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2012-06-26

真昼にランプをかざして人間を探しに行かなければならないのだろうか。


 改革とか称して、無意味な会議に出席させられたり、意見を求められたりすることって結構ありますね。

吉岡洋さんのTweetを引用しました。




2012-06-24

潮間帯 intertidal zone


秋谷の海岸に、いつもの砂浜ではなく磯に。東松照明 Interface を思いながら。
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蜘蛛


夕方、田んぼに、マクロレンズで虫を撮ろうとしたが、中々見つからない、山に入ろうと、山に向かう道に入ってすぐに、蜘蛛の巣が目の前に現れる。いつもなら、蜘蛛の巣を壊して進むのだが、今日は蜘蛛を撮ることにする。結構、写真を撮ってみると美しい形をしている。
これでも、20枚位撮った中から選んだ写真です。
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2012-06-23

横浜美術館「マックス・エルンスト フィギュア×スケープ」


横浜美術館ホームページhttp://www.yaf.or.jp/yma/jiu/2012/ernst/outline.html
展覧会概要より

マックス・エルンスト(1891-1976)は、これまでわが国では主にシュルレアリスムを代表する画家のひとりとして紹介されてきました。本展は、そうしたシュルレアリスムという枠を一旦外し、エルンストの作品を「フィギュア」と「風景」というモチーフから検証し直すことで、エルンスト独自の関心のありようを探り、現代の日本人にとってエルンストの芸術はいかなる意義をもつのかを明らかにしようとするものです。

フロッタージュによるデッサンを写真製版により版画にした「博物誌」が面白かった。

 コレクション展では、「写真とシュルレアリスム」でのインドリッヒ・シュティルスキーの作品。また写真コーナーは中平卓馬の「サーキュレーション−日付、場所、イベント」が印象に残る。
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 結局、帰りに、

を買って帰る。

2012-06-22

『偏差値に還元されない知性』

Twitter



を読んで、「偏差値に還元されない知性」という言葉が気になって、それってどんなものだろうかと思って、吉岡さんのBlogの記事をを読んでみた。

偏差値に還元されない知性」などというものがどこかに存在すると思うのは、「山のあなた」に幸せがあると空想するようなものである。どんなものでも偏差値に還元され、どんなものでもランキングされる。情報化が進行した今では、そうした数値的還元は昔よりもはるかに容易かつ高速になっている。当たり前のことであり、それだけのことである。問題は、「偏差値に還元されない知性」という夢想が、実は「みずから偏差値に還元してほしいと願うメンタリティ」と裏腹ではないのかということだ。そしてそうしたことすべては「知性的」な態度なのだろうか?ということだ。

http://chez-nous.typepad.jp/tanukinohirune/2012/06/%E5%81%8F%E5%B7%AE%E5%80%A4%E3%81%AB%E9%82%84%E5%85%83%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%E7%9F%A5%E6%80%A7.html より
って書いてあった。そう自分自身が、偏差値の信仰者ってこと?でも、これって、「それに気がつくって結構、偏差値高いでしょって」言っているみたいで……、無限ループに入りそうなのでもう寝ます。


 

2012-06-17

写真を撮るということは、果たして世界を描写することなのだろうか


2011.8.12-10.23に東京国立近代美術館で開かれた『レオ・ルビンファイン「傷ついた街」』展のカタログを古書店でみつける。

http://www.momat.go.jp/Honkan/leo_rubinfien/index.htmlより

2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件は、新しい世紀を迎えた世界に深い影を投げかけるものでした。その数日前に、世界貿易センタービルからわずか2ブロックしか離れていない新居に引っ越したばかりだった写真家レオ・ルビンファイン(1953年生まれ)は、この未曾有の事件を間近で体験しました。

渦中へとまきこまれたニューヨークでの一連の事態そのものにはカメラを向けることのなかった彼が、写真家として、この出来事と向かい合いながらとりくんだのは、世界各地の都市で、街を行きかう人びとの顔を撮ることでした。この事件がもたらした本質的なもの、つまり、物理的な破壊行為を通じて、社会に心理的打撃を与えることを目的とするテロリズムが、人びとの内面に残した「心理的な傷」を見つめるためです。


2002年から6年にわたって、ニューヨークをはじめ、ロンドンマドリッドモスクワイスタンブール東京など、近年テロ事件の起きた世界各地の都市を訪ね、ストリートスナップの手法で撮影された写真は、2008年、写真家自身による長文の内省的なテキストとともに、『傷ついた街』(Wounded Cities, Steidl刊)と題される写真集へとまとめられました。


 街ですれ違う人の顔をかなり大きく捉えた写真。中判カメラで撮ったのかピントは浅く、プリントは柔らかい、まずその写真に惹かれた。
 自分自身、盗撮って言葉におびえて止めたストリートフォト、それも言い訳で、レオ・ルビンファインのように上手く撮れないからかもしれないが、ストリートフォトってやはり魅力ある。
 文章を読まないうちに、写真のすばらしさだけで、このカタログを買うことを決めた、のだが文章もすごく良い。

『傷ついた街―― 通りの向こうの大殺戮』(レオ・ルビンファイン)より引用

 私は人々の顔を撮り始めた。あたかも写真が何らかの手がかりを秘めているように。

 もちろん、論理的な話ではない。群衆の中の人間の顔を見て、一国の運命がわかるはずはない。そんなことは私だって知っている。しかし、とにかく私は写真を撮り続けた。確信できないながらも、そこに「何か」があるはずだと思えてならなかった。自分の目で真剣に、一心に見つめれば、耳で聞いただけでは得られない「何か」を得られるはずだと思ったのだ。言葉で語られるような知識は、すでに決まり文句や一般論やあいまいな憶測の沼と化していた。
 群衆の中の人々――彼らは、一般的に言えば、文字通りの「彼ら」である。「アラブ人」かもしれない。「アメリカ人」かもしれない。「フランス人」とか、「イスラム教徒」とか、「ユダヤ人」とか、「レッドネック[保守はの白人労働者層]などとか言われることもある。特定の信仰を持たない「不信心者」かもしれないし、信心深い「ハジ[メッカ巡礼をすませたイスラム教徒、またはキリストの墓参をすませたキリスト教徒]」なのかもしれない。
 しかしどの顔も、一心に見つめれば、何かに属した存在などはない、世界に一人しか存在しない「彼」か「彼女」なのだ。そして、彼または彼女ならではの重さも悲しみも、美も、醜さも、知恵ももっているはずだ。もしもそれが見えれば、ほんとうに見えれば、限りなく小さいけれども、決して消えることのない大切な真実、宝石のような真実を得ることが出来るかもしれない……。私はそう思いたかった。
 よかれ悪しかれ、それが私の信じたかったことである。ただし、それがどんな種類の真実なのかはわからなかった。

[松本薫訳]

そして、解説の増田伶さんの文書にもドキッとさせられた。
『[彼ら」と「私たち」』(増田伶)から引用する。

写真を撮るとこととは、被写体との関係を取り結ぶことだ。そこでは一面的に見れば、カメラを介して「撮り手=主体」と「被写体=客体」という明快な関係が成立している。つまり写真家自身の言葉を借りれば。「撮り手=侵入者」が、「被写体=私とは違う人々の世界」に、まなざしを投げかけるという構図が成立していることになる。
 しかし、ながらそこから生み出される写真という視覚現象は、その出自において成立していた構図ほどには単純ではない。写真は一般に思われているように、被写体についての証言や記録である場合もあるが、むしろ被写体についての新たな問いや謎を提示するものとして現れる場合もある。「写真を撮るということは、果たして世界を描写することなのだろうか」というような自問自答を繰り返すルビンファインはまぎれもなく後者、被写体について、撮り手自身に対して新たな問いや謎として現れる写真のあり方に、より忠実な写真家である。
 写真はそれを撮った写真家自身に対しても問いを発する。あなたはなぜその写真を撮ったのか。あなたの投げかけたまなざしはどのようなものであったのか。このように言い換えてもいいだろう。写真は、撮るという行為において成立する、カメラを介在にした主体と客体という関係それ自体に問いを投げ掛ける。そもそも被写体に魅了されてシャッターを切った撮り手は、はたして一方的な主体というべきものなのか。そういう問いに対して長い時間をかけて考え続けることが、ルビンファインの写真家としての仕事の仕方なのだ。彼は写真をとることによって答えを導きだそうというのではなく、どこまでも問い続けられるような新たな謎を探し求める。

2012-06-16

勝又邦彦「dimensions」展

 表参道画廊『勝又邦彦「dimensions」展』を見に行く。
 http://www.omotesando-garo.com/link.12/masuda+katumata.htmlより

「Hotel's Window」は表題どおり、ホテルの客室とその窓からの眺めをめぐる作品。窓を通して「とざされた客室=空間」に去来する光の記憶は、写真/カメラというメディウムのあり方そのものを連想させます。

に惹かれる。
 「screen」(夜のビルの壁面に映る木の影),「cities on the move」(電車から外の景色を遅いシャッタースピードで撮る)は似たようなことを私もやっているのだが、

http://www.flickr.com/photos/heliograph/5762200392/in/photostream/
http://www.flickr.com/photos/heliograph/5761656807/in/photostream/

http://www.flickr.com/photos/heliograph/sets/72157613347600375/
http://www.flickr.com/photos/heliograph/3015787790/in/photostream/
http://www.flickr.com/photos/heliograph/3014953761/in/photostream/

やはり違うか。

表参道から渋谷へ

Richo GX200 ノイズが多いのを再認識、やはり夜はむりですね。

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2012-06-14

本橋成一写真展「屠場」

 銀座ニコンサロンへ『本橋成一写真展「屠場<とば>」』を見に行く。
私の使っているAtok「屠場」も「屠殺場」も変換できなかった。世の中が,できるだけ見ようとしていなかった場所の写真。ナイフ一本で牛を解体してしまう男たちの表情が素晴らしい.
会場でサイン入りの

屠場

屠場

を買う。
 この写真集を紹介する動画がアップされていました。
D

銀座

 ニコンサロンを出て、Apple Store へ、新しい「15インチMacBook Pro Retinaディスプレイモデル」の前に行列が出来ていました。私のお目当ても「Retinaディスプレイモデル」を見たからですが、脇から見ているだけでは、どの位すごいディスプレイのか良く分からなかったです。
 その後、写真を撮りながら、東京駅まで歩く。
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2012-06-13

フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」


池袋駅で見た、フェルメール展のポスター
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 フェルメールってすごい人気、近頃、フェルメールの作品を呼び物にした展覧会が多く開かれているが、今回のマウリッツハイス美術館展では、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」が呼び物になっている。

 この絵を見ると思いだすことがある。この春、鎌倉の小さな本屋にいたとき、レジでのこんなやりとりを聞いてしまったのだ。お爺さんが入って来て、「図書カードを送りたいんだけど、一万円図書カードはあるか」尋ねた。店員が「ございます。」と言いながら、その一万円の図書カードを見せたら、お爺さんは「何だこれ、気持ち悪いな、他にはないのか」と言いだした。店員が「一万円はこれだけです。」と言うと。「なんだこれは」と爺さん。「ルノワールモネとかの名画のシリーズなんですけど」と店員が言ったけれども、結局、このお爺さんは買わずに出ていってしまったのだ。この時点で、一万円の図書カードの絵が何であるか知りたくてたまらなくなった。少し後に今度は、中年の女の人が来て一万円の図書カードを注文した。今だと思って、レジに近づき図書カードを見た。そこに印刷されていたのがこのフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」だったのだ。

 自分は絵や写真をみるとき、自分が予備知識なしに、絵や写真をちゃんと作品を見ることができるのだろうか?自分だって、結構、有名で世間で一定の評価を得ているものを「何だこれ、気持ち悪いな」って言ってしまう可能性あるんじゃないか。
 そう思うと、あのお爺さんがカードに印刷された「真珠の耳飾りの少女」を気持ち悪いと思うのも分からなくはないのだ。

2012-06-12

記録に依らずに見ること

2001年 東京国立近代美術館で開かれた「写真の現在 2  サイト - 場所と光景」で見た、鈴木理策さんの『サント=ヴィクトワール山 2001年』に強く惹かれた。
その写真を撮ったときの様子が、

鈴木理策さんの「記録に依らずに見ること」という文章に書かれていた、写真を撮る上で非常に興味深いので一部を以下に抜粋する。

鈴木理策「記録に依らずに見ること」より

実際に山を歩いてみて、当初予定していたフォトストーリーは変更すべきだと感じました。細かな考えを準備するよりも、ただひたすら写真を撮るべきだと。一般には、写真を撮ることとを「撮りたいと感じた対象にレンズを向けて、良い構図を探し、シャッターを押すタイミングを待つこと」と考えられているのかもしれません。私は、見るという経験性を写真に置き換えることを大切に考えていますから、構図を探すこともシャッターチャンスを狙うこともしません。あえて「写真を撮ること」を忘れるのです。山道を歩く中で、目に留まった辺りにフォーカスした後は、場所と時間を全身で感覚します。その場で生きていることに必要な振る舞いだけに専念するのです。私が視線を向ける先は、動物としての自分が安全を確保するために選ばれたもの。写真という絵を完成させるためではありません。写真を撮る経験が重なると、効率的に「写真」を作ろうとしがちです。見ることの完成を定型化に導くその罠に抗するため、私は鳥の鳴き声や風の音など自分の外側から訪れるきっかけによってシャッターを切ります。意味や感情に任せてシャッターを押すと、そのことが画面に表れてしまうからです。写真を撮りたかったことを表すのが私の目的ではありません。写真を見た人が世界が自分の外側にあり、そこに時が流れていることを経験してほしいと思っています。セザンヌは「自らを感光板にして、その山から来る感覚を受け止めなければならない、その匂いさえも」という言葉を残しています。今になって思えば、エクサン・プロヴァンスでは、セザンヌのこの言葉に導かれたのかもしれません。

 この文章を読んで、「自分が街の中に見ている風景から受ける感覚を、そのまま写真を見た人に再現したい。そのために大きなプリントと細部まで写し撮るために、今、Stitching という技法にこだわっている。」という考えが浮かんできたのです。
 「お前は本当に、構図へのこだわりがないのか、見ることの完成を定型化しているんじゃないのと」いう声が聞こえてきそうですが、あまり人に自分がどんな思いでこんな写真を撮っているか説明する必要もないのですが、ひとまずこういう考えで、今までの写真を見直し、写真を撮り続けて見ようと思います。

参考:
「写真の現在 2  サイト - 場所と光景」のホームページ
http://www.momat.go.jp/site-sight.html

Mont Sainte Victoire

Mont Sainte Victoire

2012-06-11

Stitching

 昨日6月12日。、新しいいマクロ60mmでの撮影、Stitchingの材料集め。
まずこのレンズをNINJA 4にセットし、nordal pointの調整、その後、西新宿を歩く。
 今日はその写真の材料をもとにPTGuiでStitching。
 画角が半分になったので、枚数も増え、処理に時間かかる。やっとのことで作った30000x15711ピクセルの画像を作って、Photoshop Elemntsで見ようとしても、その間、コンピューが固まったようになり、なかなか表示することが出来ない。
これから、毎日少しずつ作業をしていくしかないようだ。
 B0位の大きさに印刷してみて、画素数の密度が上がった効果をみてみたいが、これもお金がかかるので、まずは、自分が納得できる写真を撮るように頑張るしかないようだ。
 

2012-06-10

twitterの揮発性とtogetter


もっぱらBlogtogetterで自分のまとめならまだしも、人のまとめを載せているのですが、こんな呟きがありました。



Twitterって、すぐに読めなくなって、忘れられてしまうところもが気楽でよかったという人もいるんでしょうね。でも、時々残しておきたくなるような連続Tweetがあったり、興味深い議論というか会話が繰り広げられるので、まとめられるtogetterが結構気に入っています。
というわけで、今日も人のtogetterを紹介します。

[togetter]横須賀美術館「L'Arc〜en〜Ciel 20th L'Anniversary EXHIBITION」に対する美術クラスタ周辺の反応


昨日から開催された横須賀美術館「L'Arc〜en〜Ciel 20th L'Anniversary EXHIBITION」についていろいろなTwitter上の反応を版一決(@edition)さんがまとめてくれました。

2012-06-09

入館料も高く、来場者数も多い日本の美術館はなぜ赤字か?




このTwitterに紹介されている「人力検索はてなへのlink」に
 メトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum of Art, New York) と、東京京都国立近代美術館や国立西洋美術館など5館を運営している 独立行政法人国立美術館の財務状況などが分かりとても興味深いです。

ここまで、書いたところでtogetterに@kmzwhrsさんのこんなまとめがあるのを見つけました。

2012-06-08

「変わる」ではなく、「思い出す」こと

風の旅人 佐伯剛 (@kazesaeki)さんのtweetをまとめました。

2012-06-06

『The Ongoing Moment』

ART iTの『連載 清水穣 批評のフィールドワーク:26 脱色でも褪色でもなく ― 森山大道の最新作カラー写真<1>』
http://www.art-it.asia/u/admin_ed_contri7_j/43yoRVInDKpq8OFWkXmz/
の中で、Geoff Dyerの『The Ongoing Moment』という本について、こう書かれていた。

2006年に国際写真センター(ICP)インフィニティ賞のWriting Awardを穫ったジェフ・ダイヤー の『The Ongoing Moment』という、アメリカのストリートフォトグラフィをめぐるエッセイがある。ダイヤーは、フランクの『The Americans』が(フランク本人が、ではない)いかにエヴァンスの『American Photographs』を参照しているか、言いかえれば、ある写真における個々のモチーフとその配置 ― 例えばタルボットの、黒く四角い開口部に箒が立てかけてある光景や積み藁に梯子がかけてあるイメージ、あるいは戦前の写真に頻出する帽子を被った男のイメージ ― それらが、まるで遺伝子の様に、知らぬ間に後の写真家の写真の中に登場する現象を列挙するのだ。つまり写真は写真の中で撮られ、写真の中で見られ、写真を記憶している、と。実際、スナップショット、特にアメリカ写真と言われるジャンルの写真集を何十冊か見ると、写真家たちが同じものばかり撮っていることに驚かされる。ガソリンスタンド、立ち並ぶ電柱、看板、文字、帽子。佇む男、冬枯れの木。こんなに限られたモチーフばかり撮っていていいのか?と思えるほどに、様々な写真家たちの写真は遺伝子を共有している。


自分自身も写真を撮るとき、何かある『特定のもの』に出会うと必ずシャッターを押している。確かの、本当に限られたモチーフしかとってないのかもしれない。そんなわけでこの本、Amazonで早速購入することにしました。

The Ongoing Moment (Vintage)

The Ongoing Moment (Vintage)

“美術鑑賞には知識が必要か否か”-単純化された図式により失われるものの存在-


 またまた、@edtion1さんのTogetterによるまとめの紹介。
美術鑑賞だけでなく、ニュース解説とか授業とか、単純に図式化して分かったような気にさせるものの方が歓迎されていますよね。そのことの危険性も考えねばと思いました。
 

2012-06-05

宮島達夫「ドローイングについて」


展覧会でもドローイングの方に作家の魅力を感じることが多いのですが、
宮島達夫さんのドローイングについての呟きをtogetterでまとめました。

2012-06-03

マクロレンズ購入

 田んぼの作業が一段落し、田んぼの周りにも行かなくなり、生きものの写真を撮らなくなったのですが、マクロレンズを購入してしまいました。
 ちょっと贅沢して、Micro NIKKOR 60mm f/2.8G ED を使ってみることにしたのです。
 D7000で使いますから、フルサイズで90mm相当のレンズになります。 
 これまで、コンパクトデジカメで一番広角にして、虫やカエルの目の前にカメラを近づけて撮っていたのですが、ピントを外したり、生きものに逃げられたりすることが多く、デジタル一眼レフで少し長めのレンズを買えば簡単に撮れるのではと思っていたのですが、購入して早速、近くの原っぱに行き使ってみたのですが、なかなかそう簡単には撮れませんでした。被写体深度が浅く思うようにピントが合いません。
 それにしても、昆虫写真で新しい表現というのは難しく、平凡な写真しか撮れませんね。
 自分で身のまわりの虫の図鑑でも作ろうと思うのですがどうなりますか?
 実をいうと、このレンズはStitchingの写真を撮るのにも使おうと思っているのです。もっぱらStitchingには35mmを使っていましたが、ちょっと目先を変えてみようというわけですが、これもまたどうなりますか?

ベニシジミ
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ホソヒラタアブ
f:id:heliograph:20120603180510j:image
ハリカメムシ?
f:id:heliograph:20120603182100j:image
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木下晋展−祈りの心−

 平塚市美術館に『木下晋展−祈りの心−』を見に行く。先週日曜美術館で紹介されていた展覧会だ。鉛筆それも線ではなく面で捉えた作品。自分の母親、最後の瞽女小林ハル、元ハンセン病患者の詩人桜井哲夫等人物を描いた作品がほとんどだ。まずその大きさに圧倒させられる。写真で言うと全紙どころでなく、B0、AO位の大きさだ。超広角レンズで上から撮った人物のようなデフォルメされた人物写真もあった。
参考:http://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/art-muse/2012202.htm
 

 

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