.com/groups/momat_where_is_architecture/
で見ることができます。
作品を撮らせてそれを公開させる場所を設けるだけでなく、個人のBlogで、それを発表するときの条件を示しているのは画期的だと思う。未だに、撮影禁止にしている美術館が多い中で、新しい試みをしている。東京国立近代美術館を応援したくなります。

Y字路

tadanoriyokoo(横尾忠則)さんがY字路について、つぶやいていました。

tadanoriyokoo
2010.06.02 18:31
Y字路のシリーズを随分沢山描いてきた。そろそろ100点近くなるのでは。この主題は考えた末浮かんだものではない。一種の出会い頭で決まった。ぼくは主題を探し求めたりはしない。出会いを待つのだ。http://bit.ly/1Xgurj via web



tadanoriyokoo
2010.06.02 18:31
ぼくのY字路もそうして出会った。主題の対象が解明を求めてきた。それを描くことによってぼく自身も解明されていく。そして開示されるのである。 via web



tadanoriyokoo
2010.06.02 18:32
ぼくのY字路は様々な場所から移植させる。そして架空という名の現実都市を描く。 via web



tadanoriyokoo
2010.06.02 18:32
Y字路は公開制作によって描くことが多い。その時はトビ職人のコスプレをする。それはキャンバスの中で家を建て、道路を整備していくからだ。ぼくは画家であると同時に建築作業員でもあり、道路工夫でもある。http://bit.ly/1Xgurj via web



tadanoriyokoo
2010.06.02 18:39
人はY字路を人生の岐路と比喩するが、ぼくはそんな風に思っていない。ただ形を描くだけだ。 via web

2010-06-01 代々木へ

 また、一つ中古カメラ屋がなくなる。

 代々木カメラが6月19日までで、店を閉じることになり、半額セールをしているというので、様子を見に行くことにした。
 結局、フジノンW180F5.6を買った。
 店員さんによると。先週、たくさん人が押し寄せて、大分、売れてしまったが、まだ倉庫には、在庫があるようで、間隔を空けて、一つのメーカーのものをまとめて出すそうで、時々、様子を見に行ったほうがよさそうだ。
 http://www.usedcamera.co.jp/

 このようにデジタルカメラの普及の影響で、中古カメラ屋が店を閉じてしまうのは、悲しいのだが、帰りにヨドバシにより、SONYのNEX5の見本があるかどうかチェック(置いてなかったです。)してしまう自分も結構デジタルカメラの方に気持ちがシフトしているのかもしれない。

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