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百錬ノ鐵 hyaku ren no tetsu

2014-11-10

レズビアンの自己認識は“決めつけ”なのか?〜「関西クィア映画祭2014」シンパからの反応:@yu_ichikawa編(1)

(2017.6.4 タイトル変更)

https://twitter.com/yu_ichikawa/status/522253221113237504

確かに、「わたしレズビアンだ」だけ浮いてる…自分で自分のセクを決めつけてしまうことが枠になるという意味はわからなくもないけど、確かに他の例示とは質が違うよね。

イチカワユウ(@yu_ichikawa)は『PE=PO』という同人誌を主宰するクィア主義者である。数年前まで、私はこの人物からTwitter上でフォローされていたのだが、たまさかTLに流れてくるツイートを読むとあまりに的外れなことばかり言っているのでブロックした。

このイチカワがどれだけ馬鹿なのかは、漫画表現における女性乳房の表現と現実の女性乳房を比較した英語の図版を《おっぱいの正しい描き方》として流布し、“炎上”を引き起こした一件に明らかである馬鹿という言い方がアレなら、思考の認知能力と論理性に大きな歪みのある人物と言い換えてもいい。

「いかに日本萌え漫画家がモノホンおっぱい知らないかがようわかるのうw」 - Togetterまとめ

http://togetter.com/li/567779

さて今回、私は「関西クィア映画祭2014」に対する抗議活動の総括として、同団体が抱える問題点を21項目に亘って列記した。それらは互いに相関しながらもゆるやかに独立しているけれど、中でも《レズビアン差別》の問題に焦点を絞るなら、大まかに分けて次の2点に絞られる。

(a)「関西クィア映画祭」とは、「レズビアン」のアイデンティティ形成を「枠」と決めつけた上で、その「枠」を「こわしてみませんか?」と要求・期待することによりレズビアン」の性的主体性を否定・侵害する、すなわち「レズビアン」に対するパターナリズム(権力的介入・干渉)を行使する権力者の団体である

(b)「関西クィア映画祭」とは、「レズビアン」のアイデンティティ形成およびその表明について、クィア運動の啓蒙・推進を妨害する“クィア差別”と位置づけ、あまつさえ明確な差別的言説と並列化・同一視することで、レズビアン」をセクシスト(性差別主義者)に仕立て上げ、かつ《レズビアン差別》を相対化・正当化する、まさしくセクシスト(性差別主義者)そのものの団体である

上記2点の指摘に対し、イチカワは(b)は受け入れながらも(a)に関しては同団体と同じ立場と見解を共有している。ゆえに、体面上は同団体を批判する立場を表明しながらも、同団体の思想的・政治的基盤となるクィア理論イデオロギーについては“自明の理”として無批判に前提化している点で、やはり「シンパ」の一人であることに変わりはないであろう。

すなわちイチカワ自身も「関西クィア映画祭2014」と同様に《「レズビアン」の性的主体性を否定・侵害する、すなわち「レズビアン」に対するパターナリズム(権力的介入・干渉)を行使する権力者》の一人、あるいは自らが実行しないまでもそれを是とする人物であるというわけだ。

またこのことからも、同団体によるこの度の「暴挙」がいち市民団体の不始末に留まらず、クィア理論およびクィア運動そのもの本質的構造に起因している事実が裏打ちされる。

しかし、はたしてレズビアン当事者が「レズビアン」という自己の性的アイデンティを自認・表明することは《自分で自分のセクを決めつけてしまうこと》になるだろうか?

まず、そのような批判がもっぱら「レズビアン」のみに限定され、アセクシュアルノンセクシュアルには向けられない――向けられた場合、クィア主義者は明確にその差別性を指摘する――ことからも、あくま《性差否定》の一環としてなされている言説であることがわかる。

あるいは、糞食の嗜好をもたない人に対して「おまえは自分がスカトロでないと“決めつけ”ている!」などと糾弾することが、どれだけ馬鹿馬鹿しいか考えてみるといい。そも「レズビアン」とは、《男性(異性)を愛さない》というセクシュアリティを自認(自己認識)する人が「レズビアン」を“名乗る”のであり、レズビアン」に“なる”ために《男性(異性)を愛さない》ことを“決める”のではない。

もっとも、ラディカル・フェミニズムの一環として、非同性愛者の女性があえて「レズビアン」を名乗る場合(レズビアンフェミニズム)もあるけれど、それは言うなれば自覚的に自らの「枠」を作る行為である。《自分のセクを決めつけてしまうことが枠になる》というイチカワの言辞は、むしろ「枠」に無自覚な“意識の低い”レズビアン当事者を想定したものだ。

しかしレズビアン」は《自分で自分のセクを決めつけてしまう》以前に、まず〈女性であることから《男性を愛する》ものと世間では“決めつけ”られているのである

セクマイ」をめぐる議論に現を抜かしていると、しばしばこの《世間の目》を忘れてしまいがちだ。「ゲイ(男性同性愛者)」の場合と異なり、「レズビアン女性同性愛者)」はその存在自体マンガポルノの中でしか成立しないとして“否認”される傾向にある。

社会常識規範を相対化してみるのはいいとしても、それらをまるっきり“忘れてしまう”なら、クィア」を称する自分もまた「世間」「社会」の一部である事実から“目”を背け、自分が何か特別な存在にでもなったかのような錯覚に陥る。

イチカワに象徴される、そうしたクィア主義者論理には、主として三つの傾向が見受けられる。

(1)階層の異なる事象を一元化・同一視する。

(2)他人の内面を自分に都合良く“決めつけ”る。

(3)「差別」の問題を〈社会〉の構造から切断して〈個人〉の内面に還元・矮小化する。

ここで問題の差別的な宣言文を振り返ってみよう:

http://kansai-qff.org/#about

最近は「LGBT」の用語が流行りですが、私たちは、レズビアンゲイバイセクシュアルトランスジェンダーヘテロセクシュアルといった簡単な言葉では表しきれない存在です。恋愛対象の性別や、自身の性別が、個人の人生の中で「変わる / 変態する」ことだってあります。さらに「フツーのヘンタイより、とってもヘンタイでありたい」という思いも含まれています。

宣言文は《恋愛対象の性別や、自身の性別が、個人の人生の中で「変わる / 変態する」ことだってあり》うることをもって「レズビアンゲイバイセクシュアルトランスジェンダーヘテロセクシュアル」という概念の有効性と存在意義全否定する。《「変わる/変態する」ことだってあります。》とあるが、じつのところは《「変わる/変態する」こと》を人間セクシュアリティの“本質”として規定しているにすぎない。

しかし人間性自認性的指向が「変態しうる」ことと「変態する」ことは《階層の異なる事象》である。前者は可能性の提示であるが、後者は「人間性自認性的指向」に対する“決めつけ”であり「変化しない」という“可能性”を否定するものであるからだ。

さらには「《変態しうる可能性》に開かれるべきである」というイデオロギーもまた《階層の異なる事象》である。なぜなら人間性自認性的指向が「変態しうる」からといって「《変態しうる可能性》に開かれるべきである」などと指図される筋合いはないからだ。

すなわちこれら三つの《階層の異なる事象》の中で、正しいのは最初の「変態しうる」だけであり、残りの「変態する」「《変態しうる可能性》に開かれるべきである」は二つとも間違いである

ところがクィア主義者人間性自認性的指向という「内面」の事象が「変態しうる」という可能性をもって「変態する」と“決めつけ”、その上で「《変態しうる可能性》に開かれるべきである」というイデオロギーの“押しつけ”を正当化・特権化するのだ。このような詐術を見抜くことが、クィア主義者の書いた文章を読み解くコツである

そしてレズビアン当事者が「レズビアン」という自己の性的アイデンティを自認・表明することと《自分で自分のセクを決めつけてしまうことが枠になる》ことも《階層の異なる事象》だ。なぜなら《自分で自分を「レズビアン」と“決めつけてしまう”行為は、先述の「レズビアンフェミニスト」などの事例にしか当てはまらないからだ。

そうではない一般のレズビアン当事者が「レズビアン」を自認・表明することにより、自分で「自分のセク」を《男性を愛さない》と“決めつけてしまう”というイチカワの解釈は、そのじつ本末転倒なのである

元より「関西クィア映画祭2014」の宣言文においても、「わたしレズビアンだ」というレズビアンアイデンティティ表明と「世の中には男と女しかいない」「男は性欲をコントロールできない」「性を売るなんてよくない」「愛する人は1人にしぼるべきだ」などの明確な差別的言説を並列化することにより、あたかもレズビアン当事者がそれらの差別的イデオロギーを有しているかのように印象操作している。

これこそまさしく《他人(=レズビアン)の内面を自分(=クィア主義者)に都合良く決めつける》行為に他ならない。クィア主義者が「レズビアン」から性的主体性を剥奪するにあたって、「レズビアン」をそのような性差別主義者として設定すれば“都合が良い”からだ。

なおついでに言っておくと、上に述べてきたことはクィア主義者の「内面(意図)」の問題ではなく、あくまでもクィア理論論理構造を客観的に分析した結果にすぎない。

《人を愛さない権利》と「レズビアン」を“語る”ことの困難〜「関西クィア映画祭2014」シンパからの反応:@yu_ichikawa編(2)

https://twitter.com/yu_ichikawa/status/522253221113237504

確かに、「わたしレズビアンだ」だけ浮いてる…自分で自分のセクを決めつけてしまうことが枠になるという意味はわからなくもないけど、確かに他の例示とは質が違うよね。

この度の「関西クィア映画祭2014」の宣言文に対するイチカワユウのコメントは、奇しくもちょうど今、ネット上で物議を醸し出している次の言説とリンクしている。

https://twitter.com/sosotakei/status/527272699106586624

ハラスメントって言葉やめねえか?大好きな人にされたら許せて、嫌いな人にされたら怒る行為はハラスメントじゃねえと思うんだわ。。それはただの人の好き嫌い。。ハラスメントハラスメント騒いで人を罰することばっか考えてねえで人と人の輪を温かく築こうや、それが人間の素敵な優しさや愛だよな。。

https://twitter.com/sosotakei/status/527280342202208256

ハラスメント無くそう、無くなる人間関係を築こう、なんてのは、理想論だってのは分かってんだわ。。だけどよ、職場だろうがなんだろうが、素敵な人間の優しさとか愛がなくちゃつまらねえだろ。。難しいけど目指さなきゃ辿り着かねえからよ。。苦しんでる人いたらすまん、オレ頑張るから許してや。。。

https://twitter.com/sosotakei/status/527287989617963009

ハラスメントなんて単語使って罰則作って嫌悪感高めるのも解決策だと思うけど。。いじめも、暴力問題も、ハラスメントも愛のある言葉だったりそれで築いた人間関係で変わると思うんだわ。。日本語ってそういう素敵なものだ。。愛の表現がこんなに多様な言葉他にねえ。。日本人の底力見せてやろうぜ。。

このような武井壮の「暴論」は、「性の自己決定権の理解が完全に欠落した人間による発想である

しばしば誤解されがちだが、「性の自己決定権」とは《人を愛する権利》ではなく《人を愛さない権利》のことである。気の乗らない相手とのSEXを回避・拒否する権利、と言い換えることもできる。

他人の心身を利用して自己の「欲望」を満たすことは、たまさか相手との合意が得られた場合にのみ認められるというだけの話であり、そのような条件付きのものを「権利」とは呼べないからだ。

また相手との合意を必要とせず、ただ「欲望」を“もつ”こと自体は自由だというのであれば、それはプライバシーの権利》に属する事柄であり、やはり「性の自己決定権」の範疇とは異なる。

「性の自己決定権」の観点が抜け落ちたなら《大好きな人にされたら許せて、嫌いな人にされたら怒る》ことはたしかに“わがまま”として感じられる。このように、相手側の事情・都合や論理整合性よりも【オレ】の「感じ」だの「思い」だのが優先されるのが「ハラスメント」を行使する者の「論理である

同様にレズビアンアイデンティティの自認・表明について《自分で自分のセクを決めつけてしまうことが枠になる》と言い表すなら、レズビアンもまた「わがまま者」のように“感じられる”だろう。

その意味で「わたしレズビアンだ」というレズビアンアイデンティティ表明が「世の中には男と女しかいない」「男は性欲をコントロールできない」「性を売るなんてよくない」「愛する人は1人にしぼるべきだ」などの明確な差別的言説と並列化されているのは、レズビアンが《男性を愛さない》という“わがまま”のために、各種の「性差別」を肯定・行使しているというイメージに基づく記述である

元より、いかなる差別主義者とて「性の自己決定権」が否定されるべきでないことは言うまでもない。そも「世の中には男と女しかいない」「男は性欲をコントロールできない」「性を売るなんてよくない」「愛する人は1人にしぼるべきだ」などは、いずれも他者の「性の自己決定権」を侵害するがゆえに「性差別」として機能する言説である

かくしてクィア理論においては、レズビアンによる《男性を愛さない》という「性の自己決定権」の行使は、性差別撲滅を妨害する“岩盤”と位置づけられる。よってレズビアンの「性の自己決定権=枠」を“こわす”ことこそがクィア運動の成就となる。

そしてなおかつレズビアン当事者に対しても、そのような「レズビアン」への偏見と罪悪感を植え付けることにより「性の自己決定権」を自ら放棄するよう誘導するのだ。自己啓発セミナーの手口を踏襲した、巧妙な洗脳テクニックである

また自己啓発セミナーと言えば「偽りのジレンマという詭弁術がある。問題の差別的な宣言文においては「こわしてみませんか?」という提案の形を取ることで、体面上はあたかもレズビアン当事者の性的主体性を尊重しているかのように見せかけている。だがその“提案”を拒むことは、同時に「世の中には男と女しかいない」「男は性欲をコントロールできない」「性を売るなんてよくない」「愛する人は1人にしぼるべきだ」などといった差別的言説を支持する性差別主義者として糾弾・断罪されることを意味する。

すなわち性的アイデンティティを“こわす”ことの是非ないし可否を議論するのではなく、「こわしてみませんか?」という“問い”そのものの欺瞞と暴力性に気がつかなければならないである

* * *

レズビアン」にしても「ハラスメント」にしても、「差別」「暴力」の構造を可視化するために存在する概念であって、その語自体が「差別」「暴力」を生産しているわけではない。

差別」「暴力」の構造を解体する手段をもたないまま《言葉狩り》を実行するなら、〈被差別者〉〈被害者〉の言葉を奪い、沈黙を強いることとなる。

加えて、そも「レズビアン」を“語る”ことの難しさとして、レズビアン」を肯定する語彙が存在しないという根本的な問題がある。とりわけイチカワのように、言葉の使い方に無神経な者が「レズビアン」のセクシュアリティを言い表すなら、それ自体がヘイトスピーチとして機能するという悪循環に陥る。

たとえば《性別を越えた愛》と言った場合、それはあくまでもバイセクシュアルおよびパンセクシュアルを肯定する言葉である。〈女性〉のジェンダーアイデンティティに基づいて〈女性〉を愛する「レズビアン」は、まさしくイチカワの言に倣うなら《自分で自分のセクを決めつけてしまう》人々ということになる。

裏を返せば《自分で自分のセクを決めつけてしまうことが枠になる》という批判は、バイセクシュアルおよびパンセクシュアルには当てはまらない。よってバイセクシュアルおよびパンセクシュアルは、その意味で「レズビアン」に対する社会的政治的特権性を有する。

さらに言えばトランスジェンダーもまた《性別を越える》性のありようということでクィア理論後ろ盾を受ける。そしてゲイリブはその性質上、LGBTの中でもやはり「G=ゲイ男性」が主導権を握る。

かくして「レズビアンゲイ女性)」を肯定する論理は、この社会に存在しない。よってレズビアンを名乗る人々に対して批判をする意図》を獲得するまでもなく、問題の差別的な宣言文は「レズビアン」に対して、その「性の自己決定権」をクィア運動に譲渡する“政治的決断(=決めつけ)”を強迫する。

関西クィア映画祭2014」が、そのクィア運動の推進にあたり仮想敵として設定するLGBTの中から、とくに「L=レズビアン」だけを“狙い撃ち”した事実は、けっして偶然の結果ではないのである

2014-11-01

「関西クィア映画祭2014」シンパからの反応〜@isidaiori編

2014年11月6日 加筆修正)

https://twitter.com/isidaiori/status/523683067857088512

私が気になるのは「レズ当事者はどう思ってるの?」って事です。herfinalchapterさんは男でレズ創作ファン、つまりはレズポルノとして消費している側ですので、レズ当事者が「べつにぃ、何ともないです」と言えば、それを最大限に尊重するべきです。

この石田伊織(@isidaiori)という人物はTwitterにおける表現規制反対運動の「論客」であり、性差別・性暴力の表現を批判する者を勝手に「規制推進派」と決めつけた上で粘着する習性がある。どちらかと言えば旧アカウントの「@Silver_Pon」で知れ渡っていることから、以下【汁ポン】と呼ぶことにする(なお、現在「@Silver_Pon」のアカウントはまったく別の人物が使用している模様)。

今から遡ること数年前、Twitterの「#hijitsuzai」タグアクティブに発言していた時期より一貫して表現規制に反対している私すらも、この汁ポンは規制推進に与する「敵」と見なし、ことあるごとにこうした非建設的な難癖をつけてくるので困ったものである

あらためて説明するのも馬鹿馬鹿しいことだが、性差別・性暴力の表現を批判することと、公権力に基づく恣意的表現規制に反対することは両立する。わいせつ”だから逮捕した、といったロジックを追認することは、表現の差別性に対する追及をうやむやにしてしまうと同時に、青少年に向けて正確な性の知識・情報を啓発する教育活動をも妨げるからだ。

しかし裏を返せば性表現に対する批判は、その“差別性”に対する批判に限定されなければならない。その意味で「性暴力表現」とは、ただの「暴力表現」とは異なり、「性差別」に立脚している点で「性差別表現」の一環となる。

たんに「性」あるいは「暴力」を描いているというだけの理由で、その表現を(たんに自分は選択しないという意思表明に留まらず)“否定”するなら、それは「性差別=性暴力」の批判とはならず、公序良俗の行使となる。しかしこの「公序良俗」なる観念こそが、まさしく《公権力に基づく恣意的表現規制》に繋がるものだ。

それにも関わらず汁ポンが「論敵」と見なす私を誹謗中傷するにあたって持ち出しているレトリックは、実際の規制肯定論者が用いることのない――すなわち規制反対派が「規制推進派(と一方的に見なす者)」に対するネガティブ・キャンペーンのために作り上げた、カリカチュアライズされたポルノ規制論を焼き直しているにすぎない。

しかしポルノ規制に反対の立場を取るのであれば、ここはむしろ男性異性愛者がレズビアンを題材にしたポルノグラフィきっかけとして、現実社会の《レズビアン差別》に意識を向けることの有用性を主張するべきではないだろうか。

このような汁ポンのダブル・スタンダードは、表現規制反対運動の欺瞞を端的に表している。なんのことはない、表現規制反対派が反対しているのは自分の好きな「表現」に対する規制のみであり、「百合」や「BL」といった自分の気に食わないマイノリティの「表現」については、むしろ積極的に規制する側に加担するということだ。

加えて汁ポンは私に向けた私怨に走るあまり、レズビアンポルノに対する規制に与するばかりでなく、「関西クィア映画祭2014」の宣言文におけるレズビアンへのヘイトスピーチに対する私の告発を無効化することで、結果としてヘイトスピーチを擁護している。

表現の自由》を錦の御旗に掲げる表現規制反対運動において、ヘイトスピーチは《自由の象徴》として位置づけられるのである

また告発の無効化にあたっては、百合萌え」の男性異性愛である私が《レズビアン差別》を批判していることを、あたかもレズビアン当事者の“代弁”をしているかのように印象操作する一方で、汁ポン自らは「べつにぃ、何ともないです」などとして、レズビアン当事者の心情を手前勝手に斟酌したあげく“代弁”している。

このようにしてダブスタを駆使し、《自分に当てはまる言葉で他人を攻撃する》のが“汁ポン・クオリティである

そも「関西クィア映画祭」に対してレズビアン当事者を含めたゲイリブ団体およびLGBTのコミュニティが声を上げられない“政治的事情”については、すでに私が取材したとおりである。WWW(World Wide Web)上に文字通り「世界」のすべてがアップロードされていると錯覚し、部外者の目から見た皮相な印象だけで物事をわかった気になるのは滑稽なことだ。

ましてや個々の当事者の意志を否定し、「レズ当事者」という記号として一元化する汁ポンの行為は、まさしくレズビアンに対する“政治的搾取”と言える。

翻って私は、一貫して「関西クィア映画祭2014」が煽動・行使する《レズビアン差別》――そしてそれがいかにして社会の中で機能しているか――の事実を指摘しているにすぎない。それは「事実であるがゆえに、その告発にあたって当事者性を問うことは無意味である

したがって、非当事者が《レズビアン差別》を告発・批判したところで、「レズビアン」を〈被差別者〉〈弱者〉の立場に固定し、保護の対象として支配下に置く――自警団よろしく「レズビアン」を“守る”――パターナリスティックな事態との間には、大きな隔たりがある。まして百合萌え」の男性異性愛者という私自身の“属性”を理由に告発を無効化することは、卑劣人格攻撃と言う他ない。

レズビアン差別》は、それが「差別であるがゆえに批判されるのだ。その他の理由も言い訳もいっさい必要ない。まして私は「百合」が好きだからという理由で《レズビアン差別》を批判しているわけでは、けっしてない。

また「百合萌え」を理由に「レズビアン」ないし《レズビアン差別》に対する“理解”の深さを自己主張したこともない。そも「レズビアン」を“理解”できようとできまいと《レズビアン差別》を黙認、あるいは正当化する理由にはまったくならない。

すなわち、ここでも汁ポンは他者の内面を勝手に決めつける傲慢さを発揮している。

クィア運動はおろか、表現規制反対運動においても、汁ポンのような「無能な味方」の存在は、ただ有害でしかない。

「レズビアン・ポルノ」の“消費”は《レズビアン搾取》となりうるか?

https://twitter.com/isidaiori/status/523683067857088512

私が気になるのは「レズ当事者はどう思ってるの?」って事です。herfinalchapterさんは男でレズ創作ファン、つまりはレズポルノとして消費している側ですので、レズ当事者が「べつにぃ、何ともないです」と言えば、それを最大限に尊重するべきです。

さて《レズビアン差別》を告発する文脈においては、しばしばレズビアンを題材としたポルノグラフィの表現、そしてそれらを“消費”する行為自体が、現実のレズビアンに対する偏見を助長するものであり、レズビアンに対する《性的搾取であるといった物言いが自明のごとくなされる。

だが、その前提ははたして疑う余地のない事実であろうか。

レズビアンを「ネタ」にしたポルノを“消費”する行為自体がレズビアンに対する《性的搾取であるという言説は、次の3つの構造から成り立っている。

(1)「レズビアン」というセクシュアリティ自体が差別的であるということ。

(2)「レズビアン」をポルノグラフィの中で表現する行為が差別的であるということ。

(3)「レズビアン」を表現するポルノグラフィを“消費”する行為が差別的であるということ。

以下、この3つの論点の一つ一つを検証してみる。

(1)→No。

レズビアン」のアイデンティティ表明を“クィア差別”と決めつけるレトリックは、まさに「関西クィア映画祭2014」の差別的な宣言文と同じ発想であり、それが完全に破綻していることは私による『公開質問状』の中で繰り返し述べてきたとおりだ。

(2)→No。

そもポルノグラフィが性的な表現である以上、ポルノグラフィにおいてレズビアンが描かれる場合も、性的な表現となることは必定である

またそれを理由にレズビアンを過度に性的な存在として捉えるといった偏見をもつ者がいるとしても、偏見は100%偏見を抱く側の問題だ。たとえば現実のレズビアンの中に犯罪に手を染める者がいたとしても、それを理由にレズビアン犯罪者予備群と規定できないことと同じである

または、レズビアンは「変態」であり頭がおかしいから犯罪に走るのだといったロジックに基づいて構築された作品があるなら、それは《レズビアン差別》の表現となるだろう。しかし実際のレズビアンポルノの中身は(その多くが偏見に基づく宣伝文句と共に売り出されていたとしても)ただ女同士のSEXを映すだけであり、そこに何らかの意味性・観念性を付与するのは(宣伝も含めた)外在的要因に他ならない。

ただ実写の「アダルトビデオ」に関しては、そのようなメディアが存在すること自体が「女性(AV女優)」に対する《性的搾取》だとする立場もある。しかしそうしたフレームで議論をするのであれば、なおさら「レズ物」の差別性だけをあげつらうのはフェアではない。よって、その論点をこの文脈で持ち出す試みは無効であるだいいち「関西クィア映画祭2014」の宣言文の中でも「性を売るなんてよくない」という言辞は“こわす”べき「枠」の一つとして陳列されている。

(3)→No。

鑑賞者の「差別意識」が《差別表現》に投影されるという事象が成立するにあたっては、その表現自体差別性が含有されていることが前提となる。差別意識」が《差別表現》によって励起される以上、差別性のない表現に対して「差別意識」が発生することもありえないからだ。

たとえばロリータ物のポルノ(※といっても幅広いが、ここでは〈少女〉と〈成人男性〉という関係性を設定した上で、児童買春性的虐待などを“官能的”に表現する「創作物」を想定している)をきっかけにして、現実の《児童搾取》の問題にも関心を抱くようになったという奇特なユーザーが存在したとする。

しかし《現実の児童搾取の問題にも関心を抱くようになった》というのであれば、必然して大人が子供を性欲の捌け口にすることの権威性・暴力性にも気がつくはずである。ゆえに《現実の児童搾取の問題にも関心を抱》きながらロリータ物のポルノを“消費”することは矛盾であり、《大人が子供を性欲の捌け口にすること》を正当化するための自己欺瞞であるとさえ言える。

もっとレズビアンポルノの中には十代の少女たちの性行為を描くものも多い。だが、それはいわゆる「ロリコン」の嗜好とは似て非なるものである。なぜならロリコン」とは《大人が子供を性欲の捌け口にすること》に他ならず、子供子供に対して性欲を向けることを「ロリコン」とは呼ばないからだ。

あるいはそうした子供同士の性愛に対し、大人がエロスを見い出すことも「ロリコン」の範疇ではない。なぜならその場合の大人は自身が子供たちとの性愛の関係を望んでいるわけではなく、「ロリコン」の前提となる大人と子供の権力構造が成り立たないからだ。

元より、子供同士でSEXを行うことの危険とは、未熟で不正確な性知識によって互いを傷つけ合う可能性が高いためであり、大人による《児童搾取》の問題とは議論の前提からして完全に別次元である。また先述のとおり強権的な「性規範」に基づいていたずらに「性」を“規制”してしまうことは、子供たちの性的主体性を否認するパターナリズムであるばかりか、事態の悪化にしか繋がらない。

それでも子供エロスを見い出していることには変わりないではないか、という物言いもあろう。だが、人間セクシュアリティを論じる上で主体となる当人のアイデンティティをないがしろにするなら、〈女性〉のジェンダーアイデンティティに基づいて〈女性〉を愛するというレズビアニズムも成り立たず、たんなる「女性愛」として一元化されてしまう。

もっとも《性差否定》のイデオロギーを至上の価値として称揚するクィア主義者からすれば、そうしたアイデンティティこそむしろクィア運動の推進を妨げる要因として“解体”の対象となるかもしれない。だがそのようにして他者の性的主体性自分勝手な都合で簒奪する行為は、まさしく「関西クィア映画祭2014」における《レズビアン差別》と同じ力学の行使である

むろん、このことは「百合」にかぎらず、男女ないし男同士のポルノグラフィにも当てはまるから百合萌え」の嗜好だけを正当化・特権化しているといった批判は的外れである。そして言うまでもなく実在の児童の裸体や性行為などを映す本来の意味での「児童ポルノ」には当てはまらない。

また、とくに男性異性愛者がレズビアンポルノを鑑賞する心理・態度について《覗き見感覚》と解釈されることがある。だが、現実のレズビアン当事者に向けてそのような要求をする場合は別として、フィクションの表現における女同士の性行為を“見る”という行為を「覗き」と言い表すことは不当である。なぜなら「覗き」という行為はたんに“見る”ことではなく、(本来、自分がいてはならないはずの)その「場」に立ち会うということにこそ欲情の“ツボ”があるからだ。

そも他人のSEXを“見る”という行為の意味性については、それこそ男女でも男同士でも変わりなく、女同士を対象とした場合にかぎって《覗き見感覚》として異化する必要性はない。

* * *

かくして、少し話が脇に逸れたけれど、前記(1)(2)において検証したとおり「レズビアン」というセクシュアリティおよび「レズビアン」を題材にしたポルノグラフィ差別性が含有されていないことはすでに明らかだ。したがってそれらに依拠する最後の論点(3)も立証できないことになる。

本来、不正を立証する責任は告発する側にあるはずだが、《レズビアンポルノレズビアンに対する性的搾取である》といった一見もっともらしい理屈を振りかざされると、そこで思考停止に陥ってしまう手合いが後を絶たない。加えて「差別」を告発する立場の者が自ら「差別」を犯しているといったスキャンダラスな話題は、「論敵」を貶めるためなら自らの政治的イデオロギー表現規制反対)をねじ曲げることも辞さない、まさに汁ポンのごとき下衆がいかにも飛びつきやすいネタだ。

表現規制反対運動、そしてそれによって擁護されるクィア運動もまた、各々が題目として掲げるイシュー現実的解決にはじつのところ誰も関心がないのだろう。詐欺師まがいの詭弁を弄して、己が囲い込んだ「島宇宙」でのヘゲモニーを掌握することに汲々とするばかりである

2015年8月21日 追記)

関西クィア映画祭2014」問題の論点から外れる内容であるため、タグを外し、それに伴い連番を移行しました。

2014-10-18

「関西クィア映画祭2014」からの回答(3)

関西クィア映画祭」の実行委員を“長期間”務められ、今期は「当日スタッフ」として携わられている福永玄弥氏から、当方の『公開質問状』に対し、Twitter上にてご回答が寄せられました。

『実行委員 / スタッフ』

http://kansai-qff.org/#about

福永玄弥(げんや)

今年の映画祭では台湾映画の翻訳を担当しています。ところが監督から送られてきた字幕翻訳用の原稿はなぜか英語版のみ。映画祭に中国語(原語)の使い手がいると監督は想像していなかったのでしょう。映画業界の英語中心主義にはホンマうんざり!な、げんやです。楽しみましょ!

Twitterアカウント@Genya_F

当人曰く《映画祭実行委員会を代弁するものではありません。》とのことですが、今でも組織の運営に影響を及ぼしていることには変わりなく、そして何より問題の差別的な宣言文の実質的な筆者である可能性が高いため、これらも「関西クィア映画祭2014」サイドの回答の一つとして処理させていただきます。

https://twitter.com/Genya_F/status/523127212912828416

1.オッシーさんによる関西クィア映画祭宣言文の「レズビアン」表記への批判を受けて、僕は実行委員を務めた一人として反省の意を表します。レズビアンアイデンティティを「壊すべき」という意図はありませんでしたが、確かにそう読める表記でした。 http://bit.ly/1nsjw77

https://twitter.com/Genya_F/status/523127306223484928

2.人から指摘を受けて、初めてその表記が誤解含みの内容であったと気づいたということは、僕の中にレズビアンアイデンティティ)を軽視するところがあったのかもしれないと深く反省しています。今は当日スタッフですが、関西クィア映画祭2014で長期間実行委員を務めた一人としてお詫びします。

問題の差別的な宣言文は、たんに「レズビアンアイデンティティ)」を“軽視”するにとどまらず、《レズビアン差別》を煽動・行使する「ヘイトスピーチ」として機能する文面です。その根拠は『公開質問状』でご説明したとおりですから、ご理解いただけないのであれば何度でも読み返してください。

残念ながらご自身のお立場を、まだご理解いただけていないようです。今回、貴団体は「被差別者」「マイノリティ」としてではなく、《レズビアン差別》を煽動・行使する「セクシスト(性差別主義者)」の集団として告発・批判されています。その社会的・道義的責任を、どう取るのかが問われています。

https://twitter.com/Genya_F/status/523127409302716417

3.しかし僕はオッシーさんの意見をすべて受け入れるものでもありません。オッシーさんの「クィア」と「LGBT」を対立構造に置く姿勢には極端なところがあると言わざるをえません。またオッシーさんの関西クィア映画祭にたいする根拠なき誹謗中傷には著しいものがあり、看過することはできません。

はて? 《「クィア」と「LGBT」を対立構造に置》いているのは、あなたたち「関西クィア映画祭2014」の方でしょう?

宣言文から引用します:

http://kansai-qff.org/#about

最近は「LGBT」の用語が流行りですが、私たちは、レズビアンゲイバイセクシュアルトランスジェンダーヘテロセクシュアルといった簡単な言葉では表しきれない存在です。

「LGBT」を《流行り》だの《簡単な言葉》だのといった侮蔑的な語彙で言い表し、見下す「関西クィア映画祭」の“姿勢”こそ、まさに《「クィア」と「LGBT」を対立構造に置く姿勢》ではありませんか?

また《関西クィア映画祭にたいする根拠なき誹謗中傷》とは? 私は貴団体が周囲からは“あのように”見られていることをご報告したまでです。組織の内側にいては、なかなか外部の声に耳を傾ける機会はありませんから。

クィア理論をふりかざして異論を弾圧・封殺するあなたたちの姿勢について、真摯に顧みられたらいかがでしょうか?

https://twitter.com/Genya_F/status/523127532065792000

4.関西クィア映画祭は特定の個人を崇拝する「信者」の集まりではありません。学者後ろ盾に置いているわけでもありません。「クィア理論」を啓蒙することを目的としていません。「クィア理論」の啓蒙のために作品を選定しているなど、お門違いもいいところです。これは作品を見れば一目瞭然でしょう。

関西クィア映画祭」がクィア運動」の一環として行われている以上、「クィア理論」を提唱する学者およびその言説が後ろ盾になっているのは自明でしょう。

https://twitter.com/Genya_F/status/523127623237373952

5.オッシーさんの意見にたいする以上(1−4)の見解は、僕個人のものであり、映画祭実行委員会を代弁するものではありません。そもそも僕は実行委員でもありません。ただ自分の軽率さを反省し、お詫びを述べるとともに、映画祭にたいする誹謗中傷が根拠なきものであることを述べたいと思いました。

そも《根拠なきもの》とおっしゃいますが、情報源を明かすことで当人に危害が及ぶ可能性があり、またゲイリブ関係者という立場上、アウティングに繋がるおそれもあるため、プライバシー保護の観点から匿名とさせていただきます。

加えて、これまでの実行委員会の担当者の方々とのメールでは、公開質問状において伏字とした人物名を実名で表記しております。実行委員を“長期間”務められたというあなた(福永さん)なら旧知の人物でしょうし、また当該の人物に関する評判もさんざん聞き及んでいることと思われます。

 

2014年12月19日 追記)

回答(4)』にて、問題の差別的な宣言文の実質的な著者が【とみー】なる人物であることが判明しました。映画祭終了後、辞任したとのことです。

『実行委員 / スタッフ』

http://kansai-qff.org/#about

冨川 瞳(とみー)

友人に言われて、私が救われた言葉を、自己紹介とさせて頂きます!さよなら、自己犠牲!

「たとえあなたが殺人をしたとしても、あなただけはあなたの味方でいるように」

Twitterアカウント@hitomikawa


「関西クィア映画祭2014」からの回答(3) 追記

https://twitter.com/Genya_F/status/523127409302716417

3.しかし僕はオッシーさんの意見をすべて受け入れるものでもありません。オッシーさんの「クィア」と「LGBT」を対立構造に置く姿勢には極端なところがあると言わざるをえません。またオッシーさんの関西クィア映画祭にたいする根拠なき誹謗中傷には著しいものがあり、看過することはできません。

今回「関西クィア映画祭2014」に対する抗議活動を展開する中で、直近の当事者である関西ゲイリブ団体から何の反響もないことを不審に思い、知り合いのつてを頼って匿名を条件に接触したところ、“あのような”回答が得られたのです。

ただ、「関西クィア映画祭」という一団体がゲイリブ関係者に対して示威行為を行っているというより、“あのような”示威行為を行う先鋭的・急進的なクィア主義者が「関西クィア映画祭」の中枢を担っているというニュアンスでした。たしかに誤解を与える表現でしたのでブログ上でも補足しておきます。

ただ、私も問題の差別的な宣言文を読むかぎりでは、じつに信憑性のある情報だと判断しました。

なぜなら問題の差別的な宣言文は、ある人物の特徴的な文体・語彙・主張を流用したものであり、その人物の思想が「関西クィア映画祭」の理論的・精神的支柱となっているのは、疑う余地のない事実であるからです。

また「関西クィア映画祭」のすべてのスタッフが、クィア理論に関する学術的・専門的な知識を有しているとは言えないにせよ、その理論的・精神的支柱となっている人物は、確実にクィア理論を熟知しています。

なぜなら当該の人物は、クィア理論を提唱する学者・研究家たちの団体にも出入りし、その内部においても強い発言権を握っているからです(今風にたとえるなら「ISISと某イスラム学者」の関係といいましょうか)。

もっとも、ご指摘のとおり「クィア」の側が作り出した「LGBT」との《対立構造》に、かく言う私自身も“乗せられている”ことは否めないでしょう。

しかし、それは「関西クィア映画祭2014」がレズビアン差別》を煽動・行使するにあたり《「クィア」と「LGBT」の対立構造》を政治的に利用している事実をふまえた上でのことです。

そも「クィア」が「LGBT」との《対立構造》を作り出した現状の事態を批判するにあたっては、その是非とは別に、まずは議論の前提として《「クィア」と「LGBT」の対立構造》が存在する事実を“是認”する必要があります。

それにも関わらず、あたかも私という一個人が《「クィア」と「LGBT」の対立構造》を生み出した元凶であるかのごとく印象操作することは、まさに事実誤認に基づく「誹謗中傷」であり、撤回を求めます。

また本件にかぎっていうなら、正確には《「クィア」と「LGBT」の対立構造》ではありません。

あくまでもレズビアン差別》を煽動・行使するセクシスト(性差別主義者)の集団と、それに抗議するカウンターの《対立構造》です。

以上。

2015年1月14日 追記)

福永玄弥氏は自分からフォローして一方的に絡んでおきながら、都合の悪い質問にはいっさい答えないので、威嚇・嫌がらせ目的フォローと判断し、現在はブロックしています。

2011-07-06

『いさなのうみ』のレビューについて

<名前>

勇魚 瀛

 

<メッセージ>

「いさなのうみ」ですよ、「いさなの海」じゃなくて。

 

さて、“精”自体がファンタジーだから、

「両親は?」なんてツッコミは無粋です。

 

「謎の転校生」… その手のって、いちいち家族まで描いてないでしょ? それと同じこと。

>「いさなのうみ」ですよ、「いさなの海」じゃなくて。

ご指摘ありがとうございます。修正いたしました。

>さて、“精”自体がファンタジーだから、「両親は?」なんてツッコミは無粋です。

それは違いますね。『いさなのうみ』は難解な方言の使用や明け透けな会話からもわかるとおり、基本的には(良い意味でも悪い意味でも)かなり《リアリズム》に比重を置いた作品です。そんな中で「鯨の精」というファンタジー》の要素を消化できておらず、作品としてちぐはぐになっています。

それをファンタジーだから、」と仰るのであれば、たんに《出来の良いファンタジー」》と《出来の悪いファンタジー」》があって『いさなのうみ』は後者であるというだけのことですね。

2008-07-31

「バカ」の返事。

ブログでのお返事ありがとうございました。

 

ただ、いきなり初対面の相手へのメールで

敬語もロクに使わずいきなりバカ呼ばわりするほど

年若い方だとも思っていなかったので、少々困惑しております。

 

これ以上は平行線か、とも思いましたが、

どうしても伝えておきたいことがいくつかありますので、

お腹立ちでしょうが、どうか目を通していただけると幸いです。

 

まず、そちらが異性愛の物語である根拠として

述べておられる「胸が大きい」というセリフについてですが、

 

「私の知っていること 好きなものは三角チョコパイと〜略〜たったそれだけ〜略〜そこにいるのかさえも」

のくだりから自然につながっていると思います。

彼女の彼氏だった男からの断片的な情報くらいしか

持っていなかった主人公が、やっと得ることが出来た

本物の「彼女」の触感について述べた言葉です。

その後殴られたのも「嫌い」だと罵られたのも、今まで空想の中でしか会話すら出来なかった彼女から得ることが出来た「本物」。

最後の涙はそれゆえの嬉し泣き、だと思います。

決して嫉妬などではありません。胸が大きい、と嫉妬・・・そんな作風ではないように思いますが。

彼氏に向ける冷めた目、対照的に主人公にメロメロな彼氏、

その温度差が画面から見て取れると思います。

 

「彼女にとって主人公はたんなる泥棒猫にすぎない。

 

「友達以上恋人未満」どころか「友達」ですらないのである。」

 

この文を人の文を読んでないのか、とおっしゃいますが、

あまりにも取るに足らないことと思ったので

いちいち突っ込まなかっただけです。

そりゃ、ストーカーを友達だなんて思えませんよね。当たり前では。

今時のオタク的な言葉を借りるなら「ヤンデレ」というやつでしょうか。

何か見返りがあるから恋をするわけではありません。

自分でも制御できない、相手も自分も不幸にするような感情もあると思います。

今までの人生、現実だとここまで極端な人を見たことはありませんが、

こういった矛盾をかかえた感情は、やはり女性の妄執を扱ったような作品に

多く見られるのではないでしょうか。

叶わぬ恋に狂い、冷静な他者から見れば

「え?そんなことをしても相手に引かれるだけでしょう、おかしいんじゃないの?」

というような行動を取る女性、というのは様々な作品で見かける気がします。

全く相手にされて無いにも関わらず、周りの邪魔者を殺して好きな人を自分のものに、なんて女性

昔はゴールデンタイムのサスペンスなんかにもよく出て来たように思います。今時は流行らないのかあまり見ませんが。

 

話が少しそれましたが、

胸を鷲掴みにする、彼氏を横取りする、・・・・人物造形の失敗?

叶わないことが予測される恋心を制御できない病的な少女がしっかり描かれていると思います。

救いの無い恋愛物、決して好ましい作風ではありませんが。

 

「主人公と“彼氏”が肉体関係までもっているのに、

 

主人公の“元カノ”に対する感情はプラトニックなものに終始した、

 

という対比にも表れている。

 

……という部分はお読みになりましたでしょうか?」

 

もちろん読んでいます。すみまで読む気もしない文に対してメールを送ろうなどとは思いません。

ええと、そちらの全文を引用して突っ込まなければならなかったのでしょうか、

ただでさえ長文になってしまったので細かい所は割愛したのですが。

肉体関係まで、とおっしゃられますが、

それこそ昔から、自分の体を自分の目的の為に利用する女など

星の数ほどいたのではないですか?

そういった「汚れた」女の事など理解する気も起こらないのでしょうか。

プラトニックなものに終始した、とおっしゃられても、

まだこの二人の関係は、「終」どころか主人公がやっと「彼女自身」に出会えた、

ラストシーンから始まるのでは?

まあ、歪んだ思いを抱えた壊れた少女と、敵意しか持ってない相手、

どう考えても幸せな関係になれるとは思いませんが、

それはそれで作品としてありでしょう。

 

こういう言い方は好きではありませんが、こういった複雑で感情的な登場人物の

女性作家独特の心理描写は、男の方には理解していただくのは難しいのでしょうか。

女から見ても、長年の友人の表情がふ、と読めなくなることなんかもありますが。

(男性であるからわからない、とは思いません、女性以上に女性の心を上手に表現する方もいらっしゃいます)

逆に私は男だったことが無いので男の方がどういう見方をするのかわからないところもありますが、

なんだか不思議な思いです。

 

森永みるくの作品に関しては、周囲に肯定的な人ばかりで疲れていたので

つい感情的になってしまいました。ファンの方に言うことではなかったとお詫びいたします。

 

ただ、マーメイドラインに関してですが、

「たんなる「娯楽」ではなく、現実社会差別を描くことで読者に問題提起している作品です。」

これは違うと思います、「くちびるためいき〜」と同じ、素直に読んで楽しみ、感動する為の作品です。

マーメイドラインをリアルだと感じるのであれば、例えばドリーム、

もしくは「萌え」だけでマンガを描いてるタイプの作家と違い、作者自身の考え方、価値観が

「地に足が着いている」から、自然にこうなっただけで、

あえて読者に問題提起をしようとしているわけではないと思います。

主人公達が女同士であったからその道のりに山や谷が描かれていますが、

彼女達の恋に一喜一憂する様子にファンは愛おしさを覚えるのではないでしょうか。

痛みだけを残し、解決したように思えない、といいますが、あの関係が彼女達の出した結論。

全ての人がそうはなれませんが、異性間だって、恋人として上手くいかなかった二人が、

親友としてお互いを大切に想うことだってあるのではないでしょうか。

同性愛についての「問題提起」というような社会派の作品ではないので、

彼女達の生き方がそこに落ち着いてそれなりにハッピーエンド、でいいと思います。

あとがきで、「百合好きの友達の為に描いた」というようなことを書かれていたし、

「ハレのちグゥ」(これも設定などはぶっとんでいますし、ギャグがメインですが、芯にあるものは

リアルで丁寧な心理描写で、だからこそギャグも活きています)

などと同じ、読者に楽しんでもらうための作品だと思います。

 

あと、最後に、娯楽としてしか捕らえていないとあえて言ったのは、

百合作品がたくさん読みたい!という動機にしろ、

同性愛について向き合っておられるようだったので、そこが少しひっかかったのです。

百合というだけでなく、マンガ、さらに言えば表現、という言い方をしてみると、

ただの娯楽ではなく、作者の人生観、考え方などが浮き彫りになっていることが結構あります。

(巧妙にそういう部分を隠す方もいますが)

例えば、青い空の美しさなら大抵の人に分かると思いますが、

登場人物に曇り空の虚ろな美しさが好きだ、という設定があったりすると、

ああ、この作者は曇り空を美しいと感じているのだな、と思ったりします。

楽しいだけの作品もそれはそれで好きですが、

一般の社会では、まだまだマンガやアニメが非常に軽んじられてる中で、

ライトにマンガを暇つぶしに楽しむ人や子供はともかく、

こんなサイトを立ち上げるほど百合を、マンガを好きな方が

マンガを軽く見ているようでなんだか辛かったのです。

 

またも長文になってしまいました、また気持ちの悪い思いをさせてしまったでしょうか。

でも、こうしてサイトで発表している以上、いろんな考え方の意見が来るのも

しっかりと受け止めていただけると嬉しいです。

いちいちちゃんと読んでいない、などの突っ込みが入っていましたが、すいません、

私の文章の表現力不足でしょうか、最初に一応一通り読ませていただいたのですが。

全文に突っ込みを入れていたらそれこそこの文章が何倍にもなってしまい、

書くのも読むのも大変だと思ったので。

まだここは読んで無いんじゃないの?という部分がありましたら

ブログででも晒していただければ幸いです。

メールである為、一方的物言いになってしまい、至らぬ部分も多いかと思いますが、

どうかよろしくお願いいたします。 

 

追記

ブログの方であればどんな言葉遣いだろうと管理人の自由です。

でも、他人に対するメールで、敬語を使うのは最低限のマナーだと思います。

                             にし

参考までに、私が前回【にし「バカ」あきら】に送ったメールを再掲します。

『なぜ男が「百合」にハマるのか?』のOssieです。メールを拝読いたしました。なかなかの力作ですね。全編に亘って「自分と異なる作品解釈はすべて潰してしまわないと気が済まない」という「にし あきら」様の暗い熱情に満ち満ちており、背筋が凍る想いがいたしました。

お返事はブログ「百錬ノ鐵」にて行ないましたのでご確認ください。

http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20080730

なお、メール送信にあたっての注意事項を記載するページにて「メールの内容は、サイト内のコンテンツおよびブログにて、送信者に無断で公開させていただく場合があります。」とあらかじめお断りしておりますので、公開に関するクレームはいっさいお受けできません。あしからず。

いちおう再反論も受け付けておりますが、「にし あきら」様のように他人の書いた文章の意図をろくに理解しようともせず一方的に自分の主張(というかたんなる趣味の主張でしょ、ありゃ)を押し付けてくる人と健全なコミュニケーションを営むことは困難と思われますので、次回のメールもそのような内容で したらお返事は差し上げません。バカの相手してるほど暇じゃないんでね。んじゃ。

はい、《ロクに敬語も使わ》ないのではなく、敬語とタメ語を織り交ぜて使ってますね。

【にし「バカ」あきら】は「バカ」である上に「嘘吐き」であることが判明いたしました。

細かい突っ込みは、いずれ気が向いたら。