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百錬ノ鐵 hyaku ren no tetsu

3014-12-20

「関西クィア映画祭2014」問題 まとめ

2015年8月21日 更新

2014年度「関西クィア映画祭」の宣言文において、レズビアンに対するヘイトスピーチが行われています

その内容の差別性について、私は再三に亘り子細な検証と指摘を行ってきました。しかし同映画祭実行委員会代表者不在)は、支離滅裂とも言える詭弁を弄して居直るばかりであり、クィアを称する自らの政治的党派性とそれに依拠するレズビアン差別行使正当化特権化しています

ここに私は実行委員会に対し、問題差別的宣言文の撤回謝罪、および総括要求ます

問題差別的宣言

関西クィア映画祭について http://kansai-qff.org/#about

公開質問状とその回答

公開質問状(1) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141013/p1

回答(1) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141014/p1

公開質問状(2) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141015/p1

回答(2)&公開質問状(3) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141017/p1

公開質問状(3)追記 http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141017/p2

回答(3) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141018/p1

回答(3)追記 http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141018/p2

通告(1) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141021/p1

回答(4) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141206/p1

通告(2) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141206/p2

公開質問状(4) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141219/p1

回答(5) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141223/p1

・経過報告

報告(1) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141224

シンパからの反応

@lolonzlol編 http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141015/p2

@isidaiori編 http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141101/p1

@yu_ichikawa編(1) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141110/p1

@yu_ichikawa編(2) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141110/p2

・総括

総括(1) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141020/p1

総括(2) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141020/p2

関西クィア映画祭実行委員会Twitterアカウント

実行員会 @kqff_official

斬 @ZAN__

福永玄弥 @Genya_F

冨川瞳(とみー) @hitomikawa

 

2017年10月10日 追記)

実行委員「斬(@ZAN__)」氏のアカウント名を「@__ZAN」と誤表記しておりました。謹んでお詫び申し上げます

なお「斬(@ZAN__)」氏は一連の実行委員会との議論において実行委員会側の窓口役を務めていた人物ですが、現在当方はこの方からブロックされています(ちなみにメールでのやり取りのみで、Twitter上での絡みはいっさいありません)。

2017-10-16

「レズビアン当事者」の同人作家・玉置こさめによる紋切型の「保毛尾田保毛男」擁護と「百合」バッシングに反論する

2017年10月17日 加筆修正

レズビアンぼやき

https://togetter.com/li/1161201

保毛尾田保毛男騒動に便乗した「レズビアン当事者」の@krkawwaによる連投ツイートのセルフまとめ。「玉置こさめ」なる名義で同人百合小説を書いているほか《レズビアンコラムLGBT情報ポータルサイトFREE!! さまで連載》しているとかで、まとめの内容と無関係個人的宣伝臆面もなく載せている。

しかし全体にわたって要領を得ないだらだらとした文章で頭の悪さが窺える。このような馬鹿でさえ「作家」を僭称して活躍の場が与えられているというのは、じつのところ「LGBT業界」の層の薄さを証明しているにすぎない。

論点があっちへふらふらこっちへふらふらと一貫性がなく、論理的思考力の欠如が如実に表れているものの、ようするにこのまとめの主旨はレズビアン当事者」の立場から保毛尾田保毛男」を擁護するという試みである

もっと当人は“擁護否定もしない”と言い訳しているものの、あのようなあからさまなホモフォビア同性愛嫌悪)に根差すヘイトスピーチを“否定しない”時点で“擁護”と変わらないし、また実際、当人意図関係くそうなっているのが問題だ。

レズビアン当事者」の立場からということで、玉置こさめ氏としては傾聴に値する斬新な見解提示しているつもりのようであるけれど、文章にまとまりがなく異様な悪文であることを除けば、じつのところ非当事者による紋切型の「保毛尾田保毛男擁護をそのままなぞっているだけだ。

誇張表現侮蔑というけど 実際にあのタイプの人間実在したとしたら その人をテレビに出したら「ホモ侮辱している」という存在になるのかね

https://twitter.com/krkawwa/status/919386706473754624

ステレオタイプホモテレビ表現する芸を差別だと言って抗議することそのもの差別ではないのか? ということ

https://twitter.com/krkawwa/status/919394427872755715

保毛尾田保毛男」の件については「LGBT当事者」を中心とした抗議の声がマスメディア上でも取り上げられ、告発批判論点も明確にされているが、玉置こさめ氏は同じく「当事者」を名乗りながら未だにこの認識とは呆れ返るほかない。

まずステレオタイプホモテレビ表現する芸》が「差別」として糾弾されているのではない。それを「非当事者異性愛者=非同性愛者)」の立場から嘲笑侮蔑対象として表現する行為こそが《差別表現なのだ議論の前提すら共有できていないのでは話にならない。

保毛尾田保毛男」を見て嫌悪感を抱くのは当然である。「女性的なゲイ男性」のステレオタイプイメージを露悪的に誇張しているからだ。

それでも仮に「ゲイ当事者」が自ら主体的に、社会的認知を求めて「保毛尾田保毛男」を演じたなら、また受け取り手の印象も異なったかもしれない。しかし言うまでもないが保毛尾田保毛男」は《実際に実在するあのタイプの人間》ではなく人気芸人石橋貴明が演じた架空キャラクターであり、なおかつ大の女好きである石橋が「ホモ(非異性愛者)」を偽るというギャップこそが笑いどころとなっている。そのあたりは、初めからゲイ」という設定でデビューしたレイザーラモンHGとは意味合いが異なるだろう(むろんあれに対する解釈評価は別の問題)。

まり保毛尾田保毛男」とは、そのような前提を視聴者が共有しているからこそ成り立つ「内輪ノリ」の芸なのだ。それを現実の「女性的なゲイ男性」に対するホモフォビアと同一視するのは、それこそ「現実」と「空想」の区別が付かない者の発想である

何が差別かはみんな知ってるし それがいけないこともみんな知ってるけど 何が「差別でないか」は規格みたいに統一されてないから共有されずみんな困るんだよ で 偏見禁止差別禁止ばかりでは反感も生まれるだろう それは

https://twitter.com/krkawwa/status/918140939230523392

《何が差別かはみんな知ってる》というが、まさに「何が差別か」という前提が共有されないまま「差別」が“いけない”という建前が先行しているからこそ《何が「差別でないか」は規格みたいに統一されてない》である

ちなみにこのことをTwitter上で(引用リプという形で)指摘したところ、反論すらないまま即座にブロックされた。被承認欲求丸出しのセルフまとめを作ってまで自己宣伝に勤しみながら、不都合批判排除するとは了見の狭い人物である

ならばせめて玉置こさめ氏は、「差別」を議論する上での現状認識すらなっていないくせに「当事者であるからとわかったような口を利くのはやめたほうがいい。

根底にはホモセクシュアル侮蔑する人々がいるから だから擁護する必要性があるとされてるけれど ホモ差別してるのはとんねるずでなくて世間の人々、つまり視聴者なんだよ

https://twitter.com/krkawwa/status/919387967793242112

ホモ差別してる世間の人々」と「とんねるず」を、なぜあえて切り分ける必要があるのか不明。むしろホモ差別してる世間の人々」を代表しているのが「とんねるず」であり「保毛尾田保毛男」の表象であろう。

保毛尾田がセクシャルマイノリティの誇張をしている、侮蔑だというなら 木梨ノリ子は不美人女性を誇張して女性侮蔑しているのに どうして誰一人として抗議しないの?

https://twitter.com/krkawwa/status/919387169042579456

なんで保毛尾田がだめで木梨ノリ子はアリなのか どうして誰一人抗議をしなかったのか もうその時点で私は傷付いている気がする 自分の居場所はそういう社会だってこと

https://twitter.com/krkawwa/status/919391628686647296

ホモフォビア同性愛嫌悪)とミソジニー女性嫌悪)が分かちがたく結びついていることは自明であり、その意味で「木梨ノリ子」のミソジニーを指摘するのは正しい。が、それはむしろ保毛尾田保毛男」への告発批判を補強するものであり、告発批判の相対化ないし無効化に用いられるべきではないはずだ。

このようにして「保毛尾田保毛男」を告発批判する人々にいちいち見当違いな言いがかりをつけてみせる一方で、玉置こさめ氏は自身作風と異なる「百合まんが」に対しても「レズビアン当事者」の立場から見当違いな言いがかりをつけている。

そしてこれもまた「レズビアン当事者」にありがちな紋切型の「百合バッシングを下手糞な文章でなぞっているだけである文章が下手糞であることを除けば玉置こさめ氏自身のオリジナリティは皆無だ。

(前略)マイノリティ教育が紙切れどまりである以上は なんか偏見よくないとかいうが 現実に報われない同性愛者を置き去りに美しい百合まんがはよくて 下品ホモキャラはだめってのはおかしくねえか どちらも現状に沿ってるわけではないだろ

https://twitter.com/krkawwa/status/918133037384179713

玉置こさめ氏によれば、「美しい百合まんが」を描くことは現実に報われない同性愛者を置き去りに》しているのだという。ところが、その論拠は明示されない。

でも最近百合百合おとぎ話まりにしない作品が増えてきてるのが個人的には嬉しい もちオーレ先生の「出会い系」とか 多分作者様はそれを意識してないだろうけど「出会い系」なんて生臭い出会い方を描く百合はなかったと思う おしゃれな雰囲気漫画でならあったかもしれないけど

https://twitter.com/krkawwa/status/918134982534619136

出会い系」で女と出会うのは レズ日常に沿っているんだよ すごく だって偶然レズレズ出会える確率は低いんだよ 色々な理由で だからネットがなかった時はきつかった

https://twitter.com/krkawwa/status/918135756723404801

初歩的な誤解である百合まんが」は「レズビアン」を描くものではない。

元より、何をもって人を「レズビアン」とするのか。人間セクシュアリティ自己申告である以上、自ら「わたしレズビアンだ」と自認・自称する人間しかレズビアン」たりえないのであり、その意味で「百合まんが」の多くに「レズビアン(を自認・自称する人間)」は登場しない(例外と言えば後藤羽矢子『プアプアLIPS』くらいなものか)。

よって「美しい百合まんが」を描くことが《現実に報われない同性愛者を置き去りに》しているという指摘も当たらない。そのような理屈を認めるのであれば、そも女性同士の恋愛関係のみで完結した作品を作ること自体が、異性愛者や男性同性愛者、両性愛者、さらには性別を前提とせずに恋愛をする人々を“置き去り”にしているという理屈も成り立ってしまうからだ。

さらに言えば、しろそれこそ「レズビアン」が女性を愛して男性を愛さないことが「差別であるといった紋切型の「レズビアンバッシング再生に他ならない。

裏を返せば「保毛尾田保毛男」のようなあからさまなヘイトスピーチ擁護するにあたっては、そのような「屁理屈」に頼るほかないのであり、また玉置こさめ氏がそのような「屁理屈」を持ち出している時点で、やはり「保毛尾田保毛男」を擁護していることになる。

あるいは、女性同士の恋愛をたんに“美しく”描くことと、そこに観念的な意味性ないし政治性を付与して“美化”することは、その前提や動機からして本質的に異なった表現であるその点においても、やはり「同性愛」というセクシュアリティ自体侮蔑嘲笑対象として観念化した「保毛尾田保毛男」の問題パラフレーズすることはできない。

元より、これは主観による恣意的な印象論ではなく、作品自体文脈およびその機能から読み取ることのできる「事実」であり、それが玉置こさめ氏にできないというのであれば評論家の真似事は慎むべきであろう。

付言するなら、自分推しである作家作品(玉置こさめ氏の場合はもちオーレ)を持ち上げるにあたって、わざわざ他の作風作家作品を貶めるレトリックは、いわゆる贔屓の引き倒しであって、ようは他の作風作家作品を貶めるためにもちオーレをダシにしているだけであるもっとも嘆かわしいことに、玉置こさめ氏のような素人は元よりプロ評論家であってもそのような愚論を振りかざして悦に入る者は少なくないが、たとえプロであっても三流の評論家にすぎない。

あの生臭さが完全に新しいと死ぬまで5億回讃えていきたい でも美しいだけの百合も好き! あと生臭いというなら ほかにもいろんな作家さんが既に現実に即した百合を描いてるしなー!!! いい時代だな!

https://twitter.com/krkawwa/status/918136709472063489

出会い系サイトを利用する「レズビアン当事者」を“生臭い”などと評することが妥当であるかはさておき、そも「美しいだけの百合などというもの存在するのか。一般に「百合ファンタジー」の代名詞として引き合いに出される『マリみて』でさえ、実際には女性同士の意地の張り合いや嫉妬独占欲などを臨場感あふれる筆致で切実に描いている。

しばしば「百合まんが」は、現実の「レズビアン」を表面的にしか捉えていないなどと「当事者から槍玉に上げられがちだが、それこそ「百合まんが」を表面的にしか捉えていない証拠であるさらに「百合まんが」が「レズビアン」を描くものではないことを鑑みれば、二重に的外れな「ためにする批判」でしかない。

それにしても、まとめのタイトルには『レズビアンぼやきとあるが、いち「当事者」にすぎない玉置こさめ氏に「レズビアン」を代表する資格はない。被承認欲求丸出しのセルフまとめを作って自己宣伝に勤しむ玉置こさめ氏にあっては、むしろ『玉置こさめのぼやき』と改めるべきではないか。

2017-09-14

「レズビアン」は“時代遅れ”?〜牧村朝子×きゅんくんの「cakes」対談に寄せて

2017年9月16日 加筆修正

「 性」もそれ以外も、自分カテゴライズしないと決めてる理由/牧村朝子×きゅんくん【前編】|QREATOR AGENT

https://cakes.mu/posts/17550

 

あえて「私はレズビアン」って言わない

 

きゅんくん 自分のことシスジェンダー(出生時に診断された性と自認する性が一致している)だとは思っていないんですけど、だからといってトランスジェンダーでもないんですよね。中学生の時は悩んでいました。

でもその頃に、カテゴライズすると疲れちゃうからやめようって思ったんです。そこからふわふわテキトーに、カテゴライズせずにいます。自認はバイセクシュアルなのですが、近頃は「セクシャルフルイディティ(※2)」も、もしかして自分に近いのかな、なんて思ったりもします

そうすると性別があるとか、ジェンダー社会構成されているっていうのがあんまり気持ちよくなくて。

 

※2:LGBTの4種類のどの型にも当てはまらない新しい性のあり方とされる。別名「セクシャルフルイド」とも呼ばれており、好きになる相手性別が水のように流動的で定まらずに、その時々の相手によって変わることから来ている。ハリウッド俳優ジョニー・デップの娘、リリーローズカミングアウトしたことでも知られる。

 

牧村 60代くらいのアメリカ活動家の方とお話した時に、「最近若い子はレズビアンって言わない」とおっしゃっていたのが印象的でした。その方の若い頃は、「私はレズビアン」「私はゲイ」ってカッチリ区別するような感じだった。「私はレズビアン」って名乗ることがかっこいいことだったって。でも今の若い子はなんだかそうやってガチッと言わない。そういうのを「クィアー(queer)」っていうのよねって。

 

(中略)queerも、日本語で「クィアー」って言ってしまうと、カテゴリ名称になってしまうけど、英語だと形容詞的に使えるじゃない。「I’m queer」って言っても「私ってクィアーな人なの」って響きで、「私はクィアーです」というカテゴリ帰属宣言には聞こえなかったりする。

ところが日本ではまさしく《「私はクィアーです」というカテゴリ帰属宣言》として「クィア」なる用語流通しているのが実態である

本文中には注釈としてレズビアンゲイバイセクシュアルトランスジェンダーの各語の頭文字に、最近クィアー(queer)も加わり表現されるようになった。》との記述があるが、不正確な説明である。「LGBTQ」の「Q」とは「クエスチョニング(Questioning)」、すなわち性自認性的指向規定しない(明確にしない)人々を指す言葉だ。

翻ってクィアQueer)」とは「クィア理論」および「クィア運動」と称する政治的イデオロギー立脚した観念であり、自らその語を用いるということは、すなわち「クィア理論」および「クィア運動」の支持・加担を意味する。

しかし一方で「Questioning」と「Queer」の頭文字が共に「Q」で始まることからさらにはクィア理論」において《セクシュアリティ流動性》が人間本来のあるべき姿として理想化されていることから実質的に両者がしばしば同一視されているのも事実である。「セクシャルフルイディティ」とは聞き慣れない言葉だが、《セクシュアリティ流動性》を人間本来のあるべき姿として規定する「クィア理論」においては、やはり「クィア」と同一視されるのであろう。

さて「クィア」すなわち《セクシュアリティ流動性》が人間本来のあるべき姿であるという「クィア理論」に則るのであれば、〈男/女〉の《性別》をセクシュアル・アイデンティティ性的主体性)として自己規定する「レズビアン」は、まさに「人間」ではないということになる。

その「クィア運動」の日本国内における最前線として、例年開催されているのが「関西クィア映画祭」であり、その2014年度の宣言文において「レズビアン」のセクシュアル・アイデンティティ性的主体性)を一方的否定する「ヘイトスピーチ」が行われていたのは、すでに当ブログで提起したとおりである映画祭は今年も開催されるが、実行委員会は件の宣言文について何ら撤回自己批判も行っておらず、昨年は事情を知らない海外レズビアン活動家を招いて“箔付け”に利用するなどしている。

関西クィア映画祭2014」問題 まとめ

http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/30141220

そのような「クィア運動」を無批判称揚する上掲の対談記事においても、わざわざ中見出しで強調しているとおり、「関西クィア映画祭」と同様に「レズビアン」が槍玉に上げられている。これはかつて牧村が「レズビアンタレント」を称していた(あるいはそのようにメディアで扱われていた)ことに起因するのだろうが、いずれにしてもこの記事からは「レズビアン」について、時代遅れで凝り固まったネガティブイメージしか伝わってこない。

この記事を読んで、私があらためて確認したことは、やはり「レズビアンはいつの時代においてもマイノリティ(少数派)である、という単純な事実である

《「私はレズビアン」って名乗ることがかっこいいことだった》という「頃」があったとしても、「レズビアン当事者」のコミュニティという特殊な状況下においては、そのようなこともありうるだろうといったていどの話でしかない。異性愛至上主義を基盤とする一般社会において「レズビアン」が〈マジョリティ〉に“成り上がる”などということは、百合マンガ世界でもないかぎり想定にすら値しない夢物語の類である(そも百合マンガの多くに「レズビアン」という概念は登場しないが)。

関西クィア映画祭」の宣言文が示すとおり、「わたしレズビアンだ」という素朴なアイデンティティ表明すらも頭ごなしに否定される実情の中で、あえて「レズビアン」のアイデンティティ選択――元より、これは「性的指向」の選択・変更が可能であるか否かといった議論とは別次元事柄である――すること自体必要以上の覚悟と決意が強いられているのは、容易に推察できよう。

もっとも一方で現状は〈マイノリティ〉に甘んじながらも〈マジョリティ〉に“成り上がる”可能性を内包したセクシュアリティ存在する。それが《男性を愛する可能性》に“開かれて”いる「セクシャルフルイディティ」だ。

しかしいずれにせよ、レズビアン」がマイノリティであるなら、なおのことマイノリティとして尊重されるべきであるということになるはずだ。しかしどういうわけだか「セクシャルフルイディティ」とやらが人間本来のあるべき姿で、「レズビアン」は間違っている、といった話になってしまうのが解せない。

クィア理論」によらずとも《セクシュアリティ流動性》を提唱する人は少なくない。だが、それは多くの人が生涯の中で〈異性〉のみを愛し、〈異性〉のみとSEXし、〈異性〉のみと結婚して、なおかつそのことに何の不自由も感じないまま人生を終えるという厳然たる事実から、まったく目を背けている。少なくとも〈異性愛者〉のアイデンティティを有する人が〈同性〉を愛せないことについて悩み苛まれるなど「当事者である私自身の実感と照らし合わせてもまずありえない。

そのような〈異性愛者/非異性愛者〉間の明確な社会的政治的関係差異度外視したまま《セクシュアリティ流動性》などとぶちあげたところで異性愛者=セクシュアル・マジョリティ〉には何ら響かず、〈非異性愛者=セクシュアル・マイノリティ〉が「異性愛至上主義ヘテロセクシズム)」と「クィア主義」の“挟み撃ち”を受けてさらに圧迫される状況に貢献するのみである

とくにアメリカでは「ポリティカル・コレクトネス」の普及により、頭ごなしに同性愛否定することがはばかられる状況となった。が、そのせいで「レズビアン同性愛者)」を矯正して「異性愛者(非異性愛者)」に“治療”すべきだという「ヘテロセクシズム(異性愛至上主義)」の考え方からレズビアン同性愛者)」をやめる必要はないから「バイセクシュアル両性愛者)」を目指すべきだ、という「バイセクシズム(両性愛至上主義)」時代の流れが変化しつつある。

この無邪気なレズボフォビア(言うまでもないが、かつて牧村が「レズビアン当事者」を名乗っていたことは何の反証にもなりはしない)に根差した対談は、まさに私の憂鬱な仮説を裏打ちする格好の材料だ。

もっときゅんくんの言葉にある通り「セクシャルフルイディティ」は「バイセクシュアル」と同義ではない。だが問題概念用語辞書的な定義ではなく、レズビアン(非異性愛者)」に対して《男性(または非女性)を愛する可能性》に“開かれる”あり方を要求・期待する思想にある。

そのようなバイセクシズム(両性愛至上主義)」は、けっきょくのところ「ヘテロセクシズム(異性愛至上主義)」が形骸化された「ポリティカル・コレクトネス」やアカデミズムクィア理論)の後ろ盾を得て、より巧妙に形を変えたにすぎない。

なお、私は「レズビアン」に関して一貫したスタンスを取っている。

(1)女性女性を好きになるのに「レズビアン」に“なる”必要はない。

(2)「レズビアン」でないなら男性を愛するべきということにもならない。

(3)一方で「わたしレズビアンだ」と表明する人がいるならそれはそれとして尊重されるべき。

https://twitter.com/herfinalchapter/status/877010655986958336

おそらく(1)と(2)は比較的受け入れられやすいものであろうけれど、私がほんとうに言いたいことは(3)である

関西クィア映画祭」は件の宣言文の中で、少数派の中に少数派を作ってはならない、とも言っていた。だが、それは少数派が少数派のままで尊重され、その主体性アイデンティティ)が保障される権利を奪うものしかない。

レズビアン」のセクシュアル・アイデンティティ性的主体性)を時代遅れものと決めつけ、「セクシャルフルイディティ(=セクシュアリティ流動性)」を人間本来のあるべき姿すなわち「クィア」として称揚するこの対談記事は、まさに少数派(非異性愛者)を多数派異性愛者)に矯正する、言うなれば社会的規模の「ゲイ治療を促すものに他ならない。

2016-12-13

「BL/百合」否定派の漫画家・御前モカ氏(Babylion_110)との議論をインタビュー形式でまとめてみた。

2016年12月18日 加筆修正

なんか航空業界漫画を描いているらしいよくわからない漫画家の人が、「BL」や「百合」という用語名前)を使って「恋愛漫画」を“区別”すること自体が「差別であるというラディカルな議論を展開されていたので、百合ヲタ立場から乗っかってみることにしました。

御前モカ氏の一連の言説は、「BL/百合」の分野に携わるすべての作家出版関係者書店ユーザーに対する謂われなき誹謗中傷に他なりませんので、公共性のある議論と判断しました。

よって以下に、御前モカ氏とのツイートのやりとりをインタビュー形式にしてまとめてみました。

私自身のツイート文脈に合わせて接続詞などを適宜補っていますが、御前氏のツイートは、人を小馬鹿にしたようなふざけた顔文字使用も含めて原文ママです。ただ、一つの発言複数ツイートにまたがる場合は一つにまとめたり、また一つのツイート複数の論点が含まれている場合は切り離すなどしました。

また著作権法における引用の条件(批評研究目的)を満たすため、私自身の解説や所感を挿入してあります

「BL/百合」は《差別用語》なのか?

http://togetter.com/li/1059387

私(@herfinalchapter)の側のツイートをまとめたものです。議論の元となったツイートのURLは、私のツイートクリックし、ツリーから辿ってください。

議論の発端となった御前氏(@Babylion_110)のツイート

以前も書いたと思うのですが、仲良しのCREWが最近漫画を読み始めて「BLBLと巷が賑やかなので読んでみたら普通恋愛漫画じゃないか、何が他の「恋愛漫画」と違うのか」と言っていた。多くのCREWは似た感覚の方が多いと思うのです。環境によって価値観常識が作られるのかもしれませんね

https://twitter.com/Babylion_110/status/807238461350494208

それに対する私(@herfinalchapter)の反応(※引用リプ。よって御前氏の反応を期待したものではありませんでした):

そもそも「普通恋愛漫画」というのがわからないし、またなぜBLを「普通」でないと思い込んでいたのかもわからないし、あまつさえBLを勝手に「普通から隔離排除しておいて「普通であることに難癖をつけるのはさらにわからない。

https://twitter.com/herfinalchapter/status/807408332784877569

聞き手・構成 百合魔王オッシー

御前 全ての方が異性愛恋愛以外を「普通」と受け取っていないことへの皮肉、です。航空業界業界以外ではマイノリティとされる方がマジョリティと言っても過言ではない業界です。その環境に長年いた友人がBLを読んだ時、BLが異性愛恋愛漫画と別のカテゴリーにされていることに違和感を覚えた、という話です。

私も、友人も、航空業界という狭い業界内での常識が、「世間一般」の常識とは違うと感じております百合魔王オッシーさんが、BLは「普通恋愛漫画(世間一般でいう異性間恋愛漫画)」と同等に扱われているとお考えの上の発言でいらっしゃるかもしれませんが、私はそうは感じなかった、という話です。

漫画業界では「普通恋愛漫画」とされる枠とは別に「BL」がもうけられ、メディアなどで面白おかし報道されていると感じており、BLとは何なのか、名前だけしか知らなかった友人も同様に感じた。という話です。

私は「航空業界は、特別視されていない業界であり、そこでは全てが「普通・当たり前のこととして認識されており「世間一般」もいずれそうなればよい」ということを発信させていただいておりました。昔はカムアウトをし易い環境しかありませんでしたが、近年はいちいちする必要もない環境になっている会社が多いです。その中に長年おりましたので、私や友人にとって、区別する必要性は感じなかったのです。

航空業界は小さなコミュニティですが、環境により「人の常識普通」というものは違う、ということを常日頃呟き続けておりました。ですので卵が先か、鶏が先か、わかりませんが、いずれ枠をつくらなくても、皆が恋愛とは「異性愛普通で他は特殊」という認識ではなくなる日が来ればいい、という意味を込めた呟きでした。

――航空業界のことは存じませんが、まず「世間一般」において《BLは「普通恋愛漫画(世間一般でいう異性間恋愛漫画)」と同等に扱われている》という事実はなく、むしろ実態はその逆である認識しています

その上で私は、《普通/異常》《ノーマルアブノーマル》といった異性愛至上主義に基づく差別的価値判断とは別に、「BL」や「百合」といったカテゴリー名前自体必要であると考えています

御前 それは、今の「世間一般」では統一すると「差別意識、苦手意識」を持つ方が、好意的ではない反応を示し、対立を増長させる、という恐れがあるからでしょうか。

――いいえ違います。男女の恋愛と男同士あるいは女同士の恋愛表現の間に「差異」を認め、それぞれの違いを楽しむこと自体は《セクシュアリティ多様性》の肯定是認でこそあれ「差別」にはなりえないからです。

――またその意味で、「BL」や「百合」に関しては、そのじつ「普通」の恋愛と変わらないのであればなおさら男女の恋愛(を描いた作品)を求めるべきといった(ジャンル存在意義自体否定する)主張が昔からあり、件の「CREW」の方の意見もそのような文脈のものと判断しました。

御前 真逆ですね。(›´÷`‹ )

――「真逆」とは何を指しておられますか?

御前 カテゴリー必要ないと考えております

――あなたや一部の「当事者」にとって必要なくても必要とする人はいますし、またBLや百合を楽しんでいる「当事者」の方もおられますよ。なぜ一部の「当事者」の感性だけを特権化するのでしょうか?

御前 私の先輩は私の先輩は「違う」とされることに悲しみを感じられる方もいらっしゃいました。区別されることで傷つかれる方もいらっしゃいます差別はとても難しい問題で、差別にはなりえないとは言い切れないと思うのです。

差別ではないつもり」であっても「差別」と受け取り、悲しまれる方がいらっしゃいます

  • それを、隔離排除に“利用”される可能性があるからといって“無くすべきだ”というのであれば、包丁人殺しに“利用”される可能性があるから料理包丁を使うことを禁止すべきだという理屈と何も変わらないでしょう。

――「BL」や「百合」というジャンル名前)が存在すること自体が《同性愛差別であるので、「当事者」の悲しみに配慮してなくすべきという意味ですか?

御前 多分、お分かり頂けないと思うのです。 「無くす」わけではありません。 統一して、中から自分の好みに合うものを探せば良いのでは、と思っております。 探す利便性を優先させた結果が今だと思います

御前 私は、異性愛者ではない方々の受け止め方を考えていますマジョリティが楽しんでいるのだからマイノリティに合わせる必要はない。このお考え自体賛同しかます。この場合マジョリティは、傷つかず、作品が「BL棚」「百合棚」と書店様で分けられている作品を購入することに躊躇がない方を含んでいます

――あくま一般論ですが、ある言葉について「差別」に感じる「当事者」がいるから“なくすべきである”と短絡的に決めつけてしまうのはひじょうに危険な考え方です。どのように危険であるのかは差別表現表現規制をめぐる議論をお勉強なされてください。

御前 何か勘違いされているようですね。表現規制ではありません。 私も漫画家ですから、そのようなことは申し上げるつもりもありません。

  • 「BL/百合」といったカテゴリーや語彙を、たんに御前モカ氏自身が使わないというだけならまだしも「無くすべき」とまで言い張るからには、それはまぎれもなく表現規制であり《言葉狩り》以外の何物でもありません。

――だいたい《異性愛者ではない方々の受け止め方》と一口に言ってもさまざまであるのに、あなたの周囲の人の意見だけで決めつけてしまうのはどうなのでしょうか?

御前 百合魔王オッシーさんはどなたにとって差別ではないと仰っているのでしょうか?

――逆にお伺いしますが「BL」や「百合」といった言葉が《どなたにとって差別になる》と仰っているのでしょうか?

御前 ご自身恋愛感情特殊ものカテゴライズされている方々です。

  • あれ? 《「異性愛普通で他は特殊」という認識ではなくなる日が来ればいい》んじゃなかったの?

――《ご自身恋愛感情特殊ものカテゴライズされている》のであれば、「BL」や「百合」といった(既成の)概念にも当てはまらないはずですが、なぜそのような【方々】の主張や心情を「当事者のものとして一般化するのですか?

(中略)

御前 お伺い致しますが、百合魔王オッシーさんは、差別的表現に非常に敏感でいらっしゃり、あなた差別的表現だとお考えになった言葉に対し、発信者にご意見されている。何故今回の件のような、あなた差別だと思わない言葉を他の方が差別だと感じている場合、「差別とは思わない。あなたが間違えている」と主張されるのでしょうか。あなたが思わなくても、私は思っている。異性愛者ではない、私の身近な方も思っている。それだけの話だと思うのですが。

――「差別的表現」を問題視するからこそ、「当事者」が悲しむから差別」、などという恣意的基準で「差別的表現」と決めつけてしまうことには断固として反対します。

一部の「当事者」の間に、「BL」や「百合」というジャンル自体嫌悪する風潮があることは存じております。では、一部の「当事者」が「差別」と見なしたものについて、私たち「非当事者はいっさい異議申し立てをしてはならないのですか?

御前 自由にされたら良いじゃないですか(›´÷`‹ ;) あなたと私は、違う主義主張を持っているだけです。どちらが正しいというわけではないと思いますが。

御前 BLや百合という言葉がなくなることはないと思いますが、書店様で棚に掲げられなくなった場合、探すことに苦慮する以外のデメリットは何でしょうか。

―― 「BL」や「百合」という言葉がなくなってしまったなら、すべての「恋愛漫画」が男女の恋愛表現することを求められるようになりますね。「ゲイ」「レズビアン」という言葉に置き換えてみればわかることですよ。現実社会のものがそのようにできているのですから

――人間恋愛を「異性愛」と「同性愛」に二極化してしまうことの問題と、「異性愛」「同性愛」という概念自体の是非はまったく別です。「異性愛」「同性愛」という概念自体否定するなら、すべての人が「バイセクシュアル両性愛)」として扱われることになります

御前  (›´÷`‹ ;)極論ですね。

――なにが「極論」なのですか? 非差別的な「区別」までも「差別」と同一視した上で、一部の「当事者」の極端な主張・心情を一般化するあなた(御前モカ氏)の「論理」のことですか?

  • 上掲の私の指摘が「極論」に思えるのだとすれば、それは御前モカ氏自身が「差別」を定義するにあたって「意図」と「効果」と混同しているためでしょう。つまり私は御前氏の提言の「効果」について論じているのに、御前氏は自身の「意図」を説明している。だから話が噛み合わない。

――またすでに述べましたとおり、異性愛を「ノーマル」と呼ぶことは異性愛至上主義に基づく「差別的表現であるから批判しています。裏を返せば「男女物」「異性愛物」と呼ぶことには問題ありませんし、実際そのような用語が広まりつつあります

御前 作家側以外からですね。

――いいえ作家も使いますし、そもBLや百合二次創作が盛んなので作家と読者の垣根もあいまいです。というか自分の明るくない分野についてこれ以上知ったかぶりしないほうがいいですよ。

御前 ?なにを使うのですか?

――「男女物」「男女CP」といった表記のことですよ。「異性愛物」はあまり使われないかもしれませんね。 

御前 言葉使用の有無に関しての質問ではなく、百合魔王オッシーさんにとってのデメリットをお伺いしたいのです。

――〈男/女〉〈異性愛同性愛〉の「差異性差)」が否定されることにより、マイノリティである同性愛(BL/百合)」の存在が不可視化され、結局はマジョリティである異性愛(男女の恋愛)」が基準化・規範化されてしまうことの「デメリット」を論じています

【私】にとっての「デメリット」は【私】の問題なので、あなた(御前モカ氏)には関係ありません。私のほうからは以上です。

御前 わかりやすくありがとうございます。ですが、やはり私は賛同しかます百合魔王オッシーさんと願いや根本は同じだと思いますよ。違いはそれを実現させる為の方法論です。百合魔王オッシーさんがこうした方が良いと仰る方法論と私が思うものが違うだけ。以上です。

  • けっきょくのところ御前モカ氏は、氏の提言に対して私の指摘した「デメリット」について、それを「極論」である一方的に切り捨てるばかりで、その問題をどのように回避・解決できるのかという対策提示することは、いっさいできませんでした。
  • が、それでも私は御前氏の“告発”を「百合」の愛好者として真摯に受け止め、できるかぎり誠実にお答えしたつもりです。

一言でいうと、典型的マイノリティ憑依」ですね。

マイノリティ」と一口に言っても様々な主張や心情があるにも関わらず、自説に都合の良い「当事者」の意見だけを取り上げて、勝手に「代弁者」を気取る。

そのような態度は「マイノリティ」に寄り添っているようでいながら、そのじつ当事者」のありようを「非当事者」の立場から恣意的価値判断し、分断をもたらしている点で、これも一つの差別構造に他なりません。

御前モカ氏のおっしゃるとおり、私は常日頃から差別」の問題に関心を抱き、当ブログツイッター上で問題提起をしてきました。

それでも私は、御前モカ氏と違って《「当事者」が「差別」だと感じている(言っている)から差別」だ》といった恣意的基準で「差別認定」を下したことは、一度もありません。

ある表現が「差別」に当たるか否かは、表現自体意味性や文脈検証した上で、私自身の主体性に基づいて判断します。もちろん私の主体的判断に同意しないという人もいるでしょう。しかし少なくとも一部の「当事者」が「差別」と感じた(言った)から差別であるといった、主体性の欠落した無責任な決めつけには何の説得力も感じません。

《「当事者」が「差別」だと感じている(言っている)から差別」だ》といった物言いは、そのじつ「非当事者である自らの主体性放棄し、体よく「当事者」に責任転嫁する、きわめて不誠実な態度であると考えます

2016-09-14

LGBTを「性癖」呼ばわりし親の責任を問う“似非リベラル”の橘玲

集英社週刊プレイボーイ」で作家橘玲が連載しているコラム真実ニッポン』は、折々の時事ネタに絡めて、しばしばセクシュアリティジェンダーをめぐる問題を“科学的”な見地から解説している。

だが“科学的”といっても、そのベースとなるのは進化心理学などの通俗的なオカルト擬似科学である(そんな橘が新潮新書から上梓した新書言ってはいけない』は、我田引水確証バイアスに成り立つ「トンデモ本」の見本のような代物だ)。

とくに今週号(No.39-40 10月3日号)では、俳優強姦事件に関するマスコミの反応を取り上げながら、LGBTを引き合いに出すことで、その「ダブルスタンダード」をあげつらっている(P.87)。

子育てプロジェクト」では性癖矯正できない

(前略)

 ところで、親は子ども性癖自在矯正できるのでしょうか。この「子育て神話」には、LGBT(レズビアンゲイバイセクシュアルトランスジェンダー)という反証があります性的マイノリティーが多数派異性愛者と平等人権もつのは当然としても、子ども性的指向が「ふつう」とちがうことを自然に受け入れられる親は多くないでしょう。だとしたらなぜ、子どもの「性癖」に気づき、行動に「ブレーキ」をかけなかったのでしょうか。

 もうおわかりのように、ここにはマスコミ定番ダブルスタンダードがあります。LGBTは人権問題から、その性癖を問うと面倒なトラブル引き起こします。それに対して強姦致傷は犯罪なので、好き勝手に「悪者」を探し出して叩くことができるのです。

 合法性癖子育て関係ないが、違法性癖は親が矯正できるという「政治的に正しい」主張にはなんの根拠もありません。子ども性格性癖というのは、法律に合わせて遺伝環境子育て)の影響が決まるようにできているわけではないからです。

(後略)

橘の論旨展開は、まず前提からして大きな事実誤認がある。

若いLGBT当事者は、その性自認および性的指向について親からブレーキ」をかけられないどころか、異性愛ないしシスジェンダーへの適応を“強制矯正)”される危険に晒されているという事実は、もはや一般常識のレベルだ。いわゆる《ゲイ治療》の多くは当事者が自ら望んだことではなく、まさに《子ども性的指向が「ふつう」とちがうことを自然に受け入れられ》られないという親が、当人意志に反して強制的医師の診断を受けさせた事例である

そもSOGI(性的指向性自認)に立脚するLGBTの概念性癖などという侮蔑的な語彙で言い表すことからして、いかにも典型的かつ露悪的なホモフォビアトランスフォビアに満ちた文面だ。

元より「性癖」とは「性格パーソナリティ)」の偏差(癖)を示す言葉であり、それを「性(セクシュアリティ)」の意味で用いるのはありがちな誤用である(よって《子ども性格性癖》という記述は同語反復だ)。作家立場から報道のあり方に疑義を呈するのであれば、卑俗で刺激的な文言に飛びつく前に、その言葉誤用を指摘すべきであろう。

不肖の息子のしでかした性犯罪について、その親に監督責任を問うことの不合理を指摘するのはいいとしても、橘が実際にやっていることといえば、それにかこつけてLGBTに対する「ヘイトスピーチを行っているだけである

子ども性的指向が「ふつう」とちがうことを自然に受け入れられ》られないという親の差別意識を無批判に追認した上で、あまつさえ《だとしたらなぜ、子どもの「性癖」に気づき、行動に「ブレーキ」をかけなかったのでしょうか。》などと“問う”行為は、裏を返せばLGBT当事者の親に向けて、子の性自認ないし性的指向に「ブレーキ」をかけるべきだと主張しているに等しい。

また、その一方で性的マイノリティーが多数派異性愛者と平等人権もつのは当然》などと薄っぺらな建前を並べるのは論理矛盾であり、読者から批判を交わすための予防線を張っているのが見え見えだ。

同連載をまとめた単行本『「リベラル」がうさんくさいのには理由がある』のタイトルに顕著なとおり、橘の基本的論調は「正義」や「政治的正しさ」を大義名分としたマスメディア欺瞞を暴き立てるというもので、ようはTwitterに蔓延る十把一絡げの「反PC主義者」「PCフォビア」と変わらない。

だが他ならぬ“似非リベラルである自身が、このようにして「PC」を盾にした「ヘイトスピーチ」を垂れ流している。トンデモさん”は自分に当てはまる言葉他人攻撃するという「法則」が、また新たに実証された。