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2010-11-30 カメラ雑誌ってどうなるんだろ

映像の文法と文体

まえに、映像の文法と文体についてのkazesaki(佐伯剛)さんのつぶやきを紹介した(http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20101126/1290797765)が、
佐伯さんが今度はBlogでその考え方を詳しく紹介しています。
http://kazetabi.weblogs.jp/blog/を見てください。

カメラ雑誌の読者はなめられてるのか?

n291(福居伸宏 Nobuhiro Fukui)さんのtwitter(http://twitter.com/#!/n291)より

日本カメラの鈴木清展の記事を立ち読み。執筆者は飯沢耕太郎さん。これが本当にヤバかったです。悪い意味で。商業誌にしかも記名原稿で、あの内容が掲載されてしまうとは…。入朱時点で血だるまでしょう、普通は。カメラ雑誌の読者(もちろん最初の読者=編集者を含む)は、とことんナメられてますね。 via web

入朱というか、書き直しorボツですね。 via web

おそらく、手頃な宣伝媒体くらいにしか捉えてないんでしょう。前号の記事と照らし合わせると、さらにその酷さが浮かび上がってくるというか。 via web

っていうか、若い書き手にはいくらでもチャンスがある。と、ポジティブに考えたほうがイイですね。業界が癒着で凝り固まって門戸を閉ざしているとしたら、戦略も必要となってきますが。 via web


 一時は、カメラ雑誌は、カメラの新製品をチェックするものだったけど、最近はネットの方が便利。展覧会情報もネットだ探すし。きちんと作品を解説したり、作家を本気で紹介してたんではカメラ雑誌って売れないんですかね。

2010-11-29 INVISIBLE CITIES

見えない都市

昨日、写真美術館で雑誌

invisible man/magazine vol.2

invisible man/magazine vol.2

を見る。特集はINVISIBLE CITIES その中のJohn Warwickerの 「On Visible Cities, Camera in Hand」という文章が気になり買ってしまった。


見えない都市について、カメラを手に    ジョン・ワーウィッカー




 私は街を彷徨する。その行方はその瞬間の潮の干満が決定する。「目的」なく漂うこと。カメラやスケッチブックを持って。「通り過ぎる」のではなく立ち止まる用意を持った「道の途中」…。街のなにものかが「話しかけてくる」瞬間の名伏し難い共鳴を深くしながら、あなたは街をあなたの「自身」のなかに棲まわせる。
 私の視点でカメラのシャッターを切るとき、構図に私の観点は集中してしまう。選択と除外を余儀なくされる。何を撮るかという指示性が生まれる。この状況において自己主張を強く押し出したり、意識的になりすぎたりすると都市はその姿をまた隠してしまう。その瞬間、都市との親密な対話をもまた失われてしまうのだ。
 私にとってカメラは、表層の奥に何が隠れているか、どんなエネルギーがその下に流れているのかを探し当てる「ダウンジング棒」のようなものである。我々全てが感じるエネルギー、我々を、都市を、物語を形作るエネルギーを探し当てるのだ。



 これって、街の中を、カメラを手に持って歩きまわる時の心構えみたいなものだよね。

2010-11-28 写真美術館へ

写真美術館へ

今年は写真新世紀は見なくてもいいと思っていたのだが、結局、最終日の今日、写真美術館へ行く。
ついでというか、2F、3Fの有料の展覧会をみる。
まずは3Fの

二十世紀肖像 全ての写真は、ポートレイトである。

を見る

写真史上の有名作品からあまり目に触れる機会のない作品まで、時代を超えた魅力を放つ20世紀のポートレイト写真を中心に「二十世紀肖像」というキーワードで当館のコレクションをご紹介します。スタジオポートレイトシュルレアリスム表現、社会派ドキュメンタリー、都市のスナップショット、広告ファッション写真、個人的な私写真表現など、多様なスタイルのポートレイト作品は被写体の個性を伝えるとともに、時代の感性や美意識、理想と現実を写し出します。単に人間を被写体にした写真だけがポートレイトではありません。一見ポートレイトに見えないような写真作品、たとえば風景や事物に写真家の内面や人間心理を反映させた写真もまた、ポートレイト表現として見ることができるのではないでしょうか。本展はポートレイト写真の可能性や人間をテーマとする写真の多様性と戯れながら、その魅力を探ります。

(http://syabi.com/contents/exhibition/index-346.htmlより)

 沢山の写真が並ぶ中、山内道雄のストリート・フォトの強さに惹かれた。
出口付近のJhon Coplansの2つのセルフ・ポートレイトも印象的だ。

次に2Fの

ラヴズ・ボディ 生と性を巡る表現

をみる。

東京都写真美術館では1998年11月から99年1月に「ラヴズ・ボディ ヌード写真の近現代」と題した展覧会を開催し、好評を博しました。ヌード写真をエロスや性の表象としてだけではなく、関係性や主体性などの視線の力学によって捉え直し、新たな身体の表象の可能性や意味を考える展覧会でした。「ラヴズ・ボディ 生と性を巡る表現」は、そうした現代の身体表象から導き出された問題をより鮮明にしようとする試みです。
現在、世界が共有する問題としてエイズがあります。1980年代後半から90年代前半、エイズは単なる不治の病として多くのアーティストの命を奪っただけではなく、「エイズ」を巡ってあぶり出された社会的偏見や差別、社会への疑問が、写真・美術のあり方を根本的に問い直す契機となりました。
エイズを抱えた多くのアーティストがエイズに向き合い制作することで、この「社会的病」を自分たちの問題として捉え、エイズがわたしたちに問いかける様々な作品が生まれました。そして今も、セクシュアリティの変容や他者表現、身体表象、アートと政治の問題など、新たな表現の可能性を思索しています。この展覧会は美術や写真のある側面に大きな変化を与えるほどに影響力を持つそうした作品の意味を検証し、問い直す試みです。

http://syabi.com/contents/exhibition/index-340.htmlより)
Peter Hujar の写真、駐車場やガソリンスタンドの写真が印象的だった。
そして、最後に地下の

写真新世紀

を見る。
 審査員の入れ替えでどう変わるかと思ったが、特に惹かれたり気になった作家はいなかった。
ただ、ポートフォリオを全部見たわけだはないのだが、途中で見るのをやめてしまった。
もう、自分の感性が、世の中とずれているのかもしれない。

2010-11-27

癒し系

GoITO(伊藤剛)さんのtwitter(http://twitter.com/#!/GoITO)より

田中一村は癒し系で、ふだんアートとかに関心のない中高年に受けている」と聞いたが、本当かそれ? 『アダンの海辺』を見て癒されるんだそうだ。えーー! あの絵は異様な絵で、力がありすぎるゆえに部屋に飾ったりしたら夜うなされるような代物と思うんだが(だからポスター買わなかった)。

 「癒し」って言葉がどうも好きになれない。なんでだろう、平気で自分が癒されたい等言う人いると、そんな自分が不幸って思いたのだとか思ってしまう。そう簡単に人前で「癒されたい」等と言えるものではないと思うのだ。
 田中一村を癒し系と言いたくない。


 

2010-11-26 映像を見る為の基礎は必要ないと思っている?

映像を見る基礎

kazesaeki(佐伯剛)さんのtwitter(http://twitter.com/#!/kazesaeki)より

言語表現に関しては、学校教育で、古典をはじめ多種多様な作品に触れる。覚えているかどうかは別として、言語表現と接することにおいて、ある程度の基礎はできる。しかし、映像に関して、それがまったくない。だから、映像を見る基礎ができていないまま、映像が氾濫する社会に放り出される。

映像は見る為の基礎は必要ないと思っている人が多い。しかし映像にも言語とは違う文法がある。だから映像だけで深い対話も可能。学校教育で映像を見る基礎を身につけていないと、映像を通じて対話ができない。対話ができないということは、映像の言いなりになったり、好き嫌いで切り捨てるだけになる。


 映像を見る為の基礎は必要ないと思っているわけではないが、かといって果たして自分が映像の文法を理解しているとも言い切れない。

普通の言葉で異常なことをなすこと

heisodekker(大嶋浩)さんのtwitter(http://twitter.com/#!/heisodekker)より

唐突ですがある人から指摘を受けたのでデジタル写真について一言。写真のデジタル技術に固執し、そこに新しさを見ることには首肯できない。それはアナログ写真における技術至上主義と何ら変わることがない。(つづく)

つまり、現在の視覚的感覚・知覚・認識を把握するためには、いま、誰もが使っている技術を使うことによってこそ、その理解が可能になるという姿勢である。普通の言葉で異常なことをなすこと(ドゥルーズ)、これである。

例えば、小林のりお氏におけるデジタルへのこだわりは、現在の知覚(そのデジタル的様態)をあらわにすることに主眼があるのであって、デジタル技法をその”新しさ”において賞賛することではない。あくまでもメタレベル(反省的視点)に立ってのデジタル使用のように思える。

2010-11-25 花は後片付けが面倒。スキャナーは汚れる

五味彬コンタクトシートシリーズ

gomidar (五味彬)さんのtwitterで知った。コンタクトシートシリーズの作品が気になる。
http://twitter.com/#!/gomidarより

Akira Gomi'sWorks.: コンタクトシート1 ag-works.blogspot.com/2010/11/blog-p… #upLoad53

Akira Gomi'sWorks.: コンタクトシート2 ag-works.blogspot.com/2010/11/blog-p… あめですね。明日はパンツにします。 #upLoad53

Akira Gomi'sWorks.: コンタクトシート3 ag-works.blogspot.com/2010/11/blog-p… 花は後片付けが面倒。スキャナーは汚れる

  • コンタクトシート1

http://ag-works.blogspot.com/2010/11/blog-post_7746.html?utm_source=BP_recent

  • コンタクトシート2

http://ag-works.blogspot.com/2010/11/blog-post_6263.html?utm_source=BP_recent

  • コンタクトシート3

http://ag-works.blogspot.com/2010/11/blog-post_2442.html?spref=tw
最初は,写真だと思ったのだけど、『花は後片付けが面倒。スキャナーは汚れる』というつぶやきから、多分。スキャナーの上に植物を置いてスキャンして作品だと思われる。

そういえば、西村陽一郎さんもスキャナーを使って作品を発表していた。
http://dc.watch.impress.co.jp/docs/culture/exib/20101005_397983.html 西村陽一郎写真展「月の花」)

自分にもスキャナーを使った、アイデアがあるんだけど。誰かにやられないうちにやっておかないと。

秘密の知識 巨匠も用いた知られざる技術の解明

2年ぐらい前、思わず買ってしまった。

この本で、デイヴィッド・ホックニーは、西洋絵画の巨匠(オールドマスター)たちが鏡やカメラ・オブスクラやカメラ・ルシーダなどの光学装置を使って絵を描いたという説を主張していた。
 この本は2006年発売ですが、どういうわけかこの本がtwitterで話題になり、そのやりとりがtogetterにまとめられていました。
『デイヴィッド・ホックニー「ルネサンスの巨匠たち写真トレスしてたと思うわー」』
http://togetter.com/li/72396
を見て下さい。

2010-11-24 鈴木清写真展の対談

28mm,35mm,50mmどれにするか?

itozaki(糸崎公朗)さんのtwitterで、レンズの画角の問題についてつぶやています。

昨日から、RICOH GXR A12 28mm相当ユニットを使ってるが、標準50mmの画角に慣れると、広角28mmでどうやって画面構成するかが分からなくなる。もちろん何か方法論はあるはずだから、頭を切り替えて開拓するしかない。 via Twitter for iPhone

28mmの画角は「記録写真」を撮るのに適してるので、その用途のため愛用してきた。28mmで撮ると構図が説明的になり、また間抜けな印象になり「写真」ぽくならない。だから「路上ネイチャー」でも GRD3を多用している。しかし同じ理由で、キチンとした「写真」を撮ろうとすると難しいのだ。 via Twitter for iPhone

真剣に「写真」を撮ろうとすると、画角の違いにこだわらざるを得ない。いや、これは「記録写真」の時も同じだけど…けっきょく画角フェチなのかw 50mm以下の画角なら、フレームや間合いの感覚はだいたい身に付いてる。 via Twitter for iPhone

写真を作品として成立させるには、一連の「作品群」として成立させる必用がある。この場合、レンズの画角を統一するのは有効な手段だ。などと、たまには写真の先生のフリをしてみるw via Twitter for iPhone

28mmで街中スナップ写真の名人って誰でしょ? その人の真似しようw via Twitter for iPhone

35mmは準標準だから50mmの仲間? 35と28mmはけっこう違う… RT @bear_jp 私も同じです。GXR+A12 28mmを構えると、予想以上に画角が広くて、はて、何が撮りたいんだ?って被写体を見失います。やっぱり35mmぐらいがいいのかなぁ via Twitter for iPhone


私も、普段は28mm(DP1s)を使っていますが、たしかの41mmの(DP2s)の方を買えば良かったかなと思う時があります。その方が近づけるかなというか、画面を構成するのが楽かなと思うことがあるのです。昔から、KOWA SW,minolta CLE(Rokkor 28mm),RichoのGR1、GRDと28mmを使うことが多いのですが、だんだん準広角とか標準のレンズが気になっています。昔は撮るときにでなるべく全体を撮ろうという意識が強かったのですが、一部を切り取ろうという意識に変わってきたためなのでしょうか?糸崎さんのいう

対談 鈴木清写真展

http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20101119/1290188652twitterでの240sesame(nishio_kaoru)さんの『鈴木清写真展  百の階梯、千の来歴』の倉石信乃(批評家・明治大学准教授)×金村修写真家)の対談のまとめをtogetterしたことえをかきましたが、YasさんがBlogでこの対談をまとめていました。
http://blog.livedoor.jp/y_wz/archives/51841809.htmlhttp://blog.livedoor.jp/y_wz/archives/51841809.html
をご覧下さい。

2010-11-23 「光あるうちに」

[今日の写真]新宿
f:id:heliograph:20101123144345j:image
f:id:heliograph:20101123144913j:image
f:id:heliograph:20101123145927j:image

[写真展へ]新宿写真展巡り
午後から,新宿へ。写真展巡り。

みた写真展は以下のとおり。

third district gallery
http://www.3rddg.com/home/2010.11.23/hara_yoshiichi.html

  • 野村佐紀子写真展「野村佐紀子展 3」

photographers' gallery
http://www.pg-web.net/home/current/current.html

  • 大友真志展「Mourai 12――シリベツ川」

KAZUCHI(photographers' galleryの向かい部屋)

  • 村越としや「雪を見ていた」

蒼穹舎gallery
http://www.sokyusha.com/gallery/20101115_murakoshi.html

  • 瀬戸正人 「Varsea バルセア - 消えゆく土地 多摩川2010」

M2 gallery
http://m2.placem.com/schedule/2010/20101114/101114.php

  • 坂本謙一 「それから」

PLACE M
http://www.placem.com/schedule/2010/20101122/101122.html

  • 岡寿克 「QUICKSAND」

PLACE M ミニギャラリー
http://www.placem.com/schedule/2010/20101122/101122.html#mini


 今日が最終日の、瀬戸正人さんの写真展が目標だった。M2 galleryに行くのなら、写真を撮りながら、周囲のgalleryにも寄ってみたのだが、原芳市、野村佐紀子、村越としや の写真展が心に残った。
 特に、村越としや「雪を見ていた」に惹かれた。小さなプリントであったが、その美しいプリントに見入った。雪景色というとマイケル・ケンナを思い出すが。もっと繊細であった。会場に置いてあった。写真集の印刷ではこのプリントの美しは再現されていなかったと思う。
 瀬戸さんの写真は、多摩川の河川敷に建てられた、バラック(ビニールハウス)を撮ったもの、作り方、住み方の違いが面白い。おそらく4x5だと思うのだが、その撮り方等、大変参考になった。

2010-11-22 タンブラーってよく分からない

ソニーNEX-7はパナソニックGH2とよく似たデザインになる?

デジカメinfoにNEX-7の噂が度々でているようです。

  • 2011年2-3月頃発売
  • EVF内蔵(有機EL
  • センサーは1600万画素
  • 動画はAVCHD
  • ボディー内に手振れ補正を内蔵するという噂もありましたが、最新情報では否定されたようです。

GH2にたEVFを中央に配置した伝統的な一眼レフスタイルになるというのはちょっとがっかりですし、これでは普通のカメラになってしまいます。

NEXが気になる理由はαマウント、MDマウント、ライカマウント、Mマウント、OMマウントのレンズを持っているので。NEXに付けて使ってみようと思っているのです。

参考
http://digicame-info.com/2010/11/nex-7gh2.html
http://digicame-info.com/2010/11/nex-7201123.html

内原恭彦さんの新しいタンブラー 【Datos calientes】

n291(福居伸宏)のtwitterで知りました。
内村恭彦さんのhttp://uchiharayasuhiko.tumblr.com/が更新されないと思ったらこちらに移っていたようです。
http://twitter.com/#!/n291より

内原恭彦さんの新しいタンブラー 【Datos calientes】http://khlongtoei.tumblr.com/


ところで、私はタンブラーで作品を発表しようとして、始めですが、途中で更新しなくなってしまいました。今ひとつ、タンブラーってものが理解できなかった。flickrもあまり更新していない。あまりデジカメで写真を撮らなくなったこと、DP1sのRAWで撮り、現像することで、時間が取られ、アップする時間がないのだ。(寝る時間がないのです。)

2010-11-21 どうするのこれから

Scanner購入?

 横須賀から帰り、夕方、秋葉原へ、Scannerを買うのが目的。まず、中古を探すが、4x5のフィルムをスキャンできるものは一台だけで、7年位まえに発売されたものであることがわかり断念。
 それでは新品をと思い店に入り、値段交渉するも結局、今日は買うのはやめました。
 4x5で撮って、Scannerで取り込み、プリンターでプリントアウトすることを考えると。コンピュータ、プリンター、ソフトまで見直さなければならない。4x5で大全紙に伸ばしたときの迫力を知ると、プリンターも大きな物が欲しいし、かなりの出費が予想されるし、
 この方法でまともなプリントを作れるのかが一番の問題だし、銀塩を続けるのとデジタルとの中間を狙うなんて、中途半端なのかなぁとか迷うばかりだ。

気になる風景

 所用があって、家のある逗子から、横須賀の平成町まで、買い物に行く。
いつも気になるのが、帰り16号線を安浦から船越まで走る時に見える。小高い山の上の方まで建つ住宅群の風景。
 いつかこの景色を撮りに行こうと思っているのだが、まだ実行していない。
 前に、電車の中から気になる風景があって、それを撮りに行ったことがあったのだが、なかなか自分の思っていたようには撮れない。人間の眼とカメラの違い、動いているものから見ているのと止まって見ることの違いなのかなかなかむずかしのだ。
 これまで、広角レンズを使うことが多かったので、標準、中望遠のレンズ方が見ている視覚に近いのではと思うのだがどうだろう。
 
 

2010-11-20 deletter

deletter

 世の中には、おかしなものを考える人がいる。Twitterで削除したつぶやきを再投稿する。deletterというbotを作った人がいるらしい。どこが問題かというと、Twitterではつぶやきの誤記などを修正する機能はないので、間違った時は、消すしかないのだが、それを復活させて、再投稿するというのだから、始末が悪い。

deletterの存在はkenjirookazaki(岡崎乾二郎)さんのtwitterで知った。
以下はkenjirookazakiさんのtwitter(http://twitter.com/#!/kenjirookazaki)から。

ツイッターの欠点は書き間違い、誤字、脱字、記憶違いなどの修正ができないこと。投稿してしまうと削除するしかない、いや投稿してしまえばもう遅い。(これは、結構なプレッシャー)、しばらくやっていないと、億劫になってしまう。気楽な発言を禁じるプレッシャー。

ツイッターから遠ざかったのは、実は、@delettterという存在によって。delettterは、人がミスを発見して削除した投稿をあえて拾い上げ、再投稿する。ツイッターでの発言が機械的な自動記(つまりそこに正誤の区分も真偽の判断基準もない)と扱われるのであれば、問題はないだろうが

僕には、人の寝言 や、いい間違いを 、いちいち聞き逃すまい、拾い上げたいと思うような、趣味はない。

@delettter は、ツイッターの可能性を 抹消してしまう、最低、もっとも生産性の低い発想であるとしか、僕には思えません。

こういうものがつくられる発想にたまらなく悲しくなった。


このつぶやきとその反応をTogetterにまとめました。
http://togetter.com/li/71082
です。ご覧ください。

2010-11-19

David Hockney's iPad digi-art

pincponic(Kosuke Fujitaka)さんのtwitterhttp://twitter.com/#!/pincponic)より

御年73歳の画家デイビット・ホックニーがここ数年iPhoneiPadで絵を書いているそうで、それらの作品を集めてiPhoneiPadで見せる展覧会がパリで開かれているそう。http://bit.ly/aqYEja いいねえ、新しいものを恐れずどんどん試していく老人(巨匠)は。


参考:

28ミリレンズの力

Mikio Hasui さんがレンズに関するBlogを3日続けて書いている。

−28ミリレンズの力 http://blog.mhasui.com/?eid=1093339
−35ミリ準広角レンズについて http://blog.mhasui.com/?eid=1093173
−50ミリの魅力  http://blog.mhasui.com/?eid=1093088

『鈴木清写真展  百の階梯、千の来歴』関連のイベント『倉石信乃×金村修』の対談のまとめ

240sesame(nishio_kaoru)さんの2010年11月19日、東京国立近代美術館の『鈴木清写真展  百の階梯、千の来歴』関連のイベントとして行われた倉石信乃(批評家・明治大学准教授)×金村修写真家)の対談のまとめをtogetterしました。
http://togetter.com/li/70751

 残念ながら、まだ、見に行っていません。今日見に行けば、金村さんの話も聞けたのに残念。

2010-11-18 何も教えないがいい先生

何も教えないがいい先生

FUJI XEROXの「GRAFICATION No.171」 の特集は「師弟関係」
その中から、大島洋さんのテクスト「教育者としての大辻清司」を読む。

 1999年、東京造形大学の美術館で開かれた「大辻清司と15人の写真家たち」展の出品作家は
秋山実、潮田登久子、小瀧達郎、児玉房子、牛腸茂雄、齋藤さだむ、島尾伸三、白岩登三靖、鈴木秀ヲ、高梨豊田村彰英、新倉孝雄、畠山直哉三浦和人、山田脩二
である。この15人の個性が異なる写真家のほとんどが大辻清司と深い関わりを出発点として写真をはじめたという。

 教師である写真家の個性そっくりの写真を撮る同じような学生が育てられる写真の教育現場は最悪であると思うが、それにしても、これほどに多士済々の、個性的な写真家たちが輩出されることは、極めて稀なことだろう。大辻さんの著書『写真ノート』(美術出版社刊)にはその秘密の一端が書かれている。

もともと写真というのは自発的な行為であるはずである。よいお手本があって、その通りに撮ればよい写真になるわけではない。写真を撮る理由は撮影者の中の深く根ざした何ものかの衝き動かすところに始まる。手本をまねたところで、それは塗り絵の上手にすぎない。


何も教えないがいい先生
 写真を教育として教えることができるかだろうかと時折考える。しかし結論はいつでも否定的である。写真の技術的なことは確かに教えることができるのだが、写真は写るということが当たりまえになった現在ではそれ以外のこと、大辻さんの言葉に従うと「表現の問題に触れ」るとき、科学的に示すことのできるような方法論はなく、本質的に不可能であると思う。その考えが間違いではないのだなと思うことができたのは石元泰博さんのお話からだった。石元さんにとっての師は、シカゴバウハウスの先生でもあった写真家のハリー・キャラハンだが、石元さんは「キャラハンは、何も教えてくれなかった。自分の写真の話も全然しないし、写真以外の話はするんだけど」と話した。「ほんとうに何も教えてくれなかったけど、それでもほんとうにいい先生だったの」と。まだご健在だった奥さんの滋さんが「やっぱり、人柄ですかね」と言葉を添えた。
 シカゴの写真の授業は写真を見せ、当然ながらキャラハンがそれを見るのだが、何も感想を述べてくれないのだという。十分に時間をかけて写真をみると、「ありがとう」と言ってそれで終りになる。それは在籍した五年間、変わることがなかったということである。それはキャラハンだけではなく、シカゴバウハウスの教育哲学のようなものであって、どんなにお喋りの先生でも、めったなことで作品の良し悪しに言及するこはなかったということだった。良いと言っても悪いと言っても、その評価を学生たちがなぞるようになるというのが大きな理由である。

 中略

私は四十五以上も前、不良学生として石元さんの授業を受けていたが、キャラハン同様ほんとうに何も教えてくれなかった。しかしそこから計り知れないほど大きな影響を受けていたことに後年になって気づき、いまでも強烈な記憶としてある。石元さん、大辻さんに。キャラハンまでに繋がる、教えない教育とでも言える強靭な哲学のようなものを感じる。


 そういえば、大辻清司の写真ノートを持っていたような気がするのだが、探して読みたくなってきた。

2010-11-17 〈奥行〉論

〈奥行〉論:芸術理論の陥穽(落とし穴)

edtion1(版一欠)さんのつぶやき(http://twitter.com/#!/edtion1

[PDF]〈奥行〉論:芸術理論の陥穽(落とし穴) http://bit.ly/96NP8I

このlink(http://bit.ly/96NP8I)の先に
『〈奥行〉論: 芸術理論の陥穽 (落とし穴) 岩城 見一(京都大学大学院文学研究科教授) 』
という論文があった。
 浪人時代、予備校で、石膏デッサンが上手く描けなくて、美術系の大学受験を断念した私にはなかなか面白い論文です。 一部を紹介しておきます。

従来の、《現実空間内の知覚》を基準とするアート理解から一端解放され、表現プロセス、技法を考慮に入れたアート理論へと向かうこと、このことは、私たちにとって避けられない課題になっている、と言えるだろう。この試みによってはじめて開かれるように思うからだ。「形式主義」、「造形主義」自体が、一つの先入観、西洋ルネサンスの「遠近法」を基準にするイデオロギーに染まった「知覚」に支えられていること、このことが反省されねばならない。だから、「形式主義」を「捨てて」別の方法に「移る」ことでは十分ではなく、従来の「形式主義」、「様式論」を「突破」し「組み替える」ことが大切なのだ。


注: この論文は、京都大学大学院文学研究科の21世紀COEプログラム「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」(http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/index.html)の成果報告書の中にあります。
 

宮島達男『「プロのアーティスト=絵で飯を喰う人」という幻想』の続き

2010年11月2日にhttp://d.hatena.ne.jp/heliograph/20101102/1288719418で、紹介した。宮島達男『「プロのアーティスト=絵で飯を喰う人」という幻想』は、その後もつぶやきが続いていいましたが、今日(2010年11月17日)、完結しました。
edtion1(版一欠さんのまとめたtogetterをご覧ください。

http://togetter.com/li/64485

他にも、この発言に関連したつぶやきをsendaitribune(大隅典子)さんがまとめたTogetterもあります。
宮島達男さんのアートに関する連続ツイートまとめ(その7−10) このエントリーを含むはてなブックマーク
http://togetter.com/li/68278

http://togetter.com/li/66008

2010-11-16

「三好耕三写真展」と「百々俊二 大阪」についての追加情報

このあいだ、http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20101108/1289238551で紹介した。三好耕三写真展「SEE SAW」について、インタビューなどがデジカメWatchに掲載されました。
http://dc.watch.impress.co.jp/docs/culture/exib/20101115_406556.htmlをご覧ください。
また、三好耕三さんのホームページがあり,三好さんの写真をたくさん見ることができます。
http://8x10.jp/
も是非見てください。
 
DOMANI・明日展2010」という、文化庁の「在外研修(新進芸術家海外研修制度)」の成果発表の展覧会にも三好さんの写真が展示されるようです。
【期間】2010年12月11日(土)〜2011年1月23日(日)
【休館日】毎週火曜日、年末年始(12月21日〜1月4日)
【場所】国立新美術館
【時間】午前10時〜午後6時まで(金曜日は午後8時まで)入場は閉館30分前まで
【料金】一般 1,000円
詳しくはhttp://www.domani2010.com/



また、http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20101109/1289320185で紹介した「百々俊二の大阪」についても
Nikon Salonとは別に、TOKIO OUT of SPACEで、
『百々俊二写真展 大阪
が開催されます。
【期間】2010年11月26日(金)〜2010年12月25日(土)
【休廊】日・月・火 (11月23日は開廊)
【場所】TOKIO OUT of SPACE
【時間】12時〜19時
また、同時開催として
ZEN FOTO GALLERYで
百々俊二 井上青龍 写真展「新世界 - 尼崎
【期間】2010年11月26日(金)〜2010年12月19日(日)
【開廊】水−日 12:00〜19:00(土日 12:00〜17:00)
【場所】ZEN FOTO GALLERY
も開かれるようです。
詳しくは
http://www.outofplace.jp/TOKIO%20OoP/Shunji%20Dodo.html
で、またZen FOTO Galleryには、まだ展覧会の情報は載せてませんが。(2010年11月16日現在)
ホームペジのアドレスはhttp://www.zen-foto.jp/です。

GoogleでTwitterの検索

 Googleの検索Twitterの検索も行う。
 例えば、普通に、神奈川県立近代美術館鎌倉 で検索すると下のように、Twitter内の検索もしてくれます。ただし、結果の検索語が文字化けを起こしてますが一応使えます。
f:id:heliograph:20101116162234j:image

firefox に Greasemonkey というAdd-onをinstallします。
Greasemonkey とは、Firefoxまとめサイトによれば、

Greasemonkeyは指定ドメインURIに対しJavaScriptによるユーザーサイドスクリプトを追加することの出来る拡張です。ユーザースタイルシートではできない細かな動作指定が出来ます。

http://firefox.geckodev.org/index.php?Greasemonkey より)

そうで、ここでは、スクリプトTwitter Search Results on Google”をGreasemonkeyによみこませることによって、その機能が実現されます。

 詳しくは、Long Tail WorldというBlogを見てください。

http://longtailworld.blogspot.com/2009/03/googletwitterrealtime-twitter-search.html

を見てください。あっという間にinstallできます。

2010-11-15 写真的絵画と絵画的写真

写真的絵画と絵画的写真

FUJI XEROX から送られてきた。「GRAPHICATION No.171」(http://www.fujixerox.co.jp/company/public/graphication/current_number.html))
そのなかのテクスト、「写真的絵画絵画的写真」谷口 雅 から、

 横浜美術館の「ドガ」展を見て、ドガと写真のつながりが二十年以上も前に見直されていることを知った。かって幾度となく美術と写真の相互影響関係が取り上げられ、語られてきた。印象派絵画と写真と類似するところ、カメラ的空間構成に加えて一瞬を切り取る写真的時間。その顕著な例としてドガの踊り子とスナップショット(早撮り写真)の類似が語られた。その根拠として、ドガがマイブリッジの動体連続写真を元にしたデッサンを残していること。そういったことがつなぎ合わされて説得力のある説が流通していたし、それは写真を学ぶ我々をワクワクさせる物語であった。
 横浜でドガの展覧を見た翌日、学生にドガと写真のつながりを話をした。話していて、確認しておきたいことがあったので、急いでカタログ入手した。確かに確認するまでもなく、カタログの中に「ドガと写真」というテキストがあり、旧説の否定が丁寧に述べられていた。ドガの制作年代と写真機材の発達を並べ、踊り子が制作された頃にはまだスナップ的な撮影を可能とするカメラ・写真感光材が出現していなかったという事実が指摘され、この愉しい物語はあり得ない空想であったと結論づけられていた。不勉強としかいいようがないのだが、その無邪気な空想を信じて三十年以上を過ごしていたことに呆れ、同時に科学的・実証的であるはずの写真史なるものへの脱力感も同時に覚えてしまう出来事だった。

中略

 ドガと写真、写真的絵画という言い方をすれば、室内を描いたタブローに写真を想わせる作品が残されていて、ポー(フランスピレネー地方)の街の美術館で見た作品と横浜で再会できた。タイトルが「綿花取引所の人々」であることを知った。広角気味のレンズで強調された遠近法的空間を思わせる構図は、その空間構成だけでなく、偶然的な事物の配置、描かれている人たちの統御を欠いた配置は写真というメディアが切り取る一瞬の現実そのもと感じた。精細で感情を切り離した観察者的な視線、ガラス越しの光の透明感、光への感覚はどうしても写真を思ってしまう。写真家以上に印象派の画家たちが写真的視覚に興味を持ち、人の視覚と機械の視覚と異なり、機械の視覚がもとらしてくれるあたらしい世界イメージを作品に取り込んでいった。こうした物語もまた、素朴で身勝手な空想として反証されていくのだろうか。
 横浜美術館では「ドガ」展に合わせてだろうか、十九世紀フランス写真の展示も行っていた。写真初期からの流れを忠実に構成しているわけではなく、絵画的写真から写真独自の特性を打ち出していく写真の歴史を俯瞰的に、作家個々の仕事に合わせて展示されていた。
 絵画的写真といった趣ではあっても、実際のところ精細な描写を不得手とした初期の技法によって作り出された不鮮明なイメージであって、意識的に絵画的美を目指したのではない。さまざまな写真技法の利用法として、絵画に似せるという意識的な絵画的写真の登場も少し時代が後になるはずで、さらには不鮮明な描写に絵画的効果を見る写真は、今日のトイカメラブームに至るまで続いている。


 ドガと写真との関係は説得力があるので、私も疑いもなく受け入れていた。
 また、不鮮明な写真に絵画的効果を見る写真としてトイカメラブームを挙げているのは面白い指摘だと思った。そういう意味では、ピンホール写真も絵画的効果を見る写真なのかもしれない。

参考:

 http://myb-jp.com/?p=2762

  • ドガ ― 作られたまなざし 一橋大学大学院言語社会研究科 教授 喜多崎 親

http://jfn.josuikai.net/josuikai/21f/58/kita3/main.html

[twitter]「見る」と「眺める]

tadanoriyokoo (横尾忠則)さんのtwitter(http://twitter.com/#!/tadanoriyokoo)より

草津温泉から帰りのバスの中で老夫婦がしゃべっている。夫の方は目に飛び込んでくる文字を「消防署だ、セブンイレブンだ、速度50キロだ、東華苑だ」とか片端から声に出す。妻の方は「紅葉が素晴しい、渓谷がきれい、浅間山が大きい」と。夫は「見る」ことに励み、妻は「眺める」ことに励む。

見ることには自我が働くが、「眺める」ことには自我が滅却する。http://bit.ly/1Xgurj

「見る」ことより、「眺める」ことの方がスケールが大きい。特に歳を取ると、「見る」ことから、「眺める」ことに変る。http://bit.ly/1Xgurj


 何故、大判で大きく伸ばすのか、その前に立ち、じっと「見る」ことで、色々なものを発見してもらいたいのだ。
でも、立ち止まってもらうには。「眺める」ことによって何か気配のようなものを感じさせなければならないのかもしれない。

2010-11-14 神奈川県立近代美術館<鎌倉館>喫茶室閉鎖

秋谷へ

 午後から、秋谷へ、Linhof Technikardanをリュックにつめて、初出動。
さすがにEbony NewWideよりは重く感じるが、秋谷から子安の里に抜ける山道もどうにか登れた。
せっかく、Linhof Technikardanを持ち出したのだから、Fujinon 180mm F5.6で撮り始めたが、Super Angulon 65mm F8 ,Super Angulon 90mm F8を使ってしまいました。
 今までは、180mm F5.6を使うときはSinar F を持ち出すしかなかったのですから、すっと楽になりました。
 しかし、山の中は蚊がたくさんいるし、スズメバチがリュックに止まって、フィルムホルダーを取り出せなかったり、結構大変でした。結局8枚撮った所で、暗くなり、あわてて山を降りました。

 戻って、現像 XTOL 1:4 40分 静止現像。

神奈川県立近代美術館<鎌倉館>喫茶室閉鎖

 Twitterで、神奈川県立近代美術館<鎌倉館>喫茶室閉鎖との情報を知りました。
これに関するつぶやきをTogetterにまとめましたが。
 http://togetter.com/li/69102
 まとめようとした時には、きっかけになった神奈川県立近代美術館<鎌倉館>喫茶室閉鎖に関するつぶやきは削除されてしまったようです。

美術館のホームページ上では、

鎌倉館の喫茶室は、都合により臨時休業いたしております。

http://www.moma.pref.kanagawa.jp/public/HallNewsDetail.do?no=1289716931905&hl=k より)
となっています。どうなるのでしょう?

 美術館も色々な経営の問題を抱え、大変だと思うができるだけ存続させてもらいたい。
 私にとって、子供と一緒に行って、パンのミミをもらい、テラスから鯉に餌をやったり、安斎重男さんの展覧会の時、喫茶室で直接お話を聞いたりした思い出深い場所です。

 そもそも、この美術館は、八幡宮から借りた土地に建てられており、借地期限が2016年ということで、どうやってこの建物を保存するのかどうかという大問題もあるわけで、耐震問題で閉鎖中の新館がいつまでもそのまま放置されているのも、県は存続させる気はないのかなぁと思うのは考えすぎなのだろうか?


参考:
 小さな箱・大きな声WEB「神奈川県立近代美術館100年の会」
 http://www.kinbi100.net/index.html
 http://www.jia.or.jp/activity/party/hozon_jia/2002/01kamakura.htm

2010-11-13

四谷3丁目から新宿御苑まで

銀座から、四谷三丁目へ移動。

  • 明るい部屋

  渡邊聖子写真展 「化粧」

 中島恵美子写真展 「遥かなる旅 10 -幸福論-」

 Spicilegium Amicitiae(スピシレギウム アミシティアエ : 友情の麦穂の束)
 出品作家 : 川口英克 小原令子 斉藤麻子 下平竜矢 友長勇介 新納翔 湊庸祐 三野新 渡辺英明 

  • PLACE M

長島朋子 「砂色の花」 峰崎野人 「季節の袖」

 コウノジュンイチ写真展「Setting Sun」

を見る。
峰崎野人さんは6x6の綺麗なプリント。長島朋子さんの35からおそらく大全紙に伸ばしたプリントが気になった。
やはり、銀塩、白黒が気になるみたいだ。

細川和良写真展「混在する時間 -大阪中之島-」

来年のカレンダーを買いに、銀座へ。その後、ニコンサロン銀座へ細川和良写真展「混在する時間 -大阪中之島-」写真展に。

写真展内容
http://www.nikon-image.com/activity/salon/exhibition/2010/11_ginza.htm#02より

大阪市の中枢である中之島はかつて、なにわの豪商たちの蔵や船着場がひしめきあい、人間臭く賑わった中洲だった。現代の中之島は、大阪の持つ賑やかな下町のイメージはなく、洗練された都会の印象だ。ここ数年前からは、中之島公園・ダイビル・フェスティバルホール等々、大規模な再開発が進み、水都大阪のシンボルとして生まれ変わろうとしている。
日々変化していく景観。人工物に限らず、森羅万象は常に上書きされていく。
展示するこれらの作品は、2009年7月から2010年6月までの1年間の中之島の、刻の断片を上書き保存したものである。
デジタルの語源は“指”をさすが、作者は、アナログの極みの“指”から想像できないデジタル数値化されたピクセルの集合体を手作業で紡ぎ合わせて、終わりのない断片上書きを続けている。カラー25点。

 長方形のに区切られた、異なる時間に撮られた写真が貼り付けてある。
 
 伊藤義彦さんの定点観察で撮影した、写真をプリントし、それを裂き、貼り合わせた作品を思い出した。
伊藤さんの場合は、一年というスパンではないので、連続した時間が見えてくるのだが、細川さんの作品は、色調の違う、長方形の写真を何枚か張り付けて作ったきれいなデザインのように見えてしまった。

私に類似しているユーザーは誰でしょう?

 twitterアイコンを変えようとして、失敗しばらく放置していますが、アイコンを変えるため、プロフィールのページをを開いたら、私の類似したユーザーがonakakoji(尾仲浩二)さんと、marebitoedition(小林美香)さんでした。感激!
 勝手に、おすすめユーザーを表示したりするのを見て、「おれのこと分かってるのとかよ」と思っていたけど、どういうふうに決めているんだろう。フォローしているユーザーの重なり具合とかを見て評価するんでしょうか?

2010-11-12 The Art of Gaman

Art of Gaman の反響

昨日、放送されたNHKクローズアップ現代「GAMANの芸術 〜日系アメリカ人 尊厳の世界〜」について横尾忠則さんがTwitterでつぶやいていた。

tadanoriyokoo(横尾忠則)さんのtwitter(http://twitter.com/#!/tadanoriyokoo)より

日米開戦と同時に日系人が砂漠の中の捕虜収容所に収監されたが、その過酷な環境の中で物凄い芸術作品(彫刻・家具・アクセサリー・人形など)を制作していたのが最近アメリカで発表され、アメリカ人を驚嘆させた。http://bit.ly/1Xgurj

自分がアーティストであることを恥じるほどの芸術作品だ。どうして一般人がこれほど高度な技術を持ち得たのだろうか。材料はほとんど砂漠の自然物だ。人間の腕を通して神が作らせたとしか思えないほど美しい作品群である。http://bit.ly/1Xgurj

創造は芸術家のみに与えられた才能ではないことが、彼等の作品を通して理解できる。人間が生きる希望を抱いた時、創造力は天から降りてくるのだ。http://bit.ly/1Xgurj

現代の芸術に神の技を感じる作品がどれだけあろうか。観念と思想だけで作られる作品の限界を彼等の作品を通してぼくは見た。この作品群を見た人間で魂の存在を否定する者がいるだろうか。http://bit.ly/1Xgurj



番組に出演した、山田太一さんのコメント
http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=2963より

●「GAMAN」という言葉の重みについて

>>普通、我慢と日本人が言うと、耐え忍ぶという意味が強いと思うんですけれども、我慢の末の結晶が、こうやって並べられていること、それと、それを並べた人たちが、収容所を作ったアメリカ人だったということにちょっと感動いたしますですね。


●2世、3世の方々はGAMANを前向きな意味でとらえているが

>>そうですね。先が見えない、いつまで続くかわからない収容所の中で、たまりにたまっていたものがアートにだんだん結晶していったと思うんですよね。その我慢のとらえ方も、僕にはとっても新鮮で、すばらしい発想だと思いました。


●決して収容所のことを悪く言わず、作品も子供たちに見せずにいた点は?

>>それがすごいと思いますね。収容所の中の我慢もすごいけれども、そのあと、作品を2世の方、3世の方に見せないで我慢してらした。そしてアメリカの社会に溶け込むように、反感を持たないように、持たれないようにという配慮をなさっていた。日本から移民して来られたときから、僕はたくさんの我慢をしてきた人たちだと思うんですね、特に1世の方は。ですから、我慢の達人の作品を見せられたような思いがいたしました。


●収容所であれだけの作品を作り出してしまう技量のすばらしさにも感動する

>>そうですね。今の日本人がもし収容所に入れられて、あれだけの作品を作れるだろうかって思う。かなり貧しい方たちが移民なさっていて、日本から持ち込んだものは本当に少なかったと思うんですけれども、内部にあれだけたくさんの作品を作りうるものを持っていらしたことに、本当に敬意を感ずるし、ああ日本人ってすごいなという誇りも感じますね。


●不法移民の排斥などの動きに対する時代を超えた普遍的なメッセージを感じるが

>>感じますね。収容所に入れられた囚人同様の人たちの中にこれだけ豊かなものがあったということは、今、私たちも他国の人の内部に気がつかない、これだけ豊かなものがあるかもわからないということは、他者に対する畏怖みたいなものを絶えず持っていないと、私たちは他者に対してすごく鈍感になってしまうんではないかという警告にも感じました。


 横尾さんは日本人は素晴らしいみたいな発言をしていない。
「人間が生きる希望を抱いた時、創造力は天から降りてくるのだ。」というように、人間一般の話にしているのがいい。

2010-11-11 The Art of Gaman

The Art of Gaman(我慢の芸術)

夜、つけっぱなしのテレビがNHKクローズアップ現代」の再放送を映し出していた。
番組のタイトルは「GAMANの芸術 〜日系アメリカ人 尊厳の世界〜」。
内容は

いま、アメリカスミソニアン博物館で開かれている『THE ART OF GAMAN』=”我慢の芸術”。第二次大戦さなかにゴミや木切れなどから作られた日用品が並ぶ異色の展覧会だ。作者は強制収容所で不自由な生活を強いられていた日系アメリカ人たち。不安と苦悩の日々を乗り切るために作られた杖やブローチ、表札、置物などは、収容所という過酷な環境とは思えない精巧なデザインに加え、“生への強烈な意思”が込められている。いったい、収容所の日系アメリカ人たちはどんな思いで作品作りあげたのか。50年の時を経てガレージや倉庫から作品が次々とみつかっている理由とは何なのか。極限の状況下でも、日系アメリカ人たちが決して失うことのなかった、人間の「尊厳」に迫る。

(http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=2963 より)

 移民として、やっと手に入れた財産を全て取り上げられ、強制収容所に入れられた人々が、材料も,道具もない中で、何かを表現しようと工夫し努力したことに感動する。人間というのはどんな極限の状況でも、何かを表現しようとするのだということを確信した。
 去年、すずきじゅんいち監督のドキュメンタリー映画「東洋宮武が覗いた時代」を見た。
同じように強制収容所に入れられた写真家宮武東洋が、最初は隠れて、手作りカメラで収容所内の写真を撮っていたのだが、理解ある収容所長により写真を撮ることを認められ、沢山の写真を残している。また、ドロシア・ラング、アンセル・アダムスも収容所の写真を撮っている。これれの写真をみると逆境の中でも、たくましく生きていく人達がいた。
 
 こうやって書くと、何か、日系人(日本人)はそういう力を持っているみたいなことを主張しているようだが、例えば、もっと過酷な状況のナチスの収容所に入れられたユダヤ人はどうだったんだろう。とか、考えてしまう。
 ナチスは、宣伝(偽装)のためにある程度の芸術活動を認めていたようだ。
 でも、多くの人がそんな中で、色々なものを創りだしていたのではないだろうか?

参考

  • スミソニアン博物館のThe Art of Gaman: Arts and Crafts from the Japanese American Internment Camps, 1942-1946のページ

http://americanart.si.edu/exhibitions/archive/2010/gaman/
http://americanart.si.edu/exhibitions/online/gaman/index.cfm

http://topicsnow.blog72.fc2.com/blog-entry-907.html

  • 風 二つの国の視点から 須藤 達也 第1回 宮武東洋〜収容所を記録した日系1世の写真家

http://kaze.shinshomap.info/series/japanese-american/01.html

  • 映画 「東洋宮武が覗いた時代」

 http://www.toyoscamera.com/

http://togetter.com/li/68015

2010-11-10 三好耕三写真展/Kozo Miyoshi Photographs

 『三好耕三写真展/Kozo Miyoshi Photographs』

VCANTの『三好耕三写真展/Kozo Miyoshi Photographs』へ行く
f:id:heliograph:20101110135430j:image
 白い壁のギャラリーが多いが、この会場は茶色の板を貼った壁で、中に入って暗く感じたが、落ち着いた良い雰囲気の会場だった。
 写真はすべて6x6。
 6x6の写真の構図が安定しすぎて面白みがなくて、撮る気がしないなどと、このBlogで書いたような気がする。
 そこにあった写真は、撮りたいものを中央に置いて、安定した構図の写真が多い(そんな中に、灯台の上から下に向けて撮ったり、大型船を下から見上げたもの等が入っている)、だが、すごい写真だ。
 そんな会場のベンチに腰掛、遠目に写真を見ながら考える。

いままで、幾つかテーマを決め、そのテーマ毎に写真を集めていた、もちろん、何枚か気になるけど、どれにも属さないものもある。そのテーマ毎で考えるというのを止めて、今まで撮った6x6の全ての写真から選び直してみれば…

 この写真展の写真も一部入っている写真集「Origin」(Match AND Company)が置いてあった。
いい写真集だ、買いたいが値段が確か一万以上だった。とりあえず今日は買うのは止めて会場を出た。




 

2010-11-09 ニコンサロンで百々俊二写真展「大阪」が開かれます。

ペンタックスが2011年の2月にミラーレス機を発表する?

デジカメinfoによれば、ペンタックスもASPCのミラーレスを出すようだ。ニコンも出すという噂もあるし。ますます競争が激しくなりそうだ。

デジカメinfoの記事はこちらです。
 http://digicame-info.com/2010/11/20112.html

百々俊二写真展「大阪」


で、取り上げた、百々俊二の「大阪」の写真展が次のとおり東京大阪で開かれる。

百々俊二写真展「大阪」(銀座ニコンサロン)
http://www.nikon-image.com/activity/salon/exhibition/2010/11_ginza.htm#03
2010年11月24日〜12月7日(10時30分〜18時30分 最終日は15時まで 会期中無休)

百々俊二写真展「大阪」(大阪ニコンサロン)
http://www.nikon-image.com/activity/salon/exhibition/2010/12_osaka.htm#04
2010年12月16日〜12月29日(10時30分〜18時30分 最終日は15時まで 会期中無休)

 これは、是非みてみたい写真展、どのくらいの大きさに伸ばして展示されるのだろうか?

2010-11-08 三好耕三

三好耕三の写真展二つ

 場所:VCANT(地図:http://about.n0idea.com/space/map.html
 『三好耕三写真展/Kozo Miyoshi Photographs』
2010年10月31日(日)-11月12日(金) 休業日:11月8日(月)13:00 - 21:00

物心ついたときには、既に三好耕三の写真が我が家には飾られていた。フレームに収められた白黒の世界が、幼かった僕の日常のなかで、確かな位置を占めていた。その写真を眺めるたび、出会ったことのない美しい風景は、いつも新しい物語の出発点だった。そこには押し付けがましいことや、目を背けたくなるようなものはなかった。こんなにも圧倒的で美しい風景が世界に散らばっているのだと思うと、なんだか心強くもあり、心淋しくもあった。

旅の途上、自分自身と自分を包む世界に対しての問いかけを通じて、写真家自身の「潜在意識にある情景」が「平面に置き換え」られたその写真は、美しい景色を前にしたときに息をのむ、ほんの少し長い瞬きのようだ。それは眼の前というよりは、まぶたの裏から染み込んでくるように、軽やかにこちらへまっすぐやって来る。たっぷりと吸い込んだ光を漂わせて、羽ばたいていってしまった時間を密封している。引き延ばされた魔法のように、いつまで経ってもその光が写真から消えることはない。

間断なく続く時間の流れのなかで、しばしな頭のなかにある曖昧な記憶と、眼前に広がる風景だけが世界の全てなんだと錯覚してしまう。けれども、無数の瞬きのなかに自分だけの瞬間を見出すことが、この不確かな世界をしっかりと引き受ける行為なのかもしれない。そんな瞬間を追い求め、いまなお旅を続けるその写真家の、真剣で優しい眼差しを、僕はいつだってその写真の奥に見出すことが出来る。

(text: 永井祐介 NO IDEA/VACANT)

(http://event.n0idea.com/post/1335405798/kozo-miyoshi-photographs より、引用)

場所:PGI (地図:http://www.pgi.ac/content/category/7/27/51/lang,ja/)
三好耕三作品展「SEE SAW
2010年11月4日(木)−12月22日(水) 月 - 金 11:00 - 19:00土 11:00 - 18:00
(日・祝日 展示のない土曜日 休館)

三好耕三は1981年から四半世紀を超えて写真を撮り続けています。近年は大型カメラを使った作品を多数発表しており、日本国内を旅して撮影した「Somewhere, Sometime 津々浦々」(2007年)や、1998年から撮影している桜のシリーズなどが記憶に新しいところです。

6x6判カメラで撮影された「See Saw」は、1978年から撮影が始まり、1983年に国内での二回目の個展として発表されました。
今回は、新たに未発表のイメージを中心に展示致します。

1983年当時30代前半だった作者は、「現実の情景、眠りから覚めた瞬間、夢想として希望を託した情景」が潜在意識としてあり、その気配を感じた時に、あふれるバイブレーションを写真という平面に置きかえることで表現する、と語っています。新たにセレクトされたプリントは、27年の歳月を経てなお、古さを感じさせず、新作のような瑞々しさを持っています。それは、撮りたいもの、見たいものに出会った時、「これは何?なぜ?どうして?」と常に問いかけながら、「目の前にある光景に対峙し、写真に撮ることができるならそれをする」という撮影のスタイルを今も変わらず続けているからでしょう。

今回、当時発表されていなかったネガを改めてプリントし展示するに至ったのは、写真を撮ることで三好耕三が体験している出会いのように「様々な偶然の重なりによって導かれた」ことが一因でした。大きなきっかけは10月末にmatch and company, inc.から発売される写真集「ORIGIN」、そして神宮前のオルタナティブスペースVACANTにて同時開催される「三好耕三写真展」です。
常に新たな作品を制作し続けている作者ですが、こうした偶然と出会いの重なりで、一度発表し完結した「SEE SAW」が、もう一度世の中に出てくるということも写真の面白さの一つであると語っています。


 備忘録 の代わりに、こうやって気になる展覧会をみつけると、Blogにかいておくのだけど、このごろ、行けないことが多くなっている。どちらも、大判ではなく、6x6での作品が展示してあるようだが、是非、行ってみたいと思っている。

2010-11-07 本日の金村修

本日の金村修がみられらくなった

infoseek が無料のホームページサービスを打ち切ると話を聞いて、世の中不景気だからこんなこともあるのかとくらいしか思ってなかったけど、今日、何となく金村さんがこの頃どんな発言をしているのかなと、
http://ok-ws.hp.infoseek.co.jp/
久しぶりにアクセスして、

iswebライト」は2010年10月31日をもってサービス提供を終了いたしました。
長年ご愛顧いただきありがとうございました。

という表示を見て、事の重大さを知った。
InfoSeekの終了の説明は次の通りである。
http://plaza.rakuten.co.jp/usersupport/diary/201008250000/より

■ なぜホームページサービスを終了するのか

インフォシーク iswebライト」のサービス開始当初におきましては、ホームページスペース提供サービスがインターネットにおける情報発信ツールとして大きな役割を担ってまいりました。

しかしながら、インターネットの発展に伴い情報発信ツールも多様な進化を遂げており、無料のホームページスペース提供サービスとして運営してきた「インフォシーク iswebライト」は当初の役割を終えたものと判断いたしました。長年に渡ります皆さまのご愛顧に深く感謝しております。

皆さまにはホームページ移行等で、お手数をおかけいたしますが、前述状況を踏まえたサービス終了でありますことを、何とぞご理解いただき、ご了承くださいますようお願い申し上げます。

ご利用いただき誠にありがとうございました。

結局は、ホームページより、ブログやトゥイーターにインターネットのユーザーの関心が移行してしまったので、広告収入が減った結果だろうが、ホームページにも色々あるだろうが、表現や情報を蓄積してきたものを消してしまうのはどうかと思うのだが(有料ページに移ればいいというのだろうが)、事実、時々みていた、金村修のワークショップの記録が消えてしまったのは非常に残念なことだ。

 

2010-11-06 横須賀美術館

横須賀美術館へ

 今日,明日は横須賀美術館が「半額」で入場できるということで,横須賀美術館へ「ラファエル前派からウィリアム・モリスへ」展を見に行く.
http://www.yokosuka-moa.jp/exhibit/kikaku/882.htmlより

ラファエル前派は、1848年、ヴィクトリア朝イギリスで結成された芸術家のグループです。画壇の刷新をめざして集まった画家志望の若者たちは、自然を見つめ、伝説や神話に取材しながら、詩情に富んだ作品を生み出してゆきます。本展では、ロセッティ、バーン=ジョーンズなどラファエル前派を代表する画家の絵画約80点を紹介します。また、ラファエル前派の理想に共鳴して活動したウィリアム・モリスのデザイン作品なども合わせて展示します。出品作品数は約25作家100余点に及び、その大半が、イギリスオーストラリアの美術館所蔵の作品です。絵画からインテリアまで、当時の社会を幅広く、そして華やかに彩った19世紀末イギリス芸術の成果をぜひともご覧ください。

 あまり興味を持てる絵がなく会場をさっと通り過ぎてしまった.時々,立ち止まったのが,油絵ではなく,水彩画
 一時は,写真より水彩画を描くことに熱中していたのだが,ここ,何年も描いてはいない.どうも,水彩画の画面の方が油絵より明るく見える(光を感じる).そこに昔から惹かれているのかもしれない.

 横須賀美術館には谷内六郎館が併設されている.ここでは,週刊新潮の表紙絵が展示してある.最初に来たときは,「谷内六郎の絵など見ても」何て思っていたけど,ここにくると一枚一枚ゆっくりと見てしまう.週刊新潮に表紙と共に400字ほどの「表紙の言葉」を作者は掲載していた.絵の横に展その「表紙の言葉」が展示してあるのだ.この文章は,作者の心温まる子供の頃の思い出や,現在の世の中に対するするどい論評などがあり,読むのがとても楽しいのだ.
 「絵」と「文章」二つが合わさって一つの作品になっている「絵本」みたいなものなのかもしれない.
参考  
この文章がどんな感じか知りたい方は,
 http://www.geocities.jp/kamosuzu/taniutirokurou.html#soukangou
を見てください.

 

2010-11-05 写真というメディア

ANZAI Rodin La Porte de l'Enter

 11月1日、明大で「骨からの戦世」を見た後、神保町で源喜堂書店で、買ったのが、1989年国立西洋美術館で開かれた『ロダン地獄の門」展』のために安齊重男が撮った写真による写真展「ANZAI Rodin La Porte de l'Enter」(galarie tokoro)のカタログ。

 地獄の門を色々なアングル、切り取り方で撮った写真も素晴らしいのだが、撮った写真を、ちぎって、バラバラにしたのを、少し、話して貼りつけたり、写真の中央部分(長方形)を普通の調子で焼き、周囲を薄く焼くといった写真が新鮮であった。

 このカタログには、評論家の東野芳明が「アンザイと写真」という文章を載せている。その中から写真について書いた部分を引用する。

本来、写真というメディアは、一瞬を断ちきり、対象との距離をあらわにし、対象を凍結してしまう宿命と特権(?)をもっている。(写真とは、結局は、通りすがりの眼でしかない、と語ったのは高梨豊だったか。)それにたいし、ぼくらが肉眼で生き、眺めているときには、眼だけでみているのではなく、身体性をもって見ているのであり、しかも視野は180度近く広がって周縁はぼけており、さらには、だらだらと流れる時間の中で見るという行為がつむぎだされてゆく。その曖昧な視覚を、カメラは一瞬という断面において停止させ、四角い視野の枠で断ちきってしまう。一枚の写真を見るぼくらは、そのメディアの背後に、身体性と曖昧さと時間に染め上げられて見るという、自らの肉眼体験を反射しがちだが、いうまでもなく、写真は写真という自立したメディア表現として、ぼくらの前にある。逆にいえば、肉眼が一瞬停止して物を見ることができない、その不可能な視覚を、写真は、いわばあばき出し、さらに創りあげているといってもいい。したがって、写真というぺらぺらな一枚の紙の背後に、自らの曖昧な生の肉眼や現実の対象を反芻するのは、こちらの勝手な妄想にすぎないのである。

人のものはぼくのもの。ぼくのものもぼくのもの。

tadanoriyokoo(横尾忠則)さんのtwitterより

自分の絵のスタイル(主題/様式)を作る必要はない。作ろうとするからできないのである。その気持から離れた時からスタイルが出来る。そーして絵を描いてきた。だからどんなスタイルでも自分のスタイルだ。 via web

人をびっくりさせる前に自分がびっくりするような絵を描くこと。人のことは関係ないのです。http://bit.ly/1Xgurj via web

人のものはぼくのもの。ぼくのものもぼくのもの。これってぼくの思想。依他起性(えたきしょう)って、つながりを見る見方です。縁起のこと。http://bit.ly/1Xgurj via web

全てのものはバラバラに分離していると見る見方は拘りから来ているので、これって終末悪そう。http://bit.ly/1Xgurj via web


自分自身の写真のスタイルを作ろうと、意識しすぎていたのかもしれない。
「人のことは関係ない」って思うのはなかなかなれない境地です。

2010-11-04 エスカレーターから考える

ニコンのミラーレス機は2011年1月に開催されるCESで発表?

デジカメinfoの記事http://digicame-info.com/2010/11/20111ces.htmlによると、

 ニコンのミラーレスが2011年1月にアメリカラスベガスで開かれるInterinternational Consumer Electronics Show (CES)で発表されるとの噂があるそうです。(信憑性は40%)
 また、このミラーレスは1インチセンサーという噂もあるので、Micro Four ThirdsのPanasonicやOlympus、APSCのSonyのNEXより格下のカメラなのか、あっというような機能が付加されるのか、まだ良くわかりません。

エスカレーターから考える

kazesaeki 佐伯剛 さんのTwitterhttp://twitter.com/#!/kazesaeki)より

エスカレーターがあると、階段ではなくそちらを選んでしまう。階段しかなければ階段を登り、足腰は少しずつ鍛えられ健やかさが保たれるが、エスカレーターを当然の権利のように使っているうちに足腰は弱まり、階段しかない場所だと暗澹たる気持ちになる。現代社会は、そのように人を蝕んでいく。

エスカレーターは一つの象徴で、現代社会は人の負荷を減らすことが良いことだと錯覚させながら、人を蝕んでいく構造が至るところにある。負荷(ストレス)が問題というより、それに耐える力を蝕んでいる構造の方がもっと問題。心身とともに生きるかぎり、負荷のかからない環境など存在しないのだから。

生きることは負荷(ストレス)があって当然というコンセンサスがある環境では、そこにいるだけで少しずつ自分は強くなっていく。しかし、その逆の環境で、自分の意思で自分に負荷をかけることなく成り行きにまかせてしまうと、心身が弱まり、環境変化で負荷が強まった途端、耐えられなくなってしまう。

人間、無我夢中になり苦労を苦労とも思わない時があるが、楽に馴れると、少しでも苦労を感じた瞬間、不平不満、怨みつらみの塊になる。そのように環境や他者を呪うことは、自らを修正する回路を奪い、自らを蝕み、結果として自らを呪うことになる。だから、時々、自分を戒めることが必要、今の時代は。


 私も、エスカレーターがあると、すぐそれを選んでしまう。
 佐伯さんのいう、人を蝕んでいく構造って、他に何があるんだろうか? 結構インターネットだったりして、教育も。できるだけ学ぶものに負荷をかけさせないようにするように社会が圧力かけているような気がする。

2010-11-03 古賀春江の全貌

再び、「古賀春江の全貌展」へ

 11月3日は、神奈川県立近代美術館葉山館は入場は無料。今開催されている「古賀春江の全貌展」は前半、後半で一部入れ替えがあるということで、もう一度、見にに行くことにした。

 古賀春江って人は、セザンヌキュビズムアンリ・ルソー、クレーと次々に画風を換えて行き、到達点というのが、「シュルレアリズム絵画」であるが、http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20101019/1287507195でも紹介したとおり岡崎乾二郎に言わせれば、シュルレアリズム誤読の例と言われるものだった。 (決して、これらの絵が良くないと言っているわけではない)考えてみれば、誤読のおかげで、独自の画風を持つことができたのではないだろう。

 そして、今日気が付いたのだが、そんな中で、売るためなのか、普通の絵というか、花瓶に挿した花、裸婦、孔雀の絵等ももあるのが何とも不思議だ。
 前にどこかで、読んだと思うのだが、古賀春江の死因は「梅毒」だと思っていたのだが、会場にある年譜、カタログにもその記載はない。あえて書かなくともという判断がどこかであったと思う。
 私は、画家の生涯の物語(特に死に様)等によって絵を見ることには批判的だったつもりだが、私はどこかで、古賀春江=「神経梅毒で狂気のうちに死んだ画家」と思いながら絵を見ていたのだ。

このことについては、
兵庫県高等学校教育研究会 美術・工芸部会BLOG
http://bikouken-hyogo.seesaa.net/article/46451496.html
−Art & Bell by Tora
http://cardiac.exblog.jp/14095515/

http://d.hatena.ne.jp/tamagawabone/20100509/1273418963
に記載があります。 

 
 

2010-11-02 「趣味なら、本気で。」

宮島達男『「プロのアーティスト=絵で飯を喰う人」という幻想』

 edtion1さんがtogetterにまとめた。宮島達男『「プロのアーティスト=絵で飯を喰う人」という幻想』
http://togetter.com/li/64485が気になる。
宮島さんの主張は
『「プロのアーティスト=絵で飯を喰う人」という幻想であって、アーテイストは生き方である。自分の生活は別途、自分で支え、自らの想いを納得のゆくまでカタチにし、他者へ伝えようとする生き方。そう思い定めれば、自由になれる。うまいへた。評価されたされない。売れた売れない。人と比べない。楽しいから描いていた頃。そして見てくれた人に喜んでもらえたことが幸せだったあの頃。人の評価でなく、自分が良いと本当に思えるものができたときの喜び。それが本当の自由。』
っていうことなのだと思うのだけど、
『「写真家=写真で飯を喰う人」という幻想であって、写真家は生き方である。自分の生活は別途、自分で支え、自らの想いを納得のゆくまで作品を作り、他者へ伝えようとする生き方。そう思い定めれば、自由になれる。うまいへた。評価されたされない。売れた売れない。人と比べない。楽しいから撮っていた頃。そして見てくれた人に喜んでもらえたことが幸せだったあの頃。人の評価でなく、自分が良いと本当に思えるものができたときの喜び。それが本当の自由。』
と言い換えてみると、なんとなく気分が落ち着いてくる。
 Canon一眼レフの宣伝で「趣味なら、本気で。」というキャッチコピーが使われているが、写真で飯を食っていないから「趣味」といわれるのなら、食えないけど本気で写真家だと思って写真撮っている人もいるんだぞって、言いたくなる。まぁ、「趣味」って言葉をどう定義するかの問題かも知れないけれど。

2010-11-01 「骨の戦世 65年目の沖縄戦」

骨の戦世

 明治大学駿河台キャンパスアカデミーコモン1Fで行われている、「比嘉豊光写真展 骨からの戦世(いくさゆ)−65年目の沖縄戦」を見に行く。
 沖縄で発掘された日本兵の骨、ミイラ化した脳等の写真が並ぶ。
 比嘉豊光は2010年6月23日沖縄県立博物館・美術館で開かれた「骨からの戦世」シンポジウムでこう語っている。

骨は去年9月から3月までの半年間撮った。撮ったというか、撮らされたというか、人に見せることは考えてなかったが、脳みそが出たので、これは何かあるということで見せて回った。僕は映像記録「島クトゥバで語る戦世」で千例近い体験を聞いているので、沖縄戦の体験者が日本兵にあまりいい思いを持っていないのは重々理解している。あまり見せたくない骨たちだ。だが、自分でも不思議だが、日本兵の骨が出たからには、脳が出た意味を考えよう。日本の側でその意味を考えてもらおうと考えた。沖縄の地に65年もいた骨、そこからいろいろと問われる作業が出てくるのではないか。

琉球新報2010年7月2日)
 また「世界」(岩波書店 2010年9月号)の「グラビア 特別企画 91骨の戦世(イクサユ)」の【執筆者からのメッセージ】で

 その瞬間、鳥肌が立ち身体が凍った。おそらくカメラを持つ手も震えていたのだろう。最初に撮影された写真は、ブレ、ピンぼけで写真に写っていなかった。65年前の沖縄戦の現場から収集された遺骨から「脳」が出たのだ。
今年3月21日、那覇市真嘉比の開発地区の、道路工事現場から出た泥まみれの頭蓋骨を、沖縄戦遺骨収集ボランティア団体「ガマフヤー」の具志堅隆松さんと本土の女性の方が洗い清める作業を行っていた。それをビデオで撮影していた時、頭蓋骨の泥の中からポロリと土の塊か、鉄の破片のような物体が出てきた。
ジーと焦点を合わせて確認すると「まさか…」3人とも一瞬に顔を見合わせた。誰からともなく「…脳みそ…」との言葉がもれた。確かにその塊にはヒダ状のしわがはっきり見えた。はっと我に返り撮影中のビデオを置き「脳みそ」をカメラで撮影した。後で確認したところ、興奮状態で撮影された写真はブレ、ピンぼけだった。その日のうちに冷静に時間をかけて撮り直した。

 さらに不思議なことは、昨年の夏頃から今年の3月までに浦添市前田、那覇市真嘉比、西原町などの激戦地から計100体余り、地中に埋まっていた日本兵の遺骨が一挙に出たのである。現在の沖縄の地上のざわめきがその骨たちを呼び起こしたのではなかろうか。
 撮られた被写体や風景は現場に戻すことによってそれが「何か」が見えてくる。今回の被写体である骨たちは写真に撮られることで死者として「生きていた」ことの存在が証明できたが、居場所がないのだ。しかしその骨たちの表情は豊かで美しくさえ見えた。「脳」が出てきたとき「言葉」と「写真」の意味づけが超えられたのだと私は感じた。骨たちの思いを共有してほしいと多くの友人に写真を見せて歩くうち、「終戦記念日8月15日」「骨たちの反乱」とのメッセージがその死者たちから届いたと感じた。その言葉を引き受けるしかないと私は腹をくくり、骨たちの出た現場・沖縄 (慰霊の日) とメッセージの届け先・日本 (東京終戦記念日) に向け行動を起こすことを決めた。8月刊行の本誌もその一つである 。
今回の骨たちの写真は、私たちにさまざまなことを考えさせる。生と死の境界を彷徨 (さまよ) いながら生き延びた戦世の、オジーオバーの「死者への記憶」と、65年間土の中に取り残された悲惨で孤独な骨たちの「死者からの記憶」は生と死という対極に位置しているが、「戦争の記憶」を共有し、捨石にされたあの悲惨な沖縄戦、そして平和ボケした戦後65年日本の「今日」を問うていると思う。

http://www.iwanami.co.jp/sekai/2010/09/gravure91msg.htmlより)
会場では、比嘉豊光の撮った、この脳の出てくる様子を撮ったビデオ「骨からの戦世-脳が出た」が上映されていた。地中から取り出された、頭蓋骨の中には入り込んだ土を取ろうと、頭蓋骨に語りかけながら取り出し、水で洗い流していく中で脳がでてくる様子を淡々と撮ったビデオをに見入ってしまった。
 比嘉豊光からつきつけられたこれらの写真やビデオを見て、軽々しく何も言うことができない。会場にはもう一人写真を見ていた人がいたが、その人が私に「広島よりひどいじゃないか」と話かけてきたが、私は何も答えられなかった。
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