その125 楽しい小説をお探しの方に。

 んらい、小説というのは楽しむためにあるもので、だとすれば「楽しい小説」というのは、馬から落馬するとか、頭痛が痛いといった言い方と同じものかもしれない。私は、こうした重複表現のことを考えるといつも、かつての上司が『セツナイコイ』という漫画のタイトルを見て「恋なんてせつないに決まってるんだからこのタイトルはおかしいよな!」と憤っていたのを思い出す。その瞬間に居合わせた人は「ああ…」とか「ええ…」とか言うだけで誰も深入りをしなかったので、あの発言が彼の真意だったのかどうかは結局今もわからないままだ。

 楽しい小説…それはおいしい料理と同じくらい根拠が不確かで、個人的なものかも知れない。けれども味覚が化学反応であるのと同じく、小説を読んで楽しいというのにもそれなりの理由というか、構成要素があるのだろう。今日はサマセット・モームの『お菓子とビール』という小説が、自分をどうしてこれほどまでに楽しませるのか、少し考えて書いておこうと思っている。

お菓子とビール (岩波文庫)

お菓子とビール (岩波文庫)

 『お菓子とビール』は二十世紀前半のイギリスを代表する作家、サマセット・モーム五十六歳のときの作品で『月と六ペンス』『人間の絆』と並ぶ傑作の一つと評されている。本の解説によると、四十歳から七十四歳までの長きにわたって小説を発表し続けた作家の代表作であるだけでなく、著者自身いちばん気に入っている作品でもあったという。これだけで、モーム・ファンには読む理由としては十分だ。モーム作品は『雨・赤毛』という短編集と『月と六ペンス』しか読んでいなかった私だが、二作ともに心酔した経験があるので、この作品が新訳(二〇十一年刊)で出ているのを見つけたとき、すぐさま買わずにはいられなかった。

 私は、モームの人間観が好きだ。モームの自伝的エッセイ『サミング・アップ』にこんな記述がある。

人間を観察して私が最も感銘を受けたのは、首尾一貫性の欠如していることである。首尾一貫している人など私は一度も見たことがない。同じ人間の中にとうてい相容れないような諸性質が共存していて、それにも拘わらず、それらがもっともらしい調和を生み出している事実に、私はいつも驚いてきた。

 悪評のたつ人の中にある優しさや清らかさ、貧しく無学な人の中にあるおおらかさや勤勉さ、社会的に評価されている人の内にある狡猾さや俗物根性、モームの小説『お菓子とビール』には、今記したような人々の性質がときに感動的に、ときにユーモラスに描かれている。けれども全体としてモームが人を見る目はフラットでこだわりがない。いろいろ嫌なこともあるけれど、こんなふうに世の中を見たら許せるような気がする、少なくとも辛かった思い出が少しだけ浄化される。そんなせつない意図に裏打ちされた笑いがモームの小説の魅力ではないかと思う。
 例をいくつかあげる。どれも私がこの小説で好きな記述だ。

ロイが文壇で次第に頭角を現してくる過程を結構関心して見てきた。その道程は、これから文学の世界に入ろうとしているどんな青年にも大いに参考になるだろう。あんな僅かな才能であれだけ高い地位を得た作家は私の同時代には見当たらないと思う。ロイの才能たるや、健康に敏感な人なら毎日服用するがよいと宣伝されているサプリメントのスプーン山盛り一杯分くらいであろうか。

「六十年間も仕事を継続し、毎年作品を刊行し、次第に読者を増やしてきたドリッフィールドが評価に値するのを否定するなんて、僕には理解できないな。ファーン・コートの邸には各文明国の言葉に翻訳された彼の作品がずらりと並んだ棚がある。今日では古風に感じられる作品も多いのは認めるにやぶさかではない。彼の活躍した時代の風潮で、冗漫になりがちだった。筋立ては概ねメロドラマ的だ。だが、常に彼の作品すべてにあると認めねばならない特質がある。それは美だ」
「ほー?」僕が言った。
「いちばん大事なのは、美が充満していないページを一ページも書かなかったということだ」
「ほー?」

なるべくジョージ殿には会わないのがよい、と思った。ところがある日大通りで彼に会ってしまった。
「いよう、坊ちゃん」僕のいちばん嫌いな言い方で呼びかけた。「休暇で帰省したのだな?」
「あなたの推定は正しいです」僕はぞっとするような嫌味をこめて答えた。
残念なことに、彼は大笑いするだけだった。
「君はナイフみたいに切れる人だから、用心しないと自分のことを切ってしまうよ!」

 この、意地悪なんだけどちょっとやさしい感じがとても好きなのだ。

 『お菓子とビール』は、亡くなった大作家の伝記を書こうとする友人に、大作家について知っていることを教えてくれと頼まれた語り手が、若かった頃の自分と大作家との交流を思い出して語る、という話。しかしながらこの小説の面白さは、伝記には書けない思い出の数々にある。それは当時自分が住んでいた下宿の雰囲気だったり、美人で不節操な大作家の奥さんと交わした会話のことだったりする。そのひとつひとつは社会的に価値がなかったり、許されなかったりする思い出、『お菓子とビール』のような思い出なのだ。この楽しさ、愉楽そのものをモームは書きたかったのだと思う。
 少々ゴシップめいた話になってしまうが、小説の中で大作家の妻として登場するロウジーという名の魅力的な女性は、モームの実人生にモデルがいたらしい。本の解説に、こんな記述があった。

彼女はモームが生涯で愛した唯一の女性だと判断して正しいと思う。求婚を拒否されても、彼は恨むことなく、いつまでも彼女への追憶を胸に秘め、『お菓子とビール』という創作の世界で見事にロウジーとして蘇らせることが出来たというわけで、その点作者としてはさぞ満足だったに違いない。ロウジーの創造は本書のもっとも注目すべき特色であり、作品の魅力の源泉である。

 つまるところ、これは物語の筋というより、脇道に魅力のあるたぐいの小説である。しかしながら、その脇道のひとつひとつが、著者の実人生の失意と情熱に裏打ちされているので、私はこの小説をどうしようもなく好きになってしまうのだった。小説に書かれていることが、そのまま小説を読むという行為の価値を語る構成になっている点が、この小説が傑作と呼ばれるゆえんではないかと思う。(波)

サミング・アップ (岩波文庫)

サミング・アップ (岩波文庫)