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2010-07-31 HASSELにFILM入れるの迷ってしまった。

フィルム現像

 Rollei ortho 25 の 4x5のSheet Film を買ったが,現像をどうするかが、問題。塩ビパイプの内側の丸めて押しこんで現像する方法は、4枚現像するのに現像液が1500cc必要だ。繰り返し使えば、いいのだが、液温調整がたいへんなので避けたい。KODAKは推奨していないが、 XTOL 1:3 でも現像できるということをホームページで知った。本当にortho 25にこの現像で大丈夫か実験しようと、2本だけ残っている、ortho 25 (120)とHASSELを持って、撮影に出た。
 ASA 12 に撮影して、20℃、17分(最初30秒連続撹拌、以後1分毎に10秒撹拌)
           20℃、30分(撹拌なし、静止現像)
どちらも、現像する前に、5分位、前浴を行った。

 結果は、どちらも上手く行ったようで、伸ばしやすそうな、ネガが得られた。

 後は、実際で4x5で現像、引き伸ばしまで行って、現像法を確定していきたい。

 この方法でOKならば、1500÷(1+3)= 375 cc で4枚現像。
 5リットルで5000÷375×4=53.33 であるから、50枚現像できるので、コスト的にもまずまず、8枚同時に現像すると、もっとコストパフォーマンスは良くなるはずだ。

 まず、ハッセルで撮影して、4x5の撮影まで行うはずが、久しぶりの撮影に思いのほか時間がかかり、今日はここまででにしました。

参考:XTOL 1:3 あるいは 静止現像については下を見てください。

  • Kodak Xtol Developer An Unofficial Resource Page (XTOL 1:3 、XTOL 1:2)

http://www.covingtoninnovations.com/xtol/

  • アートフォト工房(仮) (XTOL 静止現像)

 http://artphoto.moomoo-ya.com/archives/category/film_development/xtol
  

2010-07-30 いなくなるから取り入れられる

THE TOKYO ART BOOK FAIR 2010

THE TOKYO ART BOOK FAIR 2010(http://zinesmate.org/tokyo-art-book-fair-2010/)にでかける。
3331Arts Chiyoda (http://www.3331.jp/)にでかけたのだが、2つ会場がありもう一ヶ所Vacant(http://www.n0idea.com/vacant/top.html)でも行われているようだ。

秋葉原駅から歩いたのだが、途中の秋葉原の変わりようにビックリしたせいなのか、会場に入っても、何か馴染めなかった。
結局、今日は、様子見って感じで、何も買わずに帰ってきてしまった。
 

 最後の授業 心をみるひと立ちへ

 今週、7月26日〜7月29日(22:25〜22:50) NHK教育TVで放送された、「北山修・最後の授業」を見た。
この授業は九州大学で2010年1月18日と1月25日に、録画自体を授業のテーマとして行われたものである。

 放送自体は、授業自体を淡々と録画するのではなく、北山修の経歴や、重松清との対談を交えるなどの編集が加わったため、聴きやすいけど、実際の授業をそのまま放映してないのが残念であった。

その授業の内容が本になっていたので、買ってしまった。

最後の授業――心をみる人たちへ

最後の授業――心をみる人たちへ



この本は
I 「最後の授業 テレビのための精神分析入門」今回放映された授業

II 「最終講義 <私>の精神分析――罪悪感をめぐって」 2010年2月28日の最終講義

III「「精神分析芸術家か」の葛藤 ――フロイトは私のことが嫌いだと思うことから」
 2009年 臨床描画テスト・描画療法学会第19回大会(於 京都国際会館) 
 特別講演「<精神分析芸術家か>の葛藤について  ――特にフロイトの」
からなる。テレビで放映されたのはIのみである。

テレビで印象に残ったのが、「最後の授業」の最後での北山のメッセージ

  最後に強調しておきたいことがあるのです。それは、授業のなかでも話しましたけど、いなくなるから取り入れられるという原則です。消えずに、いつまでもだらだらとくっついている母親は、子どもの心の中に取り入れられないと言われたいます。いなくなるから、上手く消えるから取り入れられる、お母さんのイイメージが心の中に残る。そういう心理学が非常に貴重だと思うのです。もし、私がみなさんの心の中に取り入れられて、内在化されるなどということが起こるとしたら、それは私がいなくなるからです。「いないいない、ばー」って言うけど、「ばー、いないいない」じゃないかと思うんですよね。そうしたら、子どもはいなくなった人たちのことを探す。つまり、心の中のイメージとして取り入れられて、それと同じものを探すんですね。
  治療者と別れるから心の中に残るんです。北山修はもうやって来ない。来週、再来週は来ない。
  今日は内在化ということについてお話をしたけれども、この内在化の部分でも、ひょっとしたら私がいなくなってから、みなさんの心の部分でお役に立てるかもしれません。いなくなって、君たちの心の中に残ったとしたら、残ったぶんだけお役に立てたということです。これが教育の効果のひとつでしょう。教員がやめるのも仕事のうちと思いますので、どうも長い間、おつきありがとうございます。

 
  もうあえない、あるいは、ずっとあっていない人を何人か思い浮かべる。確かに、そういう人達に自分の生き方が随分影響されているのだなと思う。

 なお、再放送が8月2日(月)〜5日(木)前5:35〜6:00(NHK教育TV)にあるそうです。
 

2010-07-29 写真を見ることは、ぼんやりと自然の風景や街角の光景を眺めていると

須田悦弘展

 ギャラリー小柳へ「須田悦弘展」を見に行く。
 例によって、柱のかげや、床に十点ほどの作品が展示しているのだが、ぼんやりしていると見落としてしまいそうなので、会場に置いてある、レイアウト図というか作品の値段が書いてあるリストを見て、全部みたかどうかチェックしてしまった。
 展覧会の様子、作者へのインタビューは
 http://www.excite.co.jp/ism/concierge/rid_19104/pid_1.htmlでご覧ください。

 ところで、最近twitterで、こんな書き込みがあった。

yfjym
2010.07.18 18:24
昨日ギャラリー小柳で須田悦弘を見たんだが・・・。どうも全然よく見えなかった。あの空間であのインスタレーションはいいのだろうか。もはや設置する場所が限られてしやいないか。 via web

yfjym
2010.07.18 18:26
誰かがtweetしていたように思うが須田悦弘の作品の”彫り”より、裏日本あたりにいる職人のスキルのほうが上なんじゃないかっていう。 via web

yfjym
2010.07.18 18:28
そもそも須田悦弘の作品って何に部類されるのかなぁ。”彫刻”とも言い難い気がするし・・・宮内庁が所蔵してるカニとか柿とかのほうがすごたらしさってあるような気がするなぁ。 via web

yfjym
2010.07.18 18:33
たしか須田悦弘の作品は朴を使っている。実際に朴の木をしこしこ彫って、かなり薄く花びらやら葉やらを彫りおこしてはいる。しかし実際の花びらや葉との薄さとは異なっている。須田の作品の花びらや葉は圧倒的にシルエットが強い。”薄さ”は生きている植物のものではなく、朴を彫った”薄さ”だ。 via web

yfjym
2010.07.18 18:50
須田悦弘の作品を初めて見たときは感動した気がするなぁ。まだ地中美術館が出来る前の直島でのベネッセの美術館での雑草だったかなぁ。最初は本当の雑草かと思った。 via web


 フーン、私は素直に感動してしまった。展示も悪くないし、厚さというのを気にしているようだけど、むしろ私は実際の植物より軽いというか、ふんわりと浮かんでいるような感覚がした。

写真を見ることは、ぼんやりと自然の風景や街角の光景を眺めているときと同じ行為なのである

なんとなくネットを見ていて、次のようなホーム・ページを見つけた。
白玉楼中の人草森紳一記念館(http://members3.jcom.home.ne.jp/kusamori_lib/)という草森伸一のバーチャル記念館だ。
 草森伸一は膨大な原稿と膨大な蔵書の他に、膨大な写真を残していたそうで、その写真を紹介しながら「草森伸一と写真」について大竹昭子が連載しているのが、「目玉の人 草森紳一と写真」である。
 その第一話「(その1)水に浮かんでいるもの」の中で、次のような、草森伸一の写真に対する考え方が紹介されている。

  草森が最後に書いた写真の文章は、立木義浩の写真集『ありふれた景色』に寄せた跋文だった。その中で草森は、「写真を見ることは、ぼんやりと自然の風景や街角の光景を眺めているときと同じ行為なのである」と書いている。

  ここには、草森の写真観がずばりと言い表されているように思える。眼の活動としては、ホンモノを見るのも、写真になったものを見るのも、変わりがない。眼はホンモノだから見るのではなく、目の前のものにただ反応するだけなのだ。ホンモノの花なのか、造化なのか、はたまた写真に撮られた花なのかということは、見た瞬間にはぶっとんでいる。眼はただイメージを呼吸して取込む。そしていったん取込まれたイメージは、ほかのイメージと合体して出典がどこだったか分からないほどごっちゃごちゃに記憶庫に収められるのだ。


  「見る」行為と意識との関わりはそれほど深くて複雑な構造をしている。本当に見たことと、写真で見たことの線引きが容易に出来ないところに、映像の時代を生きる私たちの宿命があるのだ。


  そのことを早くから意識していた草森は、写真を観賞の対象とせず、自分のふるまいに取込んで内部から写真を考えようとした。ここに草森紳一のユニークさがあると思う。 彼にとって、肉眼で見ること、見たものを撮ること、撮れた写真を見ることは等価の行為であり、その往還関係を、自らカメラを握って肉体に引き寄せることで、彼は写真の豊かさを渉猟したのだった。


  撮ることは現実に眼が開かれることである。彼の写真にはその効果の大きさがよく現れ出ているように思う。


「写真を見ることは、ぼんやりと自然の風景や街角の光景を眺めているときと同じ行為なのである」って、昨日も引用した、ウォルフガング・ティルマンスの「この作品を見て、何かを得なくても良いのです、いずれにせよ、じっくり見つめて、心を開いて欲しいのです。」とも、ル・クレジオのいう「芸術の力、それは事物を相ともに眺めるべきものとしてわれわれに差し出すことである。」とも共鳴しているように思われる。

2010-07-28 写真家の終焉

写真家の終焉

edtion1、sugiurakeita、yfjymyfjymによるつぶやき。

edtion1
2010.07.26 19:06
写真家の終焉について私が思う幾つかのこと 「いい写真」の批評のあいまいさ http://bit.ly/bGqU7c わたしたちは「いい」写真に飽きています http://bit.ly/bImwca 3:06 AM Jul 26th TweetDeckから

sugiurakeita
2010.07.26 22:18
写真家がというより、アサカメがゾンビ化しているだけでは? RT @edtion1 写真家の終焉について私が思う幾つかのこと 「いい写真」の批評のあいまいさ http://bit.ly/bGqU7c わたしたちは「いい」写真に飽きています http://bit.ly/bImwca via web

yfjym
2010.07.26 22:53
@sugiurakeita 以前tweetしましたが「カメラ毎日」が休刊した際にもアマチュア写真家の投稿はかなり続いたそうです。アサヒカメラしかりかとも思うんですが、ある世代をもって、こういう写真媒体は世代と同様に死んでいくんではないでしょうかねぇ。 via web

sugiurakeita
2010.07.26 23:01
んだんだ。でもゾンビは強いですよ。取り込まれないようにしなければ。高木こずえさんとか大丈夫なのかな?勝手に心配。 RT @yfjym 以前tweetしましたが「カメラ毎日」が休刊した際にもアマチュア写真家の投稿はかなり続いたそうです。アサヒカメラしかりかとも思うんですが、ある via web

yfjym
2010.07.26 23:12
@sugiurakeita 何気にみんな”ゾンビ”好きだったりするんじゃなかったりして。 via web


この話の元になった。
写真家の終焉について私が思う幾つかのこと(http://d.hatena.ne.jp/photography)が面白い。
http://bit.ly/bGqU7c = http://d.hatena.ne.jp/photography/20100711 の中では、アサヒカメラの月例写真のプロの写真家の評価を分析して次のようにまとめている。

 要約すれば、今号の『アサヒカメラ』のレビューにみられる、写真のプロが素人の写真を「褒める」言葉には、以下のような傾向があるようです。

1.とにかく良い印象で評されること
  2.被写体となった人物(動物)の容姿・表情・ポーズが高評価を得ること
  3.構図が高評価を得ること
  4.プリントが高評価を得ること

 ただ、このように整理してみても、いったい「いい写真」とはどんな写真であるのかが、まったく見えてこないのも事実です。

 実際、1.はたんなる印象=感想であり、2.は写真を褒めているのか被写体を褒めているのかが不明であり、3.では構図の安定性を評価するレビューと、不安定さを「大胆だ」として評価するレビューに分かれ、4.も同様にコントラストの強さ(白飛び・黒つぶれを含む)が評価されたり、逆に階調の滑らかさが評価されたりもします。

 「いい写真といわれる写真」を見れば見るほど、「いい写真とは何か」という疑問には、答えを見つけにくくなるのです。
一つ言えることは、写真をめぐる批評は、とてもあいまいだということです。


次のhttp://bit.ly/bImwca = http://d.hatena.ne.jp/photography/20100719では、

  •  写真画像そのものを、「いい」「悪い」「美しい」「醜い」と評価する客観的な基準は、ありません。美は主観と印象の産物だからです。
  • 写真に目的を持たせるならば、当該目的を充分に果たす写真こそが、「いい写真」なのです。が、わたしたちは、目的を持って提示されるすべての「いい」写真に飽きています。
  • 機材の発達により、技術的な視点からも「いい」写真と「悪い」写真の区別ができなくなっています。写真技術を熟知し、高価なカメラとレンズを使わなければ「いい写真」が撮れなかったのは、アンリ・カルティエブレッソンの時代までです。

そして、最後にこうまとめています。

 こういった写真をめぐる状況のために、プロの写真家は素人の写真を批評する「基準」を持つことができずに、印象を語り、被写体を褒め、構図・プリントを場当たり的に評価することしかできないのです。このことを非難しても仕方がありません。どんな「目的」で撮られたのかさえ定かでなく、技術的にも差のない膨大なアマチュア写真を前にして、あれ以上の批評は不可能でしょう。

 現代の写真をめぐる状況は、率直に言って、あまりエキサイティングではないのかもしれません。

 誰が見ても「これは誰も撮ったことのない素晴らしい写真だ」とうなずく写真は、もう撮られることがないのでしょうか。


 

ウィリアム・エグルストン:21st Century と 長島有里枝「SWISS+」展へ

 田端の駅まで戻り、駅近くでコーヒーを飲み休憩、涼しくなるのを待って、日暮里のSCAI
 ウィリアム・エグルストン:21st Centuryは

本展「ウィリアム・エグルストン:21st Century」では2000年以降に撮影された作品を展示。写真界の大御所ともいえるウィリアム・エグルストンの近年の活動を一望できます。
発表される作品の舞台となっているのはエグルストンの住むテネシー州メンフィスの他、米国各地や欧州ロシアなど様々ですが、どの作品も同じ都市であるかのようにエグルストンらしい乾いた、そして鮮やかな色彩に彩られています。
エグルストン作品は極めて何気ない日常の、誰もが見落とすような光景を拾い上げている点が特徴的ですが、構図などは非常に絵画的であり、その緻密さが画面に張りつめた緊張感をもたらし、鑑賞者の心を強くとらえるのだといえるでしょう。

http://www.scaithebathhouse.com/ja/exhibition/data/100702william_eggleston/より)
って、ことで最近の作品。プリントはダイトランスファーではなくて、ピグメント・プリントだ。これって、顔料系のインクジェットのプリントのことだと思うのだが、どうなのだろうか?
 とにかく、写真の内容も柔らかい彩度の抑えた色調が良かった。
 会場では、最近発売された、日本語字幕付DVDウィリアム・エグルストン』(原題:William Eggleston: Photographer)
を上映していた。
 これも、全部見てしまった。ライカで撮影するエグルストンの姿を見たり、ブレッソンの写真を絶賛するエグルストンの話を効いていると、ホンマタカシがの「たのしい写真」ってなんだったのと思うのは、あまりにも表面的な見方なのでしょうか?

2階では長島有里枝「SWISS+」展

展覧会に寄せてのアーティストのステートメント

「どれほど壮大な夢想をしていようとも、人が思考するときに目に映るのは、自分の寝室のように慣れ親しんだ、些細な風景である」

 特に「庭の花壇の写真」を見て、
http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20100705/1278350755で取り上げた。
ウォルフガング・ティルマンス≪Garten(庭)≫http://www.contemporaryartdaily.com/2009/06/venice-the-palazzo-at-the-giardini-part-1/img_3062/を思い出した。これらの写真も,ティルマンスの言うような

この作品を見て、何かを得なくても良いのです、いずれにせよ、じっくり見つめて、心を開いて欲しいのです。

作品だと思いました。

金村修「Butterfly Sandwich」展

 田端駅から「ギャラリー OGUMAG」へまで行く。行くのは初めてなので、住所だけ携帯に入力して、後はナビに任せて行けばよいと思ったのが、大間違い、GPSが完全におかしい、明らかに一本向こうの道を自分が歩いていることになっている。それでも、行けると、頭の中で、位置を変換していたつもりが、ギャラリーの前を通り過ぎたのに気付かなかったようで、結局、携帯を切り、地図を思い出しながら歩いてたどり着く。前は、地図を見ていけば持って行かなくても、たどり着けたのに、そういう感覚がだめになっているみたいだ!

 金村さんの、入り口の近くにあった写真(ロールに焼いたのか)何が写っているのか良く分からなかったけど、(室内から窓の外を覗いているのか、窓を外から撮りそこに何かがうつりこんでいるのか分からない、どちらでもないかなぁ)迫力ありました。
 ヴィデオの作品も何本か写していました。これも2回見ました。

2010-07-27 撮り続けること

「大阪」百々俊二

 まだ買ってないけど、買いたい写真集。

大阪

大阪



 「8x10 白黒」で撮った大阪。実は、大阪を一時かなり撮った。本屋でこの本を手に取ってめくると、あっ、「鶴橋だ、道頓堀だ」って感じで見慣れた風景も沢山収められているし、8x10で撮られていることもあるか、街の細かなディティールが写し撮られている。欲しいっと思ったが、最近ちょっと本を買いすぎているので、我慢しています。

「毎日放送(mbs)」でも紹介されたようで、ホームページにまとめられています。
 きわもん「モノクロでしか語れない大阪とは」http://www.mbs.jp/voice/special/201005/21_29164.shtml

本日の金村修(2)

久しぶりに、見ました、本日の金村修
http://ok-ws.hp.infoseek.co.jp/より

  • 2010.07.12(月)「飽きても撮るっていうことができるかだよ。」
  • 2010.07.05(月)「まずピントを合わせることだね。」
  • 2010.06.28(月)「バランスは重要なんだけど、コアなところを持ってないとバランスなんてとれないんだよ。」
  • 2010.06.21(月)「白黒にすることでモノが持っている歴史って奪われたりするんだよね。」
  • 2010.06.14(月)「カメラのせいにしていいのかな?」
  • 2010.06.07(月)「今、写真っていうのは社会の役にたつと思われてるからね…」
  • 2010.05.24(月)「俺の写真って結構人が写ってるのに、人がいないってよく言われるんだよね…」
  • 2010.05.17(月)「写真は物質を写すものだからさぁ。」
  • 2010.05.10(月)「絶対それじゃなきゃダメなんて、作家としてどうかと思うようね。」
  • 2010.03.29(月)「鉄の石のような退屈さが必要ですよ。」
  • 2010.03.15(月)「何のためでもないドキュメンタリーが一番面白い。」

特に、

  • 「飽きても撮るっていうことができるかだよ。」
  • 「カメラのせいにしていいのかな?」

は耳が痛い。

  • 「何のためでもないドキュメンタリーが一番面白い。」

を支えに、撮り続けよう。

2010-07-26

「写真と私」ユーリー・ノルシュタイン

 アニメーション「話の話」を見て、意味を考えなくてもいいなどと思っていたのだが、どうしても気になって、本屋に行き、アニメーションのコーナーで本を見ていると、次の写真集を発見、

ユーリー・ノルシュテイン

ユーリー・ノルシュテイン

これを買った理由、写真集であるのだからユーリー・ノルシュタインの生活、アニメーションを制作している所の写真が主なのだが、それよりも感動したのが、巻頭のユーリー・ノルシュタインの「写真と私」という文章。

…前略

子ども時代、両親がお呼ばれで出かけると、私はひとり残って、パパのカメラ“Fotokor"を取り出し、レンズと一緒に蛇腹を動かし、後方のくすんでひび割れたガラスを開け、その中を覗き込み、カメラを持ち、それを謎めいた隅々に差し向けながら、ゆっくり部屋を歩き回った。ひっくり返った絵の光景は呪文をかけ始めた。ゆっくり部屋を歩き回った。あちら側から、馴染みのない世界が、ひびに切り分けられて私を見ていた。部屋も対象物も別のものになり、明かりは煙を貫いてくるようだった。テーブルの上のティーカップ、釘の銀色の反射光とともにある椅子の背もたれの布張り、テーブルクロス、窓、その下の暗がり、ペンキ塗りの床に反射する窓外の明かり、破けた壁紙などがくすんだガラスの上で、それまでに見たこともないような高価な宝石に変容した。焦点がぼやけた光の反射がまるくなり、膨れ上がった。ずっと後に、光沢のないガラスの破片に見られる絵を光に似たような効果を、私は偉大なフェルメールの絵に見出した。私は部屋を認識せずに、カメラを覗き込んで、それぞれの場所にすべて在ることを確認しつつ、まさにこの部屋を、このティーカップをこのテーブルを目にする。くすんだガラスの上で、私の傍らで私が知らない人生が流れ去った。現在私が、クローズアップ、ミドルショット、暗がりに隠されたようなルースショットというような。ひびが入った光沢のないガラスは舞台の、手前の袖、自分と、自分の目と部屋の間に在る見えない層。自分は世界から引き離されて、世界とともにあった(8ミリのカメラを通して断崖絶壁をみるとき、山の中で私は危険をそう感じない。)くもりガラスの破片が、余計なものを取り去りながら、私のために表現をふるいにかけてくれたという印象があった。当時私は解像力の深さの、この効果を見出したではないか。接眼レンズなしで、普通肉眼では決して見出せない効果を。カメラの内部には何かしら信じがたい静寂があった。静寂はあたかも自分の物質世界を無益に充電したかのようだった。
私はカメラを見て、レンズを通って暗がりに溶け込む時間について考える。さらにもう少し、じっと立ち尽くし、息を止めれば、暗がりは、レンズの無関心な目が見出す生命をを開いてくれるのではないかという気がする。

参考: Fotokorってこんなカメラです。http://www.rus-camera.com/camera.php?page=other&camera=fotokor

 このようなカメラは使ってないけれど、初めて、2眼レフのファインダーを覗き込んだとき、自分の回り世界が違って見えた体験がある。今は4x5を撮るとき、ピントグラスに写る世界の美しさにうっとりすることがある。

実をいうと、「話の話」を解説した本

話の話―映像詩の世界 (アニメージュ文庫 (F‐006))

話の話―映像詩の世界 (アニメージュ文庫 (F‐006))



も買ってしまったのだが、もう何回か、「話の話」を見てから、読むかどうか決めたいと思う。

2010-07-25

フェリックス・ティオリエ写真展 −いま蘇る19世紀末ピクトリアリズムの写真家−

世田谷美術館へ『フェリックス・ティオリエ写真展 −いま蘇る19世紀末ピクトリアリズムの写真家−』を見に行く。
最初はピクトリアリズムって聞いたたげ、わざわざ見に行く必要がないような感じを受ける。
ピクトリアリズムって写真を絵画のように見せるために、手を加えて、本来の写真のシャープさをなくした作品を思い浮かべるからだ。でも、ネットで見ていると見に行く人も結構いるし、どうしようかなと思っているたところで、先日から読んでいる「「話す写真 見えないものに向かって」」を読んでいると次のように書いてある。P.236より

 英国を中心にした、この「ピクトリアリズム」の流れは、実は一筋縄ではいかないような、たいへん複雑なもので、「絵画芸術に追従した邪道」と十把一絡げにしてゴミ箱に捨てるのほど単純なものでない、ということを理解しておく必要があると思います。たとえば、今の僕たちから見たら、エマーソンの写真もある時代の絵画様式を表面的になぞっているように見えるのですが、彼は実際には、ロビンソンのようなコンビネーrション・プリンティングを批判し、絵画芸術とは異なった、写真術独自の芸術性を模索していたことが、書いたものを読むと分かるでしょう。彼が自然主義といった、同時代のエミール・ゾラなどのフランス文学印象派の考えとも共通するような、極めて科学的な思考を元に自身の写真術を築いていたことかも含めて考えると、ピクトリアリズム写真は絵画芸術を目標としていた、という一般的な理解が、疑わしく思われてきます。ひょっとしたら彼らは、絵画に追従するというよりも、絵画を超えて先にあるものを見ていたかもしれないのです。
 今では「ストレート写真の父」とか呼ばれている、アメリカのスティーグリッツがドイツ留学中にエマーソンから『芸術を学ぶ人のための自然主義写真術』(一八八九)のドイツ語翻訳を頼まれていたほどピクトリアリズムに深く関わっていたこととか、じっさい、アメリカに帰国した直後のスティーグリッツの活動が、ピクトリアリズムを中心に展開されていたことなどを考えると、ストレート写真の父という図式だけで、彼のことを記憶するのも単純過ぎるように思われます。このピクトリアリズムには、ほかにも簡単に整理できない問題が、山のように積まれているような気がします。

Photographers' galleryのホームページ
http://www.pg-web.net/off_the_gallery/RE/shirabe/shirabe04.html
に、『「絵画」――「写真」――「生理学」』という調 文明の論文に、 、もっと詳しくピクトリアリズムが単純な絵画の模倣を目指したものでないことが書かれています。

 そんなわけで、最終日に観に行ったのですが、本当に行ってよかったと思います。絵画を意識した作品もあるのですが、今、自分が写真を撮ろうとしているような写真が何枚も展示してありました。

2010-07-24 「この歳になって、やっと写真が分からなくなりました。」

「読書」「引用」「この歳になって、やっと写真が分からなくなりました。」

話す写真 見えないものに向かって」のあとがきより、

「この歳になって、やっと写真が分からなくなりました。」大辻清司先生が、大学の教室で僕らにそう言ったのを覚えている。「やっと分かるようになりました」ではない。「分からなくなりました」なのだ。聞いている僕らは心細くなって、言葉を返せなかった。
 写真の実践を通して、あれだけでの思索をしてきた大辻先生が「分からなくなった」と真顔で言うことと、その辺の誰かが「俺って頭が悪いから」などと開き直って言うことは、同じことのように見えてまったく違う。前者は忘れない出来事となる。その差を嗅ぎ分けられるくらいの能力は、誰でも生まれつき持っている。
 ところで、写真が分かることは、どういうことだろうか。写真に対して「分かる」とか「分からない」とかいう言葉を用いることは可能だろうか。写真は現実の影なのだから、それに対して「分かる」とか「分からない」とか言うことは、道端の電柱や散歩する犬に向かって「分かる」とか「分からない」とか言うことと同じように、ナンセンスなことではなかっただろうか。
 だがよく思い返してみれば、世の中には昔から、電柱や犬をみては立ち止まり「なぜ見えているのか?」「なぜいつも今なのか?」「在るとはどういうことなのか?」と考え込むような人間もいたはずだ。誰でも一日一回ふと感じてはそのまま忘れてしまうような、素朴だが根本的な疑問に囚われて、一生をまるまる過ごしてしまうような奇特な人間たちが、昔から少なからずいたはずだ。
 そしてじっさい写真家のうちの幾人かも、そのような者たちの仲間なのかもしれないと、僕は思う。写真は現実の影であるだけに、それに毎日触れていると、現実に対するそのような根本的な疑問も、毎日膨らんでくる。しかもその疑問は、常に写真に写真という「影」を見つめながら展開されるだけに、よりいっそう複雑なものとなる。「影」について知ろうする欲求に否応なく繋がってゆき、写真に対する疑問は、映像を含めた世界全体に対する疑問へと成長してゆく。ゆえに「写真が分からなくなりました」という言葉は、敷衍されて「世界のすべてを知ることはできないということが分かりました」という大きな意味を持つに至る。今にしてみれば、あの時大辻先生は、ソクラテスの言っていた「無知の知」の場所に単独でたどり着いていたのだと思う。



 「写真が分からなくなりました」と語っていた大辻先生の目には、何が見えていたのだろうか。
 人の言葉は多く、戦いのために発せられる。生存に熱心な人間たちが用いる言葉は、概して強さにむかっており、勝利を目指している。一方「分からなくなりました」と語る大辻先生の言葉は、そのような種類のものではない。先生の言葉は、強さとは逆の方に向かっており、それは言うなれば、勝利でなく道理を目指している。「無知の知」とは、言葉による勝敗の体験が人に与える、心のやりどころのなさから、自由な場所のことだ。
 そんな彼の目に映る光景とは、どのようなものであっただろう?それはたぶん、僕たちが毎日見ている。お馴染みの携帯や色彩で動きが広がる光景とさほどくぁらないが、その表面が、通常の人間には覚知できないほどの微細な陰影や濃淡の差異によって、見はるかすほどに覆われており、その肌理が、いったい光によって生じたのか、それとも言葉によって生じたのかは分からないけれど、とにかく見とれるほど美しい、そのようなものではなかったろうかと、僕は想像する。
 ドアを開けて外に出れば、いつものように陽の光は注いでおり、世界は明るくそこにある。それにカメラをむけることのユーモアを「写真が分からなくなった」先生は、心のそこから知っているはずだ。

「Photoミシュラン」が「PHOTOパジェラ」へ

「Photoミシュラン」が「PHOTOパジェラ」に名前に変わったようです。URLも下のように変わっています。
http://www.unisonas-dic.com/photo_pagella/index.php
なぜ変えたのか、よく分からなかったのですが、どうやら、理由はこのあたりにあったようです。「ミシュラン」という名前は勝手に使えないようです。
http://www.bfgoodrichtires.co.jp/copyright/index.html
を見て下さい。

原美術館 「ウイリアム エグルストン展 パリー京都展」カタログ 販売開始

 「ウイリアム エグルストン展 パリー京都展」カタログが入荷したことを知らせる。メイルが来た。先日行ったときは、まだ発売されていなかったので、メイルで知らせてもらったのです。

 「ウイリアム エグルストン展 パリー京都展」展覧会図録
価格:\ 2,100- (税込)
<内容概略>
2010/6/5から2010/8/22まで原美術館にて開催の展覧会図録。
カラー写真を芸術的表現の域にまで高めた先駆者であるアメリカ写真家、ウィリアム エグルストンの、日本の美術館における初個展図録です。カルティエ現代美術財団の依頼を受けて撮影した、円熟味を感じさせる近作である二つのシリーズ、「パリ」と「京都」、初期の代表作「ウィリアム エグルストンズ ガイド」の三つのシリーズの作品図版をセレクトして掲載しています。
色彩の詩人、ウィリアム エグルストンの豊かな表現の世界をお楽しみください。カルティエ図録「William Eggleston: Paris」と合わせて楽しんでいただけるよう、本書は展覧会場の記録写真を盛り込んだ編集で、担当学芸員による解説、出品作品リスト、作家略歴、展覧会略歴、主な著作の紹介等資料を掲載しています。

ということです。
ここまでは、いいのですが?

<今一度ご来館にてお求めをご希望の場合>
店頭にてお求め頂くことができます。
ザ・ミュージアム ショップは原美術館の館内施設となっておりますので、
通常はショップのみのご利用はできません。
図録をご購入予定の方で、展覧会の再観覧をご希望でないお客様は、
お手数ではございますが、今一度当ショップまで、お電話かメールにて、
お越しいただける日時をお知らせくださいませ。

いきなり行ったら、買えないようです。

2010-07-23 話の話

「瀬戸内国際芸術祭で環境破壊? まとめ2」

「瀬戸内国際芸術祭で環境破壊? まとめ2」がtogetterで発表されました。
http://togetter.com/li/37190

関連リンク

http://togetter.com/li/36399

http://setouchi-artfest.jp/

http://www.kaikaikiki.co.jp/artists/list/C4/

  • @ieuraport_watch 豊島・家浦港ウォッチ(集落支援グループ・オリーブオフィス)

http://www.ne.jp/asahi/sakura/saita/today/index.html

  • @teshimain teshima.in (豊島(てしま))

http://teshima.ashita-sanuki.jp/

  • @kigch 危口統之(パフォーマンス集団「悪魔のしるし主宰」)

http://www.akumanoshirushi.com/

畠山直哉 「線をなぞる / 山手通り」

タカイシイギャラリー畠山直哉 「線をなぞる / 山手通り」を見に行く。
会場でのパンフレットにも、ホームページにも掲載されている。

探してみよう、都市の中に隠喩となる線を。僕の道具は、写真という「自然の鉛筆」だったはずだ。だから僕はとりあえず、都市の線を、この鉛筆でまたなぞってみよう。そこには人間の鉛筆が引いた線と、自然の鉛筆が引いた線が重なった、二重の筆跡が現われてくるはずだ。その筆跡のどこかから、いままで隠れて見えなかったものが姿を現し、それが僕たちに隠喩への糸口をつかませ、僕たちを故郷への入り口に導くかもしれない。その可能性を探るために、この鉛筆を使ってみよう。

畠山直哉 (「線をなぞる」 『Draftsman’s Pencil』 神奈川県立近代美術館、2007年 より抜粋 )


この文をみ読んで、「その筆跡のどこかから、いままで隠れて見えなかったものが姿を現し、それが僕たちに隠喩への糸口をつかませ、僕たちを故郷への入り口に導くかもしれない。」でいう、いままで隠れて見えなかったものが姿を現しって、こないだから、お勉強している。清水さんのいうコラージュ「画面のなかにそれまで意識されなかった異質な平面=レイヤーが出現するプロセスであり、我々が作品を見る行為につれて、次元の断層と更新が展開するプロセスである。」とほぼ同じものではないか。
と思うのだが、ぜんぜん見当ちがいなのかな?そうそう写真論というのは一先ず、横に置いておいて、とにかく写真を撮ることを中心に考えなくては。
 去年から、4x5で街を撮り初めているので、そういう意味では非常に参考になった。「森」「街」この2つを4x5で撮る!この夏の目標

話の話

http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20100606/1275847313
で書いたとおり、2010年6月6日に神奈川県立近代美術館で『話の話 ロシアアニメーションの巨匠 ノルシュテイン&ヤールブソワ』展を見た後、アマゾンで、

ユーリ・ノルシュテイン作品集 [DVD]

ユーリ・ノルシュテイン作品集 [DVD]

を注文し、手に入れたのだが、今日初めてこのDVDを見た。
いくつかの作品が収録されているのだが、「話の話」をまず見た。この作品がきになってこのDVDを買ったのだ。
 どう感想を書いていいかわからない、ストリーとか意味を考えるというより、映像をそのまま見て感じるだけだ、光の表現がすばらしいとだけ書いておこう。私には解釈など出来ない。でも、これから何回も繰り返して見るだろう。
これだけでは、寂しいので、こないだの展覧会のカタログに書かれた、ユーリー・ノルシュテインの「とりわけ親愛なる日本の皆様!」(児島宏子 訳)から一部を再び引用しておく。

  ふと明かりが震えて消えてしまう。向かいの家で誰かが窓をカーテンで覆ったのです。暗くなってきた廊下から戸口を覗けば、明るい8月の白夜に目がくらむことでしょう。まさにこの廊下を通って、「話の話」のオオカミの子がまぶしい光のさなかへ入って行くのいです。この光景を理解するためには時の推移が必要でした。取るに足らぬプロットなどはありません。芸術にとってはすべてが等しく重要です。日常生活の中で気づかれない最も小さな部分が芸術作品では大事な出来事になるのです。
これでは、寂しいので、この間も引用した、」
今では、時が充分に流れ、なぜ言葉で表される日本の詩と絵画が何の妨げもなく自由に、芸術における私の渇仰する対象になったのか分かっていただけるのではないでしょうか。私は論理というのが苦手で、身のまわりの世界を自分自身に説明しなければならない理由がわからないのです。実用的な言語は暗喩と比較すれば頼りないものです。日々親しんでいる日常の細々した出来事を、首尾が一貫して調和のとれた手段で数えていけば、それはとりもなおさず暗喩、すなわちメタファーに形をかえるのです。

「日常生活の中で気づかれない最も小さな部分」こういうものを一つ一つ集めて行く作業を写真でやろうと思う。

 

2010-07-22

畠山直哉「話す写真」

 今日、青山ブックセンター本展で行われる。
『話す写真 見えないものに向かって』(畠山直哉・著/小学館)刊行記念
畠山直哉×港千尋多摩美術大学教授)トークショー 「ふたりで話す写真」
2010年8月1日(日)18:00〜(開場:17:30)

を申込む。
詳しくは、http://www.aoyamabc.co.jp/10/10_201008/81.html

そんな、わけで、『話す写真 見えないものに向かって』を久しぶりに開いていると、次のような文章にぶつかった。

 写真の存在の本質にふれようとするなら、カメラのことは少し脇に置いておき、科学技術を中心とする一九世紀自然科学にアプローチしつつ、自然の光や、過去や記憶をキーワードとして、形而上学すれすれの思弁を重ねていく、という作業の方が一般的ではないかと思われます。俗に「写真論」と呼ばれるもののうち、存在論的に写真を語るのも、そのようなタイプが多いでしょう。
 しかし、写真家として人生を過ごす僕のような人間は、昨日どこかに行って何をしたか、明日はどこへ行くか、といった時間的空間的な行動の中からしか生まれない、ということを知っています。言い換えれば「どこで何を撮るか」という、写真論的にいは一番他愛のない話題の中で、僕は日々の行動を決めているというわけです。写真家とは、このような「どこで何を撮るか」の肉体的な実践を積み重ねる存在であり、思弁のみを重ねる者ではないでしょう。そして、その実践には、常にカメラが伴っている。そうするとカメラは、写真家の比喩として考えられることになるかもしれません。


 そう、Blogで、ちまちまよく分からない他人の写真論、引用するのはいいかげんにして、肉体的な実践をはじめなきゃいけませんね。それにしても、暑い日が続きます。ちょっとSinarFを担ぎ出すのには尻込みしちゃいます。

写真もまた一枚のピクチャーなのである。

heisodekker(Oshima Hiroshi)さん

heisodekker
2010.07.21 11:21
写真を正しく見るためには、まずはその形式的側面から把握しなければならない。被写体はその効果によって立ち上がるものなのだから。写真はこれまであまりにも、そのピクチュアルな側面を無視され過ぎてきた。写真もまた一枚のピクチャーなのである。 via web

heisodekker
2010.07.21 11:27
最近の現代美術におけるコラージュの復活は、写真がもたらした即物性(リテラリズム)というイデオロギーへの懐疑であり、批判を含んでいるのではないか。写真においては、記録と表現というアポリアではなく、記録性そのもののアポリアを二項対立化しなければならない。 via web

heisodekker
2010.07.21 11:33
ジェフリー・バッチェンのバナキュラー写真論とはけっきょく、バルトに従えば、ストゥデイウムに属するものである。だから駄目ということではない。知識が広がることはいいことだ(笑)。 via web

heisodekker
2010.07.22 12:10
「形の表象は、知覚とはまったく別のものだ」と語ったのはヒルデブラントだが、精神の眼であろうと、機械(カメラ)の眼であろうと、裸の知覚とは異なるものである。そのいずれの地位もベルグソンが言うごとく、錯覚であることに変わりはないのだ。 via web

Nikonが「フィルムカメラおよび交換レンズ一部機種の修理対応期間を延長」

Nikonが次のような発表をした。

http://www.nikon.co.jp/news/2010/0722_01.htm

フィルムカメラおよび交換レンズ一部機種の修理対応期間を延長

2010年7月22日

 株式会社ニコン(社長:木村 眞琴、東京都千代田区)は、フィルムカメラおよび交換レンズをご使用いただくお客様へのサービス・サポート向上を目的として、弊社規定の補修用性能部品の保有期間終了後も下記対象製品の修理対応期間について、5年間延長することを決定しました。

* ※補修用性能部品の在庫が払底した場合は、5年未満でも修理をお断りする場合があります。

対象製品
F3、F5、New FM2、FM3A
S3復刻版、SP復刻版 および専用レンズ(3.5cm f/1.8、50mm f/1.4)
ニコノスV およびニコノス専用レンズ(20mm f/2.8、28mm f/3.5、35mm f/2.5、80mm f/4)

* ※対象製品の修理に関しては、弊社サービス機関にお問合せください。

 ニコンでは、販売を終了した製品も永くご愛用いただきたいと考え、フィルムカメラに関連するサービス内容の見直しを行いました。今後もお客様の声に真摯に耳を傾け、お客様のニーズや期待にお応えできる製品の提供、サービスの向上に努めて参ります。


考えてみたら、Nikonのカメラは持っていなかった。これで、中古の相場も上がるのだろうか、でも、銀塩が終わってしまうのではないか心配している者にとっては、久しぶりの良いニュースです。

2010-07-21 なぜ未だ「プロヴォーク」か

榎倉康二とPROVOKE

 偶然、ネットを見ていてこんな記述を見つけた。
http://spysee.jp/%E6%A6%8E%E5%80%89%E5%BA%B7%E4%BA%8C/1058768/#leadより

 榎倉康二(1942-1995)は1960 年代後半の、ものごとを根底から問い直すような社会風潮のなかでその制作活動を開始しました。当時の美術界でのもの派や写真界のプロヴォークからの影響を受けながら、鋭い身体感覚と独自の思考にもとづいた作品を制作しはじめます。

 この間もみた、東京国立近代美術館でも見た榎倉康二がプロヴォークの影響を得ていたとは思ってもみなかった。
 プロヴォークの写真といえば、中平卓馬森山大道のブレ、ボケ写真がすぐ浮かぶが、榎倉康二の写真といえば、

で見られるような写真である。

 プロヴォークとは何であったのか?表面上のブレボケでないということを考えなくては,
これもまた、ネット上でみつけた言葉なのだが、西井一夫が

の中で次のように述べている。
http://empty86.blog23.fc2.com/blog-entry-230.htmlより

“写真は言葉に支えられる必要などないし、意味を発しなくてよいのである。理解されることなく了解されること、言葉を超えて啓示となること、根源こそが唯一最大の問題なのだ。写真は言葉を沈黙させるほどの、より深々とした沈黙に支えられていればよいのだ。たとえそれがどんなに見映えのしない表面をしていようと、それを「ブス」などと呼ぶような網膜的思考とは、それこそ「笑ってあばよ」をするだけだ。”
(「写真の黙示録」/『なぜ未だ「プロヴォーク」か』西井一夫/青弓社1996年刊)

また、
http://agtexts.fc2web.com/resume/resume00/resume001014a.htmより、

○表面的な理解
 PROVOKE誌はしかし作品集とは趣が違う。それはあくまで「挑発的資料」出会ったはずである。荒れブレがわかりやすい要素として目立ってしまっただけにそれだけで作品になるといった誤解が生じた。それによりPROVOKE自体の意味すら変えていったのである。
「今、少し冷静に振り返ってみると<PROVOKE>のめざしたものは、写真家の肉声の獲得ということであった。それは既存の美学や価値観による制度的に整序された視覚に対する肉声による切り込みであったはずだ。〜中略〜例えば我々が不遜にもそう信じ込んでいた世界と私との直接的な出会い、生の生体験から結果した技術的なアレ・ブレなどは瞬く間に一つの意匠にまで変形され、当時おそらくは持っていたであろう我々の反抗的な姿勢とその映像は、反抗的な情緒、反抗的な気分として寛容にも受け入れられ、そのことによって逆にわれわれの反抗をを骨抜きにする結果を生んだにすぎない」
「なぜ植物図鑑か」中平卓馬映像論集 1973 より

という文章も見つけた。
とにかく、『なぜ未だ「プロヴォーク」か』を読んでみようと思う。
 さて、最初にみつけた文章は、そもそも2005年東京都現代美術館で行われた「榎倉康二展」の概要に書かれていたものだった。
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/33
 この展覧会は見ていたのに、(ここで、初めて、榎倉康二の写真に出会った)その時はプロヴォーグという言葉には気付かなかったようだ。




 
 
 
 

2010-07-20

芸術家と職人

時々、「職人」って言葉を人を見下すときに使う人がいるが、菅井汲のつぎのような言葉をtwitterで見つけた。

kachifuさんのtwitterより、

kachifu
2010.07.20 23:45
「でも、私はなにがなんでもいわゆる“芸術家”でありたいとは思いません。職人で結構。腕のいい職人にまずなりたいですよ。だいいち、職人にもなれない絵描きがあまりにも多すぎるではありませんか。(略)」 via YoruFukurou

kachifu
2010.07.20 23:46
「独自の思想と行動をもって、現在、未来を問わず、社会に貢献する役割を果す職業を芸術家といい、高度な技術をもって社会に貢献するのが職人だと思います。独自の思想ももたず、また高度な技術も身につけていない人は芸術家でも職人でもありません。」菅井汲 via YoruFukurou

瀬戸内国際芸術祭その後


 twitterで色々豊島の問題について発言がつづいてますが、togetterで「瀬戸内国際芸術祭で環境破壊? まとめ  廚箸靴董⊂霾鵑鮴依して下さったedtion1さんは

edtion1
2010.07.19 22:50
「瀬戸内国際芸術祭で環境破壊? まとめ  廚梁海ですが @ieuraport_watch さん以外からの一次情報が出てきましたら「その◆廚箸靴禿擦瓩襪弔發蠅任 via TweetDeck

と言っています。確かに、一次情報がieuraport_watch さん以外から出ていないのがきになります。だから、maki_a_lokiさんのように

maki_a_loki
2010.07.20 10:48
誰かが「問題だ!」と叫べば「だな!」と即断してRTする人が少なくないので、情報不足の現段階で、発言がモジュール的に文脈から切り離されうるツイッター上での情報流通は危険かな、と。 (瀬戸内国際芸術祭で環境破壊? まとめ http://bit.ly/bvteo1via ついっぷる

maki_a_loki
2010.07.20 11:01
続き。ただし、仮に問題があるとして、どのメディアから十分な情報が出うるかの問題はある。広告の問題もあるだろうし。まあ、とにかく情報不足だからおしまい。2回ぐらいあっちに行く用事があるから島も観ると思うけれど、豊島はどうしようかな。 via ついっぷる

maki_a_loki
2010.07.20 16:12
はい。togetterを読みながら、こうやって流れをつかまないと危険だなあ、とぼんやり思って呟いたわけです。 RT @edtion1: 限られた一次情報が、更に一部だけ切り取られ独り歩きするの懸念して、ひとまとめにした次第です via ついっぷる

な反応もあるわけで、結局は自分の目で見るしかないのかなぁ

edtion1
2010.07.20 16:20:40
Ieuraport Watch (だいたい携帯電話でも読める豊島情報) http://bit.ly/cBbgq9 via TweetDeck

これも、ieuraport_watch さんの情報なのか、特に豊島での被害の状況はここを見てください。
http://www.ne.jp/asahi/sakura/saita/today/info/damage/index.html

2010-07-19 瀬戸内国際芸術祭で環境破壊?

瀬戸内国際芸術祭で環境破壊?

豊島の「豊島美術館」のことを書いたばかりなのに、(http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20100717/1279386362twitter上に、瀬戸内国際芸術祭により、ヒメボタルの生まれる竹やぶが破壊されたり、ヒガンバナの持込み問題(豊島に固有の種があるのに全国のヒガンバナを集めようとする)、清水の近くにある祠に手をくわえたなどの問題が起きていることが報じられている。

詳しくは、editon1さんがまとめてくれた、下のtogetterで見てください。
瀬戸内国際芸術祭で環境破壊? まとめ http://togetter.com/li/36399

瀬戸内国際芸術祭2010 http://setouchi-artfest.jp/
豊島 (香川県) - Wikipedia http://bit.ly/arq6IR


まためにも入っていますが、このようなtwitterのやりとりを載せておきます。

rob_art
2010.07.18 21:12
同意します RT @teshimain: アーティストと島民との接点が多い少ないで、島民の考え方とか感じ方が大きく異なっているように個人的には思う。

rob_art
2010.07.18 21:18
豊島に住まれてる方と簡単に連絡をとったのですが、今日飛びかった一連のポストは全てが全て真実というわけではないようです。一部誇張や誤解も含まれています。誇張を含む情報を全否定するつもりはありませんが、やはり全てが完全な真実ではないことを踏まえRT等の対応をお願いします。自戒をこめて via Echofon


本当に起きていることを知るのはネットでは無理です。当たり前ですけど、でも見守って行くべき問題だと思います。

2010-07-18 展覧会へ

「暗がりのあかり チェコ写真の現在」

 東京都写真美術館から「NADiff a/p/a/r/t」行き。そこで、「暗がりのあかり チェコ写真の現在」のカタログを見て、今日中に見に行きたくなり、新宿ギャラリー巡りの予定を変更し、銀座資生堂ギャラリーへ「暗がりのあかり チェコ写真の現在」を見に行く。
気になった写真家

  • Vladimír Birgus カラーによるスナップ写真、ちょっと引き気味に、人々を入れた構成的な写真が面白い。

 http://www.birgus.com/en_galerie.html

  • Václav Jirásek 4x5の写真を4,5枚つなげてみせる、風景写真。Webで調べると。8x10による森の写真も撮っているようだ。

 http://www.vjirasek.com/

  • Ivan Pinkava 白黒による静物写真が展示されていたが、Webだと、Portraitの作品が多いようだ

 http://www.ivanpinkava.com/en/

  • Dita Pepe 色々な人に扮し、男の人と一緒に写す。self-portraits シリーズ

 http://www.ditapepe.cz/
 

 

古屋誠一 メモワール  「愛の復讐、共に離れて…」

東京都写真美術館に『古屋誠一 メモワール.「愛の復讐、共に離れて…」』を見に行く。

クリスティーネ・フルヤ=ゲッスラー メモワール 1978‐1985

クリスティーネ・フルヤ=ゲッスラー メモワール 1978‐1985

を持っている。写真の内容もほぼ知っているし、見るのがつらいというか、なんとなく、こういう形で、写真を発表し続けていることに対する疑問もあり、見に行くのをためらっていた。

この展覧会について、次のような記事を見つけた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100705-00000019-fsi-bus_allより

古屋誠一 メモワール. 「自死した妻」テーマ 集大成
7月6日8時15分配信 フジサンケイ ビジネスアイ
…略…
 ◆学芸員に構成委ねる
 この展覧会は、欧州を中心に活動し、国際的に高い評価を得ている写真家、古屋誠一の個展。自死した妻、クリスティーネをテーマに、これまで幾度も展覧会や写真集で編んできた「メモワール」シリーズの集大成となる展覧会だ。

 古屋とクリスティーネは1978年に結婚し、息子の光明(こうみょう)が生まれたが、精神の病に侵されたクリスティーネは85年、東ベルリンで自ら命を絶った。その後、古屋は残されたクリスティーネのポートレートを中心に「メモワール」という写真集をこれまで4冊出版し、展覧会を重ねてきた。

 興味深いのは、今回の展覧会では、古屋が展示構成を美術館の学芸員に委ねたことだ。その構成は7つのパートに分かれている。例えば息子、光明の誕生から成人までの写真を時系列順に並べた「光明」のパートは、成長する息子と病が進行する母の変化を伝えている。また、彼女との最後の日々から出会いまでを遡(さかのぼ)る「クリスティーネ」のパートでは、その表情が徐々に明るくなっていく。

 一方で、今春出版された写真集「M〓moires. 1984-1987」(IZU PHOTO MUSEUM)に関しては、作品の選択からデザインまで、ほとんどすべての工程を古屋自身が手がけた。そこでは、クリスティーネの死と東ドイツという国の消滅とが重奏曲のように奏でられ、抗いようもない過去の残響を今に伝える。

 写真に焼きつけられたイメージは、いずれも忘却の淵に追いやるにはあまりにも鮮明で、生と死、記憶、家族、境界といったテーマにかかわるさまざまな問いを浮き彫りにしている。

 生活の中で撮影してきた大量の写真を整理し、わかりやすく提示することは、古屋本人の手では難しい作業だったに違いない。他人の手に委ねられた展覧会の展示では、写真集に比べて見る側を時の迷路の中に投げ込むような息苦しさが幾分か希釈されているようにも見える。

 ◆20余年の検証作業

 同展も、写真集のタイトルも末尾にピリオドが打たれている。妻の死後、20余年続けてきた過去の検証作業を終えたいという古屋の意志を反映したものだ。

 しかし、古屋が写真の中のクリスティーネと向き合ってきた歳月は、彼女と共に過ごした期間よりも長い。亡き妻との対話が“対話なき対話”とならざるをえない以上、もし終えるのだとしたら、それは古屋の側からでしかない。それ故に見る側は、「果たしてこれが『最後のメモワール』となるのだろうか」との思いを抱くかもしれない。(小原真史)

 
 小原さんが言うように、学芸員が構成を考えたことにより、確かに、写真集より息苦しさが少なく、見やすい展示であった。

f:id:heliograph:20100718121050j:image
f:id:heliograph:20100718131803j:image


 

2010-07-17 恩寵

豊島美術館

この夏、岡山広島方面に行くので、瀬戸内国際芸術祭に行けるかなと思っていたら、美術手帖の特集が、「この夏行きたい!アートの旅」。瀬戸内国際芸術祭ガイドも載っているというので買ってしまいました。

美術手帖 2010年 08月号 [雑誌]

美術手帖 2010年 08月号 [雑誌]

 まだ、建設中なので行くのは無理なのだが、豊島に内藤礼インスタレーションが恒久設置される「豊島美術館」(西沢立衛設計 10月開館 現在建設中)が面白そうだ。
 豊島は山が大きく、森や棚田に象徴される水の豊かな風景が広がるところで、そこに、その自然の風景と連なる有機的な構造をもつ美術館をつくろうとしているのだ。
 内藤礼のインタビューが掲載されているので、内藤礼の言葉を紹介する。
p.53より

棚田や自然の風景を見つめ、建築空間の誕生とかかわることから、生まれてくるであろう場を感じとろうとしています」
「場所をとらえていく中で、自然の『アニマ』(生気)をあるがままに受容する器としての空間へと向かうことになりました。そこは、泉または水源地としての空間になります。朝は何もない更地で、徐々に水が湧き出しつつ流れ、やがて池になる。日々生成を繰り返していきます。そこではつねに何かが生まれているのです。そして水は水であると同時に光や風、色、景色などを受容し融合していきます。自然を通して、その奥にある生成そのものを感じる『母型』としての空間なのです」。
「人の思いとは別に世界は動いていて、そこで生まれるべくして生まれてくる形や揺らぎやきらめきは、人がその創造に加われるようなものではありません。ですが、そこに『恩寵』と呼んでいる気づきがあります。『自然なこと』を受け入れる、それが私にとって『つくるという考えを超えたものをつくる』ということなのです。目の前で起きている生成が、自分の中の生気や生成と同じであると気づき、自他の区別なく、あるがままの『地上の生と世界の連続性』を感じられるとしたら、それは一つの幸福だろうと思います。」

2010-07-16 写真空間

見ることの問題

さて、昨日買った「写真空間 4 特集:世界八大写真家論」、第8章 「見ること」の問題 ―鈴木理策 松田貴子 より

そもそも写真家にとっての写真とは何か。小説家にとっての小説では、主題や制作意図の有形化、つまり表現しようとするものとそのための技術・方法は表裏一体といえる。小説のあらゆる細部は、すべて意図されたもの、表現されるべきものである。では絵画についてはどうか。画家は表現しようとするものにとって最もふさわしい技術・方法を選ぶ。しかし、ことばという記号を介して作り手・受け手が交感する小説と異なり、画家と観者の感性の差異が少なからず影響を受ける。同時に絵の具や筆といった道具は、よく鍛えられた技術に対しても必ずや偶然性をもたらす。重ねられた色の感じや画布に残されたしみ、筆致の勢いなどが生む印象は、作者も完全には制御できない。しかし、だからこそ絵画は自律的でありうる。では、写真はどうか。道具を用いながらも肉体的な痕跡を残す(そうしないことも可能な)絵画とは異なり、写真は全く機械的な複製である。そこでは、カメラやレンズの再現性、操作の技術力などの問題が写真家の意図を制限することもあるだろう。また、写された内容と密接でありすぎるため、絵画のような表現的自律性をもちにくく、撮影者を置き去りにしてイメージが一人歩きしやすいことも特徴的だ。しかし鈴木の作品は作者と分かちがたく結びついている。それは、表現意図のために技術を使用し写真を手に入れるという目的的行為でなく、つねに写ることの不思議を感受し、技術という偶然性を歓迎したその結果として写真が生まれているからではないか。極端な言い方をすれば、この写真家にとって写真は見ること、つまり現在を感覚する行為のなかで副次的に手に入れたものである。
 たとえば見た夢の話をするとき、その内容を言葉に置き換えて説明することは一応は可能だ。だが、夢を見ていたときの感情や感覚をそのまま相手に感じさせることは難しい。しかし、鈴木は、写真によって自らが見たものと、見ているときの感覚の両方を伝えようとする。しかも目から目へ直接に、自らの「見ること」をそのまま観者の「見ること」に渡そうという行為。そこでは意味や伝統的な写真の形式美を解するための回路は無用である。ただし、見るという感覚を開くことを忘れてはならない。

たぶん「コラージュが分からない」についてのつぶやき

moscow_91さんのTwitterより

moscow_91
2010.07.16 00:22
すでにtermとして成立している語に新たな意味を付与したり、或いは逆に、何らかの造語を作ることで、或る事象を意味づけ、名付けたり。批評と云うのはそんなもんかも知れないけれど、しばしば恣意的であったりトートロジーにしか見えなかったりする事も多いなぁ。 via web


moscow_91
2010.07.16 00:33
有象無象ひしめく世界を何らかの切り口で紐解いてみせる。鮮やか。でもその鮮やかさはキーワードに合わせて対象を捻じ曲げているから・・・・かも知れない。果たして自信ありげに語られているそれは事実か。 via web


moscow_91
2010.07.16 00:36
論旨に合致する事象のみを取り上げれば、何でも可能だ。そんな風に思うのはDQNの証拠かな(笑) via web

2010-07-15 コラージュって何だ

コラージュのお勉強

さて、昨日の「ナナシ」さんからの勉強しなさいというコメントがあったから、というわけではないのですが?

写真空間 4 特集:世界八大写真家論

写真空間 4 特集:世界八大写真家論

を買ってきました。というのも、この号の特集は「世界八大写真家論」ということで、
清水穣さんの「第3章 コラージュとプレゼントネス ――スティーブン・ショアとマイケル・フリード」 という文章が載っていたからです。
 読んだのですが、読解力不足の私にはうまく要約もできず、さて今日はこの本について書くのは無理かなと、何回か読み取ろうとしたのですが、まてよ、解説に使われている写真何処かでというか、最近見た写真であることに気付いた。それは、ちょっと前に買ってきた。

写真の本質―スティーヴン・ショアー入門書

写真の本質―スティーヴン・ショアー入門書

の中だ。
2枚ありました。
1枚は P.63 スティーブン・ショアー エル・パソ通り テキサス州エル・パソ 1975年
(Stephen Shore El Paso Street, El Paso, Texas July 5, 1975)という写真と
注)写真はhttp://www.masters-of-photography.com/S/shore/shore_el_paso_full.htmlで見てください。

2枚目は P.109 ウォーカー・エヴァンス ガスステーション ウェスト・ヴァージニア州 リーズヴィル 1936年(Walker Evans Gas Station, Reedsville, West Virginia 1936)という写真だ
 注)写真はhttp://www.masters-of-photography.com/E/evans/evans_gas_station_full.htmlで見てください。

おまけに、この2枚目のエバンスの写真の解説を、スティーブン・ショアーコラージュという言葉を用いて、次のように解説しています。

このウォーカー・エヴァンスの写真で、画像空間をきみの焦点でたどってみよう。

 画像のその他の部分と関連づけながら、空をみるとしよう。

 空が前に向かってくるようなアダムスのドライブ・イン・シアターの写真と異なり、ここの空は別の画面上に浮かんでいるように見える。まるで、別の画像から切り取って貼り付けたようだ。こうしたコラージュしたような画面は、写真家が画像の部分に払う関心の程度に差がある時に現れる。これを意図的に生じさせるためには、写真家は、他はどうであれ、画像の一部の被写体に強烈で、鮮明かつ高揚した思いれや、興味を払う必要がある。


ここでいうアダムスはロバート・アダムス(Robert Adams)のことで、写真は、「野外劇場とシャイアン山 1968年
(Outdoor Theater, Colorado Springs, 1968)」というもので、http://www.metmuseum.org/toah/works-of-art/1971.531.6でみることができます。清水さんはこの写真についてはなにも触れていません。念のため。

 清水さんの、同じ写真(エヴァンスのガスステーション)の解説は次のようです。

 浅い遠近法的な空間、電信柱、裏返しの長方形の標識、丸い電話標識、建物に描かれた文字……電話標識がコラージュされて、画面全体がレイヤー化するかと思うと、そこに重ねて長方形の標識がコラージュされた結果、この長方形の底辺、ガソリンスタンドの建物の角の線(GOOD YEAR),そして建物の下の線(AMERICAN GAS)によって、ありもしない長方形のレイヤーが浮かび上がる、が、そこはちょうどカメラの視点に重ねられているため、強烈な違和感を生む。さらにレイヤーを立ち切って電信柱が黒々とフレームを横切る。風景をフレーミングすることが、これほど見事なコラージュになっている例はそうないだろう。
 いうまでもなく、フリードの冒頭の問いにはおかまいなく、コラージュはとっくに「写真がアートとして問題であった」現象である。モハリ=ナジ、ロドチェンコ、ストランド、……写真家たちは、壁の落書き、看板や都市のディティールを接写やオールオーヴァーを多用して撮影し、ピクトリアルな画面を次々に開拓していた。しかし、単なるフラットなコンポジションは、ここで問題としているコラージュではない。それは、あくまでも画面のなかにそれまで意識されなかった異質な平面=レイヤーが出現するプロセスであり、我々が作品を見る行為につれて、次元の断層と更新が展開するプロセスである。その意味で、エヴァンスの本質には「あるがまま」「ナチュラル」指向のアプソープションとは別に、彼のパリ滞在にルーツをもつであろう「コンポジション」が存在している。ショアの作品はエヴァンスのもう一つの本質を独自の方法論へと昇華したというべきか、少年時代の刷り込みは恐ろしいというべきか。

2010-07-14 勉強しなさい!ハーイ

椹木野衣「反アート入門」

先日、畠山直哉さんの「話す写真 見えないものに向かって」を買ったとき、一緒に買ったのが

反アート入門

反アート入門

である。次のように始まる、後書きを読んで買わずにはいられなくなったのだ。
P322より

 生真面目さや形式ばかりの社交から解放され、死と笑いを重視し、わたいたちの生を根本から見直すような芸術しか、要らなくなるのではないか。いずれにせよ、芸術は余剰だ。しかしその余剰は、富と権威に飽いた者が死ぬ勇気もなく紡ぐ空虚な余暇のようなものであってはならない。芸術の種は、死が迫ってなお笑ってしまうような無意味な哄笑の苗床に植えられるべきである。
 わたしたちは花や実の享受ばかり求めてはならない。生命の神秘は、いつだって花や実でなく、とんがって無限に細くなる葉先や、茎にびっしり生えた柔らかな毛のほうにあるのだ。
 これまでの芸術の大半は、それが処世を重んじ従来どおりの「型」に収まるかぎり、これから世界が私たちに与える試練にはたえられないだろう。アートも同様だ。あるいは、形骸化した制度のなかで、懸命に身を守るのか。そうではない。わたしたちの生が死者から委ねられた活力を時代に託するには、何よりも冒険が必要なのだ。
 わたしは、アートが他の表現よりも優れているというような考えこそ、真っ先に捨てるべきだと思う。すべての芸術は、その手法と知恵をたがいに分け合って、新しい世紀の表情を作りだす必要がある。いま、わたしたちはその帳に降り、行き先の見えない十字路の真ん中に立っている。彼方から、わずかに聞こえる音がする。

勉強しなさい

 前に、書いた、「清水さんのコラージュの記事がTwitterでも話題になっています。」
http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20100204/1265297898
について、

 柴田さんの写真をコラージュとして、紹介して記事を書いている。写真を見たことがあればはっきり、コラージュでないことは明白です。見てないで、作品のことを勝手に書かれても、「作家の思惑を通過するのが批評」って言うだけですむんですかね。

こう、書いたことについて、こんなコメントを頂いた。

ナナシ 2010/07/14 03:19

偶然ここを見つけました。
あまりにも誤解のレベルが低いので一言。

写真美術館での柴田さんの展示「ランドスケープ」展の公式カタログ本の解説文を書いているのが清水氏で、その展示のメインピクチャーの1つが上記の作品になります。なので実物を見たことがないということは有り得ませんし、氏は作品の撮られた状況の詳細も把握していました。あのストレート写真をコラージュとして扱うことにあの文章の意味があるんです。

いい逃げ失礼。もっと勉強してくださいね。

と、勉強しなさい。読解力がなさ過ぎると怒られました。
実は、既に、福井伸宏さんからも、
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20100408#p23で、
清水穣さんが使っているコラージュ概念については、

柴田敏雄さんの作品集『For Grey』か『a View』の

巻末に掲載されているテキストを読むことをおすすめします。

と指摘を受けていたのですが、
勉強してませんでした。

今日、7月15日twitterでedtion1さんが教えてくれました。

edtion1
2010.07.15 20:05
なお柴田敏雄作品集『For Grey』に掲載されている清水穣氏のテキストは「コラージュと固有色」というタイトルです(『a Viewには掲載されていません) via TweetDeck

2010-07-13 filmって映画だよな

「B W FILM」ってどんな映画?

http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20100709/1278698920に書いたように、filmを注文し、荷物が、

SANTA FE SPRINGS, CA -> OAKLAND, CA -> ANCHORAGE, AK -> NARITA-SHI JP

と、運ばれるのは、あっという間だった。成田についてからとたんに荷物が動かなくなった。
Clearance delay とい表示がでて、やな感じ、ちょうどその日、家に着くと、業者からの謝らねばいけないことがあるとの留守電を聞き、なにかが起きたという感じ、翌日、また留守電。
今日、朝電話すると、「DVDとかCDの場合は必ず、開けて中身をチェックするようになってまして」えっ、Film なんだけどと思いつつ続きを聞くと、「B W Film とかいてありましたので映画か、なにかのDVDだと思いまして、開けて、露光させてしまった」、「今日着きますので、中身を確かめてもらいたい」とのこと。
 これには、びっくりしました。そして、だめなのを確かめるって、露光しているどうかって現像しなきゃわからないし、露光させたと言っているのだから、確かめる気にもならない。
 その後、電話を他の部門にかけ、開けてしまったfilm一箱分の代金と送料を弁償してもらうことになりました。
 とにかく、一箱分撮影してみて、このfilmで撮るかどうかを決め、再注文するかどうか考えたいと思います。その時、運送会社どこにするのか?

 このことをこんな風にtweeterで、嘆いて見ました。

シートフィルムをアメリカから通信販売で購入したら、成田で開けて露光させてしまったとの連絡あり。「B W FILM」 って書いてあったから、映画のDVD だとかを連想して開けてしまったとのこと。FILMって言葉から、「写真」言葉が浮かばない世の中になってしまった。


このtweetを沢山の人がRTしてくれるし、弁償してもらえたかどうかの質問も受けました。初めて、反響があった「tweet」だったので、tweeterの面白さ、こんなふうに私がfollowされていない人達にも伝わるんだとい怖さも感じることができました。

ところで、着いた荷物を見たら、BLACK AND WHITE SHEET FILM って書いてあるんだけど。

2010-07-12

10+1 Monthly Magazine 7月号

特集は「建築写真2010」その中から、
・網膜上の記譜法──ル・コルビュジエの写真とデッサンについて
……米田尚輝/美術史 から引用
http://tenplusone.inax.co.jp/monthly/2010/07/issue2.php

写真の特性はしばしば網膜像にもなぞらえて語られてきたが、写真それ自体はそもそも物質の薄片でしかない。写真は私たちの視野とは別のものであって、そこに映じられているものを視野に提供する素材である。写真がジャンヌレに気付かせたのは、二次元の素材を見るという偽りの振る舞いを通じてこそ、三次元の空間が認識されるということだ。その両方を同時に達成することは生来的に不可能であり、私たちは眼球の運動として戯れることしかできない。ゴンブリッチに倣って、もし「私たちが、決して自分自身の網膜を見ることはできず」★14、あらゆる感覚与件は写真の感光板のごとく網膜上に銘記されるのであれば、問題となるのはむしろ見るという行為の受動性であろう。ジャンヌレにとって旅の記録方法であった写真とデッサンは、相互補完的な関係にあった[図9]。「東方への旅」を終えて半世紀を経たル・コルビュジエは、デッサンについてこう記している。「デッサンすること、それは見ることを学ぶことである」★15

http://tenplusone.inax.co.jp/monthly/2010/07/issue2.php より)
★14 E・H・ゴンブリッチ『芸術と幻影』(瀬戸慶久訳、岩崎美術社、1979[1960]、349頁
★15 Le Corbusier, ≪ Dessiner ≫ (1968), Dani〓le Pauly (〓d.), Le Corbusier. Le dessin comme outil, cat. d'expo., Mus〓e des beaux-arts de Nancy, Lyon: Fage, 2006, p. 74.
[図9]シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(ル・コルビュジエ)、ユスキュダルの写真、イスタンブール、1911
 http://tenplusone.inax.co.jp/monthly/img/2010/07/1007_3_09_2082-6.jpg


注 ジャンヌレ: ル・コルビュジエ(Le Corbusier)の本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリ(Charles-Edouard Jeanneret-Gris)

城戸朱理氏 (@Kido_Shuri)による高橋源一郎氏(@takagengen) 批判とその反応(2)


昨日も紹介した、論争のまとめがぞうぞくとbpbqさんからアップされています。

http://togetter.com/li/34694からどうぞ。

大銀杏その後

新芽がでてくるなど、再生の可能性が高まったのか、保管していた枝を配布し、寄付を募るようだ。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100709-OYT1T00453.htmより

鶴岡八幡宮が大イチョウの枝配布…寄付した人に
 鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市雪ノ下)は8日、3月に倒れた神木「大イチョウ」の枝を記念品として、寄付金を納めた人に配布を始めた。

 配布されているのは「大銀杏(いちょう)枝」と書かれた紙製ケースに入った5センチ程度の枝2本で、寄付金は一口1000円。大イチョウ前にテントを設営し、31日まで午前10時〜午後4時に受け付ける。

 倒れた大イチョウの枝や幹は、同八幡宮が再生に備えて保管していたが、倒木の根元から多くの新芽が出て再生に向かいつつある。市民から「枝をわけてほしい」と要望が出て、同八幡宮で対応を検討していた。

 同八幡宮社務所は「集まった寄付金は大イチョウの再生にあてる」としている。問い合わせは同八幡宮(0467・22・0315)。
(2010年7月9日12時02分 読売新聞

2010-07-11

説明を省く

昨日、買った『話す写真 見えないものに向かって 見えないものに向かって・畠山直哉著』を読む。

「私の場合」(京都精華大学 2009年4月3日 新入生向けレクチャー)より

 写真が面白い、なんて思ってる時期には、人はカメラを常に持ち歩くものですね。それで、何か気になったり、いいと思ったものにレンズを向けては、なんでもかんでもパチパチとシャッターを切る。今だったらピッかもしれませんが、まあ、僕もそのようにして、撮った写真を暗室で時間をかけてプリントにして、先生の前に広げたりするのですが、これがどうにも、自分でもよく分からないものなんです。当然ですね。その辺をブラブラ歩いて、気に入るものを撮ったとしても、それはただ単に自分の気に入っているものを撮ったとしても、それはただ単に自分の気に入っているもののリストみたいなものびしかならないのですから、そんな写真は、友達と雑談する時の、話の種にはなるかもしれませんが、自分を知らない人に見せたら、「ああ、そうですか」と言われてお終いになってしまうだけのものです。
 ある日、なんとなく自分でも納得がいかないまま、作ったプリントを机の上に並べてしどろもどろの話をしていた僕に、大辻先生がこう言ったのです。「説明的な要素をできるだけ省いてみたらどうですか?」と。
 じっさい、この言葉の意味が大きくなってゆくのは、それからのちの話ではあるのですが、とにかく、僕はその時に驚きました。なぜ驚いたのか? 世間と逆のことを先生が言っていたからにほかなりません。
 何かが上手く伝わらない、と感じる時には、人は工夫をするものです。その工夫とは、多くの場合、足らないものを付け加えたり、言い方を変えてみたり、分かりやすくかみ砕いたり、といったものですね。コミュニケーションを円滑にするために、世間はそのようなことを人に勧めます。あなた方もそういう風に、今まで学校の先生や教わっていると思います。「よい写真の撮り方」みたいな、手軽なガイドブックなんかをめくっても、それに似たようなことがたくさん書いてある。つまり、世間は「上手く伝わらないのは説明が足りないからだ」というわけです。ところが、大辻先生は逆に「説明を省け」という。これはいったいどういうことなのか。それを詳しく考えるのはもう少しあとに回しますが、とにかく、僕はその瞬間、驚きと同時に、何かが分かったような気がして、急いで別の写真を撮りに行き、翌週の授業でその新しいプリントをみせました。すると先生はニコリとお笑いになった。
 その時のプリントは確か、大学の校舎の中庭にある植物を、中判のサイズの白黒フィルムで撮って、できるだけきちんとプリントしたものだったと思います。それが何を伝えようとする写真なのかは、自分でも謎のままです。でも僕には、これを撮ってプリントを作れば、とにかくそこにあった事物の様相だけはちゃんと写っている、という確信はあったのです。じっさいに、自分で焼いたプリントを注意深く眺めていると、土のテクスチュア、植物の葉の鋭角的なフォルム、ガラスの質感、建物の奥行き、といったものが、まざまざと印画紙の上に再現されていることに驚いてしまいます。でもこれが何を表しているというのでしょうか、美しいと思ったわけでもない。ほとんどの要素が偶然に、自動的に出来上がっているようなもので、撮られた理由が、撮った本人にさえしっかりとは分からない。でも眺めていて見飽きない。そのような写真は、いったい何を表しているのか? たぶんその写真は、世間的なコミュニケーションのレベルからは、無意味なものにしか見えないでしょう。でも、そこに写っているものを、目で舐めるようにして追いかけると、見飽きることがない。写っていることそのものが、大切なことのように思える。それは自分にとっても、端的に「面白い」体験だったのです。そして確かに、その写真は「説明的な要素ができるだけ省かれた」写真と呼んでよいようなものでした。

この「中庭にある植物」の写真の話とヴォルフガング・ティルマンス≪インタビュー≫http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20100705/1278350755で紹介した≪Garten(庭)≫という写真と話がダブって見える。

 

高橋源一郎 VS 城戸朱理

高橋源一郎(@takagengen)さんと城戸朱理(@Kido_Shuriさんの中原中也賞を巡るtwitter上の論争がtogetter上でまとめらています。

2010-07-10 文化度ゼロ

「話す写真 見えないものに向かって」

昨日発売されたらしいので、本屋に行って

話す写真 見えないものに向かって

話す写真 見えないものに向かって

を探す。平積みされているかと思ったのだが、ない。2回位、発売が延期されたので、また延期されたのかなと思いながら、棚を何回も探し、やっと棚の端にあるのを見つけた。

 後書き読むと、11の講演をまとめたこの本は、いろいろなところで同じことを話したので、本にするときにその調整が大変だったようだ。わたしは、11の講演のうちの、2008年6月13日東京国立近代美術館のアーティスト・トーク「自作を語る」を聴いている。この講演が『第一章仕事について話す』の2番目に『「川」の連作について』と題してまとめられていた。
 確か、金曜日の夜で、20時の閉館時間を過ぎても、話を続ける畠山さんに美術館の関係者が戸惑っている様子が印象的だった。

 読んでみると、2008年12月東京藝術大学 横浜校地 馬車道校舎 1Fホールで行われた《メディア・プラクティス レクチャーシリーズ08-09》で聴いたと思っていた畠山さんの話が書かれていたりして、自分の記憶のいい加減さに呆れてしまった。

P.34-P.35より 

 写真は、ご存じの通り、19世紀自然科学の産物であり、写真術を科学的な技法として考えるると、写真に記録されるのは、単に物質にはね返った光の様子でしかない、ということになります。科学特有の、とても冷たい、還元主義的な考え方かもしれませんが、自分でフィルム現像をしたり、暗室でプリントを作ったりした経験のある方なら、この、「写真に写るのは光の様子せしかない」といった考えは、ある程度理解していただけるのではないでしょうか。
 写真を撮っていると、写真にするのが難しいのが、世の中にはたくさんあることに気付きます。たとえば、ものの名前や概念、人の意識といったもの。それらは、僕たちの日常の活動と切りはなせないものですが、物理世界に属するものではないので、つまり光でないので、基本的には写らないのです。同じように、心とか内面とかいったものも、基本的には写真には写らない、と思った方がいいでしょう。
 でも文化は、特にマスメディア文化は、僕たちに、写真によるコミュニケーションを促し、写真には心や内面が写ると、僕たちを励ましているように見受けられます。「光しか写らない」と思っているから僕から見たら、とても信じられないような曲芸を奨励しているように見える。正直言って、僕などは時々居心地の悪さを感じます。
 僕のように、いささか還元主義的な態度で写真に接していると、時として人間の顔までが物体に見えてしまうような感覚が生じてきたりします。それって、けっこう精神的にはヤバい状況なのですが、そのギリギリのあたりで、まあなんとかバランスを取っていると、実にいろいろなことが見えるようになってきます。僕たちがどれほど多くの約束事、合言葉、暗黙の了解、といったものに囲まれて、気軽に意味のやり取りをおこなっているのか、そのことがとてもよく見えるようになってくるのです。つまり、文化とは、確かに人間たちによって、社会的に構築されているものだ、ということが事実として見えてくる。自分で写真を撮ることによって、文化が社会構築的なものとして見えてくるとしたら、翻って「文化度ゼロ」といった地平を、写真をとりながら想像できるようになる、と、いうことですね。「文化を括弧でくくる」といった表現も可能かもしれません。
 僕は、できることなら文化度ゼロの地平にいつでも立ち返って、文化の招待がどのようなものなか観察したい。と思っている人間です。文化は意義のあるものですが、もしそれが欺瞞を感じさせたり、社会を居心地の悪いものにしたり、僕たちの想像力を貧困なものにしようとする気配を見せているなら、そのことは指摘されなくてはならないだろう、と思っています。新しい意味の生産を心がける者たちは、常に「王様は裸だ」と叫ぶ子どもの側に立たなくてならない。そう思っています。
 僕の好きな写真は、意外性を持って、僕たちの暮らす世界を別の角度から照らし出してみせてくれるような、そんな写真です。もっと大きく言ったら、世界は人間によって、どのように想像されているのか、そんなことも教えてくれると思っているのです。できれば僕も、そのような仕事をしてゆきたいと、いつも思っています。

P.36

さて、僕は、写真を見せる時には、言葉やほかのものをあまりくっつけないで、写真だけを見せる。という、けっこうストイックな美学的習慣に基づいた写真教育を受けた人間です。そしていつも「文化度ゼロ」の地点から写真を見たり考えたりしたいと思っている。

2010-07-09

エグルストン展の評判

ARTiTに、展覧会レイティングというページングがある。
原美術館での『ウィリアム・エグルストン:パリ-京都』の評価はあまり芳しくない。

まず、小原真司さん(http://www.art-it.asia/u/reviewd10/3af81XeFEbculQvq5TpL/

写真専門学校とか大学の講評でこんな写真をよく見た気がする。
アウェイのパリと京都で撮ったゆるい写真が無駄に大きく伸ばされている。
ブログとしてアップされている画像を見た方が面白かったかもしれない。
「エグルストン先生、これじゃ公募展も厳しいですよ」と言う人がいなかったのか。
それにしてもホームグラウンドの写真がもう少し見たかった。残念。

そして、光田由里さん(http://www.art-it.asia/u/reviewd4/HB5Yqd1oez6jMDrNRIAP/

新作は、きびしい。
パリ作品はまだ楽しめるが、
京都作品は駄作が多い。
巨匠の初個展といっても
これをありがたく見なくてはならないだろうか???

そういえば、前に取り上げた、清水穣さんもこのARTiTでの発言でした。
http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20100324/1269448556

 ある人の作品を,否定するときの言葉って難しいなってつくづく感じます。

film注文

 4x5のsheet film 100枚(ROLLEI ORTHO 25)をネットで注文。注文先はFreeStyleというアメリカの会社。
 Hasselでこのフィルムを使ったときは、その時は絞りをf2.8にして出来るだけ、シャッタースピードをできるだけ速くなるようにしたが、4x5にカメラを変えてからは、もっぱらf45とかf64にを使うことが多いがどうするか?
 とにかく、どんな写真が撮れるか楽しみだ。まず、現像液をどうするかが問題だ。
 120のfilmが2本残っているので、実験しておこう。

2010-07-08 写真とキャプション

イメジージの冒険

昼、外に食事にでて、ちょっと古本屋により、

イメージの冒険〈7〉写真 (1982年)

イメージの冒険〈7〉写真 (1982年)

を買う。その中の『桑原甲子雄谷川俊太郎の対談「写真は何を語りかけるのか」』で、「写真とキャプション」について触れていた。その部分を引用する。

○写真とキャプション
谷川 昔はキャプションていいましたけど、写真とことばの結びつきみたいなことは、写真をずうーっと撮られていたころはどうお考えでしたか?
桑原 写真のキャプションていうのはいろいろ意味があって、つまり戦場の写真でも、キャプションのつけ方で、戦場の一枚の写真の意味がかわってきちゃいます。キャプションは怖いですね。
谷川 やっぱり、写真だけで何かをいわなくてはいけないというか、表現しなくてはいけないというか。
桑原 そういう時もある
谷川 僕はわりとフォト・ストーリーとか、映画の脚本みたいなことで、映像の世界に入ってきたものだから、初期の頃から、写真と言葉とワンセットで考えてきたようなところがあると思うのですね。ただ、僕が、写真ていうのは、本当に素晴らしい働きをもっているなと思ったのは「ファミリー・オブ・マン」なんですね、あれはキャプションっていっても、詩とかことわざのようなものがポンポンと置いてあるのだけで、ちょっと普通の意味のキャプションとは違うんですけれど。
桑原 あれもキャプションによって「人間家族展」の意味っていうのは増幅されたでしょ。ただね、ロラン・バルトがいってるんですけど、彼が「ファミリー・オブ・ラン」を1950年かにパリで見て、人間、人類はひとつの家族だというタイトルで、すごく評判がいいんだけど、あれをパリにきているアルジェリアの労働者が見たら、何て思うだろうかっていうようなことをかいているわけ。バルトあたりはかなり鋭く写真を見てたんだなと思いますね。そういうことがあるから「ファミリー・オブ・マン」のキャプションがかなり力をもって、つまり映像に拮抗して、それだけのパワーをもってたんですね。言葉と映像とタイアップで何かひとつの主張をするとか表現するとかいうこともありうるでしょうね。それから写真だけで何かいうってこともありうるし、その辺はかなりフリースタイル でいいんじゃないですかな。
谷川 米ソ冷戦さなかに、「ファミリー・オブ・マン」を見たときには、僕もまだ若かったし、本当に素晴らしいって思ったんですけど、大分あとになって、ダイアン・アーバスって写真家を知りまして、あれはもうキャプションなんかない世界なんだけけれども、やはり、もう、「ファミリ−・オブ・マン」のああいう発想では人間は捉えられなくて、アーバスの方が、ただひとりの個人が撮った写真なんだけども、「ファミリー・オブ・マン」よりも深いところをいっているというショックを受けました。
桑原 一九七〇年代でしたっけ。
谷川 ええ
桑原 あれはニューヨークの近代美術館で「ファミリー・オブ・マン」より入場者が多かったんです。ちょうどベトナム戦争でアメリカ人も士気阻喪している頃だから、アメリカ人の心境にフィットしたんでしょうね。写真というのはいろいろな角度から見られるし、いろいろなジャンルがあるし、だから、写真はこうだとか、そういうこと、全然いえない。

“生きた経験”というイデオロギー

heisodekker(大嶋浩)さんのtwitterより

heisodekker
2010.07.08 16:52
ドキュメンタリー「グレーン・グールド 永遠のピアニズム」を見る。演奏会よりも録音を重視するグールドに対して「山の映像を見て満足するようなもの」とインタビュアーが言うと、グールドは「それは素晴らしいことだ。犠牲者が出なくていい」と答える。 via web

heisodekker
2010.07.08 16:55
グールドほど“生きた経験”というイデオロギーを軽蔑した者はいない。もちろん「山の映像」がある確かな存在論的実在性を現前させる限りにおいてだ。グールド−特権的瞬間を求めて。 via web

読書

tadanoriyokoo(横尾忠則)さんのtwitterより

tadanoriyokoo
2010.07.08 16:01
時々、読書によって人生の貴重な時間を奪われたような気になることがある。読み終った途端、本の内容何ひとつ記憶していないのは本のせいか、こちらのせいか知らないが、何も変ってない自分がいるだけだ。 via web

tadanoriyokoo
2010.07.08 16:01
本は他人の噛み終ったチューインガムを噛んでいるようなもので、美味い汁は他人が吸ってしまったあとだ。 via web

tadanoriyokoo
2010.07.08 16:01
他人の知識のおこぼれを頂戴するより、自分の経験を知識にした方がうんと身につくと思うけれど、やっぱり他人に経験を代行してもらいたいのは何なんだろう? via web

tadanoriyokoo
2010.07.08 16:01
本を読むことも読まないことも本に対する強迫観念だ。じゃ一層のこと自分で本を書いて、自分の本の読者になればいい。 via web

2010-07-07

平敷兼七の追悼展

ArtItのレビューを小原真史さんも書いている。
その一番最初のレビューで平敷兼七の追悼展のことを書いていた。

以下、http://www.art-it.asia/u/reviewd10/osbmWRhxArH3QpaTjSw7/より引用

展覧会に点数をつけるという少々荷が重い役をこのサイトで引き受けるに当た
って、どうしても言及しておきたい展覧会がある。
対象が昨年末に開催されたものとなってしまうので、いきなりの反則技かもしれないが、TARO NASUでの「平敷兼七展」について。
 
 2009年の10月、沖縄写真家平敷兼七が急逝した。そのわずか2ヶ月後に東京
追悼展が開催された。
会場には極端に色褪せたものから折れたものまで、さまざまな状態のヴィンテージプリントが100点以上、ビニル袋に入れられたまま無造作にピンナップされていた。
値段も恐ろしく安く、私が訪れたのが会期末だったことも手伝ってほぼ完売状態だった。沖縄写真家大和で叩き売り、バラ売りされているという以前に、平敷の部屋から出てきたばかりのようにも見えるそのプリントの展示が、遺品整理にしか見えなかったのは残念でならない。

そして自戒を込めて言えば、私はプリントの来し方行く末が気になって、それらの写真と出
会い損ねてしまったのだった。(2010/03/02 15:19)


平敷さんの写真はどこかにまとめて保管されているのだろうか?気になる。

参考
http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20100207/1265558502
http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20100202/1265122576

五十嵐太郎「スーパーフラット再考2010ーー微細なデザインからみえるもの」

先日、http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20100701/1278000543で、『ART and ARCHITECTURE REVIEW「July 2010」』の中村竜治さんのインタビューを紹介したが、『ART and ARCHITECTURE REVIEW「July 2010」』で五十嵐太郎スーパーフラット再考2010ーー微細なデザインからみえるもの」という文章が掲載された、ここでも、中村竜治のトウモロコシ畑について触れている。
その部分を引用する。(http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/JH9XzdY48bWSp7sg2mAh

建築はどこにあるの?」展(東京国立近代美術館)における中村竜治のとうもろこし畑は、間違いなく、微細なデザインの極致を開拓した。単に冷静なのではなく、わかりやすく狂っているのではなく、冷静な狂気というべき感性。筆者がこれまでに見てきたものでは、中国清王朝における工芸品は、人間の手でなせる超絶技巧の最高峰だった。現在のコンピュータ制御の造形でも、なかなかこのレベルには到達しないだろう。とうもろこし畑は、工芸品のような手つきでありながら、小さいオブジェではなく、人を包み込むような空気のかたまりとして出現している。人の手という意味では、学生の集団制作であり、とても清朝工芸品にかなわない。だが、レーザーカットによる現代の技術と、部材をつなぐ手作業を融合させることで、真に現代的な作品になったのである。
 とうもろこし畑が興味深いのは、ぺらぺらの表層的な紙でありながら、なおかつ構造体になっていることだ。しかも立体的なオプ・アートのような、錯視効果を生む装飾的な幾何学である。スーパーフラット建築において論じた青木淳ルイ・ヴィトン名古屋の表層における操作が拡張し、ついに空間を獲得したかのようだ。とうもろこし畑では、構造を安定させる強いかたちから構成されているのだが、その部材が細く、単位が小さく、また無数に反復されているために、かたちが消えていく。全体のヴォリュームとしては三角柱になっているが、それも便宜的なものであり、おそらく現象だけが鑑賞の記憶に残る。微細な線の集積ゆえに、目の焦点をあわせるのが難しい。動きながら見ると、さまざまな方向に視線の抜けが発生する。また人の手作業がもたらすわずかな偏差は、幾何学にゆらぎを与えるだろう。そして構造を強化すべく、床に近い部分は紙がやや厚くなっているために、眺める方角によって、均質なフレームによる透視図とは、かすかにずれた奥行きを生む。とうもろこし畑をじっと眺めていると、幾何学的な造形ながら、それが生命体のようにもふるまう、『新世紀エヴァンゲリオン』に登場する使徒のように思えてきた。

2010-07-06 昔々

現代写真論 コンテンポラリーアートとしての写真のゆくえ シャーロット・コットン著 大橋悦子・大木美智子 訳

1章の紹介をかいたまま、先に進んでなかった

現代写真論

現代写真論

の「2章 昔々」の紹介をします。
2章 昔々
 「絵画(タブロー)」写真(物語性からひとつのイメージを作りだす作品)について考える。

 タブロー写真の起源は、写真の普及以前の18〜19世紀の比喩的絵画にある。見る者が、登場人物や小道具の組み合わせから重要な意味を読み取るというところが、現代のタブロー写真と共通している。だが、現代写真と比喩的絵画との類似を、単にその模倣やリバイバルとしてとらえるべきではない。むしろ両者は、見る者に物語を意識させるにはその場面をどうにかして演出しなければならない、と理解している点で共通している。

紹介している写真家(全部ではありません)

  • ジェフ・ウォール「通行人」「不眠」

 Jeff Wall「Passerby」「Insomnia」

 ウォールの写真は、大きく2つに分類される。ひとつはデジタル技術で画像処理を行ない、派手に物語が演出された写真。もうひとつはその場で撮影したようなごく自然な印象を与える情景写真である。たとえば、カメラを背に振り返る人物を撮影したルポタージュ的な白黒写真<<通行人>>を見てみよう。返り見る者と見られる者の緊張感が表現されているが、これは事前に緻密な画面構成を行ったうえでつかみとった撮影の瞬間なのだ。
 <<不眠>>にはルネサンス絵画に通じる構図がある。撮影のアングルと台所の光景が、見る者を画面のなかで展開する物語へと引き込む。家具の配置からも、男が粗末な台所でせわしなく動き回った後、床に身をうずめ、必死に眠りにつこうとしていることが読み取れる。舞台セットのような生活感の無さはおそらく、不眠症の男のライフスタイルを反映したのだろう。場面全体を演出し、男の精神的苦悩を私たちに感じさせるのである。
 このような風景を再現するためには、画家が絵を描くのと同じくらいの時間と技術を要するだろう。また、一枚の写真のためにあらゆるものが集められているのは、写真はひとりで撮影するものという先入観をくつがえすものである。俳優やアシスタント、技術者を総動員するやり方は、スタッフを指揮する中心的な存在、空想と現実とを融合させる映画監督のような人物として写真家を再定義する。  

参考
http://amysteinphoto.blogspot.com/2008/02/jeff-wall-at-strand-bookstore-this.html
http://www.tate.org.uk/modern/exhibitions/jeffwall/rooms/room6.shtm

  • トム・ハンター 「帰途」

 Tom Hunter「A Journey Back」

 ヴィクトリア時代の絵画、特にラファエル前派の作品のリメイクが行われている。<<帰途>>の構成と主題は、ウイリアム・シェイクスピアの悲劇『ハムレット』の登場人物をヴィクトリア風に書き換えたジョン・エヴァレット・ミレイ(1829〜1896)の<<オファーリア>>(1851-1852)からとられたものである。<<帰途>>で描かれるのは、パーティーからの帰り道で水に溺れた若い女性の死。それは現代版オファーリアとも言えるだろう。若い女性が水に負け、自然へと姿を変えていく寓話は、数世紀にわたり画家たちを魅了し、煩雑に利用されてきた、甘美な色彩の巨大写真は、ミレイ絵画がもつ、輝くような明瞭さに引けをとらない。



このように、美術史上のさまざまモチーフが現代写真の主題に使われるということは、現代の生活でも過去の時代と変わらず、物事を象徴的にとらえたり、何かに心を奪われたりするということを物語っている。美術はなおも現代の寓話の記録として機能しているのである。大判カメラの使用には、写真の歴史や、19世紀に利用した、写真で描くメロドラマ(タブロー・メロドラマ)の手法への回帰が見られる。タブロー・メロドラマは当時、画集に代わるものとして、安価で、収集して楽しむ室内娯楽となっていたものである。アマチュア、プロを問わず、アナログの伝統が、デジタル技術に払拭されてしまった現在、大型カメラを使用すること自体が、明らかに歴史的写真の形態を意識した行為である。

参考
http://www.arts.ac.uk/newsevents/843/tom-hunter-conversation-martin-barnes/
http://www.tomhunter.org/

Wendy McMurdo 「Helen, Backstage, Merlin Theatre」

<<ヘレン・バックステージ、マーリン劇場(一瞥)>>はデジタル技術によって一人の少女を複製し、いわゆるドッペルゲンガーを表現している。これも、作り上げた画像を特徴とするタブロー写真の一例といえる。少女は舞台の上で、自分そっくりの相手を困惑して眺めている(舞台という設定は、異化的演劇空間のみならず、演出写真ということを暗示している)


http://www.cork2005.ie/programme/strands/architecture/lookingglass.shtml
http://www.wendymcmurdo.com/

Rut Blees Luxemburg Nach Innen/In Deeper

 ラット・ブリーズ・ルクセンブルクは光と水の反射を利用し、都市建築を美しい琥珀色のイメージへと変貌させる。<<愛の歌>>シリーズ(1998-2000)の建築写真は、それぞれ独立した作品でありながら、美的に関連したものである。<<深み>>を見る者は、この風景のなか(川に降りて行く階段の最上段)にいるように感じる。足跡が、湿った泥に覆われた階段の上に残され、その先には光り輝く川がひろがっている。1920〜30年代、持ち運び可能なフラッシュライトを実験的に使用し、超現実的な光で夜の街を撮影する試みが広まったが、ルクセンブルグの写真もその系譜にある。都市の夜景が劇的な光に照らし出されると、超現実的で精神性を帯びた空間が生まれる。この原理は時を経ても変わらないが、ルクセンブルクの写真には、都市に対する現実的で個人的な経験が染み込んでいる。

参考
http://artnews.org/rutbleesluxemburg
http://www.guardian.co.uk/society/gallery/2009/mar/09/rut-blees-luxemburg-photography

  • ハナ・コリンズ 「時の過程で6(クラクフの工場)」

Hannah Collins In the Course Of Time 6 (Factory Krakow)

1990年代、コリンズの作品の多くは、共産主義後のヨーロッパを瞑想するものだった。彼女は、過去と現在の出来事によって形づくられた現代の生活が、さまざまな建築空間を特徴づけているありさまを撮り続けた。コリンズの写真は、まさに社会の歴史そのものをとらえているのだ。その巨大なパノラマ画面を、じっくり時間をかけて鑑賞する。これこそ伝統的に美術鑑賞に求められてきたことであり、そうすることによって私たちは人間の営みと繊細な歴史の物語を読み解くことができるのである。

http://www.hannahcollins.net/home.html

2010-07-05 完全なる無、ただのディテール写真です。

ヴォルフガング・ティルマンス≪インタビュー≫

昨日、東京オペラシティアートギャラリーの売店で買ってしまったのが

ヴォルフガング・ティルマンス≪インタビュー≫
[インタビュアー]ホルガー・リープス、ハンス・ウルリッヒ・オブリスト
[翻訳]清水穣、和光
[発行]株式会社ワコウ・ワークス・オブ・アート

第一章は2009年5月の「ホルガー・リープスによるインタビュー」でヴェニスビエンナーレをまえに、ビエンナーレの出品作品のパソコン上の展示のシュミレーションを見ながらおこなれたようだ。
以下 HL:ホルガー・リープス WTヴォルフガング・ティルマンス


WT 略
  世界全体を対象とするのではなく、むしろ単一のテーマで、あるいは少なくともテーマを絞り込んで、その空間を構成しようと思ったのです。ビエンナーレの「世界の創造」という統一テーマの内部で、私はまさにそういう考え方を中心的にしたくありませんでした。
HL このシュミレーションのなかの、どの写真のことですか?人が目にするものと、知覚して美しいと感じるものとのあいだに、ヒエラルキーはないのですか?さまざまな写真のジャンル同士のあいだにもないしょうか?というのも、あなたはいわばピントを開放にして、「これだって美しい」「これだって写真でありうる」と言っているようだからです。
WT ええ、そのとおりです。ただ、今回は「――でありうる」的な要素はあえて入れる必要はないと思いました。そのような解釈の幅は最初から当然のこととして考えあわせていますから。そうではなくて、もっとピントを絞ってひとつのテーマを扱いたかったのです。そのテーマは自然です。つまるところ、色彩は私にとって自然現象でもあります。その限りで、色彩が純粋に考察されているように見えることれらの作品を、美術のディスクールによって正当化する必要はなくて、それは自然のひとつの観察でもあってよいわけです。
だから、たとえば≪Lighter≫ですが、印画紙の下の方が上に折れ曲がっていて、そこにほんのわずかなブルーの戯れがあるのです。ほとんど気がつかないほど、でも、どことなく生き生きとしています。それが青空なのかどうかはどうでも良い。人はまさにブルーを目にしているのですから。そのこと自体がすでに自然です、つまり、自然を経験することです。
基本的にここで問題になっていることは、正確に注視することなのです。それがこの空間のなかの作品を統一すると考えます。ヒエラルキーを揺さぶることは、ここでも私の関心事です。観客は、自分で注視してそれに価値があるか考えなければならない。色彩と構造の存在の不在が、これめでよりも先鋭的な形で登場し、それは3x4m大のメイン・イメージ≪Garten(庭)≫によって強調だれています。この作品は一見なんでもありません。完全なる無、ただのディテール写真です。でもよく見ているうちに、これら抽象された要素や色が浮かび上がってきます。
HL これはなんですか?ホタルブクロ
WT ジキタリスです。まったく純粋にアナログな手段で撮影したものです。デジタル加工はありません。たくさんのちいさなディテールが写し出されます。数え切れない小さな花々は、どれも一様です。この作品を見て、何かを得なくても良いのです、いずれにせよ、じっくり見つめて、心を開いて欲しいのです。


ここで話題になっている≪Garten(庭)≫がどんな作品なのかが気になってしょうがなくなって、ネットで探してみた。どうやら
http://www.contemporaryartdaily.com/2009/06/venice-the-palazzo-at-the-giardini-part-1/img_3062/
がその作品のようだ。

こんなに長くこの文章を引用したのは、この中の特に

  • 「美術のディスクールによって正当化する必要はなくて、それは自然のひとつの観察でもあってよいわけです。」
  • 「完全なる無、ただのディテール写真です。でもよく見ているうちに、これら抽象された要素や色が浮かび上がってきます。」
  • 「この作品を見て、何かを得なくても良いのです、いずれにせよ、じっくり見つめて、心を開いて欲しいのです。」

という言葉が、自分の撮り始めた森の写真、植物の写真を続けることを後押ししてくれるからだ。

そして、それは、前に引用してル・クレジの「物質的恍惚」の中の

  • 「芸術の力、それは事物を相ともに眺めるべきものとしてわれわれに差し出すことである。」
  • 芸術家とは、世界の一細片をわれわれに指して見せる人のことである。」

と相通じるものがあると思うのだ。

「カメラはなに使ってるんですか?」「レンズはどういうのを選べば?」

人の写真を見ると結構、どんなカメラでどんなレンズで撮ってるか結構気になるんですが、でもなかなか聞けないですよね。

そんな話題がsohsai(Ken OHYAMA)多分、大山顕 『住宅都市整理公団』(http://danchidanchi.com/)総裁がTwitterでつぶやいていました。

sohsai
2010.07.05 17:05
月に2通ぐらい「カメラはなに使ってるんですか?」「レンズはどういうのを選べば?」という無邪気なメールをいただくが、これがどうにも気に入らない。どうしてそういうことを答えてくれると思っているんだろう。まあ、同時にどうして答えてあげないの?とも思うけど。自分でも。 via Saezuri

sohsai
2010.07.05 17:07
世の写真家たちはみんなこういう質問に答えているんだろうか。いや、ほんとの写真家だったらこういうこときかれないのかな。趣味で写真撮ってる人だったらきかれるだろうし、答えるんだろうな。そういうやりとりも趣味のうちだろうから。そうか、ようするにぼくの「写真家度」が足りないわけだ。 via Saezuri

sohsai
2010.07.05 17:12
たとえば絵描きに「どんな筆使ってるんですか?」、ギタリストに「なんのギター使ってるんですか?」、水泳選手に「どこの水着はいてるんですか?」ってきくか?きくかもな。そうか、そういうもんか。 via Saezuri

sohsai
2010.07.05 17:29
「教えたくない」というより「いちいちこたえるのめんどくさい」だけですねえ。だってぼくの写真別にその場所に行きさえすれば誰でも撮れるもんなあ。 via Saezuri

sohsai
2010.07.05 17:41
じぶんが小心者で人に聞けないので、あっけらかんと聞ける人がうらやましいんだろうなー、ぼく。 via Saezuri

2010-07-04

東京オペラシティーギャラリー「猪熊弦一郎展いのくまさん」

 午後から、東京オペラシティアートギャラリーに「猪熊弦一郎展いのくまさん」を見に行く。
http://www.operacity.jp/ag/exh117/j/introduction.htmlより

「こどもの ころから えが すきだった いのくまさん おもしろい えを いっぱい かいた」
 詩人谷川俊太郎による文で始まる絵本、『いのくまさん』。画家猪熊弦一郎(1902-1993)の仕事を紹介する本展は、この絵本から生まれました。

猪熊は香川県に生まれ、東京美術学校で藤島武二に師事します。その後、1936年に新制作派協会(現 新制作協会)を結成、東京、パリ、ニューヨークハワイと活動の拠点を移しながら制作を続けました。マティスピカソ藤田嗣治マーク・ロスコ、イームズ夫妻、イサム・ノグチなど、さまざまな芸術家と出会い、親交を深めたことでも知られています。

猪熊は、芸術を一部の人のものではなく、全ての人に開かれているべきだと考え、私たちの日常を美にあふれた楽しいものにする試みもしました。JR上野駅中央コンコースの壁画《自由》(1951年)をはじめとするパブリック・アート、三越の包装紙「華ひらく」のデザイン(1950年)、黒澤映画《生きる》のポスター(1952年)等々、多彩な仕事を手掛けています。

本展は2007年に丸亀市猪熊弦一郎現代美術館において開催された展覧会の東京展で、同館所蔵の猪熊作品約100点を展示します。まるで絵本の中を歩くように、谷川氏による簡潔で美しい文に導かれ、「顔」「鳥」「猫」「色」「形」といったテーマに沿って猪熊の絵画世界を巡る本展が、絵を描くこと、創ることのよろこびに触れる機会になることでしょう。

 去年、丸亀猪熊弦一郎現代美術館に行った。http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20090401/1238588377
そこで、猪熊弦一郎の作品を沢山みた。そこでは、猪熊弦一郎の作品の展示は撮影が自由で、夢中になって撮っていると、監視員が近づいてきて、「撮るのは自由だけど、Blogなどに発表することはできません」って言われるという変な経験をした。
 最近、森美術館の「六本木クロッシング」、東京国立近代美術館の「建築はどこにあるの?七つのインスタレーション」のように、撮るのもOK、発表も条件つきでOKっていう展覧会が増えたのはうれしい。

 今日の東京オペラシティーギャラリーではもちろん撮影禁止。最終日のせいか結構混んでいたが、猪熊弦一郎の絵のとの再会を楽しんだ、収穫は途中で放映されていた「鳥の時代」という映像作品。「鳥の時代」というスケッチブックをめくって行くのを基本とし、途中、ズームインして。絵の一部をアップしたり、パンしたり、画面を揺らしたりして変化をつけているのだが、音楽もうまく映像とマッチしていて、非常に面白かった。
 自分もスケッチブックでも買って、何か書きたくなって来ました。

名前について

yu_miri_0622(柳美里)さんのtwitterより

yu_miri_0622
2010.07.04 07:34
名前……本名、実名、仮名、通名、異名……名前を落とす……名前の落とし物……名札……名札間違い……名刺交換……交換……交歓…… via movatwitter


yu_miri_0622
2010.07.04 07:49
【名】有形・無形の事物を、他の事物と区別して、言語で表した呼び方 via movatwitter


yu_miri_0622
2010.07.04 07:53
無礼者、名を名乗れ! via movatwitter


yu_miri_0622
2010.07.04 07:59
いつから匿名が尊ばれるようになったんだろう? 「名無しさん」がカッコよくなったんだろう? via movatwitter


yu_miri_0622
2010.07.04 08:02
ラジオにも「匿名希望」があったけど、あれはむしろ特殊なケースで、ハガキ出してオンエアがはじまると、好きなDJの声で自分の名前が呼ばれないか、ドキドキしてたよね? via movatwitter


yu_miri_0622
2010.07.04 08:14
名朽つ…名流る…名に負う…名に聞く…名に背く…名に立つ…名を流す…名を馳せる…名は体を表す…名を埋む…名を惜しむ…名を折る…名を腐す…名を汚す…名を辱める…名を沈む…名を雪ぐ…名を正す…名を保つ…名を留める…名を残す…名を散らす…名を遂げる… via movatwitter


yu_miri_0622
2010.07.04 08:19
自らの名で契約する場合は署名したり捺印したりする。自らの名で自らの責任を負うんだよね。 via movatwitter


yu_miri_0622
2010.07.04 09:21
関東武士は、命より重いものは名前だとして、命を惜しんで名が廃れることを嫌い、名を挙げるために命を棄てることを潔しとした。 via movatwitter


yu_miri_0622
2010.07.04 09:29
敵と遭遇すると、まず名乗りを挙げて名乗りを求め、「よい敵」とみれば首を狙い、「あはぬ敵」とみれば決して組もうとしなかった。矢の一本一本にまで自分の名を彫り込む名前に対するただならぬ思い。 via movatwitter
yu_miri_0622


yu_miri_0622
2010.07.04 09:31
殺す理由も、殺される理由も、名前に在った。名前と名前の一騎打ち。 via movatwitter


yu_miri_0622
2010.07.04 10:45
乱戦になっても、常にあちこちで名乗りをあげる。「ヤアヤア、遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ、我こそは…」と姓名、身分、家系、戦における自らの主張などを大声で告げる。名乗りが行われている間は攻撃することが許されなかった。名乗りがまだ途中の場合は「しばし待たれよ」…… via movatwitter


yu_miri_0622
2010.07.04 10:47
関東武士の名乗り合いは、プライバシーの暴露し合いとも言えるよね。 via movatwitter


yu_miri_0622
2010.07.04 10:48
猫も杓子も口にするようになったプライバシーが、日本人のプライドを浸蝕したのかもしれないね。 via movatwitter


yu_miri_0622
2010.07.04 10:54
と、また武士という極端な例を出してぇ、と匿名わらわらに騒がれそうだけど、関東武士なんて京の公家に抑圧されてただけの庶民だったんですよ、庶民。 via movatwitter


yu_miri_0622
2010.07.04 11:06
だけど、名前に対するプライドだけは手放さなかった。「つねに名を汚すまいとし、“名こそ惜しけれ”ということばをもって倫理的気分の基本においた」司馬遼太郎『この国のかたち』 via movatwitter


yu_miri_0622
2010.07.04 11:23
1953年にシベリア抑留から解放されて帰国した石原吉郎は、収容所の壁に書き遺された日本人の名前について、こう書いています。 via movatwitter


yu_miri_0622
2010.07.04 11:30
「さいごの唯一のものは、結局は姓名、名前でしかないわけです…言いつぎ語りつがれた姓名が、いつの日かは日本の岸辺へたどりつくことがあるかもしれない…それはほとんど願望を通りこして、すでに祈りのようなものではなかったか……『からだはとどかなくても、名前だけはとどけてくれ』…」石原吉郎 via movatwitter


yu_miri_0622
2010.07.04 11:42
名前は、自分に与えられる最初の言葉、死にゆく時、愛したひとの声で聴きたい最期の言葉…… via movatwitter


yu_miri_0622
2010.07.04 11:45
お名残り惜しゅうございます…… via movatwitter


yu_miri_0622
2010.07.04 11:52
近松の『曽根崎心中』お初・徳兵衛道行の名台詞……この世の名残、夜も名残、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ。あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなり…… via movatwitter


yu_miri_0622
2010.07.04 12:16
と、美容院でばさばさの髪を揃えて、朝食兼昼食のランチを食べてるあいだに、名前についてのツイートをしてみたなう。 via movatwitter

2010-07-03

神奈川近代美術館「鬼と遊ぶ 渡辺豊信」展

神奈川近代美術館へ「鬼と遊ぶ 渡辺豊信」展を見に行く。
f:id:heliograph:20100703132019j:image
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2010/toyoshige/index.htmlより

渡辺豊重は、絵画、版画、彫刻のあいだを自由に往来し、楕円、雲型、星型などの明快なフォルムを彩やかな色彩で描き出したユーモアあふれる作品で知られています。
  1931年 東京に生まれた渡辺豊重は、1950年代後半から難波田龍起(なんばたたつおき) や田中 岑(たかし)に師事し、1962年に最初の個展を開きました。1968年に第1回芸術生活公募コンクールで受賞したことをきっかけとして、個展やグループ展などで精力的に作品を発表していきます。 1975年頃から10年ほど続いた〈ピクニック〉のシリーズが、〈スウィング〉や〈モクモク〉、〈ギザギザ〉のシリーズへと展開する中、風をはらんだかのような動きや、軽やかなリズムをもったさまざまなかたちが生みだされました。 オレンジや黄色の柔らかな光の中、かたちが無心にたわむれる近作では、栃木アトリエを移してからの、日々の暮らしの中で触発されるいきいきとした生命のよろこびが感じられます。
  2009年夏、渡辺は、これまでの赤や緑といった明るい色彩から一転し、黒と金、あるいは黒と銀という抑制された色彩の対比が心地よい緊張感と力強さを感じさせる《鬼I 》《鬼II》を、そして秋には《鬼III》を発表しました。鬼は画家自身のさまざまな感情が凝縮されて生まれた社会への反発のかたちであり、生命力の激しさのかたちでもあります。
  今回の個展では、〈鬼〉三部作の系譜にある、本展のための最新作、〈鬼〉約30点と関連ドローイングをあわせて展示することにより、作家の烈しい感情が仮託された〈鬼〉シリーズの展開を追いかけ、その全貌を明らかにします。また同時に絵画からかたちが抜け出してきたかのような彫刻小品もあわせて展示し、渡辺の多彩な仕事ぶりを紹介します。


2009年の白緑のある

黒と金、あるいは黒と銀という抑制された色彩の対比が心地よい緊張感と力強さを感じさせる《鬼I 》《鬼II》《鬼III》

が素晴らしかった。どうも、私は色彩のを抑えたタッチの荒々しい絵の方が好きなようだ。

鶴ヶ丘八幡宮 大銀杏その後

 美術館まで、来たので、大銀杏の様子を見に行く。
f:id:heliograph:20100703125651j:image

ご覧の通り、根からも、折れた幹からもたくさんの芽というより枝が出ていた。
 再生したのか、植物のもつ生命力の強さはすごいと思ったのだが、
「移植」「若い芽生育」「挿し木」、大銀杏再生へ”3本の矢”/鎌倉・鶴岡八幡宮という記事を見つけた。

2010年3月22日のニュース:カナロコ--神奈川新聞社(http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1003220019/)より

 鎌倉市の鶴岡八幡宮で倒壊した大銀杏(おおいちょう)の移植作業がほぼ完了した。八幡宮は原木の「移植」に加えて、土中に残された根系から伸びる若い芽「ひこばえの生育」と、採取した「枝の挿し木」の3方策で、大銀杏の再生に取り組む。移植された大銀杏が根付くかどうか。専門家からは前向きな意見も聞かれるが、成否の判明は来春になるという。

■宮司の決意
 「大銀杏が多くの人の心に根を張っていると感じ、これは何とかしないといけないと思った」。18日、再生を祈る祭典後、吉田茂穂宮司は倒壊時を振り返り、胸中を明かした。

 雪混じりの強風で大銀杏が倒壊したのが10日未明。翌11日、早くも八幡宮は大銀杏を移植し、再生を目指す方針を固めた。視察に訪れた松沢成文知事が標本保存やクローン技術による苗木増殖などを提案する中、吉田宮司は「まずは部分的にでも再生できれば」と強い決意を示した。

■切断を選択
 移植は、倒壊した幹を根元から約4メートルで切断して植え直す手法が取られた。指導に当たったのは東京農大の浜野周泰教授(造園樹木学)。大銀杏の幹にあった直径30〜50センチの太い根4本はいずれも倒壊時に切断されたが、細根は残されていた。この細根で必要な養分・水分を供給するには「消費の部分(枝や葉)を極力落とす」必要があった。

 倒壊直後、「(そのまま起こしても)回復は不可能」としていた浜野教授も、切断後に移植という措置を取ったことで、「天候次第だが、90%は根付く」と手応えを口にした。この春にも新たな枝が伸びると見込まれるが、これは幹に蓄積された養分を使って成長するため判断基準にはならないという。この枝が枯れずに生き続けると同時に、来春もまた同様に新たな枝が伸びて初めて、根付いた証しになるという。

DNA継承
 移植と並行して進められたのが、「ひこばえの生育」だった。元の場所にはかなり良好な状態で根系が残され、ひこばえの生育が十分に期待できる状況という。八幡宮では土入れを行い生育環境を整えた。

 浜野教授は「すぐに1本にするのではなく、数本をそのまま生育させ、(10年前後の期間を見ながら)状態の良いものを後継樹としたい」と述べた。

 挿し木による苗木の増殖は、県自然環境保全センター(厚木市)で実施。比較的若い枝を大銀杏から採取し、10〜15センチほどに切り分けた後、発根促進剤に一晩漬け込み、赤土をいれた箱に約400本挿し木した。今後1年間は箱内で生育させ、発根が確認されたものは畑に移すという。

 同センターの斎藤央嗣主任研究員は「挿した枝から根が育つかどうかが勝負だが、枝の状態も採取した時期も良かった。400本すべてとはいかないが、ある程度の確立で生育は見込める。大銀杏DNAを残すことは可能だろう」と話している。


本当に育つかどうかは来春ということだ。

2010-07-02 建築と写真 そして建築写真

建築と写真 そして建築写真


kenjirookazaki(岡崎乾二郎)さんの、建築と写真のはなしと、omuraji (大村益三)さんの美術と写真について

kenjirookazaki
2010-07-01 23:53:40
建築、写真、そし建築写真については ものすごく言いたいことがあります。


kenjirookazaki
2010-07-01 23:54:20
訂正 言いたい→言うべきかな、と思うことあり。


kenjirookazaki
2010-07-01 23:59:42
建築と写真の関係のみならず、複数のメディアの関係は相補的であってはならず、相互に批判的(反省的)に働かなければならない。いやときに破壊的でなければならない。破壊的に働くときというのは、実は、双方が互いに相手に依存(相補的なものであると勘違いし)互いの欠陥を隠蔽しようとするとき。


kenjirookazaki
2010-07-02 00:00:16
その意味で建築写真は写真家にとらせてはならない。


kenjirookazaki
2010-07-02 00:00:44
写真家に甘えてはならない、ということ。


kenjirookazaki
2010-07-02 00:02:02
著名な写真家 にとってもらっている、建築はだいたい、甘えがある。(その逆も真か)。ところでぼくは建築雑誌というものをまだ見ていないのでした。


kenjirookazaki
2010-07-02 00:05:58
ぼくの考えではは、すぐれた写真をとる人は写真家とよばれてしまうような人ではなく、写真 と 家の間の距離がとれている人。つまり 写真から、作家性(様式、スタイル)を消せる人。こういう人は家をとれる。これは建築家でも同じ。建築 と 家 の間の距離を離せる人がすぐれた建築家。


kenjirookazaki
2010-07-02 00:07:40
建築 と 家 とのあいだを離せる。この場合は 作家性、のみならず、住み手の個性というものも含む。この間の離れ方(相互批判の距離)で、建築自身の価値が確保される。


kenjirookazaki
2010-07-02 00:13:33
一方で写真をメディア、技術として考えれば写真家というのは存在しない。建築家というのも存在しない。料理研究家が料理の写真をとる。もちろん彼は料理写真家ではない。同じく、劇作家はみずから劇場を設計できるもの(出なければ歌舞伎の舞台などもできなかった)。画家とは自ら絵具を作るもの。


kenjirookazaki
2010-07-02 00:18:05
市販の絵の具を買うだけで自分で絵の具を作らない(せめて調整、特注もしない)画家は信用できない。つまり自分の使う道具は自分で調整し、作る。これが専門家。だから劇場建築家はかならず演劇人であり、工場設計者はエンジニアである、豆腐屋建築は豆腐屋が設計してきた。


kenjirookazaki
2010-07-02 00:28:55
代わりに自伝を書いてくれるライターという職があり、建築家、写真家はやや近い。次の段階に、対象への批判を含め(普遍化し)書ける人ならば伝記作家あるいは歴史家といえるだろう。つまり、最低でも、建築批判(批評)が(でき)なければ建築写真家はありえない。演劇批判がなければ劇場建築家もない


omuraji
2010-07-02 00:34:00
カメラの鉛直性を保ったまま、三脚の雲台でパンする事で美術写真の多くは構図を決める。勿論その基本は、作品のXY軸の中心の延長上にカメラを置くというものだ。但しそれが不可能な場合、デジタル登場以前なら、レンズの光軸をずらして「アオリ」というものを効かせたりもした。


omuraji
2010-07-02 00:34:15
最近は光学的にアオらなくても、Photoshopの編集→変形→遠近法等々で、アオリ効果を簡便に再現出来たりするのはご愛嬌だ。得られた画像の解像度が十分に高ければ、そうしたデジタルで得られた「アオリ」効果は、出力の大きさ如何で、十分に「実用」の範囲内にある。


omuraji
2010-07-02 00:34:33
「美術写真」の多くもまた、相補的である。画集を見れば解り易いが、絵画の場合、撮影の際には理想的にフラットな光源を、写真家が作り出してくれている。当然形の「歪み」は存在しない。


omuraji
2010-07-02 00:34:44
彫刻や立体作品の場合は、闇雲にムーディーに流される事のない「的確」なライティングが施される。そして絞りを最大近くまで上げて、作者が「見せたい」と思うだろう箇所全てにピントが合う様にする。絞りを開けて、作品の一点のみにピントを合わせるという彫刻写真は恐らく皆無だ。


omuraji
2010-07-02 00:35:08
美術作品の場合、どうしても物理的制約というものがあるから、多くの場合、人は「美術写真」を見て、実際には見に行けない様な場所にあるその作品を、知った気になる。


omuraji
2010-07-02 00:35:39
その「美術写真」もまた相補的な甘えに基づいたものが殆どだ。殊更「意地悪」、即ち批判的、破壊的に撮影された写真など、「美術写真」に於いては皆無だろう。撮られる側の「美人に撮って頂戴」が、「美術写真」の基本だ。


kenjirookazaki
2010-07-02 00:37:01
たいがいは建築をつくった本人が撮影したほうがうまいに決まっている。工房はだいたいそれを使う人が設計したほうがいい工房になるのと同じ。


kenjirookazaki
2010-07-02 00:37:09
おしまい


kenjirookazaki
2010-07-02 00:50:05
追補。批評としてしか、写真(家)が自立しえないならば、自明だけれども、その写真は依頼ではなく、自費で対象が探され撮影される必要がある。(つまり職業的な建築写真は、ただの写真屋さん=代筆と同じ)。建築写真家が可能であれば、写真を売るのではなく、写真で語ることでのみ専門性を確保する。


omuraji
2010-07-02 00:58:56
最近は、旅先で出会う美術作品を、どれだけ「意地悪く」撮影出来るかを心掛けている。


omuraji
2010-07-02 01:00:52
自作も、専門家でない人が撮った写真に、心動かされるケースが多い。

金村修ワークショップ事務局企画展「Butterfly Sandwich」


期間 2010.7.2(金) 〜 8.1(日) 
場所 OGU MAG (http://www.ogumag.com)  
住所 116-0012 東京都荒川区尾久4-24-7 TEL. 03-3893-086
オープン 13:00〜19:00 
新作写真20〜30点と、東京初公開となる映像作品による個展。

http://ok-ws.hp.infoseek.co.jp/ok_exhibition.htmより

ジョン・レノンは「コールド・ターキー」を苦痛についての歌だと言ってから歌い始めた。コールド・ターキーは、骨が軋むような幻聴を聞き、72時間寒気と痛みで眠れずに、床の上をのたうちまわって震え続ける。
 急激に世界が色褪せ、色を失った寒気は決して肉体を凍結させるわけでもなく、凍え死なない程度に、けれど必ず心臓を老化させる程の寒さが永遠に持続する。寒気は終わることがない。コールド・ターキーはジョン・レノンを“赤ん坊になったみたいだ”と歌わせるぐらい、徐々に緩慢に退行と疲労の極北へと追いつめていく。
 私達は疲労と寒気にサンドイッチされ、蝶からさなぎに後退していくようなノスタルジアに埋もれる。ピーター・ラビットの絵本『ジェレミー・フィッシャーどんのおはなし』の中の、ジェレミー・フィッシャーの蝶の羽を折ったサンドイッチの中身は何もない。からっぽの中身のサンドイッチはノスタルジアを呼び戻す。全能感に溢れた子供時代へ退行していく。
 ノスタルジアは痛みであり、痛みは私達を立ち直れなくなるくらい打ちのめすだろう。記憶や夢は痛みを呼び、痛みは必ず、疲労と寒気を連れ込んでくる。
 ジェレミー・フィッシャーが蝶の羽を折ってサンドイッチのようにして食べる。美しいものは眺めるのではなく、食べるものであり、体内器官の中で毒となって排出されるまで消化液で破壊される。
 坂口安吾の『夜長姫と耳男』のようにノスタルジアは、好きなものや美しいものは殺すか奪うか争うか。ノスタルジアは夢や記憶の底に沈みこんでいくことではなく、完全な破壊と廃墟と残骸を要求する。ノスタルジアで、いっぱいにふくれたサンドイッチはさらに寒気と疲労を増幅させる。」金村 修

2010-07-01 作品の転写

中村竜治「表層をみないとわからないこと」

 東京国立近代美術館で行われている「建築はどこにあるの?7つのインスタレーション」展で『トウモロコシ畑』を発表した中村竜治さんのインタビューがART and ARCHITECTURE REVIEW「July 2010」に掲載されている。

f:id:heliograph:20100626153654j:image
中村竜治/とうもろこし畑/建築はどこにあるの?7つのインスタレーション/東京国立近代美術館


以下 http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/mMZX2BKvHUGsLag9otfu より一部引用(聞き手:藤村龍至)

藤村:まずは「とうもろこし畑」のことからお伺いしたいと思います。いろいろな反響があったかと思いますが、中村さんとしてはどのような手応えを感じましたか。

中村:「綺麗」という反応と、「大変だったね」という反応がありました。抽象的なものを実体的に表すというのは僕の中では面白いと思っていたんですが、それを感じて頂けた気がします。形自体は誰でも思い浮かぶような形ですが、それを実際に作るということがどういうことなのか、何が起こっているのか、それを徹底しようとするとどういうことが起こってくるのか、見え方や形もそうですが、それを均質に作ろうとした時、下の方が太くなったり、そういうところが面白いなと思ってやっていたのですが、本当にそれを感じられるかが心配でした。

藤村:鑑賞者にとって、イメージを実物にするときの不均質さというのはパッと見ただけでは分からなさそうですね。気付く人は相当玄人ではないでしょうか。

中村:具体的にではないけれども、実体になった時の迫力をどこまで言葉にしているかどうかだと思います。


 均質に作ろうとして、出来た不均質さ。同じものを組み合わせていることからできるモアレ、それが不均質なことろがあるので微妙に変化していた。わざと変化をつけていたと思っていたのだが、作者は均質に作ろうと思っていたのか!

 展覧会場で、写真を撮るのを許可し、また発表してよいという展覧会であったが、After Talk で山崎泰寛が「『超』表層の深層と実践」という文章をのせている。
http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/xLeruToA36EXaYMnWPvHより一部引用

そういえば、近美の展覧会では、一定の条件さえクリアすれば、作品を写真に収め、ブログなどにアップすることが許されている。来場者がケータイやデジカメなどで自らのストレージに記録を残していく様子を指して、この展覧会のもっとも表層的な表象だと言うことができるのかもしれない。そうやって作品の「ありさま」が個人的に記録され、社会的に複製されていくことそのものが、「どこ」といって名指すべき建築を、展覧会場から別のサイトへと転写するからだ。この特集がアップされる時点でもまだ、その「超」表層な試みは8月8日まで継続中である。

 私も転写してしまいました。
 http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20100626/1277577651

中井久夫「私の日本語雑記」

http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20100628/1277745568で紹介した、斎藤環さんによる、朝日新聞(2010/6/27)の中井久夫「私の日本語雑記」の書評がWebにアップされました。
http://book.asahi.com/review/TKY201006290162.html
で読めます。

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