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2010-12-30 大阪

大阪

急用が出来て、日帰りで大阪に行ってきました。用事をすませ、小一時間大阪の街を久しぶりに撮り歩きました。
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2010-12-28 静止画と動画

石川直樹×瀬戸正人トークイベント

 PLACE M で開かれていた石川直樹CORONA」展の会場で12月25日に開かれた「石川直樹×瀬戸正人トークイベント」の様子をhttp://www.ustream.tv/recorded/11630740で見るこができます。ただし、公開は一ヶ月間ということですので、興味のある方は早めに。
 時々、音が小さくなり、聞き取りにくい所もありましたが、ヴォリュームを調整しながら見ればどうにか聞き取れました。107分10秒という長さでしたが、最後まで興味深く見ることができました。
 USTREAMは初体験でした。自分がこれを使うことがあるかは別にして、凄いシステムだと思いました。

最終的にスチルフォトは「超高速シャッターで撮影した1枚」に収斂していくのか?

タカザワケンジ(@kenkenT)さんのつぶやき(http://twitter.com/#!/kekenT)

2010-12-28 14:58:11 kenkenT
こういう写真群を見ていると、最終的にスチルフォトは「超高速シャッターで撮影した1枚」に収斂していくような気もしてくる。動画からの切り取りではここまでシャープな「一瞬」は必要ない。「様々な分野の「決定的瞬間」を収めた写真71枚」(ひろぶろ)http://bit.ly/dReg1e


えっ、『最終的にスチルフォトは「超高速シャッターで撮影した1枚」に収斂していくような気もしてくる。』写真の一つの分野というのなら分かるけど、動画からもシャープな一瞬を撮れる時代になっているのでは、去年、フォトシティさがみはら2009で今森光彦さん、伊奈英次さん、柴田敏雄さんのパネルディスカッションの中で、今森さんがREDという動画カメラでとれば、それから取り出す静止画も十分実用になる話を聞いた。だから、そのパネルディスカッションでは、動画と静止画の違いに今森さんがこだわったのを覚えている。

以後、この「つぶやき」に対する反応をまとめてみました。

以下、http://twitter.com/#!/kekenT http://twitter.com/#!/PlaceM_Fan http://twitter.com/#!/soraigh http://twitter.com/#!/boztsutomu http://twitter.com/#!/matsushiromori

2010-12-28 15:06:10 PlaceM_Fan
すごい!猫たちと34番が特に!(Y.I) RT @kenkent: こういう写真群を見ていると、最終的にスチルフォトは「超高速シャッターで撮影した1枚」に収斂していくような気もしてくる。...「決定的瞬間」を収めた写真71枚」(ひろぶろ)http://bit.ly/dReg1e

2010-12-28 15:43:17 soraigh
@kenkenT 最終的にスチルフォトは「超高速シャッターで撮影した1枚」に収斂していく?>反対。超高速撮影には、未来も、過去も写らないのでは。つまり人間的な時間の堆積がないのでは。昨日のUstでMOTOKOさんがシャッター速度1/4秒の写真って言っていたのは、そういうことかと。

2010-12-28 16:03:41 kenkenT
もちろん、写真表現は多様であるべきですが、写真機で撮れる「瞬間」をつきつめていくと超高速という方向性は技術的に推し進められていくと思います。@soraigh 最終的にスチルフォトは「超高速シャッターで撮影した1枚」に収斂していく?>反対。超高速撮影には、未来も、過去も写らないので

2010-12-28 16:07:15 kenkenT
写真が「見たことがない瞬間」を志向していくのは、写真術の本質的な部分に含まれているような気がする。そういえば、パリフォトでマイブリッジの馬の連続写真を額装して売っていた。ヴィンテージじゃなかったかもだけど。

2010-12-28 16:16:02 soraigh
@kenkenT 「見たことがない瞬間」を志向していくのは、写真術の本質的な部分に含まれている>デジタル動画からの切り取りフレームもこれから必ず出て来ると思いますが、それも写真だということになりますか?

2010-12-28 16:23:02 kenkenT
そのことを考えてました。動画から切り出しきれないものが技術的に志向されると思います。@soraigh 瞬間」を志向していくのは、写真術の本質的な部分に含まれている>デジタル動画からの切り取りフレームもこれから必ず出て来ると思いますが、それも写真だということになりますか?

2010-12-28 16:23:54 kenkenT
(つづき)デジタル動画からの切り取りフレームも写真でいいと思います。

2010-12-28 16:26:03 kenkenT
超高速撮影の動画から切り出しだったらそうとうにスチルライクな写真になるだろうし、画面を見ながら瞬間を選ぶという撮影ライクな作業が必要になる。どっちも「ライク」、ヴァーチャルなもんだから、従来の撮影とは似て非なるものとして、別な可能性が生まれるような気もしてる。

2010-12-28 16:30:34 soraigh
@kenkenT 選択という作業が別の次元で写真的であれば写真であるということもできるでしょうし、でもそれは実際の作品で納得出来る才能を示してくれる人が出てこないと何とも言えないと思います。

2010-12-28 16:32:35 boztsutomu
@kenkenT 動画が先行している今だからこそ、こういう「写真」で捉えることができる瞬間を見るのは面白いですね。18番のロケット砲の写真とかどうやって捉えたのやら?

2010-12-28 16:41:46 kenkenT
CGが混入している可能性もありますけど、そういう疑いを持つことも含めて、リテラシーは重要ですね。@boztsutomu 動画が先行している今だからこそ、こういう「写真」で捉えることができる瞬間を見るのは面白いですね。18番のロケット砲の写真とかどうやって捉えたのやら?

2010-12-28 16:42:52 kenkenT
作品待ちということで。@soraigh 選択という作業が別の次元で写真的であれば写真であるということもできるでしょうし、でもそれは実際の作品で納得出来る才能を示してくれる人が出てこないと何とも言えないと思います。

2010-12-28 17:18:29 matsushiromori
@kenkenT 科学番組やナショジオでも超高速撮影は大人気ですからねぇ〜人間の「観たいという欲求」をストレートにかなえるというのは、本質的力につながるとは思います。ただ、決定的に異なるのは、それは「誰でも手軽に撮影可能」になったということで、さらに写真家不要の世界が広がりますね

2010-12-27 Seeing

Fuji Xerox Art Space「Seeing ―6人の作家による表現―」

 横浜みなとみらいのFuji Xerox Art Spaceに「Seeing ―6人の作家による表現―」展を見に行く。

 1970年以降に登場する“写真を用いた現代美術作品”の展示、前半は榎倉康二、河口龍夫、野村仁、植松奎二の写真が展示してあった。2005年(1月〜3月)に東京都現代美術館で行われた、榎倉康二展を見て、その写真が印象に残っていて、まだ見たことのない作品があればと思ったのだが、2005年にみた作品ばかりだと思う。新しい発見は別になかった。
 
 展覧会のカタログが無料で配布されていた。ただ、直接会場では受け取れなくて、送料着払いで宅急便で送るということだったので、お願いすることにした。

 ビルの外に出て、ビルのガラスに当たる光が反射して、面白い模様を作っていたので、カメラを取り出して撮り始めたら、ガードマンが来て、敷地内撮影禁止ということで、データを消せとのこと。その場でデータを消しました。
 前も、新宿JR東日本本社ビルを撮って、ガードマンに止められたことがあった。
 建物も自由に撮れない世の中になっていくのでしょうか?

2010-12-26

mau_photoのアカウントがなくなりました。

twitter上の写真合体派(@mau_photo)のアカウントがなくなり、もう@mau+photoさんのつぶやきはもう読むことができません。一連の写真分離派についてのやりとり等@mau_photoさん関係のつぶやきを次の5つのまとめに残すことができました。

以前http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20101021/1287684954#cで「通りすがり」さんに

2010/10/24 20:22 このブログ何で他人の文章かっぱらって来といて出所示してないの? ネット舐めてるの?

というコメントをもらいましたが、みなのつぶやきを整理するだけでも、意味があることだと思っているのですが、どうでしょう?

2010-12-25 「写真的写真」vs「写真的であることを目指していない写真」

「写真的写真」vs「写真的であることを目指していない写真」

谷口雅(@taniguchimiyabi)さんのtwitter(http://twitter.com/#!/taniguchimiyab)での

2010-12-25 19:26:09 taniguchimiyabi
写真的写真、写真家を自称する人たちの目指してる写真って、そういうことなのかと。模範解答(出来損ないを含めて)を見せられてるのはほんとにつまらないと、思えてしまう。ハイツの写真たちは、写真的であることを目指していない写真たち。でも、写真だなと思った。

という呟きから,写真教育の話へ展開.
以下は,写真合体派宣言 小林のりお(@mau_photo)さんと『桃園画廊』管理人岡田きさら(@kisara000)のつぶやきです.
http://twitter.com/#!/mau_photo と http://twitter.com/#!/kisara000 より)

2010-12-25 19:37:05 mau_photo
教育の現場では従来の写真的写真を模範解答として何の疑いもなく教えてきたのではないか!? RT @taniguchimiyabi: 写真的写真、写真家を自称する人たちの目指してる写真って、そういうことなのかと。模範解答(出来損ないを含めて)を見せられてるのはほんとにつまらないと・・

2010-12-25 19:47:39 mau_photo
たとえば、団塊世代の写真教育者たちが自らの青春時代の写真になんの反省も抱かずにそのままのかたちで息子世代に受け渡そうとしたのではなかったか。息子世代もそのかたちを素直に受け継ぐことこそが写真的であると勘違いしたのではなかったか。

2010-12-25 19:51:46 mau_photo
写真教育の現場こそ変わらなければならないと思う。地図はないけれど・・・。

2010-12-25 19:56:58 kisara000
写真を教えるのって難しくないですか?ちょっとした技術や裏技は盗まなきゃだけど基本は外に出てシャッター切らなきゃって感じですし。。でも時代流れを無視した写真概念を押し付けるのは違うと私も言いたい!“@mau_photo:

2010-12-25 20:06:20 mau_photo
@kisara000 基本的に写真は教えることができない・・・ってのが持論。教わるものでもなく、獲得だと。僕らはそのための触媒。もしくは一緒に旅する人。20年、30年前の写真をそのまま受け渡すのは罪深いことのように思います。この時代の写真を一緒に探そうよといいたい。

2010-12-25 20:12:00 kisara000
カメラという表現媒体は時代の技術の進歩と一緒に変化されていくものだから写真家は止まってはいられませんね。“@mau_photo: @kisara000


ハイツの写真というのは,2010年12月23日(祝木)〜30日(木)現代ハイツ TEL03−3469ー1659 水曜定休 13時〜22時(世田谷区北沢1−45−36)で開かれている.「マイ フェイバリット写真展」での写真だと思われます.この展覧会は自由参加型写真展ということなので,とても興味があるのですが,行けるかどうか分かりません.

2010-12-24 「映し鏡」

須田悦弘の制作風景

福居伸宏さんの〓bungsplatz〔練習場〕(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20101223#p4)で紹介されていました。
D
あの彫刻がどのようにして作られているのかが分かりとても興味深くみました。

「映し鏡」

2009年文化庁メディア芸術祭、エンターテインメント部門の大賞を受賞した「日々の音色」を作った川村真司さんが、webブラウザ上で展開するインタラクティブミュージックビデオ「映し鏡」を作りました。
 FlashインストールしたSafariChromeで動くようになっているそうで(MACSafariがおすすめだそうです。)、特に、FacebookTwitterWebcamに接続しながらみると、一人一人カスタマイズされた映像を見ることができるようです。

2010-12-23 樹を見上げることは想像力とインスピレーションが要求されるのだ。(

石川直樹「CORONA」展へ

PLACE M で石川直樹CORONA」展を見る。

ハワイニュージーランドイースター島を繋いだ三角圏をポリネシアトライアングルと呼ぶ。人類が最後に辿り着いたこの広大な海域は、ヨーロッパの約三倍もの面積があるにも関わらず、同種の言語をもつ海洋民が往来する共通の文化圏が存在する。ル・クレジオが「見えない大陸」と呼んだポリネシアの海を、ぼくは10年以上にわたって旅してきた。境界によって隔てられた大陸的な視座を捨て、海が繋ぐ多島海としての新しい世界へと離陸するために。

 PLACE M のホームページhttp://www.placem.com/schedule/2010/20101220/101220.html)より
同名の写真集が会場に置いてあった。

CORONA

CORONA



 これをみると、両開きのページに2枚の写真が印刷されているが、この2枚一組で見たほうが面白いと思った作品があった。「波」「星空」等 写真集の方により惹かれた。
 今週の土曜日にトークショーがあるのだけど、予約は締切りのようだ残念。

原美術館「崔在銀 展 ―アショカの森」

原美術館「崔在銀 展 ―アショカの森」を見に行く。
プレスリリースより

崔が本展で展開するのは、“森”。「アショカ王の5本の樹の森」という故事に想を得て、立体、写真、映像作品などで構成する新作のインスタレーションです。アショカ王は、仏教を守護したことで知られる古代インドの皇帝ですが、彼は、国民ひとりひとりが、5本の樹を植え、それを“森”として見守ることを提唱したと言われています。5本の樹とは、薬効のある樹、果実のなる樹、燃料になる樹、家を建てる樹、そして花を咲かせる樹。

ここでの<樹>のイメージは時間を横切る存在であり、永遠に向かって手を差し延べながらも衆生に限りない安らぎを施す深淵から湧き立つような慈悲の存在でもある。
これは古代から今日に至るまで変わらない人間と樹との関係であり、もう一方ではその永遠たる長さにより、かえって世の中のすべてが時間の変化を通して変わっていく姿を見せてくれていることでもある。
ボルヘスは、「人間のあらゆる精神的な体験は時間の体験に還元される」と言っている。<樹>はまさにそのような精神的な媒介者なのである。

―作家によるコンセプトノートより―

森が内包する大いなる生命の流れと、樹と人間との悠久の交感に思いを巡らせながら、崔は館内に “森”を誕生させます。

2,3日前にこの展覧会に気付きました。“森”がテーマというし、写真も展示されているということなので行くことにしたのですが、感動したのはビデオによる作品ばかりでした。

  • Forever and a Day  (video installation)

解説によると一本の樹齢数百年の一本の大樹を5つのスクリーンに投影していた。(映像は白黒)
本当に少しずつ、画面は左から右へと移動していく、樹の周囲を一周しているように感じる。見ていた時は、5つの樹の根元付近を撮っているとばかり思っていたのだが、高さを変えて撮ったのか?
 とにかく、森の中で大樹と向かい合い、視線をゆっくりとずらし、樹を舐めるように見ているような感じがした。

  • Another Moon (video with antique stone laver)

真っ暗な中で、天井から、水を張った「つくばい」にビデオを映し出していた。
映像は、一本の樹の根元から空を見上げたところで、それがゆっくり回転している。静止画ではなくて木の葉が揺れていたので確かに動画であった。
 月明かりの中で、深い森の中に一人で入り、樹の根元から、空をみあげている感じ。

  • Flows (video with antique frame)

古風な額に、液晶ディスプレイをはめ込み、ビデオを上映。映像は一本の樹を映しだしている。太陽の動きによって樹の肌の見え具合が変化する様子を写したのかと思ったが、突如、太い一つの幹が二つに見えたりしているので、そこしずつ移動して撮ったものだと思われる。完全に暗くなった時には、根元から空を見上げていたと思われる。
 自分も森の中に入り、太陽の動きと共に樹の表状が変化するのを追って見たい気がした。

今日の視点「撮る自由」いかに守るか。

 朝日新聞12月23日 朝刊 私の視点 に 
飯沢耕太郎 スナップ写真  「撮る自由」いかに守るか
とい記事が出ていた。以下要約というか、一部抜粋。


 今年の写真家で話題になった「篠山事件」について、公道や宗教的な空間での撮影には十分な配慮は必要

だが、写真家がより意欲的、より創造的な作品を制作しようとすればするほど社会的なルールに抵触しかねない行為にエスカレートしていくことも理解できる。古来アーティストはそうした新たな表現の可能性を切り開いていった。篠山氏に限らず、写真家の「撮る自由」を確保し、守るのも、芸術・文化を活性化していくために大事なことだと思う。


 この事件の余波として、路上や公共の場所でのスナップ写真が撮るのが難しくなっている。新聞や雑誌なども、顔をが写っている写真を避け、後ろ姿や顔が分からない写真を載せている。携帯電話のカメラ等での「盗撮」事件も、スナップ写真に対する警戒感を増幅させている。

 個々の事例をみれば、スナップ写真を撮影されることで不利益を被る人は、そんなにいないのではないか。それよりも、社会全体に漂っている重苦しい不安感や閉塞感が人々を過剰な自己防衛に走らせているような気がする。


スナップ写真は19世紀後半以来、写真表現の最も重要なジャンルの一つとして発展してきた。多くの写真家たちがそれぞれ個性的な解釈で、その時代の路上の光景を切り取ってきたのだ。それらの写真を見ていると、時代の空気があたかもタイムカプセルに封じ込まれていたように生き生きとよみがえるのを感じる。このまま路上スナップの撮影ができなくなれば、21世紀初頭の日本がどんな様子だったのか知る手がかりが失われてしまうことになる。
 難しいことだが、写真家の「撮る自由」と被写体の「撮られたくない権利」をいかに両立させるかということだろう。お互いに寛容とリスペクトの精神をもう少し発揮してもいいのではないか。


飯沢さんの言っていることはもちろん大事だと思いますが、そんな中で、今年見た写真展で印象深かったのが大西みつぐさんの「標準街景」展
http://d.hatena.ne.jp/heliograph/20100914/1284483972
http://www.nikon-image.com/activity/salon/exhibition/2010/09_ginza.htm
スナップによる見事な写真展でした。ようする作者のやる気の問題なのでしょうね。

篠山紀信の事件については

2010-12-22 写真合体派宣言vs写真分離派宣言

「写真合体派宣言」展へ

 中野、桃園画廊へ行ってきました。普通の住宅での展示。もう暗かったので、小林のりおさんの外に展示してあったブルーシートを撮った作品「Japnese Blue」は良く見えませんでしたのが残念でしたが、楽しませてもらいました。
 本当は、明るいうちに中野に着いたのですが、喫茶店に入って、netbookで桃園画廊の位置を確認したあと、ついtwitterを見始めて、togetterで、「写真合体派宣言vs写真分離派宣言 NO.4」の編集作業を始めてしまったので、喫茶店を出るともう外は暗くなってしまったのです。

写真合体派宣言vs写真分離派宣言

ついに、
「写真合体派宣言vs写真分離派宣言 NO.4」http://togetter.com/li/81681もアップしました。
写真合体派宣言vs写真分離派宣言 http://togetter.com/li/79837
写真合体派宣言vs写真分離派宣言 NO.2 http://togetter.com/li/80508
写真合体派宣言vs写真分離派宣言 NO.3 http://togetter.com/li/80916
写真合体派宣言vs写真分離派宣言 NO.4 http://togetter.com/li/81681

2010-12-20 「情民」

比嘉康雄「情民」

 昨日NHK教育20時からの再放送『沖縄 母たちの神 ―写真家比嘉康雄のメッセージ―』でみた、

 比嘉康雄は1938年フィリッピンに生まれ、敗戦後沖縄に引き揚げる。ゴザ高校を卒業後、警察菅になるが、1968年のB52爆撃機の墜落事故をきっかけに、警察官の職を辞し、東京写真専門学校に入学し、写真家を目指す。
 始めは、報道写真家を目指すが、デモ等の写真を撮っていたが、本土の写真家と同じことをやっていて良いのかという、疑問から、沖縄の普通の生活を撮り始める。その仕事は、1971年、写真展「生まれ島沖縄」(同名の写真集が1972年4月刊行)として発表されている。
 1972年5月沖縄の日本復帰後は、日本とは何かということで日本全国を撮り歩いていたようだ。
 宮古島の祭祀(ウヤガン)に出会い。島々の祭祀の記録にのめり込む。「母たちの神」といのは比嘉康雄が写真集にするためにファイルされていた162枚の写真による展覧会である。 

 空のトーンを黒く落とし、神女の装束や、道等が白く浮き上がってくる写真は魅力的だし、祭祀の記録としても貴重な写真ではあるが、番組の中で、沖縄美術館の学芸員が紹介していた。日常の沖縄の人々を撮った「情民」というシリーズの写真が気になった。この写真を見てみたいものだと思ったのだが、調べてみるとすでに出版されていた。

もちろん、

母たちの神―比嘉康雄写真集

母たちの神―比嘉康雄写真集

も出版されている。また、買いたい写真集が増えてしまった。

参考

http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2010/1212/index.html

http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/52229409.html

  • YOMIURU{ ONLINE 本よみうり堂 短評

http://www.yomiuri.co.jp/book/briefcomment/20101213-OYT8T00229.htm

  • 西谷修−Global Studies Laboratory

http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/p/gsl/2010/12/post_50.html

http://www.miraisha.co.jp/topics/2010/12/post-38.html
http://www.miraisha.co.jp/topics/2010/12/nhk.html

また、沖縄に続きIZU PHOTO MUSEUMで比嘉康雄の展覧会が開催されるようだ。

展覧会名:母たちの神―比嘉康雄
会  期:2011年1月23日(日)―2011年5月8日(日)
休 館 日:毎週水曜日(祝日の場合は翌日)
詳しくは、http://www.izuphoto-museum.jp/news/pdf/36716746.pdf

2010-12-19 「写真分離派宣言」展へ

写真分離派宣言展へ

「写真分離派宣言」展へ行く。
地下への螺旋階段を降りると。

の作品が並ぶ
「写真分離派宣言」 鷹野隆大の文章に、いろいろな人が添削を加え、私には結局は何も主張していないように思われるのだが、これが額装されている。
写真は一枚も売れてないのだが、この「写真分離派宣言」だけが売れている。
 上のNadiffの売り場には、分離派の人たちの、写真集、評論が並び、推薦図書として、森山大道中平卓馬荒木経惟らの写真集、スティーブン・ショアー「写真の本質」等が並んでいた。
 ここを出て、私の書いたtwitterへの呟き。
http://twitter.com/#!/heliograph1950より

NADIFF写真分離派宣言展みる。展覧会を見ても、頭の悪い私には「写真分離派派宣言」って何かわかからん。

結局五人で校正して出来た「写真分離派宣言」って、会場に置いてあった額に入ったものをみるか、最終的にどうなったかは、お金(3150円)を出さないと読めないんですかね?校正の入ったのは525円のタブロイド版で買えるけど(読みにくい)。これって勘違い?どこかで読めるの?

これをつぶやく前にtwitterでは次のような@kenkenT(タカザワケンジ)さんと@tsakajp(坂口トモユキ)さんのやり取りがあったようです。
http://twitter.com/#!/kenkenThttp://twitter.com/#!/tsakajpより

kenkenT タカザワケンジ
写真分離派宣言、16日に見に行った時点で、展示作品のうち、「宣言文」だけが売れていた。

kenkenT タカザワケンジ
写真分離派宣言で「宣言文」だけが売れていた件。そもそもそういうもの売るなよって思ったけど、もしかすると、写真展で写真と何かを並べたら何かのほうが売れるかも知れない。

tsakajp 坂口トモユキ
関係ないですが、最近リンカーンの奴隷解放宣言がオークションで3億円の値がついたというニュースがあったなあ、と。 RT @kenkenT 写真分離派宣言、16日に見に行った時点で、展示作品のうち、「宣言文」だけが売れていた。

tsakajp 坂口トモユキ
宣言文書いて、それをコマーシャルギャラリーで展示して、それがコレクターに売れて初めてアート作品として成立、と。え?作品なんだっけ?

kenkenT タカザワケンジ
歴史的価値ならわかりますよね。その先取りは変。@tsakajp 関係ないですが、最近リンカーンの奴隷解放宣言がオークションで3億円の値がついたというニュースがあったなあ、と。 RT @kenkenT 写真分離派宣言、16日に見に行った時点で、展示作品のうち、「宣言文」だけが

kenkenT タカザワケンジ
でも、写真分離派宣言そのものに意義はあると思います。面白い。同床異夢っぽいところも好きです。

@moscow_91(Y/S)さんも額装された「写真分離派宣言」についてtwitterの書き込みがありました。
http://twitter.com/#!/moscow_91より

どうにも隔靴掻痒なので行って来ました。Nadifでの「写真分離派宣言」展。会場の芳名帳に外国の方と思しきどなたかがこう書き添えていた。「面白いメールアートですね」・・・・・・正に当を得ている。(〜△〜)

螺旋階段を下りると先ず鷹野隆大氏の男性ヌード、次に鈴木理策氏の花畑のコンタクトプリント、最奥の壁面に「写真分離派宣言」の元原稿(草稿)向かって左壁面が松江泰治氏のカラープリント。各氏の「らしさ」を出したプリント。

額装された「写真分離派宣言」。鷹野隆大氏起草の文章がA3の紙にプリントされ、参加者が夫々書き込みをしている。松江氏は紺、清水氏はピンク、鈴木氏は青、鷹野氏は黒、倉石氏は赤字でプリントした文字を張り付けてある。会場で販売されている PUNCTUM NEWS特別号の表紙のイメージ。

PUNCTUM NEWSの表紙 http://bit.ly/emLwyh

起草文、それに対する参加者の書き込み、意見の違い、倉石氏などは殆ど茶ちゃになっている。それらを全て反映すると、ある意志の存在は伝わるが、結局は具体的にナニを言いたいのか不明なものになるだろう。(=谷=)

展示された「宣言」の原稿は赤丸が付いていた。作家のプリントは未だ売れてはいなかった。そしてそれらの書き込みを反映し、改稿した文を上質の紙(コットンペーパーか?)に黒一色で30部限定で印刷し各人のサインを入れたものが販売されていた。

これまでWebの展示のお知らせに掲載されていた鷹野氏によるステーツメントを元にア〜でもないコ〜でもないしてたのだが、あれは「宣言」ではなくて、会場で展示販売された原稿と限定30部のブツでもあるペーパーが「宣言」であったと言う訳だ。

会場で思わず吹きだしました。やられた。そう言う仕掛けでしたかと。元原稿、赤丸なければ買ってたかも。(値段次第だけど)

「写真分離派宣言」と銘打ちながら、当代きっての評論家が二名も参加しながら肝心の宣言らしきものが鷹野氏の文章だけで内容が発表されない事を不審に思っていましたが、販売するブツとしての作品であるならば、それも納得です。

テクストの中身は重要ではないのです。テクストが「派」の「宣言」と言う形式を満たしていなくても良いのです。これらは全てパフォーマンスの一部なのですから。そう言う訳で「写真分離派宣言」限定30部の一部、買って帰宅いたしました。(^^)/

とは言うものの、まぁ私なんかも面白く期待した訳でして、波風さえも立たない「業界」がどう言う反応を示すのか示さないのかむしろそこら辺こそ面白いのかも知れません。 連続投稿お目汚し失礼いたしましたm(_ _)m

今のところ読めないみたいですね。30部の方ではタブロイド版末尾の松江氏のフィルム云々の書き込みは削除でした。 後は倉石氏の倦怠する云々は「現実を抽象化云々の末尾カギ括弧内に。@heliograph1950 これって勘違い?どこかで読めるの?

しかし、焦燥感や危機感は感じられるのだけれどタブロイド版の倉石、清水両氏のテクスト読んでも既に勝負を投げてる感じが濃厚で・・・・このイベントだけで終わったら結果的に(その意図はなくとも)ポジショントークになってしまって逆効果ですよね。


私は、@moscow_91(Y/S)さんのように、笑うと余裕も「写真分離派宣言」限定30部を買う余裕もなく、騙されちゃったなって感じで、あのようなつぶやきを書きこんで、今日最終日だった。渋谷まで歩き、Zen Fotoで『百々俊二 井上青龍 写真展「釜ヶ崎 - 新世界:高度成長時代下の生き方」』を見て家に帰りました。

2010-12-18 写真合体派宣言vs写真分離派宣言

写真合体派宣言vs写真分離派宣言 続き

色々な人が、「写真合体派宣言vs写真分離派宣言」を見てくれているようです。その後の「写真合体派」,「写真分離派宣言」関係の呟きをトゥギャリました。
「写真合体派宣言vs写真分離派宣言」NO.2 http://togetter.com/li/80508をご覧下さい。

2010-12-17 芸術の自由

明快なのに難解

岡崎乾二郎(@kenjirookazaki)さんのtwitter(http://twitter.com/#!/kenjirookazaki)より

権力をもつ鑑賞者にとって、もっとも恐ろしいメッセージ=作品は理路整然としている(当の権力者にもそれは了解できる)にも関わらず、その鑑賞者としての権力者には、その意味を一義的に定位できない作品。つまり権力者自身の見解(欲望、感性、悟性そして理性)が揺れ動いてしまうような作品。

簡単に言って、そのとき大概の権力者は「恥ずかしく」「いたたまれなく」思う。何しろ相手は単純明快にみえる(そうであるはずの)マンガであったり、ただの色面だけの絵だったりするから。わかるはずなのに、わからない(一義的に言葉で応答できない)のが見識をもつ権力者として恥!と感じたりする。

こういうむずかしさ、つまり明快すぎて難解とは、ゆえに芸術ゆえの有効な構造、そして効果である。恥ずかしいという気持ちは、単純に自分自身に起こる反応がうまく統合できないことへの困惑である。一言でいって芸術鑑賞にもマンガ鑑賞にも慣れていないからこういう事が起こる(経験も教育も必要)。

芸術がわからない、というのははずかしくないが、マンガがわからない、というのは相当はずかしい、とお役人も思っている。(かつて美術館が購入した、リキテンシュタインの高額作品について、こんなマンガなのにどうして高いのだ!という議会で問題になったのを思いだそう)。

明快なのに難解であることは、すぐれた暗号 の最大の特色なので、権力者や時にジャーナリズムなども、何か裏があると、陰謀があるとか、猜疑心にかられるもの。自分だけがわからない、何かがあるのではないかとか。なにしろ自分の中にもときめいたり、うずいたりする怪しい気持ちが生じているからね。

芸術の自由というのは、そういう意味で、明快(確定的)かつ難解(不確定)であるという、いわば暗号の自由である。理路整然、明快(確定的)でない自由は、単なる信仰、思い込みである。というのがぼくの見解です。

2010-12-16 写真分離派宣言をめぐって

富士フイルム「リバーサルフィルム・黒白フィルム 一部製品販売終了」

富士フイルムは35mm判の「アスティア100F」と「ネオパン1600 Super PRESTO」を販売終了する。
詳しくは、
http://fujifilm.jp/information/articlead_0066.htmlをご覧下さい。

写真分離派宣言vs写真合体派宣言

昨日より、もっと時間を遡って、写真合体派宣言(@mau_photo)さんのtwitterを中心にトゥギャリました。

写真分離派宣言vs写真合体派宣言http://togetter.com/li/79837

をご覧下さい。

2010-12-15 写真分離派宣言vs写真合体派宣言

写真分離派宣言vs写真合体派宣言

「写真分離派宣言」に対して、「写真合体派宣言」と題する展覧会が開催されるようだ。

mau_photo(写真合体派宣言)さんのtwitterhttp://twitter.com/#!/mau_photo)より

デジタル写真基礎展「写真合体派宣言」12月21日(火)〜26日(日) 会場 Count Down Gallery 桃園画廊http://kisara.art.coocan.jp/ 26日(日) 17時〜19時 クロージングパーティー 飲み物、食べ物、盛り沢山。


mau_photoは共有(武蔵野美術大学映像学科写真表現コースの人たち?)のアカウントのようだけど、もっぱら、小林のりおさんがつぶやいているようだ。途中、谷口雅さんのつぶやきもリツィートされていますが、写真分離派宣言に関するつぶやきをまとめてみました。これをやるならtogetterの方がよかったですね。以下はhttp://twitter.com/#!/mau_photoより引用しました。

写真分離派宣言の「・・参加する3名の写真家はプリントを最終形態として活動を続けており・・」のプリントを最終形態の箇所にそもそも疑問符。写真とは、プリント、印刷、モニター、プロジェクター・・・といった多様性の中に存在するもの。誰の、何のための要請で最終形態をプリントとするのか!?

誰の、何のための要請で最終形態をプリントとするのか!? ・・・たぶん、美術市場ということも絡んでくるんだろうね。作家の立ち位置の問題。

写真家大山高さんの葬儀より帰宅。祭壇の前には大型モニターが置かれ、これまでの写真作品が映し出されていました。棺には恩師、重森弘淹先生の著書「写真芸術論」が一緒に収められていました。先月、桃園画廊でお話したのが最後になりました。ご冥福をお祈りいたします。

葬儀会場では鈴木理策さんとお会いして、写真分離派宣言、合体派宣言について和やかに会談。

同業者ですし、仲悪いわけじゃないですからね。 RT @0gt: 和やかに話したんですか笑

今日、鈴木理策さんが写真分離派宣言について「負け戦だから・・・」と笑いながらつぶやいていた。謙遜しなくてもと思ったが、何に対しての負け戦なのか少しばかり気になっている。

現状に対する苛立ちがあるにせよ、それが何に対しての苛立ちなのか? プリントが最終形態でなくなる恐れへの苛立ちなのか? オリジナルプリントが思うように売れないことへの苛立ちなのか? 感材がなくなることへの苛立ちなのか? 写真のデジタル化への苛立ちなのか? 確かめてみたい。

写真の概念が変化してしまったことへの苛立ちなのだろうか? 未だ変わらずに写真は写真のままだと・・・。でも、何かが変化してしまった。その「何か」が・・・つかめない。僕も同様に。

しかしながら、巷では多くの人々がデジタルカメラを携えて何の疑いもなく「写真」を楽しんでいる。そんな市井の人々の無邪気なたくましさに希望を見いだすべきではないのか。そこにこそ、今を生きる写真家の帰っていくべきステージがあるのではないか。

ゼミ生のひとりが写真分離派宣言に行って新聞紙みたいなカタログ!? を買ってきた。これで500円は高いかなー。中身は、印刷された写真作品と清水、倉石両氏の文章。宣言文と思いきや、参加写真家や今日の写真状況を俯瞰的に見て遠回しに語っているだけで、ちょっとがっかり。だいぶがっかり。

やはり、お茶を濁したんだなー。戦意喪失だよ。なんだよ。涙が出るよ。真面目に反応したのに・・・。

反論しようにも、何も宣言していないのだから反論のしようがない。

昨夜は就寝前に写真分離派宣言のリーフレットに書かれた二人の評論家の文章をじっくりと読んでみた。倉石氏の「時の過ぎゆくままに」には、ジュリーの歌を思い出したが笑わずに読んだ。冒頭は平易な言葉で書かれていて了解できるのだが、しだいに詩的な言い回しが増えてきて理解不能に。お経だな。

写真分離派宣言リーフレット倉石氏の文から「・・依然として、取り返しのつかない残酷な確定性としてある写真は、見ることのなけなしの厚みを支えながら、つまりは現在時の能う限りの振幅を取り逃がさず定時しなければならない。・・」この箇所だけでも正直、僕には何を言いたいのか理解できない。

写真分離派宣言リーフレット清水氏の文章「1963」は、倉石氏にくらべたら平易な文体で読みやすいのだけれど、遠回しな変化球ばかりで、結局何を言いたいのか良く分らない。直球で勝負できないもどかしさが1963年生まれの特徴なのかなー。再読してみよう。

写真分離派宣言リーフレット表紙に掲げられた鷹野氏の文は、写真家らしい直球勝負で内容はともかく一番好感が持てる。倉石氏の文中に、・・敗戦を承知で発したかのごとき・・とまるで他人事のように扱われているけれど、こうしたメンバー自体の温度差が、各々の作家の方向性をどう変えていくのか!?

写真分離派宣言リーフレット表紙の手書き文字も、結局はスキャニングされデジタルデータ化されてしまう・・・リーフレット掲載の写真も同様に。

鈴木理策氏のエチュードは、カメラ女子の手帳の中のデジタル写真を想起させるし、松江泰治氏のJP-05は、デジタルタイリングを想起させる。意識的であれ、無意識であれ・・・。

taniguchimiyabi 谷口雅
mau_photoから
小林のりおが写真分離派宣言にしきりと難癖を付けている、見たくもない展示だったが今夜の授業で小林のりおと一緒なので、その話しになるだろう、しょうがないから見に行く。繰り返される「写真に帰れ」というお題目にはいい加減辟易としている。

taniguchimiyabi 谷口雅
mau_photoから
帰るところなど無いことぐらいわかっているはずなのに、お手軽なキャッチコピーでお茶を濁し、写真に逃げ込もうとする気弱な連中を味方に引き入れようとでもしたいのだろう。しかも賞なるものの権威を印籠仕立てでは反吐が出る。

taniguchimiyabi 谷口雅
mau_photoから
合体派宣言とやらも意味不明、茶化しているのであれば、そんなレベルで云々するなと。まっとうに向かい合うならガキ(おこちゃま学生たち)を巻き込むな。

きたっ、きたっ〜、さあーどうする!? 茶化してる気分でもあり、まっとうなつもりでもあり、巻き込んでそれぞれが考えてみて欲しいってのもあり。難癖というつもりはなく、真摯に考えてみたいということなんだけどな。見て見ぬ振りで通り過ぎてしまう人たちが多いから。いいきっかけだと思うけど。

写真分離派宣言、他の評論家の人たちはどう反応するんだろう!? いつものように見て見ぬ振りでは、写真界寂しすぎ。

写真における「描写」

heisodekker(大嶋浩)さんのtwitterより

写真における“描写”についてもっと語るべきじゃね〜の。“描写”ちゅうのは“演出”とは違うぞ。まあ写真に限らず最近の表現ちゅうのは“ただもの主義”とか“ただ感覚主義”が多いからの〜。広告における表現はもちろん“描写”じゃなく“演出”じゃぞ。 間違いなきよう。

2010-12-14

本日の金村修

本日の金村修が読めなくなったっと嘆いていましたが、o_kanemura_bot(http://twitter.com/#!/o_kanemura_bot)があることに気が付きました。
 でも、よく見たら、8月23日以来、更新されていないようです。
 そこで、最初まで遡って、つぶやきを集めてみました。60分ごとに更新しているので、何回も同じことをつぶいていたのですが、重複を取り除き下に並べてみました。

「“こう見ろ!”っていう強制力がなければない程いいんだよ。」
「“こんなのばっかり”でいいんだよ!」
「“モノ”を“形”でみる訓練だね!」
「“何撮ってんの?”って、写真撮ってるに決まってるじゃないですかねえ。」
「“如何に良いネガを作るかが写真家の仕事だ”って言われたことある…」
「“普通”って何だろうなあ???」
「“来週”なんて言ってちゃダメだよ。人間なんて、来週生きてるかどうか分からないよ!」
「35ミリカメラなんて捨てるように撮るんだよ!」
「アッジェがすごいのは、真っ直ぐに撮って、それが荒れているところだよ。」
「あの頃はまだ自我が強かった気がします。。。」
「アルバムに“修、誕生”って書いてあったなあ…」
「あるよね〜、ワクワクしてる写真って!でも、あんまりおもしろくないんだよね。撮ってる本人しかワクワクしてないじゃんって思う。」
「ある程度やってったら、“こう、みせたい!”ってことも考えていかないとね。作家がカメラマンと違うところって、そこだから」
「いい写真って、言葉から逃れてるんだよ。」
「おもしろいカラー写真っていうのは、白黒だったとしても、おもしろいんだよね。」
「オレ、結構、縁起とか気にしちゃうんだよね。」
「オレ、昔、クラゲ飼ったことあるんだけど、三日で死んじゃった…」
「オレがいいって言ってるんだからいいじゃないか! それじゃ不満か?」
「オレは芸術やってるんだ。“たい焼”焼いてんじゃないんだよ」
「オレンジは今年のラッキーカラーだよ!」
「カメラっていうのは手で持つんじゃありません。腰です!腹です!」
「カメラのせいにしていいのかな?」
「グッとくるものって意外とすぐ忘れるんだよね」
コスモスコスモスとして写すっていうのが、写真のおもしろいところなんだよ」
「この2〜3ミリを切れるかってことが、一線を越えられるかってことなんだよな。」
「この写真の持ってる意味が、ちゃんと肉体化されていますか?」
「コンセプトがないことのスゴみってあるんです。」
「ずっとやってると、自分にとって重要なことが何かって、分かってくる。」
「そこそこ上手いものなんて、どうでもいいんです。」
「ただ撮ってるだけって、本当はすごく難しいんです。」
「ちゃんと写ってるものって、よく見ると実は奇妙でおもしろいんだよね。」
「つまんない写真って、写真自体以外のところに興味がわくんだよなぁ〜」
「テーマなんて与えられると、その瞬間から違うモノ撮りたくなるよ。」
「できることしかできないから。」
「バランスは重要なんだけど、コアなところを持ってないとバランスなんてとれないんだよ。」
「フィルム一枚、血の一滴だよ!」
「プリントがグレーになってくるのみると夏だな〜って思う。」
「まぁ、苦労した方がいいいよね!」
「まず構図だよ。そして、その後、構図を放棄しなくちゃいけないんです。難しいけどね。」
「みるところがいっぱいある写真っていいよね。」
「みる人間の息を詰まらせるのが、作家ってもんですよ。」
「みんな、よく、あきたらやめろって言うけどさ、あきてからが勝負だからね」
「モノは写っちゃうし、写ったモノって見ちゃうんだよね。」
「モノを撮るのと空間を撮るのは違うからね。」
「やっぱ、バカバカしさの一歩手前だよ!」
ロバート・フランクの情感には、物質感があるんだよね。」
「わかれば自信がつくってものでもないんですよ」
「悪い人間と付き合ってもいいことないよ。友達は選ばなきゃ!」
「闇は撮れないんだって!」
「意識してはじめて、無意識ということが可能になるんだよ。」
「意味があるように見えて、意味がないのがいいんです。」
「一回考えて、また考えなくなるっていうプロセスが必要なんです。」
「一般の人たちより写真家の方が、写真を信用してないと思う。」
「影って物質じゃないからね。」
「汚くたっていいじゃないですか!写真は魔法じゃないんだから。」
「汚ないモノを汚なく撮るっていうのは意外に難しいんですよ。」
「俺、マキナ買ったの、かっこいいからだもん!」
「俺、中学校の時、風紀委員だったよ。」
「俺の写真って結構人が写ってるのに、人がいないってよく言われるんだよね…」
「俺も相談したいこといっぱいだよ。」
「何がお金になるかわからないよね…」
「何かの制限がないと自由はうまれないから。」
「何か一つが変に突出してない写真は、全体がパーっと浮き上がってきていいんですよ!」
「何のためでもないドキュメンタリーが一番面白い。」
「何も考えないって、ホントは一番難しいんですよ。」
「悔いのない写真人生をおくってるようだねえ」
「楽なことって大変だよ」
「希望がないからおもしろいんだよ!」
「休むなんてのは、墓場に行ってからでいいんです。」
「金だけ出して黙ってるのが、ジェントルマンな態度です。」
「犬は友達だよ!俺、犬好きなんだ。言う事きくから」
「見飽きたっていうところから始めるのって、重要です。」
「元気があれば、何でもできるよ!」
「元来、写真に未来なんてないんです。」
「現像は、作家の命だよ」
「光の気持ちよさに負けてはダメです!」
「考えなきゃダメだよ、君!これからは日々考えないと。ま、考えて何か変わるかっていうと、そうでもないんだけどさ…」
「最近、緑色みると妙に癒されるんだよなー」
「作家であるっていうのは、ある意味、一生スランプであることなんです。」
「作戦ならまかせてくれ!写真界のナポレオンといわれたこのオレに」
「撮ったらサヨナラってのは気持ちよくていいよねー」
「撮ってて楽しいか楽しくないかなんて、どっちでもいいんだよ。」
「撮ることで現実のものを変化させようなんて考えちゃダメだよ。」
「止まらないものですよ。好きなものって、結局」
「自分が見飽きたところで(写真の)話がはじまるんだよ」
「自分で見切りをつけるってことも大事なんだよ。」
「自分で好きな対象を撮ってるわけじゃないからね、写真って」
「自分で文法をつくるのが作家の最後の仕事ですから。」
「自分の手に負えない世界ってあるんですよ。」
「自分の肉体や体力に合わせるって大事ですよ。」
「写真って、他の芸術に比べると無責任な芸術だからね」
「写真っていうのは、おもしろいモノを撮ってもつまんないんですよ。モノがそこにあるということがおもしろいんだからさあ」
「写真っていうのは、言葉の意味で見ちゃいけない。」
「写真っていうのは、迫力じゃないんだよね〜」
「写真ってかなり簡単な約束事でも成立するからね」
「写真ってのは、セレクションなんですよ。」
「写真ってのは基本的に化学だからね」
「写真にはテクスチャーの欲望があるんだよね。」
「写真に連れて行かれることだね。」
「写真は“死体を撮ってる”のと同じなんだ。。。」
「写真は人を冷酷にするんだよ。」
「写真は物質を写すものだからさぁ。」
「写真やってれば、1回や2回、壁にぶつかるんだよ。」
写真家って“おばけ”みないらしいよ。唯物論者が多いから」
写真家は、写真じゃなくてモノに興奮してるんだよね。」
「写真的な細工っていうのは、そのうち飽きるよ。」
「上手くなってから、下手になればいいんだから」
「上手くなれば怒るしさ、下手にやっても怒るしさ、じゃあ、どうすりゃいいんだ?っていうのを越こえられるのが作家なんだよね。」
「上手さを出すだけじゃ、自分の世界観はつくれないからね。」
「情感なんてのは、観る方が考えてりゃいいんだからさぁ」
「新しいんだけど、だから何だっていうの?」
「新しい時代の息吹を感じる。。。困難な時代になってきたな〜」
「人生短いんですよ!好きなことやった方がいいです。」
「世の中、シャッターチャンスほど恥ずかしいものはないよ」
「世の中、見捨てられてるものっていっぱいあるんです。そういうものを拾い上げるのが写真家の宿命でしょうね。」
「世間に出るってことは、写真を知らない人に見せなきゃいけないってことだからね。」
「生活なんかしなきゃいいんだよ。簡単なことだよ〜」
「絶対それじゃなきゃダメなんて、作家としてどうかと思うようね。」
「憎しみはあった方がいいんですよ。」
「続けるっていうのは難しいんですよ」
「他者に何かを伝えようという意志がないのっていいと思う。」
「他人と違うというのは重要なことなんだよ。」
「大きいことはいいことだよね〜。目立つことって、重要ですよ」
「単なる下手と、おもしろい下手は違うからね。」
「中心をなくすことで、被写体じゃなくて“写真”が見えてくるんだよね。」
「調子悪いのに出すとかさあ、駄目でも出すとかさあ、それでも止めない人が作家なんです。200本撮って、たった1枚っていう世界なんだからさぁ。」
「適度に決まり事をつくってから、壊していくんです。」
「鉄の意志のような退屈さが必要ですよ。」
東京で撮ってるけど、東京を撮ってるわけじゃないんだよ。」
「同じことを繰り返すと自分でも分からなくなるでしょ。それがいいんですよ。」
「難しいとは思うけど、作家的欲望をもたないとね。」
「二日酔いに勝った!意志の勝利だね。」
「白黒にすることでモノが持っている歴史って奪われたりするんだよね。」
「反復することに対して恐怖心を抱いちゃいけないよ。」
被写体との葛藤がないと面白くないよ。」
被写体の意味なんて、どうでもいいんだよ。」
「不安定な方がおもしろいんですよ!」
「物語に溺れてるのと、物語を使用してるのは違うからね。」
「分かってほしいっていう心境は捨てた方がいいです。」
「分かんないことをもっとやる!」
「僕は写真をコミュニケーションだとは思ってない。」
「僕は常に、働く人の味方です!」
「本当に不安定になっちゃ困るんだよ!」
「面白い写真家って、被写体に妙な執着があるんですよね〜」
「夜は酒のんでりゃいいんだよ」
「優しくなくてもいいんじゃない?“良い人天国”ってタイトルでやるならいいけど…」
「立ち止まって撮れないモノって、自分には撮れないモノなんだよね」

(以上 http://twitter.com/#!/o_kanemura_bot より抽出)

もう一つの鈴木清展?

もう一つの鈴木清展が新宿Bergであったのかと思ったのですが、昨日、紹介した動画「忘れられない写真家鈴木清の仕事 98,99,00 」を作った迫川尚子さんが、鈴木清展覧会で撮った写真による展覧会のようです。
展覧会の名前は「鈴木清展」展 by 迫川尚子
ここで様子を見ることができます。
http://zoome.jp/whiteproduction/diary/354
また、この動画の下に、迫川尚子さんの『写真の会』会報No.46 2000 5.27に載せられたテキスト「追悼鈴木清」を読むことができます。
 (この文章はhttp://norakaba.exblog.jp/15493560/でも読むことが出来ます。)

2010-12-13

オランダ準備日記(ハンブルグ日記)

昨日の鈴木清展を見て、鈴木清さんのことを色々調べたくなった。

存在はしっていたが、鈴木清さんの娘さんのBlogオランダ準備日記(ハンブルグ日記)」を最初から読み出した。
http://gu-gan.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/machiel_botman_14a1.html
Blogを書き込んだ日付は、2008年1月27日 (日)であるが、内容は2006年9月23日にオランダからキュレーターMachiel Botmanさんが、鈴木家を訪問するところから始まる。
 Machiel Botmanさんが、鈴木清さんの写真に、惹かれている様子が興味深い。そしてオランダでの展覧会、それがハンブルグに行き、写真が戻ってきて、今回の写真展になったことが分かった。
 このオランダでの展覧会が開かれなかったら、今回の展覧会は開かれたのだろうか?


鈴木 清オランダ写真展 / Kiyoshi Suzuki Soul and Soul 1969-1999ホームページhttp://homepage3.nifty.com/kiyoshi-suzuki/)もありました。

忘れられない写真家鈴木清の仕事 98,99,00

鈴木清の展覧会がどのようなものだったのかは。このYouTubeを見てください。
D
このYouTubeの紹介文を引用しておきます。

tomoyaino | 2010年09月13日 |

写真家鈴木清さんの不在が、
ずっと長いことのみこめなくて。

毎晩、店長と「どうして?」と
話していました。病気で亡くなったのが
2000年、もう10年経つことになります。

98、99、00年と3年連続
コニカプラザで写真展をやったんですね。
ご本人は3部作と呼んでいました。

3回とも、オープニング・パーティーの
料理とお酒を私たちベルクが請け負いました
ベルクは鈴木さんに壁の展示のこと等で
色々お世話になりました。現在、店内に飾って
ある食の職人たちの写真も鈴木さんが撮影して
下さったものです)。

ムービーでは、主に3回めの展示の様子が
ご覧になれます。ただ、3回めの時はすでに
鈴木さんは亡くなっていました。99年が生前
最後、00年は遺作展となりました。

毎回凝った展示で、綿密な設計図のような
イメージ・スケッチがあるんですね。
鈴木さんに直接見せていただいたこともあります。
00年の「遺作展」もスケッチだけは残されていて、
娘さんたちと金村修さんをはじめとする若手が中心になって、
それを元に3部作を完成させました。

床に写真があったり、
空間を縦横無尽に使う。
石ころや布、貝殻と写真が同等に扱われている。
展示のイメージ・スケッチまでもが展示物になる。
見るたびに「これ、私もやってみたい!」と
刺激を受けました。

私が現代写真研究所の研究生だった頃、
1回だけ鈴木さんの特別講義「体験的写真論」が
あったんです(その17年後に、自分が同じ場所で
同じタイトルで講義する立場になるとは)。それに
衝撃を受けまして。黒いシミのついた写真があって、
フィルムに穴があいたからだそうですが、それがまた
むちゃかっこよくて(DMにもなっている、男の子の
写真)。一発で鈴木さんのオッカケになりました。

インクジェット・プリンターが普及しはじめた頃、
企業(エプソン)が最初にプッシュした写真家は、
森山さんでも荒木さんでもなく、鈴木さんでした。

もちろん海外での評価も高いし、土門拳賞も
受賞されていて有名写真家ですが、今、意外と
話題にのぼることが少ないように思います。
色々な人たちを巻き込み、精力的に活動されて
いましたから、やはり皆さん、突然の不在が
いまだに信じられないのかも知れません。

でも作品は残されています。
もっと見られる機会があってもいいんじゃないか。

とりあえず、今となっては貴重な鈴木展の様子を
ムービーにさせていただきました。意外とこれも、
映像で記録している人は少ないような気がするんです。
音は、店長の井野がつけてくれました。マイド!

ところで、一瞬なのでよくわからないと思いますが...
ムービーでは3度ほど登場します...展示の中には
ベルク(1卓...スタッフには死角になる一番落ち着く席)
の写真もあります。エッセン・ベルクの開発中、実現は
しませんでしたが、ディップを使うイメージが私の中に
あって、その関係でエジプト人の料理人と会うことになり、
家族で遊びに来てくれたのです。鈴木さんも偶然通り
かかったんですね。すーっとうちとけるように入ってきて、
何枚もパチパチと。はい。私も写っています。これ見て、
急にそのときのことを思い出しました。

迫川尚子


写真 by 迫川尚子
音楽 by 井野朋也

2010-12-12 百の階梯、千の来歴

鈴木清写真展 百の階梯、千の来歴

東京国立近代美術館へ「鈴木清写真展 百の階梯、千の来歴」を見に行く。
 麻生三郎展は見ないことにして、常設展の入場券を購入。エレベーターに乗り、すぐ、鈴木清展の2Fに行きたかったのだが、ボタンから遠い位置に乗ったため、4Fに行く。立ち止まってみたのは、岸田劉生の「草」(鉛筆によるスケッチ),クレーの「山への衝動」、デュビュッフェの「土星の風景」位で、ざっと4F、3Fを通り過ぎる。そして2Fの鈴木清展の会場「ギャラリー4」へ行く。

 こうやって書くと、私が鈴木清の写真にものすごく惹かれているように思われるでしょうが、実は、カメラ毎日に載った、洗面器と睫毛の写真はよく覚えているが、そのすごさはよく分からなかった。一時、金村修さんに写真を見てもらったとき、金村さんがよく鈴木清さんの話をした。金村さんが鈴木清さんのことを、本当に尊敬しているのが分かったのだが、どうしても金村さんの写真と鈴木さんの写真を考えるとこの二人が結びつくように思えなかったのだ。
 
 これまでの鈴木清の写真ってなんとなく不鮮明なぼやけた写真というイメージがあった。会場に入ると、そのようなイメージはすぐに消えた。たとえば、ただブレているようにしか見えなかった工夫の写真が実物を見ると、全然違うもののように見えるのだ、印刷で見ていたのと、実際のプリントの違いなのか黒のしまりが全然違うのだ。
 また、鈴木さんの作品をほとんど知らなかったということも分かった。会場に置いてあった写真集「デュラスの領土」「天幕の街」「天井戯場」「夢の走り」等を見るうちにすごい写真家であることが分かったし、プリントもすごく力強いしっかりしたものであることが分かった。
 写真集を作る前のダミー本、表紙案、展示プランを見ると写真に対する気持ちの入れようが並々ならぬものであることが感じられるのだが、それをうまく言葉にできない

 東京国立近代美術館ニュース「現代の眼584 10−11月号 2010」に載せられた、大西みつぐの「劇場・鈴木清」というテキストに、鈴木清の写真の撮り方について書かれた部分があったので、それを紹介する。



鈴木さんの写真の撮り方は独特だった。何かの写真で、中判カメラを構えた鈴木さんがファインダーから急に目を離し、カメラを高々と頭上にかざし、その被写体を撮っているシーンを見たことがある。いわば「ノーファインダー」とういう手法なのだが、一度のぞいたフレームをわざわざ拒否して(壊して)、新たな視覚、それも偶然の構図を手に入れようとしていた。荒々しいその撮り方は、普段の鈴木さんの穏やかな口調や笑顔とは対照的なものだったが、全身で写真に関わっているなと思った。それは歌舞伎役者が大見得を切るように、力強く、意志を手中させるかのような出で立ちだった。

実は、これを見たあと、新宿でいつものようにギャラリー周りでもしようかと思っていたのだが、疲れがどっとで今日はこれ以上写真を見ることはやめにして、ミュージアムショップで鈴木清展のカタログと現代の眼を買って、帰って来た。 

2010-12-11 印画紙値上げ

富士フイルム印画紙値上げ

富士フイルムが印画紙を値上げする。
http://news.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/201210048.htmlより

 富士フイルムは、原材料である銀価格が高騰したため、デジカメなどの写真用印画紙を値上げすると発表しました。

 富士フイルムの写真用印画紙は、世界シェアの60%を占めていますが、値上げは来年1月以降、世界各国で実施される予定です。値上げ幅は各国の状況に応じて5%から20%となっています。印画紙には写真をプリントする際の発色に不可欠な原料として銀が使用されていますが、現在の銀相場は2年前と比べて2倍近くに高騰しています。富士フイルムはこれまで、社内のリストラや不採算部門の統合などで原料の価格高騰分を吸収してきました。しかし、近年の状況は企業努力のみで対応できる範囲を超えているとして、今回の値上げに踏み切りました。

 銀塩銀塩写真がドンドン贅沢品になって、生産量が減り、最後にはなくなってしまうんだろうか?今のうちにプラチナプリントと見たいに手作りでプリントできる技術を習得しておかなしといけないのか、スキャナー、インクジェットで作品を作る方が現実的なのだろうが。

富士フイルムニュースリリース

http://www.fujifilm.co.jp/corporate/news/articleffnr_0463.html

2010-12-10 アートは社会にとって必要ではありません、余計なものなんです。

アートは社会にとって必要ではありません、余計なものなんです。

edtion1 (版一欠)さんのtwitter(http://twitter.com/#!/edtion1)のつぶやき

坂本龍一|第13回 「アート」について言いきる Web Magazine OPENERS http://openers.jp/culture/sakamoto_uekara/uekara013.html?top

で知った。Web Magazine OPENERSの「上から言いきる… 坂本龍一 相談室」 
「 アーティストの条件ってありますか? またこれからの社会でアート、アーティストは必要だと思いますか?」という
問いにたいする答え、興味ある方は、
http://openers.jp/culture/sakamoto_uekara/uekara013.html?top
を見てください。

時間の使い方

時間の使い方、このBlogを書いてる時間って、無駄なのか、続けなきゃいけないと思いながら、無理して書いている。頑固さと融通の利かなさ、これって老化につながっているのか、自分のことが心配になってくる横尾さんのつぶやき。

tadanoriyokoo(横尾忠則)さんのtwitter(http://twitter.com/#!/tadanoriyokoo)より

少しづつ体調が戻ってきたので生活と仕事の仕方の仕切り直しをしなければならない時期に来ている。今年は体調を崩したために時間の使い方にロスがでた。今ぼくにとって一番大事なものは時間の使い方です。時間の使い方ひとつで運命が変ると思います。

意識しない時間はあってないものです。幽霊みたいなものです。幽霊にならないためには意識を目覚めさせるしかないですね。http://bit.ly/1Xgurj

作風を変えない先輩画家から、分裂症呼ばわりをされた。作風は変えなくとも自然に変るものだ。自然に逆らう者は変わらない。これって見たとこ老けて見えるはずだ。老けたくなければ作風どころか、自分さえ持たなきゃ、いつまでも若くおれるよ。でもこれは究極ね。

自分が、自分が、という意識が一番早く老化を促すように思う。http://bit.ly/1Xgurj

融通の効かない真面目人間も早く老いそうだ。◯◯でなきゃならないとガンコな性格の人ね。自己執着が強いからね。http://bit.ly/1Xgurj

同じ道を歩くって退屈だ。それがわかれば同じ作品を描くことはない。http://bit.ly/1Xgurj

2010-12-09 言葉の文字化・音の記譜化・映像のデジタル化。その共通性と差異。

言葉の文字化・音の記譜化・映像のデジタル化。その共通性と差異。

heisodekker(大嶋浩)さんのtwitter(http://twitter.com/#!/heisodekker)より

言葉の文字化・音の記譜化・映像のデジタル化(あるいは感覚データのデジタル化)。その共通性と差異。見えるもの(痕跡)と見えないもの(現象)の現前をめぐるパラドックス。ちょっ!

文字化・記譜化・デジタル化は、各情報(視覚聴覚等々)の生成・蓄積・流通・消費の各相において、文字化以前と以後、記譜化以前と以後、デジタル化以前と以後、どのような変化をもたらしたのか。ちょっ!見えない痕跡が現象、見える現象が痕跡か〜。

人間的自然の現象(話す、聴く、見る等々)の指による操作(デジタル化−現象を分離・区別し、計量化し、秩序化すること)。ちょっ!どうもつまらん。何か、違うぞよ。

人間的現象(話す・聴く・見る)ちゅうのはすでにその現象に意味が存在している(つまり識別化されている)ちゅうことじゃな。ということは、デリダが言うごとく、それらの現象はすでに記号化しているちゅうことじゃ。ちゅってことは、文字化・記譜化・デジタル化は記号の記号化ちゅうことじゃ、けっ。

ちゅうことは各「以前/以後」において以後に以前がどのように書き込まれ、以前が以後によってどのように修正されるかちゅう問題かの〜。修正された以前が以後にどのように再度書き込まれるのかちゅう問題もあるぞよ。マジックメモじゃわい。けっ、けっじゃ。

デジタル写真における加工性・改変性を問題にするアナログ派の輩は、なぜ、音楽における編曲を問題にしないのじゃ(笑)。

声(言葉)や音(楽音)の現前ちゅうのは見えない痕跡であるがゆえに不確かであり、むしろ文字化・記譜化によって確かなものになり、光の痕跡という見える現象(写真)は見えるがゆえに確かさを保証され、デジタル化によって不確かになったわけじゃな。問題は見える・見ることの信憑性か。うっ

物の光による痕跡(写真)−物との直接的つながり、つまり写真のインデックス性。声や音はどうなのか。わしが「バカ!」と吐いたとする。わしの声(発信元も含め)と他者が聴くその声は、振動(波)という現象によって直接的なつながりを有している。声のインデックス性。

ちゅうことは、写真とは人間的自然現象における声(言葉)であり、楽音ちゅうことじゃな。ちゅうことは、アナログ派はデリダが言うパロール(音声)中心主義者ってことじゃな。けっ、けっ、けっ・・・。

しかしだな、写真の登場が声の文字化・楽音の記譜化に続くちゅうことはどういうことじゃろ。いや、電話や蓄音機の登場と写真の登場が同時代(だいだい)ちゅうことは何を意味するのかの〜。写真はある意味、声と楽音(文字化・記譜化)における以前/以後を反復してるっちゅうことじゃろか。

キットラーの『グラモフォン・フィルム・タイプライター』はこのあたり(各情報における以前/以後のパラドックス)を忘れている気がするぞよ。声・楽音・視覚的なものの記号化の流れを同列的に論じているんじゃなかろうか。けっけっ、けっ〜。

声・楽音・視覚像をめぐるパラドックス。声・楽音が象徴的記号→インデックス的記号(電話や蓄音機じゃ)という流れであるとすれば、視覚像はインデックス的記号(写真)→象徴的記号(デジタル化)ちゅうことか。絵画の記号的情報のポジションはどうなるんじゃ。記号の記号化における各情報の位相。

絵画は類似的記号じゃ。一般的に視覚的情報の記号化を考えると、類似的記号(絵画)→インデックス的記号(写真)ということじゃな。例えば、人類における文字の誕生を考えると、声の文字化=表音文字、事物の文字化=象形文字という区別があるな。象形文字は類似的記号に属するものじゃろ。

古代ギリシアの記譜法と五線記譜法にはどのような違いがあるのじゃろ。五線記譜法は時間としての水平軸と音高としての垂直軸から(基本として)成り立っている。これは明らかに座標軸(縦・横)とパラレルな関係じゃな。

いずれにしても五線記譜法は関係図じゃな。古代ギリシアの記譜法や三味線の記譜法は、演奏(あるいは声の出し方)を指示したもののようじゃ。ちゅうことは身振り(演奏、声)を真似る(指示する)類似的記号じゃわけじゃな。

ギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』ちゅうのはけっきょく、表象(視覚的イメージ、現実からの分離)から声(直接的な生)を取り戻そうちゅう論旨だな。彼は「直接的な生」ちゅうのがすでに記号化されていることを問わないんじゃな、おそらく。

けっきょくドゥボールちゅうのは、デリダの言うパロール(音声)中心主義者(最初に声=豊かな自然、十全な感覚、未規定な自然ありき)じゃな。

言葉の文字化・音の記譜化・映像のデジタル化(あるいは感覚データのデジタル化)。その共通性と差異。見えるもの(痕跡)と見えないもの(現象)の現前をめぐるパラドックス。ちょっ!

文字化・記譜化・デジタル化は、各情報(視覚聴覚等々)の生成・蓄積・流通・消費の各相において、文字化以前と以後、記譜化以前と以後、デジタル化以前と以後、どのような変化をもたらしたのか。ちょっ!見えない痕跡が現象、見える現象が痕跡か〜。

人間的自然の現象(話す、聴く、見る等々)の指による操作(デジタル化−現象を分離・区別し、計量化し、秩序化すること)。ちょっ!どうもつまらん。何か、違うぞよ。

人間的現象(話す・聴く・見る)ちゅうのはすでにその現象に意味が存在している(つまり識別化されている)ちゅうことじゃな。ということは、デリダが言うごとく、それらの現象はすでに記号化しているちゅうことじゃ。ちゅってことは、文字化・記譜化・デジタル化は記号の記号化ちゅうことじゃ、けっ。

ちゅうことは各「以前/以後」において以後に以前がどのように書き込まれ、以前が以後によってどのように修正されるかちゅう問題かの〜。修正された以前が以後にどのように再度書き込まれるのかちゅう問題もあるぞよ。マジックメモじゃわい。けっ、けっじゃ。

デジタル写真における加工性・改変性を問題にするアナログ派の輩は、なぜ、音楽における編曲を問題にしないのじゃ(笑)。

声(言葉)や音(楽音)の現前ちゅうのは見えない痕跡であるがゆえに不確かであり、むしろ文字化・記譜化によって確かなものになり、光の痕跡という見える現象(写真)は見えるがゆえに確かさを保証され、デジタル化によって不確かになったわけじゃな。問題は見える・見ることの信憑性か。うっ

物の光による痕跡(写真)−物との直接的つながり、つまり写真のインデックス性。声や音はどうなのか。わしが「バカ!」と吐いたとする。わしの声(発信元も含め)と他者が聴くその声は、振動(波)という現象によって直接的なつながりを有している。声のインデックス性。

ちゅうことは、写真とは人間的自然現象における声(言葉)であり、楽音ちゅうことじゃな。ちゅうことは、アナログ派はデリダが言うパロール(音声)中心主義者ってことじゃな。けっ、けっ、けっ・・・。

しかしだな、写真の登場が声の文字化・楽音の記譜化に続くちゅうことはどういうことじゃろ。いや、電話や蓄音機の登場と写真の登場が同時代(だいだい)ちゅうことは何を意味するのかの〜。写真はある意味、声と楽音(文字化・記譜化)における以前/以後を反復してるっちゅうことじゃろか。

キットラーの『グラモフォン・フィルム・タイプライター』はこのあたり(各情報における以前/以後のパラドックス)を忘れている気がするぞよ。声・楽音・視覚的なものの記号化の流れを同列的に論じているんじゃなかろうか。けっけっ、けっ〜。

声・楽音・視覚像をめぐるパラドックス。声・楽音が象徴的記号→インデックス的記号(電話や蓄音機じゃ)という流れであるとすれば、視覚像はインデックス的記号(写真)→象徴的記号(デジタル化)ちゅうことか。絵画の記号的情報のポジションはどうなるんじゃ。記号の記号化における各情報の位相。

絵画は類似的記号じゃ。一般的に視覚的情報の記号化を考えると、類似的記号(絵画)→インデックス的記号(写真)ということじゃな。例えば、人類における文字の誕生を考えると、声の文字化=表音文字、事物の文字化=象形文字という区別があるな。象形文字は類似的記号に属するものじゃろ。

古代ギリシアの記譜法と五線記譜法にはどのような違いがあるのじゃろ。五線記譜法は時間としての水平軸と音高としての垂直軸から(基本として)成り立っている。これは明らかに座標軸(縦・横)とパラレルな関係じゃな。

いずれにしても五線記譜法は関係図じゃな。古代ギリシアの記譜法や三味線の記譜法は、演奏(あるいは声の出し方)を指示したもののようじゃ。ちゅうことは身振り(演奏、声)を真似る(指示する)類似的記号じゃわけじゃな。

ギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』ちゅうのはけっきょく、表象(視覚的イメージ、現実からの分離)から声(直接的な生)を取り戻そうちゅう論旨だな。彼は「直接的な生」ちゅうのがすでに記号化されていることを問わないんじゃな、おそらく。

けっきょくドゥボールちゅうのは、デリダの言うパロール(音声)中心主義者(最初に声=豊かな自然、十全な感覚、未規定な自然ありき)じゃな。


参考

スペクタクルの社会 (ちくま学芸文庫)

スペクタクルの社会 (ちくま学芸文庫)

2010-12-08 天然色の世界を灰色で表現する

天然色の世界を灰色(白と黒の区分を消去して)で工夫して表現すること

 会議などで、よくある、理由をはっきり言わないで、自分の意見を押し付ける人、どちらにしようか、みんなで、意見をit言っていると時間の無駄だと馬鹿にする。そういう時間こそ大事なんだよねやっぱり。

kenjirookazaki(岡崎乾二郎)さんのtwitter(http://twitter.com/#!/kenjirookazak)より

知的判断力が衰退した状況では、白黒はっきり言うだけで決断力があると好感をもたれる転倒がある。『白を選び黒は捨てる』決断は本来、根拠なき偏見でこそ容易に行われる。こうした状況では(その黒の排除という見解に非同意の人まで)白黒はっきり断言する行為には好感をもってしまう倒錯が起こりうる

この仕掛けを知っている人はあえてパフォーマンスとして普通は言わない暴言を言うことで存在を誇示しようとする。特に白黒はっきりできない弱い見解が多い時代だと。たとえ反対意見=黒が40%、残り60%が保留でも、その60%が強く反論せず却って断言行為に魅力を感じるだろうという読みがある。

もちろん白黒をはっきりしないのは灰色なのではなく、世界が文字通り、天然色=カラーだからである。(たとえていうならば、男性、女性、同性愛だけではないからである。だったら恋愛もしないし、絵もかかない)。

判断は選択ではなく手続きであり(おおよそ手続き自体が答えである)、そこで白黒という弁別そのものが解体されなければ展開しないもの。このプロセスに応じる耐力も体力もないとき、議論するだけでグレーだと理解される。『白と黒と灰色』の3種しか判断できないほど退化した状況。それこそ気の毒

白も黒もない。ゆえに灰色もない、というのは、色彩を扱うときの、画家なら誰でも知っている自明の理だが。『白と黒がある』 とされていること(つまりその語)を逆らったり、否定すると曖昧だといわれる。この人たちに色彩の豊かさ(官能)はわからない。白黒の2拍子のリズムだけが好まれる。

わたしたちは天然色を見ているし、その素晴らしさも、その言葉にしがたさも知っているが、それを言語=白黒諧調だけではいい表せない。そこに立ち止まっているとき入り込んでくるのが、白黒はっきりのデジタル(しかも低解像度)判断を振り回す、政治的な老人力の世界。

太陽の季節』といっても白黒映画だったわけである。あの青い海を、灰色の諧調で表現しなければならなかったのだから気の毒といえば気の毒。けれど、その灰色で(白と黒の区分を消去して)どれだけ表現できるか、そこに豊かさも工夫もあったろうが、それは忘れ去られた。

2010-12-07 「Seeing ―6人の作家による写真表現―」

Seeing

「Seeing ―6人の作家による写真表現―」という展覧会が横浜のFuji Xerox Art Space で開かれる。
http://www.fujixerox.co.jp/company/event/hanga/exhibition.htmlより

今回は、コレクションより、1970以降に登場する“写真を用いた現代美術作品”を展示いたします。
1960年代末から70年代初頭にかけて、日本の美術では、写真を用いた作品が多く出現しました。また一方で、写真の世界でも同時代に、既存の写真表現について根源的な問い直しをする作家が出てきた時代でした。
当社のコレクションは、版画のコレクションではありますが、同時に、20世紀以降の美術(現代美術)の流れを概観できるよう体系的に蒐集されており、その文脈から、70年代以降に生まれた写真表現を用いた美術作品も数多くコレクションしています。
2005年に当ギャラリーで開催した「ゼログラフィーと70年代」展では、チェスター.F.カールソンによって発明され当社の中心的技術「ゼログラフィー」が、オフィスのみならず、ひとつの芸術媒体となって世界へ広がっていったことを取り上げました。このたびの展覧会では、同じ時代、「写真」も既存の記録媒体としてではなく、複製メディアとして、現代美術の世界へ取り込まれ広がっていったことを取り上げます。
特に今回は、その時代の代表的な日本の作家である6名を取り上げ、ご紹介いたします。

会場   Fuji Xerox Art Space
所在地  〒220-8668 神奈川県横浜市西区みなとみらい六丁目1番 富士ゼロックス R&D スクエア 1F
会期   前期:2010.11.29(Mon)〜2011.1.7(Fri)
  後期:2011.1.13(Thu)〜2011.2.10(Thu)
開館時間:平日9:00〜17:00 (最終入館は閉館15分前まで)
入館料: 無料
休館日: 土・日・祝日および富士ゼロックス R&D スクエア休業日
注記:  ただし、12月23日(祝)は特別開館
臨時休館  年末年始:12月31日(金)〜1月3日(月) 展示品入替:1月11日(火)・1月12日(水)

出品作家

前期展示

  • 榎倉康二 ENOKURA Kouji
  • 河口龍夫 KWAGUCHI Tatsuo
  • 野村仁 NOMURA Hitoshi
  • 植松奎二 UEMATSU Keiji

後期展示

  • 野田哲也 NODA Tetsuya
  • 吉田克朗 YOSHIDA Katsuro

都議会民主党の裏切りで“マンガ規制法”が成立へ

本当に成立するんでしょうか?
今日は自分自身twitterを引用します。
http://twitter.com/#!/heliograph1950/より

想像力の領域 http://bit.ly/hv9T27,漫画表現の規制と社会規範 官に「拡大解釈」の歴史ありhttp://bit.ly/ez9RJMと色々反対されているけど、都議会民主党の裏切りで“マンガ規制法”が成立へ http://bit.ly/hD284P本当に成立するの

2010-12-06 「非実在青少年」規制から「非実在犯罪」規制へ

「非実在青少年」規制から「非実在犯罪」規制へ

下記のシンポジウムのまとめが「wsplus」さんがtogetterして下さいました。

12/6中野ゼロホール 『都条例改正案の問題点を検証するシンポジウム』 まとめ
http://togetter.com/li/76079

『都条例改正案の問題点を検証するシンポジウム』
場所:中野ゼロホール
テーマ:「非実在青少年」規制から「非実在犯罪」規制へ
〜都条例改正案の問題点は払拭されたのか?

主催:「東京都青少年健全育成条例改正を考える会」
(共同代表:藤本由香里(明治大学准教授)・山口貴士(弁護士・リンク総合法律事務所))

<パネリスト予定者>
河合幹雄氏(桐蔭横浜大学法学部教授・法社会学者
呉智英氏(評論家・日本マンガ学会会長)
兼光ダニエル真氏(翻訳家
とりみき氏(漫画家)
西谷隆行氏(日本雑誌協会・編集倫理委員会委員)
保坂展人氏(前衆議院議員・ジャーナリスト)
水戸 泉/小林来夏氏(作家)
山本弘氏(作家)
藤本由香里氏(明治大学准教授)
山口貴士氏(弁護士・リンク総合法律事務所

参考リンク集

今日も続いていました。「90年代“ガーリーフォト”は“発見のツール”としての写真」

昨日、togetterにまとめた、heisodekker(大嶋浩)さんと、thataphoto(畑智章)さんとやりとり今日も続いてました。
追加しました。
90年代“ガーリーフォト”は“発見のツール”としての写真
http://togetter.com/li/75791
を見てください。

2010-12-05 久しぶりの4x5

togetterに2つも投稿

twitterの記事を引用することが多いのですが。今日は2つトゥギャりました。Togetterで読んで下さい。
一つ目は

シュルレアリスムとカモフラージュとしての文学

岡崎乾二郎さんの「シュルレアリスムは、理解、了解する、という機構を批判しているのだから、視覚的了解というものもありえない。したがってシュルレアリスム絵画は様式としては必然的に破綻している。『美術』史的には極めて扱いにくい。だいたいは 測定しそこねる。(だから、かえって) 日本においてもかなりの深度で問題の核心が理解されえていた。日本の作家たちの何人かはマルクスフロイトも本家シュルレアリストたちよりも深読みしていたのだから。シュルレアリスムが発生する以前の土壌を把握していた。同時に一層、混みいったカモフラージュもされていた。」で始まる一連のつぶやきです。

http://togetter.com/li/75773
二つ目は

90年代“ガーリーフォト”は“発見のツール”としての写真

heisodekker(大嶋浩)さんの「たまたま思いついたんじゃが、90年代“ガーリーフォト”ちゅうのは、ようするに“発見のツール”としての写真なんじゃな。たまたま撮られたものから誰かがその価値を発見してくれたのじゃ(その発見者は主に中年の親父だが)。撮ったガーリーたちはその価値に気づくことなく撮り続けたわけじゃ。」のつぶやきから始まった。thataphoto(畑智章)とのtwitter上のやりとりをまとめました。

http://togetter.com/li/75791

です。

4x5を担いで

 昨日の三好耕三さんの話で、「写真を見てもらった人が、写真を撮ろうと思ってもらえるのがうれしい。」というのを聞いて、今日は写真を撮りにいくことにした。
 Linhof Technikardan45を担いで、逗子の大池公園内とそこから山道に入り、「池子の森」をフェンス越しに撮影。
 今日は、Fujinon 180mmF5.6 で撮影。Tri-X 14枚 

 フェンス越しとか橋の欄干越しに撮ることが多い、気をつけて撮っても画面にフェンスの一部や、欄干を撮ってしまうことがある。森を撮っていても、手前の雑草や笹が邪魔だ。もっと高い位置で撮れるもっと大きな三脚と脚立が欲しくなってきた。
 それにしても、機材を運ぶのが大変だ。もうちょっと、持って行く物を厳選すること、心配なのでレンズを何種類も持っていってしまう。ハッセルなら標準一本で撮ってたのだから、持っていくレンズを絞って、撮れなかったら諦めるぐらいの潔さが必要だ。

 

2010-12-04 ギャラリ−トーク三好耕三「SEE SAW」

P.G.I.三好耕三「SEE SAW」

P.G.I.へ三好耕三「SEE SAW」 を見に行く。
この間見たVCANTの『三好耕三写真展/Kozo Miyoshi Photographs』と同じで、6x6(ローライフレックス)による作品。
真正面から撮った、写真が並ぶ、プリントも非常によい。
今日は、三好耕三 x 増田ギャラリー・トークを聞く。
以下、そのギャラリートーク中の話を終了後、思い出しながら感想と共に書いてみました。

  • 60才になったので、今までは写真のことについて殆どしゃべってこなかったけど、これからはどんどん発言したいと思っている

  • 「SEE SAW」について、

昔撮った35や6x6の写真で写真集を作りたいという話が持ち上がった。その写真集の写真で原宿で写真で写真展をすることになった。それと並行してPGIでも写真展をやることになり、PGIで昔発表した「SEE SAW」の写真とは別の写真を選んだ。ただ、選ぶ基準は当時の自分の感覚で、新たにに今の自分の感覚で選んだとしたら、あと2,3年はかかってしまうだろう。たとえば「テトラポッド」の写真は昔ならこのようには焼けなかくて、もうちょっと白っぽくなっていたか黒かっただろう。20年で自分もそれだけ技術が向上している。

 ○テトラポッドが中央が殆ど白でとびかすかにコンクリートの質感が出ていて、バックの空は濃くプリントされていた、確かに焼くのが難しそうだった。常に技術の向上を目指しているようで頭の下がる重いがした。

増田さんが、プロジェクターで写し出した写真の中に、車のフロントガラスが割れ(強化ガラスなので、細かなひびが入ったガラス)ているのを中から写したものがあった。事故でこんなことになっても三好さんは、その様子を撮影ている。

○事故に遭ったのか、起こしたのかは分からないが、そのような時でも写真家被写体を探すようだ。

−自分は35mm,NIKONFで写真を始めた、基本はスナップ、その時の出会ったものを撮る、それは8x10になっても同じで、そのためには、出会ったひとの雰囲気や、光の具合が変わらないうちに撮るために、1分間で写真を撮り終える訓練をした。

−自分はもともと旅が好き、出発と終りが決まった旅、どこかで泊まったり、途中でコースを変えるようなことをせず、その途中の過程を撮る。

サボテンの写真、10m近くもある巨大なものであるが、出来るだけ高さを感じさせないように、脚立に昇り撮った。

−温室というシリーズがあるのだが、三好耕三はもともと温室育ちなのだそうで、というのは、千葉の鉢植えの花を出荷する農家の出身で、小さいころ具合が悪くなると、温室の中に布団を敷いて寝かされたそうで、その、温室の中に入り込んでくる光を表現しようとしたそうで、かなりの数の温室をリストアップして回ったが、写真を撮れたのはその一部だけだそうで自分のイメージにあわなっかたものは撮らないそうだ。


−太陽を背にして真正面から撮るのが基本。昔からそのように意識してた。ローライの2眼レフで撮っていた、そのファインダーがあいまいであったので、やはり、あいまいな8x10にかえたのだと思う。もしハッセルだっだら、4x5になっていたかもしれない。8x10では36枚とか12枚撮れるカメラでなら、色々動き回りながら撮るだろうが、8x10の倍いはまず、いろいろ動き回ってから撮る、その結果は真正面から撮ることになるということになるらしい。(注: この辺は記憶があいまい、真正面から撮る話のときに、この8x10ではまず動いてから撮るって話をしたのは確か。)

  • 自分が展覧会で写真を見て写真を撮ろうと思ってもらえることが一番嬉しい。前に、自分の展覧会場をでるとき、「さぁ、はやく帰って暗室にはいるぞ」って言って帰った人がいたそうで、本当に嬉しかったそうだ。

自分の撮影している様子を撮影したビデオを上映した。
−8x10を三脚につけて、肩に担ぎ歩く。撮影位置を見つけ、すばやくレンズをセットし、ピントを合わせ、ホルダーをセットし、被写体の動きを観察し、シャッターチャンスを待つ、もうちょっと横になれとかつぶやきながら、シャッターを押している様子は、まさにスナップを撮っているのと変わりなかった。

−16x20の写真機が出来て、最初の被写体に写したのが石元泰博、その撮影風景を写したビデオが非常に面白い、北品川運河にかかる橋の上に脚立か何かに座らされた石元さん、カメラに興味津々のはずなのだが、じっと待つ表情がいい。ときどき、質問をしている。やっと撮り終わり興味深くカメラに近づき色々質問をしていた。三好さんの話では石元さんと一緒に車に乗ると、「あそこのガードレールに当たる光の感じがいい」とか互いに写真になりそうなところを見つけあうそうで、写真家の眼って、やはり、常にそのように働いているのだと関心すると共に、自分にも電車やバスの中で、そのように被写体を見つようとしているところがあるので、自分と同じだと思いかなりいい気分になったのだが、今考えれば、見つけているものの質が全然違うかもしれないのだ。

−8x10から今のメインカメラは16x20その上の20x24だと重すぎる(30kg)16x20だとカメラ本体に重さが17kgなのでこれなら、レンズその他をつけても自分で歩きまわれるのでこのサイズに決めたそうだ。あくまでも一人で撮るというのが自分のスタイルのようだ。もちろん撮影地までは車で移動。

−現在の風景を映像としてではなくプリント(=物として)で残したい。


 
 
 

TOKIO OUT of PLACE 百々俊二写真展 大阪

南麻布TOKIO OUT of PLACEへ百々俊二 写真展 大阪 を見に行く。
銀座のNIKON SALONで昨日見たのだが、こちらはどのような展示かと期待したのだが、ほとんどすべてNIKONにも展示してあり、(昨日みたかどうかわからない写真も何枚かありましたが)大きく伸ばしてあるのは一枚のみで、非常に残念でした。
 渋谷から、田町行きのバスに乗り、恵比寿3丁目で下車し、ギャラリーに行き、適当に見当をつけて細い路地を、次の北里研究所前のバス停まで歩き、田町行きのバスに乗る。バスの中からの景色、路地歩きを楽しんだ。

2010-12-03 銀座

銀座ニコンサロン百々俊二「大阪」展へ

 銀座ニコンサロンへ百々俊二「大阪」展を見に行く。
 8x10で撮ったものであるから、大伸ばしの作品が並ぶのを想像していたのだが、大全紙以上に伸ばした作品は数点であった。その大きく伸ばした作品、例えば甲子園球場のスタンドで撮作品は、写真集でみたのとは全然違うように見える。ナイター中の作品であるから、スタンドの人はブレているのだが、スタンド、電光掲示板、ポール等は鮮明に移っている。その枠組みのなかで、たくさんの人が蠢いている。そのあいだにある空気感が何とも言えずいい。写真集だと8x10で撮ってこんなブレブレの写真になってしまってとしか見えなかったのだ。
 もう一つ挙げれば、京橋の写真、商店街の写真であるが、壁等に貼られた張り紙とか、ディティールが鮮明に浮かび上がっている。
中途半端な大きさだと、8x10で撮った効果は表れないのではないかと思う。
 同時に開催されている、後、二つの会場ではどのくらいの大きさで展示してあるのだろうか?見に行かなくては。
どこかで読んだ話だが、(もうすでにBLOGに書いたかもしれないが?)、8x10はファインダーの周囲が暗く、隅々まで見ることが出来ないで、本当に撮りたい物を真ん中に入れるだけで、構図などを考えていられていないということだが、確かに、作った感じの写真はない。

2010-12-02 「寂視」

住友 博 展「寂視」

前から、気になっている写真家「住友博」の個展がある。

住友 博 展 Hiroshi SUMITOMO「寂視」
2010年 12月20日(水)〜12月26日(日)
A.M.11:30-P.M.7:00 (最終日P.M.5:00まで)
※会期中無休
トキ・アートスペース
〒150-0001 東京都渋谷区神宮前3-42-5 サイオンビル1F
TEL/FAX 03-3479-0332
http://homepage2.nifty.com/tokiart/101220.htmlより作家のコメント

いつも展覧会が終わると、それ以前の写真はほとんど見ない。そのときに選ばれなかった写真を見ても仕方がないと思うから。それはグループ展でも個展でも同じで次の展覧会は終わったところから始まる。今回は今年の二月以降に撮影されたもの。
写真を撮るきっかけは一人で歩く事が好きで始まった。北海道から東京世田谷奥沢に来て歩き始め撮っていたのは自分の背丈より高い塀・塀に埋め込まれたガラスの破片、四十年以上前の事である。群衆の中からスポットライトをあびたように見える(とびこんでくる)人をスナップしていたときもある。それも1年半ほどで見えなく(いなく)なった。
発表の日が近づいて写真をセレクトするのが一番つらい。見続けていくうちに、全てを撮り直したくなる。撮影はぎりぎりまで続く。

 私も、新宿駅の南口でしばらく、スポットライトに照らされる人のスナップを撮り続けたことがあった。
前の写真を引きずられないで、常に新しい仕事を考えて行くというのも一つの方法か?
 私は、中途半端に手をつけた、いくつかのシリーズの写真を抱え込んでいる。時々、全部放り出したくなるのだが、その勇気もない。

2010-12-01 マネをすること

「森山大道モード」「本城直季モード」「蜷川実花モード」

itozaki(糸崎公朗)さんのtwitter(http://twitter.com/#!/itozaki)より

昨日は清澄白河のタカイシイギャラリー森山大道写真展「津軽」を見た。一枚ずつじっとりと見たのだが、どうも今ひとつ良さが分からない…のでその「良さ」を解明するために、とりあえずマネをしてみたw http://d.hatena.ne.jp/itozaki/20101130

森山大道のマネをすれば、森山大道の「良さ」が分かる、気がする…なぜなら森山大道のようには上手く撮れないからw やはり偉大な写真家なのかも知れない。http://d.hatena.ne.jp/itozaki/20101130

森山大道のマネ写真だけどw、GRD3の「ハイコントラスト白黒モード」で撮影している。これはまさに「森山大道モード」で、それくらいに定番化、標準化、形骸化、伝説化している。http://d.hatena.ne.jp/itozaki/20101130

森山大道が写真界に与えた影響は大きく、実に多くの写真家森山大道のマネをしている。ぼくはそう言う風潮がイヤで、マネもしないし見もしなかった。しかしそれはそれで「自分の殻」に閉じこもった態度に過ぎないのだ。http://d.hatena.ne.jp/itozaki/20101130

学ぶの基本は「真似ぶ」にあり、だからぼくは森山大道の真似をする多くの写真家の真似をして、森山大道の真似をすることを思い立ったのだ。とは言え、まだ昨日ちょっと試しただけだけど… http://d.hatena.ne.jp/itozaki/20101130
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マジです。最近のデジカメ業界のトレンドは「本城直季モード」「蜷川実花モード」とか…GRD3はセッティングによって「糸崎モード」にもw RT @bonyaly マジですか シーンモード!w こんなシーンモードがあったら面白いだろうなあって名前が次から次へと思い浮かびます

タカイシイと同じビルの小山登美夫ギャラリーでは蜷川実花写真展「noir」やってたが、ある意味森山大道と似てる。粗い粒子、ハイコントラスト、ブレ、ボケ…森山大道がカラーになると蜷川実花になる?いや、シロートの印象でしかありませんがw

iPhone4で花を撮ると蜷川実花みたいな原色ハデ写真になる…という研究もしてますw


 森山大道さんについては、マネをしたし、写真集は出れば無条件に買っていたし、展覧会にもほとんど行った。
今は、マネをしてないし、写真集も買わないし(どんどん出版されるので、全部買えません)、今回の写真展に行こうとも思っていない。
 さんざんマネをし続けて、これを続けていてもどうなるのって感じになったのだ、森山大道は一人いればいい。

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